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「支那事変」に関する資料集(2)



 角田順 編『《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策編―』(原書房、1967年) p433-452 から引用。なお、引用文中の〔 〕は、引用元の編者による注記です。また、引用文中の(注)は、当サイト管理人によるものです。(注:昭和14年(1939年)というのは、柳条湖事件(満州事変)の8年後、廬溝橋事件(支那事変)の2年後、真珠湾攻撃の2年前である。)
     一八 回 想 応 答 録 (昭和十四年秋)
(参謀本部〔支那事変史編纂部〕作成)
目 次
一、事変前の軍備拡張計画
二、東亜聯盟論と支那事変
三、事変惹起の国内的原因
四、事変直前に於ける対支政策腹案
五、事変勃発直前に於ける天津軍の空気
六、不拡大方針決定の経緯
七、不拡大方針に基く指導
八、河辺旅団の位置の問題
九、上海出兵経緯
十、事変解決の工作
十一、持久戦の指導に就て
十二、国家総動員
十三、対支戦争判断
十四、戦争指導考案に就て
十五、察哈爾作戦
十六、第五師団の運用
十七、青島(山東)問題
十八、方面軍編成に関する問題
十九、参謀本部内の問題
二十、陸海軍間及省部間の関係
二十一、対「ソ」対英対米関係
二十二、大本営に就て

殿下〔竹田宮徳憲王大尉・事変史編纂部勤務〕 中央部の今次事変の統帥部と云ふ見地で閣下の部長〔作戦〕として居られました時分行はれた事柄に就ての経緯及真相を伺ひたいと存じます。

      一、事変前の軍備拡張計画
殿下 先づ事変前に於ける参謀本部内の大体の空気に就て御話し願ひ度う御座います。
石原 石原が参謀本部課長〔作戦〕に着任しましたのは昭和十年八月永田中将の事件(注:1935年8月12日に、永田鉄山陸軍中将(統制派の中心人物。死亡時は、陸軍省軍務局長で少将であった。)が相沢三郎陸軍中佐(皇道派)に殺害された事件(相沢事件)、のことと思われる。)があつた日でありますが、此時初めて陸軍中央部に入りまして非常に驚いたのは、日本の兵力特に在満兵力の真に不充分なことでありました。
 日本の輸送力と「シベリヤ」鉄道の輸送力との優劣が初め某期間は「ソビエット」より有利に兵力を集中し得るだらうと考へて居りましたのに、それが非常な考へ違ひで寧ろそうではない情況で、換言すれば満洲事変後二三年にして驚くべき国防上の欠陥を作つてしまつたのであります。即ち前の課長鈴木率道大佐が非常な努力を以て在満兵力を二師団から三師団に増加したのでありましたが、之では猶甚だ不十分で何とかしなければならぬと謂ふ考へを持ちまして、直ちに急速な軍備拡張をやる気持になりました。
 然し当時の石原の軍備拡張考案は今から観ますれば不十分であつたと思ひます。
 大体の着想は「ソ」の極東兵力(バイカル湖以東)に対し少くも八割の在満鮮兵力を始終持つと言ふので、具体的に申しますれば当時鮮満を八ヶ師団にしようと言ふのが昭和十年に考へました国防計画の骨幹で御座います。而して石原の考へに依れば此兵力それだけでは断じて戦争は出来ないのでありまして、全国軍の作戦に必要な軍需的工業が日満になければならないのであります。
 そこで満鮮八ヶ師団整備に大体の基礎を置きまして研究推定したる所、当時軍事課の高級課員でありました武藤〔章〕中佐は軍備予算を(確かに記憶しませんが)最高十二、三億円と致しました。
 之は当時としては飛躍的のものでありました。
 其頃参謀本部は外郭機関として宮崎機関を作り経済計画を樹てると言ふ事になりました。
 この宮崎機関の献身的努力こそ今次事変に日本が辛うじて計画経済に進み得た基礎を作つたもので偉大な功績と思ひます。
 所で其調査が始つた時に二・二六事件が起きましたので、陸軍は内閣に対して武藤中佐の研究された数に依つて軍事費を要求しました。陸海軍合して軍事予算二十五億円になつたと思ひます。然し之も今日の七十五億の軍事予算と思ひ比ぶれば三分の一になるので御座います。
 そこで今申した基礎に基く日満五ヶ年計画が宮崎機関に依つて初めて十一年に草案が出来たのでありますが、夫れを基礎として逐次発展せしめまして能力の低い企画院を「リード」して今日まで来たのであります。

      二、東亜聯盟論と支那事変
石原 満洲の民族協和の精神から謂へば日支関係は王道主義に則り日本を先達として東亜聯盟を作ることであります。東亜聯盟は満洲建国当初から満洲国の主張でありまして思想の一元、国防の共同、経済の共通、政治の独立の四条件が大体の基礎観念であります。
 意見が略々と一致して此線を確保して行つたならば今度の事変は起さなくて済んだと私は考へます。
 満洲事変後の日本の行き方に石原の考へでは二つの道があつたと思ひます。
 一つは蒋介石と力強き外交折衝を行ひ蒋介石をして満洲国の独立を承認せしめ支那に於ける政治的権益を引上げ東亜聯盟の線に沿つて進めば私は蒋介石との間に了解出来たと思ひます。
 第二案は停戦協定の戦に止まらずに北京、南京を攻略して蒋介石を屈伏せしめ満洲国を承認させて支那本部より撤兵し其後東亜聯盟を作ると言ふのであります。然るに事実は其何れをも行ひ得ずして「その日暮し」と謂ふ状態で御座いまして、北支が満洲攪乱の根拠になると謂ふ事に依つて関東軍が北支に武力を行使するの結果を招来しました。換言すれば東亜聯盟の原則である支那の独立を確保する条件を完全に停頓せしめざるを得ない状況に持つて行き其発展する所遂に綏遠事件(注:1936年11月に、内モンゴル軍が綏遠省で中国国民党軍を攻撃したが失敗した事件。十数人の日本人も関与していた。)となつたのであります。
 此の綏遠事件は完全なる日本の失敗で之が今次の事変の直接的原因になつたのであります。

