1931年 柳条湖事件(満州事変へ)日露戦争によって日本が獲得した旅順・大連地域の日本租借地が、関東州と呼ばれていた。満州事変より前の時点では、日本の関東軍は、この関東州の守備と南満州鉄道附属地の警備を行っていた(出典: 張作霖 - Wikipedia および 張学良 - Wikipedia )。なお、関東軍は中国との条約に基づき派遣された部隊で、事変当時の軍司令部は旅順にあった(出典:石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」 p103 )。したがって、満州事変が起きた時には、関東軍の守備地域は遼東半島の先端部分だけの比較的狭い地域であって、奉天(現在の瀋陽)も含まれていなかった。奉天などは、南満州鉄道に関係する附属地に留まっていた。 当時の満州は、張学良の率いる奉天軍閥が支配していた。張学良は、1928年(昭和3年)に父の張作霖が爆殺(注:関東軍参謀の河本大佐の策略とする説と、ソ連特務機関の犯行とする説がある。)されると、その跡を継いで奉天軍閥を掌握するとともに、南京を首都とする蒋介石に服従する意思を明らかにした。(出典: 関東州 - Wikipedia および 関東軍 - Wikipedia )また、張学良は、1929年1月に、日本側と接触の多かった実力者である楊宇霆・常陰槐を逮捕・処刑している(出典:角田順編『《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策篇―』所収の「解題 石原の軍事的構想とその運命(角田順)」p510 および 楊宇霆 - Wikipedia 、 常蔭槐 - Wikipedia )。 蒋介石政権に従った張学良は、蒋介石の「失権失地回復」政策に則って、@南満州鉄道経営への圧迫(注:満鉄と競合する路線の建設など。)、A日本人・朝鮮人居留民への圧迫、B満鉄付属地の経済封鎖を行った(出典:石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」 p99-102 )。また、張学良の抗日政策と並行して、激しい排日運動がまず学生層から再燃し始めた(出典:角田順編『《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策篇―』所収の「解題 石原の軍事的構想とその運命(角田順)」p510 )。 一方、張学良は奉天軍閥の軍費を賄うために満州の住民に重税を課した。治安状況は悪化し、馬賊が横行、官吏・裁判官の腐敗が横行し、行き倒れる者も多く、庶民から反発を受けていた。(出典:石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」 p99-102 ) 『満州事変が始まる頃、満州にはおよそ三千万人の人びとが住んでいた。その大部分は中国本土から移住した漢民族であったが、この外、満州族、蒙古族、朝鮮族、白系ロシヤ人、日本人が混住していた。日本人は約二十三万人で南満州鉄道沿線および関東州に主として集中していた。』(引用:石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」 p99 ) 日本再生研究会SC 海外在住の日本人からの発言 ≫ カール・カワカミの 『支那大陸の真相』、その(1) 同 その(2) 〜特に(1)の後半部分 電脳日本の歴史研究会 ≫ 昭和史の真実 ≫ 満州事変・支那事変・日米戦争 ≫ 満州事変の原因 満蒙問題 - Wikipedia YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第83回 第83回:いかに満人は消去され、蒙古人は放逐され、朝鮮人は搾取されたか 重要・必見 こうした満州の状況に対して、当時の関東軍の幹部ら(注:その理論的主柱は石原莞爾であったようである。)は、日本が満州を統治することによって、@ソ連の満州侵入への防備、A日本の権益等の保護、B満州に住む諸民族のための善政などを確立すべき、と考えるようになり、軍事作戦の計画も研究していた。張学良の政治に反発する中国人等の協力者も多かったようである。(出典:角田順編『《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策篇―』収録の「満蒙問題私見(石原莞爾)」p76-79、同「満蒙問題解決策案(関東軍参謀部)」p85、同「満洲建国前夜の心境(石原莞爾)」p90-92、同「東亜聯盟(石原莞爾)」p507-508、など) 1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分ころ、中国遼寧省の奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)(注:柳条溝としている文献もある。当初、柳条溝と報道されたらしい。)で、南満州鉄道の線路が爆破された。(柳条湖事件) 現在の瀋陽の地図 柳条湖は奉天駅の北東約 7.5Kmにあり、近くには中国軍の兵営「北大営」があった。爆破による被害は線路と枕木の一部で、上下線を合わせてもわずか1mたらずの軽微なものであったが、この爆発を機に日本の関東軍と中国国民党軍(張学良軍)との間で戦闘が始まり、関東軍は翌日までに奉天・長春・営口を制圧した。(注:中国軍(張学良軍)に比べて日本軍(関東軍)は少数だったようなので、張学良軍が逃げ出したのかもしれないと当サイト管理人は推測しており、今後勉強していきます。 ) 日本政府は、事件の翌日9月19日に緊急閣議を開き、南陸軍大臣は関東軍の自衛行為であると強調したが、幣原外務大臣は関東軍の謀略ではないかと追及した。閣議では、事態をこれ以上拡大しない方針が決められた。 日本政府は何も知らなかったとみられるが、陸軍中央には関東軍との接触によりこの作戦計画を知っていた者もいると思われる(注:勉強中です。)。その後、日本政府は軍の行動に引きずられていった。 |
(注:建川参謀本部作戦部長はどうだったのか、勉強中。) |
日本の関東軍や朝鮮軍(日本軍の朝鮮駐在部隊)などは、日本政府の方針を無視して、自衛のためなどと称してさらに戦線を拡大した。中国側の不抵抗主義(注)もあって、5か月後には満州のほぼ全土が関東軍の制圧下に入った。1932年3月1日には、清朝最後の皇帝溥儀を執政(元首)に据えて満州国の建国が宣言された。また、1933年5月に、日本の関東軍と中国国民政府軍との間で塘沽(たんくー)停戦協定が調印されている。 |
(注 :不抵抗主義について。 倉山満氏は、 YouTube ≫ 『国際プロパガンダの手口A』倉山満 AJER2012.11.9(2) のなかで、中国側(張学良)の不抵抗主義ではなくて、日本側の完璧な作戦計画で全戦全勝した、と語っている。 また、ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p178 に次の記述がある。 『(前略)中国東北を守っていた国民革命軍司令官張学良は、反撃しなかった。六〇年以上たってから、その理由を張学良は著者に語った――抵抗しても無駄だっただろう、と。「われわれが勝てるはずなど、ありませんでした。せいぜいが、ゲリラ戦を戦うか、あるいは無秩序な戦いを試みるくらいしかなかったのです……中国軍は、日本軍とは比べものにならぬお粗末さでした……日本軍は本当に立派でしたから……『不抵抗』が、考えうる唯一の政策だったのです」 』 この記述が真実であるとすれば、不抵抗主義というよりも、戦わずに逃げたと言う方が近いかもしれません。 ) |
