1937年 日本軍が南京を占領このページは、まだ完成していないのですが、とりあえずアップしてしまうことにしました。 納得がいくまでには、どんどん時間が掛かってしまいそうなので、アップした上で更新と充実を図って行きます。 なお、当サイト管理人は、南京大虐殺はなかった派です。他の戦場と特別には変わらない、と考えています。 |
中国側の宣伝工作が、1937年12月ころから始まっていたことが判明しています。このページの【中国側のねつ造と宣伝工作(プロパガンダ)】の項だけでも、読んでいただければと思います。 (当サイト管理人の意見:まずはじめに、南京占領時に日本軍が南京市民などを大量に虐殺したとする主張(南京事件あるいは南京大虐殺事件)について、当サイト管理人は賛同しません。他の一般的な戦場でみられるような戦闘・殺害・処刑・徴用などがあったでしょうが、一般市民の大量虐殺はなかったと考えています。その主な理由は、次のとおり。 @虐殺があったとする多くの証言があるわけですが、ほとんどが証言のみで確たる証拠がありません。 A多くの写真や映像(マギーフィルムなど)がありますが、多くは死体やけが人の写真であり、キャプションや説明文がわい曲・ねつ造されたものが多く、証拠となるようなものがほとんどない。 B当時の中国国民党(第2次国共合作時)は、反日宣伝(プロパガンダ)を組織的に大規模に行っていたことが判明している。 C南京陥落時に軍服を脱ぎ捨てて市民にまぎれた便衣兵が、日本軍が残虐行為を行っているように見せるため(宣伝工作)、日本兵の振りをして犯罪行為を行っていた事件があったことも確認されている。 C戦後の日本の多くのマスコミや活動家らも、虐殺事件があったとする立場から、多くの証言がわい曲されて引用されたとみられる。 D当時の日本軍の軍紀は全般的に■であった。南京でだけ軍紀が乱れたとみる理由がない。 E反対に中国軍の軍紀は日本人の常識を越える乱れようである。南京陥落前に中国兵が南京市内で掠奪・強盗・放火を行ったことがわかっている。一般に中国兵は戦況が不利になると軍服を脱ぎ捨て一般市民のふりをして逃げ、掠奪などを行う風があった。また、逃亡兵を罰するために督戦隊というものがあり逃亡兵に銃撃を加えていた。南京においても挹江門■の付近でこれが行われた■。もっと大きく見た場合、1937年の通州事件、1938年の黄河決壊事件、1946年の通化事件といった大きな事件をはじめとして、中国軍の残虐ぶりが随所にみられる。 F中国側は、中国人同士の内戦や支那事変(日中戦争)における中国軍よる残虐行為を覆い隠して日本軍の責に帰すため、南京事件(南京大虐殺事件)をねつ造したものとみられる。 G終戦後のアメリカは、原爆の使用や東京大空襲などの戦争犯罪(非戦闘員・一般市民の大量殺害)といえる残虐行為を正当化するため、日本軍は残虐非道であったと詭弁を作り出し、その最大の事件として中国側のねつ造した南京事件を東京裁判でとりあげ、GHQの占領統治時代に日本国民に対して広く組織的なプロパンダを行い日本国民を洗脳した■とみられる。 ) |
この時までの支那事変(日中戦争)の状況を、簡単に振り返ると次のとおり。 なお、中国側は第二次国共合作時であるが、中国軍の主力はほぼ中国国民党軍である。 1937年(昭和12年)7月7日に、北平(現在の北京)郊外の廬溝橋付近で、夜間演習中の日本軍部隊に何者かが発砲し(注:中国共産党の劉少奇による工作とする説もある。)、日中間で軍事衝突が発生した(廬溝橋事件)。7月11日(20時00分?)に現地で停戦の合意ができたにもかかわらず、中国側は、7月13日の大紅門事件、7月25日の廊坊事件、7月26日の広安門事件と、立て続けに日本軍を攻撃する。さらに7月29日には、通州で日本人(注:260人?230名?。大多数は居留民。約8割?約5割?は朝鮮系日本籍。)がむごたらしく惨殺され(通州事件)、これにより日本の世論は激高した。日本軍も本格的な攻撃を開始し、華北地域での全面的な軍事衝突となった。 1937年 廬溝橋事件(支那事変へ) 同年8月に、事態は上海に飛び火する。8月9日に上海で、大山中尉殺害事件(注:日本海軍の大山勇夫中尉(死後大尉に特進)ほか1名が殺害された事件。)が発生。8月13日には、上海でも、日中両軍の本格的な衝突が始まる(第二次上海事変)。中国軍は、ドイツ(注)の指導によりトーチカを構築するなど上海での軍事体制を整えており、上海周辺の戦いで日本軍に猛攻を加えた。また、ソ連は飛行機400〜500機と操縦士・教官を中国側に送り込んだ(出典: 第二次上海事変 - Wikipedia )。日本側も、日本内地から増援部隊が送られ、上海で3か月間の激戦が続いた。3か月間での日本側の戦死者は10,076名、負傷者31,866名(出典: 第二次上海事変 - Wikipedia )。 |
(注:「ドイツが日独同盟で親日政策を執るようになったのは、1938年3月リッベントロップが外相に就任して以降のことで、それまでは米英と同様、日本を敵視し、蒋介石軍に武器援助と、軍事顧問団を送っていた。」(引用:田中正明著「「南京事件」の総括」p136) ) |
中国軍では、戦場から退却する中国兵に対して、中国軍の督戦隊が銃撃を加えていた。特に10月13日の楊行鎮方面呉淞クリーク南方では、数度の激しい同士討ちで数千名の死傷者を出している。また、10月21日に、中国の軍法執行総監部は、督戦隊の後方にさらに死刑の権限を持った督察官を派遣して前線将兵の取締りを行う、と発表している。(出典: 第二次上海事変 - Wikipedia ) 11月9日に、中国軍は、南京(蒋介石政府の首都)に向けて一斉に退却を始めた。日本軍は退却する中国軍に対して急追を行っている。中国軍は退却にあたって堅壁清野(けんぺきせいや)と呼ばれる焦土作戦を用いた。退却する際に住民などに対する掠奪・破壊・放火が行われ、反抗する中国人を漢奸として処刑の対象にしたが、逆に住民側が中国兵を殺害することもあったという。また、上海のフランス租界では、中国側の敗残兵により重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵と便衣兵に対処するため銃撃戦も発生している。 第二次上海事変 - Wikipedia 南方戦線(上海方面)での中国軍の多数の負傷者が、南京や蕪湖方面に後送された。11月下旬ころには、南京市内の政府機関や個人の私邸まで病室にあてられ、「全市医薬の香がび慢したる状態なり」という証言もある。このなかから多くの死亡者(数千人規模?)を出したものと考えられるが、東京裁判などではこの点はまったく考慮されていない。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p160-163) 南京城外の周囲15マイル(およそ24km)が焦土化された(出典: 堅壁清野 - Wikipedia )。 今尚進行するWar Guilt Information Program(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)に対抗する為の資料収集を目的とするサイト ≫ 「南京大虐殺」はWGIPのメインテーマです ≫ 日本軍の行動 ≫ 南京攻略作戦経過要図 〜地図です。戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』からの引用のようです。 上海から逃走する中国軍を急追して南京に迫った日本軍によって、南京攻略戦が始まる。 12月1日、南京城内に「安全区」を設定して「南京安全区国際委員会」を設置、南京市長の馬超俊は南京市民に安全区へ移住するよう命じ、450名の警察官を残して国際委員会に市民の保護を依頼した。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p135) 12月7日、蒋介石・宋美齢(蒋介石夫人)・何應欽(軍政部長)・白崇禧(参謀総長)ら首脳が南京を脱出。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p139)これに続いて、富裕階層、高級官僚、司法院・行政院・立法院の官吏、教師、警察官、郵便局員、電話・電信・水道局の工員なども南京を脱出、10日〜12日には電話・水道・電気が止まり、警察・裁判所もなく南京は無政府状態となって中国人(中国兵を含む)による掠奪・強盗・放火が行われた。陥落後の南京(翌昭和13年ころ)では、泥棒市で略奪品らしきものが売られていたという。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p141 、同p150-151 および 同p158-159 ) 東京日日新聞が12月20日夕刊で報じた記事での某外国人(特に匿名)の日誌によると、12月7日に蒋介石が飛行機で南京を脱出すると、南京市民は難民区(安全区)に雪崩込み、12月8日には、馬超俊(南京市長)が南京を脱出し、南京郊外の中国軍が民家に火を放って四方から火焔が起こったほか、南京市内でも火災があり、南京市民が逃げ惑った。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p158-159) 12月9日、日本軍は、中国軍に対する降伏勧告文を空から散布した。交渉期限を12月10日正午としたが、指定した会談の場所に中国側は現れなかった。 中国軍の指揮官である唐生智(司令長官)(注)は、12月12日夕刻に将兵を残したまま南京を脱出している。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p141-143) |
(注: 昭和12年12月20日付の朝日新聞で、唐生智は、その統率能力が糾弾されて、12月18日に軍法会議にかけられ、19日に銃殺刑に処されたと伝えられたが、これは誤報であた。唐生智は、後に反蒋介石の立場をとって1949年には共産党側につき、1970年まで生きている。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p143-144 および 唐生智 - Wikipedia ) ) |
