1895年 朝鮮で閔妃殺害事件(乙未事変)李氏朝鮮では、西欧列強の波が押し寄せて以来、それまでの門閥化した両班官僚(注)による政治を改革していこうとする開化派(独立党とも呼ぶ。)と、従来の両班官僚体制を維持していこうとする保守派(事大党とも呼ぶ。)が対立し、外国の武力にたよった政変もあいついだ。 (注:両班官僚とは、もともと文班と武班の2つの班に分かれていた中央支配官僚とその子孫を意味する。) 1895年までの経緯 ・最初の改革派といえるのは、1864年に12歳で即位した第26代高宗王の実父で、興宣大院君(略して大院君)の称号を与えられ政権を掌握した。両班官僚を遠ざけ、革新的な政治を行った。 ・その後、1873年に、高宗王の妃に連なる閔氏一族が政権を奪取した。旧来の大地主化した両班官僚の支配体制に戻す保守的な政治を行った。 ・1882年の壬午(じんご)軍乱では、兵士の暴動から始まった反乱の矛先が、政権を握る閔氏一族の重臣や日本公使館へも向かい、失脚していた大院君がかつぎだされたが、閔氏の朝鮮政府は宗主国であった清国に派兵を要請し、清国軍が暴動を鎮圧して大院君はとらえられた。 ・1884年の甲申(こうしん)政変では、日本に接近していた開化派の金玉均らが政権を奪ったかにみえたが、清国軍が出動して3日天下に終わった。その後、日清両国は天津条約を結んで、両国とも朝鮮から撤兵した。 ・1894年の甲午(こうご)農民戦争(東学党の乱とも呼ばれる。)で、乱に手を焼いた閔氏の朝鮮政府が清国へ援軍を依頼すると、日本軍も出動した。日本軍は、日清戦争となる直前に閔氏政権を転覆させて親日的で開化派の金弘集らの政権を発足させ、大院君を執政にすえた。金弘集の政権は完全な傀儡政権ではなく、独自の改革を急速に進めたが、日本が日清戦争に勝利すると、清国の宗主権は否定され、日本の影響力は大きくなり経済的な進出も加速した。 1895年 ・4月17日、日清講和条約(下関条約)の調印。 ・4月23日、ロシア・フランス・ドイツによる日本への三国干渉。 ・7月6日、閔氏一族がロシア公使ウェバーの援助を得てクーデターを起こした。大院君や開化派・親日派を一掃し、日本人に訓練された軍隊も解散させた。 ・これに対して、日本公使三浦梧楼(みうらごろう)はもう一度大院君を政権につけようとはかり、10月7日夜から8日早朝にかけて、大院君をかつぎだして、日本が指導した朝鮮人の訓練隊・日本軍守備隊・日本人壮士らが宮廷を襲撃し、王宮護衛の侍衛隊を撃破して、王妃である閔妃の寝室に乱入した。閔妃の顔を確認するゆとりはなく侍女も含めた3人の女性を手あたり次第に斬殺した。死体は王宮外の前庭に運び出し、積み上げた薪の上で石油をかけて焼き捨てた。 朝鮮人守備隊どうしの衝突にみせかけようとしたらしいが、事件の現場にいあわせた米国人医師アレンによって、日本人の犯行であることを目撃され、漢城(現在のソウル)駐在の各国外交官の知るところとなった。 【事件後の動き】 日本政府の動き 計画は三浦公使をはじめとする出先官憲の独走であるとの立場をつらぬき、犯行にかかわった者を日本に召還し、日本で裁判にかけた。しかし、最終的には、証拠不十分として全員無罪となった。 日本は朝鮮政府への強引な介入をしばらく差し控えざるおえなくなり、経済的な進出に専念した。 朝鮮政府の動き 開化派の金弘集政府は、日本の圧力に屈して、3人の朝鮮人を真犯人として処刑した。 親日的な金弘集政権は、国民の反感を買って、改革も行き詰まり、各地に武装蜂起が起こった。 翌1896年2月に、ロシア軍水兵の応援を受けて反日派(保守派)のクーデターが起こり、金弘集・魚允中らの政府要人が処刑された。この時、高宗王は日本の逆襲を恐れてロシア公使館に避難し、一年あまりの間そこで政務をとった。 1897年、高宗王は王宮にもどり、朝鮮が清国に臣従していた際のかたちを改め、独立国であることを示すため、次の改定を行った。 ・8月、それまで清国の年号を使っていたが、朝鮮独自の元号を定め「光武」とした。 ・10月12日、それまでの「王」の称号を「皇帝」に改め、高宗王が高宗皇帝に即位した。 ・10月16日、それまでの「朝鮮」という国号を「大韓」に改めた。 在朝鮮外交官の動き 事件に対する日本への非難が集中した。日本の拙劣さを冷笑したものであった。日本は強引な政治介入ができなくなり、ロシアの政治的影響力が大きくなっていった。 朝鮮民衆の動き 事件後、抗日の動きが朝鮮全土にみなぎった。各地の儒生が「義兵」(注)をあげ、柳麟錫を総大将として結集し、日本勢力の駆逐と金弘集政権の打倒を要求した。兵士の主力は農民であったが、指導部は完全に両班儒生が掌握した。 太白山付近の山岳地帯に集結し、1896年の初めに最大となり、漢城(現在のソウル)へ進攻する模様となったが、クーデターにより金弘集政権が崩壊したため、蜂起は収束へ向かった。 なお、ほかの各地でも、独自の義兵蜂起があった。 (注:「義兵」とは、一般に、国難に際して民間人が自発的に兵を起こしたものを指すが、朝鮮ではこの蜂起以降の抗日闘争を一括して「義兵闘争」と呼ぶ。) 【参考ページ】 1864年 朝鮮で大院君が政権を掌握 1873年 朝鮮で閔氏が政権を奪取 1876年 日朝修好条規の締結(朝鮮の開国) 1882年 朝鮮で壬午軍乱 1884年 朝鮮で甲申政変 1894年 朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱) 1894年 日清戦争(〜1895) 1895年 三国干渉【LINK】 参考文献 「教養人の日本史(4) 江戸末期から明治時代まで」池田敬正、佐々木隆爾著、社会思想社 教養文庫、1967年 「クロニック世界全史」講談社、1994年 「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書、1977年 「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社、1993年 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 更新 2012/4/12 |