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「満州事変」に関する資料集(2)



 角田順 編『《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策篇―』(原書房、1967年) p507-508 から引用。なお、引用文中に挿入した(注)は、当サイト管理人によるものです。
     一三 東 亜 聯 盟 (昭和二十一年)
一 東亜聯盟ハ満洲建国ニ端ヲ発セリ 若シ建国前後ニ於ケル我等カ心境ノ開陳ヲ許サルヽナラハ次ノ如シ
1 満洲事変前満洲ニ於ケル日支ノ紛争ハ日ニ切迫シ日本カ政治的軍事的ニ全面的退却ヲナス以外平和的解決ノ道ナシト判断セラレタリ
 日本ノ退却後蘇聯ノ南下ニ対シ支那カ独力防衛ノ力ナキハ明白ニシテエ日本ノ退却ハ更ニ新シキ東亜ノ不安ヲ招来セン
2 満洲事変ヲ契機トシテ実力ヲ以テ満洲ヲ支那ヨリ分離スル行動ハ重大ナル暴挙ナルハ明ナルモ反面コレニヨリ前項ノ不安ヲ一掃スルト共ニ満洲国ノ建設ニ際シ日本カ深キ反省ノ下ニ本来ノ態度ヲ一変シ
 (1) 満洲ニ於ケル既得ノアラユル権益ヲ満洲国ニ譲与シ
 (2) 各民族ハ満洲国ニ於テ全ク平等ノ待遇ヲ受ケ民族協和ノ実ヲ挙ケルニ於テハ却テ遠カラス支那ノ理解ヲ得テ多年ニ亘ルオ互ノ不信ヲ一掃シ得ヘキヲ信セリ
3 民族協和ノ理想ハ在満支那人中ニモ強キ共鳴ヲ以テ迎ヘタル人多カリシモ彼等ハ日支両国ノ和解ナクシテハ安シテ建国ニ協力シ難シトセルハ当然ナル
 依テ日鮮支各民族ノ同志カ研究協議ノ結果民族協和ノ理解ヲ押シ進メテ道義ニヨル東亜聯盟ヲ結成スヘシトノ結論ニ達セリ コレカタメ支那カ満洲建国ヲ認ムルナラハ日本ハ支那ニ対スル凡テノ権益ヲ返還スヘキモノトセリ 即チ日本ハ治外法権ノ撤廃、租界ノ返還等ハ勿論支那ヨリ完全ニ撤兵シ支那ノ完全ナル独立ニ協力セントスルモノナリ
 東亜聯盟ノ思想ハ満洲国協和会ニ採用セラレ昭和八年三月正式ニ声明セラレタリ
二 満洲事変勃発後一年ナラスシテ関東軍ノ責任者ハ全部転出セシメラレ満洲国ハ右方針ト全ク反対ノ日本独占ノ方向ニ急変シ以後建国同志ノ努力ニヨリ時ニ改善ノ希望ヲ与へタルコトアリシモ遂ニ大勢ヲ挽回スル能ハスシテ今次世界大戦ノ導火線トナレリ 我等ハ全世界ニ向ヒ衷心ヨリ自己ノ不明ヲ陳謝シ、謹テ全責任ヲ負ハント欲スルモノナリ
三 満洲国内情勢ノ変化ニヨリ協和会ハ積極的ニ東亜聯盟ノ運動ヲ展開スル能ハサリシモ協和会東京事務所ハ日本内地ニ東亜聯盟ノ宣伝ニ努力シ特ニ支那事変勃発後ハ全力ヲ之ニ傾注セリ