      三、事変惹起の国内的原因
殿下 そう云ふ様になつて事変を惹起するに至つた国内的要因は。
石原 強い政治力のなかつたことが根本です。当時政党が地歩を失ひ夫に代るべきものがなかつたこと即ち陛下の御信任を受けて政治を指導する政治体がなかつたことであります。それと中央部が関東軍の北支に手を出す事をどうしても止めさせ得なかつた為に遂に其対策として天津軍を増強しました事が今次事変の原因となつたので、此点に就て石原は当時の責任を痛感して居る次第であります。即ち当時天津軍の増強等といふ方法によらず統帥の威力により関東軍に手を引かせる様にすればよかつたらうと責任者として自責の念に駆られるのであります。
 次に申上げたいのは北支に於ける兵力の配置で、最初参謀本部は通州、北京、天津に重点を置き之に依て冀東防衛の態勢を確立すると云ふ案でありましたが、之に対し梅津〔美治郎〕陸軍次官よりは条約上に照して不可なりと云ふ強い反対がありまして、遂に軍事的意見が政治的意見に押されて通州の代りに豊台に兵を置くことになりましたが、之が遂に本事変の直接動機になつたと思います。

      四、事変直前に於ける対支政策腹案
石原 形勢が段々に逼迫しまして綏遠事件となりました。昭和十一年暮第二課長(戦争〔指導〕課長)として北支に出張を命ぜられました時大体観て帰りました感想では、南京にある国民党との間に尚国交調整の途が十分あると信ぜられる、夫の条件としては国民党は満洲国の独立を承認し日本は支那の独立を極力援助し差し当り豊台の兵を通州にやつて冀東防衛に任じ冀東は支那が満洲国独立を承認すれば直ちに還すと云ふこと、即ち満洲独立を両国和平成立の条件として其間冀東の政治だけは思う存分合理的な事をやり一面天津軍の冀察政権の政治的指導を停止せしめ、冀察政権と外交交渉によることとし石原の意見としては磯谷〔廉介〕中将の様な人を大使館附武官として冀察政権との了解を計り政治的、経済的要求を避けたならば時局が緩和出来逐次東亜聯盟の方向に進み得るものと考へたので御座います。即ち日支間に本当に了解を得まして日支紛争を免れ最初の五ヶ年計画を強行し其の間対米海軍対「ソ」陸軍の軍備充実に努力し且つ支那との間には合理的の日支提携を作ると云ふ事が出来れば世界を挙げて来るも恐れませんと云ふ思想で、昭和十一年六月に起案して総長殿下の御決済を仰いだ国防国策大綱は此線に依つて書かれて居ります。
 戦争計画は昭和十一年中に「ソ」聯から戦争が始つた場合のみの大綱丈け立案致しましたが支那から始つた時の戦争計画を樹てることの必要を第一部長(当時石原は第一部長になり第二課長は河辺〔虎四郎〕大佐に命ぜられました)として考へて居りましたがそれが到々出来ない中に今次事変が起きたのであります。

      五、事変勃発直前の天津軍の空気(注:目次では「事変勃発直前に於ける天津軍の空気」となっている。)
石原 只今申上げました通り昭和十一年乃至昭和十二年初冬大体中央部は時局収拾の可能性に就きまして研究を進めて居りました時、或る旅行者から「天津軍の某砲兵大尉参謀の話に依ると五月宋哲元と衝突するだらう」と言つて居ると云ふ話を聞きました。それで、陸軍省に強硬に申して岡本清福中佐(軍事課々員)に北支を廻つて貰つたのでしたが今から考へると参謀本部としてもつと努力す可きで石原が第一部長として自ら北支にやつて貰ふ可きだつたと思ひます。然しこの事は盧溝橋事件とは何等関係ないと思ひますが当時現地には此様な若干の気持があつたと言はざるを得ないのであります。
殿下 事件勃発と戦争謀略との関係は全く無かつたのです。
石原 絶対に無いと云ふのが岡本中佐の報告でした。然し此様な気分の有つたことは石原の非常に残念に思つた点でもつと力強い指導が迅速に決行出来たならばと思ひます。
 此点に就ては北支事変勃発当時坂垣(注:ママ。板垣?。)〔征四郎〕閣下の様な力強い人を大臣に置いたならば事件は起らなかつたのではないかと思ひます。又若しも事件が起きましても、もつと速に収拾出来たのではないかと思ひます。
 盧溝橋事件は大体そう云ふ状況で北支に於ては理論的に日支提携を整へて戦争なしに行けそうだと云ふ気分の時に起つたのであります。
 事件勃発の時梅津次官(現地の事情に明るき)に現地に於ける指導を希望したのでしたが、今日より考へれば石原は作戦部長として(次長〔今井清〕不快)自ら現地に行くべきであつたと考へますす(注:ママ)。誠に申訳ない次第で御座います。
 結局東亜は尊い鮮血を流さなければならぬ宿命だつたと諦めを持つて居ります。

      六、不拡大方針の決定経緯(注:目次では「不拡大方針決定の経緯」となっている。)
殿下 事変が起つてから不拡大の方針を決するに至つた経緯は……
石原 今申上げました通り日支間といふものは争ふ可きものではなく、又若し争つたならば直ぐには済まんとの考へがあつた為に、兎も角此の難関を突破せねばならぬと云ふ必要から石原個人としては不拡大を以て進みましたが、其決心に重大なる関係を持つものは対「ソ」戦の見透しでありました。即ち長期戦争となり「ソ」聯がやつて来る時は目下の日本では之に対する準備がないのであります。然るに責任者の中には満洲事変があつさり推移したのと同様支那事変も片附け得ると云ふ通念を持つものもありました。私共は之は支那の国民性を弁へて居らん議論で、殊に綏遠事件により彼を増長せしめた上は全面的戦争になると謂ふ事を確信して居つたのであります。事変始まると間もなく傍受電により孔祥Xは数千万円の武器注文をどしどしやるのを見て私は益々支那の抵抗、決意の容易ならざるを察知致しました(日本の三億円予算と比較)。即ち此際戦争になれば私は之は行く所まで行くと考へたので極力戦争を避けたいと思ひ又向ふも避けたい考へであつた様でありますのに遂に今日の様になつたのは真に残念であり又非常なる責任を感ずる次第であります。

