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「支那事変」に関する資料集(1)



 角田順 編『《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策編―』(原書房、1967年) p424-425 から引用(注:昭和15年(1940年)というのは、柳条湖事件(満州事変)の9年後、廬溝橋事件(支那事変)の3年後、真珠湾攻撃の1年前である。)
     一三 為阿南次官(十五年三月二十七日)
一 昭和維新ニ対スル責務
軍ハ昭和維新ノ必然性ヲ確認シ其本然ノ任務ニ邁進スルコトニヨリ維新ノ先駆タルヘシ
即チ自ラ維新ヲ全面的ニ実行スヘキモノニアラスト雖国防カ政治ノ中枢問題トナレル今日国防上ノ要求ハ自然政治ノ目標トナルヲ以テ此点ニツキ時勢ヲ達観セル識見ト不動ノ態度トハ最モ強ク軍ニ要求セラルヽ所ナリ
満洲事変後軍カ国防上最小限度ノ要求ヲ世論ニ惑ハス政治ニ拘ラス断乎政府及国民ニ要求シアリシナランニハ昭和維新ハ今日著シキ進展ヲ示シアリシモノト信セラル
二 軍ト政治
軍ハ政治ニ目標ヲ与ヘ自ラ直接之ニ干与スヘキニアラス 然ルニ満洲事変以来自由主義政党政治指導力ヲ失フヤ其後継者ナキ為メ軍ハ政治ノ推進力ト称セラルヽニ至リ特ニ満洲国ニ対スル軍ノ政治指導ハ軍ヲシテ逐次政治ノ渦中ニ投入スルニ至ラシメタリ
此処ニ於テ軍ハ政見ノ相異ニヨリ統一ヲ失フ危険ニ直面シ来レリ 而モ自ラ政治ヲ行フノ機能、能力アリト信シ難シ 即速カニ政治干与ヨリ退却スルハ刻下ノ急務ナリ 国家ハ一時混乱ヲ生スルコトアリトスルモ新政治力ノ発生ハ為メニ促進セラルヘシ
然ルニ其実行恐ラク困難ニシテ遂ニハ軍内閣ノ出現ヲ見テ短期間ニ無能ヲ暴露シ全面的ニ軍ノ威信ヲ失墜スル方向ニ突進シツヽアルヲ思ハシム 真ニ心痛ニ堪ヘス
三 人事ニ就テ
軍ノ人事ハ軍ノ本質上極メテ公正ヲ要スルハ論ナク軍本然ノ任務ノ為メニハ諸事勅命ニヨリ決定セラレアリテ人ニヨリ意見ニ根本的差異ヲ生スルコトナキヲ以テ公正ナル人事ヲ可能ナラシム
然レ共軍ト雖政治ニ干与シアル限リ之ニ関スル人事ハ止ムナク一般政治上ノ人事ト同一要領ニヨラサルヲ得ス 此点ニ関スル見解明瞭ヲ欠ク為メ満洲国ノ指導及支那事変処理ニツキ統一ト一貫性ヲ欠キ混乱ヲ大ナラシメツヽアルハ遺憾ナリ
軍ハ速カニ先ツ政治干与ノ範囲ヲ極力縮少シ其部面ハ同一政見ノ者ヲ以テ上下一貫セル人事ヲ行ハサルヘカラス 即チ支那事変処理ノ為メ及満洲国指導ノ為メノ人事ハ所謂公平人事ニ捉ハルヽコトナク大臣ノ方針ト意見ノ一致シアル人ヲ以テ一貫スルヲ要ス 主義トシテハ文官(大臣、次官)以外ニハ政治的行為ヲ禁セサルヘカラス
下克上及軍人ノ信義ニ対スル世人ノ疑惑亦軍カ政治ニ干与シアル為メ問題ヲ大ニシアルモノト認メラル


