大東亜戦争(太平洋戦争)と人種偏見について西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」(文春文庫、2009年)p238 から引用します。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。 |
(前略) スペイン人によるインディオ征服は、けっして不用意に企てられたものではない。アメリカの初代大統領ワシントンは、インディアンを猛獣と称し、狼と同じだが形が違うといった。第三代大統領トマス・ジェファーソンは、インディアンに向かって、子どもたちとか、わが子どもたちと話しかけた。白人との結婚を奨励することによって、人種改良が可能かもしれないという考えを思い浮かべた者もいる。これは第二次大戦に際して、第三十二代大統領フランクリン・ローズヴェルトが、日本人を戦後どうすべきかを考えた際に思いついたアイデアと同じものであった。彼は日本人が狂暴なのは頭蓋骨の形態にあると本気で信じていた。 第二十六代大統領セオドア・ローズヴェルト、これはフランクリンのおじにあたり、日露戦争終結の仲介役になった人物だが、彼はアメリカインディアンの事実上の絶滅を支持すると公言した人物でもあった。こうした露骨な人種差別は、ジョン・ダワーに言わせると、ゴビノーをはじめとする十九世紀の科学的人種主義の思想的裏付けによって登場したのである。解剖学、骨相学(こつそうがく)、進化論、民族史学、神学、言語学といった、あらゆる学問を利用して、ヨーロッパ人は何世紀か前にすでに非白人の特性とするものを原始性、未熟、知的道徳的情緒的欠陥として指摘し、有色人種の生来の特徴であるとみなしていた。 (後略) |
( 当サイト管理人による注 この著作「決定版 国民の歴史」の参考文献に、ジョン・W・ダワー著「人種偏見」(斎藤元一訳、TBSブリタニカ)が掲げられているので、「ジョン・ダワーに言わせると」というのは、これを指しているものと思われます。 ジョン・ダワー - Wikipedia ) |
西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」(文春文庫、2009年)p239-240 から引用します。なお、引用文中の(注)と太字は、当サイト管理人が施したものです。 |
(前略)(注:この部分では、アメリカでの中国人移民とインディアンに対する人種偏見について触れている。) 一八五四年に侮辱的な決定がなされた。白人のかかわる裁判で中国人は証人となることを禁じられた。すでにインディアンが同様の措置を講じられており、インディアンと中国人は同じ人種だからというのが理由だった。一八七九年にカリフォルニアの州憲法は、中国人に対して、精神遅滞者や精神障害者に対してのと同様に参政権を拒否し、三年後の一八八二年に中国人のアメリカへの移民を禁止した。そして、日系移民が登場するのはその直後であったということは、出会いの不幸を際立たせている。 一八八二年に中国人の移民が禁止されたあとに、日本人が移住してきたのはまさに不運なタイミングであった。信用できない不道徳な労働者というステレオタイプが、そのまま日本人移民にはりつけられた。中国人に対しては、単に侮辱のイメージが与えられたにとどまったが、日本人は脅威とされ、恐怖の存在になった。なぜならば、日本人移民の背後には、強力な陸海軍と帝国政府が控えていたからである。 しかし、日本人に対しても、インディアンや中国人に対すると同じように、非白人一般に関する劣った種の生き物であるとのレッテルがはられ、それが大衆だけではなく、アメリカの指導階級にまで及んでいたことはまぎれもない。何世紀にもわたってこの幻想は伝えられていた。終戦間際の、太平洋での日本人の大量死を説明するときにも使われた。すなわち「彼らは敏感な白人のようには痛みを感じず、彼らにとって生命は安価だというのだった」(ジョン・ダワー)。 日露戦争が終わって、日本は疲弊していた。アメリカを友好国であると信じていた。他方、アメリカは日露戦争が戦われている最中においてすでに日本に恐怖を抱き始めていた。 (以下略) |
