南京大虐殺論争☆ジャンプ☆ ■南京大虐殺論争■ ■関係書籍からの引用文■ ■中国人による残虐事件の歴史■ 日本軍が南京を占領したときの状況については、当サイト管理人が勉強できている範囲で、次のページにまとめてみましたので、ご参照ください。 世界史 ≫ 年表5 ≫ 1937年 日本軍が南京を占領 また、軍閥が支配する支那大陸の凄惨な状況は、当時の日本でも知られていたが、それらの書籍はGHQによって焚書されてしまった。 YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第79回 第79回:支那軍閥の徴税・徴兵・略奪 重要・必見 YouTube ≫ 1/3【討論!】『南京大虐殺』記憶遺産11文書を検証する[桜H27/11/7] 2/3同 3/3同 重要・必見 ■南京大虐殺論争■ |
当サイト管理人の覚書 当サイト管理人はこのテーマ(南京大虐殺論争)について @東中野修道氏が、当時の中国国民党(第二次国共合作時)の中央宣伝部国際宣伝処の作成した「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」を発見して、反日プロパガンダが行われていたことが公になった。 Aしたがって、南京に留まった欧米の外国人を、無条件に中立的な第三者とみなすことはできなくなった。従前から中国政府と接触していたわけであり、国民党の工作員のような仕事をする人がいてもおかしくない。特に疑われているのは、マイナー・ベイツ教授(金陵大学教授)。 B中国国民党の将兵ら(軍服を脱いで便意兵となっていた。)が陥落後の南京で工作活動をしていた可能性を、考えなければならなくなった。つまり、日本軍が残虐行為を行っているように見せるため、日本兵の振りをして残虐行為を行った可能性である。数十人で組織的に行った可能性も排除できない。普通、中国兵が自国民を惨殺するとは考えられないから、当然に日本兵がやったと思うであろう。いろいろな証言を聞いても、日本兵であった証拠がはっきりしない。そもそも、日本兵の振りをしている可能性が、考えられていない。 Cハロルド・J・ティンパーリ編『戦争とは何か』(英語版『What War Means: The Japanese Terror in China』)が、中国国民党の「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」に、反日のためのプロパガンダ本であることが明記されている。この本以降も、プロパガンダ本あるいは影響を受けたとみられる中立的ではない本が、多く出版されている。当時国共合作をしていた中国共産党においても、ソ連のスターリンに倣ってプロパガンダが重視され実行された。 世界史 ≫ 年表5 ≫ 1938年 ティンパーリが「What War Means: The Japanese Terror in China」をイギリスで刊行(中国国民党の反日宣伝本) D本と同様に、新聞記事・雑誌(アメリカの「LIFE」誌など)・写真・証言など、プロパガンダ工作によりねつ造・歪曲・加工・修正されたものがある。特にアメリカで、反日感情が煽られていた感がある。日本を対米戦争に引き込もうとしていたとみられるフランクリン・ルーズベルト政権(1933年 - 1945年)も、アメリカ国民の反日感情を煽った可能性がある。 世界史 ≫ 年表5 ≫ 1937年 アメリカのライフ誌に反日のねつ造写真記事 E戦後のアメリカは、戦争中のアメリカの行為を正当化し、日本の軍国主義を貶める必要があったとする説がある。アメリカの行った植民地主義(フィリピンなど)・黒人差別・人種差別の批判を弱めるために、日本もしくは日本の軍国主義が侵略を行ったとし(注:当サイト管理人は、「欧米のアジア侵略に対する反抗」であると思う。)、日本は朝鮮を植民地とし(注:併合は植民地ではない。)、朝鮮人を奴隷化した(注:正しくない。)と主張したとみる。また、アメリカの行った戦争犯罪(原爆の投下・焼夷弾による大空襲・捕虜殺害(リンドバーク証言などがある。)・沖縄戦での民間人殺害、日本兵の骸骨を持ち帰ったりもしていた。)に対する批判を弱めるために、日本軍の残虐行為を強調したとみる。アメリカが原爆によって殺害した日本の民間人数十万人よりも、もっと多くの中国の民間人を日本軍が虐殺したのだと主張する必要があったとみる。GHQは日本の占領統治時代に、検閲・焚書・言論統制・報道統制・公職追放による人事の操作などを行い、日本人に対して戦前の軍国主義が悪でありアメリカが正義であると洗脳教育を行った。戦後すぐに行われた各新聞紙上での連載記事『太平洋戰爭史』やNHKのラジオ放送『眞相はかうだ』『眞相箱』『質問箱』も特筆すべき洗脳教育の一環である。GHQの占領が終わった後も、日本のマスコミや教育などによってこうした洗脳はそのまま続けられた。 F中国についても同じような事情がある。一般的に見た場合、日本兵に比べて、中国兵の綱紀の乱れは著しいようにみえる。中国兵による略奪・放火・強姦・殺人は、歴史上のさまざまな場面に出てくる。遡れば、1882年に朝鮮で起きた壬午軍乱の際に、出兵した清国兵が漢城(現在のソウル)で乱暴狼藉を行ったことが、すでに記されている。国共内戦においても膨大な死者を出しており、支那事変(日中戦争)の時期にも、1937年の通州事件や、1938年の黄河決壊事件、同1938年の長沙大火、さらに「堅壁清野」と呼ばれる焦土作戦など、そこまでやるかと思わせる残虐行為が多い。終戦後の1946年に日本人避難民との間で起こった通化事件もすごい事件である。その後の、大躍進政策(推計で2000万〜5000万人の餓死者を出した。)や、文化大革命(数百万〜1000万人を殺害(処刑)したとみられる。)など、日本人から見ると絶句してしまうような凄さだ。中国の政権がもたらした中国民間人の膨大な死者を、日本のせいにしたいのではないだろうか。そのためには数十万人規模の南京大虐殺事件が必要なのではないだろうか。 このページの 「中国人による残虐事件の歴史」の項も参照のこと。 G日本軍を全般的にみた場合、戦争時の軍紀は比較的厳正に守られていたと思うが、なぜ南京でだけ乱れたのであろうか。食料の補給が滞りがちであったことを理由に揚げることが可能かもしれないが、もっとひどかった場合が他にいくつもある。当サイト管理人はいまだに十分納得できる説明を見たことがない。この点について、しっかりした説明がない限り、「南京大虐殺なかった説」を選択肢から捨てられない。 H西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」(文春文庫、2009年)p460-462 によると、カンボジアでのポル・ポト政権による大量虐殺を中国政府が背後で指導していたことが世界に知られると、中国政府は突如として旧日本軍の南京大虐殺を持ち出した。終戦から三十年後のことである、としている。(ちなみに、ポル・ポトが民主カンプチアの首相に就任したのは1976年5月13日で、毛沢東主義を掲げていた。) I文化大革命後の時期において中国での独占的な取材を許された朝日新聞は、中国共産党に協力したものと推測されるが、1970年代に朝日新聞紙上や本多勝一の著作などによりほとんど忘れられていた南京事件を日本人に広く宣伝し感情を煽った。1989年に天安門事件が起きると江沢民は中国国民の目を背けさせるために反日教育を始めたとみられており、江沢民以降の政権が南京事件も利用して反日プロパガンダを続けている。 (以上。2012年12月4日記載。2014年1月26日更新。2015年1月9日更新。) |