 此運動カ漸ク世人ノ注目ヲ引クニ至ルヤ 昭和十三年十二月憲兵ハ不当ニモ満洲国大使館内ニアリシ協和会事務所ヲ臨検シ所員ノ大部ヲ拘引半ケ年ニ亘リ之ヲ留置セリ
四 カクテ日本内地ニ於ケル協和会ノ東亜聯盟運動カ全ク停屯(注:ママ。停頓?)セル結果昭和十四年秋東亜聯盟協会誕生シ東亜聯盟ノ方針ニ基キ支那事変ノ全面的解決ヲ計ルヘキヲ主張セリ
  協会ノ創設者ハ代議士木村武雄ナリ(注:行頭が二文字分下がっている。ママ。)
五 支那事変解決ノ遅延ニ伴ヒ国民ノ東亜聯盟ニ対スル関心高マリ 昭和十五年末ニハ相当多数ノ代議士カ聯盟指導ノ下ニ支那現地視察ヲ行ハントスルヤ東条(注:ママ。東條?)陸相ハ甚シク狼狽シテ之ヲ妨害シ遂ニ昭和十六年一月十四日閣議声明ニヨリ暗々裡ニ東亜聯盟解散ノ意ヲ示セリ
六 東亜聯盟ハ右ノ圧迫ニ屈セサリシカ政府ハ進テ解散ヲ命スル勇気ナク遂ニ興亜同盟ナル官製団体ヲ設立シ東亜聯盟協会ヲソノ中ニ吸収セント試ミタリ
 東亜聯盟ハ其試ミニモ服セサリシカ遂ニ名称ヲ東亜聯盟同志会ト改メ之ニ先チテ責任者ハ木村武雄ニ代リテ和田勁就任セリ
七 昭和十六年三月予備役ニ入リシ石原ハ会員ノ要請ヲ斥クル能ハス 遂ニ同志会顧問ヲ受諾シ要求ニ応シテ各地ノ講演会、講習会等ニ出講シ其所信ヲ述ヘタリ
八 同志会ハ会外ヨリ全ク資金的援助ヲ仰カサル団体ナルタメ本部ノ組織ハ貧弱ニシテ指導原理ノ発表以外ニ運動ヲ統制スル能力ナク運動ハ指導原理ニ基キ各支部ノ自主的活動ニ委セリ
 支部内ノ統制ハ中堅会員ノ会議ニヨリ 未タ支部長ナキ支部多数ヲ占メタリ 本部ノ運動方針ハ各支部代表者ノ会議ニヨリテ決定シ 会長ヲ得ルニ至ラサリキ
 顧問ハ会ノ運営ニツイテ進テ干与スル職務ニアラス
九 政府特ニ軍ノ圧迫強化スルニ従ヒ東亜聯盟同志会ハ益々国民大衆ニ日支和解ノ大道ヲ宣伝スルノ要ヲ痛感シテ逐次運動ハ農村方面ニ展開シツヽアリシカ 昭和十七年酵素ニヨル肥料生産及食品加工ノ技術ヲトリ入ルヽニ及ヒ会員数増加ノ傾向漸ク目醒シキモノアルニ至レリ
 酵素ノ培養ハ未タ科学的ニアラス直感ニヨラサルヲ得サル結果 技術ハ慎重ナル訓練ト十分ナル監督ヲ必要トシ普及ニ相当ノ困難アルモ優秀ナル技術者ノ養成ト厳格ナル酵素元種ノ管理ニヨリ昭和十九年頃ヨリ顕著ナル効果ヲ収メ会員数ハ急速ニ増加セリ
十 敗戦後 失心状態ニ陥レル国民ヲ激励シ増産ニ全力ヲ注キツヽアリシ際昭和二十一年一月四日解散命令ヲ発セラル
 会員ハ其理由理(注:ママ。理由?)ヲ解スル能ハス 政府ニ質問セルモ要領ヲ得ス止ムナク直接占領軍ノ司令部ニ陳情セルモ解散理由ノ指示ヲ受クル能ハス


