1905年 ポーツマス条約(日露講和)1904年2月に日露戦争が始まると、日本の同盟国イギリスと、ロシアの同盟国フランスは、微妙な立場に立つこととなった。 日英同盟では、「一方の国が第三国と交戦した場合、もう一方の国は中立を守る。そして、他国が敵国に加担した場合は、日英が共同して戦う。」こととなっていた。したがって、フランスが日露戦争に参戦した場合、イギリスはフランス・ロシアと戦わなければならないのであるが、イギリスはヨーロッパで開戦する意思はなかった。そのため、フランスとの交渉を続け、1904年4月8日に「植民地問題に関する協定条約」の調印を行った。これは、イギリスとフランスとの植民地問題に終止符を打つものであるが、実質的には両国の友好関係を樹立するものであった。フランスにとっては、ロシアが東アジアへ大きな努力をそそぐことによりドイツに対する露仏同盟の威力が減ずるため、イギリスとの接近が有効であると考えられた。 このイギリスとフランスの接近によって、日露戦争がヨーロッパへ拡大することはなくなった。 日本とロシアの会戦は、日本軍が1905年1月に旅順要塞を落とし、1905年3月に奉天(ほうてん。現在の瀋陽)を奪還した後、戦線は膠着状態となった。ロシア軍はバルチィック艦隊の応援を待ってハルビンでの決戦を計画するが、バルチィック艦隊は1905年5月の日本海海戦で大敗を喫する。 一方、ロシアの国内では戦争による生活難の増大や日露戦争でのうち続く敗北を契機に、1905年1月22日に民衆の示威行為が行われたが、3000人以上の死傷者を出して弾圧され「血の日曜日」事件と呼ばれた。その後もストライキが頻発し、10月30日に皇帝が国会の開設を約束するまで政情不安が続いた(第一次ロシア革命)。 フランスは、奉天会戦の後、日本に対して「領土の割譲と賠償金なし」を条件としてロシアとの講和を斡旋するとの申し入れを行ったが、日本政府はこれを拒否した。 日本海海戦の後、日本政府は、アメリカの大統領セオドア・ルーズベルトに対して、「大統領の発意によって、日露両国の直接会談を勧めてくれるよう」に正式に依頼し、アメリカの軍港ポーツマスでの講和会議が実現する運びとなった。本会議は1905年8月10日からはじまり、1905年9月5日に講和条約が調印された。 その内容は、 ・韓国における日本の特殊地位の承認 ・関東州(旅順・大連など)の租借権と長春以南の南満州鉄道の日本への譲渡 ・樺太(サハリン)南半の日本への割譲 であり、賠償金の支払いはなかった。 【日比谷焼打事件】 日本が賠償金と北樺太の割譲要求などを放棄して条約を締結したため、日本の新聞各紙が条約締結に反対し、国民の不満も高まった。 9月3日に大阪市公会堂をはじめとする全国各地で集会が開かれた。 9月5日には、警察の禁止を押し切って東京の日比谷公園で国民集会が開かれ、その後、首相官邸・政府系の国民新聞社・米国公使館・キリスト教会などに押しかけ、市街地に繰り出して投石・乱闘・破壊を繰り返した。内務大臣官邸(政府高官の邸宅?)・交番・電車などを焼き払った。 政府は翌9月6日に戒厳令を発した。戒厳令廃止は11月29日。 この騒動による死者は17名、負傷者500名以上、検挙者2000名以上(うち有罪87名)。 なお、神戸(9月7日)、横浜(9月12日)でも暴動が起こった。 日比谷焼打事件 - Wikipedia 【ハリマン事件】 10月12日、首相の桂太郎とアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンが会談し、南満州鉄道の経営に関する覚書に合意した。南満州鉄道を日米で共同経営する構想で、元老の井上馨や財界の渋沢栄一も賛成していた。 しかし、日露講和会議から戻った小村寿太郎はこれに猛反発し、この覚書は破棄された。 