1937年 廬溝橋事件 |
( 当サイト管理人の意見(現在勉強中): 廬溝橋事件での中国側の発砲は、劉少奇の指揮を受けた一隊(抗日救国学生隊?)の工作であったとする説があります。廬溝橋事件に続いて中国側が様々な事件を日本側に対して仕掛けていることを考えると、その可能性は高そうです。 また、第二次上海事変についても、張治中(中国国民党軍の京滬警備(南京上海防衛隊)司令官)による工作であったとする説があり、この説では、張治中は中国共産党の党員もしくはシンパであり中国国民党に潜り込んだ多くの隠れスパイのうちの一人だったとしています(出典:ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p340-345 )。なお、鳴霞・千代田情報研究会 著「あなたのすぐ隣にいる中国のスパイ」p121 でも、張治中が中国共産党のスパイだったと記述している。 「支那事変」に関する資料集(4) の 2つ目の引用文 もしそうだとすると、「支那事変は中国側が仕掛けた」と言えます。 1936年(廬溝橋事件の前年)に起きた西安事件(蒋介石の拉致監禁事件)を機に、中国共産党と蒋介石の中国国民党政府は、共同で日本との戦いに向かっていきました。一説に、この西安事件は張学良が中国国民党トップである蒋介石の座を狙ったクーデターで、西安事件を収拾する際にソ連のスターリンの意向によって中国共産党と中国国民党が手を結んで共同抗日に向かうことになったとし、蒋介石がソ連の意向を呑んだのは、実質的にソ連の人質となっていた息子・蒋経国の解放との交換条件だったとする主張があります(出典:ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p300-323 )。日本での通説とは異なりますが、詳細に分析・記述していて説得力があり、当サイト管理人もこの説を支持したいと思います。 1936年 中国で西安事件(第2次国共合作へ。蒋介石とスターリンが提携へ。) ソ連のスターリンの意向は、日本軍の矛先がソ連に向かわないようにすることであり、そのためには中国を十分に強くしておく必要があり、蒋介石を支持して毛沢東と提携させたうえ、西安事件の翌年には中国共産党を使って日本と中国が衝突するように工作した(劉少奇や張治中など)、と見て良いのではないかと当サイト管理人は考えます。 アメリカ(ルーズベルト)とイギリス(チャーチル)は、このソ連(スターリン)+中国国民党(蒋介石)+中国共産党(毛沢東)のグループと手を握って、反共産主義で連携していたドイツと日本を叩いた訳です。そして、最後に漁夫の利を得て(=砕氷船理論)東アジアでの覇権を獲得したのがソ連のスターリンと中国共産党であった、と言えます。日本の敗因の一つは、蒋介石を日本側に付けさせることが出来なかったことかもしれません。 ) |
1900年の北清事変の結果、中国の華北には、日本を含む11か国の兵が駐屯した。駐屯兵力については国別に定められたが、のちの辛亥革命や北伐など有事の際に各国は独自に増兵した。 1902年には、駐屯軍は射撃・野外演習を自由に行えること(ただし実弾射撃の場合は事前に通告)を交換公文で規定した。 1931年に満州事変を起こし、1932年に満州国を建国した日本は、1935年以降、中国華北の分離工作に乗り出し、やがて支那駐屯軍を増強するなど、華北に対する圧力を強めていた。 1937年(昭和12年)7月7日、中国の北平(注:現在 の北京。事件当時は北平と改称していた。)の郊外にある廬溝橋(ろこうきょう)付近で夜間演習を行なっていた日本軍が、午後10時40分ころ(注:午後11時00分ころとする資料もある。)、実弾射撃を受けた。そのときに日本兵(初年兵)1人が一時所在不明であったことが事態を大きくしたが、この日本兵は約20分後には隊へ復帰している。 誰がはじめに射撃を行なったかは、いまだに明確になっていない。 次のようないくつかの説があるが、日本軍の謀略であるとする証拠はみあたらないようである。 @中国兵によって何か(日本兵が近付いたなど)をきっかけに偶発的あるいは故意にになされたとみる説。 A中国の内戦で国民党軍との戦いに劣勢であった中国共産党が国民党軍と日本軍とを武力衝突させるために画策したのではないかという説。 B日本軍が仕組んだのではないかとする説。(注:当サイト管理人は、この説については根拠がとぼしいと思います。) 発砲事件自体はそれまでにもあった小さな事件であったが、日本兵1人が所在不明との一報を受けたことと、たびかさなる銃撃を受けたことから、日本軍はしだいに高圧的な姿勢となり、また、中国軍の抗日意識も高まっていたことから、日本軍と中国軍との本格的な戦闘となった。 7月9日、南京政府(蒋介石)は、北部への増援部隊を派遣した。(注:確認中) |
(注: 一燈照隅 ≫ 廬溝橋事件 に、「七月九日、南京政府は四個師団と戦闘機を北部へ派遣した。これらはもちろん、もう既に北支に大量に存在していた中国軍に追加されたものである。」との記述がある。その出典は、K・カール・カワカミ著「支那大陸の真相」(平成13年展転社より出版)であろうか。) |
7月9日、蒋介石は、全省の幹部を集めて、日本と戦うつもりだと演説しているという。(注:確認中) |
(注:これは、下の動画(27分06秒付近から)の水間政憲氏の発言による。 YouTube ≫ 歴史問題検証PT第2回勉強会講師:水間政憲氏「慰安婦問題等・歴史認識問題の背景と対策」 ) |
7月11日(18時24分)、日本政府は北支(中国北部(北京方面))への派兵を発表。 7月11日(20時00分(注) )、現地では停戦の合意(松井-秦徳純協定)ができた。 |
(注: 一燈照隅 ≫ 廬溝橋事件 では、午後4時に協定が結ばれたとしている。その出典は、K・カール・カワカミ著「支那大陸の真相」(平成13年展転社より出版)であろうか。) |
この事件を、日本では廬溝橋事件と呼ぶ。中国では七・七事変と呼ばれている。 中国側は前年(1936年)の西安事件(注:張学良が蒋介石を拉致監禁した事件。)を機に、それまで続いていた国民党政府と中国共産党との内戦を終結させ、共同して日本軍へ抵抗していこうという方向転換が行なわれたとみられる(第二次国共合作)。 ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p310-323 では西安事件を次のようにとらえている。西安事件の真相は、張学良がソ連と中国共産党勢力と手を結んで(毛沢東の嘘の混じったそそのかしもあった。)、国民党トップの座を狙ったクーデターであったが、ソ連のスターリンは蒋介石の失脚(殺害?)を認めず、クーデターは失敗したものの、その後の交渉により、蒋介石はソ連で実質的に人質状態となっていた息子の蒋経国(注)を返すことを条件にスターリンの望む国共合作を受け入れた。蒋介石に降伏した張学良は、その後、蒋介石の下で軟禁状態に置かれ続けた。張学良は死ぬまで、西安事件は純粋な動機で起こしたものであると語り続けた。 |
