1895年 朝鮮で閔妃殺害事件(乙未事変)このときまでの李氏朝鮮の動きを簡単に振り返ると次のとおり。李氏朝鮮に欧米列強の波が押し寄せた時、政権を握っていた興宣大院君は「衛正斥邪」をスローガンに強硬な攘夷を行った。1873年に大院君を退けて政権を握った閔妃を中心とする閔氏政権は、1876年に日本と日朝修好条規を締結するなど開化の方向に傾いた。1882年に軍兵らによる反乱(壬午軍乱)が発生すると、これに乗じた大院君は反乱兵らを誘導して閔氏政権の重臣らを殺害させ日本公使館も襲撃させた。これに対して朝鮮からの要請を受けた清国が軍兵を派遣し、大院君を拉致して清国へ連れ去るとともに、反乱を鎮圧した。その後、清国は兵約3000名を常駐させて漢城(現在のソウル)を制圧下に置くとともに、1882年10月に締結された「清国朝鮮商民水陸貿易章程」では朝鮮が清国の属国であると明記して(出典:呉善花著「韓国併合への道」p67)、朝鮮政府への支配を強めた。一方、日本は壬午軍乱の後に済物浦条約を結んで、日本公使館の守備のために日本兵1個大隊(注:数百人?)を置くことを認めさせた。大国である清国に依存していこうとする朝鮮政府に反発して、日本の明治維新にならって近代化を行い独立を維持していこうとする金玉均らのグループが1884年に日本公使館と連携してクーデター(甲申政変)を起こすが、清国兵の出動により失敗に終わった。その後、日清両国は朝鮮から撤兵することになったが、1894年の甲午農民戦争(東学党の乱)の発生で日清両国は再び出兵した。この機をとらえて日本は朝鮮に親日的な金弘集政権を発足させて大院君を執政にすえ、日本と清国は日清戦争に突入した。日清戦争の結果、清国の朝鮮に対する宗主権は否定された。また、日清戦争後の三国干渉をみた閔妃らはロシアに接近し、金弘集政権を排除して親露政権の樹立を画策するにいたった。これを知った閔妃派に反発する者たちが連携してクーデター(乙未事変)を起こすことになる。 1895年10月8日早朝に乙未事変が発生した。高宗王の妃である閔妃(のちに明成皇后と呼ばれるようになる)が殺害されたほか、李耕植(宮内大臣)・洪啓薫(訓練隊の連隊長。光化門を守備していた。)・兵士数名が死亡している。王妃とともに宮女が殺害されたとの証言があるが、事変後の確認では宮女は一人も殺されていないとしており、どちらが事実なのかよくわからない。 この事変は、閔妃派(日清戦争後の三国干渉をみてロシアに接近し、政権を掌握して親日派を一掃しようと計画していた。)を排除して、大院君を政権につけて親日的な金弘集政権を打ち立てようとするクーデターである。その中心は、大院君・訓練隊(日本人の楠瀬中佐らによって訓練されていた朝鮮人の部隊)・日本公使館で、これに日本人壮士・朝鮮人壮士などが加わった。 |
(注:当サイト管理人の意見:首謀者をひとりに決めなければならないという発想自体が、日本の犯行だと言いたい反日派の戦法のように思えてきました。閔妃と閔氏派に反発する多くの人達の共同戦線とみるべきです。) |
この事変の前にも閔妃の暗殺未遂事件が起きており、当時閔妃に殺意を抱く者もいたようです。この事変で閔妃の殺害に及んだのは、長年閔妃との深い確執があり強い憎悪を持っていた大院君の意向から発したものと思われます。事変前の日本公使館側の計画では、閔妃を殺害するという話は出てきません。ただし、日本の裁判(予備審問)において、三浦公使が安達謙蔵と国友重章に教唆したことが疑われ、岡本柳之助が大院君邸を出発する際に一同に対して「入城の上 狐は臨機処分すべし」と号令して教唆したと疑われている。後に書かれた「今世人物評伝叢書」に次のような記載があるそうです(ただしこの文章がどこまで正確かはわかりません)。「初め大院君の事を挙ぐるや、首謀の者に向い、国王及び世子の身上は十分に保護あるべし。但し王后に対しては宜く臨機の処分あるべし、と告げたり。」(出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「国王、世子、王妃の処遇について」の項) 実際に閔妃を手に掛けたのが誰であるかは判然としないが、日本人壮士の可能性が高いと思われます。また、事変の際に閔妃の殺害を大院君に報告すると、大院君は「手を拍って頗る満足なる意を表されたり」(「機密第三六号」)という記述があります。 王の妃である閔妃の存在が権力掌握の根拠であった閔氏一族にとって、閔妃を失ったことは決定的な打撃となったと言える。 さらに詳しくお知りになりたい方は、次のページもご覧ください。 「朝鮮で閔妃殺害事件(乙未事変)」に関する資料集 【事変までの経緯】 ・1864年に12歳で即位した第26代高宗王が幼少であることから、実父である興宣大院君(略して大院君)が政権を掌握した。従来の両班官僚の一族による保守的な政治を改めて、改革的な政治を行ったが、西洋文明を取り入れて近代化を図るものではなかった。 ・1873年、高宗王が成長すると、妃に連なる閔氏一族が大院君を退けて政権を掌握した。旧来の両班官僚の支配体制に戻す保守的な政治を行った。 ・1876年、日朝修好条規の締結 ・1882年、兵士の暴動から始まった反乱の矛先が、政権を握る閔氏一族の重臣や日本公使館へも向かった。失脚していた大院君がかつぎだされたが、閔氏の朝鮮政府は宗主国であった清国に派兵を要請し、清国軍が暴動を鎮圧した。大院君はとらえられて清国へ送られた。 (壬午軍乱) 壬午事変 - Wikipedia ・1884年、日本に接近していた開化派の金玉均らがクーデターを起こし、政権を奪ったかにみえたが、清国軍が出動して3日天下に終わった。その後、日清両国は天津条約を結んで、両国とも朝鮮から撤兵した。 (甲申政変) 甲申政変 - Wikipedia ・1894年、甲午農民戦争(東学党の乱とも呼ばれる。)