      七、不拡大方針に基く指導
殿下 当時不拡大方針を執りながら動員を決心されたと云ふのは……
石原 不拡大主義でやれば動員を止めるべきではないかと一般は考へる様ですが、結局第一線でごたごた(注:引用元では、2文字分を使った縦書き日本語の繰り返し記号になっていますが、パソコンで表示できないので「ごた」と表記しました。)があり而も派兵にするには数週間かゝるので不拡大を希望しても形勢逼迫すれば万一の準備とし動員を必要とすることになる訳であります。もつと輸送力があれば相当の兵力を国境近くに置いて対処することも出来たと思ひます。
殿下 現地軍の気分を上から見てどう云ふ風に考へて居られましたか、叉現地と中央との間はどう云ふ風でしたか。
石原 不拡大方針が出先の橋本〔群〕参謀長の気持でありました。夫に私共には第一線の状況は詳細には解りませんから天津軍に信を置いてそれが若い者には慊らなかつたのではないかと思ひます。
殿下 不拡大方針を決定された当時既に内地動員を考慮されて居りましたか。
石原 不拡大方針は政治的希望でありますが、然も現地に於ては戦闘行為が行はれて居るのですから常に動員の必要の起ることを考慮して居りました。
殿下 郎坊事件が起きまして内地部隊の動員が下命されますに至つた経緯に就きまして何か……
石原 当時少壮者の考へは極めて積極的で動員即時断行の空気が支配的でありました為、不拡大方針を持せる部長以上の決心為に動揺し易く郎坊事件には其際動員に決するに十分なる衝動を与へたるものと考へます。
殿下 動員すると云ふ事の準備が進んでからも閣下が後宮少将〔軍務局長〕に連絡して止めさせられている様でありますが。
石原 二三度あつたと思ひます。当時天津に派遣せられありたる中島〔鉄蔵〕総務部長から動員の必要なく和平成立の見込なる旨電報ありし為なりし様記憶します。
殿下 郎坊事件が起きて直後動員を下される前に閣下が橋本参謀長に直接電話して居られますが現地の要望を容れたのですか。
石原 現地の希望よりも現地の状況が愈々駄目だと言ふ気持だつたからであります。動員は不拡大方針を放棄せしむる威力大でありますから不拡大方針を有する以上動員を成る可く避けたいのは当然でありますが、政策的見地から作戦を甚しく不利ならしむることは絶対にいけませぬから形勢切迫せば適時動員をしなければなりませぬ。然し動員即ち不拡大主義の放棄ではありません。動員後も依然外交交渉が進められますが愈々開戦となれば不拡大主義は翻然一抛作戦至上になつたのであります。開戦後も成るべく速かに和平成立を希望しましたがそれで作戦を制肘せられた等のことは勿論ありません。
殿下 陸軍省が動員に賛成したのは現地の希望からと思はれますか。
石原 陸軍省は積極的で寧ろ参謀本部は消極的でありまして天津軍の首脳部の考へが影響した結果とは思ひません。
 一日二日動員が遅れましたが之は前申しました中島少将の意見が大きな力をなして居りますし、天津軍首脳部にも増兵の必要なしとする空気があつた為であつた様に思ひます。

      八、河辺旅団の位置の問題
殿下 豊台に居つた河辺旅団の位置に就て色々交渉があつた様ですが……
石原 夫は「デリケート」な問題であります。当時日支第一線がこんがらがつて、ぶつかつて居りましたから現地では驚かなかつたと申しますが、中央では豊台が完全に包囲されて居るので不名誉な事が起きるのではないかと思ひ綏遠事件の失敗もありますので非常に気になつて河辺〔正三〕旅団に対し中央の御注意があつたのであります。現地では実際は裕りを持つて居て心配には及ばなかつたと申しますが、そこは中央の判断の悪い点でありますが包囲されて居るのを其儘見殺しにすることは出来ない気持からでありました。

      九、上海出兵の経緯(注:目次では「上海出兵経緯」となっている。)
石原 第一線では戦闘が起り遂に動員に賛成致しましたが当時の作戦課長武藤大佐は最も力強い戦闘力を出すことに努力し軍の編成を決定したのであります。
 一般の空気は北支丈けで解決し得るだらうとの判断の様でしたが、然し私は上海に飛火する事は必ず不可避であると思ひ平常からさう言つて居たのでありました。抑々上海に飛火をする可能性は海軍が揚子江に艦隊を持つて居る為であります。何となれば此の艦隊は昔支那が弱い時のもので現今の如く軍事的に発展した時には居留民の保護は到底出来ず一旦緩急あれば揚子江に浮んでは居れないのであります。然るに軍令部は事変がある前に之を引揚げることが出来なかつた為事変後軍艦を下航せしむる際漢口の居留民を引揚げしむることとなりました。大体漢口の居留民引揚は有史以来無いことであり若し揚子江が無事に終つたならば海軍の面子がないことになります。即ち今次の上海出兵は海軍が陸軍を引摺つて行つたものと云つても差支へないと思ふのでありまして、そこに機微なるものがあると私は思ふのであります。それから私は上海に絶対に出兵したくなかつたが実は前に海軍と出兵する協定があるのであります。其記録には何とあつたかは記憶して居りませんが、どうしても夫れは修正出来ないので私は止むを得ず次長閣下の御賛同を願つて次の様な約束をしたのであります。
 夫れは海軍が呉淞鎮と江湾鎮の線を確保する約束の下に必要なるに至れば速かに陸軍が約一ヶ師団を以て同線を占領することとしたのであります。更に参謀本部では要すれば青島に当ててあつた一ヶ師団だけは持つて行く裕りをとつて置く考へでありました。
 上海の敵情偵察は全く不良でありました。海軍では江湾鎮の線は取れると言つて居たが、出兵するには其真中に全部敵が居て実際に出兵した時は呉淞鎮まで来て居たのであります。叉第十一師団の上陸した附近は十月迄は一面泥濘で作戦は出来ないと兵要地誌班の判断でありましたが、実際はあの通り作戦が出来たのであります。石原が第一部長時代に上海に五箇師団を増兵して居りますが之は大元帥陛下の思召であらうと拝察して居ります。
 必要な戦力の増加が出来ました事は御立派な御裁断であつたと拝察します。