(注:蒋経国は、蒋介石の長男。弟に蒋緯国がいるが、弟は養子で血はつながっていない。父の蒋介石と対立し、中国共産党に入党。ソ連のモスクワ中山大学に留学、1927年卒業。ソビエト共産党にも正式に入党している。蒋介石が上海クーデターを起こして中国国民党と中国共産党が対立すると、スターリンよって事実上の人質とされた。シベリアにも送られている。ソ連でロシア人女性(中国名・蒋方良)と結婚した。西安事件を機にソ連より帰国(1937年3月25日)、父・蒋介石と和解し、中国国民党に入党。要職を歴任し、後に台湾で中華民国総統の座にも就いている。(出典: 蒋経国 - Wikipedia) ) |
西安事件 - Wikipedia 1936年 中国で西安事件(第2次国共合作へ。蒋介石とスターリンが提携へ。) |
(注:西安事件について。 YouTube ≫ 【GHQ焚書図書開封】加藤陽子 半藤一利 北岡伸一 徹底批判2[桜H25/1/30] この動画は、日中共同歴史研究に対する批判の動画で、次の書籍をベースに紹介されています。 西尾幹二・福地惇・柏原竜一・福井雄三著「自ら歴史を貶める日本人」徳間ポケット(新書)、2012年刊。 支那事変(日中戦争)について興味深い話が多いのですが、特に、西安事件にイギリスが係わっていた可能性があるとの主張は初耳でした。 1936年に中国で起きた西安事件(張学良が蒋介石を拉致監禁した事件)については、ソ連の関与があったであろうと一般的にみられていますが、上の動画(15分15秒付近から)で西尾幹二氏はイギリスが関与した可能性のあることを指摘している。その趣旨は以下のとおり。 1936年から始まったスペイン内戦で、ソ連が人民戦線政府を支援し、独伊が右派の反乱軍を支援した。日本は日独防共協定を結んで反ソ親独の立場を取った。イギリスはまだ態度を明確にしていなかったが、その後の第二次世界大戦においてソ連と連携している。こうした状況のなかで、イギリスはアジアにおいて、背後から西安事件を画策したのかもしれない。中共軍の討伐をしていた張学良は、英米系ユダヤ工作によってコミンテルンと秘密協定を結んだのかもしれない。イギリスはこの危機に乗じて中国の金融経済力を独占しようとしたのだと思う。西安事件以降、蒋介石は反共から第二次国共合作へ方向転換し、イギリスとソ連は中国国民党政府を支援していく。イギリスとソ連が手を組むという第二次世界大戦の構図が、西安事件の怪しげな動きのなかにある。 ) |
廬溝橋事件(7月7日に発生)については7月11日(20時00分)に現地で停戦合意したにもかかわらず、中国側は次々と事件を引き起こした。なお、中国側は、これらの事件について日本側に原因があると主張する場合が多い。 ・7月13日、大紅門事件。 北平(現在の北京)の大紅門で、日本軍のトラックが中国兵に爆破され日本兵4名が死亡した。(出典: 大紅門事件 - Wikipedia ) ・7月20日、中国軍が盧溝橋城から日本軍に射撃を加え、同時に八宝山方面にあった部隊の一部も日本軍を攻撃したため日本軍も応戦した。(出典: 廊坊事件 - Wikipedia ) ・7月25日、廊坊事件。 北平(現在の北京)と天津の中間に位置する廊坊付近で、軍用電線の修理に当たっていた日本軍部隊(第20師団麾下の歩兵第77連隊第11中隊)を中国軍が攻撃し(午後11時10分頃)、日本軍も応戦した。(注:この日本側軍用電線(天津−北平間)は、度々中国側によって切断されていた。また、この日、日本側は中国側(国民革命軍第29軍第38師第113旅第226団)と折衝をしてから修理を開始していた。) 翌26日朝、日本軍の応援部隊が到着し、日本軍による中国軍兵営への爆撃も行われ、中国軍部隊は通州街道方面に潰走した。日本側の死者4名、負傷10名。(出典: 廊坊事件 - Wikipedia ) ・7月26日、広安門事件。 中国側の承認を得て北平(現在の北京)の広安門を通過していた日本軍部隊に対して、中国軍が攻撃を行った。(出典: 広安門事件 - Wikipedia ) |
・廊坊事件と広安門事件を受けて、日本の陸軍省部は延期していた3個師団の動員実施を決定し、27日の閣議はこれを了承した。駐屯軍は7月28日に全面攻撃を開始し、翌7月29日には永定河(えいていが)以北の北平(現在の北京)・天津地区をほぼ制圧した。(出典:【GHQ焚書図書開封】加藤陽子 半藤一利 北岡伸一 徹底批判2[桜H25/1/30](23分20秒から25分30秒付近)「日中共同歴史研究」の報告書の記載内容から ) これに対して、天津で中国軍の攻撃に日本軍が応戦したと記述する資料もある。「(前略)次に二十九日支那軍の砲撃に対して遂に我が駆逐艦が応戦し又陸軍も協力して攻撃を加へた太沽(タークー)というのは天津から白河を下ること約三十七浬、恰度白河が海に入る処に当つて居つて、対岸の塘沽(タンクー)と共にいはゆる天津港の一部をなして居る。」(引用: 臣民の道 ≫ 天津と太沽、塘沽、永定河 1937.07.29 ) また、海軍省作成の記録映画「支那事変 海軍作戦記録」では、日本軍が太沽を攻撃したのは7月30日としている。(出典: YouTube ≫ 支那事変 海軍作戦記録1(3分45秒付近から) ) (注:この部分の経緯については、もっと確認が必要。) |
・7月29日、昭和天皇のお言葉。(注:当時の外務省東亜局長であった石射猪太郎の証言) 『石射によると、7月29日、昭和天皇から近衛文麿首相に「もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」との言葉があったという。』(引用: 石射猪太郎 - Wikipedia の「東亜局長時代」の項 ) ・7月29日、通州事件。 通州で、中国人部隊(冀東防共自治政府の保安隊)が日本人(居留民を含む260人?230人?。朝鮮系日本籍を含む。)をむごたらしく惨殺した。この事件により、日本の世論は激高した。 通州事件 - Wikipedia 1937年 中国で通州事件(リンクのみ) 湧いてます☆ ≫ 通州事件・まとめ 〜個人のブログ。当時の新聞記事も載っています。 ・7月30日、日本軍が太沽(注)を攻撃。(出典: YouTube ≫ 支那事変 海軍作戦記録1 ) |
(注:太沽について。 臣民の道 ≫ 天津と太沽、塘沽、永定河 1937.07.29 によると、「太沽(タークー)といふのは天津から白河を下ること約三十七浬、恰度白河が海に入る処に当つて居つて、対岸の塘沽(タンクー)と共にいはゆる天津港の一部をなして居る。」としている。 塘沽区 - Wikipedia 〜天津市の塘沽区。2010年に塘沽区・漢沽区・大港区が合併して浜海新区となった。 Google マップ ≫ 塘沽 ) |