西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」(文春文庫、2009年)p243-244 から引用します。なお、引用文中の(注)と標題以外の太字は、当サイト管理人が施したものです。 |
イエローペーパーが標的にした日本人 ウィリアム・R・ハーストという人物がいる。大金持ちで、アメリカの情報産業を振りまわした男だ。映画とか目立つものを買いまくり、鉱山王となり、新聞社を買収して大儲けをしてのし上がって一大コンツェルンをつくった男である。エジプトでミイラを買い、カリフォルニアの山脈を買い、チベットの羊の群れを買ったかと思うと、スペインの寺院を買い、それを取り壊して箱に詰めて船でニューヨークに運んだけれど、実際に建ち上げられたものは自分では見ていない。 このハーストという名前は、日本人にはこのうえもなく不愉快な名前である。日本に対する悪言罵倒を書き並べることで、センセーショナリズムをかきたてたイエローペーパーこそ、ハースト系の新聞といわれるものである。新聞の影響力というのは事実の報道なんかと関係はない。キャンペーンをはる。あることないこと、嘘も真実になる。これをもってスペインとの戦争の最中には、ハースト系新聞はさんざんな反スペイン・キャンペーンをやった。 (中略)(注:この部分では、日本のマスコミと日露戦争後の日比谷焼打ち事件について触れている。) ハースト系新聞の根拠のない情報は、アメリカ社会を津波のように押し流していった。スペインという敵が消えたあとで、アメリカのこのイエローペーパーが標的にして狙ったのは日本であった。日露戦争で日本が勝利を収めると、いっぺんに起こったのは反日運動であった。 (後略)(注:この部分では、サンフランシスコ、ロスアンジェルスなどでの反日的な社会状況、などについて触れている。) |
( 当サイト管理人による注 ウィリアム・ランドルフ・ハースト - Wikipedia このウィキペディアによると、ハースト(1863−1951)は米国生まれで、父が銀鉱山を当てて富豪となったようだ。ピーク時には、いくつかのラジオ局と映画会社そして28の新聞と18の雑誌を所有した。オーソン・ウェルズの映画「市民ケーン」のモデルらしい。 コトバンク ≫ イエローペーパー とは コトバンク ≫ イエロージャーナリズム とは イエロー・ジャーナリズム - Wikipedia アメリカ合衆国のニュース・メディア - Wikipedia Category:アメリカ合衆国のメディア - Wikipedia ) |
西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」(文春文庫、2009年)p246-253 から引用します。なお、引用文中の(注)と標題以外の太字は、当サイト管理人が施したものです。 また、ここで述べている「ローズヴェルト大統領」は、セオドア・ルーズヴェルト(第26代米国大統領)であって、フランクリン・ルーズヴェルト(第32代米国大統領)ではないので念のため。ここでは主に、日露戦争後の状況が語られている。 |
(注:セオドア・ルーズヴェルトは、フランクリン・ルーズヴェルトの従兄(いとこ)(12親等)に当たる。(従兄(いとこ)なのになぜ12親等なのか、当サイト管理人には良くわかりません。)また、フランクリン・ルーズヴェルトは、セオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)のアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚している。(出典: フランクリン・ルーズベルト - Wikipedia の「 生い立ちと家族」の項 ) ) |