 角田順 編『《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策篇―』(原書房、1967年) p498-499 から引用。なお、引用文中に挿入した(注)は、当サイト管理人によるものです。
     一二 東亜に於ける交通事情 (十六年九月二十二日)
於新潟鉄道局         
(前略)
 戦争と交通輸送とは最大の関係があるのでありますから、軍人は交通について最大の関心を必要とされて居ります。然し乍ら私は只今紹介されました様な交通問題に造詣が深いと云ふ事はないのでありまして、あれは御愛嬌で言はれたのであります。勿論東亜に於ける交通事情と云ふ様な仰々しい題を掲げられて居りますが私にはそんな話をする力は全然ありません。併し交通と云ふ仕事には常に敬意を払つて居るのみならず、満洲事変当時に満洲に居りました関係上特別に新潟に関心があるのであります。極端に言ふと満洲国の生命は新潟にあるとも言へるのでありまして、東亜における交通事情と云ふよりも私の体験談としてお笑ひ下されば結構と思ひます。
 私が関東軍に赴任致しましたのは昭和三年でありまして、其の頃の重大問題は何かと言ひますとソヴイエトと日本との北満に生産される大豆の争奪戦であつて、之に学良が加つて居るのであります。記憶の乏しい私の数字は大部怪しいのでありますが地図を対照して御聴き願ひます。こちらの方は沙漠地帯でありますが南満沿線それから呼海沿線は非常に肥えて居りまして呼海沿線(注:呼海鉄道の沿線という意味だと思われます。呼海鉄道は、哈爾浜(ハルビン)の対岸の馬家船口から呼蘭(フーラン)・綏化(ソイホア)を経て海倫(ハイルン)を結んでいたようです。)に豆が約二百万瓲(注:瓲=トン)出来るのであります。それから哈爾賓(注:哈爾賓=ハルビン)附近に五十万瓲、松花江下流に五十万瓲合計三百万瓲が哈爾賓を中心に出来るのであります。此の豆をウラジオストックに持つて行くか大連に持つて行くかゞ戦であります。それでソ聯は哈爾賓迄の運賃を値下げして逆に長春までの運賃を出来るだけ高く致しました。日本としましては之に対抗して結氷期に哈爾賓から長春迄二百五十粁(注:粁=キロメートル)を馬車で運んで競争したのであります。ソ聯としてもこのやうな賃以上には値上げ出来ないと云ふ状態であります。その出廻には主として凍氷期です。満洲の馬車は冬期には遊んで居りますから、馬の食扶持さへ取れば満人は満足するのでありますから安い運賃で足りるのであります。嘗て(注:かつて)日本では長春から陶頼昭(注:現在の吉林省 松原市 扶余県 陶頼昭鎮 と思われます。ハルビンと長春の中間に位置するようです。)までの北鉄南線を買収しようと努力しました。陶頼昭までは松花江で豆を運び其処から鉄道で大連に運ぶことになるのでありますからそれにはソ聯が応じないのは当然であります。欧洲大戦以後張作霖、学良が英米政策に便乗して日本に対して所謂満鉄の包囲策を始めたのであります。日本は大きな権益を犠牲にして四平街(注:四平街は現在の四平市と思われます。長春と奉天(現在の瀋陽)の中間に位置する。)から洮南(注:洮南=タオナン)への鉄道を布設しそれを斉々哈爾(注:斉斉哈爾=チチハル)の延長更に海倫(注:海倫=ハイルン)方面にすゝめて北満の大豆をねらつたのでした。張家は是れを逆用してケ家屯から打通線をへて胡蘆島と営口に出す考えです。満洲事変当時は洮ミ線の江橋駅には学良の倉庫が出来て居ました。哈爾賓から此処迄は汽船で運ぶ計画だつたと見へます。
 満洲事変が起りますとソ聯は北鉄南線の所有権を利用して哈爾賓(注:哈爾賓=ハルビン)に対する日本の進出を妨げようとする事は当然であります。関東軍が斉々哈爾(注:斉斉哈爾=チチハル)を占領した後で軍事上の必要を理由として斉克線を海倫(注:海倫=ハイルン)に延長し別に拉賓線の建設を関東軍司令官から満鉄に要求したのであります。それまでは満鉄としては拉賓線を考へて居なかつたので、石原重高氏が当時洮ミ鉄道の顧問をして居りましたが私が此の案を見せると非常に驚いたのであります。北満の豆を洮ミ鉄道によつて四平街(注:四平街は現在の四平市と思われます。長春と奉天(現在の瀋陽)の中間に位置する。)に出そうと全力を尽くて居た満鉄人には正に晴天のへきれきであつたのです。愈々正式に命令を出した処が満鉄側から理事がやつて来て拉浜線「若しくは吉林─三姓線」と入れてほしいと了解を求めたのであります。商売の事は識りませんが軍事的見地から満鉄の要求を断つたのであります。満鉄は要するに凡ての物を大連へ持つて来ようと云ふ本能的な考へであります。また私は拉賓線を哈爾賓(注:哈爾賓=ハルビン)の東を通し、呼蘭(注:呼蘭=フーラン)の東に出でて呼海線に接続して新哈爾賓を呼蘭の東方に造りハルピンを殺してやらう(当時はソ聯の勢力下)、と主張しましたが通りませんでした。その後調べて見ればあの処では松花江(注:ハルピンを通っている河の名前。)が船着によくないのです。ハルピンは中々よく選ばれた土地であります。
 話は少し横道に入りますが、愈々哈爾賓(注:哈爾賓=ハルビン)に進軍しますときに日本が困る様にソ聯は極力機関車を引き上げてしまつたのであります。関東軍は機敏に手を廻したので貨車は沢山ありましたが機関車は三台であります。その一台は間もなく転覆してしまつたので二台の機関車しかないのであります。而も線路は連続的な破壊を受けると云ふ状態であります。仙台の歩兵第四聯隊が双城堡(注:双城堡は現在の双城市と思われます。ハルピンの南方に位置する。)で苦戦したのも斯う云ふ関係であります。それで四呎八吋の機関車を五呎の広軌鉄道に合ふ様に変へてどうやら哈爾賓(注:哈爾賓=ハルビン)へ入りました。其時哈爾賓入城後私は北鉄の理事長に会つたのであります。私は日本人の前に出ては気が小さいので話が良く出来ませんが、毛唐の前へ出ますと其の間に通訳が居る関係もありまして相当図々しく話をする事が出来まして面白いものであります。哈爾賓の北鉄理事長室は立派なものでありました。其処で理事長は先づ私は、此度の厚意に対しては日本の将兵一同は深甚なる感謝の意を表してゐる、と申しました処苦い顔をしました。それから、「君等は良かつたが支那軍が言ふ事を聴かなかつたら一寸無理をやつた、哈爾賓までの鉄道を四呎八吋にするには我々なら一晩で出来るので直ぐにやらうと云ふ意見もあつたが、それでは余り君等に失礼であると考へたからそれは中止して、唯機関車がなかつたから南満鉄道の機関車を若干急いて五呎に直して哈爾賓へもつて来たからその点了解して呉れ」と挨拶をしました。実は苦心惨担して漸く五呎に直したのですが。其の時の彼等のドギマギした恰好は私の頗る愉快な思出であります。
(後略)