・8月4日、船津和平工作 中国側の現地停戦協定を破った相次ぐ攻撃に対して、日本政府は外務省の石射猪太郎東亜局長が提案した解決試案を、全面国交調整案と平行して試みることになった。「その原動力は石原作戦部長(注:石原莞爾であろう。)だったと推定されているが、これに天皇も同感の意を表し、その結果、連日の陸・海・外三省首脳協議をへて、8月4日の四相会談で決定された。」「この停戦協定案は国民党側からも信頼されていた元外交官、実業家の船津振一郎を通して働きかけたため船津和平工作と呼ばれ」る。思い切った譲歩案であったが、第二次上海事変が起きて挫折した。(出典: 盧溝橋事件 - Wikipediaの 「停戦協定と和平条件」の項、および、 石射猪太郎 - Wikipedia ) 8月になると、今度は上海で事件が起きる。 8月9日夕刻、上海において、大山事件(注:大山勇夫海軍中尉(死後大尉に特進)ほか1人の殺害事件)が起き、上海での軍事的緊張が高まり、中国人・日本人の避難も始まった。中国軍と日本軍が対峙するなか、8月13日午前10時半頃(注:10時とする資料もある。)中国軍が攻撃を開始、日本軍は不拡大方針に基づいて可能な限りの交戦回避していたが、午後5時ころ日本軍が応戦を開始して第二次上海事変となり日中の全面戦争(注:お互いに宣戦布告はしていない。)に突入した。 上海での激戦(第二次上海事変)の後、首都であった南京方面へ逃れる中国軍を日本軍は急追撃し、首都である南京が陥落(1937年12月13日)した後も中国国民党政府は降服せず戦闘は泥沼化した。 YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第72回 第72回:仲小路彰の戦争への哲学 必見 〜支那事変・第二次上海事変については、34分34秒付近から YouTube ≫ 支那事変 海軍作戦記録1 同2 〜海軍省の記録映画 YouTube ≫ 日中戦争はドイツが仕組んだ 根拠が無いジョンラーべ証言1 同2 YouTube ≫ 第二次上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (1996 CNN) ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p340-345 では、第二次上海事変に至る経緯を次のように記述している。 中国国民党政府の京滬(けいこ)警備(南京上海防衛隊)司令官だった張治中は、かつて周恩来に中国共産党への入党を申し出て、周恩来は張治中に「国民党の中にとどまって「ひそかに」中国共産党と合作してほしい」と要請し、張治中は1930年代半ばごろにはソ連大使館と密接な連絡を取りあうようになっていた。 盧溝橋事件が起きると、張治中は蒋介石に対して、上海において日本軍への先制攻撃を行うよう進言したが、蒋介石は上海での戦闘開始に消極的だった。 同書p342-343 から引用します。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。 『(前略)八月九日、張治中は蔣介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである。さらに、一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。日本側が先に発砲したように見せかける工作である。日本側は事件を穏便に処理したいという意向を示したが、張治中は攻撃許可を求めて蔣介石を攻めたてた。蔣介石はこれを却下し、一三日朝、張治中に対して、「一時の衝動に駆られて」戦争の口火を切ってはならない、いま一度あらゆる局面を「検討」したうえで計画を提出するように、と命じた。翌日、張治中は、「本軍は本日午後五時をもって敵に対する攻撃を開始する決意なり。計画は次のとおり……」と、蔣介石に迫った。一四日、中国軍機が日本の旗艦「出雲」を爆撃し、さらに日本海軍陸戦隊おとび地上に駐機していた海軍航空機にも爆撃をおこなった。張治中は総攻撃を命じた。しかし、蔣介石は「今夜は攻撃をおこなってはならない。命令を待て」と、張を制した。 待てども命令が来ないのを見た張治中は、翌日、蔣介石を出し抜いて、日本の戦艦が上海を砲撃し日本軍が中国人に対する攻撃を始めた、と、虚偽の記者発表をおこなった。反日感情が高まり、蔣介石は追いつめられた。翌八月一六日、蔣介石はようやく「翌朝払暁を期して総攻撃をおこなう」と命令を出した。 一日戦闘をおこなったところで、蔣介石は一八日に攻撃中止を命じた。しかし、張治中は命令を無視して攻撃を拡大した。八月二二日に日本側が大規模な増援部隊を投入するに至って、全面戦争は避けがたいものとなった。』(引用:ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p342-343 。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。) |
(当サイト管理人による注:この「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」の記述によると、中国側の攻撃開始は、8月14日の爆撃と、8月17日からの総攻撃である。しかしながら、これは、上に記した、中国側の攻撃開始が8月13日午前10時半ころ(もしくは10時ころ)で、日本側の応戦開始が午後5時ころとする記述と異なる。どちらが正しいのか確認する必要がある。) |
・1937年11月〜1938年1月16日、トラウトマン和平工作 ドイツの仲介による和平工作で、駐華ドイツ大使オスカー・トラウトマンの名を取ってこう呼ばれる。当初日本側は船津和平工作を踏襲した和平工作を行おうとしていたが、蒋介石が回答を保留している間に南京が陥落し、日本側の条件は厳しいものに変わった。交渉は妥結せず、近衛内閣は1938年1月16日に「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず」との声明を発し、別の新興支那政権との連携を模索していく。(出典: 石射猪太郎 - Wikipediaの 「東亜局長時代」の項、および、 トラウトマン工作 - Wikipedia ) ・駐英日本大使の吉田大使(注:吉田茂と思われる。)と英国高官との間でも合意の一歩手前までいったらしいが、中国側は拒否したという。(出典:K・カール・カワカミ著「シナ大陸の真相 1931〜1938」p22 )(注:いつごろの時期だったのか、勉強中。) なお、次のページも参照のこと。 「支那事変」に関する資料集(1) 「支那事変」に関する資料集(2) 「支那事変」に関する資料集(3) 「支那事変」に関する資料集(4) 【中国共産党による謀略説】(注:この項での、引用部分の太字は、当サイト管理人によるものです。) 中国共産党謀略説は、北京大学図書館に潜っていた中国共産党北方局第一書記の劉少奇の指令によって中国軍(第29軍)内にあった活動分子が発砲したというもので、極東軍事裁判(東京裁判)のときから出ていたが、戦後に八路軍(中国共産党軍)へ身を投じた元軍人(葛西純一)による編訳「新資料・廬溝橋事件」(成祥出版社、1975年)にも書かれているという。 戦後、中国人民解放軍政治部が発行した初級革命教科書の中に、「廬溝橋事件は中国共産党北方局の工作である」と記した資料があるという。 1949年(昭和24年)10月1日、「中華人民共和国」成立のこの日、周恩来首相が、次のように発言しているという。 「あの時(廬溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ。」 中国共産党が、事件の翌日にさっそく、対日即時開戦を訴える激越なアピールを行ったことも、手際が良すぎるのではないかという見方がある。 事件当時の日本軍の「北平特務機関日誌」7月16日の記事に次のとおり記載があるという。 『 北支事変の発端に就き冀察要人の談左の如し 事変の主役は平津駐在藍衣社(注:国民党のテロ・謀略を主任務とする機関)第四総隊にして該隊は軍事部長 李杏村、社会部長 齋如山、教育部長 馬衛、新聞部長 成舎吾の組織下に更に西安事変当時西安にありし第六総隊の一部を参加せしめ常に日本軍の最頻繁に演習する廬溝橋を中心に巧みに日本軍と第29軍とを衝突せしめむと画策しあるものにして第37師は全く此の術中に陥れるものなりと。』 アパグループ ≫ 真の近現代史観 懸賞論文 ≫ アパグループ第1回「真の近現代史観」懸賞論文 受賞者発表 ≫ 日本は侵略国家であったのか 田母神俊雄 (防衛省航空幕僚長 空将) (PDFファイル) この田母神俊雄氏の論文(2ページ目)に、次の記述がある。 『(前略)しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間書店)」。』 【中国共産党の陰謀説と中国国民党の宣伝工作】 松尾一郎著 『プロパガンダ戦「南京事件」』p117-119 から引用。なお、引用文中の太字は、当サイト管理員による。 |