包囲完了はいつ? 12月13日?、日本軍が南京に入城。 【日本軍】 日本軍(中支那方面軍)の編成は以下のとおりで、「総兵力は約一〇万と号していたが、上海戦での消耗はげしく、実際に南京戦に参加した兵力は七万〜八万ていどとみられている。」(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p128-129) 中支那方面軍(松井石根 大将) ○上海派遣軍(朝香宮鳩彦王 中将) ・第16師団(京都) ・第9師団(金沢) ・第11師団天谷支隊(善通寺) ・第13師団(高田)山田支隊 ・第3師団(名古屋)の一部 ・第101師団(東京)の一部 ○第十軍(柳川平助 中将) ・第6師団(熊本)(注:出典元の田中正明著「「南京事件」の総括」p128では「熊木」となっているが、「熊本」の誤りと思われる。 第6師団 (日本軍) - Wikipedia ) ・第114師団(宇都宮) ・第18師団の一部(国崎支隊) 【中国軍】 中国軍の編成は以下のとおり。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p131-132。これは、張其的・魏汝霖編著『抗日戦史』中華民国国防研究院出版を基としている。) 日本軍は中国の首都防衛軍を10万人とみていたが、実際の総兵力は5万人程度かもしくはそれを下回っていたようで、5万〜3万5千とみられる。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p132-134) 司令長官 唐生智 副長官 羅卓英・劉興 第2軍団 徐源泉(41師、48師) 第66軍 葉肇(159師、160師) 第74軍 兪済時(51師、58師) 第83軍 ケ竜光(154師、156師) 第71軍 王敬玖(87師) 第72軍 孫元良(88師) 第78軍 宋希謙(36師) 教導総体 桂永清 第103師 何知重 第112師 霍守義 江寧要塞司令 陌百昌 憲兵部隊(両団) 蕭山令 その他砲兵、通信部隊 中国軍は上海戦と南京への退却で大きな損害を受け、新兵の補充も行って軍紀も乱れていたようです。 『 なお唐生智は十一月二十八日、外人記者会見で、中国軍は訓練も足りず、規律も良くないので、不祥事が起こるかも知れない、無用の外人は退去されたいと警告している。部下が何をしでかすかわからん、責任はもてないから退去せよというのである。このため、後述の国際委員会の委員一五名、新聞記者五名、若干の公館員等二十数名を残すほかは、十二月七日の蒋介石脱出と前後して南京を退去している。』(引用:田中正明著「「南京事件」の総括」p134) 『 なお、松井大将は東京裁判宣誓口供書の中でも次のように述べている。 「支那軍は退却に際しては所謂(いわゆる)『清野戦術』を採り、所在の重要交通機関及び建築物の破壊焼却を行はしめたるのみならず、一部将兵は、所謂『便衣兵』となり、軍服を脱ぎ、平衣を纏(まと)ふて残留し、我が将兵を狙撃し、我軍の背後を脅かすもの少からず、附近の人民も亦(また)あるいは電線を切断し、あるいは烽火(ほうか)を上ぐる等、直接間接に支那軍の戦闘に協力し、我軍に幾多の危難を与へたり」 』(引用:田中正明著「「南京事件」の総括」p153) 焦土作戦 督戦隊 唐生智将軍は、12月12日夕方、各部隊は随時脱出をはかれと言い遺し、揚子江を渡って対岸に遁走した。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p208) 【戦闘の概要(主なもの)】 ○地図 次のサイトの地図も参照のこと。 電脳日本の歴史研究会 ≫ 南京大虐殺はウソだ! ≫ 参考資料 ≫ 首都・南京が陥落した時の状況 の「南京の地理」の項 〜全体像をイメージしやすい地図です。参考になりました。 電脳日本の歴史研究会 ≫ 南京大虐殺はウソだ! ≫ "南京大虐殺(南京事件)"の地域と期間 〜中国側発表資料「対日戦争史録」による地図だそうです。 今尚進行するWar Guilt Information Program(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)に対抗する為の資料収集を目的とするサイト ≫ 「南京大虐殺」はWGIPのメインテーマです ≫ 日本軍の行動 ≫ 南京攻略作戦経過要図 南京付近戦闘経過要図 淮河河畔への進出作戦経過要図 〜地図。戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』からの引用のようです。 南京攻略戦 - Wikipedia の「ファイル:Battle of Nanking 1937.jpg 」 Googl マップ ≫ 南京付近の地図 ○上海派遣軍(朝香宮中将) 紫金山の戦い ・第十六師団麾下(きか)の歩兵第三十三連隊(三重県津市・野田謙吾大佐)が紫金山の攻撃を命じられた。12月10日正午に攻撃開始し、三日三晩の死闘を経て、12日18時ころ主嶺を奪取、その後南京城に迫り13日午前3時10分に中山門を占領した。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p166-167) 下関(シャーカン)の戦い ・歩兵第三十旅団長佐々木到一少将は支隊を編成し、敵の退路遮断のため、紫金山山麓から太平門(北東側)・平和門(北側)を制圧し、下関街道を急進撃した。先頭部隊は12月13日10時ころ下関に突入、挹江門(北西側)から下関への道路にひしめく中国軍を攻撃し、揚子江岸から舟などで対岸に逃れようとする中国軍を攻撃した。1万5千発の弾丸を撃ち尽くす猛攻だったらしい。また、海軍の第十一戦隊も揚子江を遡行して13日午前10時に南京に到着し、砲艦「保津」「勢多」を先頭に一斉に砲門を開いて、中国敗残兵に攻撃を加えた。さらに、国崎支隊は13日午後4時に下関の対岸である浦口に来着して、上陸してくる中国兵を殲滅した。敵屍1万数千との日本側証言もある。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p168-169) 光華門の戦い ・第九師団の先頭部隊である歩兵第三十六連隊(鯖江・脇坂次郎大佐)は12月9日払暁に光華門に到着、山砲2門で砲撃を加え、城壁上部の土嚢が崩れて急斜坂ができると斜面に3段の掩体(注:敵弾から味方の射手を守るための土嚢などの設備。)を設けて死守したが、10日・11日と耐えた後、12日に弾薬が尽きて大半が死傷し城門内に下った。脇坂部隊第一大隊は残部をもって集成中隊を編成し城門内への弾薬・糧秣の補給図ったが失敗したが、それでも城門内の将兵はここを死守していた。13日暁闇の午前4時ころ敵軍の銃声がとだえ、光華門が確保された。日本側の戦死257名・負傷546名という。なお、第三師団の先遣隊は13日に、第九師団の左翼に進出して南京攻略戦に加わった。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p170-171) ○第十軍(柳川中将) 雨花台の戦い ・第四十七連隊の第十一中隊(首藤中尉)は12月10日夜に雨花台の八二高地の夜襲に成功したが、中国軍に包囲されて猛攻を受け激戦となった。11日朝に救援の第十中隊がかけつけた。第十一中隊は当初250名であったが、八二高地の夜襲の際には94名、救援がきたときには24名にまで減っていた。中国側の「塹壕内には小銃、機関銃の薬莢(やっきょう)が山のように散乱し、無数の死体がころがっており、トーチカの中には、自らの足を鎖でつないで抗戦し、そのままの姿で斃れていた兵隊もいた。」(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p171-173) レディバード号事件 ・12月12日早朝、野戦重砲兵第十三連隊(橋本欣五郎大佐)は、朝霧のなか敗残兵を満載して揚子江上流へ向かって逃走中の中国側船団を射撃したが、この船団の中にイギリスの砲艦レディバード号が含まれていた。日本政府や松井大将がイギリス側に陳謝したが、レディバード号に中国の敗残兵が乗っていたことは明らかで大きな問題にはならなかった。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p173-174) 城壁一番乗り(中華門) ・「都城の歩兵第二十三連隊は面善橋を占領、中華門から西南突角の城壁に突破路を作るべく猛砲撃を加えた。敵は不規則な波状地とクリークを利用して死にもの狂いで抗戦したが、ついに十二日十六時、これを排除してその一角を占拠した。」しかし、これよりやや早く、歩兵第四十七連隊(大分市・長谷川正憲大佐)の三明保真中隊の決死隊6名が竹梯子2本をつないで城壁にたてかけてよじ登り、頂上まで6メートル足りなかったが煉瓦や生えていた雑木を足がかりに頂上へ到達し、日章旗をうちたてた。日章旗を掲げたのは、昭和12年12月12日12時という(当サイト管理人による注:本当なの?)。城壁上で猛攻を受け白兵戦となるが死守した。これが引き金となって、南京城内の中国軍は全面的崩壊がはじまったという。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p174-175) 上河鎮・新河鎮の戦い(南京西側の城外地域) ・当サイト管理人の理解としては次のとおり。歩兵第四十五連隊は、南京城外の西側地域を南から北に下関方面へ向かって進撃した。江東門(地名)や上新河(地名)において、南京城の西側(挹江門?)から脱出し逃走を図った中国軍の大軍と衝突し激戦となった。日本軍よりも中国軍が多数であったが、この地域は池・川・沼地が多く、中国軍は横に広く展開することができずに縦列のまま日本軍と衝突し次々と撃破されたとみられる。中国軍には督戦隊がいたとの証言もある。中国側は多数(3000人規模)の戦死者を出した。川岸に死体が山となっている写真も残っており、戦死者であるにもかかわらず住民虐殺の証拠として扱われることもあった。 ・歩兵第四十五連隊は、12月10日、揚子江に沿って敵の大部隊が南進中との情報に接し、急遽、歩兵第四十五連隊と騎兵第六連隊はこれを迎撃すべく北上することになった。12月10日、歩兵第四十五連隊は第三大隊を先頭に、連隊本部、第二大隊、第一大隊、騎兵、独立山砲の順序で西善橋を出発し、城壁西側の湿地帯に通ずる狭い堤防道を一列縦隊で前進した。