が発生。乱に手を焼いた閔氏の朝鮮政府が清国へ援軍を依頼すると、日本軍も出動した。日本軍は、日清戦争となる直前に景福宮を占領して閔氏政権を転覆させ、親日的で開化派の金弘集らの政権を発足させて大院君を執政にすえた。金弘集の政権は完全な傀儡政権ではなく、日本の協力を得て甲午改革と呼ばれる急進的な近代化改革を打ち出したが、反発も大きく十分な効果は上げられなかった。 甲午農民戦争 - Wikipedia 甲午改革 - Wikipedia ・1894年7月〜1895年3月、日清戦争。 日清戦争 - Wikipedia ・1894年12月、第二次金弘集内閣。(井上馨公使の要請で、金泳孝が加わる。) ・1895年4月17日、日清講和条約(下関条約)の調印。清国の朝鮮に対する宗主権は否定された。 ・1895年4月23日、ロシア・フランス・ドイツによる日本への三国干渉。 ・1895年6月、第二次金弘集内閣が崩壊。 ・1895年7月、急速に親露派が台頭、金泳孝は失脚して 再び日本へ亡命。 ・1895年8月、第三次金弘集内閣。 【事変の概要】 1895年9月27日、禹範善(訓練隊第二大隊長)が宮本少尉(訓練隊教官にして守備隊附)に対して、訓練隊はまもなく解散させられ、将校は厳刑に処せられるはずなので、私は逃亡するつもりだと漏らしている。 1895年10月3日、京城東門内で警務庁巡検が訓練隊兵と争い、互いに死傷者を出す事件があった。 事変の前に、閔妃派は、王妃の旨を奉じて李範晋らが安駉壽と謀って、次のような計画を立てたが、乙未事変が起ったため計画は画餅に帰したという(安駉壽の証言)。 @閔泳駿を内閣に出し、閔派の内閣を組織する。 A金宏集(金弘集に改名。総理大臣)始め兪吉濬抔数多の大臣を暗殺する。 (出典: きままに歴史 ≫ 日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)「朝鮮有志家の運動と援助要請」の項) さらに、1895年10月6日には、訓練隊(日本人の楠瀬幸彦中佐らによって訓練されていた朝鮮人の部隊)の解散命令が出たようである。(注:当サイト管理人は、当時の関係者による伝聞のみしか資料で確認できていません。) 1895年10月6日、閔妃派が訓練隊を解散して隊長を厳罰に処すことを知って激昂した訓練隊は、大院君を奉じ決起することとなった。 事変の前に、大院君は、朝鮮政府の軍事顧問となっていた岡本柳之助(注)に、再三に渡り密使を送っていたことがわかっている(出典: 乙未事変 - Wikipedia)。また、大院君派の李周会(前軍部協辨)が3回ほど深夜に杉村濬(日本公使館一等書記官)を訪れて日本の援助を求め、また趙重應も来訪して同様の話をしたとの記録がある(出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「在韓苦心録 王宮事変部分」の項)。 |
(注:岡本柳之助は、紀州藩出身の元陸軍少佐で、竹橋事件で兵の暴動を主導したとして官職を追放され、福澤諭吉の門人となり、金玉均・朴泳孝と親交、上海に渡ったのち京城に渡り、大院君を奉じて朝鮮内部の改革を主導して、朝鮮政府の軍事顧問に就任した。(出典: 岡本柳之助 - Wikipedia ) ) |
日本公使館側も閔妃派の動向に危機感を持っており、閔妃側に先手を打たれると回復困難になるとみていた。三浦梧楼公使(注)と杉村濬書記官は、大院君はこれまでの経緯(前年に英国に依頼して日本を斥けんと謀ったなど)から信用できないと考えていたが他に事態を打開する方法がなく、大院君を担ぐことにした。日本公使館側の責任者は三浦公使であり、具体的な計画立案は杉村書記官が中心となって行っている。 |
(注:三浦梧樓は、長州藩出身で、奇兵隊に入隊していたこともある。山縣有朋とは不仲だったらしい。予備役(陸軍中将)に編入された後、学習院院長・貴族院議員を歴任。1895年(明治28年)9月1日に、公使に就任した。(出典: 三浦梧楼 - Wikipedia ) 政治畑の井上馨から陸軍畑の三浦梧樓に交代したことは、政治的手法が行き詰まったので軍事的手法により事態を打開しようとする意図があったのではないかと推測されるが、それを示すような資料は見当たらず、実際どうなのかはよくわからない。 ただ、「在韓苦心録」によると、宮中の不穏なうわさを耳にした三浦は次のようなことを言っている。「初め東京出発の際に、早晩事変発生を予期したるも、明年一二月の頃までは大丈夫ならんと思いしなり。然るに何ぞ料らんや、事目前に迫れりと。」(出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「在韓苦心録 王宮事変部分」の項) ) |
岡本柳之助を大院君との連絡役に用いるほか、訓練隊との連携を取っている。日本公使館側は、当初10月10日の決起を計画していた。ところが、10月7日午前に日本公使館を訪れた安駉壽(軍部大臣)から、閔泳駿の入閣と、訓練隊の解散についての情報がもたらされた。事態が切迫していることを知った日本公使館側は、すぐに事を起こすべきと判断し実行に取りかかった。 日本人壮士が加わったのは三浦公使の発案だが、その理由について、杉村(書記官)は次のような趣旨を述べている。「訓練隊は約800人で、王宮を守る侍衛隊は約700人。当初の計画では、訓練隊と朝鮮人壮士のみで大院君の入闕(王宮に入ること)を遂げる考えだったので、戦力の差が少ないことを心配したためである」(出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「在韓苦心録 予審終結決定書に対する意見」の項)景福宮内の地理にくわし者が必要ということで公使館付きの荻原秀次郎警部が用いられ彼の部下である巡査たちも加わった。