昭和十二(一九三七)年七月七日夜、北平(当時の北京を呼び名)から西へ約十キロの盧溝橋付近演習場で夜間演習を行なっていた日本軍に弾丸が撃ち込まれ、翌朝には日中双方が戦闘を開始するに至った。これが盧溝橋事件である。 ところで、盧溝橋からはるか奥地の延安に拠点があった中国共産党は、交戦当事者でもないのに、なぜか数時間後にタイミングよく対日抗戦宣言を行なっている。 その後、中国共産党軍は統一抗日のために八月二十二日に国民党軍に編入後、劉少奇は突然、共産党内において周恩来を飛び越え、ナンバー2の地位を確保している。 これは、劉少奇が盧溝橋事件を仕掛けた功績によるものであったことを裏づける。 中国(蒋介石率いる国民党)軍も、この盧溝橋事件が起きると同時に、即座に抗日宣伝活動を開始している。 国民党は昭和六(一九三一)年の満州事変において、対外宣伝活動や工作によって日本を国際的に孤立させ、国際干渉を誘致するノウハウを得ていたが、今回はさらにラジオを使用している点に特徴があった。 盧溝橋事件以降、日中間に起きた数々の衝突の中で、特に国民党の宣伝活動による影響を色濃く受けたのが昭和十二(一九三七)年七月二十九日に起きた通州事件であった。 盧溝橋事件後に発生した数度の日中の衝突では、戦闘において日本軍は圧倒的に優位であった。 しかし、国民党によるデマ宣伝放送を行なっていた当時の中国の首都南京にあった南京ラジオ放送局は、事実とはまったく逆の放送を流しつづけていたのである。 通州事件が起きる二日前のラジオ放送では、盧溝橋や北平周辺における戦闘は、中国軍が圧倒的に勝利しているなどといった事実と相反するウソの放送を流した後に、蒋介石軍が親日的政権のある通州に進軍し、その指導者である殷汝耕以下、冀東防共自治政府関係者を皆殺しにすることを決定したと放送したのである。 この放送を聞いた通州の自治政府保安隊は、親日的な立場から反日と転向し、中国側へと寝返ることに決め、当時、滞在していた日本人一般居留民などを約二百六十人、老人から子供までを残忍な方法で皆殺しにしたのであった。 この事件こそ、国民党による大ウソ、デマ放送宣伝による初めての成果であるといえよう。 |
【中国側のとらえ方】 中国側では、堤防陣地への兵力配置自体を認めておらず、したがって、中国側の射撃もなかったとしており、日本軍が兵一名の行方不明を理由に攻撃を開始したとしている。 次のものでは、いずれもそうした主旨で述べられているという。 ・1937年7月8日の中国側新聞「亜州新報」夕刊の記事 ・極東軍事裁判(東京裁判)での秦徳純の供述 ・蒋介石の伝記「蒋介石」 ・何応欽の「何上将の抗戦期間中における軍事報告」 ・1952年に中華民国国防部が発行した「抗戦簡史」 【日本政府・軍内の拡大派と不拡大派】 拡大派が多数で不拡大派は劣勢であったが、陸軍は表面上は不拡大に賛成した。 『統制派の軍閥がいかに拡大に理由を立てて論争しても、微塵も隙のない正しい道理と、強大な気魄と信念の石原将軍(注:石原莞爾)の前では、全く太刀打ちにはならない。そこで表面不拡大に賛成して、裏面で卑劣きわまる拡大の策動を行ったので、石原将軍はこれら面従腹背の徒に裏をかかれたのだ。面従腹背の徒とは杉山陸相であり、梅津次官であり、統制派の武藤章大佐その他の軍閥の徒輩であった。』(引用:高木清寿著「東亜の父 石原莞爾」(たまいらぼ、1985年)p133-134 ) |
(当サイト管理人による注:高木清寿は、報知新聞記者の出身で、その後石原莞爾の側近となり、石原莞爾の構想する東亜連盟の活動などにも参加していたようです。) |
高木清寿著「東亜の父 石原莞爾」(たまいらぼ、1985年)p131-135 に揚げられている、事変勃発当時の拡大派と不拡大派の人物は次のとおり。主に陸軍の状況。 ( )は当時の役職・階級です。これをベースに、わかったものを追記していきます。 拡大派(多数) 杉山元(陸軍大臣・大将)〜高木清寿は、確乎たる自己の意見はなく大勢の向くままに動く人物と評している。 梅津美治郎(陸軍次官・中将)〜高木清寿は、表面温厚な君子に見えるが陰性の策士と評し、東条英機を利用して不拡大主張の石原・多田両将軍を牽制していたとしている。 東条英機(関東軍参謀長・中将)〜統制派。当時は梅津次官派に属していた。高木清寿は、石原・多田両将軍に対し悪辣なる陰謀をたくらむ男と評している。 富永恭次(関東軍参謀・大佐)ほか数名の関東軍参謀 武藤章(参謀本部編成課長・大佐)〜統制派 田中新一(陸軍省軍事課長・大佐)〜統制派 岩畔豪雄(陸軍省兵務課高級課員・中佐)〜統制派 参謀本部、陸軍省の課長高級課員の要職を占める統制派の将校 参謀本部支那班のほとんど全部 統制派軍閥のほとんど 南次郎(朝鮮総督・大将) 小磯国昭(朝鮮軍司令官・大将) 末次信正(内務大臣・海軍大将)〜大本営と政府との連絡会議の席上で、多田参謀次長と大衝突した。(注:出典元では末次正信となっているが末次信正が正しいようです。) 和智鷹二(現地軍の参謀・中佐) 池田純久(現地軍の参謀・中佐) 不拡大派(少数) 近衛文麿(首相)〜不拡大方針を打ち出したが、近衛内閣は林銑十郎内閣崩壊後に統制派の支持を受けて成立していた。 石射猪太郎(外務省東亜局長)〜 石射猪太郎 - Wikipedia による。船津和平工作の基となる解決試案を提案した。 東久邇宮(航空本部長・大将) 多田駿(参謀次長・中将) 石原莞爾(参謀本部作戦部長(第一部長)・少将?)〜不拡大派の論理的中心 秩父宮(第一課・中佐)〜事変勃発当時はユーロッパに旅行中 今田新太郎(少佐) 堀場一雄(少佐) 高橋柳太(主計・少佐) 柴山兼四カ(陸軍省軍事課長・大佐) 影佐禎昭(支那課長・中佐)〜表面上は別として、内心は石原莞爾の論に賛同していたようである。 ? 閑院宮(参謀総長・元帥) 今村(関東軍参謀副長・少将) 【北平】 現在の北京。事件当時は北平と改称していた。 1928年(昭和3年)に、北京の張作霖を追い出して北伐に勝利した蒋介石は、国民政府の主席となり、首都を南京として北京を北平に改称した。このため、事件当時の北京は北平であった。 現在の北京の地図 【廬溝橋】 廬溝橋は、北京郊外の永定河(えいていが)にかかる橋で、北京の正陽門から南西へ約15Kmに位置する。