後に、満州事変を主導した関東軍の幹部らはほとんど転出してしまい(注:石原莞爾は、1932年8月に転出。)、当初は満州に住む諸民族のための公平で道義的な政治を目指していたものが、日本の官僚らの利権にまみれた軍政になってしまったと、石原莞爾は批判している。また、石原莞爾は、諸民族の協調する政治を求めて「東亜聯盟」の運動を支援・指導していくようになるが、東條英機など陸軍の「統制派」と対立が深まっていったようです。 また、満州国では、関東軍の指導のもとで治安の維持と産業の開発・近代化などが行われた。日本から「満蒙開拓団」などの入植が行われたほか、大陸からの中国人の流入なども多かったようです。 柳条湖事件は、当時の日本では、中国側による爆破とみられており、その後日本軍が中国軍から攻撃を受けたことになっている。日本軍の公式記録でもそうなっており(出典:秦郁彦著「昭和史の謎を追う 上」文春文庫、1999年 )、東京裁判でも特に問題にはなっていないようである。事件当時には、中国側の抗日運動として日本の権益がしばしば攻撃されていた状況から、こう判断することは不自然ではなかったと思われる。 しかしながら、この通説は、1956年(昭和31年)(注:1955年とする説もある。)に、花谷正氏(注:花谷正氏は、柳条湖事件の時は、関東軍司令部付(奉天特務機関)であった。)の関東軍による謀略であるとする証言が発表されてひっくり返った(注:この時にはすでに、満州事変の主要な関係者は死去していた。)。これは、秦郁彦氏が花谷正氏からの聞き取りなどを基に書かれたもので、月刊誌「知性」の別冊(河出書房、昭和31年12月号)に花谷正氏の証言として「満州事変はこうして計画された」と題して発表された。この時、秦郁彦氏の名前は伏せられていた。(出典: 花谷正 - Wikipedia および 秦郁彦著「昭和史の謎を追う 上」 ) 「満州事変」に関する資料集(1) この関東軍による謀略説は、その後の戦後日本で広く知られて一般的となり、「20世紀全記録」(講談社、1987年)にも次のように記されている。 『関東軍幕僚の大佐板垣征四郎や中佐石原莞爾は、早くから「満蒙問題は満州を武力で領有することによって解決できる」としており、この日の爆破はそのきっかけを作るために、2人が独立守備隊に命じて実行させたものだった。』(引用:「20世紀全記録」(講談社、1987年)p456。太字は当サイト管理人による。) (当サイト管理人の感想:柳条湖事件のきっかけとなった線路爆破などについて、本当に関東軍の謀略であったのかもっと深く勉強していくつもりです。) 中国ではこの事件を「九一八事件」と呼んでいる。 中国では、この九一八事件こそ抗日戦争の始まりだとする主張が有力だという。 ただし、日本側では、満州事変は1933年に日中間で結ばれた塘沽停戦協定によって一段落しているとする見方であるため、1937年の蘆溝橋事件から支那事変(日中戦争)が始まったとするのが一般的となっている。 なお、次のページも参照のこと。 「満州事変」に関する資料集(1) 「満州事変」に関する資料集(2) 「満州事変」に関する資料集(3) 【満州は中国か】(注:この項目は、まだ作成途中です。) ・満州地域は、現在は中華人民共和国の領土(遼寧省・吉林省・黒竜江省・内モンゴル自治区の東部(出典: 満州 - Wikipedia))としてほぼ確定しているが、当時の状況は今とは異なる。 ・満州地域は、「万里の長城」の外側にある。 ・満州地域は、本来は清朝の支配者であった満州族の故地であって、漢民族の土地と言えるのか?このことは、チベット・東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)・内モンゴル自治区にもいえる問題である。 ・『満州事変が始まる頃、満州にはおよそ三千万人の人びとが住んでいた。その大部分は中国本土から移住した漢民族であったが、この外、満州族、蒙古族、朝鮮族、白系ロシヤ人、日本人が混住していた。日本人は約二十三万人で南満州鉄道沿線および関東州に主として集中していた。』(引用:石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」 p99 ) YouTube ≫ 『満洲って何!?@』宮脇淳子 AJER2012.4.26(5) YouTube ≫ 【宮脇淳子】未来への指標〜満洲国とは何だったのか? [桜H24/2/6] 【当時の満州の状況】 ・1928年(昭和3年)6月4日、張作霖爆殺事件。 張作霖の乗っていた列車が奉天近くの皇姑站で爆破され、張作霖は死亡した。関東軍の参謀・河本大作大佐の策略であるとの説が有力となっているが、ソ連特務機関犯行説もあるという。(出典: 張作霖 - Wikipedia) ・『張作霖が死亡すると張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、亡父の支配地域・満州を継承した。当時、蒋介石率いる北伐軍が北京に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟(青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)することを条件に満州への軍事・政治への不干渉を認めさせ、独立状態を保つことに成功する。日本は林権助を派遣して張の翻意を試みたが失敗した。ただし張は日本との決定的な対立を避け、日本を軟化させた。1929年1月には、以前より対立していた楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑し権力と地位を不動のものにした。』(引用: 張学良 - Wikipedia の「奉天軍閥」の項) ・1929年、中ソ紛争。(注:ソ連の権益をめぐって北満州で起きた中ソの軍事衝突。) 蒋介石の南京政府に従った張学良は、満洲における外国(ソ連と日本)の権益を取り戻す「失権失地回復」に取りかかった。その手始めは、まずソ連であった。 『南京政府と合流した張学良は、南京政府の第一の外交方針である失権失地回復の矛先を、まず北満のソ連権益に向けた。1929年(昭和4年)5月27日、張学良軍は共産党狩りと称して、ソ連領事館の一斉手入れを実施し、ハルピン総領事と館員30人あまりを逮捕した。7月10日には、中東鉄道全線に軍隊を配置して、ソ連人の管理局長と高級職員全員を追い出して、中国人を任命した。ソ連は国交断絶を宣告して、ソ連軍が満州に侵攻し(中東路事件)、中華民国軍を撃破して中東鉄道全部を占領した。12月22日にハバロフスク議定書が締結され、中東鉄道の経営と特別区の行政はソ連が一手ににぎるなど満州における影響力を強めた。』(引用: 満州事変 - Wikipedia の「中ソ紛争」の項) 中ソ紛争 - Wikipedia ・『張学良は富国強兵策を採り軍事、金融、教育などの近代化を進めた。彼は次第に自信を深め、1929年7月にはソビエト連邦が保持していた中東鉄路を接収したことをきっかけに武力衝突を起こし大敗した(中ソ紛争)が、国民党系軍閥らの争いに介入して勢力を伸張し河北省を制圧、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになった。』(引用: 張学良 - Wikipedia の「奉天軍閥」の項) ・蒋介石政権に服属した張学良は、蒋介石の「失権失地回復」政策を直ちに実行に移した。その日本に対する計画は、主に次の3つ。 @南満州鉄道を経営的に枯渇自滅させるための満鉄包囲鉄道計画(注:満鉄と競合する路線の建設など。) A日本人、朝鮮人を追い出すための日本人事業ならびに居住の禁止、朝鮮人農民の圧迫(注:万宝山事件もこの流れか?) B満鉄付属地の経済封鎖 これにより、満鉄の経営は悪化し、昭和5年11月以降赤字がつづき、満鉄はリストラ策の実施に追い込まれた。また、日本商店への妨害・婦女子の凌辱・暴行・学校児童の迫害などが頻繁に起こるようになった。 一方、張学良政権は大軍(約50万人)を養うために、満州の民衆に重税を課し、それでも足りなくなると奉票という名の紙幣を濫発した。治安状況は悪化し、馬賊が横行、人びとは常に生命財産の不安におびえていなければならなかった。官吏や裁判官の腐敗もはなはだしく、賄賂が日常化していた。行き倒れも多く、特に冬季には乞食の徒の街路に凍死して死屍を横たえる者が多く、夜間道を往く者は注意しないとこれにつまづいたという。張学良政権は一般民衆から深い怨みと反抗を受けていた。 (出典:石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」 p99-102 ) |