 角田順 編『《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策編―』(原書房、1967年) p426-427 から引用。なお、引用文中の(イ)〜(ホ)は、引用元では○囲みになっています。また、引用文中の(注)は、当サイト管理人によるものです。(注:昭和15年(1940年)というのは、柳条湖事件(満州事変)の9年後、廬溝橋事件(支那事変)の3年後、真珠湾攻撃の1年前である。)
     一四 支那事変処理方針(十五年五月十日)
本庄大将渡支ノ際説明要領於饗庭野
一 内地ニ於テハ速ニ米不足等ニ対スル不安ヲ一掃ス
コレカ対策ノ根本ハ国民ニ赤誠ヲ以テ真相ヲ訴フルニアリ
然ラハ多少ノ不安動揺アルニセヨ国民ハ初メテ真剣トナリ真ノ非常時的気分ノ下ニ真ノ挙国一致トナルヘシ
今ヤ「政治家」ニヨリテハ政治シ得サル時代トナリ此大危局ヲ担任シ得ルモノハ素人ニテ可ナリ 唯燃ユルカ如キ赤誠ヲ懐キ支那事変処理ニ関スル信念アル人タラサルヘカラス 此見地ヨリ大将ハ尤モ適任者ト信ス
若シ大命降下スルコトアランカ対支処理ノ根本方針ヲ奏上 御思召ニ合シタルトキハ拝受 内閣成立セハ直チニ臨時議会ノ召集ヲ奏請シ赤心ヲ吐露シテ方針ヲ述ヘ心ヲ虚ウシテ議員ト真剣ニ協議ヲナス 多数ノ賛成ヲ得ル能ハスンハ直チニ総辞職ヲ行フ 多数支持ヲ得ハ議員ヲシテ其選挙区ニ責任ヲ以テ速ニ其方針ヲ徹底セシム
内政ニツキテモ右ノ要領ニ準シ赤誠ヲ以テ政策ヲ明示シ実験ノ結果ト国民ノ声ニヨリ必要ノ際果敢ニ政策ヲ改善着々ト仕事ヲ進ム
国民ハ必ス共鳴協力スルヲ信ス
二 事変ノ処理
1 内面指導ノ大整理ニヨリ支那ノ独立ヲ尊重シ支那人ノ自主的活動ヲ起サシム
(イ)総軍司令部ヲ成ルヘク速ニ上海ニ引キ上ケ南京ヲ汪兆銘ニ解放ス
(ロ)興亜院連絡部ノ廃止
(ハ)特務機関ノ大整理
(ニ)憲兵ヲ第一線ニ推進ス 憲兵ノ任務ハ日本軍及不良日本人ノ取締ニアリ
2 汪政権ニヨリ治安ヲ担任シ得ル範囲ヲ積極的ニ拡大シ其地方ノ日本軍ヲ引キ上ケ要点ニ集結
3 蒋政権ト経済戦ノ体勢ヲ整フ
(イ)日本軍ノ権力ニヨル経済行為ノ廃止、不良日本人ノ取締
(ロ)通貨問題ノ解決
  要スレハ重要物資(綿、タングステン、桐油、漆、錫等)ノ購入ハ支那大衆ノ生活必需品ヲ以テ物々交換ヲ行フ
(ハ)真ニ王道経済ニ共鳴スル日支ノ有力ナル経済人ヲ組織化シ之ニ経済戦ノ実行ヲ一任ス
4 右ノ諸方策略軌道ニ乗ラハ(遅モク(注:ママ)初秋頃)蒋介石ニ東亜聯盟ノ線ニヨリ講和ヲ提議ス
5 蒋カ若シ之ヲ拒否スル時ハ宣戦ヲ布告シ持久戦争ノ指導ヲ更ニ堅実ナル基礎ノ上ニ建テ直ス
(イ)日支戦争ニ使用シ得ル兵力ヲ算討(注:ママ)シ其兵力ニ応スル地域ニ後退ス 海岸ノ重要点ヲ占拠スルヲ目標トス
(ロ)後退ニ当リテハ現ニ占領シアル地域ニ於ケル重要物資資材ヲ全部回収占領地ニ輸送ス
(ハ)占領地ノ政治ヲ根本的ニ一新シテ支那人ヲ活動セシメ民心ヲ安定スルト共ニ経済戦ヲ有利ニ導ク
(ニ)蒋介石屈伏シ来ラハ何時ニテモ東亜聯盟ノ線ニテ講和提携スヘキコトヲ中外ニ明ニス
(ホ)支那ヨリ引キ上ケタル軍隊ハ主トシテ北満ニ移シ対ソ態勢ヲ整ヘ国民ハ更ニ重大ナル犠牲ヲ積極的ニ甘受シテ全国力ヲ集中建設ニ邁進ス