この一帯は沼地で、西には幅約50メートルの夾江が流れ、葦の茂る大きな梅子洲(ばいすしゅう・=江心洲)があり、この洲の向うを揚子江が流れている。12月11日早朝、第三大隊が上河鎮西南方1キロの堤防上に停止、前方に射撃音が聞こえ、先頭にあった第十一中隊が攻撃を開始、中国側は上河鎮に後退した。第十二中隊(田中軍吉大尉)が上河鎮に猛攻を続行したが占領に至らず夜になり、夜襲も試みたが不成功。翌12月12日、他の中隊の支援を得て上河鎮は陥落した。この第十二中隊の田中軍吉大尉は戦後に「三百人斬り」の罪(かど)で告発され、「百人斬り」で告発された向井少尉・野田少尉とともに南京法廷で銃殺された。田中軍吉大尉が実際に戦ったのはこの上河鎮での戦闘だけだという。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p204-205) ・歩兵第四十五連隊(竹下義晴大佐)は、12月12日夕刻に棉花地を出発し、上河鎮を制圧。翌13日払暁には新河鎮において、城内から敗走してきた約1万の中国軍と激戦が始まり5時間近い白兵戦となった。日本側は第11中隊(大薗庄蔵大尉)と山砲・工兵各1小隊(高橋義彦中尉)。この戦闘で、日本側は大薗庄蔵大尉が戦死し80人が死傷、中国側の遺棄死体は堤防上に約2300人と揚子江岸に約1000人。さらに、この第四十五連隊は、江東門でも三叉河(さんさが)でも城内から脱出してきた敗残兵と戦い、13日午後に下関に到達、4000〜5000人ほどの捕虜をとらえたが全員をその場で釈放し、江東門に引き返してしばらくここに駐留した。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p175-176)この約5000人の釈放された捕虜たちは、本多勝一著『南京への道P』(『朝日ジャーナル』昭59・8・3のp41-42)によると、一同がそれぞれ白旗を作らされて木の枝などに結び、軍服を脱いで川岸に散乱していた住民の捨てた荷や衣類のなかからそれに着替えて、白旗をかかげてそれぞれの故郷にばらばらに出発した。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p56-57) ・「敵の遺棄死体の中には、軍司令部要員と思われる中将、大佐、中佐の死体があり、おそらく最後の司令部の強行突破による脱出作戦ではなかったかと思われる。また参謀の死体からは「武漢までの作戦計画および配置要図」が発見された。」(引用:田中正明著「「南京事件」の総括」p209) ・この戦闘に加わっていた高橋義彦氏が、督戦隊について証言している。「五時間ちかい戦いも後半戦となると、押しよせる敵の突撃部隊も、便衣の民兵らしい兵隊で、ヘナヘナ腰で押し出してくる。異様な感じがしたのでよく見ると、日本軍に阻(はば)まれて進むに進めず、逃げようとする兵を督戦隊が後方にいてこれを射殺するのである。督戦隊は「督戦」という腕章をつけ、大型モーゼル銃をかまえて約四歩間隔に横に展開しており、突撃をひるむ友軍を後方から射つのである。味方に撃ち殺された敵死体は約一割の三〇〇は下らないと思われる。何というひどいことをやるものかと、高橋氏は胆をつぶすほどおどろいたという。」(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p208) |
これとは異なる証言など ・湖南省の木材商(中国人?)が自分の木材の安否をたしかめるためにやってきて、おびただしい死体を見て驚き、のちに28,730人を虐殺する場面を見たという証言を行った。南京大虐殺記念館の設立主旨にも謳われているという。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p207) ・1983年に、「毎日新聞」(昭和58年8月16日付)が、南京大虐殺の写真(2枚?)として、「南京大虐殺は事実だ/証拠写真を元日本兵が撮影していた」と題して大きく報道した。これに対し、新河鎮での戦闘に加わっていた高橋義彦氏は、このうち1枚の写真は見覚えのある風景で、新河鎮での戦死者の写真であると証言している。高橋氏と阿羅健一氏が別個に毎日新聞に問い合わせたが何の返事もなかったという。のちに、写真の撮影者は村瀬守保氏であることがわかったが、どこで撮影したかをあいまいにしているという。 また、これらの写真は次のものに使われており、南京大虐殺を立証するものとして代表的な写真になっているという。 @南京市文史資料研究会発行の『証言・南京大虐殺』の口絵。 A『南京大屠殺紀念館』に飾られた。 B南京大屠殺紀念館が販売する『侵華日軍南京大屠殺暴行照片集』の表紙および中味。 C藤原彰著『南京大虐殺』(岩波書店)の挿絵。 (出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p209-211) |
江東門(地名)の戦い(南京西側の城外地域) ・(当時は江東河の東側を江東門、西側を江東村といった。現在は両地区を江東門という。)12月12日に上河鎮が陥落した後、歩兵第四十五連隊の第二大隊(先頭は第七中隊)が江東門を占領した。この時に敵の姿はなかった。第二大隊はここで一泊して翌12月13日早朝に下関に向けて出発した。その後12月13日9時ころ、第三大隊が江東村にさしかかった。ここで、水西門(南京城の西側の門?)方面から脱出してきた敵の敗残兵から射撃を受け第九中隊が応戦し戦闘となった。手榴弾の投げあいとなり、最後には白兵戦となった。中国側は100ちかい遺棄死体をのこして遁走、日本側の死傷者は十数名。「このときの遺棄死体の埋葬が、のちの“万人坑”の白骨の堆積と宣伝されたものとみてまちがいない。」南京大屠殺紀念館と万人坑は、江東村にある。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p206 および 211-212) 三叉河(さんさが・地名)の戦い ・12月13日早朝に江東門を出発して濃霧のなか北上した歩兵第四十五連隊の第二大隊は、三叉河において敵と遭遇した。敵は江岸(揚子江?別の河?)に近い3階建ての工場に立てこもるなどして頑強に抵抗した。日本軍の機関銃中隊と配属の速射砲小隊が駆けつけ一斉に援護射撃を行い、敵はクリーク北岸に潰走した。日本軍はクリーク南岸に進出、約20メートル離れた北岸から猛射をうけた。約20分の撃ち合いの後、敵は多数の死体を遺棄して下関方面に退散した。敵の死者は正確にはわからないが数百とみられる。薄暮となったため、第二大隊は三叉河で宿営した。翌12月14日に下関に進出し、そこで戦意を失った捕虜約5000人を捕え、武器も捕獲した。この捕虜はその場で全員釈放した。その後、命令により江東門まで引き返し、太平府への転進までそこに駐留した。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p212-213。成友藤夫第二大隊長の『回想録』を中心に。) 仙鶴門鎮の戦い ・12月13日夜10時すぎ、中国軍の「首都防衛決死隊」が、仙鶴門鎮に宿泊していた日本軍の集成騎兵隊第一第二中隊と独攻重砲の1中隊へ夜襲をかけた。中国側の部隊は東側の玄武門から出て、チャルメラ風のラッパを吹いて日本軍を攻撃、白兵戦ののち中国側は多数の遺棄死体を残して退却した。また翌14日8時ころには、近くの揚山(堯化門南方の楊坊山?)に向かって遁走する中国側大部隊と交戦となったが、日本軍の増援部隊が到着し、中国側は正午ころ堯化門付近で白旗をかかげて投降した。この捕虜(その多くが「首都防衛決死隊」のと書いた布を胸に縫い付けていた。)の数は約8000人(注:約7000人とする資料もある。)で、とりあえず武装解除したうえ最終的には中山門へ連行した。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p176-177) ○海軍 パネー号事件 ・12月■日、日本の海軍機がアメリカのパネー号を誤爆した。「わが方の過失であることは間違いなく、政府もくり返し平身低頭して陳謝し、松井大将も米提督カーネル少将に面会して、遺憾の意を表した。ルーズベルト米大統領は、これを機会に対日宣戦布告まで謀議したといわれる。いちじ険悪が伝えられたが、日本国民の間から、募金によりパネー号を新造して弁償しようという声がおこり、当時の「東京日日新聞」が窓口となって、国民運動にまで発展し、政府と国民が一体となっての誠心誠意の陳謝に、米の怒りもとけた。」(引用:田中正明著「「南京事件」の総括」p173-174) 【南京への入城】 当サイト管理人の考える全体的なイメージとしては、次のとおり。 南京の南方面や東方面の城壁を守っていた中国兵は、城壁の防御が無理だと判断すると一斉に逃走を始めた。南京北西部の挹江門などから揚子江方面への脱出を図ったり、軍服などを脱ぎ捨てて難民区(安全区)へ紛れ込んだりしたものと思われる。 ただし、挹江門は閉ざされており、逃走する中国兵は約20メートルほどの高さがある城壁からロープや衣類をつなぎ合わせたものを垂らして脱出したが、その下には約300体の死体があり落下して死亡したものとみられる。脱出に成功して逃走した兵も、城外の日本軍に撃たれてかなりの数が戦死している模様。 また、難民区に逃げ込んだ便衣兵は放火などの悪事を働いた。後に日本軍は便衣兵の摘発を行っているが、摘発を逃れた便衣兵は犯罪を犯したり(日本兵のふりをする者もいたと考えられる。)、日本軍が蛮行を行っていると宣伝するための工作を行ったりしたようだ。 日本軍が入城したときには、住民はほとんど全て難民区に避難しており、その他の区域にはほぼ誰もいなかった。日本軍は城内の掃蕩を開始。難民区には歩哨を立てて、日本兵は入れないようにした。後に難民区に紛れ込んだ便衣兵の摘発を行っている。(注:摘発された便衣兵がどうなったかについては確認中。一部処刑もあったのではないかと思う。) 中華門(南側) ○上に記した【戦闘の概要】の「城壁一番乗り」を参照のこと。 中山門(東側) ○第6師団麾下の歩兵第35連隊(富山市・富士井末吉大佐)が、中山門一番乗りを果たした。 ・富士井部隊は、12月13日午前3時半に夜襲のために出発。 ・尖兵数名は中山門の門扉の上部に直径二尺くらいの穴をみつけ、その穴をくぐって入り、門内側の地底まですべり落ちた。そこに数人の中国兵がいて、2・3人を刺殺、他はあわてて逃走した。 ・小出中尉の指揮する小隊は中山門左側300メートル部分で破壊壁をよじ登り、5時30分に城壁を占拠。 ・6時10分、中隊主力が中山門を占拠。11時30分、連隊本部が入城。 ・城壁上からみると、目の前に飛行場があり、逃げおくれた敵が見えた。 ・中隊は市内の掃蕩に進発、まず飛行場を占領した。敵は無し。広い飛行場の建物を一つ一つ点検し、さらにクリークを渡った向う側の街へ掃蕩の手を伸ばし、12月13日夜はここで民家に宿営。 ・12月13日午後10時すぎに夕食をとったが、このとき約100メートル離れた工場らしい建物の中に敵兵数百名が隠れているとの報告があり、包囲して闇の中で掃蕩をはじめた。約30分戦闘があったが、敵兵はほとんどが逃亡(約80人)。 ・翌12月14日、引き続き城内掃蕩。 ・12月14日夕方から夜にかけて、掃蕩漏れの敗残兵が放火しだした。日本軍が消火に当たった。夜12時過ぎ、敗残兵が薪炭倉庫に放火、消火に当たったが消火できず全焼した。 (出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p191-193) ○歩兵第20連隊(第一大隊第四中隊の衣川武一氏(上等兵)の証言)が、上の歩兵第35連隊よりやや遅れて中山門から入った。 ・12月13日午前7時ころ、中山門から突入。中山門は二重・三重に土嚢が積み上げてあり、門扉の上にあった隙間をくぐって入った。 ・住民はテーブルを出してお茶の接待です。(当サイト管理人による注:これは突入の時ではなくて、掃蕩が終わってからの様子ではないかと推測される。中国人が道ばたに店を出して日本兵にお茶や食べ物を売っている当時の映像・写真がある。 YouTube ≫ なぜ南京大虐殺は捏造されたのか?(4分30秒付近から。)) ・城内は死体も見ず、むしろ清潔に見え、道路は坦々とと白く続き、何か気味悪い感じでした。 (出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p193-194) ○「みやこ新聞」の従軍記者小池秋羊氏も中山門から入城。 ・12月13日正午ころ、やっと中山門の鉄の扉が開いた。 ・城内側には何千袋の麻袋(マータイ)の土嚢が積みあげられていて、逃げ遅れた中国兵の捕虜たちを混えて、兵隊が土嚢の取り除き作業をしていた。 ・首都は、西北角の難民区と旗を掲げた一区画を除いて、誰もいなかった。 ・城外の様子とは大きく違って、城内は整然とし、あまり破壊された形跡もなく、道には死体一つ発見されなかった。 (出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p194) 光華門(南東側) ○歩兵第19連隊(敦賀市・人見秀三大佐)は、光華門を占領した歩兵第36連隊(脇坂部隊)を追い越して先に光華門から城内へ入った。 ・城壁は砲撃によって破壊されていた。 ・城内は破壊されておらず、人は誰もいなかった。 ・城内の奥深く(数キロ?)まで前進したところに、講堂らしき建物に中国兵の重傷者が収容されていて多くの看護婦がいたが、歩兵第19連隊はそのままにして立ち去った。 (出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p186) ○野戦重砲兵第10連隊は、12月13日朝(正午ころとも)に光華門から入城。 ・人はおらず、街は閑散として静寂。 ・奥の方まで進んだが、中国兵の遺棄したと思われる青い軍服。軍帽・軍靴などが散乱していた。 ・難民地区の近くまで行く間に、10人か20人ほどの死体があった。 (出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p187) ○光華門を占領した歩兵第36連隊(鯖江市・脇坂次郎大佐)も、光華門から入城した。 ・12月13日夜明け、城壁に登って市内を見ると各所に黒煙が上がっていた。敵兵はなく、街は閑散。 ・城内に死体はなく、ほとんど破壊の跡もなかった。 ・ただし、城門の外と城壁上には、敵味方の遺体多数。日本兵はダビに付し、中国兵は埋葬した。読経できる日本兵を集めて、夜には一晩中読経した。 (出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p187-188) |
これとは異なる証言 ・東京日日新聞の鈴木次郎記者は次のように証言している。鈴木次郎記者は「百人斬り」の嘘の記事を書いた記者の一人。 『光華門につうじる道路の両側にえんえんとつづく散兵壕とみられるなかは、無数の焼けただれた死体でうめられ、道路に敷かれたたくさんの丸太の下にも、死体が敷かれたたくさんの丸太の下にも、死体が敷かれていて、腕、足の飛び出しているありさまは、まさにこの世の地獄図である』 (出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p188。「決定版・南京大虐殺」p274での記述とのこと。) ・洞富雄氏は上の鈴木次郎記者の記事を肯定し、次のように述べている。 『十二月十三日の城内掃蕩後の惨状は、目を覆いたくなる体(てい)のものであった』『南京の一部の城門ちかくで見られた中国人の遺棄死体の状況は、そんな生やさしいものではなかった。日本軍はいく日ものあいだ、通路の死体さえ片づけようとしなかった。いや、なかなか片づかなかったのだ、それほどおびただしい死体の数だった。そうした累々たる遺骸の上を、あるいは山と積まれた遺骸の上を、軍用車がなさけ容赦なく踏みにじって通っていた……』 (出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p188-189。「決定版・南京大虐殺」p277での記述とのこと。) |
挹江門(北西側。揚子江への出入口。) ○歩兵第33連隊(津・野田謙吾大佐)は、挹江門から入城。 ・12月14日朝に宿営地の下関を出発し、ほどなく挹江門に到着。 ・挹江門は外側に土嚢を積み上げて塞がれていた。約2時間の作業を行い通過できるようになった。 ・城門の右側には城壁上から数本(数十本とも)のロープが吊り下がっていた。(注:このロープを使って中国兵が城内から脱出して逃走した。ロープばかりではなく、ゲートルや衣類をつなぎ合わせたものもあった。) ・このロープの下に、約300体の死体があった。 ・難民区の出入り口に歩哨を立てた。 ・歩兵第33連隊は、中山北路以東の地区を掃蕩。敵はなく、遺棄死体もない。破壊された車輪2・3台があった。 ・12月14日午後、歩兵第33連隊は、中山北路から太平路へ前進して、南京市政府地区を掃蕩し、ここに宿営。 ・当時、難民区は立ち入り禁止区域に指定されていた。 (出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p181-182) 【便衣兵】 軍服を脱ぎ私服を着て戦闘を行う「便衣兵」(非合法戦闘員)は、戦時国際法違反で戦闘員と見なされず、捕虜とは異なり陸戦法規の保護を適用されない。「便衣」は中国語で「平服」を意味することから、「便衣兵」と呼ばれた。(出典: 便衣兵 - Wikipedia および 戦闘員 - Wikipedia ) 支那事変では、この便衣兵が、いたるところで、日本軍を悩ませていたらしい。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p152-153 ほか。しばしば、そうした記述を目にします。) 南京に入城した日本兵(複数)の証言によると、おびただしい数の軍服・ゲートル・帽子が道に散乱していた。松井大将は、難民区(安全区)に遁入した便衣兵の数を数千人とみていた。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p159-160 ) 【難民区(安全区)の掃蕩と便衣兵の摘出】 ・水間政憲著「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」p56-57 から引用。 『 陥落直前(十二月十二日、日曜日)、敗残兵が「便衣」に姿を変える一部始終を『ニューヨーク・タイムズ』のダーディン記者が次のように報じています。 「日曜日の正午……中国軍の崩壊が始まった。第八十八師の新兵がまず逃走し、たちまち他の者がそれに続いた。……将校たちは状況に対処することもしなかった。一部隊は銃を捨て、軍服を脱ぎ、便衣を身につけた。記者が十二日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃した……多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。……中には素っ裸となって一般市民の衣服をはぎとっている兵士もいた」(『日中戦争史資料』第八巻二八二ページ)とか「日曜日の夕方には……軍服とともに武器も遺棄されて、……下関附近で遺棄された軍装品の量はおびただしいものだった」(『日中戦争史資料』第九巻二九〇から二九一ページ) 』 ・水間政憲著「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」p58-59 から引用。 『 陥落前後の城内を、米南京大使館エスピー副領事は、本国に次の報告をしています。「……市民の大部分は……いわゆる『安全地帯』に避難しており、……実際に残留せる支那兵の数は不明なれども、数千の者はその軍服を脱ぎ捨て常民の服を着て、常民に混り市内のどこか都合よき処に隠れたるに相違なきなり」。便衣兵を摘発する困難さが伝わってきます。 また、エスピー副領事が東京裁判に提出した陳述書には「支那兵自身、日本軍入城前に掠奪を行いおれることなり。最後の数日間は疑いなく彼らにより人および財産に対する暴行・掠奪が行われたるなり。支那兵が軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には……着物を剥ぎ取るための殺人をも行いしなるべし。