      十、事変解決の工作
殿下 事変解決に関して直接手を打つたことがありますか。
石原 今考へますと極力不拡大を取つて居たのでありますから責任ある石原か、出来たならば次官かが現地に出て行つて直接支那側と交渉したら良かつたと思ふのであります。これをしなかつたことは石原として真に申訳ないことであつたと思つて居ります。
 その後のことと思ひますが私等は首相自ら南京に出向いて国民政府を反省せしめたらよいと考へ、参謀次長室から風見〔章〕書記官長に其事を電話したことがあります。夫れは国民党としても日本の軍部とは妥協しないだらうが、近衛首相は政治家として国民党に魅力を持つて居る唯一人の人であり、先代〔近衛篤麿〕との関係も御座いますので夫れと孫文の弟子たる蒋介石との直接交渉は事変解決の為に南京政府を是正せしむる最良の手段だと考へ風見に電話しました。
 参謀次長多田〔駿〕閣下も賛成して居られました。
 風見は此時考慮することを約したのですが、翌日になつて取止めになつたとの返事があつて到々駄目になりました。而しこれは今考へても大きな政治的の手でありましてもう少し徹底て(注:ママ。徹底して?。)やつたならばと残念であります。
殿下 首相が南京に乗込んで云々といふのは何時ですか。
石原 八月頃ではないかと思ひます。本格の上海の戦の起つた後には南京をとる直前がよい機会だつたと思ひます。
 上海の事件が起てからも色々議論がありました。而し南京はあんなに簡単にとれるとは思ひませんでした。若し簡単に取れるならばあの時機が一番だと思ひます。
 持久戦争不可避と考へまして戦争目的即ち講和条件の確定は本事変の当初から最も強調しました事で、どう云ふ条件で支那と協調するかと云ふ事に就いての石原の主張は、当時第二部長(渡〔久雄〕閣下病気で笠原〔幸雄〕課長部長代理)の反対及本間〔雅晴〕閣下の反対で同意されなかつたのであります。
殿下 石原閣下と第二部長との意見の相異は……
石原 戦争は簡単に終結し得ると云ふのが支那課の判断であります。
  又本間閣下が部長になられます迄は大体私と同意見でありましたが、第二部長になつてからは意見をかへられたのであります。(注:行頭が二文字分下がっている。ママ。)
 八月中旬と思ひますが支那をして満洲国の独立を承認せしむると共に、日本は成るべく速かに支那本部の政治的権益を撤回する条件の下に和平交渉に入るべき意見を参謀本部として出そうと思ひまして、私は総務部長中島少将、第三部長塚田〔攻〕少将、第四部長下村〔定〕少将に計り全部判を貰つたのですが第二部長本間閣下はどうしても同意されないので一緒に病床に今井閣下を訪問しました。所が嘘かも知れませんが支那課長永津〔佐比重〕大佐が事前に行つて今井閣下に色々話したとの評判でありました。
 これは永津大佐のみならず一般の空気が、下の方で意見を定めた上でなければ上には言はないと云ふ全く自由主義的のやり方をして居た為であります。
 病気中の今井閣下は非常に心痛されたらしく何とか纒めたいと考へられた様でしたが自分では判決はされません。私は部長として次長に直属致して居りませんので総長殿下に持つて行くと言ひますと、自分が病気だからそんな事を言ふと思はれ不満の様で御座いましたので到々閣下の心情に敗けて直接持つて行くことは撤回したのであります。
 曩に申しました様に、事を行ふ主任者に意見を開陳せずに方針決定にもつて行くと云ふ、こんな気風があつて(陸軍省の仕事にもありましたが)総長殿下に御見せしないで幕僚の間で有耶無耶になしたことが多かつたのであります。
 事変の始つた時にそんな事をせず政治的に大きく手を打つたならば事変は案外に早く片附けたと思ふのであります。
殿下 今の問題は之で終りになつたのですか。
石原 更に原則論を下で協議しましたが纒りませんでした。
殿下 講和条件に関する考へは……
石原 夫れに関してははつきりした方針を立てることが必要と思ひます。
 今日でもそうでありますが石原の意見では昨年の暮の近衛声明(十一月二十二日)が石原の申上げました東亜聯盟の条件にへの(注:ママ)完全なる復帰と思ひます。
  満洲国独立を承認すれば其の代りに日本の方でも中華民国の独立を援助してやる。夫れが東亜聯盟の条件であり其確立迄次の条件を支那に要求するのであります。(注:行頭が二文字分下がっている。ママ。)
 (1) 先づ防共協定を結び其間防共駐屯を認めしめ(注:ママ)ます。之は非常に面白い事で駐兵を今迄の様に権益擁護の為めでなく思想防衛の為めに行ふのであります。東亜聯盟が確立すれば此意味の駐兵は必然的に不必要となります。
 (2) 内蒙を特種防共区域とすることは国防上の要求として絶対的に必要なものです。然し東亜聯盟による国防上の共同が成立せば之は権利でなく義務となります。
 (3) 北支及内蒙の経済開発に便宜を要求して居ります。今日は(注:ママ)於ては日満の五年計画をやりまして東亜防衛の生産力拡充に努力して居りますが、其の不足を補う為めの要求であります。然も東亜聯盟成立せば経済の共通により当然のこととなります。
 即ち東亜聯盟さへ本当に結成されるならば右の三ヶの権利は自然解消することとなり、昭和十二年八月の私共の主張しました案と同一結果になるのであります。
 然るに今日の陸軍部内には未だ近衛声明に反対があり国論が一致して居りません。彼の汪兆銘工作条件に於てももう一度東亜聯盟論の線を正確にする事が事変解決の鍵ではないかと思ふのであります。
殿下 事変が始つてから間もなく南京に期限を切つて要求して居りますが、あれは今閣下の言はれた経緯の前ですか。
石原 前と記憶して居ります。外交上の駆引は力を伴つてやることが必要で、あれは一種の威力偵察であります。第二部はこれによつて何とかなるだろうと思つていた様でしたが私共は深い関心がなかつたのであります。つまり単に蒋介石がどうしても戦争するかどうかと云ふ威力偵察をやつたのであります。