 角田順 編『《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策編―』(原書房、1967年) p491 から引用。「欧洲大戦の進展と支那事変(十六年七月十八日)於大阪学士会倶楽部」の記述のなかの一部分である。なお、引用文中の(注)は、当サイト管理人によるものです。(注:昭和16年(1941年)というのは、柳条湖事件(満州事変)の10年後、廬溝橋事件(支那事変)の4年後、真珠湾攻撃が行われる年である。)
  思想戦
 蒋介石抗戦の最も重要なる要素は、抗日による国民の総動員である。蒋介石政府の宣伝は四億の中国人をして「日本の飽くなき侵略」を常識化してしまつた。これがために徹底せる抗日が、拡等(注:ママ。彼等?)の不抜の信念となつたのである。宣伝下手の日本は、遂にこの形勢を如何ともすることが出来ないで、遺憾ながら思想戦においては甚だしく立ち遅れの姿である。
 この困難なる状況の下に昨年の四月二十九日派遣軍総司令部では「派遣軍将兵に告ぐ」といふ小冊子の中に事変解決の目標を、満洲建国の精神を想ひ起して、道義東亜聯盟の結成にあると主張した。聖戦の目的である東亜新秩序の説明として近衛声明もまだ中国に対し思想戦のため十分な力を発揮出来なかつたのに、この東亜聯盟思想がはじめて重慶に対して思想戦を可能ならしめるの至つた。派遣軍思想戦の大成功といはねばならぬ。第一線に従軍した将兵のみならず、宣撫班員の体験を聴くと、東亜聯盟の思想は非常に良く中国の大衆にも受け容れられるとのことである。新民会宣撫班員の第一線における活動者には、東亜聯盟運動に熱中しているものが多い。
 私の知つている軍医が南京に勤務している。その軍医は東亜聯盟の熱心なる信奉者で、東亜に関する書籍を病院に寄附して白衣の勇士に読ましているが、勇士からは常に多くの感謝の言葉を受けているとのことである。或る日の真夜中に電話が掛つて来た。患者からの電話である。その患者の話によれば、「多くの戦友を失ひ、自分も傷つき、色々深い心の悩みがあつた、ところが今夜偶然東亜聯盟に関する書物を読んで、長い間の悩みが一瞬にして吹つ飛んでしまつた、戦友の犠牲の重大なる意義が始めてはつきりした、嬉しくて嬉しくてどうしても寝られない、その本を見ると寄贈者のあなたのお名前が書かれてあつたので、とうとう我慢が出来ず御迷惑とは思ひながらも、こんな時刻にお電話するこの私の気持をどうぞお汲取りになつてお許しを願ひたい」と泣き声で話をされたので、その軍医も感激して涙を以つて返事をしたとのことであつた。
 汪精衛(注:=汪兆銘)政権の最も悩みとするところは、重慶の抗日建国の主張に対して、和平建国の理論がどうしても民衆に迫力のないことであつた。然るに昨年の夏頃から東亜聯盟思想を彼等の方針として採用することによつて、彼等は始めて重慶に対して思想戦の勝利の見込が十分だと称している。東亜聯盟思想のみが重慶に対して思想攻勢を可能ならしめたのである。日本の総ゆる(注:ママ。あらゆる?)声明に対して常に反駁を怠らない重慶政府は、「派遣軍将兵に告ぐ」の主張する事変解決の目標に対しては沈黙を守つたのである。
 その後南京において東亜聯盟中国同志会や中国総会の発会式が極めて盛大に行はれた場合にも、汪精衛政権に対して常に非難を集中している重慶側は、概ね沈黙の態度をとつたのである。これは東亜聯盟思想が中国大衆に相当の影響を与へているために、重慶側が東亜聯盟を非難することは、思想戦として利益でないといふ見地からとつている態度ではなからうか。
 最近南京から来た人の話によれば、重慶の方から南京に向つて、「お前らは東亜聯盟といふているが、日本政府は東亜聯盟の運動を弾圧しているのではないか」と放送してをつたとのことである。
 若しもそれが事実とすれば、重慶政府自体が東亜聯盟思想に対して恐怖心を持つている証左と見なければならない。いづれにせよ、日本人が考へている以上に、東亜聯盟の思想は、中国人に急速なる影響を与へ、今日まで殆ど光明を認めることが出来なかつた思想戦に、大きな転機を劃せんとしつゝある。
 かくの如く東亜聯盟の思想が迫力をもつている理由は何であらうか。私は次の二つのことを挙げたいと思ふ。
 (イ) 新しい時代精神の把握
 満洲事変以来日本の宣伝戦は完全に失敗している。日本が侵略国であるといふことは殆ど世界の常識となつている。確かに宣伝下手である。だが宣伝下手は寧ろ私は日本人の名誉と考へる。だがこの世界的誤解の根底には、宣伝の上手下手よりも、もつと大事なことがある。それは我々の信念の問題である。満洲事変以来国策に対して国民的の自信がなく、自信がないから根が正直な日本人としては、どうしても果敢な宣伝が不可能で、釈明的態度に陥つたことが益々諸外国をして日本の態度を疑はしめた。
 満洲事変当時、所謂国民使節がアメリカに渡つて努力した。然し彼等のしたことを見るに、すべて消極的釈明に過ぎない。彼等は心の中では「どうも困つたことをやつたな」と思ひながらも、君国のためにそれをアメリカ人に何とか弁解するらしい。弁解すればする程悪結果を生むことは当然ではないか。
 私は満洲国で或外国新聞記者から質問を受けた時、東亜聯盟の思想によつて我々は新しい道義東亜の建設に向つて邁進するんだといふことを堂々と主張した。ところが、その新聞記者は驚いて「それは素晴しいではないか、それなら解る、何故日本はさういふ宣伝をやらないか」といつたことがあつた。
 満洲国のワルソー(注:ワルシャワの英語読み。)駐在の総領事であつた朴錫胤氏は、アメリカから来た女教員団に対して東亜聯盟のことを説いた。ところが、アメリカへ帰つた後の報告に、「新京において我々は不思議なものにぶつかつた」と、この女教員団が驚異の目を以つて聴いたその時のことを書いているとのことである。
 明治維新は日本の維新であつたが、我々の信ずるところによれば、昭和維新は東亜の維新である。次の最終戦争が世界の維新でなければならない。明治維新において、封建日本が、天皇を中心と仰ぎ奉るところの統一せる民族国家になつたのである。昭和維新は、天皇を中心と仰ぐ東亜の大同でなければならない。これなくしては東亜が長く白人の支配下に沈淪しなければならないのである。この感激、この時代認識より来たる自信と感激とによつて、はじめて我々の宣伝に驚くべき威力を与へるのである。
 昭和維新が唱導せられ、革新の必要が痛感されながら、未だ東亜聯盟思想以外にその的を射ているものは見当らない。この意味において、東亜聯盟運動が益々広く、東亜諸民族に大きな感激を与へることが、当然であると私は信ずるのである。
 (ロ) 中国人の東亜聯盟運動に対する信頼
 大きな革新は単なる理論闘争ではなく、実践の上に立たなければならない。東亜聯盟は満洲建国の精神である。民族協和の自然の発展として生れ、十ヶ年の不断の運動が続けられて今日に及んだのである。
 革新時代の新しい精神は、容易に世に容れられないのが当然である。東亜聯盟運動もこの例に漏れなかつた。相当の誤解をも受け、若干の迫害をも体験して来ている。しかしどのやうなことがあつても、満洲国に存在している東亜聯盟運動者は少しもこの信念をまげることなく、堂々闘つて来た。この態度に対する他民族の信頼が今日東亜聯盟運動を急速に発展せしめている原動力である。