警部と巡査らの多くは、前年の大院君入闕(王宮に入ること)の際にも同様の働きをしている。事変の実行時には、日本軍守備隊も動員されているが守備的な働きが多い。日本公使館側の計画では、閔妃を殺害するという話は全く出てきていない。 1895年10月8日午前0時ころ、孔徳里にある大院君邸に集合した一団(岡本柳之助・日本人壮士・朝鮮人壮士・荻原警部と巡査ら・李周会・柳赫魯・鄭蘭教)(注1)は、同午前2時か3時ころ、轎(朝鮮式の駕籠のようなもの)に乗る大院君を擁して、大院君邸を出発した。このときの模様を、事変に参加した菊池謙譲(当時新聞記者)は、著書『朝鮮王国』で次のように記述しているという。『大院君の轎、孔徳里の門を出づ。有志数十名之に従う。孔徳里の柳楊交垂るの処に至り、岡本柳之助、衆を集め大院君に代りて曰く。邸下(注2)諸君の志を多謝す。然れども今日の事只だ護衛に在り。宮中に於て、暴挙する勿れと。衆喝采して朝鮮万歳と呼ぶ。』(出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「菊池謙譲の事変記述」の項。なお、太字は当サイト管理人が施しました。) |
(注1:三浦梧楼公使と杉村濬書記官は、事変の時に王宮へ突入した一団には含まれていませんので、念のため。) (注2:「邸下」は、「高麗および李氏朝鮮時代に用いられた王世子または王世孫に対する敬称」(出典: 邸下 - Wikipedia )。ここでは、王の父であるが、大院君を指していると見られる。 ) |
この一団は、西大門の外で訓練隊と合流してしばらく日本軍守備隊が来るのを待った。日本軍守備隊(約400人)が合流し、西大門から光化門へ駆け足で急進、さらに日本人壮士などが加わった。払暁の頃、光化門から王宮(景福宮)に入る。荻原秀次郎警部と部下の巡査たちが用意した梯子を使って壁を乗り越え、番兵を追い払って中から門の鍵を開けた(「機密第三六号」)。光化門において、軍部大臣安駉壽と訓練隊の連隊長洪啓薫の率いる手兵約40名の守備隊(侍衛隊?反乱に参加していない訓練隊?)と交戦となり、洪啓薫が死亡した。光化門から勤政殿・康寧殿を過ぎる間守備兵はなく、大院君は暫らく勤政殿に在りて国王の允許を待つ。(出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「菊池謙譲の事変記述」の項) 後宮(乾清宮)まで至ると、米国人ウィリアム・マックイー・ダイ(侍衛隊の教官。米軍中将。ゼネラル=将軍?)の率いる侍衛隊(朝鮮人の近衛兵部隊)が後宮の守備に当たっていたが、銃弾を装填している際に暴発してそれをきっかけに同士討ちとなり、侍衛隊兵2人が死亡・3〜4人が負傷した。混乱に陥った侍衛隊兵らは制服を脱ぎ捨てて四散した。また、ダイは、池畔に1人の兵が倒れているのを見たと言っている。(出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「ゼネラル・ダイからの聞き取り要領 第1回 11月20日」「ゼネラル・ダイからの聞き取り要領 第2回 11月22日」「証人ゼネラルダイ訊問調書 12月16日」の項) 一方、国王・世子・王妃の状況は、鄭秉夏(朝鮮の農商工部大臣)の訊問調書によると次のとおり。なお、このあと閔妃がどうしたかはわからないと言っている。 以下、 きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料 「証人鄭秉夏訊問調書」の項 から引用します。 |
此時陛下は坤寧閤[王妃の常御殿]に入らせられしが、暫時にして又御召ありしを以て、其処に至りしに、今聞けば兵丁等墻壁を踰えて入来ると云。如何なる次第なるや、汝疾く行き見よ、との仰なりしかば、直に其処を出て西洋館の後なる小門を出て、啓武門に至り、外方を望見せしも、人影だになき故、其傍なる番兵に向い、此辺へ墻壁を踰え来りたるものなきや、と尋ねしに、なし、と答え、仍お夫れは神武門の辺なり、と云いしより立戻りて蓮池の前に来り神武門の方に向わんとせし際、忽ち乾清宮の方向に喧騒の声聞こえし故、直に走りて坤寧閤の前門に引還せしに、此時陛下并に東宮殿下は内官等を従え王后陛下は宮女に擁衛せられて同殿の中庭に立退かせられしを見上げたり。依て自分は直に陛下の御手を執り、斯かる処へ出御なりては却て御危険の旨を申上げ、急ぎて再び同殿に入りしが、同時に弾丸飛来り甚だ危険なるを以て陛下を護衛して室の一隅に屈服し居りしに、室外及同室の後方は頗る喧譟の様子なりし。暫くして東宮殿下窓外に避け来られし故、之を迎入せり。良々ありて李耕植も亦椽端に来りし処、何者とも知れず刀を以て之を打倒したり。既にして夜漸く明け、大院君入闕せられ、喧譟も寝みたるを以て更に長安堂に移御せられたり。 (引用: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料 「証人鄭秉夏訊問調書」の項) |
内田領事が聞き取り情報をまとめた「機密第三六号」に、王妃と宮女の殺害の模様が記されている。ただし、事変のあと宮女は一人も死んでいないことを確認したとされており、宮女の遺骸の目撃証言もみあたらない。「機密第三六号」の内容に誤りがあるのか、宮女の死を隠蔽したのか、当サイト管理人にはわからない。 以下、 きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料 「機密第三十六号」の項 から引用します。 |