      十一、持久戦の指導に就て
石原 参謀本部に於ける石原第一部長としての統制力は甚だ不十分で、私の第二課長時代は考への筋も通つて居ると思つて居りましたが其れが第一部長になつてからの統制力は微弱でありまして、当時私は知りませんでしたが部下の内にも相当に反対のものが居た様で此点全く私の至らぬ為と真に責任を感じて居ります。而して斯した事は第一部だけのことでありませんで今日の日本軍部の通弊の様で御座いますが、石原の考へを率直に申しますと陸大では指揮官として戦術教育の方は磨かれて居りますが、持久戦争指導の基礎知識に乏しく、つまり決戦戦争は出来ても持久戦争は指導し得ないのであります。即ち今度の戦争でも日本の戦争能力と支那の抗戦能力、「ソ」英米の極東に加ふる軍事的政治的威力とそれを牽制し得る独逸と伊太利の威力等を総合的に頭に画いて統轄して、日本が対支作戦にどれだけの兵力を注ぎ込み得るかを判定し戦争指導方策を決定し得られなければなりませんのに其の間の判定能力のある人は参謀本部に一人もないと思ひます。又持久戦争は参謀本部だけでは決定できないので御座いまして、詳細は統帥部政治部各当局が協力して方針を決定し若し意見の一致を見ることの出来ない場合に於ては御聖断を仰いでなさるべきものであります。
 然るに斯した戦争指導も出来ず統帥部政治部の各関係省部が自由勝手なことをやり之を纒める人が一人も居ないのは陸大の教育が悪いからで、大綱に則り本当の判断をやる人が一人もないからだと思ひます。即ち総合的の判断をなし得る知識を持つて居らないのであります。
 又信念のないのに意見を申すのが今日日本の幕僚の通弊ではないかと思ふのであります。極端なる統帥部の不統一を来たしたのは個人個人の責任ではありません。誰れが悪いと言ふのではない、現実に於ける戦争に対し陸大の教育が実際に副はないのではないかと思ふのであります。
 只今申上げました事から戦争〔指導〕課を設けて堀場〔一雄〕中佐の如き総合的能力を有する人を置き、宮崎機関と云ふ材料提供機関を作り以て研究することになつて居つた事は尤も有意義の事であつたと思ひます。

      十二、国家総動員
石原 不拡大方針をとりましても戦争をやらなければならない状況ならば、最初から国家総動員を行ふが良かつたと考へます。
 軍需工業動員は今の経済状態から見て到底当時一挙に三十ヶ師団の動員はやることが出来ないので先づ半分十五ヶ師団と考へました。其理由は「ソ」聯に対しては井本〔熊雄〕大尉の研究に依れば已むを得ず守勢の態勢を取つても十九ヶ師団必要と云ふのでありました。支那に対しては先づ六ヶ師団を使つて五ヶ師団を中央に予備に持つて居り、時に応じ機に臨んで支那に持つて行く態勢をとると云ふので結局合計十一ヶ師団を必要に応じ支那に使ふこととし、対「ソ」顧慮上速かに在満洲四ヶ師団の戦備を充実すると云ふのであります。即ち先づ十五ヶ師団分の軍需工業動員を発令すべしとしたのでありました。十五ヶ師団の軍需工業動員を行ふものとして昭和十二年度には二十五乃至三十億円の軍事予算を要するものと参謀本部では計算しました。
 当時当局に対しては陸軍省は積極的で参謀本部は大体反対でありましたのに其の陸軍省の積極的な予算が実に三億円と云ふので私は驚いたのであります。こんな動員で蒋介石は参るものと考へて強硬論を称へて居るのでありますから本当に地面に足のつかない戦争指導をやつて居ると云ふべきで、事変処理の困難な原因がそこにあると思ひます。
 参謀本部に於ては大体六ヶ師団の範囲で作戦を行ふ方針を定め陸軍省の同意を得て陛下に上奏されました。此の時の御説明には参謀次長病気の為石原が御説明申上げました。
 大元帥陛下には非常に御満足の様に拝したのでありますが、其時の作戦範囲は保定濁流鎮の線と云ふ事に決定したのであります。
殿下 事変勃発時直ちに総動員をやつたらどうでしたか。
石原 速かに国家総動員を行ひ作戦は前に申上げました方針の線を堅持して居れば有利に行くのではないかと思ふのであります。遺憾ながら色々の反対を受けて石原の在任中は総動員の実行は不可能でありました。
殿下 動員と事変との関係は……
石原 動員の兵力決定は輸送力により決定せられ全面戦となつつた(注:ママ)時の作戦範囲は国家総動員の能力に左右されるのであります。

      十三、対支戦争判断
殿下 当時事変がどうしてもこう云ふ全面戦になることは必然的でしたか、不拡大主義に徹底することは出来ませんでしたか。
石原 不拡大主義でやつても一度戦争となればどうしても全面戦争になると思ひました。そして長引くことを想像しました。決戦は出来ないのであります。
殿下 支那班の判断は……
石原 支那班は北支をとれば支那側は経済的に参ると判断をした様で、数を挙げて言つて居りました。即ち支那班の構想は僅かの兵力を一度にぐつとやれば大勝利だと云ふ気持をもつて作戦を単簡に考へて居りました。夫れは満洲の経験もあるからと云ふのでしたが、私は満洲の様な具合にはいかんと確信を持つて居り、開戦当初敵に大打撃を与へそして屈伏しない時は使用兵力に相応した地区を領有し、其の治安を確保して行くと云ふ事を考へていました。
 若し決戦を行ひ得て一挙に朧海線まで行けば敵が参るといふことが固より絶無とは申されませんが、私はそれは望み難いことと考へて居りました。
殿下 第一部内にも直ぐ参ると考へたものが居ましたか。
石原 満洲事変の様なつもりのものがあつたので、作戦にも夫れが影響して居ります。
殿下 此の事変の始まつた当初の此の機会を利用して、北支と満洲との間に緩衝地帯を思切つて作ると云ふ構想をもつて其ために出兵を主張したと云ふ様な者はありませんでしたか。
石原 そういふ意見は耳にした事はありませんでした。事変当初の処置については満洲事変の経験が多くの影響をして居るのではないかと思ひます。然るに案外昭和七年の満洲の苦い経験を今度も繰返して居るので前の経験をよく吟味して置いたならばと思ふことが多いのであります。真面目な戦史的研究が非常に重大なものではないかと思ひます。「ソ」聯は「ノモンハン」事件で日本軍は張鼓峯の時(注:張鼓峰事件のことと思われる。)の経験を利用して居ないと云つて居るらしいが、非常にもつともだと思ふのであります。