反日プロパガンダとみられる本など(少なくとも中立的ではない) (注:東中野修道氏が、中国国民党(第二次国共合作時)の極機密文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』を発見し、南京大虐殺についてプロパガンダが行われていたことが分かっている。) ・ハロルド・J・ティンパーリ編『戦争とは何か』 英語版:「What War Means: The Japanese Terror in China」 漢訳版:「外人目睹中之日軍暴行」 日本誤訳版:「外国人の見た日本軍の暴行」 ・ファンスボー『神の子孫は中国に在り』 ・国民政府軍事委員会政治部編『日寇暴行実録』 ・エドガー・スノー『アジアの戦争』 ・エドガー・スノー『中国の赤い星』 ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」(土屋京子訳、講談社、2005年)p325-329 によると、「中国の赤い星」は、毛沢東と中国共産党側が提供する情報を無批判に採用した本で、多くのわい曲とねつ造で毛沢東たちの英雄譚をでっちあげた内容であるとしている。関係部分を、下のページに引用してありますので、ご参照ください。 世界史 ≫ 年表5 ≫ 1937年 廬溝橋事件(支那事変へ) ≫ 「支那事変」に関する資料集(4) の「一つ目の引用文」 ) ・ストロング『Dawn Out of China』(=中国の黎明) ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 下」(土屋京子訳、講談社、2005年)p16-17 によると、毛沢東の宣伝本である。ソ連では出版差し止め、米国共産党は本の半分について削除を要求、一方、インドやユーゴスラビアを含む東欧の数か国では全文が出版された。 ) ・沖縄タイムス社『鉄の暴風』沖縄タイムス社、1950年(注:朝日新聞社からも併せて出版されている) ・本多勝一『中国の旅』 ・本多勝一『中国の日本軍』 ・本多勝一『南京への道』 ・吉田清治『朝鮮人慰安婦と日本人 元下関労報動員部長の手記』新人物往来社、1977年 ・吉田清治『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』三一書房、1983年 ・松岡環 編著『南京戦 切りさかれた受難者の魂』社会評論社、2003年(2016年に、英語版が出たようです。) ・アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』 ・ローラ・ヒレンブランド(Laura Hillenbrand)『Unbroken』 ・アメリカの映画『ザ・バトル・オブ・チャイナ』 フランク・キャプラが監督したプロパガンダ映画 Why We Fight (「なぜ我々は戦うのか」7作シリーズ)の6作目。1944年(昭和19年)にアメリカで上映された。(出典: ザ・バトル・オブ・チャイナ - Wikipedia ) ・戦後日本の各新聞紙での連載記事『太平洋戰爭史』 1945年(昭和20年)12月8日から約10回にわたり、GHQの記述と公表して日本全国の新聞紙上に連載された。翌1946年4月に、高山書院から本としても出版された。(出典: 太平洋戰爭史 - Wikipedia ) この新聞連載記事は、翌1946年に出版され、10万部も売れた。それは、「文部省がその小冊子を国史の教材として用いることを命じたからである。」(出典:西尾幹二著「日本人はアメリカを許していない」(ワック(WAC)、2007年)p159 ) ・NHKのラジオ放送『眞相はかうだ』 これは新聞に連載された『太平洋戰爭史』を劇化したもので、GHQ民間情報局が企画・脚本・演出し、1945年(昭和20年)12月9日から10回にわたりNHKラジオ第1放送と第2放送で放送された。GHQ作成であることは知らされていなかった。(出典: 眞相はかうだ - Wikipedia ) ・NHKのラジオ放送『眞相箱』『質問箱』(『眞相はかうだ』を修正して放送された) ・1937年12月15日付『シカゴ・デイリー・ニューズ』のトップ記事「南京大虐殺物語」 南京陥落直後(12月15日)に南京を脱出したスティール記者の記事。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」(草思社、2006年)p105-106 ) ・1937年12月18日付『ニューヨーク・タイムズ』の記事 南京陥落直後(12月15日)に南京を脱出したダーディン記者の記事。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」(草思社、2006年)p106 ) (注:上の2つの当時の新聞記事について、いずれも記者自身と南京にいる外国人が目撃したものとして書いている。東中野修道氏は、この「南京にいる外国人」というのは、マイナー・ベイツ教授が南京を去る新聞記者たちに何らかのレポートを渡したのではないかとみている。マイナー・ベイツ教授は、東京裁判でも証言人となっているが、中国国民党の宣伝工作に関与していた可能性が高い。南京は停電しているために記事を発信するためには上海へ行く必要があったため、南京陥落直後(12月15日または16日)に南京を脱出した記者は5人いたが、上の2人の記者以外の3人が書いた記事には、日本軍による一般市民の虐殺は出てこない。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」(草思社、2006年)p94-135 ) ) |
・西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」(文春文庫、2009年) 460〜462ページに、次の記述がある。なお、太字および(注)は、当サイト管理人が施したものです。 『「キリングフィールド」(注1)を北京政府が背後で指導していたことが世界に知られると、北京政府は突如旧日本軍の南京大虐殺を持ち出した。終戦から三十年後(注2)のことである。「南京大虐殺がこの時突然持ち出されたことを覚えておいてほしい」と念を押しているのは、先述(注3)の『争鳴』のレポーター高木氏(注4)である。 昭和十二年、まだ日米戦争の始まる四年も前の南京陥落時に何が起こったにせよ、右に示した(注5)、通例の戦争犯罪の枠内の出来事を決して越えないことはあまりに明らかである。 一九九五年六月、終戦五〇年の国会謝罪決議(注6)で揺れる日本を片目にみながら、中国の江沢民国家主席は訪中した海部元首相(注7)に、ドイツは謝罪し戦争について十分な認識を持っているのに、日本には間違った認識を持っている人がいて、国連安全保障理事会常任理事国入りの障害になるだろう、とドイツを引き合いに出して脅しとも受けとれる言葉を告げた。 (中略) あれ以来、ことあるたびに中韓両国が歴史認識問題で日本を威嚇し、日本政府が謝罪を繰り返しているぶざまさはみなの知るとおりである。 』 |
注1:ここでいう「キリングフィールド」は、カンボジアでのポル・ポト政権による大量虐殺を指す。 注2:ポル・ポトは、1976年5月13日に民主カンプチアの首相に就任している。毛沢東主義を掲げていた。(出典: ポル・ポト - Wikipedia および 民主カンプチア - Wikipedia ) 注3:「先述」が指す部分(高木桂蔵氏の論説に触れている部分)の記述を下に引用します。 西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」 456-457ページ から引用。なお、太字は、当サイト管理人が施したものです。 『 genocide でただちに思いつく名はスターリン、毛沢東、ポル・ポトであろう。ウガンダやルワンダやセルビアの最近の事件を念頭に浮かべる人もいるかもしれない。 戦場の興奮に基づかない、理念に基づく殺人行為、大量殺戮行為となると、おそらく毛沢東、スターリンの右に出る者はないだろう。最近は中国共産党が自らの誤った歴史を控えめに少しずつ自認する方向に向かっているらしい。『建国以来歴次政治運動史実報告』と題する、中国共産党の内部文献が外部に漏れた。香港誌『争鳴(一九九六年十月号)』によると、党史研究室、文献研究室、宣伝部、党校理論研究室という党中央に属する四機関が書いた、党幹部向けのマル秘文書である。これが毛沢東の建国以来、文革までの殺戮数は二千六百万人であったというタブーを認めている(高木桂蔵「虐殺番付横綱・毛沢東の二千六百万人」『新潮45』平成九年二月号)。 レポートする高木氏によれば、二千六百万人はきわめて控えめな数字で、アメリカ上院安全委員会が一九七一年八月に出した調査報告書では、「毛沢東は共産主義の政権を樹立して最初の一〇年間で三〇〇〇万人の大衆を殺害している」と報告しているそうである。これに文化大革命の犠牲者数を加えれば、途方もない大虐殺数になる。チベットでのジェノサイドは今もつづいている。中国の犯罪についての実態はまだまだまったく明るみには出ていない。 地主と資本家、旧国民党員、自作農、知識人、その他反党分子と名のつくものならなんでも処刑の対象となった。 』 注4:「高木氏」は高木桂蔵氏で、彼の論説のなかで香港誌『争鳴』を用いている。 注5:引用部分よりも前の段階で、「通例の戦争犯罪」と「ジェノサイド」を説明している。 