(当サイト管理人の感想:ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上・下」(土屋京子訳、講談社、2005年)を読むと、中国の軍閥割拠の時代には、どの軍閥(共産党軍も含めて)も支配地域の住民から過酷な収奪を行い、しばしば残忍な統治(逮捕・拷問・処刑・徴用・徴発・兵士の募集などを含む)を行っていたようです。張学良政権だけが、特別に過酷な政治を行っていた訳ではないようです。 ) |
・1930年、間島暴動。 朝鮮との国境に近い間島(朝鮮人の居住民が多い)で、中国共産党の支援を受けた朝鮮人独立運動勢力による武装蜂起が1年以上にわたって断続的に発生した(出典: 間島共産党暴動 - Wikipedia )(注:1920年に起きた間島事件とは別。) ・1931年6月27日、中村大尉殺害事件。 陸軍参謀中村震太郎大尉と他3名が軍用地誌調査の命を受け、大興安嶺の東側一帯(興安嶺地区立入禁止区域に指定)に農業技師と身分を詐称して調査旅行していた際、中国張学良配下の関玉衛の指揮する屯墾軍に拘束され、銃殺後に証拠隠滅のため遺体を焼き棄てられた。(出典: 中村大尉事件 - Wikipedia ) この事件によって、国内輿論は沸騰し、在満日本人たちの憤懣は日に日に募った。(出典: クリック20世紀 ≫ 1931年 ≫ 中村大尉殺害事件 ) ・1931年7月2日、万宝山事件。 満州内陸に位置する長春の北、三姓堡万宝山の朝鮮人農民を、中国人農民が水利の利害関係より襲撃した。さらに中国人と朝鮮人との両者の争いに、中国公安や止めに入った日本の警察官とも衝突した。この事件を契機に朝鮮半島で朝鮮排華事件が発生し、多くの死者重軽傷者がでた。(出典: 万宝山事件 - Wikipedia ) ・1931年9月5日、内田満鉄総裁の列車が中国兵に襲撃された事件。(出典:石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」 p110 ) ・1931年9月13日、撫順に中国兵が乱入した事件。(出典:石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」 p110 ) ・1931年9月18日、柳条湖事件。 ・その他参考情報 日本再生研究会SC 海外在住の日本人からの発言 ≫ カール・カワカミの 『支那大陸の真相』、その(1) 同 その(2) |
このサイトの「その(1)の後半部分」に、次の記述がある。孫引です。K・カール・カワカミ著「シナ大陸の真相:1931-1938」(福井雄三訳、展転社、2001年)からの要約のようです。この本の原本は英語で、1938年(昭和13年)にロンドンで出版されたらしい。 『中国の条約侵犯:1923−1927年の間に活躍したソ連の工作員からの助言によって、国民党の考えは、前にもまして非友好的になった。以下のスローガンが用いられた。「打倒外国帝国主義」「打倒外国軍国主義」「打倒不平等条約」「打倒大英帝国」「打倒日本」。幣原は中国人の発想を全く理解できなかった。中国人は、幣原外交の宥和政策を日本の弱さのあかしと捕らえ、平気で条約を破棄したり、外交通告を無視した。満州事変に至るまでに中国が侵害した日中協定のリストは、少なくとも17に及ぶ。 1.1915年の条約の南満州で日本人に与えた土地を借りる権利の遵守を拒否 2.1911年に定められた日本人の経営する石炭鉱山の石炭の輸出税を勝手に四倍に引き上げ 3.1905年の北京条約議定書に違反して、南満州鉄道に平行した鉄道の建設 4.1909年の間島に関する鉄道延長の協定の発効を拒否 5.満州の中国の鉄道で輸送される日本商品への差別。これは「九ヵ国条約」違反 6.1915年の条約を無視して、大連港の返還を要求 7.1905年の協定を無視して、日本の警備隊の鉄道沿線からの撤退を要求 8.1909年の協定を無視して、南満州鉄道沿線の日中共同鉱山事業に関する詳細規定の交渉を拒否 9.1907年の大連港に関する協定に違反して、タバコへの差別的な高輸入税の適用 10.1905年の北京条約に違反して、鉄道建設に必要な土地の南満州鉄道への売却拒否 11.1915年の協定に違反して、南満州の鉄道区域外に日本人が出ることを不可能にする秘密命令の発布 12.1909年の間島協定に違反して、朝鮮人を迫害 13.1896年の中露協定に違反して、南満州鉄道沿線区域内で、不法な税金の取立て 14.満州国と南満州鉄道の協定に違反して、タオナン・アンガンチー鉄道に日本人の採用を拒否 15.日本人が資金を出し、中国人が経営している鉄道で日本人のスタッフが協定で決められた監督権を行使することを拒否 16.撫順産出の石炭から南満州鉄道が頁岩油を製造することに抗議 17.日系資本の鉄道の売上金の着服。この売上金が平行しいて走る鉄道の建設に使用 これらによって日本人は満州地域での業務遂行に多大の不便を感じていた。その結果が、1931年9月の満州事変であった。 』 |
真実を知りたい ≫ 満州事変に至る周辺事情と問題の論文 |
このサイトに、次の記述があります。孫引します。「目撃者が語る昭和史 第3巻 満州事変」平塚征緒編集(新人物往来社)からの抜粋のようです。 『 山口重次(当時満鉄営業課員)談 「満人側の日鮮人迫害や鉄道侵害事件などが年中行事化していた。奉天鉄道事務所管内だけでも、1年間の被害は30万を越え、電話線を切られたり、線路をはがされたり、はては日本守備兵が拉致される事件までおこった。 総領事は『厳重抗議』をしたというきまり文句を繰り返すだけで、『厳重抗議』は370件もたまっていた。軍も傍観しているだけだった。だから日本人会で、青年連盟の岡田猛馬君が『関東軍は刀の抜き方を忘れたか。腰の軍刀は竹光か』と名演説をぶって全満をうならせたものだ。そして、在満邦人は、”国民外交”と称して直接行動をはじめるようになった。 』 |
電脳日本の歴史研究会 ≫ 昭和史の真実 ≫ 満州事変・支那事変・日米戦争 ≫ 満州事変の原因 満蒙問題 - Wikipedia YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第82回 第82回:満洲事変前の漢民族の満洲侵略 【関東軍による謀略説についての検討】 |
(当サイト管理人の意見:下の理由から、関東軍による謀略説については、疑って調べてみる必要があると考えるに至りました。まだ深く理解していませんので、これから勉強していきたいと思います。 @秦郁彦氏は自虐史観を持った人物で、問題のある人物であると、当サイト管理人は考えています。秦郁彦氏は、従軍慰安婦問題で吉田清治の嘘を暴いた人物ですが、おかしな主張も多いと当サイト管理人は思います。 秦郁彦 - Wikipedia A 花谷正 - Wikipedia によると、「人格面では極めて問題のある人物で、第55師団長時代は部下の将校を殴り、自決を強要することで悪評が高かった。」など評判の良くない記述がある。(花谷正氏は、柳条湖事件のとき関東軍司令部付(奉天特務機関)であった。) B石原莞爾が自分が戦犯であると語ったとする説(誤った「伝説」)の始まりとなった高木清寿氏の本(注:この本の内容が誤解されている。)が出版されたのは1954年(昭和29年)で、その後1956年(注:1955年説もある。)にこの「別冊知性」で発表されている。 C関係者である本庄繁(1945年自決)、板垣征四郎(1948年A級戦犯で絞首刑)、土肥原賢二(1948年A級戦犯で絞首刑)、石原莞爾(1949年病死)はすでに死去していた。 D中国側が主立った反論をしていない。 E軍事作戦計画と、柳条湖事件の爆破行為とを、混同させて論じられている。 ) |