(前略)(注:この部分では、サンフランシスコ、ロスアンジェルスなどでの反日的な社会状況、などについて触れている。) 麻田貞雄『両大戦間の日米関係』第六章「人種と文化の相克」に沿って当時の状況を追跡してみよう。 セオドア・ローズヴェルト大統領の人種差別感情 ローズヴェルト大統領は、表向き非常に親日的な心情を持っていて、たとえば新渡戸稲造の『武士道』を読んで心を打たれ、自分は人種偏見はこれっぽちも抱いていないと、あえて公言する大統領であった。しかもこの人は日露戦争の最後のポーツマス条約をまとめてくれた親日的側面もあり、平生は日本人の政治家、軍人をヨーロッパの文明国民と同じように扱う態度を示していた。しかし、それは個人的に日本人と出会う場合に限られていた。移民のような大集団の移住となると、これは話は別だ、と彼は言った。彼がインディアンの絶滅を広言していたことは前に書いた(注:西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」p238 で記述されている。それは、このページの1つ目に引用した部分に含まれている。)。 問題は日本人の優劣にあるのではない。事実彼は多くの点で日本人の優秀さを認めていた。日本人との相違、違っているということに問題があるのだ、と彼は言った。「日米間の人種的相違にはきわめて根深いものがあるので、ヨーロッパ系のわれわれが日本人を理解し、また彼らがわれわれを理解するのは至難である。一世代の間に日本人がアメリカに同化することはとうてい望めないので、日本人の社会的接触はアメリカ国内の人種対立をますます悪化させ、惨憺たる結果をもたらす。その危険からアメリカ国民を守らねばならない」と彼は語りさえした。このとき不思議なことに、国内の黒人の存在は彼の眼中にないのだった。 ローズヴェルトは、日本の近代化の達成をほめちぎり、西洋文明への順応性を歴史の奇跡であるとすら述べた人物であるが、しかし自分の身近に多数の日本人が住み着くことには絶対に反対であった。 その頃、日本人移民における特異な現象として注目をひいたのは「写真花嫁」の呼び寄せであった。結婚相手を写真の交換で決めて、婚姻の手続きを終えてからアメリカに呼ぶというこの方式は、アメリカの公徳を乱すという反対運動のために、日本政府はその慣行を禁止したほどであった。 日本人移民は、特定の地域に集中して日本人街をつくるといって非難されたが、しかし都市のゲットーに密集したのはユダヤ人やその他の新移民とて同じであり、アメリカ化への第一歩として各国の移民たちがみな一度はたどる道であった。日本人は人種偏見のために同化不能の烙印を押されて、市民権を獲得する資格のない外国人の地位に落とされた。日本人には帰化権が認められなかった。ヨーロッパの移民はすぐに帰化してアメリカ市民になり、選挙などの政治参加を通じて地位向上を期待できたが、日系移民にはその道が封じられてしまった。 日本人は実際には数が少ないにもかかわらず、どういうわけか標的になりやすかった。たとえば在米日本人会が結成されると、アメリカを乗っ取る日本の計画の一部だと喧伝され、東京政府からの指令によって動かされているスパイの手先であるというようなことが、まことしやかに論じられたりしたのである。 ローズヴェルト大統領は「日本人は勤勉で節倹精神に富んでいるので、カリフォルニアが彼らを締め出そうとするのも無理はない」と書いたが、勤勉とか節倹などは、当時のアメリカ人が尊重していた道徳であった。ローズヴェルトは、日本人は劣っているからではなく、優れているからこそ排斥されねばならない、という言葉まで残している。 一九〇六年、サンフランシスコの教育委員会が、日本人学童を公立小学校から隔離して、東洋人学校に通わせるという決議を採択した。この問題を契機に、日本とアメリカの間に開戦説が燃え上がったことは悪夢といってよかった。ハースト系新聞(注:「ハースト系新聞」については、このページの3つ目の引用文を参照のこと。)