また……常民も計画ならざる掠奪をなせしこと明らかなり」とあります(東京裁判速記録二一〇号)。 』 ・田中正明著「「南京事件」の総括」p158 から引用。 『 また米副領事の報告のごとく、数千の敗残兵が安全区に遁入(とんにゅう)し、身を隠したが、日本軍がこれを十四日と十六日の二回にわたって摘出し処断している。本格的に便衣兵の摘出をはじめたのは、十二月二十四日以降のことである。この時は憲兵が、治安維持会の中国人立会いのもとに行われ、約二〇〇〇人が摘出された。が、この約二〇〇〇人はすべて外交部に送られ捕虜としての待遇をうけている(佐々木到一少将回顧録)。この便衣兵摘出事件が、安全区における最大のトラブルであったといってよかろう。 』 ・田中正明著「「南京事件」の総括」p195-197 から引用。 『 難民の蝟集(いしゅう)する安全区および外国権益が数多く存在する地域を担当した第九師団の掃蕩隊長秋山第六旅団長は、掃蕩にさきだって、次のような詳細な注意事項を下達している。 次の通りである。 一、軍司令官の注意事項(軍紀風紀の厳正と外国権益の擁護)を一兵に至るまで徹底させた後、掃蕩を実施せよ。 二、外国権益の建物は敵がこれを利用している場合の外、立ち入りを厳禁する。重要な箇所には歩哨を配置せよ。 三、掃蕩隊は残敵掃蕩を任とし、必ず将校(准尉を含む)の指揮する部隊をもって実施し、下士官以下各個の行動を絶対に禁ずる。 四、青壮年はすべて敗残兵又は便衣隊とみなし、すべてこれを逮捕監禁せよ。青壮年以外の敵意なき支那人民、とくに老幼婦女に対しては、寛容の心をもって接し、彼等をして皇軍の威風に敬仰させよ。 五、銀行、銭荘等には侵入を禁止し、歩哨を配置せよ。 (当サイト管理人による注:「六」は引用元に記載されていない。) 七 放火は勿論、失火といえども軍司令官の注意にあるように厳罰に処する。(以下略、傍点田中)(当サイト管理人による注:引用元の傍点は「失火といえども軍司令官の注意にあるように厳罰に処する」の部分です。) 注目されるのは、「青壮年はすべて敗残兵又は便衣隊とみなし、すべてこれを逮捕監禁せよ」の一項であるが、日本軍とすれば、上海戦以来つねに悩まされ続けてきた中国側のゲリラ戦術への対策であると考えられる。(当サイト管理人による注:中国軍は民間人男子を現地で徴兵していたようなので、この点に留意する必要があると当サイト管理人は考えます。今に残っている映像のなかに、南京ではなく徐州ですが、降伏する兵のなかに多くの少年が映っているものがあります。 YouTube ≫ なぜ南京大虐殺は捏造されたのか?(1分25秒付近から。この投降兵の映像は南京ではなく徐州での映像。) ) 秋山旅団長にしろ、実際の難民区掃蕩に当った伊佐第七連隊長にしろ、便衣兵数千人が遁入している二〇万ちかい市民の扱いにいかに苦慮したか、これらの命令書の行間からうかがい知ることができる。 安全区を管理する国際委員会は、難民区を「聖域」であるかのごとく錯覚し、日本軍を、否、戦争自体を甘く考えて、戦時国際法の陸戦法規を無視したところに問題を残したともいえよう。 歩兵第七連隊長伊佐大佐は、十四日、掃蕩実施にあたって、さらに次のような「俘虜、外国権益に対する注意」を命令し、部下に徹底をはかった。 一 担任区域内には歩七以外の部隊、無用の軍人の立入りを厳禁する。 二 各隊の俘虜は、その担任地区内の一ケ所に収容し、その食糧は師団に請求する。 三 歩七は、城内に宿営するのではなく、掃蕩隊として入城したものである。掃蕩が完了したならば城外に出ることを忘れるな。 四、外国権益内に敗残兵が多数いる見込みであるが、これに対しては語学堪能者を選抜してあたらしめるから、各隊は外方より監視し、無用の誤解、衝突を起こさないようにすること。 秋山旅団長の命令といい、伊佐連隊長の命令といい、難民区の掃蕩にいかに気くばりし、心を砕いたかがわかる。 』 ・田中正明著「「南京事件」の総括」p199 から引用。 『 難民区の掃蕩は、北から第三、第一、第二大隊に区分し、それをさらに中隊ごとに区分して行われた。軍帽による日焼けの線、靴ずれや手に銃ダコのある者、きわめて姿勢のいいもの、目付の鋭い者、広東語のなまりのある者(南京を守備したのは広東、広西の兵力が主力)。』 (当サイト管理人の感想:秋山第六旅団長命令の注意事項の四で、「青壮年はすべて敗残兵又は便衣隊とみなし、すべてこれを逮捕監禁せよ。」となっているが、実際にはこのように選別していたのか確認したいと考えています。) ・田中正明著「「南京事件」の総括」p199 から引用。 『 難民区に潜入した便衣兵は、難民区周辺に脱ぎすてたおびただしい軍衣などから推定して五〇〇〇〜六〇〇〇人とみられた。』 ○12月14日 歩兵第七連隊に戦車中隊が協力し、難民区の出入口をふさぎ、摘出を開始した。便衣兵250人と多数の兵器を摘出した。また、この掃蕩間に、反抗の気配があった敗残兵約70〜80人を射殺した。これらの数字は、「戦闘詳報」に記録がある。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p199-200) ○12月16日 12月14日の掃蕩は、数が僅少で、下士官のみで将校は認められなかった。そこで、12月16日にも掃蕩を続行することになった。12月17日に入場式が行われることもあり、摘出は厳重に行われた。しかし、摘出者の数は定かな記録がないという(当サイト管理人の感想:なぜ記録がないのか?確認中。)。 秦郁彦氏の推定では、二、三千人。(注:当サイト管理人は、秦郁彦氏は自虐史観の持ち主で問題のある人物と考えています。) 東京裁判での証言では、次のとおり。 尚徳義証人 「千名以上の〔一般〕男子」 許伝音証人 「婦女子を含む千五百人以上」 梁廷芳証人 「約五千の男子」 マギー証人 「千乃至(ないし)三千名 フィッチ氏の宣誓口供書 「一三〇〇名の男子」 (出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p200-201) ○12月24日〜1月5日 中国人立会で査問調査を行って「良民証」の発行が行われたが、この間に約2000人が摘出された。彼らは旧外交部に収容された。(南京地区警備司令官に任命された佐々木到一少将の回想記による。)(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p201) 【捕虜の取り扱い】 第十六師団長中島今朝吾中将の日誌に「捕虜ハセヌ方針」と記されていることを指摘して軍の方針で捕虜を虐殺したとみなす主張があるが、そうではない。できれば捕虜としないで釈放・帰郷させる方針であった。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p54-55) 当時、「南京城内の二つの監獄と、江東門の模範囚収容の小監獄および二つの収容所」があり、約一万人が収容された。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p55) 中央監獄の四〇〇〇人のうち半分の二〇〇〇人が上海の捕虜収容所へ移送された。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p55) 捕虜の一部は、運搬作業や食事の用意などに使役された。捕虜の逃亡も多かったが、普通は放置された。多くの捕虜が白旗を作らされ、これを持って帰郷させられた。なかには、釈放されて後に、中国の維新政府(のちの汪兆銘政府)の軍に入った者もいる。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p55-57) 日本軍の第十三師団の歩兵第六十五連隊は、幕府山附近で約14,700人の捕虜をとらえたが、あまりにも捕虜が多いため対応に苦慮した。いったん建物に収容したのち約半数を釈放、2日目に火事がありさらに半数が逃亡、残った約4000人を揚子江の中州へ釈放しようとしたところ薄暮のころ中州のほうで銃声が聞こえたのを機に暴動が発生、日本軍も発砲して中国側の1000〜3000名(人数についてはほかにも諸説ある)が死亡その他多くが逃亡、日本側も将校1名と兵6名が死亡・十数名が重軽傷を負った。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p57-61) |
これとは異なる証言など ・揚子江岸で多数の捕虜が死傷したこの件について、捕虜を処刑しようとしたものだとする説があり、そういった証言を載せた書籍もある。 南京大虐殺論争 - Wikipedia の「山田支隊の捕虜処断」の項 |
【死体の埋葬】 日本軍の指揮・監督の下で、「紅卍字会」が死体の埋葬作業を行った。紅卍字会の埋葬数のほとんどは戦死者であり、女・子供は皆無に近い。したがって、一般市民の虐殺はなかったとみることも可能である。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p67およびp70-73 ) 中国側が主張する「崇善堂」については、当時はほとんど活動実績がなかったことを、阿羅健一氏が明らかにしている。中国側が埋葬数を増すために、ねつ造したものとみられる。中国側が、「崇善堂」が埋葬したとした数は、112,261体(女・子供が含まれる)である。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p68-70 ) したがって、この数(112,261体)は、中国側の主張する総数から、差し引かれなければならない。 (注:このページ下部にある【中国側のねつ造と宣伝工作(プロパガンダ)】の項も参照のこと。) 【安全区(難民区)】 12月1日、南京市長の馬超俊は、市民に「安全区」に移住するよう布告し、「南京安全区国際委員会」に米3万担(タン)(3000トン)、麦1万担(1000トン)、金10万両を預託し、警察官450名を残して、市民の保護を依頼した。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p135) 最後まで南京に踏みとどまった第三国人は40名前後(国際委員会の委員15名、新聞記者5名、若干の公館員等20数名。)で、このうちの15名が国際委員会を編成した。