○当時の日本側公式見解 当時の日本側では、中国兵による爆破とみていた。これは、当時、中国側の抗日運動として日本の権益がしばしば攻撃されていた状況から、こう判断することは不自然ではなかったと思われる。 しかしながら、この通説は、1956年(昭和31年)(注:1955年とする説もある。)に、花谷正氏の関東軍による謀略であるとする証言が発表されてひっくり返った。ただし、これは、秦郁彦氏が花谷正氏からの聞き取りなどをもとにして、「別冊 知性」(河出書房、昭和31年12月号)に「満州事変はこうして計画された」と題して掲載されたものであるが、花谷正氏の証言として発表され、秦郁彦氏の名前は伏せられていた。 日本側の公式見解について、秦郁彦著「昭和史の謎を追う 上」から引用します。 『 一九三五年に印刷された参謀本部編『満州事変史』第一巻上は、柳条湖事件の発端について次のように記している。 「昭和六年九月十八日午後十時過、支那正規兵(兵力三〜四百名)は突如柳条湖(奉天駅東北方約七粁(キロ)半)付近満鉄本線を爆破するの暴挙を敢てせり。当時虎石台(こせきだい)駐屯独立守備歩兵第二大隊第三中隊(隊長・大尉川島正)は、文官屯(ぶんかんとん)(北大営北方約四粁)付近において夜間演習中偶々(たまたま)北大営方向に当り暗夜の寂寞を破りて轟然たる爆音の起るを耳にして、北大営方向に急行(中略)南下せしが、北大営西南側に至るや俄然支那兵の射撃を受けしを以て独断北大営に向い攻撃を開始……」 北大営には満州の支配者である張学良軍の主力約一万が駐屯していたが、川島中隊につづいて関東軍の増援部隊が突入したため翌朝までに陥落、同時に奉天市街も関東軍の手に帰した。日本軍の出動は、当時奉天に滞在していた関東軍高級参謀板垣征四郎大佐が、旅順の本庄繁軍司令官に代り独断で発した命令によるものであった。 ところで、「支那正規兵による満鉄線爆破」の細部は、同じ『満州事変史』第八巻上にも「目撃者」である川島中隊の河本末守中尉一行の行動をふくめ次のように書かれている。 「陰暦七日の月は高粱(こうりゃん)に没して暗く星光淡く輝くのみ」と公式戦史には珍しい詩的な情景描写ののち「一行(河本中尉と下士官兵六人)が午後十時過、北大営西南方約八〇〇メートルの踏切付近に達せし頃、俄然後方煉瓦焼場方向に当り轟然たる一大音響を聞き、河本中尉は直ちに全員を率いて之に向い急行せしに、焼場付近の軌条接続部爆破せられあり(その後の調査で東側軌条の両端は約二四センチずつに破壊切断し断目板と共に飛散しあり。枕木二本は中央より東側全く粉砕せられ付近に散乱)」と書かれ、さらに「河本中尉は確かめる間もなく暗夜中より射撃を受け応戦せしに、六〜七人の支那正規兵北方に逃走を目撃」したので「軌条に沿って追撃に移り前進百メートル……焼場付近より猛烈な射撃を受く、兵力約三〜四百と推定……」とつづく。 河本隊が交戦中に、川島中隊主力は途中で伝令から報告を受け、南下して河本隊の戦闘に加入したとされるが、この時点以降の経過は第一巻の記述につながるので省く。 』(引用:秦郁彦著「昭和史の謎を追う 上」p63-64) ○関東軍による謀略説についての検討 戦史研究所 ≫ 戦史研究 ≫ 石原莞爾はかく語りき 1 同2 同3 同4 〜個人のサイトのようです。 このサイトによると、関東軍による謀略説については、「別冊 知性」(河出書房)の昭和三〇年一二月号に、満洲事変勃発時少佐で関東軍参謀であった花谷正が、「満州事変はこうして計画された」と題する回想を掲載したのが初めであるという。 また、 花谷正 - Wikipedia に、次の記述がある。太字は当サイト管理人による。 『 1955年(昭和30年)『満州事変はこうして計画された』(「別冊知性」 昭和30年12月号 河出書房)において秦郁彦の取材に答える形で、満州事変が関東軍の謀略であったことを証言した。なお、満州事変は自衛であるとし、関東軍による謀略を否定していた当時の関東軍指導者である本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾らは物故していた。 』 下の2つのサイトに、月刊誌『知性』別冊に掲載された「満州事変はこうして計画された」の引用文が掲載されています。 戦史研究所 ≫ オンライン資料集 ≫ 「満州事変はこうして計画された」(注:このサイトでは、1955年としています。) 田村貞雄のページ ≫ 「満州事変はこうして計画された」(注:このサイトでは、1956年としています。) この「満州事変はこうして計画された」の文章では、柳条湖事件の爆破を行った者について、次のように記述している。なお、太字は当サイト管理人によるものです。 『 爆破工作は素人にやらせると、どうしても露見し易いことから軍人を使うのが最も良いが爆破後直ちに、兵を集めて行動を開始する以上在奉天部隊の中堅幹部にはどうしても秘密を洩らさねばならぬ、そこで一人一人酒を飲ませて云いたいことを云わせ、これならと思つた人物には計画を明かして同志を固めて行つた。 即ち、川島大尉、小野大尉(何れも在奉天独立守備隊島本大隊の中隊長)小島少佐(在奉天第二十九連隊付)名倉少佐(同大隊長)三谷少佐(奉天憲兵隊)等で、補助作業には甘粕正彦予備大尉、和田勁予備中尉等が参加した。 島本大隊長には何も明かさなかつたので事件当夜は全くの寝耳に水でおどろいたらしい。』 『 島本大隊川島中隊の河本末守中尉は、鉄道線路巡察の任務で部下数名を連れて柳条溝へ向つた。北大堂の兵営を横に見ながら約八百メートルばかり南下した地点を選んで河本は自らレールに騎兵用の小型爆薬を装置して点火した。時刻は十時過ぎ、轟然たる爆発音と共に、切断されたレールと枕木が飛散した。』 (注:花谷正氏に取材して記述したのは秦郁彦氏であるらしい(出典: 花谷正 - Wikipedia )。秦郁彦氏は1932年生まれなので、当時23歳くらいである(出典: 秦郁彦 - Wikipedia)。花谷正氏は1894年生まれで、当時61歳くらい、 1957年に病に倒れ同年8月28日に病死している(出典: 花谷正 - Wikipedia )。) ○石原莞爾が自分が戦犯であると語ったとする説について 戦史研究所 ≫ 戦史研究 ≫ 石原莞爾はかく語りき 1 同2 同3 同4 〜個人のサイトのようです。 このサイトによると、石原莞爾が極東国際軍事裁判の酒田臨時法廷で「満州事変の中心である自分を戦犯としないのは腑に落ちない」との趣旨を語ったというのは誤った「伝説」であり、実際には、日本軍の謀略を否定し中国軍の攻撃に反撃したもので自衛であると一貫して主張し自分が戦犯であることを否定した、としている。この伝説の始まりは、高木清寿著「東亜の父 石原莞爾」(錦文書院、1954年(昭和29年)刊)であるという。 石原莞爾は戦後に入院しており、入院中の病院で尋問が行われたようだ。その後、山形県酒田市の酒田商工会議所で、極東国際軍事裁判の酒田臨時法廷が開かれて、ここで石原莞爾が証言した。 前掲の錦文書院から出版された本の復刻版が、「たまいらぼ」(発行者:玉井禮一郎)から出版されており、この本のp24-25に次の記述がある。これは、著者の高木清寿が石原莞爾から聞いた石原莞爾の言葉として書いたものである。 『(前略) 「判事(注:極東国際軍事裁判・酒田臨時法廷の判事)が『証人は英語を話せるか、』と尋ねた。『日本語ならチョッピリ話せる。』