は、日露戦争の直後に除隊した日本の兵卒が大挙してわが太平洋側に押し寄せてくることは確実だ、などと騒ぎ立てる記事を載せた。 ここで注目されなければならないのは、麻田氏(注:同書「決定版 国民の歴史」の参考文献に、麻田貞雄著「両大戦間の日米関係」(東京大学出版会)が掲げられている。)も述べているとおり、異常なまでにエスカレートしたこの日米開戦説が、ハースト系イエローペーパーに限られたわけではなく、アメリカ政府首脳の反応のなかにも、ほぼそれに近い危機感があったという事実である。 ローズヴェルトは、「日本が中国を改造するのに成功すれば、白色人種に関するかぎり、世界の勢力均衡に大変動をきたすであろう」と書いていた。日本の支配のもとに中国の資源と四億人のマンパワーが結集されれば西洋の白人世界は確実に厳しい挑戦を受けることになるという、いわゆる「黄禍論」の悪夢が強烈に沸き起こったのである。発達する日本の背後に中国の人口を見る恐怖は、以来西洋人の伝統的な発想となった。もちろん、サンフランシスコの学童隔離問題を発端に、大統領が本気で戦争を決意するなどということはありえない。彼は地方の教育委員会のこの決定を愚行として退け、冷静な対応をしたことは事実である。しかし、心の中では彼が何を考えていたかはわからない。なぜならば、アメリカは州政府の力が強いために、中央政府からの圧力は往々にして後退を余儀なくされてきたからである。 当時のルート国務長官は、日本人移民問題を軍事的脅威と結びつけてとらえてさえいた。彼は異人種の大群による占領を食い止めようというカリフォルニア州民の気持ちもよくわかるという同情的な言葉を残し、日本人は好戦的であり、アメリカ太平洋側まで奪い取る実力があり、その危険は今や目前に迫っていると、本気で心配していた。 『海上権力史論』を書いたことで知られる有名なマハン提督は、日露戦争における日本の軍略家秋山真之に大きな影響を与えた人物だが、この彼が、もし日本がさらに労働者をアメリカに移住させる権利を要求するならば、早晩戦争になるだろう、自分に言わせれば、ロッキー山脈以西がアジア人で埋められてしまう権利を認めるくらいなら、明日にでも戦争をするほうをむしろ選ぶだろう、というヒステリックな叫び声を残している。 忘れられている「白船事件」 日露戦争が勝利で終わった直後の新しい、冷たい太平洋の向こう側の壁は、日本の政治指導者のあいだに激しい危機感を呼び起こした。アメリカだけではなく、カナダやオーストラリアにおいても排日の共同戦線が張られた。 日本は日露戦争の勝利をへて顔を欧米社会に向け、いわゆる「脱亜入欧」の方針をもって単独の先進国の道を歩み始めていた。もとより、幕末には勝海舟のように、東アジアに侵略してくる欧米勢力には中国や朝鮮と手を携えて当たるべきだとするアジア大同団結の思想があった。しかし、両国が旧い体制にしがみついていて、日本がしびれを切らして共闘をあきらめたいきさつは前項の23「朝鮮はなぜ眠りつづけたのか」に書いたとおりだ。日本が日露戦争で結局のところ二国間戦争という選択をしたのは、もちろん中国と朝鮮がそれに対応できるだけの力を持たないという事情にあったことは第一の理由である。しかし、およらく当時の日本の指導者は白色人種と黄色人種の対立の図式になることを、欧米側が恐れていることを敏感に察知していたに違いない。日露戦争の戦費の多くをイギリスやアメリカの援助によって賄わなければならなかった日本は、事実上アングロ・サクソンの傀儡にほかならなかった。また、そうでなければ、あの困難なアジア情勢のなかで生き延びていくことはできなかった。日本にはきわめてリアルな恐怖による自己抑制の機能がはたらいていた。そしてようやくの思いで困難な戦争に勝ち「坂の上の雲」をのぼりつめて手につかんだと思った矢先に、形式上の一等国であり、国際政治の場で五大国に遇されても、実際上は虫けら同様に扱われている現実を前にして、いちじるしくプライドを傷つけられたのだった。 しかし、カリフォルニアの興奮に比べて、当時の日本は冷静で、しかも一貫して慎重であった。