然るに後宮に押寄せたる一群の日本人等は、外より戸をこじあけて内部を伺うに、数名の宮女其内に潜み居ることを発見せしかば、此ぞ王妃の居間なりと心得、直ちに白刃を振って室内に乱入し、周章狼狽して泣き叫び逃げ隠れんとする婦人をば、情け容赦もあらばこそ皆な悉くひっ捕え、其中服装容貌等優美にして王妃とも思わるべきものは直に剣を以て殺戮すること三名に及べり。去れども彼等の中には真に王妃の容貌を識別し得る者一人としてなかりしのみならず、既に殺害せられたる婦人の死骸及尚お取押え居る者の相貌を一々点検するに、其年配皆な若きに過ぎ、予て聞き及びたる王妃の年令と符合せざるを以て、是れ必定王妃を取逃したるならんと思い、国友重章の如きは尚お残り居る一婦人を捕え、室内より縁側に引ずり出し、左手に襟髪を攫み、右手に白刃を以て其胸部に擬し、王妃は何処にありや、何時何処に逃げ行きたるや、杯と邦語を以て頻りに怒号すれども、邦語に通ぜざる宮女の事なれば、何を云うのか又何と返答すべきやを知らざるにつき、唯徒らに号叫して哀を乞うのみなりしが、旁に居合わせたる堀口は国友に向い、斯る残虐を行うべからずとて之を制止したれども、更らに聞き入るべき模様なく、荻原の叱責により始めて其暴行を中止せり。 (引用: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料 「機密第三十六号」の項) |
玄興澤(侍衛隊副長)は、閔妃と思われる遺骸を目撃したと証言している。顔は見ていないが、宮女は着ない清国産の絹織物の服を着ていたので王妃だと思ったと言っている。場所は、坤寧閤夾門側すなわち玉壺楼の縁側。血痕なども見ていない。 以下、 きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「証人玄興澤訊問調書」の項 から引用します。 |
坤寧閤に至り見しに、大君主は長安堂に移御せられたる後にて、或る下人の言に、王妃遭害の事を聞きしが、果して椽上に倒れ在ます御屍躰を見上げたり。既にして再び日本人の来るものありし故、身を避けて門外に出て居りし処、王妃の屍躰を焼火するとの事を聞きしが、果して鹿山に於て烟の上るを見、又衣服等の燃ゆるをも目撃したり。 (引用: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「証人玄興澤訊問調書」の項) |
荻原警部の指示により、朝鮮人に閔妃の遺骸を門外の松林中に運ばせ、薪を積んでその上に載せて直ちに焼き棄てたという(「機密第三六号」)。 なお、乾清宮において、宮内大臣李耕植が殺害されている。誰によって何故殺されたのかよくわからないが、日本の裁判(予備審問)では日本人壮士の平山岩彦が疑われている。また、「石塚英蔵書簡」には、「頗る惨酷なる方法を以て殺害したりと云う」との記述がある。(出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「石塚英蔵書簡」の項) |
(注:王宮である景福宮は広い区域があって、いろいろな建物が建っています。このうち王と王妃が居住していた建物が乾清宮で、乾清宮は、王の居住する長安堂・王妃の居住する坤寧閤・坤寧閤に付随する玉壺楼などから構成されていたようです。王と王妃が寝起きする乾清宮で事件があったため、「寝室」という表現をされたのではないかと推測しますが、この表現は不適当であろうと思います。 しかも、このころの王や閔妃は、夜間にずっと起きている生活をしていたようで、また、騒動が起きていることに気がつて行動しているので、寝ているところを襲われたということではないようです。 女官の殺害については上に記載したとおり、「機密第三六号」が正しいとすれば王妃と宮女2人が斬られていますが、事変の後に確認されていないことから宮女は殺されていないとする主張もあります。) |
ときどき「閔妃の死体を侮辱した」とする文献を目にします。屍姦ということを連想させますが、そうではありません。「石塚英蔵書簡」に服を脱がせて局部を見たとする伝聞の記述があるので、これを基にしているものと思われます。ただし、「石塚英蔵書簡」のこの伝聞が信用できるかどうかは、よくわかりません。玄興澤が王妃と見られる遺骸を目撃した時は、服を着ていました。 以下、 きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料 「石塚英蔵書簡」の項 から引用します。 |
殊に野次馬連は深く内部に入込み、王妃を引き出し、二三ヶ処刃傷に及び、且つ裸体とし、局部検査[可笑又可怒]を為し、最後に油を注ぎ焼失せる等、誠に之を筆にするに忍びざるなり。其他宮内大臣は頗る惨酷なる方法を以て殺害したりと云う。 (引用: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料 「石塚英蔵書簡」の項) |
(当サイト管理人の意見:当サイト管理人は、「石塚英蔵書簡」がどういうものかまったく解っていないのですが、書簡ですから手紙であろうと思われます。そして、石塚英蔵は乙未事変に直接はかかわっていないと思います。こういう人が書いた手紙に、資料的な価値はほとんどないのではないでしょうか。 石塚英蔵 - Wikipedia Yahoo!知恵袋 ≫ 閔妃暗殺事件について興味があったので角田房子「閔妃暗殺」を読みました。 〜主に「局部検査」について。 ) |
日本公使館は日本が関与していることを伏せる計画であったが、漢城(現在のソウル)駐在の各国外交官の知るところとなった。 王宮内にいた米国人ウィリアム・マックイー・ダイ(侍衛隊の教官。米軍中将。ゼネラル=将軍?)、ロシア人サバチン(建築家)、 |
(注:米国人ウィリアム・マックイー・ダイ(侍衛隊の教官。米軍中将。ゼネラル=将軍?)の証言によると、事変の際に王宮内にいた西洋人は彼とロシア人サバチンだけで、事変の後に三浦公使が参内し、その後まもなく米国公使館書記官アレンとロシア公使ウエーバーらが参内したのを見たと言っている。(出典:「ゼネラル・ダイからの聞き取り要領 第1回」「同 第2回」「証人ゼネラルダイ訊問調書」) 「米国人医師アレン」は米国公使館付きの医師で、朝鮮王室に信頼され治療にも当たっていたようです。「米国公使館書記官アレン」と記載している文献もあります。事変の時には王宮内にいなかったと、当サイト管理人は思います。 ) |