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p135-136) 安全区の区域については、次のサイトの地図が参考になります。 電脳日本の歴史研究会 ≫ 南京大虐殺はウソだ! ≫ 参考資料 ≫ 首都・南京が陥落した時の状況 の「南京の地理」の項 国際委員会は安全区を非武装地帯にするよう日本側に申し入れ、最初日本側は安全区の設置に同意したが、防衛司令官唐生智が降伏を拒否したため、日本軍は公式には非武装地帯とも中立地帯とも認めなかった。12月5日に米大使館を通じての日本側の回答では、その主な理由は、@安全区と周囲との境界維持が確立されていない、A武器や通信機器などの隠匿を排除できていない、B委員会は実力がなく武装兵や便衣兵の侵入を阻止できない。実際に、便衣兵や敗残兵の潜入があったことが、後に判明している。日本軍は公式には認めなかったが、この区域への爆撃や砲撃を行わず、南京占領後には、日本兵の歩哨を立て、各部隊の侵入を禁止している。国際委員会は、日本軍のこの対応に謝意を表している。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p138-139) 【安全区国際委員会】 メンバー15人は、次のとおり。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p137 および 南京安全区国際委員会 - Wikipedia 。なお、「「南京事件」の総括」では南京大学と記している部分があるが、当時は金陵大学が正しいと思われる。金陵は南京の古名らしい。) ジョン・H・D・ラーベ(委員長) ・・・ドイツ人。シーメンス会社(支店長)。 ルイス・S・C・スミス(書記長) ・・・アメリカ人。金陵大学教授(社会学)。 P・H・マンロフ ・・・イギリス人。アジア石油会社。 ジョン・G・マギー ・・・アメリカ人。米教会伝道師。マギー・フィルムの撮影者。 P・R・シールズ ・・・イギリス人。国際輸出会社。 J・M・ハンセン ・・・デンマーク人。テクサス・オイル会社。 G・シュルフエ・パンティン ・・・ドイツ人。新明貿易会社。 アイヴァー・マッケイ ・・・イギリス人。バタフィールド・アンド・スウィア会社。 J・V・ピッカリング ・・・アメリカ人。スタンダード・ヴァキュウム・オイル会社。 エヴァード・スパーリング ・・・ドイツ人。上海保険会社。 マイナー・シール・ベイツ ・・・アメリカ人。金陵大学教授(歴史学)。 W・P・ミルズ ・・・アメリカ人。北部長老伝道団。 J・リーン ・・・イギリス人。アジア石油会社。 C・S・トリマー ・・・アメリカ人。大学病院医師。 チャールス・リグス ・・・アメリカ人。金陵大学教授。 また、この委員会は、YMCA会員や紅卍会員を多数動員して、占領下の日本軍の非行調査にあたっている。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p136) (以下は調査勉強中) ジョージ・アシュモア・フィッチ アーネスト・H・フォースター ジェームズ・H・マッカラム ミニー・ヴォートリン ロバート・O・ウィルソン 【安全区の掃討】 12月13日、日本軍は安全区の掃討(便衣兵の摘発など)を歩兵第七連隊(金沢・伊佐一男大佐)に担当させた。翌12月14日、安全区の出入口十数個所に歩哨を立て無用の者の出入りを厳禁した。歩兵第36連隊長の脇坂次郎大佐が、歩哨に立ち入りをとがめられたと証言している。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p44-45) 【南京市自治委員会】 1937年12月23日、中国人良民が自発的に治安維持会を設立し、日本軍と協力して自治準備委員会が設立された。 1937年12月24日〜翌1938年1月5日、中国人も立ち会って「良民証」交付のための市民査問調査が行われた。このとき発行された「良民証」は約16万票(老人と子供は対象外)で、摘発された便衣兵は約2000人で、捕虜として旧外交部に収容された。 陶錫山が南京市自治委員会の委員長に推され、1938年1月3日に発足大会が行われた。 (出典:水間政憲著「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」p80) 【スミス博士の調査】 ルイス・S・C・スミス博士(金陵大学教授・国際委員会の書記長兼会計係)は、南京陥落の翌年3月〜4月に南京市民の抽出調査を行い、戦闘も含めて南京市民の死者3,400・負傷3,350・拉致4,200人との推計値を出した。拉致には荷役などのために日本軍に徴発された人を含む。死者3,400の内訳は、戦闘によるもの850、兵士の暴行2,400、不明150である。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p73-78) 南京陥落後に南京市民に紛れ込んだ中国の便衣兵が日本軍の暴行にみせかける工作を行っていたことが判明しているので、「兵士の暴行」が日本軍によるものか、日本軍に見せかけた中国の便衣兵や暴徒などによるものか、判定することは難しい。また、調査対象の南京市民のなかに中国側の工作員が紛れるなどして、ねつ造が含まれている可能性を排除できないのではないかと当サイト管理人は考えます。 どちらにしても、中国共産党が現在も宣伝し続けている30万人とはほど遠い。 【マギー・フィルム】 安全区委員のジョン・G・マギーが撮影した映像フィルム 【中国側のねつ造と宣伝工作(プロパガンダ)】 (注:この項目内の引用文中における太字・赤字は、当サイト管理人が施したものです。) ○中国国民党の極機密文書の発見(戦前の宣伝工作) ・鈴木明氏や北村稔氏は、『曽虚白自伝』・王凌霄『中国国民党新聞政策之研究』・『近代来華外国人名辞典』などにより、中国の宣伝工作の一端を明らかにしていたようである。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p14 ) 『戦後出版された『曽虚白自伝』には、中央宣伝部がティンパーリ記者に「お金を使って頼んで、本を書いてもらい、それを印刷して出版」したという曽虚白〔南京大学教授、のちに中央宣伝部国際宣伝処処長〕の証言が記されている。』(引用:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p14 ) ・東中野修道氏は、台湾の台北にある国民党党史館に保管されていた、次の機密文書を発見した。(注:2003年か?) 『中央宣伝部国際宣伝処工作概要 一九三八年〜一九四一年四月〔民国二十七年〜三十年四月〕』〜「極機密」と表示されている。謄写版刷り。 『宣伝工作概要』〜国際宣伝処の幹部会議の口頭報告を収録した小冊子 これらの文書には国際宣伝処の組織と工作活動の報告が記されており、これによると、国際宣伝処は1937年12月1日に漢口に事務所を開くよう命じられ、工作活動の開始は各課によって違うが、「対敵課」は1937年12月1日に工作活動を開始した。 (出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p15-17 ) ・「対敵課工作概況」のなかの「(一)対敵宣伝本の編集製作」の「1、単行本」の項に、「本処が編集印刷した対敵宣伝書籍は次の二種類である。」として、『外人目睹中之日軍暴行』(ティンパーリ(田伯烈)著『戦争とは何か』)と『神明的子孫在中国』(ファンスボー(范思伯)著『神の子孫は中国に在り』)の2冊が掲げられている。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p19-20 および p60-61 ) 『 1、単行本 本処〔国際宣伝処〕が編集印刷した対敵宣伝書籍は次の二種類である。 A『外人目睹中之日軍暴行』〔=『戦争とは何か』〕 この本は英国の名記者田伯烈(ティンパーリ)が著した。内容は、敵軍が一九三七年十二月十三日に南京に侵入したあとの姦淫、放火、掠奪、(当サイト管理人による注:「大量虐殺」が入っていないことに留意のこと。)要するに極悪非道の行為に触れ、軍紀の退廃および人間性の堕落した状況についても等しく詳細に記載している。この本は中国語、英語で出版したほか、日本語にも翻訳した。日本語版では書名を『戦争とは?』〔『所謂戦争』〕と改めている。日本語版の冒頭には、日本の反戦作家、青山和夫の序文があり、なかに暴行の写真が多数ある。本書は香港、上海、および海外各地で広く売られ、そののち敵の大本営参謀総長閑院宮が日本軍将兵に告ぐる書を発し、<皇軍>のシナにおける国辱的な行動を認め、訓戒しようとした。 B『神の子孫は中国に在り』〔神明的子孫在中国〕 本書はイタリア人范思伯(ファンスボー)の著書で、敵の諜報機関が東北三省において財産の略奪と、わが同胞を蹂躙する内幕、またわが東北義勇軍の勇敢なる敵殲滅の情況を多く記述している。本書は最も有力な対敵宣伝書であって、敵の軍閥が国民を騙すやり方を暴露し、東北の同胞が敵の統治下で圧迫されている様子を描いている。中国語版、英語版のほかに、日本語にも翻訳した。表紙に『戦後施策と陸軍の動向』と印刷し、敵方の検査をかいくぐって日本内部へ運び込んだ。 』(引用:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p60-61 ) ハロルド・J・ティンパーリ - Wikipedia ・1938年7月に、英語版のハロルド・J・ティンパーリ編「戦争とは何か――中国における日本軍の暴虐」をロンドンとニューヨークで出版された。ハロルド・J・ティンパーリは、当時「マンチェスター・ガーディアン」紙の中国特派員で、この本は南京在住の欧米人(匿名)の手紙・メモなどを原稿として編集したものとして出版された。南京における日本軍による殺人・強姦・略奪・放火を告発する内容である。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p10 ) 産経ニュース ≫ 「南京事件」世界に広めた豪人記者、国民党宣伝機関で活動 台北の史料で判明(2015年4月16日付の記事) この報道記事によると、ハロルド・ティンパリーが1939年に中国国民党宣伝機関の英国支部で責任者を務めていたことを示す史料が見つかった。 