といってやった。(註――将軍(注:石原莞爾)は山形県生れ、山形弁)法廷には俄かにドッと笑声が起って、大へん賑やかになり、和やかになった。 裁判の冒頭に『訊問の前に何かいうことはないか』と、かならず裁判長が尋ねるのが一つの形式になっている。そこで俺はこの機会をかねてから狙っていた。この時こそ戦犯として名乗り出て、東京裁判をひっくり返してやろうと、待ちかまえていた。案の定尋ねたから、直ちに、 『ある。満州事変の中心はすべて石原である。事変終末は錦州爆撃である。この爆撃は石原の命令で行ったもので、責任は石原にある。しかるに石原が戦犯とされぬことは腑に落ちない。だから話は少々長くなるかも知れない。』 と切り出した。ところが裁判長も検事も非常に狼狽して、裁判長は、『ジェネラルは戦犯として取り調べるのではない。証人として調べるのだ。』といい、検事は『証人はそんなことをいってはいけない。証人はこちらで尋ねることを、然り、然らずだけで答えるだけでよい』と言ってあわてて石原の発言を封じた。さては逃げたなと直感した。」 』(引用:高木清寿著「東亜の父 石原莞爾」(たまいらぼ、1985年(昭和60年)刊、復刻版)p24-25。なお、元本は錦文書院で1954年(昭和29年)刊である。) |
(当サイト管理人の意見:この引用文を慎重に読めば分かるとおり、柳条湖事件の爆発が関東軍の謀略だとは一言も言っていない。日本軍の攻撃を指揮したのは自分であると言っているだけである。この発言の趣旨は、戦犯として告発された者と告発されなかった者(石原莞爾を含む)の判定がいかにいい加減かを指摘して、連合国の軍事裁判を皮肉ったものであると、当サイト管理人は考えます。 この内容がわい曲されて、「柳条湖事件の爆発が関東軍の画策であったことを、石原莞爾が自らも認めている」という趣旨の誤った形で広まっていったものと考えられます。当サイト管理人も、これまで(2013年2月)、そうした誤った認識でした。 ) 石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」(原書房、1988年)p187-188 から引用。「8 戦後の石原莞爾」門垣次郎著の部分から。少しニュアンスが変わっている。太字は当サイト管理人による。 『(前略) この記者会見のあった同じ日の午前に酒田商工会議所において軍事法廷が行われた。 最初に、「証人は英語は話せますか?」と質問があったが、石原は「英語は話せませんが日本語ならちょっぴり話せる』と山形弁まる出しで話したので法廷が爆笑したと言う、タイピストの米国女性も、このユーモアの発言に大笑いだったと言う。 その法廷にいた正に歴史の証人とも言える゙寧柱氏は酒田法廷の様子を次のように語った。 裁判長は、石原に質問した。「訊問の前に何か言うことはないか」 石原は答えた。「ある。不思議にたえないことがある。満州事変の中心はすべて自分である。事変終末の錦州爆撃にしても、軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を戦犯として連行しないのは腑に落ちない」。 責任回避する軍人が多かった時代に石原莞爾のこの言動は光っている。石原はこの時だけでなく、満州事変の時も、弾の飛びかう戦場で、イスに座って敵軍を視察している。二・二六事件の時も、反乱軍に銃を向けられても全く動じていないので、むしろ石原莞爾にとっては当然の言葉だったと言えるだろう。 (後略) 』 (当サイト管理人の意見:この引用文では、石原莞爾が東京裁判を揶揄したという趣旨ではなくて、戦争責任を認めた石原莞爾の剛胆ぶりを賞賛する趣旨に変わっている。 さらに、「不思議にたえないことがある」や「軍の満州国立案者にしても皆自分である」という句が入っているが、高木清寿著「東亜の父 石原莞爾」ではこの句は入っていない。また、極東軍事裁判所に提出された石原完爾の宣誓供述書では、「当初の軍事行動は満州建国を意図したものではない」旨を述べており、これと矛盾する。少しずつニュアンスが変わっている。 また、この本が出版されたのは1988年で、花谷正氏の「柳条湖事件は関東軍による謀略である」とする証言が「別冊 知性」(河出書房)で発表された1955年(1956年説もある)よりも後であることに、注意を喚起しておきたい。 ) |
○「柳条湖事件 日本軍犯行説を疑う」(「WiLL 2014年1月号」所収) (西尾幹二・加藤康男・福地惇・福井義高・柏原竜一・福井雄三 氏による討論会です。) この対談のなかから、出席者の発言(趣旨)をいくつか抜き出しておきます。 加藤康男氏 ・柳条湖事件は、コミンテルンの謀略説が出ている張作霖爆殺事件のカラクリに似ている。 ・東京裁判で、柳条湖事件への追及が徹底性を欠くのは、徹底したら日本の満州侵略が立証できなくなるからではないか。 ・爆破音はあったが、本当に爆破で線路が吹き飛んだのかどうか判断できない。 西尾幹二氏 『(前略)しかし、肝心の自白調書が一つしかない。それも秦郁彦氏という戦後の価値観、占領軍史観にこだわった二十三歳の進歩派青年が書いたものだけなんです。(後略)』 福井義高氏 ・孫引きを除いていくと、元の資料は2つしかない。『知性』の「満州事変はこうして計画された」と、『昭和史を縦走する』で、どちらも秦郁彦氏が書いたものである。 ・『知性』の「満州事変はこうして計画された」では、花谷が「被害を与えないようにせねばならぬ」と証言したことになっているが、『昭和史を縦走する』での見津と今野の証言では、河本が「列車を今からひっくり返す」と告げたとしている。矛盾がある。 柏原竜一氏 ・当時、コミンテルンやGRU(旧ソ連国防省参謀本部情報部)など、さまざまな策動があった。 ・秦郁彦氏の書いた「昭和史を縦走する」(グラフ社)(注:秦郁彦著「昭和史を縦走する―柳条溝事件から教科書問題まで」(グラフ社、1984年)と思われる。)に、見津(みつ)実上等兵と今野]五郎(こんのいなごろう)上等兵の証言が書かれていることを示して、その概要を述べたあとに、柏原竜一氏は次のように述べている。 『 これが花谷論文の他にもっともらしく証拠として述べられている文であり、信用するとするならば、九月十八日の事件の主犯は爆発を直接、指揮したとされる河本中尉と今田大尉であったことになります。特に今田大尉は張学良軍の次席軍事顧問というだけではなく、いったん中止になっていた計画を再び起動させた張本人です。 防諜という観点からすれば、河本中尉と今田大尉への調査は行われるべきでしたが、残念ながら行われていません。なぜ、このようなことをしたのかという事後の調査だけが行われました。 彼らがはたしてソビエト・ロシアのエージェントであったのか、あるいはエージェントに唆(そそのか)されていたのかは定かではありません。』 【関東軍の軍事作戦研究など】 ・関東軍が行っていた対ソ戦略の研究において、1929年(昭和4年)の時点では次のような結果を得ていた。 『1 現在(昭和四年)のところ、ソ連は国力が充分でないので、日ソ全面開戦はしないであろう。 2 もし将来(国力が充実して)開戦する場合、 (イ)ウラジオストック方面では守勢に立つだろう。 (ロ)黒河(注:地名?)又はハイラル方面からチチハル又はハルピンを目指し、ここで一時停止、ヨーロッパからの本隊が来るのを待つだろう。 (ハ)チチハル、ハルピンなどの平原地に敵の本隊を迎え撃つのは我方に不利であり、大兵力を集結しなければならない。 3 黒河(注:地名?)方向からくる場合、ソ連は黒竜江を渡河し、小興安嶺を越えなければいけないし、ハイラル方向からくる場合も大興安嶺を越えなければいけないので、もし関東軍が今のうちに北満の要所を抑えておけば、満州は非常に守り易いところになる。