ハースト系新聞が日米開戦を書きたて、アメリカの政府筋にもその機運が兆していたのと対照的に、日本政府は過激な論調を抑え、むしろカリフォルニアの労働者問題を、戦争の危険をおかすほどの重大事件とはまったく考えないという沈着な対応に終始していた。 何度でも言っておくが、勝手に興奮し、相手を仮想敵国扱いしたのはアメリカのほうが先なのである。 もちろん日露戦争で疲労困憊してしまった日本としては、何かここで新しいことをしでかす余力があるはずもない。しかし、日本の思惑とはかかわりなしに、世界にはいつのまにか日米戦争熱が広がっていた。デマがどこから出たかはわからない。アメリカがどこまで本気であったかはさらにわからない。が、欧米先進国のあいだで日米開戦の幻想が一人歩きしはじめたのである。 ルート国務長官はマハン海軍提督に書簡を送って、日本人のあいだに広く反米感情が募りつつあるので、世論の燃え上がりいかんによっては、偶発事故でも日本政府を戦争に駆りたてる危険がないわけではないと述べた。ローズヴェルトの伝記には、彼が友人に宛てた手紙が紹介されている。「日本が攻撃を仕掛けてくるとは十中八九信じていなかったが、一割の可能性は否定できなかった」。 日本社会のなかにはそのような危機を示した痕跡はなにひとつ残っていないのにである。 なんと驚くべきことに、アメリカはこのとき突如として対日威嚇行動に出た。一九〇八年三月(注:世界一周航海は、1907年12月16日〜1909年2月22日。1908年3月の時点では、太平洋側のメキシコあたりにいたようだ。(出典: グレート・ホワイト・フリート - Wikipedia ) )のことである。 アメリカの大西洋艦隊を大挙して太平洋に回航させ、日本近海に近づけるという行動に出たのである。日本の連合艦隊の二倍の規模もある大艦隊の接近は、たちまちのうちに日本に恐慌をもたらした。白船来航。船は白いペンキで塗りたくられていて、グレート・ホワイト・フリートと呼ばれていたので、日本ではかつての黒船と区別して白船と言い始めた。どういうわけか、歴史のエアポケットに落ち込んで、ほとんど今日知られていないこの重大な出来事を、豊富な資料でリアルに劇的に記述した猪瀬直樹氏の『黒船の世紀』を引例しつつ、粗筋をたどってみることにしよう。 (以下略)(注:以降の部分では、「白船来航」つまりアメリカ大西洋艦隊の世界一周航海と日本への寄港について記述されている。) |
( 当サイト管理人による注 ウィリアム・ランドルフ・ハースト - Wikipedia (人) このウィキペディアによると、ハースト(1863−1951)は米国産まれで、父が銀鉱山を当てて富豪となったようだ。ピーク時には、いくつかのラジオ局と映画会社そして28の新聞と18の雑誌を所有した。オーソン・ウェルズの映画「市民ケーン」のモデルらしい。 セオドア・ルーズベルト - Wikipedia 歴代アメリカ合衆国大統領の一覧 - Wikipedia エリフ・ルート - Wikipedia (人) アルフレッド・セイヤー・マハン - Wikipedia (人) グレート・ホワイト・フリート - Wikipedia (アメリカ海軍大西洋艦隊の名称) 1907年 アメリカ大西洋艦隊の世界一周(〜1909) ) |
ルディ・カウスブルック著「西欧の植民地喪失と日本 オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所」(近藤紀子訳、草思社、1998年)p95-97 から引用します。なお、引用文中の(注)と太字は、当サイト管理人が施したものです。 |