YouTube ≫ 【○○トラップの正体】南京の謀略工作は今も続いている![桜H27/4/16] ○中国側の工作(戦後) ・終戦後の1945年11月、東京裁判への資料提出などのために、南京市が「南京地方院検察処敵人罪行調査委員会」を設けて市民からの告発を求めたが、いくら呼びかけても告発がなかった。そこでこの委員会は、調査結果をねつ造して「敵人罪行調査書」をまとめたものとみられる。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p63-64 ) ・南京で死体の埋葬作業を行った団体のひとつとされた「崇善堂」は、中国側によると112,261体の死体を埋葬したとされたが、阿羅健一氏は当時の南京市の刊行物での記載により崇善堂はほとんど活動実体がなかったことを明らかにした。崇善堂による埋葬数は、ほぼゼロとみられる。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p68-70 ) ・同じく埋葬作業を行った「紅卍字会」は、活動実体はあった。ただし、中国側によると43,071体を埋葬したとされているのであるが、資料に不適切な部分があり水増しされているとの指摘がある。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p70-73) ・ねつ造された崇善堂の数字には女・子供が含まれているが、紅卍字会の数字では女・子供は皆無に近い。そして、紅卍字会の数字のほとんどは戦死者である。したがって、虐殺はなかったし女・子供も殺されていない、とみることも可能である。(出典:田中正明著「「南京事件」の総括」p67およびp73 ) ○中国側の工作(1970年代〜) ・朝日新聞(注1)の記者であった本多勝一(注2)氏が、中国側の提供する証言を無批判にそのまま記事とした。朝日新聞に連載された「中国の旅」である。朝日新聞に連載された記事をまとめて、本多勝一著「中国の旅」(朝日新聞社、1972年)が出版された。なお、1981年に文庫版(朝日文庫)も出ている。 |
(注1: 朝日新聞が中国寄りになったのは、広岡知男氏(1967年に社長就任)からのようです。広岡氏は自民党の松村訪中団(1962年?)とともに訪中して周恩来に会いぞっこん中国に惚れ込んでしまったという。(出典: YouTube ≫ 元朝日常務(現社長の先輩)が朝日の実態を暴露&批判!#1 同 #2 同 #3 同 #4 ) なお、日本のマスコミのおかしな状況について、興味のある方は、下のページもご参照ください。 私の思うところ ≫ 日本と日本人 の「■日本のマスコミ■」の項 ) (注2: 本多勝一氏は、生年月日が定かでなく(所により異なる年月日を記している)、出自が明確でない。渡部昇一氏は「私の友人の調査によると本多勝一氏は在日だ」と発言している(当サイト管理人が、以前にYouTubeの動画で見ました。)。 また、下の動画(3分12秒付近から)で、水間政憲氏は、次のように述べている。 日中国交正常化の1年前(注:1971年に当たる。)、(朝日新聞の)広岡(知男)社長が本多勝一に「中国の旅」の連載をやらせた。ここで「百人斬り」とか戦後初めて南京の問題が出た。朝日新聞が1980年代に南京大虐殺のキャンペーンを始めたきっかけになったのが、本多勝一「南京への道」(朝日ジャーナル・1984年4月13日〜)。この時の(朝日ジャーナルの)編集長が筑紫哲也で、筑紫哲也と本多勝一は朝日新聞の同期入社。 YouTube ≫ 水間政憲@【邪教朝日新聞】の日本つぶし ) |
・1973年に、英語版のハロルド・J・ティンパーリ編「戦争とは何か――中国における日本軍の暴虐」が発掘されて提示された。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p10 ) ○中国側の工作(現代) ・1985年8月15日に、南京市に南京大虐殺紀念館(正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」)が建てられた。この建設に当たっては、日本人の田辺誠(元日本社会党委員長)や日本労働組合総評議会(総評)などが、資金提供その他の支援を行ったようです。現在(2014年2月)、南京大虐殺紀念館では、南京大虐殺の犠牲者数を300,000人以上として、この数字を大きく掲げているほか、毎年12月13日(注1)にここで式典を行っている。(出典: 南京大虐殺紀念館 - Wikipedia および 各種報道 ) ・2014年2月27日、中国の全国人民代表大会(全人代)常務委員会は、9月3日(注2)を「抗日戦争勝利記念日」に、12月13日(注1)を南京事件の「国家哀悼日」に、定める議案を採択した。(出典: MSN産経ニュース ≫ 中国、「対日戦勝」「南京事件」記念日を正式採択(2014年2月27日付の記事) ) |
(注1: 12月13日は、日本軍が南京を陥落した日(1937年12月13日)であろう。 ) (注2: 対日戦勝記念日(Victory over Japan Day、VJ Day)は、降伏文書に調印した(1945年)9月2日を指す事が多いが、中華人民共和国・中華民国(台湾)・ソ連では、その翌日の9月3日となっている(出典: 対日戦勝記念日 - Wikipedia )。これは、9月2日以降もソ連が千島列島(北方四島)で戦闘を継続していたことと、関係があるのではないかと推測される。) |
・2014年12月23日(中国が定めた南京事件の国家哀悼日)に、南京市の南京大虐殺記念館で、追悼式典が中国の国家主催で行われた。1994年から南京大虐殺記念館で行われてきた追悼式典を、国家主催としたものである。習近平国家主席(党総書記)や中国共産党ナンバー3の張徳江全国人民代表大会(全人代)常務委員長などが出席した。(出典: 産経ニュース ≫ 習主席ら「国家哀悼日」式典に出席 「南京事件」77年、最高指導部は初(2014年12月13日付の記事) ) ・2015年は、第二次世界大戦の終戦後70周年に当たるが、各種報道によると、中国側は、日本たたきのプロパガンダに力を注ぐものと推測される。 ・確たる証拠はないものの、1997年に原版が出版されたアイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』や、2012年?に出版されたローラ・ヒレンブランド著『Unbroken』(2014年にアンジェリーナ・ジョリーの監督でハリウッドで映画化された。)は、中国側のプロパガンダの一環ではないのかという疑念を払拭しきれない。 |
(参考) ザ・レイプ・オブ・南京 - Wikipedia 反日はどこからくるの ≫ 日本を貶めようとする悪意3 アンジェリーナ・ジョリー『unbroken』(2014年6月21日付) |
【南京大虐殺論争】 南京大虐殺論争 - Wikipedia 私の思うところ ≫ 南京大虐殺論争 田中正明 - Wikipedia の「蒋介石の「南京大虐殺否定発言」」の項 【松井石根(まついいわね)】 1878-1948。陸軍大将。愛知県出身。 退役後の1940年に、日支両軍の戦没将兵を「怨親平等」に祀るため、私財を投じて静岡県熱海市伊豆山に観音像を建立した。興亜観音と呼ばれている。松井石根はこの近くに庵を建てて住み、毎朝御山に登り観音経をあげていた。 「南京事件」の責任を問われて、極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(BC級戦犯)を受け、1948年12月23日に巣鴨プリズン内で処刑された(絞首刑)。この時処刑された7人(板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・東條英機・武藤章・松井石根・広田弘毅)は横浜の久保山火葬場で荼毘に付され、遺骨灰の殆どは米軍が処理した(米軍により東京湾に捨てられた)が、当時の飛田美善火葬場長と小磯国昭の弁護人三文字正平らにより共同骨捨て場から遺灰(7人分が混ざった)を密かに回収し、近くの興禅寺に預けた。翌1949年5月3日に松井大将ゆかりの興亜観音に持ち込まれ、当時の住職であった伊丹忍礼師(法華宗陣門流、僧正)は即座に七人の遺骨灰と直感し、時期が来るまでとこれを匿い、ようやく1959年4月19日に吉田茂筆による「七士之碑」が建てられて遺骨灰はこの下に埋葬された。現在はこの7柱に加え、BC級戦犯の刑死者1,061柱を合わせた1,068柱の供養碑(大東亜戦争殉国刑死一〇六八柱供養碑)、大東亜戦争戦没戦士菩提(昭和19年)も建立されて同戦争の全戦没者を祀り、「小さな靖国神社」とも喩えられている。 なお愛知県幡豆郡(現西尾市)三ヶ根山にある「殉国七士墓」は、1960年に興亜観音の七士遺骨から香盒一ヶ分を分骨して埋葬したものである。 松井石根は、1978年に、他のA級戦犯と共に靖国神社へ合祀されている。 松井石根の辞世の句 「天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く」 「いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば」 「世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等誠の心」 松井石根 - Wikipedia 興亜観音 - Wikipedia A級戦犯 - Wikipedia ・水間政憲著「ひと目でわかる日韓・日中歴史の真実」p67 から引用。 『(前略)この写真(注:南京入場式の写真)を観るといつも想うことがあります。それは、松井大将が入場式に向かっていた途中、焼け跡から「赤子」の泣き声が聴こえると、松井大将は、岡田尚秘書に「捜してこい」と命じ、救助してきた女の赤子を大将自ら、温泉にいれ毛布にくるみ、ミルクを飲ませて育て、松子と命名して可愛いがり、この入場式には、岡田秘書が赤子を背負って入城していたのです。