注6:1995年(平成7年)6月9日に、衆議院本会議で可決された。当時は村山内閣(自・社・さ連立政権)。この決議は後の村山談話(1995年8月15日の戦後50周年記念式典で)に繋がった。(出典: 歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議 - Wikipedia および 村山内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」 - Wikipedia ) 日本国外務省 ≫ 報道・広報 ≫ 談話・コメント ≫ 総理大臣談話 ≫ 「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話) 日本の戦争謝罪 - Wikipedia 日本の戦争謝罪発言一覧 - Wikipedia 注7:海部俊樹。総理大臣就任期間は、1989年8月10日〜1991年11月5日。「南京大虐殺説」肯定論者で、2010年に中国の招待で訪中した際に、「日本は歴史上、南京市民に対して許されない過ちを犯してしまった。1人の政治家として、南京市民に深くお詫びを申し上げたい」と市民への謝罪を行っている。(出典: 海部俊樹 - Wikipedia ) (参考) なお、このころの中華人民共和国主席は、下のとおり。(出典: 中華人民共和国主席 - Wikipedia ) 李先念(1983.6.18〜1988.4.8) 楊尚昆(1988.4.8〜1993.3.27) 江沢民(1993.3.27〜2003.3.15) |
水間条項(初代)−国益最前線 ≫ GHQ洗脳政策(WGIP) 〜水間政憲氏が、自身の著作記事などを公開しているサイト。 電脳日本の歴史研究会 ≫ 『南京大虐殺はウソだ!』 脱・洗脳史講座 ≫ 脱・洗脳史講座 総目次 ≫ 南京虐殺各論目次 反日・自虐史観を排した歴史年表 ≫ 虚構の「南京大虐殺」 ≫ いわゆる「南京大虐殺」の詳細 【オイラの!】2chネラーなりに一生懸命調べた南京事件【完全否定論】 YouTube ≫ 【戦後レジーム】東京裁判からつい昨日まで、一貫したヤルタ・ポツダム体制の洗脳[桜H26/4/10] |
この動画の14分18秒付近からでは、東京裁判での松井石根(大将)の南京事件についての証言について、重要な部分のフィルムがカットされ未だに公開されていないことを指摘している。 なお、この動画の14分18秒付近からの映像は、水島総氏が製作・脚本・監督した映画『「南京の真実」第一部「七人の死刑囚」』に用いられた東京裁判の映像です。 YouTube ≫ 【部分公開】「南京の真実」第一部「七人の『死刑囚』」[桜H24/7/28] 南京の真実 - Wikipedia |
『5、1938年1月5日、上海のアメリカ総領事ガウスから国務省官宛に書簡が出されている。
そこには南京大学のベイツ教授が書いた日本軍占領後の南京の状況に関するメモを送る
こと、そしてそれはシカゴデイリーニューズ記者のスティール氏が等総領事館の館員に手
渡したものであると書かれている。(『南京事件資料集 アメリカ資料編』、p。105)
また、ベイツが1938年4月12日付で上海から「諸友人宛て」に送った手紙
(Eyewitness to Massacre p.34)には、「その本には12月15日に南京を離れようとして
いたさまざまな特派員に利用してもらおうと、私が同日用意した声明が掲載されていま
す。」とメモを特派員向けに書いたことが明記されている。』 |
マイナー・シール・ベイツ - Wikipedia YouTube ≫ 兵士たちが記録した南京大虐殺1 同2 同3 同4 同5 同6 YouTube ≫ 通州事件の記録写真と南京大虐殺の捏造. (注:残酷な映像が多いです。なお、通州事件とは、1937年に中国人が日本人260人を虐殺した事件です。) YouTube ≫ 南京大虐殺の真実 YouTube ≫ 南京虐殺−70年目の証言 夏淑琴(シャー・スーチン) (感想:「銃の先に日の丸が付いている」というのは何を意味するのか?) 夏淑琴 - Wikipedia ジョン・マギー - Wikipedia (マギーフィルムの撮影者) |
マギーフィルムの映像内容について、東中野修道・小林進・福永慎次郎著『南京事件 「証拠写真」を検証する』(草思社、2005年)p186-187 から引用。無声フィルムだそうです。 『 米国国立公文書館の所蔵する「マギーフィルム」は三十九の光景を映しながら、次のように進んでいく。 まず占領前の光景が映し撮し出される。@洋風の住宅街。A下関(シャーカン)。B兵士なのか市民なのかわからないが、人びとが無人の野原を一団となって走っている。C三台の車が城外から中山門に入っていく。D大きな建物が燃えて煙を出している……。以上、一分三十秒である。 そのあとで占領後の光景が映し出される。E窓越しに隠し撮りされる光景。F中国人を前に説教している宣教師。G家の前に立つ一人の男。H〜㉔病院の合計して約十六人の患者。㉕集団で並んで歩く若い女性たち。㉖〜㊳病院の合計して約十三人の患者。㊴布やゴザで包まれた数体の死体の前に立つ老女性など、時間にして十分つづく。 以上が見たままの映像である。 』 |
南京事件についての中国人の証言を批判した作家・出版社が、中国南京市の裁判所へ名誉毀損で訴えられて有罪となり、その後、賠償金の取り立てを日本の裁判所に訴えられたらしい。これは、松村俊夫著『「南京虐殺」への大疑問』(展転社)のことと思われる。 YouTube ≫ 【超限戦】「南京裁判」展転社を支援する報告決起集会[桜H24/11/20] 産経ニュース ≫ 「中国の判決は日本では無効」東京高裁判決 中国人の損賠訴訟、2審も原告敗訴(2015年11月25日付の記事) |
YouTube ≫ 南京大虐殺のそぼくな3つの疑問 YouTube ≫ なぜ南京大虐殺は捏造されたのか? YouTube ≫ 「南京戦史について」(H19.1.29) YouTube ≫ 南京大虐殺は蒋介石国民党宣伝部と欧米マスコミの捏造 YouTube ≫ 【阿羅健一】「南京事件」の真実と虚構[桜H24/3/8] 〜嘘の証言をした人についての話など、興味深いです。 YouTube ≫ 【超限戦】報道スペシャル−中国プロパガンダ写真の真実[桜H24/2/4] 必見。松尾一郎氏の主張。プロパガンダについて詳しく研究しています。フリーメイソンとの関係も、興味深い。 |
この動画によると、当時の中国国民党政権(国共合作時)で反日プロパガンダを行っていた組織は次のとおり。 @国民党・中央執行委員会・宣伝部 A国民党・中央執行委員会・宣伝部・国際宣伝処(長は曾虚白) B国民党・中央執行委員会・社会部 C国民党・中央執行委員会・三民主義青年団 D軍事委員会(大本営)・政治部 E軍事委員会(大本営)・政治部・第三庁(長は郭沫若。漫画絵画宣伝隊を含む) F軍事委員会(大本営)・軍令部 G国民政府・行政院(孔祥熙)・外交部(王テイケイ)〜国際連盟での主張も |
・同02 の1分00秒付近から。蒋介石政権のラジオでのデマ放送についても言及あり。 ・同05 の3分58秒付近から。日本刀と青竜刀(中国刀)の斬首の違い(中国式の場合は、斬首した首の口が開いている)。 ・その他に、南京事件、ねつ造写真、731部隊、慰安婦問題、朝鮮人の面長(村長)が行った強制連行、NHKと朝日新聞の偏向報道など。 |
この動画(9分09秒付近から)の大高美貴さんの発言によると、「強制連行」という言葉を初めて日本で広めたのは、元朝鮮総連幹部の朴慶植で、1965年の日韓協定の時に、「強制連行」という本を書いて、日韓協定をうまく締結させないために、日本の歴史贖罪を作ったプロパガンダであるという。 朴慶植 - Wikipedia ・朴慶植著「朝鮮人強制連行の記録」未来社、1965年 日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約 - Wikipedia 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定 - Wikipedia |
ボロロン速報 ≫ 「南京大虐殺は中国国民党のプロパガンダ」「世界に真実を伝えるべき」 元NYT東京支局長ストークス氏 2ch「ヘンリーか」「蒋介石「ソースは日本の小説!」」(2014年2月26日付) |
