1894年 日清戦争(〜1895)朝鮮において、1894年春に地方の小さな反乱からはじまった甲午農民戦争(東学党の乱)は、全羅道内全域を解放して、朝鮮政府の派遣した中央直轄軍をも撃退し、さらに北上する気配を示すに至った。 (詳細は「 ![]() 閔氏の朝鮮政府は袁世凱の示唆により清国へ援軍を求め、清国の北洋大臣李鴻章(りこうしょう)はこれに応じて、6月4日、陸海軍を派遣し、朝鮮の甲申政変の際に日清間で結んだ天津条約に基づき日本へ通告した。 日本は早くから甲午農民戦争のゆくえに注目していた。6月2日に朝鮮政府が清国に出兵を要請するとの情報を得ると、要請を受けていないにもかかわらず公使館と在留邦人の保護を名目に6000人の派兵を閣議決定、6月5日には大本営を設置、6月12日には派遣軍が漢城(現在のソウル)近郊に布陣して清国軍と対峙した。 こうした状況にあわてた朝鮮政府は、6月10日に農民軍と妥協的な和約を結んで事態を収拾した。 日本軍の武器は全軍が、日本人の体格に合わせて銃身を短くするなどの改造を加えた村田銃と7センチ野山砲で統一されていた。李鴻章は、清国の軍備の劣勢を自覚して、イギリス・ロシアによる調停を期待した。ロシアが日清両国の撤兵を申し入れたが、日本はロシアの南下政策を警戒していたイギリスの支持を得てロシアの干渉を排除しようと企てていた。 内乱が治まって交戦する理由がなくなったにもかかわらず、日本軍は増兵をつづけた。日本政府は漢城(現在のソウル)の公使館に対して「曲ヲ我ニ負ハザル限リハ、イカナル手段ニテモトリ、開戦ノ口実ヲツクルベシ」という指令を出している。 日本は清国に共同で「朝鮮の内政改革」にあたることを提議したが、清国は内政干渉にあたるとしてこれを拒否した。 日本軍は、7月23日未明、朝鮮の首都漢城(現在のソウル)の王宮を襲撃して高宗王を監禁し、閔氏政権を転覆させ、親日的で「改革派」の流れをくむ金弘集らの政権を発足させて、大院君を執政にすえた。そして、朝鮮政府が清国軍の撤兵を日本に依頼することを強要し、これを口実に戦闘を開始する。 7月25日に日本海軍が豊島沖で清国海軍を攻撃し、7月29日には日本陸軍も牙山で清国陸軍を攻撃した。 日本と清国は、8月1日に相互に宣戦布告し日清戦争となった。清国は准軍と北洋艦隊を動員して日本軍にあたるが、9月の平壌の戦いと黄海海戦に敗れ、翌1895年3月までに旅順・大連・遼東半島そして山東半島の威海衛まで占領された。 なお、朝鮮の農民軍は、近代的な装備と訓練の行きとどいた日本軍と朝鮮政府軍に対して、1894年11月末の忠清道広州での会戦で敗れ壊滅した。 1895年3月に日本の下関で講和会議が開始される。その最中に李鴻章が日本の暴漢に撃たれ顔に重傷を負うという事件も起きている。4月に日清講和条約(下関条約)が締結されたが、その主な内容は次のとおり。 ・清国は朝鮮の独立を認める。 ・遼東半島、台湾、澎湖島を日本へ割譲する。 (注:遼東半島は、後に三国干渉により放棄させられる。) ・2億両(テール)の賠償金を日本へ支払う。 ・日本人は各開市場・開港場において、製造業に従事できる。 ・片務的最恵国待遇を日本に与える。 この戦争による日本側の戦病死者は8,388人、中国側の死者数は不明であるが日本よりもはるかに多数と推測される。ただし、他にも諸説ある。 ![]() 【LINK】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 【参考ページ】 朝鮮関係 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 台湾関係 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 参考文献 「二十世紀1 帝国主義時代の開幕」尾鍋輝彦著、中央公論社、1977年 「教養人の日本史(4) 江戸末期から明治時代まで」池田敬正、佐々木隆爾著、社会思想社 教養文庫、1967年 「世界の歴史20 中国の近代」市古宙三著、河出文庫、1990年 「クロニック世界全史」講談社、1994年 「ジャパン・クロニック 日本全史」講談社、1991年 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 更新 2016/1/5 |