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1904年 日露戦争(〜1905)


 1900年に中国での義和団の乱が満州に波及すると、ロシアは大軍を満州各地に進駐させ、1901年9月に各国間で「義和団事件最終議定書」が調印された後も条件を付けて撤兵しなかった。
 1901年10月以降に中国とロシアの間で撤兵についての交渉が続けられたが、日英同盟が1902年1月に調印され2月に発表されると、ロシアはやっと清国との間に満州撤兵条約を結んだ。その内容は、6か月ごとの三段階に分けて撤兵を行うというもので、三段階の期限は1902年10月8日、1903年4月8日、1903年10月8日であった。
 ロシアは、第一段階の1902年10月8日の撤兵は行ったが、第二段階の1903年4月8日の撤兵は行わなかった。

 日本はロシアとの直接交渉にのりだした。1903年8月12日、日本の最初の協定基礎案がロシアに示された。その内容は、「朝鮮では日本が、満州ではロシアが優越権あるいは特殊利益をもつ」とする内容だったが、同年10月3日に提出されたロシアの対案は「韓国の北緯39度以北を中立地帯とし、満州はロシアが全権を握る」という内容であった。

 また、日本は、日英同盟の締結につづき、アメリカと歩調を合わせて清国との追加通商条約の締結交渉を進めていた。清国は、日本に対して大東溝(だいとうこう)の開港と奉天(ほうてん。現在の瀋陽)の開市を行い、アメリカに対して安東(あんとう)の開港と奉天の開市を行なうというもので、また、この二つの条約の調印日は、ロシアの満州からの撤兵最終期限である1903年10月8日であった。
 こうして、日本は、満州に対しても権益を持つこととなった。一方、アメリカは、中国に対する門戸開放を実現した。

 1903年10月8日の追加通商条約の調印により大東溝と安東開港と奉天の開市が確定すると、ロシアは10月28日に兵力をもって奉天を占領し清国軍隊を城外に退去させた。

 その後も日本とロシアの交渉が続けられたが、交渉は不調に終わり、ロシアは軍隊を南満州から鴨緑江方面に集中し、極東およびシベリアにある軍隊に動員令を下した。1904年2月6日に、日本はロシアとの国交を断絶。同年2月8日、日本艦隊が朝鮮半島西部の仁川沖でロシア艦隊を砲撃し、同日夕刻には日本の駆逐艦隊が旅順にせまってロシア艦隊を奇襲した。翌9日にはふたたび仁川沖で海戦が行われた。日本がロシアに宣戦布告したのは、その翌日の1904年2月10日であった。


【会戦】
1904年
・2月8日、旅順口攻撃
・2月9日、仁川沖海戦
(2月23日、日韓議定書の締結)
・2月〜5月、旅順港閉塞作戦(失敗)
・4月30日-5月1日、鴨緑江会戦・・・・・安東(現在の丹東)近郊の鴨緑江岸での戦い
・5月26日、南山の戦い・・・・・旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地をめぐる戦い
・6月14日、得利寺の戦い
・7月23日、大石橋の戦い
・8月10日、黄海海戦・コルサコフ海戦
・8月14日、蔚山沖海戦
・8月19日-1905年1月1日、旅順攻囲戦・・・・・ロシアの旅順要塞をめぐる戦い
 旅順要塞へ数度の総攻撃を行い、多くの死傷者を出しながらも占領した。日本軍の兵力13万人のうち5万9千人が死傷。有名な203高地は、旅順要塞のいくつかある前進陣地のうちの1つが設けられていた丘陵です。占領後の1905年1月5日に、乃木希典大将と旅順要塞司令官ステッセルが、旅順近郊の水師営(注:もともと「水師営」とは、中国清朝の北洋艦隊(清での名称は北洋水師)隊員の駐屯地のことで、清国各地にあった。)で会見した。
・8月24日-9月4日、遼陽会戦
・10月9日-10月20日、沙河会戦
1905年
・1月25日、黒溝台会戦
・3月1日-3月10日、奉天会戦・・・・・(注:奉天は現在の瀋陽)
 日本軍25万人(死傷者7万人)、ロシア軍32万人(死傷者9万人)。ロシア軍は奉天を退却するが、戦線は昌図・開原の線で膠着。ロシア軍はバルチィック艦隊の応援を待ってハルビンでの決戦を計画。
・5月27日-5月29日、日本海海戦
 ロシアの第2・第3太平洋艦隊(バルチック艦隊)は19隻が撃沈して壊滅した。日本の連合艦隊(司令長官東郷平八郎)は水雷艇3隻を失う。ロシア軍のハルビンでの決戦計画は不可能になった。
(6月6日、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトによる講和勧告)
・7月7日-7月31日、樺太の戦い
 日本軍は和平交渉の進むなか樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる。
(8月1日-9月5日、講和会議(注:場所は、アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊))
(9月5日、講和条約調印)