ここに引用されているZAKZAK(夕刊フジ)の記事では氏名を伏せているが、なぜ伏せているのだろうか? 訴訟でも心配しているのだろうか? この記事のなかで、アメリカでの報道記事の情報源となった「B」とは、「マイナー・ベイツ」である。この記事では宣教師となっているが、金陵大学(南京大学)教授が正しい。宣教師というのは、ジョン・G・マギー(マギー・フィルムで有名)と混同しているのではないか。 また、英紙『マンチェスター・ガーディアン』中国特派員の「T」は、「ハロルド・J・ティンパーリ」である。 |
ボロロン速報 ≫ 「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」の著書ヘンリー・ストークス氏 「南京大虐殺はなかった。この内容に自分の存在をかけている」、共同通信の報道を否定(2014年5月25日付) ・ヘンリー・S・ストークス著「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」祥伝社新書、2013年 (英訳版)「 Falsehoods of the Allied Nations’ Victorious View of History as Seen by a British Journalist 」 ボロロン速報 ≫ 「731部隊、慰安婦、南京大虐殺・・・確実な証拠が明かした日本軍の反人類の罪。南京市は人口が80万人近く減少」 2ch「母数を増やすとは」「何時書いたのか調べよう」(2014年4月26日付) |
このサイトに引用されている「CRI online(中国国際放送局)」の記事のなかに、次の記述がある。太字は、当サイト管理人による。 『 2012年から、吉林省公文書館はこれらの文献や書類などを翻訳し解読を行い、そして南京大虐殺、慰安婦、731部隊及び強制労働などを調査研究する14の研究チームを作りました。』 |
レムナント出版 ≫ 久保有政 ・久保有政 著「自虐史観を脱せよ 「日本は悪い国、侵略国家」 ではなかった! 真の近代史を知ろう」(Kindle版)、レムナント出版、2013年(3版) |
お墨付き! ≫ 【中国国家公文書局】中央?案館で「日本の右翼に反撃」と動画が配信される 中国档案资讯网 国家档案局主管 档案新闻门户网 (中国語) |
・山内小夜子(京都にある 東本願寺 ≫ 真宗の教え ≫ 宗祖としての親鸞聖人に遇う ≫ かのさまたげをなさんひとをば(山内 小夜子 教学研究所研究員) |
堀内豊秋 - Wikipedia ねずさんの ひとりごと ≫ 堀内豊秋大佐・・・仁政の軍神(2009年6月21日付) 酒たまねぎやホームページ ≫ 堀内豊秋海軍大佐といわゆる戦犯裁判について |
Michael Yon JP ≫ 実際,南京でなにがあったのか?(2015年4月5日付) by マイケル・ヨン氏 YouTube ≫ What really occurred in Nanjing? |
産経ニュース ≫ 【歴史戦】「南京事件」世界に広めた豪人記者、国民党宣伝機関で活動 台北の史料で判明(2015年4月16日付の記事) 重要 |
この記事の全文を引用しておきます。 『2015.4.16 06:00 【歴史戦】 「南京事件」世界に広めた豪人記者、国民党宣伝機関で活動 台北の史料で判明 【台北=田中靖人】「南京事件」(1937年)を世界に広め、極東国際軍事裁判(東京裁判)にも影響を与えたとされる『戦争とは何か(WHAT WAR MEANS)』(38年出版)の著者、ハロルド・ティンパリーが日中戦争勃発後の39年、中国国民党宣伝機関の英国支部で責任者を務めていたことを示す史料が、台北市にある国民党の党史館で見つかった。国民党の宣伝工作に関わったティンパリーの詳しい活動実態が明らかになったのは初めて。 確認された史料は「中央宣伝部半年中心工作計画」。39年3〜8月の党中央宣伝部の活動方針を記したもので、表紙に「秘密」の押印がある。宣伝部の下部組織、国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」のトップにティンパリーを挙げている。 「責任者」はティンパリーを含む欧米人3人、中国人2人の計5人で工作者は「四十余人」。工作目的は、英政府と議会に対中借款の継続や抗日戦争への支援を働きかけることや、英植民地に日本製品不買運動を広げることとしている。 史料はティンパリーの工作内容に関して(1)英国政府要人と国会議員に面会し、「わが抗戦、建国の真意を伝える」(2)5月に英国各地で講演(3)6月に訪米し講演(4)専門書1冊を執筆−などと具体的に記している。 これに先立つ37年、ティンパリーが国民党側から月額1千ドルの活動費を得ていたことも、産経新聞が入手した米コーネル大図書館所蔵の史料から分かった。 国際宣伝処長の曽虚白は『戦争とは何か』に関し、「金を使って、ティンパリーに依頼して書いてもらい、発行した」と自伝で語っていた。今回明らかになった史料は「南京事件」をめぐる論争にも影響を与えそうだ。 オーストラリア人のティンパリーは「南京事件」の当時、英紙マンチェスター・ガーディアンの上海特派員で、南京にいた欧米人の手記などをもとに、旧日本軍による南京占領を“告発”した。国際宣伝処の「顧問」を務めていたことがすでに明らかになっている。 』 |
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東中野修道・小林進・福永慎次郎著 『南京事件 「証拠写真」を検証する』p234 から引用。 『 ちなみに写真や、本書では取り扱わなかったが映画の、登場人物の動作が不自然だ、演出のようだと感じられた疑問についても、それが解けたことを紹介しておきたい。極秘文書は、「海外向け宣伝用短編映画」の製作にかんして次のように秘密報告していた。 本処〔国際宣伝処〕は多くの米国の専門家たちに特に委託して、ストーリー編成に協力してもらった。初めての仕事なので、人力、物力に不足を感じたが、背景のセットを造ったり演技者を雇うことはできないので、ドキュメンタリー方式で撮影製作するしかなく、大自然の環境を利用し、また一切の現実の事物をもって映画の製作をした。例えば『建軍』の中の軍学校の学生、『怖いもの知らずの重慶』の中の冷静な大衆、『桐油』の中の農民や工員などは、すべて我々の栄誉あるスターであり、『建軍』の中の各種の武器、『雲南ビルマライン』の無数の自動車は、すべて我々の道具である。 』 東中野修道・小林進・福永慎次郎著 『南京事件 「証拠写真」を検証する』p235-236 から引用。 『 検証の過程でさらに驚いたこともあった。以下は極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』のなかの「撮影課工作概況」における秘密報告である。 |
鄺光社〔鄺光新聞撮影通信社〕が原稿を発送するようになって、世界中の新聞雑誌に掲載された我が国〔中華民国〕のニュース写真の九五パーセントは、本社〔鄺光新聞撮影通信社〕提供のものである。重慶駐在の外国人記者は常に本社から写真を購入して、本人の名義で対外的に発表すると同時に、外来の外国人記者及び名士が我が国でニュース写真を収集する時にも、ほとんど本社が供給している。 |
すでに述べたように、国民党宣伝部が撮影工作を中央通信社撮影部に一本化したのが一九三八年春であった。それから中央通信社撮影部が鄺光新聞撮影通信社となった。その翌年の一九三九(昭和十四)年になると、外国人記者の「名義」で全世界の新聞雑誌に掲載された中国関係のニュース写真の九五パーセントが、この鄺光新聞撮影通信社の「撮影工作」した「抗戦用写真」であったというのである。 極秘文書は宣伝部が「取材協力」した外国人特派員の名前を秘密報告している。そのなかには世界で初めて「南京大虐殺物語」を報じた『シカゴ・デイリーニューズ』のアーチボルト・スティール特派員の名前や、『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン特派員の名前も散見される。備考欄を見ると、彼らのために「抗戦用写真を記事作成用に選定」などと記されている。本書にもたびたび出てくる写真雑誌『ライフ』の名も極秘文書に出てくる。 抗戦用写真が外国人記者の名義で全世界の新聞雑誌に出るよう、国民党宣伝部は必死の努力をつづけていたのである。日本に反対するアメリカの中国支援こそ国民党の死活問題と見ていたからである。