東南アジアを舞台に演じられた悲劇は、西欧植民地支配の伝統にかなった、日本人に対する人種差別の遺産であると私は確信する。これが戦争を引き起こしたと言うつもりはないが、日本軍占領時の人種関係にその刻印を印したことは確かだ。D・ファン・フェルデンも、その著名な書『第二次世界大戦における日本軍民間人抑留所』で、「アメリカ人もヨーロッパ人もアジア民族をいつも蔑んできて、対等にあつかうことをしなかった。(中略)(注:引用元自体が中略としている。)率直に言うと、日本軍は日本軍で、抑留所を報復のひとつの道具として利用した」と述べている。 戦時中にいたっては、西欧の抱く日本人像が包み隠さずさらけだされたと言えよう。連合軍の戦争政治宣伝はおおっぴらにレイシズムそのものである。そのよい例に<これが敵だ!>というコピーのついたポスターがある――ここには、裸の白人女性を連れ去ろうとする、卑劣漢に仕立てられた日本兵が描かれている(中頁のグラビアを参照)。(注:このポスターの画像などが掲載されている。) 私が個人的に覚えている戦時の資料がある。J・レイクフックは、スマトラ島東岸の日本軍抑留所生活を記した『黄色い蟻の蔓延』のなかで、一九四四年十一月のある日、シ・レンゴ - レンゴ抑留所の被抑留者に数部の「日本タイムズ」が配られたことを記述して、「日本軍抑留所の所長は何ゆえにわれわれにこの新聞を配ったのだろうか。というのは、この八月五日と六日付の新聞には、アメリカ兵が自分の妻、婚約者、子供たちに戦死した日本兵の骨や頭蓋骨を玩具として送った、という情報記事が(チューリヒ経由で受信されたとされる)九段も割いて掲載されていたからだ」 私はこのシ・レンゴ - レンゴ抑留所に入っていたので、その新聞が回覧されたときのことはいまでもよく覚えている。その際のわれわれの反応はここに書くまでもなく、「われわれ白色人種はそんなことはしない」と、誰一人この情報を信じる者はいなかったし、日本軍の戦争宣伝は狂気じみた偽りとでっちあげ以外の何物でもないという証拠をこの新聞記事に読みとっただけだった。 戦後だいぶたってからのことだったが、私はこの情報が事実にもとづいていることを発見した――アメリカ兵が自分の婚約者にお土産として送った日本人の頭蓋骨の写真が当時(一九四三年)の「ライフ」誌に掲載されていたのだ(中頁のグラビアを参照)。ドナルド・キーンは『アジアの荒地から』のなかで、アメリカ海軍の中尉が、自分の息子に約束した“日本野郎の耳を一対”わが物にしたいがために、他の者の協力を請うたことを書いている。 (以下略) |
ルディ・カウスブルック著「西欧の植民地喪失と日本 オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所」(近藤紀子訳、草思社、1998年)p116-117 から引用します。なお、引用文中の(注)と太字は、当サイト管理人が施したものです。 |
(前略) この「デリのオランダ人史」(注:引用元の脚注に「スマトラ東岸のメダンを中心とする広大な地方をデリと呼んでいる。」と記されている。)を“例外的なこと”とか、“一時的な逸脱行為”だったとする試みがまたなされようが、そうではなかったことは歴然としている。バタヴィア(注:ジャカルタの旧名)の法廷、オランダ領東インド政府(オランダ領東インド政府は一九三六年に国際連盟から、刑罰制(注:ここでは、大農園主が逃亡した農園で働くクーリーを自分で処罰できる制度を指している。)を“徐々に”廃止することを真剣に検討するよう勧告をうけた)、オランダ本国の植民地担当大臣、農園企業界、そして多くの個々のオランダ人、これらがすべて共謀者であったことは疑う余地のないところであるからだ。 レムレフ報告書自体は、ある変化の到来を告げており、ある程度は一時代の終焉を成しているのは確かだが、“ある程度は”と断るのは、報告書をひじょうに巧妙なやり方で隠し通してきた事実があるからだ。報告書をこのように長いあいだ隠し通すことができたのはなぜか、徹底的に調べあげることが必要とされよう。 また、東インド総督は何ゆえにレムレフに調査を要請したのか、誰かがこの辺の背後にある事情を掘り下げてくれることを希望する――レムレフはその名前が示すように(レムレフ=Rhemrev はフェルメール=Vermehr を逆さ読みしたもので、異種族間の結婚でできた子孫には、父方の苗字の逆さ読みがよく使われた)、インド・ヨーロッパの混血である。