1909年 伊藤博文がハルビンで暗殺される1909年10月26日、伊藤博文は、ロシア蔵相ココフツォフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため、中国吉林省の哈爾浜(ハルビン)駅に列車で到着し、構内に降り立ったところを、朝鮮人の安重根(あんじゅうこん)が放った銃弾のうち3発を受けて死亡した。 なお、安重根のほかに駅の2階から狙撃した別の男がいたという日本側の証言もあるが、その真相は不明である。 伊藤博文は、1905年11月に、韓国を事実上保護国とする第二次日韓協約(乙巳(いつし)保護条約)の締結を韓国政府に強要し、12月(注1)には初代の統監(韓国統監)に就任して、日本の韓国支配に道筋をつけた人物であった。暗殺された時は、統監(韓国統監)の職を辞し(注2:1909年6月14日)た後で、日本の貴族院議員で枢密院議長であった。 |
(注1:統監府(韓国統監府)の設置は1905年12月21日付で、伊藤博文の統監(韓国統監)就任期間は、1906年3月3日〜1909年6月14日。(出典: 統監府 - Wikipedia) ) |
安重根は、裁判でも堂々と自説を述べたという。翌1910年3月に旅順で処刑された。 【伊藤博文】 伊藤博文(いとうひろぶみ) 1841〜1909 長州藩士出身。松下村塾に学び、イギリスに留学。明治維新後は、明治憲法制定、初代首相、初代枢密院議長、日清講和条約(下関条約)の全権、政友会の結成、初代韓国統監、4回にわたる組閣などで活躍した。 伊藤博文 - Wikipedia 【安重根】 安重根(あんじゅうこん。アンジュングン) 1879〜1910 クリスチャンとして朝鮮の国権回復運動に参加。シベリアで義兵運動を指揮したのち、伊藤博文の暗殺を決行した。 安重根 - Wikipedia |
(注:安重根は、現在の韓国では義士と呼ばれ英雄視されていて、ソウルには 北朝鮮では少し違うようで、下のサイトの旅行記によると、1999年(平成11年)5月5日に平壌にある朝鮮革命博物館を訪れた際に、次のように説明されたという。 「力もないのに伊藤博文の暗殺を計画し、暗殺そのものには偶然成功したものの後が続かず、自身は逮捕されて処刑されるのみならず、日朝(韓)併合の直接のきっかけを作ってしまい、歴史に大きな汚点を残した張本人である」と、また、「金日成主席の祖父や父と協力せず、一人であのようなことをやった愚か者。だから失敗した」というようなニュアンスで言っていた。 佐納康治のホームページ ≫ 私の海外旅行記 ≫ 北朝鮮旅行記 ≫ 第7日(平壌滞在) ) |
【ハルビン駅の安重根記念館】 韓国の朴槿恵大統領は、大統領就任後に初めて中国を訪問した際(2013年6月)、中国の習近平主席に、ハルピンに安重根の記念碑を建てることへの協力を要請した。これを受けて、中国黒竜江省のハルビン駅に「安重根義士記念館」が設置され、2014年1月19日に開館式が行われた。 MSN産経ニュース ≫ 伊藤博文暗殺の安重根、記念館が中国で開館、対日で中韓が共闘(2014年1月19日付の記事) MSN産経ニュース ≫ 【安重根記念館】消極姿勢一転、中国「反日の聖地」へ攻勢 韓国とは温度差も(2014年1月20日付の記事) |
この記事のなかに、次の記述がある。太字は、当サイト管理人による。 『 ハルビン市内の朝鮮民族芸術館内にはすでに2006年7月、「安重根義士記念館」が設置されているが、観覧者の8割が韓国人。漢族の中国人はほとんど興味を持っていないというのが現実だ。』 |
安重根 - Wikipedia の「記念碑」および「評価」の項 |