そのため、「アメリカの新聞雑誌にウソをつくこと、騙すこと……アメリカを説得するためなら、どんなことでもしてよい」(『歴史の探究』七六頁)という政策が、「中国政府唯一の戦争戦略」(the only war strategy of the Chinese government)になっていた(七六頁)、と回想するのは、後年の著名なジャーナリスト、セオドア・ホワイトである。大学を出たばかりの彼は白修徳という名で国民党宣伝部の「顧問」となっていた。 このように国民党政府の国策がさまざまな抗戦用写真を生み出した。その走りは、上海南停車場の線路で泣き叫ぶ子供の写真(本書七八頁)である。そこで、最近ようやく判明したこの写真の撮影者についても付記しておきたい。国民党宣伝部副部長董顕光の明かすところによれば、中央通信社撮影部の有名なプロカメラマン王小亭であった。「中国唯一の大通信社」である中央通信社の蕭同茲社長と董顕光が「合作」したものこそ、中央通信社内に新設された撮影部であり、そこの専属カメラマンとなったのが王小亭であった。 第二章でも述べたが「H・S・ワン撮影」として『ライフ』一九三七年十月四日号に出たこの写真は、アメリカの世論を親中反日へと急転回させたと言われている。『ライフ』一九三八年一月三日号の「読者の選ぶ一九三七年の写真ベストテン」(一三頁)では二位に選ばれている。その写真説明は「中国の戦争」であった。董顕光はこれを「傑作」と評している。 しかし、このような抗戦用写真の宣伝工作こそナチス宣伝省顔負けの、ウソを「必要不可欠」とする戦争プロパガンダではなかったのだろうか。日本も世界も、国民党宣伝部のプロパガンダ写真に惑わされ、七十年前の戦争プロパガンダに今にいたるも完敗しているのである。 』 1937年の南京陥落後に日本兵になりすまして悪事が行われていたことについて、東中野修道著 『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』p84-87 から引用。 『 陥落後の安全地帯に潜んだ中国兵が悪事を働き、これを日本軍の行為としていたことが発覚していた。そのことは、国際委員会で重大な関心事となっていた。それをよく示しているのが十二月三十一日付の「日本大使館」宛ての差出人不明の手紙であり、イェール大学が所蔵するベイツ文書の中に収められている。 その手紙は、南京大学蚕廠〔養蚕所〕で起きた事件、すなわち中国軍将校が安全地帯で女性をレイプし、また銃を隠して埋めた嫌疑で日本軍に摘発された事件を記したあとで、容疑者とされた「陳弥(Chen Mei)こと王新倫(Wang Hsing-lung)」〔ともに音訳〕は南京大学とは無関係であると弁明していた。 この手紙を誰が書いたかは分からないが、欧米人が南京大学に中国軍将兵を匿っていたのではない、と弁明している点が重要である。注意すべきは、手紙の差出人が日本大使館にこれを出すにあたって、陳弥こと王新倫の容疑と逮捕を不当だと抗議していなかったことであり、王新倫が南京大学とは関係がないと強調していた点である。 この南京大学蚕廠事件はその後どうなったのか。それについては上海でアメリカ人が発行していた『チャイナ・プレス』(一九三八年一月二十五日号)から知ることができる。同紙は、十二月二十八日現在、陳弥(音訳)こと王新労(音訳)を含む中国軍将校二十三名と下士官五十四名、兵卒千四百九十八名の摘発を伝え、さらにその前日、公表された南京日本軍憲兵隊の報告書を引用して、次のように報じている。 |
その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには南京保安隊隊長王信労(Wang Hsing-lau)がいた。彼は陳弥(Chen Mi)と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。また第八十八師の前副師長馬跑香(Ma Pou-shang)中将や、南京警察の高官密信喜(Mi Shin-shi)もいると言われている。 馬中将は安全地帯内で、反日攪乱行為の煽動を続けていたと言われる。また安全地帯には黄安(Hwan An)大尉のほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ったまま匿われ、王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦に携ったという。(傍点筆者、名前は音訳) |
傍点を付した第八十八師団副師団長は本書八四頁に引用した飯沼守少将の陣中日記に出てくる。中国軍将校が「匿われ」ていたとあるが、誰に匿われていたかは書かれていなかった。 それにしても、南京の日本軍憲兵隊の報告書は正確なものだったのかと、一応は疑っておかねばならない。 もしも逮捕が不当であったとすれば、国際委員会の欧米人は必ずや抗議をしたであろう。たとえば、ベイツ文書のなかに残されている一月八日付、日本大使館宛ての差出人不明の手紙は、安全地帯で日本語の通訳のために働いていたLiu Wen-pinが突然、憲兵隊に連行されたことに抗議している。一月十一日付のベイツ教授の日本大使館宛ての手紙もまた、憲兵が許可なく彼の家でLiu Wen-pinを逮捕したことに抗議している。ところが、一月二十四日付のベイツ教授からアメリカ大使館のアリソン領事に宛てた手紙は、一転して、Liu Wen-pinが「ならず者」であったことを認め、それ以降ベイツ教授は抗議をやめている。 このように欧米人は不当と思われることがあると、つねに抗議していた。それにもかかわらず、南京大学蚕廠事件については抗議していなかった。このように見てくると、『チャイナ・プレス』の伝える南京の日本軍憲兵隊の報告書は妥当であったと言ってよいであろう。 安全地帯に潜んだ中国兵が悪事を働き、日本軍のせいにしていた事例は、このほかにも記録されている。南京の同盟通信が二月二十六日に配信した「皇軍の名を騙(かた)り南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕(とらわ)る」という事件を、『大阪朝日新聞』(昭和十三年二月二十七日)が伝えている。 それによれば、南京憲兵隊は、安全地帯内で日本軍の名を騙って掠奪暴行のかぎりを働いていた呉堯邦(二十九歳)以下十一名を逮捕している。日本軍の南京入城以来、日本軍将兵が数々の暴行を行っているという風説が、一部外国にまで伝わっていたため、南京憲兵隊が苦心して捜査した結果、一味の逮捕となった。襲われた無辜(むこ)の南京市民は、日本語の巧みな呉堯邦の一味を日本兵と信じ込んでおり、摘発が遅れたという。 この十一名はもともと警官であったが、陥落後は城内の三ヶ所を根城にして強盗や暴行を働いていた。彼らが隠れ家にしたと報じられた玉台村五〇号の位置は確認できないが、また別の隠れ家、上海路一四号は安全地帯のなかにあった。もう一つの隠れ家であった乾河路一〇六号は乾河沿一〇六号の誤植とすれば、そこも安全地帯のなかであり、ラーベ委員長宅のあった小桃園のすぐ近くであった。 』 松尾一郎著 『プロパガンダ戦「南京事件」』p26 から引用。 『(前略) そのほかにも、難民区を管理運営していた外国人による委員会の一人であった書記のルイス・S・C・スマイス博士が、委員会の代表として一般市民に対して行なった被害調査では、日本軍によるものとも記述していないものの、陥落直後からの一般市民の死亡者数を日付不明も含めて二千四百人のみの犠牲者と報告している。 』 松尾一郎著 『プロパガンダ戦「南京事件」』p69-75 から引用。 『 日本軍残虐写真の募集広告 南京が陥落したのは、ご存知の通り昭和十二(一九三七)年十二月十三日であった。 この南京陥落と同時に城内では、日本軍による被害報告の収集が欧米人たちによって始められた。 その中心となったのは、難民の保護に当たっていた南京安全区国際委員会のメンバーである欧米人と、欧米人記者の総勢二十人前後の人々であった。 国際委員会では、訴えられた被害の状況を聞き、記録し、日本大使館などへ文書を手交し、抗議を行なうといったものであった。 このときの記録は、H・J・ティンパーリー『外国人の見た日本軍の暴行』の巻末に記載されているが、それとともに徐淑希編『南京安全区襠案』(ともに河出書房新社『日中戦争史資料9 南京事件U』)にも収録されている。 しかしながら、これら委員会によって記録された日本軍の犯罪報告は、一切検証が行なわれておらず、当時の在南京日本大使館に勤務していた福田篤泰氏の証言や国際委員会書記であったL・S・C・スマイス博士も、これらは一切検証が行なわれたものではないと証言している。 