 日本の総動員兵は107万人、うち21万人死傷。



【イギリスとフランス】
 1904年2月に日露戦争が始まると、日本の同盟国イギリスと、ロシアの同盟国フランスは、微妙な立場に立つこととなった。
 日英同盟では、「一方の国が第三国と交戦した場合、もう一方の国は中立を守る。そして、他国が敵国に加担した場合は、日英が共同して戦う。」こととなっていた。したがって、フランスが日露戦争に参戦した場合、イギリスはフランス・ロシアと戦わなければならないのであるが、イギリスはヨーロッパで開戦する意思はなかった。
 そのため、イギリスはフランスとの交渉を続け、1904年4月8日に「植民地問題に関する協定条約」の調印を行った。これは、イギリスとフランスとの植民地問題に終止符を打つものであるが、実質的には両国の友好関係を樹立するものであった。フランスにとっては、ロシアが東アジアへ大きな努力をそそぐことによりドイツに対する露仏同盟の威力が減ずるため、イギリスとの接近が有効であると考えられた。
 このイギリスとフランスの接近によって、日露戦争がヨーロッパへ拡大することはなくなった


【第1次ロシア革命】
 ロシアでは、1905年1月22日に、生活苦の打開・立憲政治の実施・戦況不振な日露戦争の即時停止などを求めてデモ行進していた民衆に対して発砲を行った血の日曜日事件が起こった。これをきっかけにストライキが頻発して弾圧が行われたほか、労働者の代表機関「ソヴィエト」が組織され、戦艦ポチョムキン号の反乱(鎮圧された)もあった。10月30日に、皇帝ニコライ2世が、立憲政体の採用と国会の開設を約束して、事態は収束した。


【アジアへの衝撃】
 アジアの国である日本が西洋の国であるロシアに勝利したことは、アジアの諸国に衝撃を与えた。西洋列強の支配下にあったアジアの諸国は、西洋の国に反抗して勝利を得る可能性があるとの希望を持った。
 しかし、その後の日本は、アジアの解放者とはならず、西洋列強と同じ支配国となっていった。(注:このとらえ方は、自虐史観かもしれません。どのように認識すれば良いのか、勉強中です。)


【黄禍論】
 LINK 黄禍論 - Wikipedia に次の記述がある。
「1904年に日露戦争が起ると、まず、イギリスで黄過論が頻繁にジャーナリズムに登場するようになり、それがロシア、フランスに波及していった。」


【ジェイコブ・ヘンリー・シフ(人)】
 日露戦争の戦費調達に奔走した高橋是清(当時は日本銀行の副総裁)は、まずイギリス・ロンドンの金融街シティーで一千万ポンドの日本公債を売り出した。ヨーロッパでの買い手を求めて奔走するが、ロスチャイルド家にも断られ(注1)、上手く行かないため、高橋是清はシティーに見切りをつけてニューヨークへ渡り、苦難の末に一千万ポンドの現金を手に入れた。(出典:広瀬隆著「赤い盾 ロスチャイルドの謎T」(集英社文庫、1996年)p119-121)
(注1:ロスチャイルド家は、ロシア皇帝の許可によって、カスピ海に臨むバクー油田の利権を獲得していた。(出典:広瀬隆著「赤い盾 ロスチャイルドの謎T」(集英社文庫、1996年)p121) )
 この日本公債の半分までを引き受けてくれたのが、クーン・レーブ商会ジェイコブ・ヘンリー・シフであった。彼はユダヤ人で、1847年にドイツのフランクフルトで生まれた。シフ家の祖先は、ロスチャイルド家の初代マイヤー・アムシェルと、フランクフルトのゲットー(ユダヤ人居住地区)にあった同じ建物を2つに区切って住みながら商売をしていたことがあるという。ジェイコブ・ヘンリー・シフは、18歳の時にニューヨークに渡り、クーン・レーブ一族の娘テレサと結婚した。クーン・レーブの一族となってからは、鉄道事業への融資などを通じてクーン・レーブ商会を成長させ、国際投資銀行としての地歩を築いていった。(出典:広瀬隆著「赤い盾 ロスチャイルドの謎T」(集英社文庫、1996年)p119-126)
 また、日露戦争後の1906年に、ジェイコブ・ヘンリー・シフが、日本政府の招待によって初めて日本を訪れた際、勲一等旭日大綬章が贈られ(注2)明治天皇は彼に親しく感謝の言葉を述べられたという。(出典:LINK ヘブライの館2 THE HEXAGONWAR研究室大東亜戦争の舞台裏「日露戦争」と「日米対立」と「日中戦争」の舞台裏 の「■■第3章:「日露戦争」で日本を援助したユダヤ人ヤコブ・シフ」の項 および LINK ジェイコブ・シフ - Wikipedia
(注2:勲一等旭日大綬章の授与については、LINK ジェイコブ・シフ - Wikipedia に記述があるが、LINK 勲一等旭日大綬章 - Wikipedia では、シフについての記述がみられない。)
 戦後の昭和天皇は、駐日イスラエル大使の信任状奉呈式が行なわれるたびに、ヤコブ・シフ(=ジェイコブ・ヘンリー・シフ)とユダヤ人への感謝を述べ、その上で、新任の大使を労(ねぎら)われたという。(出典:LINK ヘブライの館2 THE HEXAGONWAR研究室大東亜戦争の舞台裏「日露戦争」と「日米対立」と「日中戦争」の舞台裏 の「■■第3章:「日露戦争」で日本を援助したユダヤ人ヤコブ・シフ」の項 )