このウィキペディアの記述を基にまとめると、次のとおり。 ・1970年、韓国のソウル市に「安重根義士記念館」が建設された。 ・現在、ソウル市の「安重根義士記念館」の近くに安重根の銅像がある。 ・1981年、日本の宮城県栗原市(旧若柳町)の大林寺(看守であった千葉十七とその妻の墓がある)に、安重根の顕彰碑(遺墨を刻んだ碑)が建立された。 ・2002年、ソウル保健神学研究院と提携したことがきっかけで、ロシアのウラジオストク国立医科大学の構内に、安重根をたたえる記念碑を建立したが、翌年、学内のリニューアル工事のために撤去された。 ・2006年、中国黒竜江省のハルビン市に、韓国人によって4.5mの安重根の銅像が建設されたが、「外国人の銅像建設は認めない」として中国当局により撤去された。その後、この銅像は、2014年に設置されたハルピンの「安重根義士記念館」内に設置された。 ・2011年、日本の佐賀県佐賀市の無量寺に「安重根東洋平和祈願碑」の碑が建てられた。 ・2014年1月19日、中国黒竜江省のハルビン駅に、「安重根義士記念館」が設置された。 注:日本の佐賀県佐賀市の無量寺の「安重根東洋平和祈願碑」について。(安重根とは特に関係のないお寺のようですけど。) YouTube ≫ 【在特会福岡支部】4.4テロリスト安重根の石碑を建てた無量寺に行く YouTube ≫ 在特会 4.10 桜井会長がテロリスト安重根の石碑を建てた無量寺に抗議 まさか、右翼と呼ばないで! ≫ 安重根を讃える記念碑が佐賀県の無量寺に建立された!!!!(2011年3月28日付) 안중근평화신문 ≫ 안중근 운동 ≫ 일본서 안중근동양평화기원비 제막식 〜機械翻訳によると、「アン・ジュングン平和新聞 ≫ アン・ジュングン運動 ≫ 日本でアン・ジュングン東洋平和祈願碑除幕式」 〜無量寺での式典の写真がある。 |
この記事のなかから、一部を引用します。この記述に続く部分は、【LINK】安重根の項で引用してあります。 『 ■「朝鮮人は偉い」と語った伊藤博文 日本での「伊藤博文観」は全く逆だ。初代韓国統監という職責に就きながら、伊藤が韓国併合に否定的だったとされることはよく知られている。 五千円札の肖像にもなった農政学者、新渡戸稲造による評伝によれば、新渡戸が「朝鮮人だけでこの国を開くことが、果してできましょうか」と問うと、伊藤はこう答えたとされる。 「君、朝鮮人は偉いよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは日本より遥以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ」 続けて「しかるに今日のありさまになったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ。国さえ治まれば、人民は量においても質においても不足はない」とも語ったという(新渡戸著『偉人群像』)。 1909年10月に起きた伊藤暗殺からわずか10カ月後には、日本による韓国併合が行われている。 朝鮮日報の表現を借りれば、「安が伊藤を狙撃したことで、日本は伊藤が敷いたレールを外れ、朝鮮侵略や日中戦争へと突き進んだ」といえ、「安が伊藤を撃った大義が“誤っていた”ことはその後の歴史でも証明されている」と言い換えることができる。 』 |
MSN産経ニュース ≫ 【産経抄】朝鮮人を信じた伊藤への銃弾 1月22日(2014年1月22日付の記事) |