ちなみに、国際委員会へ日本軍の犯罪をつぎつぎと告発していた中国人たちは、実際には国民党の工作員であった可能性が高いことが判明しているので、以下論じてみたいと思う。 当時、蒋介石率いる国民党内で宣伝工作を指揮していた第三庁の庁長であった郭沫若は、自著『抗日戦回想録』の中で、当時の国民党の内部事情を述べたうえで、国民党に協力していた日本人、鹿地亘(写真6)と青山和夫が、ティンパーリーの著書を日本語訳し、反日活動を行っていたことを記述している。 この青山和夫氏に対して、戦後にインタビューを試みた伊藤玲氏の記事によると(昭和六十〈一九八五〉年二月号『ゼンボウ』)、青山氏は次のように語っている。 『写真を集めたり、南京に残っていた外国人と連絡したのは康沢系の人物です』 この康沢という人物は、国民党第二庁の庁長であり、民衆組織をつかさどり、ニセ情報を流すなどといった任務についていた。 このため南京陥落直後には、国民党の工作員が南京市内に存在していたことを裏づけるとともに、当時の南京日本大使館に勤務していた福田篤泰氏の証言にあるように毎日、つぎつぎと国際委員会に掛け込んでいた、日本軍による暴行、略奪といった被害を訴え出る中国人青年たちが、実は第二庁系の工作員であった可能性が高いのである。 さらに当時、難民区を管理していた国際委員会に対し、この第二庁系工作員らが接触し、写真や資料などの提供を受けていたことは間違いない。 なぜなら、中国語版ティンパーリーの著書の冒頭にある写真の中には、明らかにマギー牧師(写真16)ら外国人が撮影した写真が掲載されており、郭沫若の著書に、『康沢の別働隊が被占領地区で多数の資料を集め……』という当時の南京国際委員会の外国人らから、資料提供を受けていたことを裏づける記述がある。 こういった提供を受けた資料の中には、南京安全区国際委員会がまとめた報告書があったことは間違いない。 そして、提供を受けた報告書を(国民党)中央宣伝部国際宣伝処へと渡し、ティンパーリーの著書として『外国人の見た日本軍の暴行』として出版させたのであろうと結論づけることができる。 このように南京陥落直後から南京では、軍事委員会政治部第二庁(康沢)の工作員らによる宣伝工作活動が行なわれ、接触した国際委員会の委員とともに、日本軍による暴行記録を意図的に検証せずに作成させていたと考えられる。 ところで、ティンパーリーの著書の冒頭に、写真を添付させたのはやはり、写真の効果が大きく、日本軍の残忍なイメージを読者に対して容易に訴えることができるからだろう。 これはやはり、先の『ライフ』赤ん坊写真の効果と同様の効果を狙っていたのではなかろうか。 そのため、昭和十三(一九三八)年三月十五日『申報』に、国民政府の宣伝機関は、次の広告を掲載し、写真を集めようとしている。 「敵軍の暴行及び戦区の写真を求める。申報は全面抗戦が始まって以来、敵軍の諸々の暴行及び戦区の一般の壊された状況(もし破壊される前の写真があればなおよし)及び、我が同胞が困難にあって各地に流浪している一切の写真を求むる。詳しい説明を郵便で漢口・湖南町二十三号に送られたし。本館(申報)で適切だと認めたものは報酬を支払う。合わなければ返却する」(写真17) この広告によって、かなりの数にのぼる写真が集められたに違いない。 金目当ての、日本軍と何の関係もないニセ写真も相当数集まったに違いない。 そして、集められたこれらの写真の中から、その後、米国に送られた写真があったことも判明している。 たとえば、米国写真雑誌の『ルック』昭和十三(一九三八)年十一月二十二日号では、昭和十三年夏頃に撮影された中国兵の処刑写真が、W・A・ファーマーの署名入りの手紙付きで紹介されている。 この手紙には、写真の入手にいたる経緯や、南京陥落の様子を伝えたニューヨーク・タイムズ記者のダーディンも、一緒に漢口で取材を行なっているといった話が書かれているのである。 これについては改めて後述する。 このように、明らかに国民政府宣伝組織経由によって発表されたであろう写真が、『申報』による募集広告以降、つまり昭和十三年、特に夏以降から米国内において大量に出回ることとなった。 これら集まったニセ写真を『日寇暴行実録』という、残虐、ヤラセ、エロ、合成写真などを集めた写真集として、昭和十三年に(国民政府)軍事委員会政治部が刊行したのである。 さらには、集められた日本軍とは何ら関係のないニセ写真すらつぎつぎと米国へと送られ、残虐写真に付けられたデタラメなキャプション記事が写真雑誌に掲載されることとあいまって、米国内において対日感情が悪化することとなったのである。 』 松尾一郎著 『プロパガンダ戦「南京事件」』p152-154 から引用。 『(前略) これら数例の歴史上における虐殺事件を検証しても、動機や原因が明白に存在しており、命令し実行した証拠や資料も数多く存在し、疑う余地がないことが分かる。 しかしながら、南京事件では動機や原因が不明で、日本軍が中国人一般市民や兵士を、南京で大量虐殺したという理由がまったく存在していない。また、虐殺を命令した命令書もなければ、実行に当たった者や、それを裏づける明白な一次史料すら何一つ存在していないのである。 いや、むしろ事実は、虐殺とはまったく逆であると考えてよいのである。 このことを裏づけるように、南京攻略戦を行なった司令官松井石根大将は、昭和十二年八月十三日に起きた第二次上海事変での日本軍増援派遣にともない、兵に対して次の訓示を行なっている。 「上海附近の戦闘は専(もっぱ)ら我らに挑戦する敵軍の戡定(かんてい)を旨とし、支那官民に対しては努めて之を宣撫(せんぶ)、愛護すること」と訓示している。 つまり、中国人民を積極的に保護せよと述べているのである。 さらに戦場が上海から南京へと移り、南京攻略戦を前にして再度、「南京城攻略要領」を全兵士に徹底させている。 内容を要約すると、南京における日本軍の名誉を考えて行動せよ、外国権益を保護し文化的財産を保護し、違法行為を行なったものは厳罰にするというものであった。 そのうえ、さらに松井大将自身は次の言葉を、末端兵士にいたるまで伝え命じたのである。 「南京は中国の首都である。(中略)特に敵軍といえども抗戦意志を失いたる者及び一般官民に対しては寛容慈悲の態度を取り、之を宣撫愛護せよ」(原文カタカナ) このように南京攻略戦を指揮した松井司令官は、戦争にはつきものの犯罪行為であった略奪、強姦などの犯罪行為を、厳しく戒めていたのである。 ましてや南京事件のような数万、数十万人もの虐殺を行なう場合については、一人で実行ができるようなものでは決してない。 裏づけるように、南京戦に参加した歩兵第二十連隊第三中隊長であった森英生氏が偕行社『証言による南京戦史(8)』で、次のように述べている。 『大虐殺といえば、一中隊長や大隊長などが、恣意で実行できるものではない。かならず計画者、発令者、命令の伝達者、実行者があるはず。たとえ、極秘裏にやったとしても、かならず漏れて噂となったはずですが、そのような組織的、計画的な残虐行為が行なわれたという噂は、四十余日にわたる南京駐留間、その後一年間の中隊長在任中も、一度も聞いておりません』 このように当時、南京戦に参加し、その後駐屯していた日本兵はただ一人、虐殺命令を受けておらず、実行した者すら存在していないのである。 』 松尾一郎著 『プロパガンダ戦「南京事件」』p160-162 から引用。 『 東京裁判において、犠牲者数を確定した根拠の一つに死体埋葬数がある。 証言者が見た死体の数と、慈善団体の埋葬数を無批判に合計し、その数が二十七万九千五百八十六体で、この数を根拠に東京裁判では当初、約三十万人もの虐殺犠牲者数を検察が主張した。 ところが、この埋葬を行なった慈善団体の“紅卍字会”とともに報告を行った“崇善堂”の埋葬数十一万二千二百六十六体の埋葬は、まったくのウソであったことが後に史料により暴露されている。 これは、昭和六十(一九八五)年八月十日付産経新聞の記事に、阿羅健一氏によって調査、発見された史料によってである。 その史料は、『中華民国二十七年度(昭和十三年度)南京市政概況』『南京市政府 行政統計報告 民国二十四年度』『南京(南京日本商工会議所編)』である。 以下、産経新聞の記事を引用してみる。 『まず、三点の史料には、いずれも当時の南京市内の慈善団体、その活動について記した項目があり、紅卍字会については「施米」「施診」「施薬」など通常の慈善活動のほか、「掩埋(埋葬の意味)」「収容」「埋葬」といった文字が書き込まれ、実際に遺体処理を行なっていたことがはっきりと記録されている。