なお、ダイもサバチンも王妃(閔妃)が殺害される現場は見ていません。高宗王と世子(後の純宗)も王妃の殺害現場を目撃はしていないと、当サイト管理人は思います。また、 乙未事変 - Wikipediaの「目撃者 純宗・高宗」の項に下のような記述がありますが、ここで「禹範善が閔妃を殺害した」と言っているのは、「禹範善が乙未事変のメンバーに加わっていた」との意味に解すべきだろうと思います。 『純宗は禹範善が「国母ノ仇」であるとし、それを現場で目撃したと証言している。禹も自分が王妃を殺害したと自ら漏らしたとされる。また現場いた(注:原文のママ)高宗は「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べている。』(引用: 乙未事変 - Wikipediaの「目撃者 純宗・高宗」の項) 【事変後の動き】 朝鮮政府の動き 乙未事変 - Wikipedia「朝鮮政府の対応」の項 を参照のこと。 この内容を要約すると、概ね次のとおりり。 なお、・・・の右側 は、当サイト管理人が補足説明のために付け足したものです。 ・閔妃の死亡は、しばらく伏せられていた。 ・第四次金弘集内閣の成立。(開化派中心の内閣) ただし、親日的な金弘集政権は国民の反感を買って改革も行き詰まり、各地に武装蜂起が起こった。 ・事変の2日後である10月10日、高宗王の勅命が出て、閔妃の罪を攻めて嬪号を廃し庶人とされた。その後、小村寿太郎の助言もあり、11月26日に再び王后閔氏に復位した。 ・朝鮮(金弘集政権)の裁判により、犯行を自白した次の3人とその家族が処刑された。 李周会(前軍部協辨=次官)・・・大院君派 朴銑(日本公使館通訳)・・・朝鮮人壮士。事変後知人に手柄話をして逮捕。 尹錫禹(親衛隊副尉)・・・・元訓練小隊長。王妃の死体焼棄容疑。 なお、露館播遷の後に、高宗は、上の3人のうち朴銃・尹錫禹に関しては無罪として、補償金200円を出している。 (出典: 乙未事変 - Wikipedia脚注16(閣議決定案 第317号 1896年 4月 25日 第317号) ) ・次の4名は逮捕の命令が出たが、逃走した。 柳赫魯・・・・・大院君派 鄭蘭教・・・・・大院君派 禹範善(訓練隊第二大隊長) 李斗璜(訓練隊第一大隊長) (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「十月八日事変の犯罪人処分の件」の項) ・1895年11月28日、李範晋(元農商工部大臣)・李学均・李允用・李完用・米国人ダイ(侍衛隊教官)・米国人宣教師等が、高宗を奪い金弘集総理らを殺害するクーデターを企てたが失敗し、ロシア公使館やアメリカ公使館へ逃げ込んだ(春生門事件)。 春生門事件 - Wikipedia ・1896年2月10日、ロシア軍水兵(約150人)の応援を受けて反日派(保守派)のクーデターが起こった。この時、高宗王は日本の逆襲を恐れてロシア公使館に避難した。金弘集は民衆によって撲殺され、遺体は市中を引き回されてボロ布のように扱われたという(出典: 金弘集 (政治家) - Wikipedia)。金弘集のほか、魚允中らの政府要人が処刑された。高宗は、このあと一年あまりの間、ロシア公使館で政務をとった。 (露館播遷) 露館播遷 - Wikipedia ・露館播遷の時(1896年2月)に、高宗の勅令が出て、次の6名ついて犯人であるとして処刑が命じられた。 趙羲淵(当時軍部大臣)・・・・・乙未事変の後に軍部大臣になった? 禹範善(訓練隊第二大隊長)・・・1903年に、高永根らにより日本で暗殺された。 李斗璜(訓練隊第一大隊長) 李軫鎬(親衛第二大隊長) 李範来(訓練隊副隊長) 権濚鎮(当時警務使) ・高宗は露館播遷の後に事件についての再調査を実施し、事件が日本人士官の指揮によるものであること、日本人壮士らによって閔妃が殺害されたこと、「朝鮮人の逆賊」が日本人を補助していたことなどを調査結果としてまとめ、ソウルで発行されていた英文雑誌に掲載した。 ・1897年、高宗王は王宮にもどり、朝鮮が清国に臣従していた際のかたちを改め、独立国であることを示すため、次の改定を行った。 8月、それまで清国の年号を使っていたが、朝鮮独自の元号を定め「光武」とした。 10月12日、それまでの「王」の称号を「皇帝」に改め、高宗王が高宗皇帝に即位した。 |
(注:高宗が皇帝となったことから、さかのぼって閔妃を皇后とみなすことが可能になった。1897年に明成皇后の諡号を贈られている。) |
10月16日、それまでの「朝鮮」という国号を「大韓」に改めた。 ・1903年、禹範善は、純宗が放ったとされる刺客(高永根と魯允明)によって広島県呉市において暗殺された(出典: 乙未事変 - Wikipedia「朝鮮政府の対応」の項)。なお、高永根は、高宗からの信頼を回復して窮乏した亡命生活から抜け出すために自発的に刺客になったとみる意見もある(出典: 高永根 - Wikipedia)。 ・1907年に、高宗がハーグ密使事件により退位して純宗が即位すると、日本の働きかけによって、純宗の詔勅が出て次の者が特赦になった。 趙羲淵(当時軍部大臣)・・・・・乙未事変の後に軍部大臣になった? 兪吉濬 張博・・・・・最初に処刑された3人の裁判をした高等裁判所裁判長とみられる。 李斗璜(訓練隊第一大隊長) 李軫鎬(親衛第二大隊長) 李範来(訓練隊副隊長) 趙羲聞 権東鎭・・・・・権濚鎮? 