当時の「満州日報」の新聞記事
LINK 神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ【 新聞記事文庫 】新聞記事文庫 鉄道(25-072) 満州日報 1932.7.25-1932.7.29(昭和7) 満洲国の手に帰した呼海鉄道を往く ハルビンにて 神蔵特派員発





【参考ページ】
1905年 日米間でハリマン事件(南満州鉄道の経営権問題)
1931年 柳条湖事件(満州事変へ)
「満州事変」に関する資料集(1)
「満州事変」に関する資料集(2) 〜このページ
「満州事変」に関する資料集(3)
1936年 中国で西安事件(第2次国共合作へ。蒋介石とスターリンが提携へ。)
1937年 廬溝橋事件(支那事変へ)
「支那事変」に関する資料集(1)
「支那事変」に関する資料集(2)
「支那事変」に関する資料集(3)
「支那事変」に関する資料集(4)


【LINK】
石原莞爾
LINK 石原莞爾 - Wikipedia
LINK クリック20世紀石原 莞爾
LINK ようこそDr.町田のホームページへマイエッセイのページ石原莞爾再考
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 最終戦争論
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 新日本の進路 石原莞爾將軍の遺書
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 戦争史大観




参考文献
「《明治百年史叢書》 石原莞爾資料 ―国防論策篇―」角田順 編、原書房、1967年
「東亜の父 石原莞爾」高木清寿著、たまいらぼ(発行者:玉井禮一郎)、1985年(注:この本は復刻版で、元本は錦文書院 1954年です。)
「グローバル アクセス 世界地図帳」昭文社、2002年
LINK 青空文庫作家別作品リスト:石原 莞爾石原莞爾 最終戦争論
LINK コトバンク屯・噸・瓲 とは
LINK コトバンク哈爾賓 とは
LINK Google ブックス呼海沿線密山縣經濟事情(南満洲鐵道株式會社 哈爾濱事務所)昭和4年(1929年)発行(1ページ)呼海沿線經濟事情 第一 呼海鐵道の概要
 このサイトに次の記述がある。『本鐵道(注:呼海鉄道のこと)は北満の穀倉と稱せらるゝ肥沃なる平野を南北に貫通する黒龍江省唯一の省有鐵道にて、哈爾濱(注:ハルビン)の對岸馬家船口に起り呼蘭、綏化を經て海倫に達する二二一粁一三一の延長を有するものなり。』
LINK 神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ【 新聞記事文庫 】新聞記事文庫 鉄道(25-072) 満州日報 1932.7.25-1932.7.29(昭和7) 満洲国の手に帰した呼海鉄道を往く ハルビンにて 神蔵特派員発
LINK 松花江 - Wikipedia
LINK Weblio辞書嘗て とは
LINK 陶頼昭駅 - Wikipedia
LINK Google マップ ≫ 中華人民共和国 松原市 扶余県 陶頼昭鎮
LINK 四平市 - Wikipedia
LINK 双城市 - Wikipedia
LINK 神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ【 新聞記事文庫 】新聞記事文庫 鉄道(22-015)大阪朝日新聞 1927.10.28(昭和2) 問題の打通線いよいよ開通す 日本の抗議で却って予定より早く 満鉄にとって打撃
 このサイトに次の記述がある。『打通線は京奉鐵道の打虎山驛より八道溝(張作霖所有の炭山あり)新立屯(満鐵の■(注:「権」の旧字か?)利に屬(注:「属」の旧字と思われる。)する新邱炭山あり)彰武を經て四洮鐵道通遼支線の通遼(パインタラ)に至る延長約百三十マイル餘にして(以下略)
LINK カ盧スツ蟒ヒ、ホカフシ 「(注:文字化け)南満州鉄道(満鉄)路線図
LINK 野次馬的アジア研究中心世界飛び地領土研究会租界もどきの怪しい特殊地域
LINK 野次馬的アジア研究中心世界飛び地領土研究会関東州


更新 2013/11/7

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