ところが、崇善堂の活動項目には「保嬰(乳のみ子を育てること)」「施診」「施薬」「散米」といった文字はあるものの、埋葬に関する文字はどこにも見当たらない。 さらに決定的なのは、南京事件の直後に編集、発行された「南京市政概況」では、紅卍字会の項目には「工作進行」と記してあるが、崇善堂の項目には「工作進行範囲狭小(活動は続いているが、規模が小さい)」とあり、事件後の遺体埋葬について書いたくだり(掩埋隊之組織)でも、「紅卍字会」「自治委員会救済課(自治委員会は南京市の難民区にできた自治組織)」の名前はあるが、「崇善堂」の名前はない。 また、南京日本商工会議所編の「南京」には、「民間各種慈善団体は事変のため資金難に陥り一時停頓したが、振務委員会の補助を受け漸次復旧し……」というくだりがあり、崇善堂が本格的な活動を再開したのは、事件後八ヵ月もたった「昭和十三年九月から」と記録され、事件後四ヵ月間に十一万余埋葬という(作者注、東京裁判)検察側主張と食い違っている。 この三点の史料を見る限り、南京攻略戦の前後に崇善堂が埋葬活動を行なっていた形跡はどこにもない。仮に行なっていたとしても微々たるもので……』(産経新聞・昭和六十〈一九八五〉年八月十日【石川水穂記者】) つまり、これら史料が崇善堂の埋葬活動そのものがなかったことを証明している。 』 松尾一郎著 『プロパガンダ戦「南京事件」』p169-171 から引用。 『(前略) さらに、当時の中国兵の特徴について、南京米国副領事エスピーは、東京裁判への提出書類の中で、『……ここに一言注意しおかざるべからざるは、支那兵自身、日本軍入城前に略奪を行ないおれることなり。最後の数日間は疑いなく彼らにより人および財産に対する暴行・略奪が行なわれたるなり。支那兵が彼らの軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には、種々の事件を生じ、その中には着物を剥ぎ取るための殺人をも行ないしなるべし』と、報告しているのである。 この報告書にあるように、当時、日本兵よりむしろ中国兵の方が残忍きわまりない様子であり、『兵隊といえば盗賊と同じようなもので、中国にはことわざにも「好男子は兵にならない、好い鉄は釘にしない」「秀才が兵にあえば、いくら理があっても話にならない」などといわれるくらいである。兵士にとって唯一の稼ぎのチャンスが略奪である。豊かな城を攻め落としたら、部下に最低一週間は略奪、婦女暴行をさせてやらないと、司令官は名将になれない。すぐに部下に殺されるか、見捨てられてしまう。これが中国の戦争文化なのである』(黄文雄「捏造された日本史」日本文芸社)というのが当時の中国兵の実体であった。 このような中国兵だからこそ、同胞である中国民衆の財産および生命を奪い、焼き尽くしたりすることができたのであろう。 国民党は、このような戦術を各戦場で行なったため、民心が離れ、戦後、中国共産党との内戦に敗れ、台湾へ逃れる原因となる。 しかし、この焼き尽くしの焦土戦術は、進撃する日本軍に対して案外効果があり、食糧などの現地調達に日本軍は苦労している。 この焼き尽くしの模様については、一九四四(昭和十九)年にアメリカが戦時宣伝映画として製作した『バトル・オブ・チャイナ』(フランク・キャプラ監督作品)の中でも、映像として記録されている。 さらに、先のエスピー報告書の中で少し述べたが、中国軍兵士は戦況が不利となると、突然、戦闘服を脱ぎ捨て、一般市民の服(平服)に着替えて逃亡を図る場合が多かったうえに、常民服に着替えた一部の兵士が、日本軍を背後から襲う場合も多々あった。 一九三八年一月四日付「ニューヨーク・タイムズ」や一月十日号『ライフ』には、中国軍将兵が、占領後に南京城内で一般人の服装(便衣)に着替えてゲリラ戦をつづけていた様子や、日本軍による暴行に見せかけ、一般市民を殺害していた記事が掲載されている。 これがいわゆる『便衣(遊撃)戦術』であり、現代ふうにいえばゲリラ戦術である。 このゲリラ戦術は、明らかに国際法違反であり、戦時においては即処刑というのが当然の処置であった。このため日本軍は、南京において便衣兵を捕らえて、幾度か処刑を行なっている。 』 田中正明著 『「南京事件」の総括』p53 から引用。 『 陸軍歩兵学校の「対支那軍戦闘法ノ研究」(一九三三年一月)の中の「捕虜ノ処置」について、藤原彰氏は前掲の『南京大虐殺』の中で、この研究は「ロシヤ兵やドイツ兵とちがって中国兵の場合は殺してもかまわないという研究」(28〜29ページ)ときめつけているが、原文は次の通り。 「捕虜ハ他列国人ニ対スル如ク必ズシモ之ヲ後送監禁シテ戦局ヲ待ツヲ要セズ、特別ノ場合ノ外之レヲ現地又ハ地方ニ移シ釈放シテ可ナリ」(傍点田中) どこにも殺してかまわないなどとは言っていないのである。「特別の場合」とは便衣兵を意味するものと思われる。なにしろ中国兵はドイツ兵やロシア兵とちがい、たとえ本隊が降伏しても、一部はゲリラ化し、民間人に化けてテロをやるのが当時一般化していたのである。後の項で詳論するが、「便衣兵」の処刑は、国際法に照らしても決して不法ではない(一五二ページ参照)。平時ならともかく、武器を秘匿して潜伏している便衣兵を裁判にかけることなく処刑したと虐殺派は非難するが、それは机上論である。現にちょっとした油断で便衣兵に秘匿武器で殺された例はいくらもある。 いずれにせよ、右の「資料」は、そのような「場合ノ外」は釈放してもかまわないといっているのである。 』 田中正明著 『「南京事件」の総括』p54-57 から引用。 『 洞氏は『南京大虐殺の証明』の中で、第十六師団長中島今朝吾中将の日誌に、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」とあるのを、捕虜の集団処刑が軍命令、師団命令によってなされていたのではないかと推測している(前掲同書304ページ)。 洞氏にかぎらず、虐殺派はおしなべてこの中島中将の「捕虜ハセヌ方針」というのを一般に誤解して、南京の捕虜はかたっぱしから殺害したかのごとく主張するが、決してそうではない。これについて大西一上海派遣軍参謀はこう述べている。 「それは、銃器を取りあげ釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」(『正論』昭61・5、阿羅健一著「日本人の見た南京陥落」、『南京事件日本人48人の証言』阿羅健一著・小学館文庫) さらに大西参謀は軍命令、師団命令で、捕虜殺害命令など絶対に出ていないと断言している。 集団捕虜約一万が南京城内の二つの監獄と、江東門の模範囚収容の小監獄および二つの収容所に収容された。捕虜取扱い専任の榊原参謀によると、「中央監獄の四〇〇〇人のうち半分の二〇〇〇人は、命令により上海の捕虜収容所に移した。その分類は私がした」という。さらに同氏は東京裁判で、 「また幾人かは各部隊が労務に使用し、逃亡する者も相当多数いたが、これはそのまま放置した」(速記録三一〇号22・11・7)と証言している。 また一部は釈放されて、昭和十三年に創立された維新政府――のちの汪兆銘政府――の軍隊に起用された。維新政府創立の立役者であり、行政院長に就任した梁鴻志氏は、のちに漢奸裁判にかけられて処刑されるが、その裁判の席上こう述べている。 「綏靖軍(維新政府の軍隊)の成立は民国二十八年(昭和十四年)春で、兵士の大部分は投降兵から成り、応募者は僅少であった。四個師に分けたが、一個師は僅か二、三千人であった」(益井康一著『漢奸裁判史』110ページ) つまり、約一万人の綏靖軍は主として南京戦、武漢作戦における捕虜を起用したというのである。のちに北京新民会首都指導部で活躍した劉啓雄少将も南京戦における捕虜の一人である。 「現地釈放」の例を二つあげる。 第十六師団の歩兵第二十連隊(福知山・大野宣明大佐)第一大隊に所属する衣川武一氏(京都府夜久野町在住)は筆者への手記の中でこう述べている。 「われわれの取扱った捕虜約二〇〇〇のうち、帰順を申し出る者は、若干の米麦と白旗を持たせて帰郷させた。年末ころまでに約半数が帰順し、半数は使役として働かせた。腕章をつけて食糧の運搬や炊飯などさせた。中山門の内側の土嚢の中に玄米の麻袋(マータイ)があり、わが部隊は大助かりであった。が、水と燃料には苦労した。これらは捕虜の使役で補うことができた。かれらは一日中食糧の準備に終始した。私はその指揮にあたったが、『衣川先生(イーセンセンション)』と呼ばれ、捕虜とわれわれとのあいだに自然に親近感が芽生え、捕虜殺害などとんでもない話である。これらの捕虜は、転進するさい全部帰郷させた。」 