これを機に日米の対立が深まっていった、とみる説がある。 ヘブライの館2 THE HEXAGON ≫ WAR研究室 ≫ 大東亜戦争の舞台裏 ≫ 「日露戦争」と「日米対立」と「日中戦争」の舞台裏 の「■■第4章:「日露戦争」でユダヤ資本から「恩」を受けながら、満州の共同経営の約束を破った日本 〜 「ハリマン事件」の実態」の項 〜必見。日露戦争とユダヤの金融資本の観点から日米関係を見ています。 【ノーベル平和賞】 セオドア・ルーズベルト米大統領は、この条約を仲介した功績が評価されて、1906年にノーベル平和賞を受賞した。 【日露戦争後の国際情勢】 東アジアへの進出を押さえられたロシアは、その後、バルカン方面への進出に転じ、ドイツ・オーストリア(注:これまで「オーストラリア」と誤記していました。訂正します(2013年5月25日)。)と対立する。 賠償金を得ることのできなかった日本は、フランスを中心とするヨーロッパの金融市場で公債を発行して資金を調達し、南満州鉄道をはじめとする大陸での経営を進めた。 ヨーロッパでは、イギリスと協商関係にはいったフランスは露仏同盟と英仏協商を結びつけるためイギリスとロシアの接近を働きかける。イギリスも、日露戦争に敗れ国内に混乱を生じているロシアの脅威は薄れ、むしろドイツへ対抗するためロシアと結ぶことを有利と考えるようになったが、そのためには同盟を結んでいる日本がロシアと融和を図ることが必要であった。このような情勢のなかで、1907年6月に日仏協商が成立、同年7月に日露協商が成立、同年8月に英露協商が成立と、立て続けに成立し、イギリス・フランス・ロシア・日本の4か国が、強く結びついていった。 【参考ページ】 1902年 日英同盟の締結 1904年 日露戦争(〜1905) 1905年 ポーツマス条約(日露講和) 〜このページ 1905年 日米間でハリマン事件(南満州鉄道の経営権問題) 1907年 アメリカ大西洋艦隊の世界一周(〜1909)(リンクのみ) 1931年 柳条湖事件(満州事変へ) 朝鮮の状況 1864年 朝鮮で大院君が政権を掌握 1873年 朝鮮で閔氏が政権を掌握 1876年 日朝修好条規の締結 1882年 朝鮮で壬午軍乱 1884年 朝鮮で甲申政変 1894年 朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱) 1894年 日清戦争(〜1895) 1895年 三国干渉 1895年 朝鮮で閔妃殺害事件(乙未事変) 1904年 日露戦争(〜1905) 1905年 ポーツマス条約(日露講和) 〜このページ 1909年 伊藤博文がハルビンで暗殺される 1910年 日本が韓国を併合 1919年 朝鮮で三・一運動 「李氏朝鮮末期の社会」に関する資料集 私の思うところ ≫ 反日宣伝(プロパガンダ)に関するリンク集 参考文献 「世界の歴史21 帝国主義の開幕」中山治一著、河出文庫、1990年 「20世紀全記録」講談社、1987年 日比谷焼打事件 - Wikipedia ポーツマス条約 - Wikipedia ヘブライの館2 THE HEXAGON ≫ WAR研究室 ≫ 大東亜戦争の舞台裏 ≫ 「日露戦争」と「日米対立」と「日中戦争」の舞台裏 の「■■第4章:「日露戦争」でユダヤ資本から「恩」を受けながら、満州の共同経営の約束を破った日本 〜 「ハリマン事件」の実態」の項 〜必見。日露戦争とユダヤの金融資本の観点から日米関係を見ています。 「教養人の日本史(4) 江戸末期から明治時代まで」池田敬正、佐々木隆爾著、社会思想社 教養文庫、1967年 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 更新 2013/12/16 |