      十四、戦争指導考案に就いて(注:目次では「戦争指導考案に就て」となっている。)
殿下 不拡大方針と作戦範囲との関係は……
石原 最初から支那との戦争は持久戦であると思て居りましたので、作戦範囲を成る可く限定してそこを何年でも持つて居ると云ふ事を考へたのであります。
 最初からどしどし(注:引用元では、2文字分を使った縦書き日本語の繰り返し記号になっていますが、パソコンで表示できないので「どし」と表記しました。)延びて行くと謂ふ事は支那の真面目の抵抗となる事ですし、而も石原は決戦が出来ると考へません。そこで長時日作戦することになりますが、そうすると「ソ」聯が出る心配があるので支那の最少限度の要点をつかんで、若し「ソ」聯がやつて来たならば之をやつつけると云ふ考へでありました。これが私の戦争指導の気持です。
殿下 不拡大方針を執らないで此際一挙問題を片附け様と云ふ考へはなかつたのですか。
石原 私共は其可能性を信じ得ませんでした。一挙に片附け様としましても平時準備が不充分であり輸送力がありません。動員に決心した後の軍の編成動員、集中等は最善を尽したのであります。
 徹底的にやらうと思つても軍事行動は初めはあれ以上のことは出来ないのであります。但し船舶の徴用を更に徹底的にやつたならば或は若干輸送を有利ならしめたかも知れません。
 船舶徴用数決定には私共の不拡大方針の影響が相当あつたかも知れません。其辺の御検討が必要かと存じます。
殿下 閣下の居られる間には不拡大方針を採つて進んで居る中に事変は片附け得ると云ふ見通しを以て居られましたか、或は既に全面戦争は不可避だと言ふ見透しでしたか。
石原 大体上海でぶつかつてごたごた(注:引用元では、2文字分を使った縦書き日本語の繰り返し記号になっていますが、パソコンで表示できないので「ごた」と表記しました。)になつてからは、もうよい講和の「チャンス」があるとは思はれませんでした。
 不拡大方針といふのは政治的問題であり、開戦後作戦範囲の制限といふのは我戦争力の判断に基く軍事上の問題でありまして、政治上の制肘によるものではありませんでした。
殿下 此の支那事変処理方針の一項から二項に移つて内地部隊を動員した時、既に中央部の考へでは徹底的に全面戦争をやる覚悟でありましたのですか。
石原 夫れは全面戦争になると考へて居るけれども、前に述べた南京との外交交渉に依つて根本的転回をなす可能性を有すると思つて居り、若し夫れが駄目な時は全面戦争となり非常に長引くものと考へて居りました。
殿下 第二課にある書類中に、九月十五日閣下の御自分で起案された戦争指導要綱と云ふのがありますが、之が先に言はれた戦争目的に関するものですか。
 部長閣下自分で起案されたと言ふことになつて居りますが。
石原 記憶がありませんが只其の頃私が転任すると思はれましたので何か書いたかも知れません。
殿下 此の頃の戦争目的は……
石原 戦争目的の問題は八月半以前に起りまして内地動員を令せられてからの戦争目的も変化がない訳でありますが、前申しました通り参謀本部としても決定に至りませんでした。
殿下 戦争目的に就いて第一第二部間に対立があつて決裁を仰がれたと言ふ事は……
石原 二三度次長宅に行つたと記憶して居ります。
 永津大佐の意見が、増兵して北京をとれば向ふは参る、と云ふので戦争目的を速かに確立する必要を感じなかつたらしいのであります。
殿下 作戦の当事者に第二部あたりの考が何か作用しましたか。
石原 そんな事もあつて九月頃私に反対した者があるので私は部長たるの資格がないと考へたのであります。
殿下 今井閣下のお考へは。
石原 病気のため意見はなかつたと思ひます。相当に御悪くてそう云ふ事を云ふのは御無理でありました。
殿下 当時全面戦争の計画は全然なかつたのですか。
石原 あり得ないのです。「ソ」聯だけでも兵力が足らないと思ひましたから。
殿下 初めに言はれました支那から戦争が起つた場合の研究はは(注:ママ)……
石原 平時研究は極めて貧弱であつた事が参謀本部不統一の原因となりました。私共責任者として真に申訳ありません。真面目なる日支戦争が起きる可能性は参謀本部としては殆ど考へて居らず、為めに対支作戦計画といふものは頗る不徹底なものでありました。綏遠事件以後位から必要を感じ始めたのですが(作戦部のことで支那課は考へなかつたと思ひます)、其の感じが痛切でなかつた為前申上げました如く対支戦争から始まる戦争計画は遂に立案されなかつたのであります。

      十五、察哈爾作戦(注:察哈爾は内モンゴルのチャハル。このチャハル作戦で、日本軍と内モンゴル軍が察哈爾省・綏遠省を占領し、徳王らが蒙古連盟自治政府を樹立した。)
殿下 察哈爾作戦の問題は。
石原 内蒙作戦が起つたのは之は私の考へでは敵の大将湯恩伯に引摺られたのであります(彼は非常に偉いと思ひます。後の台児荘の時も結局湯恩伯にやられたのです)。此の作戦の時も彼が猛烈果敢に這入つて来て第五師団は予想以上に苦戦しました。特に降雨の為二三日輸送が遅れた為八達嶺の峠を越すのは非常な苦戦でした。此の作戦に就て私の非常に恥しいのは戦前の観察の不十分だつた事です。僅かの間に熱河から張家口をあれだけ敏速にとつて予想以上に大きな作戦を成し就(注:ママ)げた事は誠に関東軍の力で大いに感謝すべきでありますが、参謀本部でもつと忠実に確信ある研究をやつて居らなければならなかつたと思ふのであります。あんな風に簡単に作戦が出来ると云ふ事は予想しなかつたのであります。どれだけの兵力があの地方に作戦し得るものかと云ふのが関東軍の興味ある研究で結果予想以上の大兵力を作戦し得たのではなかと思ひます。平時から尚もつと兵要地理的の観点から研究を必要とすると思ひます。又第一部では大行山脈の山地内にあれ丈の大兵力を持つて来られ様とは夢にも思はなかつたのでありました。上海作戦でも申上げました通り、兵要地理の研究は更に熱心でなければならぬ、又兵要地理は現地の作戦計画以上の広範囲に及んで居なければならないことを痛感致します。