(なお、当時関東軍は長春以北には駐兵していなかった) 』(引用:石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」 p103-104 ) ・満州事変の発生後 1931年9月22日、「満蒙問題解決策案」を採択。(注:この文章は、 「満州事変」に関する資料集(1) のページの「満蒙問題解決策案」に引用しておきました。) 1931年10月21日、「満蒙共和国統治大綱」 1931年11月7日、「満蒙自由国設立大綱」 (出典:石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」 p113-114 ) 【関東軍への協力者の動き】 1931年9月28日、吉林省の熙洽が 1931年9月28日、ハルピンの張景恵が独立宣言。 1931年10月1日、洮南の張海鵬が独立宣言。 1931年10月3日、蒙古独立軍が編成に着手。 1931年10月5日、東辺道の于芷山が独立宣言。 (出典:石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」 p114 ) (注;当サイト管理人が勝手に「中国からの」独立宣言と解釈したのですが、慎重に判断する必要がありそうです。当時の状況からすると、蒋介石政権もしくは張学良政権からの独立宣言かもしれません。) 【蒋介石 と 毛沢東 の状況】 ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p177-179 によると、次のとおり。 柳条湖事件が起こったとき、蒋介石軍は30万の大軍で共産党の毛沢東軍を江西省の山の中で崩壊の危機に瀕するところまで追い込んでいた。このときの毛沢東はまだ共産党のトップにはなっておらず、軍を率いて戦っていた。 『蒋介石は張学良と同じく武力による抵抗は無意味だと考え、日本に宣戦布告しなかった。蒋介石の作戦は、中国の途方もない広さと人口と険しい地勢を武器に時間を稼ぐことだった。中国全土を占領して軍隊を駐留させることなど日本には不可能、とわかっていたからである。当面の措置として、蒋介石は国際連盟に介入を求めた。そして、軍隊を近代化し、経済を発展させ、勝ち目が出てきたところで日本と戦う、という長期計画をたてた。』(引用:ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p179 ) 蒋介石は、共産勢力との戦いを一時停止することに決定し、抗日統一戦線を提案したが、共産勢力はこれをはねつけた。中国共産党のスローガンは「打倒国民党」と「反対日本帝国主義」で、国民党を主要な敵と考え、ソ連を擁護する方針であった。蒋介石軍は江西省の交戦地帯から国民党軍を引き揚げた。 『 その後、歴史は完全に改竄(かいざん)され、現在では、愛国的で抗日に熱心だったのは国民党よりも中国共産党のほうである、ということになっている。「統一戦線」や「一致対外」を提案したのも、国民党ではなく中国共産党であった、ということになっている。これらはすべて真実の歴史ではない。』(引用:ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p179 ) 【柳条湖事件以降の日本の軍事行動など】 『 満州事変はわずかに一万余の劣勢な関東軍をもって二二万に達する中国の大軍と戦い、しかも至短間に満州国という大国家の独立をみて、史上比類なき成果を納めた決戦戦争であった。』(引用:高木清寿著「東亜の父 石原莞爾」(たまいらぼ、1985年)p51-52) ただし、石原完爾は満州国の建国には当初は賛成していなかったようですが(注:日本が直接統治してその下に諸民族(中蒙鮮露日)が共同して政治にたずさわるという形を考えていたかもしれません。確認中です。)、後には賛同したようです。彼が考えていたのは、満州地域における治安の維持(特に抗日活動の抑止と日本権益の保護)とソ連の満州進出に対する防御にあったと、当サイト管理人は考えています。極東軍事裁判所に提出された石原完爾の宣誓供述書に、次の記述があります。 『(前略) 併し勿論対ソ防衛の確立であってこれを基地として対ソ攻勢を企図するということはなかったのであります。換言すれば満州の有利なる戦略態勢を活用して日支共同、ソ連の南下を断念さす、また外交交渉に無言の支援を与えんとするに外ならなかったのであります。満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として東北軍閥崩壊の後に創建せられたもので、我が軍事行動は契機とはなりましたが断じて建国を目的とし若しくは之を手段として行ったものでなかったのであります。』(引用:高木清寿著「東亜の父 石原莞爾」(たまいらぼ、1985年)p44) 錦州の爆撃 1931年10月8日午後2時ころ、奉天を失った張学良政権が移転していた錦州に対して、日本の関東軍の爆撃機12機が爆撃を行い、中国軍兵舎などを破壊した。 日本政府の南陸軍大臣は若槻総理大臣に「中国軍の対空砲火を受けたためとったやむをえない自衛行為」と報告したが、関東軍は「張学良は錦州に多数の兵力を結集しており、放置すれば日本の権益が崩壊する恐れが強い。満蒙問題解決のため、錦州政権を速やかに駆逐する必要がある」と公式発表した。 これにより、日本軍の軍事行動が拡大し、日本政府も引きずられていく。 桜会のクーデター未遂(十月事件) 満州事変に呼応して、橋本欣五郎中佐らが、軍部内閣の樹立を目指して日本でのクーデターを計画したが、1931年10月17日早朝に12人の幹部将校が検束され、未遂に終わった。 この事件は、政府に対する恫喝として作用し、満州事変不拡大の方針がくずれていった。 「桜会」は日本の陸軍省や参謀本部の少壮将校らが国家改造の断行を目的に結成した陸軍将校の結社で、1931年3月にもクーデターを計画して宇垣陸軍大臣によって中止を命じられるという事件を起こしていた。 十月事件 - Wikipedia 清朝最後の皇帝宣統帝溥儀 満州事変以後、国際世論の対日批判が強まり、日本の軍内部では、満蒙を一挙に武力占領するか傀儡政権を建てるか意見が分かれたが、傀儡政権を建設することとなり、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀に白羽の矢がたった。 土肥原健二大佐が説得にあたり、溥儀は清朝復興を条件に同意した。11月10日天津の自宅を出て、13日営口に到着。旅順で日本軍の監視下に入った。 上海で日本軍と中国軍が衝突(第一次上海事変) 1932年1月28日、上海で日本軍と中国軍が衝突し、激しい市街戦がはじまった。 事件の発端は、1月18日、日本人僧侶5人が青竜刀を持った数十人の中国人に襲われ死傷した事件で、これは板垣征四郎大佐らが、満州国樹立工作から諸外国の目をそらすために仕組んだものであった。(注) しかし、これをきっかけに、上海の日本人居留民は日本海軍陸戦隊の派遣を依頼する一方、自衛団を結成し投石などを行なった。日本海軍陸戦隊1800人が出動した一方、中国第十九路軍とこれに中国の学生・市民が加わって市街戦となり、長期化した。日本の犬養内閣は2月2日に部隊の増援を決定したが事態は収拾せず、列強諸国の調停により5月5日に停戦協定が成立した。 日本軍の戦死者769人、負傷者2,322人。 第一次上海事変 - Wikipedia |
(注:このページ上部の「当サイト管理人の感想」に記したように、柳条湖事件が日本軍の謀略であるという説に疑問の余地があると考えるに至りましたので、この第一次上海事変についても日本軍の工作であるという説を確認する必要があると現在(2013年2月6日)は考えています。 ) |