この記事を全文引用します。 『 【産経抄】朝鮮人を信じた伊藤への銃弾 1月22日 2014.1.22 03:16 [産経抄] 明治39年、農政学者の新渡戸稲造が韓国に伊藤博文を訪ねたことがある。伊藤は日本が保護国とした韓国の政務をみる統監の地位にあった。新渡戸は伊藤に、日本から韓国への移民促進を訴えにきたのだが、伊藤は「我輩は反対しておる」だった。 ▼「しかし朝鮮人だけでこの国を開くことができましょうか」と反論する新渡戸にこう答えた。「君朝鮮人はえらいよ…この民族にしてこれしきの国を自ら経営出来ない理由はない」。伊藤によれば、韓国の現状は人民が悪いのじゃなく、政治が悪いからである。 ▼瀧井一博氏の『伊藤博文』が紹介するエピソードである。だから伊藤が初代韓国統監を引き受けたのは、韓国の政治改革を推進し、韓国人の潜在的自治能力を開発するためだった。文官である自らが統監となることで、日本軍による介入を抑える狙いもあったという。 ▼最終的には「日本の安全保障のため」という小村寿太郎外相らに押し切られるが、日本への併合にも終始慎重だった。満州(中国東北部)への日本の進出にも反対で、俗な言葉では「ハト派」の長老だった。韓国や中国(清)にとって良き理解者と言ってよかった。 ▼その伊藤が統監辞任後の明治42年、満州のハルビンで韓国人の安重根により暗殺された。当然日本の世論は激高する。閣議決定済みだったとはいえ、併合に拍車がかかったことは言うまでもない。伊藤が避けようとしていた「武断統治」を招くことにもなった。 ▼そんなテロリストの記念館がハルビンに建設された。中韓反日連合の象徴のつもりらしいが、これこそ歴史を直視できない愚挙である。もっとも韓国併合を「悪」一点張りで描き、伊藤をその首謀者のようにしてきた日本の自虐史観の罪も大きい。 』 |
安重根 カイカイ反応通信 ≫ 韓国人「安重根の遺墨を持つ日本の老人」(2013年8月16日付) |
ボロロン速報 ≫ 伊藤博文を射殺した安重根の獄中遺墨、龍谷大学に寄託 「日韓史考えるきっかけに」 2ch「龍谷大か…」「暗殺犯は安じゃないはず」「龍谷大はえせ仏教系反日大学」(2015年11月20日付) |
MSN産経ニュース ≫ 【桜井紀雄の劇的半島、熱烈大陸】韓国「反日」のシンボル、安重根が夢見たのは日本との共闘?(2013年12月8日付の記事) |
この記事のなかから、一部(中頃から最後にかけての部分)を引用します。この記述の直前にある部分は、【LINK】伊藤博文の項で引用してあります。 『 ■安重根「天皇に忠義尽くさんがため」 では、当の安重根は当時、日本を、伊藤博文をどうみていたのだろうか。 安重根は1910年3月に処刑される直前、自伝「安応七歴史」や未完となった「東洋平和論」などを書き残しており、そこからうかがい知ることができる。 これらについての故中野泰雄・亜細亜大学名誉教授の研究などによると、安重根は取り調べに当たった検察官に対し、伊藤暗殺に至ったのは「東洋平和を破壊したためだ」とする「伊藤の罪状」を挙げ、「私の思っていることをすぐに日本の天皇に上奏(じょうそう)してください。伊藤のよからぬ政略を改めて東洋危急の大勢を救ってくださることを切望します」と述べたという。 「みな仁厚な人たちばかりだ」と中国にいた日本人についての印象にも触れている。日中韓の関係については「弟(日本)の一族がみな悪いのではなく、その家の伊藤というものが悪い」とも語った。 韓国を日本の保護国としたことについては、「日本の天皇の趣旨ではないと思いました。それで伊藤は天皇を欺き、韓国人をも欺いたので、韓国の独立を期するには、伊藤を亡き者にしなければならぬと思った」と説明。「私は日本4千万、韓国2千万同胞のため、かつ天皇陛下と韓国皇帝陛下に忠義を尽くさんがために今回の挙に出た」とも述べている。 つまり、安重根の世界観では、日本が韓国を併合しようとたくらんでいるのは、日本人や天皇陛下が悪いわけではなく、伊藤博文という“奸臣”が陛下の目を曇らせている。この奸臣一人を取り除けば、日本は「正しい道」に立ち戻るだろう−と考えたのだ。 安重根は「東洋平和論」で、1894〜95年の日清戦争での清の敗北について「清国人は自ら中華の大国と称し、外邦を夷狄(いてき)と呼び、おごり高ぶること甚だしく、上下が和することがなかったので、このような恥辱に遭った」と中華思想からの脱却の必要性に触れていた。 