      十六、第五師団の運用
殿下 第五師団の運用に就きまして……
石原 私は山西作戦には極力反対であつたのであります。私の研究した所では山西の地形は「ゲリラ」戦に依る抗戦に適するので、之には手を触れない方が宜しいと思ひました。所が板垣閣下は詳細な手紙を私に寄せて一ヶ師団あれば山西は片附け得るとの事でした。あの手紙を書かない人が斯うして特に書かれたのですから、山西に板垣閣下をやれば良いではないかと思ふようになつて、非常に地理に明るい多田閣下に申しました所、駄目だと云ふことになり一時中止になりました。然し遂に山西作戦を行ふことになつた原因には、此時の強硬な板垣閣下の意見具申が非常に影響して居ると思ふのであります。
殿下 それに関する関東軍との関係は……
石原 記憶して居りません。

      十七、青島(山東)問題
殿下 青島問題に就ては……
石原 青島問題は海軍との間にごたごたがありました。
殿下 平時研究では青島に派兵する様になつて居りますが。
石原 兵力を予想以上に北支に持つて行つた関係もあり、急いでやらなくて良いと云ふことになりました。それに又彼処に派兵すれば我が権益を全部破壊されると想像する点もあり、又列国との関係もあるので支那も居留民を迫害することはなからうといふ見地から直ぐには派兵しないことになりました。
殿下 あそこに海軍から是非揚げると云ふ事の要求は……
石原 海軍は二股だつたと思ひます。どうも海軍の態度がはつきりしませんでした。
殿下 保定、濁流鎮の線に向ふ作戦に策応する戦略的意味で山東方面への出兵問題を考へられた事はありませんでしたか。
石原 策応し得る所まで行けないと言ふ事になりました。一箇師団位の兵力題(注:ママ)は駄目だ、一軍位の兵力が必要だと考へたのです。
 然し若し海軍がやるとなれば、已むを得ず一部を用ひようと考へました。それ以外にありませんでした様に思はれます。

      十八、方面軍編成に関する問題
殿下 方面軍を編成して指導体系を作られた経緯は……
石原 二軍を作つたため方面軍を作らねばならないと云ふだけですが、只寺内大将の方面軍司令官は私共には意外であつたのです。方面軍には平時の計画通り当然阿部信行大将が司令官として御出になるものと考へて居りました。これは政策上面白くないことがあつたらしいのであります。
 政略的見地から動員計画による第二方面軍の名称を避け天津派遣軍と言ふ事に賛成しましたが、之を臨時編成と解し阿部大将でなく他をとつたと言ふのであります。寺内閣下が方面軍司令官になられるに就きましては、杉山大臣から参謀次長に話がなかつたのであります。
 直接総長殿下に御話があつて定まりましたので、そこに何か政策的意味があつたのではないかと思ふのであります。
 つまり寺内閣下が東京に居られる事は杉山閣下に勝手が悪いし、寺内閣下も真崎大将事件等の面倒な事があつた為め、何とか出て行かうと云ふ事を云はれたと承つて居りまして、当時は誠に不愉快な印象を受けたのであります。

      十九、参謀本部内の問題
殿下 参謀本部内のことに就て何か御意見は……
石原 人の問題は仲々うるさい問題で、今日の戦争指導は第一部長が作戦課だけでなしに政策的の課と両方を握るので此の二人の課長をうまく使つて行くことは誰にも仲々出来ません。作戦だけなら人は居りますが、持久戦争の指導に就きましては理解を有する参謀将校は甚だ少ないので非常に「デリケート」な問題だと思ふのであります。
 例へば武藤少将は仲々多方面の人でありましたが、斬(注:ママ。斯?。)う云ふ人が作戦課長で下村閣下が第一部長であつた時は、作戦課・戦争課の二つが無かつた方が良いのではないかと思ふのであります。そして相当広範囲の協調を武藤課長にやらせたいと私は思ふのであります。
 今の稲田〔正純〕大佐は存じませんが参謀本部の編成は目下の状況では主任者の性格能力により相当の柔軟性を要するものと思ひます。制度を確立して之に適する人を求むることは前に申上げました通り仲々困難と存じます。私の時には作戦課内に於て作戦を直接やつて居るものと編成をやつて居る者との間に未だ精神的協同が完全に出来て居ない為め、第一部長と課員との意見も一致しないのであります。それで此の事情を明かにしなければいけなかつたと思ひます。
 第一部長在任中此の考が浮んで来なかつたのが悪かつたのではないかと、罷めてから気附いたのでありますが誠に恥しい次第で御座います。
 尚又私は前に関東軍に居りました際に痛感したのは、参謀部に参謀が多くてはいかんと云ふことであります。そして事務を取扱ふ者をもつと多くすることがよいと思ひます。
 満洲事変当初関東軍では参謀長の下に板垣参謀、石原、中野(良次)、武田(歩兵少佐)、新井、と参謀五人だけでしたから其の間には意見の相違があり得ないので旨く行きました。
 参謀本部でも参謀の数を少くして事務方面の長年勤めらるる人を増加したならば、今度の様な思想の相違は起り得なかつたと思ふのであります。
殿下 当時参謀本部全体を統一する力が必要であつたのではありませんか。
石原 全く必要で当時次長閣下が病気であり、総長殿下を戴いて居りましたが、御歳であります為に一般に御遠慮して御控へして居る向がありましたが、然し大小に拘はらず殿下の御決裁を仰いで下の摩擦を少くしなければならなかつた、と思ふのであります。
 即ち殿下には何も申上げないと云ふことが原因で、ごたごた(注:引用元では、2文字分を使った縦書き日本語の繰り返し記号になっていますが、パソコンで表示できないので「ごた」と表記しました。)を生じ感情問題となつたことが多かつたのであります。
 私は中央部の勤務の経験がないので大きな事は兎に角、細い事が解らないのに拘らず、第一部長として作戦計画をやりましたので第二第三部との関係に於て対立を生じて「こんがらかり」をしたことと思ひます。
 元来第二部が国策的の事をやりましたものを事変前に改正しようとしたが其れが結局行はれて居ませんでした。而して第二部が情報以上に国策的の事をもやるならば之を強い次長が居られて、どんどん第一部との間を統制すべきだと思ひます。