スティムソン・ドクトリン アメリカの国務長官スティムソンは、1932年1月7日、「日本の満州侵略による中国の領土・行政権保全の侵害と、パリ不戦条約(1928年)に違反する一切の取り決めを認めない」とするスティムソン・ドクトリンを発表し、日本と中国へ通告した。 イギリスなどのヨーロッパ諸国は消極的に賛成した。 中国は日本の非を訴えて回答したが、日本はこの宣言には認識不足があるとして拒絶した。 【満州国の建国】 1932年3月1日、東北行政委員会委員長張景恵の公館において、満州国の建国が宣言された。 国首にあたる執政には、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀が就き、首都は新京(現在の長春)、元号は大同とされた。 3月9日には、溥儀の執政就任式が新京で行なわれた。 日本の犬養内閣は、「満蒙は中国本部の政権から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次、国家としての実質を具えるよう誘導する」という、「満州問題処理方針要綱」を3月12日に閣議決定した。 1932年9月に日本と満州国の間で「日満議定書」が締結され、日本の既得権益の承認と、国防を日本の関東軍に委ねることが明記された。独立国家とは程遠い傀儡政権であった。 現在の長春の地図 『 昭和七年八月八日、陸軍の定期異動が発令され、本庄軍司令官以下ほとんどすべての幕僚が関東軍を去った。新軍司令官には武藤大将が、参謀長には小磯中将が任ぜられた。この時点で、満州国をして日中両民族結合の楔たらしめんとした石原莞爾の願いは消滅した。 権益主義者武藤大将以下、関東軍の新幕僚は“王道楽土”“民族協和”の歴史的意義を理解することができず、満州国の傀儡化につき進んだ。満州国政府は関東軍司令官の決裁を得なければ何事もできなかった。』(引用:石原莞爾生誕百年祭実行委員会編「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」 p116-117 ) 【日本政府の状況】 満州事変より以前の政府では、幣原喜重郎に代表される「英米追随・国際協調」を旨とする穏健な外交が行われていたが、田中義一内閣になると、「日本の自主独立・大陸権益の確保」をかかげる強硬政策に変わった。「東方会議」を主催し大陸権益の自衛方針や、満蒙の分離独立まで視野にいれていた。これらの活動を主導していたのは外務政務次官(当時)の森恪であった。 森恪は、何度か満州の視察に出かけているが、満州事変の1か月前にも満州を訪れ、関東軍の関係者とも会っている。満州事変との関連を疑われているが、はっきりしていない。 関東軍の専断によって起こった満州事変後は、日本政府が軍部に引きずられていくかたちになっていった。 【LINK】 満蒙問題 満蒙問題 - Wikipedia 日本再生研究会SC 海外在住の日本人からの発言 ≫ カール・カワカミの 『支那大陸の真相』、その(1) 同 その(2) 真実を知りたい ≫ 満州事変に至る周辺事情と問題の論文 電脳日本の歴史研究会 ≫ 昭和史の真実 ≫ 満州事変・支那事変・日米戦争 ≫ 満州事変の原因 Yahoo!知恵袋 ≫ 満州事変(柳条湖事件)は侵略ではありません YouTube ≫ 満州事変の近因 YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第65回 第65回:長與善郎「少年満洲讀本」その一 YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第76回 第76回:現実家 長野朗が見た 理想郷・満洲の矛盾 YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第82回 第82回:満洲事変前の漢民族の満洲侵略 YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第83回 第83回:いかに満人は消去され、蒙古人は放逐され、朝鮮人は搾取されたか 重要・必見 アメリカと満州 ワシントン会議 (1922年) - Wikipedia 九カ国条約 - Wikipedia YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第62回 第62回:戦争の原因は対支経済野望だった YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第112回 第112回:満洲事欒とは何か「大東亜戦争調査会」叢書11 重要 YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第113回 第113回:國際聯盟とは何だったのか「大東亜戦争調査会」叢書12 重要 満州事変 戦史研究所 ≫ 戦史研究 ≫ 石原莞爾はかく語りき 1 同2 同3 同4 〜個人のサイトのようです。 戦史研究所 ≫ オンライン資料集 ≫ 満州事変はこうして計画された ・・・当時関東軍参謀であった花谷正 氏の証言。 田村貞雄のページ ≫ 満州事変はこうして計画された 〜花谷正(当時少佐・関東軍参謀)『別冊 知性』特集「秘められた昭和史」1956年12月号 河出書房新社(40〜50ページ)からの引用文が記載されています。 十月事件 - Wikipedia 第一次上海事変 - Wikipedia クリック20世紀 ≫ 柳条湖事件(満州事変勃発) テーマはお宝「あれそれこれ博覧会」 ≫ あやしい調査団・満洲どよよん紀行 ・・・豊富な写真や図で、くわしく記載されています。 加藤文明社 ≫ 20世紀 映像コレクション ≫ 映像サンプル 1930〜1935年 朝日新聞 ≫ 朝日新聞 教育 ≫ 新世紀特集:ルックバック20世紀 ≫ 満州事変 中国情報局 ≫ 中国外交部:満州事変70周年の談話を発表(注:2001/09/19の記事) YouTube ≫ 【倉山満】満洲事変は「国際法違反」と言われたら?[桜H22/2/11] 国際法違反ではないと主張しているようです。 YouTube ≫ 『国際プロパガンダの手口@』倉山満 AJER2012.11.9(1) 同A YouTube ≫ 第10週4話満洲事変〜日本が一方的に侵略?【CGS倉山満】 BIGLOBEなんでも相談室 ≫ 満州事変について 花うさぎの「世界は腹黒い」 ≫ 櫻井よしこが語る満州事変 満州事変は日本侵略の出発点などでは断じてない 日本政策研究センター ≫ アーカイブス ≫ パール判事は満州事変をどう見たか(日本政策研究センター研究員 小坂実) 蜃気楼報國堂 ≫ ココが変だよ歴史の資料集 〜満州事変〜 YouTube ≫ 特別番組「講義満洲事変」宮田昌明 倉山満【4月1日配信・チャンネルくらら】 重要 満州 YouTube ≫ 『満洲って何!?@』宮脇淳子 AJER2012.4.26(5) YouTube ≫ 【宮脇淳子】未来への指標〜満洲国とは何だったのか? [桜H24/2/6] みに・ミーの部屋 ≫ 歴史資料館 ≫ 満洲写真館 石原莞爾 石原莞爾 - Wikipedia クリック20世紀 ≫ 石原 莞爾 ようこそDr.町田のホームページへ ≫ マイエッセイのページ ≫ 石原莞爾再考 青空文庫 ≫ 作家別作品リスト:石原 莞爾 ≫ 石原莞爾 最終戦争論 青空文庫 ≫ 作家別作品リスト:石原 莞爾 ≫ 石原莞爾 新日本の進路 石原莞爾將軍の遺書 青空文庫 ≫ 作家別作品リスト:石原 莞爾 ≫ 石原莞爾 戦争史大観 庄内釣人倶楽部 ≫ 石原莞爾将軍墓所 リットン調査団 リットン調査団 - Wikipedia 15年戦争資料 @wiki ≫ 満州事変庫 ≫ リットン調査団報告書 Yahoo!