LINK 臣民の道´,_ゝ`週報 昭和15年度 目次「派遣軍将兵に告ぐ」 支那派遣軍総司令部







【参考ページ】
1931年 柳条湖事件(満州事変へ)
「満州事変」に関する資料集(1)
「満州事変」に関する資料集(2)
「満州事変」に関する資料集(3)
1936年 中国で西安事件(第2次国共合作へ。蒋介石とスターリンが提携へ。)
1937年 廬溝橋事件(支那事変へ)
「支那事変」に関する資料集(1) 〜このページ
「支那事変」に関する資料集(2)
「支那事変」に関する資料集(3)
「支那事変」に関する資料集(4)



【LINK】
石原莞爾
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LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 戦争史大観
支那派遣軍総司令部「派遣軍将兵に告ぐ」
LINK 臣民の道´,_ゝ`週報 昭和15年度 目次「派遣軍将兵に告ぐ」 支那派遣軍総司令部




参考文献
「《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策編―」角田順 編、原書房、1967年
LINK 汪兆銘 - Wikipedia
LINK コトバンクワルソー とは
「東亜の父 石原莞爾」高木清寿著、たまいらぼ(発行者:玉井禮一郎)、1985年(注:この本は復刻版で、元本は錦文書院 1954年です。)
「永久平和への道 いま、なぜ石原莞爾か」石原莞爾生誕百年祭実行委員会編、原書房、1988年
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 最終戦争論
LINK 臣民の道´,_ゝ`週報 昭和15年度 目次「派遣軍将兵に告ぐ」 支那派遣軍総司令部


更新 2013/5/8

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