ただ、安重根が抱いた、王や皇帝に誤りはなく、悪い臣下がいるから政道を誤るという見方は、儒教の強い影響から王朝時代の中国や朝鮮でみられた典型的な考えだ。中華思想の脱却を唱えながら、安重根もまた、同時代の清韓の官僚同様、王朝時代の思想に拘泥していたといえる。 ■韓国人は「日本の勝利喜んだ」 安重根が描いていた当時の世界観は「東洋平和論」の序文にさらに鮮明に表れている。 1904〜05年の日露戦争について「欧州の列国は全て道徳心を忘れ、中でもロシアは甚だしく、暴行残害は西欧と東亜の至る所に及び、悪に満ち罪にあふれ、神人ともに怒るに至った。そのため、天は機会を与えて東海の小さな島に過ぎない日本に強大なロシアを打倒させた」と記している。 当時の韓国人や中国人の反応について「日本軍を歓迎し、運輸、道路建設、偵察、探索などに労苦をいとわず力を尽くした」とし、日本の勝利に「自分たちが勝ったように喜んだ」とも描いている。 結論として「現在、西洋の勢力が東洋にやってくる禍患に対しては、東洋の人種は一致団結して極力防御するのとが最上の策であることは一尺の童子であっても、はっきりと知っている」と主張する。 その上で「なぜ日本はこの順然の勢いをかえりみることなく、同種の隣邦を分割し、友誼を断絶して自ら鷸蚌(ぼういつ)の争いを現出して漁人を待つようなことをしでかすのだろうか。韓清両国民の望んでいるのは、日本の現在の政略を大いに断絶することだ」と訴えた。 つまり、単純な「抗日」ではなく、ロシアをはじめとした西欧列強を最大の敵とみなし、本来、日本と韓国、中国は「一致団結して」当たるべきだというのが安重根の最大の主張だ。そのために「天皇の目を曇らせた奸臣を討った」というのが彼の大義名分だった。 ■安重根が持つ「親日」「反日」両面性 暗殺という手段は批判しながら、このような安重根の思想に共鳴した日本人は当時、取り調べを担当した検察官をはじめ、少なくなかったという。 安重根の天皇への思いだけを取り出せば一見、「親日」とも受け止められる。「反日」ではひとくくりにできない複雑な日本観を持っていた。韓国併合を受け入れた韓国人官僚らをはじめ、他の当時の韓国人らもまた、「反日」「親日」とは決め付けられない日本観を抱いていたはずだ。 菅官房長官や世耕官房副長官は、彼が「犯罪者」で「死刑判決を受けた」という政府の見解を述べた。半面、日本国内では、安重根が掲げた「東洋平和」の思想は評価するという立場も許される言論の自由がある。 一方、韓国では、安重根の「東洋平和論」は大いにたたえつつ、日本や伊藤に対しては一刀両断に「侵略の元凶」と決め付けられている。 韓国で今年、検定を受けた保守系の高校歴史教科書をめぐり、「安重根を“テロリスト”と描いている」とこの教科書の検定通過を阻止するためのデマに基づく攻撃がなされた。 抗日によって立つ韓国の「正史」において、安重根を「テロリスト」とみなすことは絶対に許されない歴史認識であり、検定通過を阻止したい勢力にとってこの種のデマが最も打撃を与えられるからだ。 同じ文脈で韓国が掲げる「正しい歴史」において、伊藤博文を評価する余地は一切ない。韓国で「親日」というタブーがからめば、言論の自由は消えてなくなる。 このような条件に拘束されている限り、歴史認識をめぐる日韓の対立で、より狭隘(きょうあい)な主張を繰り返しているのはどちらかということは、火を見るより明らかだろう。(外信部記者) 』 |
カイカイ反応通信 ≫ 韓国人「歴史歪曲しなければ反日できない韓国…英雄安重根の死をめぐる嘘と真実」(2021年1月12日付) 現代の韓国 MSN産経ニュース ≫ 韓国大統領 伊藤博文暗殺の安重根の記念碑設置への協力を要請 「尊敬すべき人物」(2013年6月28日付の記事) (リンク切れ) |