今は、永定河の水量は激減している。 この橋は、1189年(注:1192年としている文献もある)に作られた石造りの橋で、欄干の柱頭には大小あわせて485個の獅子が彫られ、その顔はみなちがうという。元の時代にマルコポーロが訪れ「世界中どこを探しても匹敵するものはないほどのみごとな橋」と礼賛したことから、近世の欧米人からマルコポーロ橋と呼ばれるようになった。また、この橋のたもとには清朝の乾隆帝の筆になる「廬溝暁月」の碑がある。 また、この橋の近くの宛平県城には、1987年に一般に開放された「中国人民抗日戦争記念館」があり、1995年5月に日本の村山総理大臣が、2002年10月には小泉総理大臣が訪れている。 鹿島建設株式会社 ≫ 建設博物誌 ≫ 橋 ≫ 世界の橋 ≫ 廬溝橋 石九鼎の漢詩館 ≫ Room3(図書。旅遊) ≫ 中国歴史紀行 ≫ 廬溝橋 【事件当時の国際情勢】 ヨーロッパでは、1929年に経済恐慌がはじまった。 1933年にドイツでヒットラーが首相に就任し、同年国際連盟を脱退。イタリアも1937年に国際連盟を脱退している。 この事変の時期(1937年)には、国際的な関心はスペインの内戦に向けられていた。 【事件当時の中国の情勢】 1920年、安直戦争 1921年、中国共産党の設立 1922年、第一次奉直戦争 1924年、第一次国共合作 〃 第二次奉直戦争 1925年、孫文の死去 1926年、国民政府の国民革命軍が北伐を開始 1927年、国共分裂 1928年、済南事件 〃 張作霖の爆死 〃 北伐の完成 1931年、満州事変 1932年、満州国の建国 1933年、塘沽停戦協定 1935年、弊政改革 〃 冀東防共自治委員会(のちに冀東防共自治政府へ改称)の成立 〃 冀察政務委員会の設置 1936年、綏遠事件 〃 西安事件 1937年、廬溝橋事件 中国では、袁世凱の失脚後、軍閥勢力が分裂して互いに争っていた。華北では北洋軍閥が2つに分裂して安徽派(段祺瑞ら)と直隷派(馮国璋・呉佩孚ら)が対立して、1920年に安直戦争が起こったが、張作霖(満州の軍閥で段祺瑞の部下であった。)が直隷派に荷担して、直隷派が北京の政権を握った。その後、直隷派と張作霖が対立して、1922年の第一次奉直戦争では呉佩孚の直隷派が勝利するが、1924年の第二次奉直戦争では、張作霖が、旧安徽派や広東の国民派と結び、呉佩孚の部下の馮玉祥の加担も得て、勝利して、北京での覇権を握った。 一方、1917年に孫文を中心とする革命派が広東政府を樹立したが、広東軍閥のために1919年と1922年に広東を追われている。 1921年に陳独秀を中心に中国共産党が設立され、孫文の国民党は1922年以降は共産党員の国民党への加入を認め、1924年の国民党の第一回大会に共産党の代表も参加して「連ソ・容共・扶助工農」をスローガンとして軍閥と帝国主義の打倒をめざした(第一次国共合作。〜1927年)。 1925年の孫文死去後、国民政府の主席に汪兆銘が選ばれ、蒋介石を国民革命軍総司令として1926年から北伐(注:広東から北へ向かって軍閥と帝国主義を打倒していく。)を開始する。武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)・南京・上海を陥落した。漢口と九江ではイギリス租界を奪い、南京では英・日の領事館などを襲撃した(南京事件)。 広東から武漢に移った汪兆銘の国民政府(国民党左派と共産党)と蒋介石の国民党右派との抗争が表面化した。蒋介石は、共産勢力の増大をおそれる米・英・日と妥協して、1927年には共産党を弾圧(国共分裂)、浙江財閥を背景に南京に国民政府を樹立した。間もなく、武漢の国民政府も分裂し、汪兆銘の国民党左派は共産党を弾圧して、南京の国民政府に合流した。 日本は国民革命軍の北伐に備えて、在留日本人の生命・財産の保護を名目に1927年に関東軍を山東へ出兵(第一次山東出兵)させたが、北伐が山東省まで及ばず、撤兵した。1928年に北伐が再開され、国民革命軍が華北へせまると、日本は再度山東省へ派兵(第二次山東出兵)、済南で武力衝突する(済南事件)が、国民革命軍は済南を迂回して北京へ向かう。 北京にあった張作霖は、奉天(現在の瀋陽)に退却する途中に、日本軍の謀略により乗っている列車を爆破され死亡した(満州某重大事件)。国民革命軍は、ほとんど抵抗を受けることなく北京に入城した。これにより、北伐の完成を宣言し、北京は北平に改められた。張作霖の跡を継いだ子の張学良も国民政府に合流したため、満州も国民政府に統一された。北伐が完成すると、蒋介石は正式に国民政府主席に就いた。 中国共産党は、1927年に国民党から弾圧を受けてのち、労働者や農民を基礎に独自の軍隊(紅軍)をつくっていく。湖南省・湖北省・江西省・広東省で蜂起が行われ、1931年には江西省の瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府が置かれ毛沢東が主席に選ばれたが、この根拠地を国民革命軍に追われて大長征をはじめる。約一年をかけて1万2千キロを行軍し、陝西省の延安に本部を置く。 1931年に日本軍の謀略による満州事変が起こり、張学良は満州から撤退、1932年には満州国が建設された。その後、日本軍には華北の分離を画策する動きがあった。 1933年、満州の日本軍(関東軍)は、山海関事件(注:万里の長城の東端にある山海関は、満州国と中国本土の境界に位置していたが、ここで日本軍が銃撃などを受けた。初めの銃撃等は日本軍の謀略であったが、翌日には中国軍から銃撃された。)を理由に、熱河から万里の長城を越えて華北に進入し北平(現在の北京)に迫ったが、5月31日に塘沽(タンクー)停戦協定を結んで撤退した。この協定により、万里の長城以南に非武装地帯を設定することが決められ、中国本土と満州国の分離が事実上確定した。塘沽停戦協定以後の華北は、黄郛が主宰する駐平政務整理委員会と何応欽の代表する軍事委員会が協調して対日交渉に当たっていたが、1935年1月に黄郛が辞任して政権不在に近い状況にあった。 さらに、1935年、日本軍が武力を誇示して、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定を結び、諸要求を貫徹した。ただし、中国側は、自主的に日本の要求に応じたもので梅津・何応欽協定は存在しないと主張している。要求の内容は、国民政府機関・国民党部の華北からの撤退、国民革命軍の移駐、于学忠河北省主席の罷免、全国の排日禁止、チャハル省(注:現在の河北省北部と内モンゴル自治区の一部)の宋哲元軍(宋哲元はチャハル省主席であったが罷免された。)を撤退させ停戦地区に準じる、などであった。 日本軍は、こうした土台のうえに華北での自治体(国民政府から独立した傀儡政権)の樹立を画策した。しかし、豊台兵変(注:白堅武の東亜同盟自治軍が蜂起したが、豊台付近で万福麟軍に鎮圧された。)が失敗し、香河県の農民自治運動は他地域には波及せず、宋哲元などをかつぎだして自治宣言させようとする策謀も失敗する。そこで、非武装地区の督察専員の任にあった殷汝耕に冀東防共自治委員会(1か月後に冀東防共自治政府へ改称)を作らせた。宋哲元をこれに合流させようとするが、うまくいかなかった。