      二十、陸海軍間及省部間の関係
殿下 事変指導に関して陸海軍及省部間の問題等で何か御感想があれば……
石原 陸海軍の問題は存じません。之は両方の研究が足らなかつたのであります。
 省部の間は円満にいつて居たと思ひますが、何かあつたと言ふならば大事な時に参謀次長の御病気が幾分不利益な影響を与へたのではなかつたかと思ひます。
 何と申しましても大事な事、例へば前の南京に対する交渉等の事でも生意気な石原の様な者がやつたから具合が悪いので、円満な十分折合の出来る人なら良かつたので御座います。大臣閣下の如きも私の申す事は大体「うんうん(注:引用元では、2文字分を使った縦書き日本語の繰り返し記号になっていますが、パソコンで表示できないので「うん」と表記しました。)」と聞いて居られましたが、不同意だつたのでした。
殿下 陸軍省はもつと積極的にやると言ふのか、又は全然不拡大のどちらでありましたか。
石原 軍事課と軍務課で違つて居りますが、私の方では軍事課の田中が強い事を言つて居るのだと思ひました。
殿下 陸軍省では軍事課の方が強い様ですが……
石原 軍事課の力の強いのは予算を持つて居るからでせう。

      二十一、対「ソ」対英対米関係
殿下 対「ソ」対英対米の関係は当時どう云ふ風な影響がありましたか。
石原 英国は戦力を有しないので影響はありませんが、海軍は亜米利加の海軍に対し、陸軍は「ソ」聯の陸軍に対して主に考慮しました。
 陸軍では亜米利加は満洲事変にも来なかつたから大体大丈夫だと思つて居りましたが、「ソ」聯は今は来ないが戦争が長引けば来るだらうと云ふことが「ロシヤ」課の意見で御座いました。
 陸軍の作戦は「ソ」聯の影響を強く受けました。それで臨時編成部隊をお作りになつた訳ですが、それが為に斯くの如く長く彼の参戦を押へるのに少なからぬ作用をなして居ることと思ひます。

      二十二、大本営に就て
殿下 大本営に就て何か……
石原 大本営の機能をはつきりし、大本営と政府との間に十分連絡を緊密にして御前会議を度々開いて聖断に依て大事を決して、さうして国策の統制をとる可きであります。夫れでなければ天皇機関説を排撃して居ながら、夫れを自ら行つて居る様なものであります。
 即ち今迄の御前会議では大本営と政府との意見が一致しなければ開かないと云ふ有様で、そうなれば畏くも陛下を控制し奉る様なものであります。
 寧ろ御前会議は大本営と政府の意見が一致しない時に開いて御聖断を仰ぐことが必要だと思ひます。
 つまり問題がこんがらかると理窟ではどうにもならない、そこで御前会議を開いて御聖断を仰ぐと斯ういふ風に考へることが至当と思ふの題(注:ママ)あります。さうでないものですから大本営があつて殆ど無いと異らないと云ふ風な印象があります。
 初めにも申上げましたが、二年にもなつた後で考へた事で色々と錯覚があつたかと思ひ又手前味噌もあつたと思ひますが、其点御許しを御願ひ致します。要するに事変当初作戦部長の重任を担ひながら人格低く真に部下の心からなる一致協力を得兼ね私としては何となく薄暗がりの中で仕事をやつた気持が致します。何とも御申訳のない次第で御座います。






【参考ページ】
1931年 柳条湖事件(満州事変へ)
「満州事変」に関する資料集(1)
「満州事変」に関する資料集(2)
「満州事変」に関する資料集(3)
1936年 中国で西安事件(第2次国共合作へ。蒋介石とスターリンが提携へ。)
1937年 廬溝橋事件(支那事変へ)
「支那事変」に関する資料集(1)
「支那事変」に関する資料集(2) 〜このページ
「支那事変」に関する資料集(3)
「支那事変」に関する資料集(4)



【LINK】
石原莞爾
LINK 石原莞爾 - Wikipedia
LINK クリック20世紀石原 莞爾
LINK ようこそDr.町田のホームページへマイエッセイのページ石原莞爾再考
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 最終戦争論
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 新日本の進路 石原莞爾將軍の遺書
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 戦争史大観
支那派遣軍総司令部「派遣軍将兵に告ぐ」
LINK 臣民の道´,_ゝ`週報 昭和15年度 目次「派遣軍将兵に告ぐ」 支那派遣軍総司令部




参考文献
「《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策編―」角田順 編、原書房、1967年
LINK 永田鉄山 - Wikipedia
LINK 相沢三郎 - Wikipedia
LINK 相沢事件 - Wikipedia
LINK 陸軍士官学校事件 - Wikipedia
LINK 北一輝 - Wikipedia
LINK 革新官僚 - Wikipedia
LINK バーデン=バーデンの密約 - Wikipedia
LINK 皇道派 - Wikipedia
LINK 昭和維新 - Wikipedia
LINK 三月事件 - Wikipedia
LINK 統制派 - Wikipedia
LINK 池田純久 - Wikipedia
LINK 国防の本義と其強化の提唱 - Wikipedia 1934年(昭和9年)10月に陸軍省新聞班が発行したパンフレット
LINK 美濃部達吉 - Wikipedia
LINK 天皇機関説事件 - Wikipedia
LINK 国体明徴声明 - Wikipedia
LINK 綏遠事件 - Wikipedia
LINK 張鼓峰事件 - Wikipedia
LINK チャハル作戦 - Wikipedia
LINK 湯恩伯 - Wikipedia
LINK 台児荘の戦い - Wikipedia
LINK アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン - Wikipedia
LINK 太原作戦 - Wikipedia 山西作戦とも呼ばれる
LINK 真崎甚三郎 - Wikipedia
「東亜の父 石原莞爾」高木清寿著、たまいらぼ(発行者:玉井禮一郎)、1985年(注:この本は復刻版で、元本は錦文書院 1954年です。)
「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」石原莞爾生誕百年祭実行委員会編、原書房、1988年
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 最終戦争論
LINK 臣民の道´,_ゝ`週報 昭和15年度 目次「派遣軍将兵に告ぐ」 支那派遣軍総司令部


更新 2013/5/8

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