この種の調査指令をインド・ヨーロッパ混血の人間に出すとは、勇気と啓蒙化の表れだったのか、それともその反対に、調査をできるだけ難航させようとして意図的にやったことなのか。 反インド・ヨーロッパ混血を題材とする、J・クレイアンの『デリの農園企業主』を読むとわかることだが、「若々しい喜びを発散させ、公平さを重んじ、公明正大な処置を所信とする、かぎりなく寛大な眼差しのスマトラ東岸の男衆」は大いなる反インド・ヨーロッパ混血人観を抱いていた。この点からすると、私にはレムレフは故意に狼の群れに投げだされたという気がしてならない。 ブレーマンが指摘しているように、このような戦慄すべき事態はデリの農園企業だけで起こったのではない。サワルント(西スマトラの山岳地帯の町)のオムビリン炭鉱、レジャン・スリッツ(スマトラ西岸の町)の炭鉱などの国営炭鉱における状況も、天にも届く悲惨さであった。一九〇二年の初頭に、フーチンクは東インド東部の炭鉱を何か所か視察して、報告書を提出している。フーチンクから引用しよう。 (後略) |
ルディ・カウスブルック著「西欧の植民地喪失と日本 オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所」(近藤紀子訳、草思社、1998年)p119 から引用します。なお、引用文中の(注)と太字は、当サイト管理人が施したものです。 |
(前略) われわれオランダ人は、過去四十年間もの長きにわたって日本人に対する不満を延々と述べつづけてきているが、こういった自分たちの悪弊が日本人の振る舞いとはちがっているとでも思っているのだろうか。泰緬およびパカンバル鉄道敷設工事の犠牲者数はどうのこうのとか、虐待は云々とか、隅から隅まで調べあげて、犠牲者名簿や追悼の書を出版したが、自分たちが手を下して殺害したり、虐待して死に追いやったりしたインドネシア人には心を砕くこともなく、彼らの名前は、永遠に誰の知るところでもない。 私がひじょうに怒りを覚えるのは、ウィレム・ブランツのように、自分たちの暗黒の過去を知りすぎるほどよく知っていながら、日本軍抑留所(ブランツも私も入っていた抑留所では、オランダ人のしたような戦慄すべき行為はおよそ見られなかった)でひどいあつかいをうけたと激しく怒りたっては、あっぱれな嘘を長年にわたって言いつづけてきた者がいるということである。 そうだ――これはいい考えだ!――これからは、八月十五日の記念式典(注:引用元の脚注に「オランダでは日本降伏記念式典と称している。」と記されている。)では、われわれ自身のことはすこし差し控えて、われわれに酷使されて死んだり、餓死させられたり、蹴り殺されたりした、数かぎりない名もなき哀れな者たちのことに思いを馳せようではないか。 |
考察NIPPON ≫ 外務省極秘文書「日本外交の過誤」−(5) 日ソ中立条約締結(2008年6月3日付) このサイトのなかで、松岡洋右のアメリカ観を物語るものとして、坂本慎一 著「ラジオの戦争責任」(PHP新書、 2008年)p156 から引用されています。これを、孫引きします。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。 |
オレゴン州ポートランドへ行った松岡は、ダンバー家に引き取られ、学校へ通った。人種差別にあいながらも、やがてオレゴン州立大学を無事に卒業した。 のちにアメリカ人とはどんな人間かと問われ、松岡は次のように答えている。 『 野中に一本道があるとする。人一人やっと通れる細い道だ。君がこっちから歩いていくと、アメリカ人が向こうから歩いてくる。野原の真ん中で、君たちははち合わせだ。向こうも引かない。 そうやってしばらく互いににらみ合っているうちに、しびれを切らしたアメリカ人はげんこつを固めてポカンと君の横っ面を殴ってくるよ、さあ、その時にハッと思って頭を下げて横に退いて相手を通してみたまえ。