その後、蒋介石の国民政府・宋哲元・日本軍の三者の妥協から冀察政務委員会(委員長は宋哲元)が設置された。以前の駐平政務整理委員会は華北5省(河北省・チャハル省・綏遠省・山西省・山東省)を管轄していたのに対し、冀察政務委員会は2省(河北省・チャハル省)に縮小し、しかも、河北省内でもっとも裕福な冀東地区(22県)は日本軍の傀儡政権である冀東防共自治政府の支配下にあった。冀察政務委員会は、国民党の影響下にあって、日本軍との妥協を図りながら存続した。 この間に、蒋介石の国民政府は、イギリスの借款を得て弊政改革(注:通貨の銀本位制から管理通貨制への移行)を実施、中国を経済的な統一に向かわせた。 1936年、内蒙古軍が日本軍(関東軍)の援助を受けて、綏遠(注:現在の内モンゴル自治区のフフホト(呼和浩特)。綏遠省が置かれていた。)東部へ進出したが、中国軍(傅作義の第35軍)に大敗を喫した(綏遠事件)。この事件により、中国の抗日意識が高まった。 中国共産党軍(紅軍)は、大長征ののち陝西省の延安に追い込まれ存亡の淵にあった。1936年12月12日、蒋介石は、中国東北軍を率いる張学良に、共産党への戦いを督励するために西安を訪れた。国民党と共産党が協力して日本軍に当たるべきだと考えた張学良は、西北軍を率いる楊虎城とともに、蒋介石を武力で監禁した(西安事件)。中国共産党の周恩来らの仲介により、2週間後に解放された蒋介石は張学良を伴って南京に戻り、張学良は以後拘束された。蒋介石の釈放には、ソ連の意向が反映したとみられている。 蒋介石は西安では何も約束していないと発言したが、以後共産党軍への攻撃は行われなかったし、翌1937年1月の国民党三中全会では内戦停止・抗日統一戦線の結成が改めて確認された(第二次国共合作)。 1937年7月の廬溝橋事件当時、蒋介石の国民政府はほぼ中国全体を掌握するに至っていた。満州は完全に日本の影響下にあったが、華北の冀察政務委員会は蒋介石の統率下にあったし、中国共産党軍(紅軍)との提携がなりもはや対抗勢力ではなくなった。国内の統一をほぼ成し遂げた蒋介石は、日本軍に対抗するため軍備拡充を計画していたが、日本軍の華北分離への動きや、綏遠事件での中国軍の日本軍に対する勝利は、中国の国民に抗日の気運を高めていた。 こうした状況のなかで、廬溝橋事件が勃発する。 【事件当時の日本の情勢】 1932年5月5日、五一五事件。 1936年1月13日、日本政府は第一次北支処理要綱を決定。華北5省(河北省・チャハル省・綏遠省・山西省・山東省)を中国の国民中央政府から分離させる方針などを決めた。 1936年2月26日、二二六事件。 1936年3月9日、広田内閣の成立。二二六事件後に成立した広田内閣の組閣に対する陸軍の介入ははなはだしく、閣僚の顔触れから基本国策にまで及んだ。 1936年5月18日、軍部大臣現役武官制が復活。 1936年8月7日、日本政府の五相会議(首相・外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣)で「国策の基準」が決定され、大陸・南方への進出と軍備拡充、電力統制強化、産業振興などが決められる。 1936年11月25日、日独防共協定の調印。 1937年1月29日、宇垣内閣の組閣を断念。(陸軍大臣候補が次々と辞退したため。) 1937年2月2日、林内閣の成立。 1937年6月4日、第一次近衛内閣の成立。 1937年7月7日、廬溝橋事件 廬溝橋事件の当時、日本の陸軍参謀本部支那課出身者の主流の意見は、「中国人は統一した近代国家を建設する能力に欠け、また広大な中国は数個の地域に分立するのが自然であり、それを維持・促進するのが日本の利益にかなう」とする認識であったが、中国の情勢の変化(軍閥の割拠から蒋介石による中国のほぼ統一と、中国国民の抗日意識の高まり。)をつかみ取っている人物もいた。前者を代表するのが陸軍の板垣征四郎や東条英機などであり、後者の人物は石原莞爾(注:満州事変の謀略の中心人物で陸軍参謀本部へ戻っていた。)や、佐藤尚武(注:林内閣の外務大臣を務めた。)などである。 【廬溝橋事件の経緯】(注:この項目は未完成です。) 事件当時、中国の華北に駐留する日本軍は、中国軍の面前で軍事演習を繰り返しており、中国側には緊迫した雰囲気があった。 この日7月7日も、北平近郊の豊台に駐屯していた日本陸軍のうち1個中隊(支那駐屯軍歩兵第1連隊第3大隊第8中隊。約130人。中隊長は清水節郎大尉。)が、廬溝橋(ろこうきょう)近くの永定河(えいていが)左岸(東側)、竜王廟(注:中国の現地では回竜廟と呼ぶ場合が多く、洪水の鎮めとして河中の竜を祀っていた。戦後に取り壊されて、現在はない。)の近くで夜間演習を行なった。 廬溝橋の東岸には人口約2000人の宛平県城があり、中国軍(国民政府軍の指揮下にあった宋哲元の第29軍第37師第110旅第219団第3営(営長は金振中少校(少佐)))の約1400人が宛平県城および廬溝橋周辺に配置されていた。 この日、中国軍は、永定河の堤防に一連の散兵壕を完成しつつあり、またコンクリート製のトーチカもできていた。警戒兵も堤防下に立って日本軍の動きを監視していた。 事件のあった現場周辺の地図は、次のサイトが参考になります。 戦史室 ≫ 旧戦史室記事閲覧コーナー ≫ 支那事変 ≫ 盧溝橋事件 (リンク切れ) テーマはお宝「あれそれこれ博覧会」 ≫ あやしい調査団、盧溝橋・通州へ ≫ 2 疑惑の銃弾 盧溝橋事件のおさらい (リンク切れ) 日本軍の第8中隊は、19時30分ころから夜間演習を開始し、22時30分ころ、訓練を中止して翌朝黎明時まで休憩するため、中隊長から各小隊長と仮設敵とに、集合するよう伝令を出した。仮設敵は、訓練のために設けた仮の敵兵で、訓練部隊が接近した際には通報したり空砲で応射することになっていた。伝令を訓練部隊と思ったらしく、仮設敵が空砲の軽機関銃射撃をはじめた。そのとき、後方の堤防方向から数発の小銃射撃(実弾)を受けた。仮設敵はこれに気付かず空砲射撃を続けていることから、中隊長が部下を集合させるために集合ラッパを吹かせると、再び、堤防方向から十数発の射撃(実弾)を受けた。このとき、懐中電灯らしき光の明滅も目撃されていて、何かの合図のように見えたという。 集合して点呼を行うと、初年兵1人(志村菊次郎二等兵)が行方不明とわかり、大体本部へ通報するため伝令を出した。その後、行方不明であった兵士は、約20分後に無事に隊へ戻っている。伝令役に出て帰途に方向を誤ったものであるが、無断で用便に行っていたとか、砂利穴に落ちて失神していたとか、道に迷って中国兵の陣地に近づいたため発砲されたが叱られるのを恐れて隠していたなど諸説ある。行方不明の兵が戻り、中隊は一文字山の東にある西五里店へ移動した。 しかし、豊台に駐屯している第三大隊本部への伝令は、8日午前0時少し前に大隊へ到着し大隊長(一木清直少佐)に第一報を告げた。行方不明兵士の帰隊を知らない一木大隊長は、直ちに出動することを決め、北平(北京)にいた連隊長(牟田口廉也大佐)に電話で報告した。牟田口連隊長は、北平警備司令官(河邉正三少将)が軍事教練の検閲視察のため出張で不在となっていたため、北平警備司令官の代理の任に当たっていた。