事変当時の内閣員金宏集外数名 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「朝鮮政府による処理」の項) また、この時、純宗は、日本で服役中だった高永根の特赦を求めている。特赦にはならなかったが、後に減刑され、刑期を終えて帰国、高宗から御手元金などを下賜されていたという。(出典: 高永根 - Wikipedia) ・乙未事変の後に、大院君から関係者(日本人壮士など)に謝礼金が渡されたようです。この謝礼金の分配にあずかろうと名乗り出た者(隈部米吉・大崎正吉)もいた。 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「大院君の謝礼金」の項 および 「機密第三六号(検事正に提出の「機密裁第二号」も)」の項 日本政府の動き 日本政府は、「計画は三浦公使をはじめとする出先官憲の独走である」との立場をつらぬいている。犯行にかかわった者を日本に召還し、三浦梧楼ら48名が日本で裁判(予備審問)にかけられた。しかし、最終的には、首謀と殺害に関しては、証拠不十分として全員無罪となっている。 当時、証拠の収集には大きな困難があったようである。「機密裁第二号」には、「朝鮮政府は事変を犯罪と見なさず、王妃の事は秘して、人民も口外するを憚る様子である」という趣旨の記録がある。(出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「公訴の困難さ、証人や証拠の不足」の項) |
(注:日本側の取り調べなどにおいては、王妃殺害など核心である後宮(乾清宮)内での模様を十分に語らない傾向が見受けられる。これは、日本公使館が日本の関与を否定しようとしていたことと、供述の内容によっては国際社会での日本の立場が悪くなると考えられるためと推測できる。一方、日本人壮士などは、事変後に手柄話のように事実を誇張して吹聴する傾向が認められる。こうしたことが、資料の信頼性を低めており、歴史的事実を捉える作業を難しくしている。) |
・軍法会議(計8名) 以下の8人が、日本の広島で軍法会議に掛けられたが、最終的には全員無罪となっている。 楠瀬幸彦(朝鮮国公使館付武官兼同国軍部顧問・陸軍砲兵中佐) 馬屋原務本(後備歩兵独立第十八大隊長・陸軍歩兵少佐) 石森吉猶 ( 〃 大隊付中隊長・陸軍歩兵大尉) 高松鉄太郎( 〃 大隊付中隊長・陸軍歩兵大尉) 鯉登行文 ( 〃 大隊付中隊長・陸軍歩兵大尉) 馬来政輔 ( 〃 第三中隊長・予備陸軍歩兵大尉) 村井右宗 ( 〃 第二中隊長・予備陸軍歩兵大尉) 藤戸与三 ( 〃 第一中隊長・後備陸軍歩兵大尉) (出典:金文子著「朝鮮王妃殺害と日本人」p202-203。軍法会議判決書(官報第三七六八号、明治二九年一月二三日)による。 ) ・日本で起訴された人(計48名) 以下の48人が日本で裁判(予備審問)に掛けられたが、最終的には、首謀と殺害に関しては、証拠不十分として全員無罪となっている。ここで( )に記載した職業は「予審終結決定書」に記載されているものである。 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料 の「予審終結決定書」の項) なお、・・・の右側 は、当サイト管理人が補足説明のために付け足したものです。 岡本柳之介(朝鮮国軍部兼宮内府顧問官)・・・大院君と日本側を仲介した重要人物だが、事変の核心部分の詳細についてはほとんど語っていない。 柴四郎(著述業)・・・壮士の動員に関係したとみられるが、予備審問で事件そのものへの関与は証憑不十分とされた。 国友重章(無職業)・・・当時、漢城新報新聞記者。彼の孫である河野龍巳さんが、2005年5月に韓国を訪れ謝罪した。 月成光(雑業) 廣田止善(農業) 藤勝顕(無職業)・・・1895年に『之れ韓王妃を斬つて爾後埋木となつたものなり』として肥前刀を櫛田神社に奉納している。(出典: 乙未事変 - Wikipedia「「日本側実行犯」の子孫の謝罪」の項 ) 吉田友吉(吉田長治四男、新聞記者) 平山岩彦(無職業)・・・予備審問で、李耕植(宮内府大臣)を殺害した容疑を掛けられている。 大崎正吉(無職業)・・・大院君からの謝礼金の分配にあずかろうと名乗り出た。 佐々正之(売薬商)・・・当時、漢城新報社。 澤村雅夫(無職業) 片野猛雄(片野易喜次男、無職業) 隈部米吉(隈部庄作次男、農業)・・・大院君からの謝礼金の分配にあずかろうと名乗り出た。 山田烈盛(新聞記者)・・・当時、日本新聞社。 菊池謙譲(新聞記者)・・・翌1896年(明治29年)に、『朝鮮王国』(民友社)を出版している。 佐々木正(新聞記者) 武田範治(無職業、武田範之事)・・・予備審問で、事件に関係したとする証憑が不十分とされている。 前田俊蔵(農業)・・・予備審問で、事件に関係したとする証憑が不十分とされている。 家入嘉吉(無職業)・・・彼の孫の妻である家入恵子さんが、2005年5月に韓国を訪れ謝罪した。 牛嶋英雄(新聞社員) 村松辰喜(小学校教員村松龍起事) 鈴木順見(無職業) 小早川秀雄(新聞記者)・・・当時、漢城新報社。 中村楯雄(雑貨商)・・・閔妃殺害の際に彼女を掴んでいたとの証言があるが、事実かどうか不明。(出典: きままに歴史 ≫ 日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)「宮女は殺害されず、ただ王妃のみ」の項) 難波春吉(薬品雑貨行商) 佐藤敬太(農業) 田中賢道(農業)・・・彼が閔妃殺害の下手人なりと証言した者がいる。事実かどうか不明。(出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項) 平山勝熊(新聞社員)・・・予備審問で、事件に関係したとする証憑が不十分とされている。 三浦梧樓(予備陸軍中将)・・・当時公使。日本公使館側の責任者。