この次からそんな道で行き合えば、彼は必ずものを言わずに殴ってくる。それが一番効果的な手段だと思うわけだ。 しかし、その一回目に君がへこたれないで、何くそと相手を殴り返してやる。するとアメリカ人はびっくりして君を見直すんだ。おやおや、こいつやちょっとイケル奴だというわけだな。そしてそれから無二の親友になれるチャンスがでてくる』 (松岡洋右伝記刊行会編「松岡洋右−その人と生涯」 松岡はこれと同様のことを、周囲の人間に対して頻繁に語っていたようである。 アメリカ人に対して絶対に譲歩してはならないというのが、アメリカに滞在してえた経験則なのであった。 『ラジオの戦争責任』P.156 |
【LINK】 人種思想の歴史 松岡正剛の千夜千冊TOP ≫ 1422夜『アーリア神話』レオン・ポリアコフ 大東亜戦争(太平洋戦争) 株式日記と経済展望 ≫ 「人種戦争」 アジア人が、白人を「劣等で、従属すみなべき人間」と見傲すようになった(2016年1月5日付) by ジェラルド・ホーン |
・ジェラルド・ホーン著「人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争 もう一つの真実」加瀬英明 監修、藤田裕行 訳、祥伝社、2015年 |
産経ニュース ≫ 【入門・日米戦争どっちが悪い(7)】最初から落とすつもりだった原爆 相手が日本人だから大量虐殺(2017年1月15日付の記事) アメリカの排日政策 反日・自虐史観を排した歴史年表 ≫ アメリカの排日の歴史(日露戦争〜絶対的排日移民法成立) 反日・自虐史観を排した歴史年表 ≫ 支那人移民禁止法制定(1882年) 反日・自虐史観を排した歴史年表 ≫ 日本人移民増加(18世紀末から) 反日・自虐史観を排した歴史年表 ≫ 日米紳士協定(1908年) 反日・自虐史観を排した歴史年表 ≫ 第一次排日土地法(1913年) 反日・自虐史観を排した歴史年表 ≫ 第二次排日土地法(1920年) 反日・自虐史観を排した歴史年表 ≫ 絶対的排日移民法(1924年) 中国人排斥法 - Wikipedia カリフォルニア州外国人土地法 - Wikipedia 排日移民法 - Wikipedia (正確には、移民法の一部改正。1924年7月1日施行。) YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第64回 第64回:日本は自己の国際的評判を冷静に知っていた フランクリン・ルーズベルト フランクリン・ルーズベルト - Wikipedia の「「人種改良論者」」の項 かつて日本は美しかった ≫ 「ハル・ノート」の根底にあった人種差別 日系アメリカ人の強制収容 日系人の強制収容 - Wikipedia 日系人収容所所在地 - Wikipedia わんだーらぼ ≫ 【画像】1942年にアメリカ・カリフォルニアで強制収容所に入れられる日系人の女の子…海外の反応 国際派日本人養成講座(既刊閲覧、ガイド、索引) ≫ 地球史探訪:無言の誇り 〜1998年(平成10年)9月19日付 アメリカのマスコミ 海外のお前ら ≫ 日本が真珠湾攻撃をした後のサンフランシスコの朝を捉えた写真(海外の反応) 〜新聞の見出しが、「NAVY HUNTS JAPS OFF PACIFIC COAST」と読める。 NHK総合放送「NHKスペシャル 憎しみはこうして激化した 〜戦争とプロパガンダ〜」(2015年8月7日放送) Michael Yon JP ≫ 米国、日本、中国、その他:プロパガンダフィルム(2015年8月10日付) |
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株式日記と経済展望 ≫ 『日米開戦の人種的側面、アメリカの反省1944』 日本人への差別、さらに
強制収容所の悲劇をルポルタージュにまとめた。本書は第一級史料である。 |