報告を受けた牟田口連隊長は、第三大隊の出動に同意するとともに、現地に急行して戦闘準備を整えた後、廬溝橋城(苑平県城)内にいる営長を呼び出して交渉せよと命令した。 ■牟田口連隊長は北平警備司令官代理の任にあたっていたことから北平(北京)を離れられないため、午前2時、連隊付の森田徹中佐を現地に派遣した。■ 事件当時、北平地区における日中間の局地紛争は、日本軍の北平陸軍機関(北平特務機関と呼ばれた。)によって処理された。特務機関長は松井太久郎、その下に軍事顧問部の3人の現役将校(中島弟四郎中佐、桜井徳太郎少佐、笠井半蔵少佐)がいて、彼らは中国軍(宋哲元の第29軍)の軍事顧問となっていた。 特務機関長の松井太久郎は、午前0時30分に、冀察政務委員会の外交委員会専員の林耕宇(日本語が話せた)に電話し、直ちに事態収拾にあたることを通告した。 桜井徳太郎少佐は、2時15分に、松井太久郎機関長と相談して、昨年の豊台事件(豊台駅付近で日本軍と中国軍がすれちがった際に、小競り合いが起きた。)の時の要領により現地解決する方針で打ち合わせし、斉藤通訳を伴って、秦徳純(北平市長。中国軍第29軍の副軍長。)と馮治安(中国軍第29軍第37師の師長。)に会うため、特務機関を出て、3時10分に戻ってきた。馮治安は不在で斎燮元(冀察政務委員)に会った。このとき、桜井徳太郎少佐と秦徳純の間で次の点で合意した。 ・他部隊を動かさず。 ・盧溝橋部隊は外部に出さず。 ・事件拡大を極力防止する。 このとき秦徳純は、盧溝橋外に配兵しておらず、城外に居るとすればそれは匪賊であり、日本軍が攻撃することは可なりと言ったという。 また、日本側と中国側のそれぞれの代表を現地に送り解決にあたることとなった。午前3時35分?■(午前4時10分?■)、次のメンバーが現地へ向かった。 ・日本側 桜井徳太郎少佐(北平特務機関の軍事顧問) 寺平忠輔大尉(北平特務機関の特務機関員■補佐?) 斉藤■(通訳) 赤藤■(憲兵分隊長)と憲兵5人 森田徹中佐(連隊付。牟田口連隊長が北平警備司令官代理の任にあたっていたことから北平を離れられないため、現地に派遣された。) 大塚賢三(通訳生) 一個分隊の護衛兵 ・中国側 王冷斎(宛平県長。日本側に宋哲元の代理であると答えた。) 周永業(冀察綏靖公署交通処理副処長) 林耕宇(冀察政務委員会の外交委員会専員) 一木大隊長は、8日午前2時03分に西五里店に到着し、第8中隊と合流。一木大隊長は、行方不明だった兵士が帰隊していることを知るが、連隊長の意向に沿って戦闘体制を整えて発砲者についての交渉を行うため、一文字山の占拠を決意した。午前2時45分ころ西五里店に到着していた大隊主力をひきいて、午前3時20分ころには一文字山を占拠した。 一木大隊長は、午前3時25分ころにも竜王廟方向で3発の銃声を聞いた。午前4時20分ころ、これを牟田口連隊長に電話で報告し、中国軍が二回までも射撃するのは純然たる敵対行為であるとして、攻撃の許可を得る。夜が明けると、永定河の堤防陣地には中国軍第29軍兵士が充満していた。午前5時に宛平県城外の中国軍へ攻撃を開始しようとするが、■森田中佐■に止められ、その間に兵に朝食を取らせる。 日本側の手記(■の手記)によれば、前進を続けた一部の日本軍(■竜王廟の北側へ展開した第8中隊■)が、堤防の中国軍トーチカに接近、中国側の制止をきかずに前進すると中国側が発砲し、日本側も攻撃を開始したという。 中国側の手記(■の手記)によれば、■で接近してきた日本軍は、■行方不明の兵士を捜したいという要求を拒絶した排長(■小隊長?■)がその場で射殺され、戦闘が開始されたという。 これをきっかけに、日本軍は総攻撃を開始した(午前5時30分)。中国兵が集結していた竜王廟を占拠し、その後、第三大隊主力は5時45分ころ永定河の中州・西岸へ到達するが、中国軍の三方(中の島・長辛店・宛平城の城壁)からの猛射を受け、身動きがとれなくなる。 8日夕刻には通州、天津から日本軍の二箇大隊が到着した。第三大隊主力の永定河を渡って東岸への撤退は、夕刻を待って行われた。移動を開始したのが21時00分頃で、23時40分頃には廬溝橋駅南側に集結を完了した。 ■22時00分に、翌9日朝の苑平県城攻撃を下命する■旅作令が発令された■。 宛平県城内では日中合同調査団■の交渉が始まっていたが、午前5時30分からの総攻撃が開始されてしまった。 交渉にあたっていたのは、次のメンバーである。 日本側 寺平忠輔大尉(北平特務機関の特務機関員■補佐?) 桜井徳太郎■大尉?少佐■(北平特務機関の軍事顧問) 斉藤■(通訳)。 中国側 王冷斎(宛平県長。日本側に宋哲元の代理であると答えた。) 周永業(冀察綏靖公署交通処理副処長) 林耕宇(冀察政務委員会の外交委員会専員) 金振中(中国軍第29軍第37師第110旅第219団第3営の営長)。 金振中は、部下の発砲を否定したが、事態の不拡大には合意した。この話し合いで、日本軍は河の東岸、中国軍は河の西岸へ引き離して停戦する案で同意した。宛平県城の電話線が切られて通じないため、寺平忠輔大尉は城外へ出て特務機関へ帰って、この案でまとめることになり、午前?■11時半ころ、寺平忠輔大尉、林耕宇、王啓元参謀の3人が城壁をロープで降りて脱出した。桜井徳太郎■大尉?少佐■は城内に残った。 午前5時30分からの総攻撃開始後、秦徳純(北平市長。中国軍第29軍の副軍長。)が宋哲元(中国軍第29軍の軍長。事件当時は、山東省にいた。)の名で南京の国民政府へ送った第一報(午前8時00分)は、日本軍が夜間演習を口実に宛平県城を猛攻撃中で中国軍は応戦中という内容で、詳細を伝えた第二報は同日(8日)夕方であった。 国民政府の蒋介石は、この事件を日本軍の挑発としてとらえた。 ■未明に、吉星文(中国軍第29軍第37師第110旅第219団の団長)が宛平県城に入り、指揮権が金振中から吉星文へ移った。 中国軍の37師の西宛部隊は8日夜、竜王廟方面に進出したが、日本兵がいないため宛平県城が攻略されたものと判断し宛平県城を攻撃し、中国軍の同士討ちとなった。 ■その他の部隊は?■ 北平市内は、■いつ■から、第29軍の衛兵が厳戒体制をとった。 冀察政務委員会の要人はどこかで会同したらしく、所在不明であったが、主戦論に傾いていた模様である。今井■武官がやっと18:30に秦徳純と会見し、不拡大方針を合意した。 午後10時ころ、日本軍の寺平、西田外務顧問、秦徳純(北平市長。中国軍第29軍の副軍長。)、林耕宇(冀察政務委員会の外交委員会専員)が話し合ったが、合意に達せず、いったん交渉を打ち切ったが、7月9日午前2時ころ、日本軍の支那駐屯軍司令部へ張自■を通じて了承すると回答があり、停戦の合意が成立した。 午前5時、射ち方止めのラッパ吹奏とともに日本軍は撤収を始めたが、永定河右岸(西側)に撤退するはずの中国軍が迫撃砲を撃ちだした。日本軍が歩兵砲で応酬し、宛平県城を砲撃した。約2時間、砲撃が続いた。午前7時、中国側交渉委員と連絡がつき、砲撃中止の命令が出された。 あらためて、撤退時刻が午前9時に変更され、さらに午前11時30分に延ばされて、撤退完了は正午ころまでかかった。 中国側は宛平県城に150名の保安隊が入って中国正規軍は永定河右岸(西側)に撤退、日本軍は一部を一文字山に監視に置き他は原駐屯地に撤退した。 