日本人壮士を引き入れたのは彼の発案による。 杉村濬(公使館一等書記官)・・・三浦公使とともに日本公使館側の中心人物。作戦計画の立案・実行は彼によるところが大きい。 堀口九万一(領事官補) 荻原秀次郎(外務省警部)・・・景福宮内の地理に明るかった。以前のクーデターにも参加したことがあった。 渡辺鷹次郎(外務省巡査) 成瀬喜四郎(外務省巡査) 横尾勇太郎(外務省巡査) 小田俊丸(外務省巡査)・・・小田俊光?=閔妃殺害の際に彼女を掴んでいたとの証言があるが、事実かどうか不明。(出典: きままに歴史 ≫ 日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)「宮女は殺害されず、ただ王妃のみ」の項) 木脇祐則(外務省巡査) 境益太郎(外務省巡査) 白石由太郎(外務省巡査)・・・南大門で待ち、銃声を聞いて王宮に駆けつけたが、事の終わったあとだった。(出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項) 寺崎泰吉(売薬商高橋源治事)・・・閔妃を直接手に掛けたとの証言があるが、事実かどうか不明。(出典: きままに歴史 ≫ 日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)「宮女は殺害されず、ただ王妃のみ」の項) 浅山顕蔵(朝鮮国補佐官) 安達謙蔵(新聞記者)・・・当時、漢城新報新聞記者兼社長。 佐瀬熊鉄(佐瀬縁蔵養嗣医業) 渋谷加藤次(非職営林主事、朝鮮国内部顧問官) 大浦茂彦(朝鮮国通訳官、大浦滋彦事) 蓮元泰丸(蓮元憲岳兄、朝鮮国通訳官、蓮元安丸又蓮元康丸事) 鈴木重元(晒業) 宮住勇喜(宮住守男次男、新聞社員宮住勇記事) 在朝鮮外交官の動き 事変に対する日本への非難が集中した。日本の拙劣さを冷笑したものであった。日本は強引な政治介入ができなくなり、ロシアの政治的影響力が大きくなっていった。 朝鮮民衆の動き 事変後、抗日の動きが朝鮮全土にみなぎった。各地の儒生が「義兵」(注)をあげ、柳麟錫を総大将として結集し、日本勢力の駆逐と金弘集政権の打倒を要求した。兵士の主力は農民であったが、指導部は完全に両班儒生が掌握した。 太白山付近の山岳地帯に集結し、1896年の初めに最大となり、漢城(現在のソウル)へ進攻する模様となったが、クーデター(露館播遷)により金弘集政権が崩壊したため、蜂起は収束へ向かった。 なお、ほかの各地でも、独自の義兵蜂起があった。 |
(注:「義兵」とは、一般に、国難に際して民間人が自発的に兵を起こしたものを指すが、朝鮮ではこの蜂起以降の抗日闘争を一括して「義兵闘争」と呼ぶ。) |
日本人の子孫の謝罪 事変にかかわった日本人壮士の子孫2人 国友重章の孫である 河野龍巳さん 家入嘉吉の孫の妻である 家入恵子さん が、2005年5月に韓国を訪れ、閔妃の墓(閔妃が埋葬されている洪陵)に向かって韓国式で頭を下げた(土下座ともとれる)。閔妃の墓で偶然に出会った閔妃の曾孫である 李春吉さん(注) にも謝罪したが、彼は「謝罪を受ける、受けないは、自分がすることではない。政府レベルの謝罪がなければならない」と語った。ニュース報道でも大きく取り上げられた。(出典:各種ニュース報道、および、 乙未事変 - Wikipedia の「「日本側実行犯」の子孫の謝罪」の項) |
(当サイト管理人による注:閔妃の子である純宗には子がなく、閔妃と血のつながった子孫はいないようです。ここで閔妃の曾孫とされた李春吉さんが、どういった人物なのか調査中です。養子とかでしょうか?) |
テレビ朝日 テレメンタリー「114年目の氷解〜反日感情の原点、閔妃暗殺を見つめた5年〜」 〜この番組の録画を以前 YouTube で見ましたが、いまは削除されているようです。 散歩道 ≫ 韓国レポート1:閔妃暗殺ドキュメンタリー番組にむかついた件 〜個人のブログ 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現 ≫ 「報ステ」で閔妃暗殺の虚偽報道!・「報道ステーション」が明成皇后を暗殺したのは日本人だと歴史偽造・閔妃暗殺は首謀者の大院君も実行犯の禹範善も朝鮮人・日本人犯人の孫が訪韓し土下座・テロ朝に電凸 〜個人のブログ 今日の韓流通信 Act.V ≫ 【韓国】明成皇后殺害した日本人外孫「祖父が間違いだった」 〜個人のブログ 朝鮮新報 ≫ 「明成皇后を考える会」の甲斐さん 西東京東部同胞文化講座で講演 憲政史研究者・倉山満の砦 ≫ 大学では教えられない歴史講義 ≫ 閔妃が金玉均に謝罪すれば? ボロロン速報 ≫ 閔妃追悼行事、涙ながらに許し請う日本人たち 〜「日本では『明成皇后』『閔妃』という字が見当たらない。恥ずべき歴史を反省しない日本の教育を変えなければならない」[H27/10/11] 〜2015年に行われた120年目の「忌晨祭」(年忌に行う追悼行事)。 |
(当サイト管理人の感想:閔妃がいったいどれだけの人を殺したか知っているのだろうか。閔妃の子孫(注2)は、それらの人たちに謝ったのか。大院君の子孫は、閔妃の子孫に謝ったのか。平衡感覚のない報道には、いつもウンザリだ。 次の文章は、 閔妃 - Wikipedia から引用。 「閔妃と大院君の権力闘争は敵対者を暗殺するなど熾烈なものであった。閔妃は「まず閔妃一族の栄達をはかる為に、国家有為の人物よりも、大院君排除に必要な策士を網羅し、大院君が生命をかけて撤廃した書院や両班の特権を復活させるため彼らを煽動し、儒者にへつらい、大院君系の人を根こそぎ追放、流刑、死刑にし、処世の改革を破壊、復元(金熙明『興宣大院君と閔妃』)」したとされる。」 こういう人を「国母」と呼ぶのも、どうかしている。 ) これでも「国母」と呼びますか。 