知恵袋 ≫ リットン調査団の報告書の概要について教えて下さい ねずさんの ひとりごと ≫ リットン調査団の虚構 かつて日本は美しかった ≫ リットン調査団 考察NIPPON ≫ リットン報告書 歴史の時間 ≫ リットン調査団の報告書 YouTube ≫ 特別番組「リットン報告書と国際連盟脱退」歴史学者 宮田昌明 倉山満【チャンネルくらら・7月9日配信】 重要 欧米(国際連盟)の方針 YouTube ≫ 【GHQ焚書図書開封】西尾幹二全集刊行記念講演会1[桜H26/1/8] 第143回:大東亜戦争の文明論的意義を考える−父祖の視座から 日本による満州開発 (注:当時の満洲国の首都であった「新京」は、現在は吉林省の「長春」です。また、「奉天」は、現在は遼寧省の「瀋陽」です。) YouTube ≫ The capital of Manchuria 1/2 満州国国都、新京《前編》 同2/2 同《後編》 YouTube ≫ 満州国・奉天《前編》The largest city in Manchuria 1/2 同《後編》 同2/2 YouTube ≫ 満蒙開拓団のくらし YouTube ≫ MANCHUKUO THE NEWBORN EMPIRE - Manchukuo Japanese China Propa... YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第65回 第65回:長與善郎「少年満洲讀本」その一 YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第66回 第66回:長與善郎「少年滿洲讀本」その二 YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第67回 第67回:長與善郎「少年滿洲讀本」その三 U-1速報 ≫ 記念Suica騒動で中国人が『東京駅に隠された秘密』に気づき話題に。日本と中国の過去の関係が浮上(2014年12月23日付) 保守速報 ≫ 【悲報】中国メディアが異例の称賛「日本が『旧満州国』で米を大増産した!日本米は極めて美味しい!戦後の発展も日本人のおかげ」(2015年5月5日付) 南満州鉄道 南満州鉄道 - Wikipedia 産経ニュース ≫ 【戦後70年】 中国に現存する幻の超特急「あじあ」の返還かなわず…「満鉄会」が来年3月解散へ(2015年12月28日付の記事) あじあ (列車) - Wikipedia 【参考ページ】 1905年 日米間でハリマン事件(南満州鉄道の経営権問題) 1921年 ワシントン会議(〜1922)(四カ国条約、九カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約)(注:リンクのみ) 1928年 中国(満州)で張作霖爆殺事件(注:リンクのみ) 1931年 柳条湖事件(満州事変へ) 〜このページ 「満州事変」に関する資料集(1) 「満州事変」に関する資料集(2) 「満州事変」に関する資料集(3) 1936年 中国で西安事件(第2次国共合作へ。蒋介石とスターリンが提携へ。) 1937年 廬溝橋事件(支那事変へ) 「支那事変」に関する資料集(1) 「支那事変」に関する資料集(2) 「支那事変」に関する資料集(3) 「支那事変」に関する資料集(4) 参考文献 「《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策篇―」角田順 編、原書房、1967年 「東亜の父 石原莞爾」高木清寿著、たまいらぼ(発行者:玉井禮一郎)、1985年(注:この本は復刻版で、元本は錦文書院1954年。) 「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」石原莞爾生誕百年祭実行委員会編、原書房、1988年 「柳条湖事件 日本軍犯行説を疑う」(「WiLL 2014年1月号」所収)〜西尾幹二・加藤康男・福地惇・福井義高・柏原竜一・福井雄三 氏による討論会です。 「史料 日本近現代史U 大日本帝国の軌跡 ――大正デモクラシー〜敗戦」歴史科学協議会 中村尚美・君島和彦・平田哲夫 編、三省堂、1985年 「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上・下」ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著、土屋京子訳、講談社、2005年 |
ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p301 (張作霖暗殺についての注釈部分) から引用。張作霖暗殺はソ連の仕業だったと書いている。 『★張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。』 ナウム・エイチンゴン - Wikipedia 張作霖爆殺事件 - Wikipedia の「ソ連特務機関犯行説」の項 張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説 - Wikipedia アパグループ ≫ Apple Town ≫ 特別対談| ドミトリー・プロホロフ氏 | 1928年の張作霖の爆殺事件はソ連の特務機関の犯行だ この対談のなかで、プロホロフ氏は、「サルヌインだけではなく、他のソ連の工作員のエージェントも関東軍に入り込んでいました。これは事実です。」、「日本軍に属していたエージェントが、サルヌインの指令を受けて、爆弾を仕掛けたと考えられます。」などと述べている。 フリストフォル・サルヌイン - Wikipedia 南京事件−日中戦争 小さな資料集 ≫ 張作霖爆殺事件(2) ―「ソ連犯行説」をめぐって− |
YouTube ≫ 【ドミトリー・プロホロフ】張作霖爆殺事件はソ連特務機関の謀略であった[桜H21/12/7] 日本再生研究会SC 海外在住の日本人からの発言 ≫ カール・カワカミの 『支那大陸の真相』、その(1) 同 その(2) 「シナ大陸の真相 1931〜1938」K・カール・カワカミ著、福井雄三 訳、展転社、2001年(注:原著は英語で、「Japan in China」の表題で1938年(昭和13年)3月にロンドンで出版された。著者のK・カール・カワカミは、 展転社 ≫ 「シナ大陸の真相」書評 |
このサイトに、「この本は一九三八年三月、ロンドンで英文出版された日系アメリカ人・K・K・カワカミの『Japan in China』の本邦初訳である。」と書いてある。太字は当サイト管理人による。 |
真実を知りたい ≫ 満州事変に至る周辺事情と問題の論文 石原莞爾 - Wikipedia 青空文庫 ≫ 作家別作品リスト:石原 莞爾 ≫ 石原莞爾 最終戦争論 戦史研究所 ≫ 戦史研究 ≫ 石原莞爾はかく語りき 1 同2 同3 同4 〜個人のサイトのようです。 花谷正 - Wikipedia 柳条湖事件 - Wikipedia 満州事変 - Wikipedia 楊宇霆 - Wikipedia 常蔭槐 - Wikipedia 満州 - Wikipedia 中ソ紛争 - Wikipedia (注:1929年に北満州で起きた中ソの軍事衝突。) 中国情報局 ≫ 中国外交部:満州事変70周年の談話を発表(注:2001/09/19の記事) 「20世紀全記録」講談社、1987年(注:1991年に増補版が出ています。) 「クロニック世界全史」講談社、1994年 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 「近衛文麿」杉本久英著、河出書房新社、1987年 「昭和史の謎を追う 上」秦郁彦著、文春文庫、1999年(注:秦郁彦氏は自虐史観の持ち主だと当サイト管理人は考えています。) YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第83回 第83回:いかに満人は消去され、蒙古人は放逐され、朝鮮人は搾取されたか 重要・必見 更新 2019/5/23 |