この記事を全文引用します。 『 【北京=川越一】中国を訪問中の韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は28日、北京の釣魚台迎賓館で習近平国家主席夫妻と昼食をとりながら会談した際、初代韓国統監を務めた伊藤博文元首相を暗殺した朝鮮半島出身の抗日運動家、安重根(アン・ジュングン)の記念碑を、暗殺現場の中国黒竜江省ハルビン駅に設置するための協力を要請した。韓国大統領府が明らかにした。 朴氏は安重根について、「韓中両国民にとって尊敬すべき歴史的人物だ」と述べた。習氏は「前日(27日)の首脳会談は成果に富み、双方は多くの共通認識に達した」と強調。安重根に関する朴氏の主張に同意したかは不明だが、「関係部署に(記念碑設置を)検討するよう指示する」と答えたという。 暗殺事件の発生から100年に当たった2009年、韓国では安重根を「世界的な英雄」と宣伝する動きが起きた。その3年前の06年には、韓国人企業家らが同駅近くの広場に安重根の銅像を設置。10日後、中国当局に撤去されたことがある。 当時は韓国の民間組織による活動に限定されていた上、中国側も一貫して慎重な姿勢を保っていた。それが今回、首脳同士の会談の中で言及された。中国政府関係者も「胡錦濤政権は中国国内の民間の反日活動を抑えてきた。習近平政権はむしろあおっている」と、政府の姿勢の変化を危惧している。 両首脳は首脳会談後に発表した共同声明で、歴史問題に絡む国家間の対立と不信の激化に憂慮を示す形で日本を牽制(けんせい)した。中国の最高指導者が2日続けて“首脳会談”を行うのは、異例の歓待といえる。習氏と朴氏が、対日強硬姿勢を通じて結束を深めた可能性も否定できない。 朴氏は28日、李克強首相らとも会談した。 』 MSN産経ニュース ≫ 【中韓首脳会談】日本念頭に歴史問題で憂慮表明、朝鮮半島非核化で協力(2013年6月27日付の記事) (リンク切れ) この記事のなかに、次の記述がある。 『 共同声明で両首脳は、「最近、歴史問題などにより(北東アジアの)国家間の対立と不信が出現し、状況はさらに悪化している。これに対し、憂慮を表明する。国家間の信頼と協力を構築するために努力する」と主張した。』 |
保守速報 ≫ 【画像あり】韓国サポ、伊藤博文暗殺のテロリスト安重根の肖像を掲げる(2013年7月28日付) ボロロン速報 ≫ 安重根義士ハルビン義挙104周年記念式(写真) 2ch「テロリストが義士で英霊が戦犯かよ」(2013年10月27日付) J-CASTニュース ≫ 「義士」なのか「犯罪者」なのか 安重根の評価巡り対立深まる(2013年11月20日付) |
この記事のなかに、次の記述がある。なお、太字は、当サイト管理人が施したものです。 『(前略) 同じく半ば「なかったこと」になっているのが、安の遺児・安俊生の存在だ。実業家となった俊生は1939年、満州で伊藤の位牌に手を合わせ、伊藤の息子に「謝罪」した。韓国独立の英雄・金九はこれに激怒し、俊生殺害まで図っている。俊生は戦後間もなく、不遇のうちに死去した。安の孫たちは追悼式典などのためにしばしばメディアに登場するが、俊生の存在は無視されがちだ。 また安は獄中での遺著で、韓国と日本、中国が共同して西欧列強に対抗すべきとの持論を展開している。ほかの人物なら「親日派」扱いされかねない主張だが、韓国内では「現在の観点でも先駆的な思想」(中央日報)として賛美を惜しまない。 』 |
YouTube ≫ What A Korean Must Know #1 Ahn Joong-geun |
【韓国の反応】みずきの女子知韓宣言(´∀`*) ≫ 【韓国の反応】韓国、中国から貰った「伊藤博文暗殺のために走りながら銃を抜いている安重根像」設置へ…「この像が韓中関係改善の役に立つだろうか」と朝鮮日報(2017年8月11日付) |