閔妃が死へ追いやった人々などについてまとめてみました。閔妃の悪い面ばかりを集めていますので、ある意味で偏向していますが、あしからず。 ・1871年、閔妃の生んだ最初の男子が鎖肛(肛門が閉じている病気)のため死亡したが、閔妃は内宮での10日間に渡る盛大な祈祷・大がかりな天神地祇の神事・金剛山や智異山など各地での大規模な祈祷を行い、ただでさえ苦しい王室の財政をさらに圧迫させた。さらに、巫女に占わせた結果、死の原因は「李、張など尚宮たちの呪詛、執念の祟りでございます」と告げられて、彼女らの処罰を命じた。完和君の母である李尚宮はいち早く逃亡して難をのがれたが、張尚宮は残酷な杖刑に処せられ全身から血を流してもだえ苦しんだ。(出典:角田房子著「閔妃暗殺」p85) ・1873年、閔妃は大院君追放の指揮を裏で執り行い、大院君とその腹心の部下たちを失脚させた。大院君系列の人々は追放・流刑・処刑等で追放。(出典: 閔妃 - Wikipedia) ・1880年、高宗の側室の李尚宮が急死。その子(高宗の長男)完和君も変死。(閔妃による暗殺説が濃厚)(出典: 閔妃 - Wikipedia) ・1882年、壬午事変の際、侍女を自らの身替りとして王宮を脱出した。清国の袁世凱の力を借りて窮地を脱した。このとき、大院君は清に連行され天津(注:天津から保定に移されて幽閉されたと、当サイト管理人は考えます。)で3年間幽閉された。(出典: 閔妃 - Wikipedia) ・この当時の閔妃は巫堂ノリという呪術儀式に熱中し、国庫の6倍以上にあたる金額を布施により国費を浪費している。これは法外な額であり、宮廷の役人は民衆から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈っていた。また庶民が苦しい生活をしている中、毎晩遅くまで、俳優や歌手を宮中に招いて遊興しており、起床はいつも午後で、そのため宮中の空気は「混濁腐敗」していたとも言われる。(出典: 閔妃 - Wikipedia) ・1884年、金玉均らの甲申政変により一時失脚するが、袁世凱と清軍の助けで政権奪回。日本公使館焼失、居留民被害。金玉均・朴泳孝・徐載弼らは日本へ亡命、家族は服毒自殺、処刑等。また、金玉均は、閔妃の刺客・洪鍾宇により1894年に上海で暗殺された。金玉均の遺体は清の軍艦咸靖で朝鮮に搬送。遺体は六支の極刑(凌遅刑)に処せられる。金玉均の父は死刑、母は自殺、弟は獄死、妻の兪氏と娘は奴婢として売られる。(出典: 閔妃 - Wikipedia) (注:「凌遅刑」とは、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、反乱の首謀者などに科された。また「水滸伝」にも凌遅刑の記述が記載されている。また、この刑に処された人間の人肉が漢方薬として売られることになっていたとされている。この刑罰は李氏朝鮮(朝鮮王朝)でも実施されていた。(出典: 凌遅刑 - Wikipedia) ) ・甲申政変についての記述から。 『開化派による新政権はわずか3日で崩壊し、計画の中心人物だった金玉均らは日本へ亡命することとなった。残った開化派人士、及び亡命者も含めた彼らの家族らも概ね三親等までの近親者が残忍な方法で処刑された(なお金玉均の妻子については、10年程生死不明で行方知らずとなった後、1894年(明治27年)12月忠清道沃川近傍で当時東学党の乱(甲午農民戦争)を鎮圧中の日本軍が偶然発見し、ようやくその妻と女子は保護されるも、その時の2人は実に憐れむべき姿だったという)。また金玉均は日本各地を転々とした後に上海に渡り、1894年(明治27年)3月28日に刺客洪鐘宇(ホン・ジョンウ)に暗殺される。その遺体は朝鮮半島に移送された後に凌遅刑に処せられ、五体を引き裂かれたのち朝鮮各地に分割して晒された。』(出典: 甲申政変 - Wikipedia) ) ・1892年、大院君爆殺計画が失敗。[脚注18]梅泉野録には閔妃によると記述。『大院君邸内火薬爆発ノ件』アジア歴史資料センター Ref.A04010006500には爆薬による爆殺計画と記載。(出典: 閔妃 - Wikipedia 脚注18) ・1895年7月6日、閔妃は、ロシア公使ウェバーとロシア軍の力を借りてクーデターに成功。(出典: 閔妃 - Wikipedia) ・1895年9月27日、後に乙未事変に参加する禹範善(訓練隊第二大隊長)が、宮本少尉(訓練隊教官にして守備隊附)に対して、訓練隊はまもなく解散させられ、将校は厳刑に処せられるはずなので、私は逃亡するつもりだと漏らしている。(「機密第三六号」)(出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料) ・1895年、乙未事変の直前に、閔妃派はクーデターを計画していた。 『十月八日事変前に、李範晋等は王妃の旨を奉じ、安駉壽と謀り、閔泳駿を内閣に出し、閔派の内閣を組織し、金宏集始め兪吉濬抔数多の大臣を暗殺せんとするの計画は略々整いたるに、豈斗んや十月八日の事変咄嗟に起り、竟に其陰謀の画餅に帰したる事は、後ち安駉壽の自白并に王妃の昵臣柳束根が警務庁の審問に対する口供に拠り明かなり(「韓国王妃殺害一件 第二巻 分割2 B08090168800」p6)』 (出典: きままに歴史 ≫ 日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)) ・1895年10月 8日、乙未事変。 ・朝鮮専門家であった米国のジョージ・トランブル・ラッド博士は、閔妃について「頭は良かったが朝鮮の玉座にとって恥となるほど最も残酷な人物であり、何年も国王の父である大院君と政争を続けており、この間両派閥の殺し合いはまるで毎年の挨拶交換のように行われてきた。」としている。(出典: 閔妃 - Wikipedia) |