【LINK】
LINK ヘブライの館2 THE HEXAGONWAR研究室大東亜戦争の舞台裏「日露戦争」と「日米対立」と「日中戦争」の舞台裏 〜必見。日露戦争とユダヤの金融資本の観点から日米関係を見ています。
LINK 春や昔陸戦、海戦、軍事資料 〜個人による「坂の上の雲」ファンサイト。
LINK アジア歴史資料センター日露戦争特別展
LINK アジア歴史資料センター日露戦争特別展U
LINK 第1次大戦日露戦争
LINK 日露戦争
LINK 大連紀行大連と日清・日露戦争日露戦争
LINK YouTube ≫ 明治37-38年(1904-05) 日露戦争 陸戦編
LINK YouTube ≫ 明治37-38年(1904-05) 日露戦争 海戦編
LINK YouTube ≫ ロシアから見た日露戦争1/6 同2/6 同3/6 同4/6 同5/6 同6/6
LINK YouTube ≫ 日本海海戦1. 同2. 同3. 同LAST.wmv
〜この動画によると、日本海海戦で活躍した「日進」「春日」の2隻の軍艦(装甲巡洋艦)は、アルゼンチンから購入したもので、イタリアのジェノバで建造されて日本に引き渡された。アルゼンチンの建造指揮官であったマヌエル・ドメック・ガルシアは、日本海海戦の時にも観戦武官として「日進」に乗艦していた。
LINK YouTube ≫ 日本海 海戦 日露戦争
LINK YouTube ≫ 騎士道と武士道、ステッセル将軍と乃木将軍。(日露戦争)
LINK YouTube ≫ 『アメリカから見た日露戦争@』倉山満 AJER2012.10.19(1) 同A
LINK 中韓を知りすぎた男日露戦争斜め論 近現代史NO11 〜個人のブログ
LINK YouTube ≫ 【危機管理講座】日露戦争を終結させた外交力[桜H26/10/22]
LINK カイカイ反応通信韓国人「絵で見る日露戦争…日本の立場で見れば負けた方が良かった戦争」(2015年5月3日付)
LINK YouTube ≫ 【撫子日和】外国人特派員が見た、日露戦争の後の影響[桜H27/9/8]

LINK 日経ビジネスオンライン北方領土と日露戦争を知らないロシア人


【参考ページ】
1902年 日英同盟の締結
1904年 日露戦争(〜1905) 〜このページ
1905年 第1次ロシア革命
1905年 ポーツマス条約(日露講和)
1905年 日米間でハリマン事件(南満州鉄道の経営権問題)
1907年 アメリカ大西洋艦隊の世界一周(〜1909)(リンクのみ)
朝鮮の状況
1864年 朝鮮で大院君が政権を掌握
1873年 朝鮮で閔氏が政権を掌握
1876年 日朝修好条規の締結
1882年 朝鮮で壬午軍乱
1884年 朝鮮で甲申政変
1894年 朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)
1894年 日清戦争(〜1895)
1895年 三国干渉
1895年 朝鮮で閔妃殺害事件(乙未事変)
1904年 日露戦争(〜1905) 〜このページ
1905年 ポーツマス条約(日露講和)
1909年 伊藤博文がハルビンで暗殺される
1910年 日本が韓国を併合
1919年 朝鮮で三・一運動
「李氏朝鮮末期の社会」に関する資料集
私の思うところ反日宣伝(プロパガンダ)に関するリンク集





参考文献
LINK 日露戦争 - Wikipedia
LINK Category:日露戦争の戦闘 - Wikipedia
LINK 旅順攻囲戦 - Wikipedia
LINK 203高地 - Wikipedia
LINK 水師営 - Wikipedia
LINK 奉天会戦 - Wikipedia
LINK 樺太の戦い (1905年) - Wikipedia
LINK ポーツマス条約 - Wikipedia
「世界の歴史21 帝国主義の開幕」中山治一著、河出文庫、1990年
「教養人の日本史(4) 江戸末期から明治時代まで」池田敬正、佐々木隆爾著、社会思想社 教養文庫、1967年
TV NHK BS特集「世界から見たニッポン明治編 第2回 アジアの希望と失望」2006年8月6日再放送
「赤い盾 ロスチャイルドの謎T」広瀬隆著、集英社文庫、1996年
LINK ヘブライの館2 THE HEXAGONWAR研究室大東亜戦争の舞台裏「日露戦争」と「日米対立」と「日中戦争」の舞台裏
LINK ジェイコブ・シフ - Wikipedia


更新 2015/9/12

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