東京の陸軍参謀本部へは8日午前5時54分に連絡が入り、慎重論(不拡大派)と強硬論(拡大派)が激しい議論をたたかわせたが、結局9日夜に参謀本部から駐屯軍へ「中国軍の撤退、責任者の処罰、今後の保障、謝罪」の4条件を■冀察政務委員会■に実行させることで局地的に解決させよとの訓令が下された。そのうらには、対ソビエト戦重視の考えがあった。 7月8日、中国共産党は、華北の防衛・全民族の抗戦を訴える通電(■)を発した。 7月10日朝から停戦の交渉が開始された。? 7月10日夜、蒋介石の国民政府が、日本に抗議した。 7月10日17時00分ころ、竜王廟付近で衝突があり、日本軍の第一大隊が出撃、21時10分ころ堤防陣地に突入し、白兵戦の結果、竜王廟を占拠した。翌11日午前2時20分ころ、大隊は撤退した。 日本軍は中国に対して一方的に譲歩を要求する停戦案を提示して、11日午後8時には北平において停戦協定が調印され、中国の日本への謝罪、中国軍の撤退、反日的な態度をとる団体の取り締まり、日本軍の廬溝橋付近から撤兵を取り決めた。 しかし、日本政府の近衛内閣は中国華北への派兵を決め、14時30分ころ現地に通報された。11日午後6時25分ころ政府声明を発表した。その内容は、「今回の事態が中国側の計画的反日行動であることは疑いない。そのため、謝罪と補償を求めて、重大な決意のもと、中国への派兵に必要な措置をとる。」というものであった。 ■派兵を決めた経緯■ 午後9時、日本政府は、各政党、貴族院各派、財界・新聞通信社の代表者を首相官邸に集め、挙国一致体制による戦争政策への協力を求め、各界もまたこれに応じた。政府は軍部の要求■に基づき「国民精神総動員」運動による戦争支持の一大キャンペーンを展開した。 蒋介石は中国軍を北上させる一方、日本軍は関東軍・朝鮮軍の増派部隊が到着し、15日<28日?■>には内地部隊の派遣を決定した。 現地では、11日の停戦協定がほぼ守られ、小規模な発砲や衝突はあったが、日本軍と中国軍は対峙が続いた。 蒋介石は周恩来と■廬山■で会談し、7月17日、「生死関頭■」演説(■説明)で抗戦決意を表明した。 7月19日、蒋介石の■廬山■声明がラジオ放送された。 7月25日、郎坊事件。■何?■ 7月26日、日本軍は宋哲元に中国軍の撤退要求の最後通牒を行った。 7月26日、広安門事件。(■北平の広安門で、日中両軍が衝突した。 7月27日、両軍は武力衝突を決意。 7月28日、■日本軍■は午前0時に開戦通告?■を伝達。日本軍は午前8時に南苑■を総攻撃し13時には占領、北平と天津周辺で本格戦闘に入った。宋哲元は、20時すぎに北平を脱出、残存部隊をつれて保定へ移動した。 7月29日、日本軍は、夕方から砲撃を開始し19時40分ころ主力が突入して宛平県城を占領し、■長辛店■に南下。 その間に、午前3時ころ保安隊の反乱による通州事件が起きた。 蒋介石は華北から撤退、主力を上海に集中させ日本軍に攻撃をかけた。 8月11日、■支那中央軍■の第87師と第88師は、上海郊外の包囲攻撃線に展開を終了、支那海軍■も揚子江の江陰水域■閉鎖した。 8月13日、4千人の日本海軍陸戦隊を3万の支那軍■が攻撃、第二次上海事変が起こった。 8月14日に蒋介石は「自衛抗戦のやむなきにいたった」と声明して、自ら陸海空軍総司令に就任した。 9月2日、日本■は、「北支事変」を「支那事変」に改称し、全面戦争へ向かっていった。 9月22日、中国共産党は「国共合作宣言」を公表し、翌日、第二次国共合作が正式に発足した。 国民政府軍と中国共産党軍は、内戦をやめて共同で日本軍と戦うことに合意した。 【人物】(注:この項目は未完成です。) 志村菊次郎 事件の際に行方不明となっていた二等兵(初年兵)。 東京本所生まれ。ビルマにて戦死。 清水節郎 事件当時、演習を行なっていた第8中隊の中隊長。大尉。 一木清直 事件当時は、第3大隊長。少佐。 ガダルカナルの奪回作戦で、寡兵をもって装備優秀な多数の敵兵にあたり、全滅して戦死した。 牟田口廉也 事件当時は、第1連隊長。大佐。 インパール作戦の際に、「大東亜戦争はいわばわしの責任だ。盧溝橋で第一発を撃って戦争を起こしたのはわしだから、わしがこの戦争のかたをつけねばならんと思うておる。まあ、見ておれ。」と語ったという。 インパール作戦では、部下の師団長3人を罷免して作戦を強行したという。 計量社会科学ワークショップ ≫ 「ビスマルク海(海)戦」(ダンピールの悲劇) ≫ コンパクト「太平洋戦争史」 ≫ インパール作戦 松井太久郎 事件当時は、特務機関長。大佐。 今井武夫 事件当時は、駐支大使館武官補佐官。少佐。 桜井徳太郎 事件当時は、冀察第29軍顧問。少佐。 宋哲元 中国軍第29軍の軍長。 事件当時は、山東省にいた。 秦徳純 北平市長。中国軍第29軍の副軍長。 馮治安 中国軍第29軍第37師の師長。 何基■ 中国軍第29軍第37師第110旅の旅長。 抗日派。事件当時、中国共産党と関係があった。 事件後の1938年2月には、周恩来の手引でひそかに延安へ入って毛沢東と会見し、翌1939年1月に中国共産党秘密党員に登録された。1948年11月に国民政府軍から中国共産党軍へ寝返っている。 廬溝橋事件の前日(7月6日)、部下に対して「日本軍の行動に注意し監視するよう求め、もし日本軍が挑発してきたら必ず断固として反撃せよ」と命じている。 また、事件の直後、中国軍上部へ「発砲の事実なし」と報告している。 吉星文 中国軍第29軍第37師第110旅第219団の団長。 金振中 中国軍第29軍第37師第110旅第219団第3営の営長。 抗日派。事件当時の中国共産党との関係は、はっきりしない。 のちの1948年11月に、何基■とともに、国民政府軍から中国共産党軍へ寝返っている。 廬溝橋事件前日(7月6日)の何基■の命令を受けて、部下に「十分な戦闘準備をするよう指示して、日本軍が我が陣地の100メートル以内に進入したら射撃してもよい」と指示した。 王冷斎 宛平県長。 林耕宇 冀察政務委員会の外交委員会専員。 劉少奇■ ■ 【LINK】 廬溝橋事件 一燈照隅 ≫ 廬溝橋事件 廬溝橋事件U YOKOYAMA'S HOME PAGE ≫ 世界史ノート(現代編) ≫ 抗日民族戦線の成立と日中戦争(その2) ・・・元高校教師のYOKOYAMAさんのサイト。 対抗言論のページ ≫ 盧溝橋事件−謎のエスカレーション 北山敏和の鉄道いまむかし ≫ 近衛文麿と石原莞爾と日中戦争 毎日新聞 ≫ くらし・娯楽 ≫ 毎日新聞社出版物のコーナー ≫ 毎日ムック ≫ シリーズ20世紀の記憶 ≫ 大日本帝国の戦争2・太平洋戦争 1937-1945年 ≫ 盧溝橋事件 (リンク切れ) 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この動画(34分20秒付近から)で、大本営陸軍部研究班が昭和15年11月にまとめた「無形戦力軍紀風紀関係資料(案)」が紹介されており、この文書によると「掠奪の罪で軍が処罰した兵士の数は開戦から2年で799人」であるという。番組では触れていないが、この「掠奪」の欄の隣に「掠奪強姦致死傷」の欄が映っておりその数は「25」である。 なお、この番組を見ただけでは、「無形戦力軍紀風紀関係資料(案)」がどういう文書なのか、なぜ(案)なのか、どのように調査したのか、分類項目の全体像などの、詳しいことはわからない。 |