(『興亜観音』創刊号) 』 ・ YouTube ≫ 第14回 南京大虐殺について朝日新聞では話題にもなった事がなかった この動画(2分00秒付近から)の水間政憲氏の発言によると、松井石根は孫文とも交流があり、蒋介石が日本へ留学した際には下宿の保証人になったという。 【LINK】 地図 電脳日本の歴史研究会 ≫ 南京大虐殺はウソだ! ≫ 参考資料 ≫ 首都・南京が陥落した時の状況 の「南京の地理」の項 〜全体像をイメージしやすい地図です。参考になりました。 電脳日本の歴史研究会 ≫ 南京大虐殺はウソだ! ≫ "南京大虐殺(南京事件)"の地域と期間 〜中国側発表資料「対日戦争史録」による地図だそうです。 今尚進行するWar Guilt Information Program(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)に対抗する為の資料収集を目的とするサイト ≫ 「南京大虐殺」はWGIPのメインテーマです ≫ 日本軍の行動 ≫ 南京攻略作戦経過要図 南京付近戦闘経過要図 淮河河畔への進出作戦経過要図 〜地図。戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』からの引用のようです。 Googl マップ ≫ 南京付近の地図 当時の南京の映像 YouTube ≫ 戦線後方記録映画「南京」 1938年東宝文化映画部作品.avi YouTube ≫ 【松尾一郎】発見!戦線後方記録映画「南京」、失われた10分間から見えるもの[桜H26/2/20] 保守速報 ≫ 【貴重写真】『南京大虐殺』は捏造だった!…南京の本当の写真(2013年12月18日付) 南京陥落 産経ニュース ≫ 【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(1)】「城内空っぽ。誰もいなかった」「虐殺あるはずない…」(2015年2月15日付の記事) 産経ニュース ≫ 【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(2)】「虐殺30万人説」の拠り所は南京軍事法廷 数字コロコロ、信ぴょう性薄く…(2015年2月16日付の記事) 産経ニュース ≫ 【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(2)】厦門の占領地で復興に尽力した堀内大佐 中国人から転勤延期の嘆願書も(2015年2月16日付の記事) |
堀内豊秋 - Wikipedia ねずさんの ひとりごと ≫ 堀内豊秋大佐・・・仁政の軍神(2009年6月21日付) 酒たまねぎやホームページ ≫ 堀内豊秋海軍大佐といわゆる戦犯裁判について |
この松村俊夫氏による文章の注5に、ベイツ教授のメモに関して次の記述がある。 『5、1938年1月5日、上海のアメリカ総領事ガウスから国務省官宛に書簡が出されている。 そこには南京大学のベイツ教授が書いた日本軍占領後の南京の状況に関するメモを送る こと、そしてそれはシカゴデイリーニューズ記者のスティール氏が等総領事館の館員に手 渡したものであると書かれている。(『南京事件資料集 アメリカ資料編』、p。105) また、ベイツが1938年4月12日付で上海から「諸友人宛て」に送った手紙 (Eyewitness to Massacre p.34)には、「その本には12月15日に南京を離れようとして いたさまざまな特派員に利用してもらおうと、私が同日用意した声明が掲載されていま す。」とメモを特派員向けに書いたことが明記されている。』 |
電脳日本の歴史研究会 ≫ 南京大虐殺はウソだ! ≫ 参考資料 ≫ 首都・南京が陥落した時の状況 の「南京の地理」の項 〜全体像をイメージしやすい地図です。参考になりました。 南京攻略戦 - Wikipedia 第二次上海事変 - Wikipedia 松井石根 - Wikipedia 興亜観音 - Wikipedia A級戦犯 - Wikipedia 堅壁清野 - Wikipedia 〜中国軍の焦土作戦 南京安全区国際委員会 - Wikipedia 南京大虐殺論争 - Wikipedia コトバンク ≫ 掩体 今尚進行するWar Guilt Information Program(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)に対抗する為の資料収集を目的とするサイト ≫ 「南京大虐殺」はWGIPのメインテーマです ≫ 日本軍の行動 ≫ 南京攻略作戦経過要図 南京付近戦闘経過要図 淮河河畔への進出作戦経過要図 〜地図。戦史叢書『支那事変陸軍作戦<1>昭和十三年一月まで』からの引用のようです。 YouTube ≫ なぜ南京大虐殺は捏造されたのか? 戦史叢書 - Wikipedia 〜防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)によって編纂・刊行された公刊戦史 防衛省防衛研究所 ≫ 出版物 ≫ 戦史研究年報 ≫ 戦史研究年報 第1号(1998年3月) ≫ 『戦史叢書』の来歴および概要(原剛 著) 防衛省防衛研究所 ≫ 出版物 ≫ 戦史研究年報 ≫ 戦史研究年報 第13号(2010年3月) ≫ 「戦史叢書」との出会い(戸部良一 著) ハロルド・J・ティンパーリ - Wikipedia 本多勝一 - Wikipedia 南京ドンブリのページ ≫ 南京研究中心 ≫ 南京の老房子 ≫ 金陵大学(現南京大学) |
このサイトによると、次のとおり。 匯文書院(1910年に設立。アメリカ系のミッション・スクール。)→金陵大学堂(宏育書院と合併して改名)→1927年に国民政府が南京に成立した時に教育権を接収→金陵大学(1928年)→1937年12月に金陵大学は「南京安全区国際委員会」によって難民区難民収容所とされた→中央大学(1941年・汪兆銘政権下)→1945年の終戦で元の金陵大学関係者に引継→1951年に金陵女子学院(現在の南京師範大学)を合併して金陵大学が復活→南京大学(1952年に改称)。 |
南京大学 - Wikipedia |
このサイトによると、次のとおり。 三国時代の呉の「太学」→?→三江師範学堂(1902年に設立)→兩江師範学堂(1906年に改名)→ 南京高等師範学校(1915年に開学)→国立東南大学(1921年)→国立中央大学(1928年以後)→南京大学(1949年に改称)→1952年に私立金陵大学を統合。 |
国立中央大学 - Wikipedia 〜現在の台湾にある大学。 |
このサイトによると、次のとおり。 南京では、三江師範学堂(1903年に設立)→国立第四中山大学(1927年に統合・改編)→中央大学(1928年に改称)→南京大学(1949年に中国共産党に接収され改称)→専門ごとに分化し消滅(1952年)。 台湾では、中央大学地球物理研究所(卒業生らの請願により1962年に復活)→国立中央大学(1979年に改称)。 |
この記事の全文を引用しておきます。 『2015.4.16 06:00 【歴史戦】 「南京事件」世界に広めた豪人記者、国民党宣伝機関で活動 台北の史料で判明 【台北=田中靖人】「南京事件」(1937年)を世界に広め、極東国際軍事裁判(東京裁判)にも影響を与えたとされる『戦争とは何か(WHAT WAR MEANS)』(38年出版)の著者、ハロルド・ティンパリーが日中戦争勃発後の39年、中国国民党宣伝機関の英国支部で責任者を務めていたことを示す史料が、台北市にある国民党の党史館で見つかった。国民党の宣伝工作に関わったティンパリーの詳しい活動実態が明らかになったのは初めて。 確認された史料は「中央宣伝部半年中心工作計画」。39年3〜8月の党中央宣伝部の活動方針を記したもので、表紙に「秘密」の押印がある。宣伝部の下部組織、国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」のトップにティンパリーを挙げている。 「責任者」はティンパリーを含む欧米人3人、中国人2人の計5人で工作者は「四十余人」。工作目的は、英政府と議会に対中借款の継続や抗日戦争への支援を働きかけることや、英植民地に日本製品不買運動を広げることとしている。 史料はティンパリーの工作内容に関して(1)英国政府要人と国会議員に面会し、「わが抗戦、建国の真意を伝える」(2)5月に英国各地で講演(3)6月に訪米し講演(4)専門書1冊を執筆−などと具体的に記している。 これに先立つ37年、ティンパリーが国民党側から月額1千ドルの活動費を得ていたことも、産経新聞が入手した米コーネル大図書館所蔵の史料から分かった。 国際宣伝処長の曽虚白は『戦争とは何か』に関し、「金を使って、ティンパリーに依頼して書いてもらい、発行した」と自伝で語っていた。今回明らかになった史料は「南京事件」をめぐる論争にも影響を与えそうだ。 オーストラリア人のティンパリーは「南京事件」の当時、英紙マンチェスター・ガーディアンの上海特派員で、南京にいた欧米人の手記などをもとに、旧日本軍による南京占領を“告発”した。国際宣伝処の「顧問」を務めていたことがすでに明らかになっている。 』 |
YouTube ≫ 【○○トラップの正体】南京の謀略工作は今も続いている![桜H27/4/16] 日本会議国際広報委員会・大原康男・竹本忠雄 著 「再審「南京大虐殺」―世界に訴える日本の冤罪」(英語) 明成社、2000年 「THE ALLEGED 'NANKING MASSACRE' Japan's rebuttal to China's forged claims」 ●以下も参考文献ですが、プロパガンダ本だと当サイト管理人は思います。留意のこと。 ジョン・ラーベ著、エルヴィン・ヴィッケルト編『南京の真実』平野卿子訳、講談社、1997年 本多勝一著『南京への道』朝日新聞社、1987年 amazon.co.jp ≫ 中国の旅 (1972年) [古書] [-] 本多 勝一 (著) amazon.co.jp ≫ 中国の旅 (朝日文庫) [文庫] 本多 勝一 (著) 松岡環 編著『南京戦 切りさかれた受難者の魂』社会評論社、2003年(2016年に、英語版が出たようです。) 更新 2016/4/28 |
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