次の例は、歩兵第四十五連隊(鹿児島市・竹下義晴大佐)が下関で捕えた約五〇〇〇の捕虜のことである。四十五連隊の第二大隊は、十四日早朝、下関で白旗をかかげた捕虜約五〇〇〇と、砲三〇門、重機、小銃、弾薬多数および軍馬十数頭を鹵獲(ろかく)した。 この捕虜釈放の状況を本多勝一氏は『南京への道P』(『朝日ジャーナル』昭59・8・3)で次のように述べている。 「劉二等兵を含むたくさんの国民党軍将兵が、帽子を逆にかぶって(ひさしを後ろにして)投降した。その数は一万人より少ないが、たぶん『数千人』の単位であった。 一ヵ所に集められたところへ、日本軍のリーダー格らしい人物が馬に乗って現れた。ヒゲが両耳からあごの下三〜四センチまで下がっていた。日本語で何か訓話したが、こまかいことはわからず、通訳によれば要点は『お前らは百姓だ。釈放する。まっすぐ家に帰れ』と言っているらしかった。 一同は白旗を作らされた。それぞれありあわせの白布を使った。劉二等兵は自分のハンカチを使い、三〇センチほどの木の枝にそれを結びつけた。川岸には住民の捨てた荷や衣類がたくさん散乱していたので、軍服をぬぎすててそれを着た。 数千人の捕虜たちは、釈放されると白旗をかかげ、それぞれの故郷にばらばらに出発した」(前掲誌41〜42ページ)。 』 田中正明著 『「南京事件」の総括』p57-59 から引用。 『(2) 幕府山の一万四千人の捕虜 南京で最も多く捕虜をとらえたのは、第十三師団の山田支隊(山田栴二少将)麾下(きか)の歩兵第六十五連隊(会津若松市・両角業作大佐)である。同連隊が揚子江岸に沿って進撃した十四日、幕府山附近でとらえた捕虜は一万四七〇〇人にもおよぶ大量のものであった。 この捕虜の処置について、その真相を明らかにするため、鈴木明氏は、昭和四十七年、わざわざ仙台に山田少将はじめ、この時の関係者数名を訪ねて『「南京大虐殺」のまぼろし』にその真相をレポートしている。その真相というのは、山田少将はこの大量の捕虜の処置に窮し、ついに意を決して揚子江の中州に釈放することにし、護送して目的地近くについたとき、暴動が起き、捕虜約一〇〇〇が射殺され、日本側将兵も死傷したというのである。地元紙の福島民友新聞社も多数参戦者の証言を集めて『郷土部隊戦記』を発刊。その中で暴動−射殺説を明確にした。そして、これはそのまま自衛隊戦史室編集の『支那事変陸軍作戦(1)』にも掲載されている。 ところが、五十九年八月七日「毎日新聞」は「元陸軍伍長、スケッチで証言、南京捕虜一万余人虐殺」という大見出しで、第六十五連隊の伍長であったK氏が多数の捕虜を揚子江岸に連行して一万三五〇〇人をみな殺しにしたという証言を発表した。それは従来の説をくつがえす計画的・組織的な虐殺説であった。 続いて本多勝一氏がK氏を訪問してその記事を『朝日ジャーナル』㉑(昭59・9・7)と㉒(昭59・9・14)に連載し、さらにくわしく一万三五〇〇人の虐殺の模様と、これは軍司令部からの命令だと報道した。 K氏というのは、小金井市在住の栗原利一氏のことであるが、栗原氏は自分の意思とは全く逆の報道をされたことに対して、「毎日」に抗議を申しいれた。すなわち栗原氏は、中国側の公式資料集『証言・南京大虐殺』の三〇万、四〇万の虐殺という虚数に腹をたて、これに反論するため記者に話したのだが、都合のよい部分だけをつまみ食いされ、あのような記事になり、匿名の中傷や悪罵をあびて困っていると抗議したのである。 「毎日」は、九月二十七日『記者の目』と題し、「匿名の中傷、卑劣だ」という記事の中で、栗原氏の「大虐殺否定」の真意を小さく報じたが、しかしその大げさな記事の力点は、K氏に対する非難は怪(け)しからんというのであって、記者の誤った報道に対する反省も謝罪のカケラもみられなかった。 実は筆者も電話で栗原氏に真意をきいてみた。氏は電話口で、「毎日新聞にも本多氏にも、言いもしないことを書かれた。自分の本当に言いたいことは書かないで、結果的には逆なことになってしまった。悔んでいる」としきりに嘆いていた。 (後略) 』 田中正明著 『「南京事件」の総括』p126 から引用。水野政憲氏が編者として書き加えた注釈の部分です。 『(編注・蒋介石は、日記で国民党の軍紀の乱れを、「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の掠奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ(中略)撤兵時の掠奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」(昭十二年十一月三十日の月間総括欄)と記している(二〇〇七年五月二十五日産経新聞)。このような国民党軍が南京城内に雪崩れ込んでいたのである。) 』 川野元雄著『南京「大虐殺」被害証言の検証』p158-159 から引用。 『 南京およびその周辺に関する証言については、便衣兵や捕虜の問題も多く含まれ、さらに多数有る日本側証言と対比すると立場の異なる主張の水掛け論に陥る可能性が高いため『南京への道』に登場する住民証言の検証は困難が予想された。 しかしながら、『南京への道』の南京近郊及び南京城内に関する「皇軍一斉南京城に殺到」と次省の「大殲滅作戦展開さる」に登場する住民被害に関する住民の証言は意外に少なく結局五件のみであり、その五件も客観状況との対比等で独立して検証が可能であった。 この五件の検証の結論をまとめると以下である。 馬明福証言:住民への加害を日本軍によるものとすると日時の矛盾が生じる。住民への加害があったのならば中国軍の清野作戦以外には有り得ない。 楊余氏証言:住民への加害の日時・場所に関する具体的な記述がないため、検証可能な証言ではなかった。 佐潤徳証言:住民被害の内容の信憑性に重大な疑問があるため、証言として採用されるべきではないと判断される。 伍長徳証言:「便衣兵狩り」に巻き込まれた一般住民(警察官)の証言であるので、「一般住民を対象にした虐殺」の議論からは除外される。 瀋錫恩証言:住民被害の内容に信憑性が無いことから、住民被害の「証言」としての取り扱いから除外すべきであると判断される。 結局ここでも、日本軍による住民への加害を裏付ける証言は存在しないことが判明した。 南京城内での日本軍による住民虐殺など「見なかった」という多数存在する日本側の有力証言に敢えて触れずに議論を進めたが、それでも証言の信憑性の判断は可能であった。 いわゆる「南京大虐殺」の存在を肯定されている方々の中には、この「見なかった」という証言そのものは否定せずに、「たまたま現場に居合わせなかったからだ」と議論される方がいる。しかしながら、この議論で瀋錫恩証言の要点(<二−五−一>)のAのような広範囲に大群衆が逃げ惑うような大規模な無差別殺戮の存在を肯定するのは無理であることを冷静に判断すべきであろう。 』 鳴霞・千代田情報研究会 著「あなたのすぐ隣にいる中国のスパイ」(飛鳥新社、2013年)p126-143 から引用。 日本の歴史認識 の「○鳴霞」の項 の2つ目の引用文 渡部昇一・谷沢永一 著『こんな「歴史」に誰がした 日本史教科書を総点検する』(文春文庫、2000年) p188-191 から引用。 『渡部 (中略) こういう話があります。 ナチ親衛隊(SS)将校にスコルツェーニ中佐というウィーン出身の優秀な軍人がいました。彼はイタリアのムッソリーニがパドリオ政権によって投獄されたとき、空挺部隊を率いて救出したという英雄です。その後も、彼は軍人として多くの手柄を立てています。 さて、この将校がアルデンヌの攻勢作戦のときに、ヒトラーから呼ばれた。そしてヒトラーから「アメリカの軍服を着た空挺部隊を、敵陣の後ろに降下させろ」と命じられた。つまり、攪乱作戦をやれというわけです。 ところが、スコルツェーニ中佐はヒトラーの命令を拒否しました。自国の軍服を着ているのであれば、たとえ降伏しても捕虜の待遇を受けることができる。しかし、敵国の軍服や民間人の服装をしていたら、絶対に処刑されるだろう。だから「たとえ上官の命令でも、それだけは受け容れられない」と言った。これにはさすがのヒトラーも了解し、作戦内容が変更になりました。敵の背後に降下するときにはアメリカの軍服を着るけれども、攻撃前にはそれを脱ぐということで話が付いたようです。 軍人にとっての軍服とは、そういう重要な意味があるのです。単に機能的だからとか、恰好よさのために着ているわけではありません。軍服を着ていない兵士には、降参しても命の保証はないのです。現に第二次大戦のヨーロッパでは、たくさんのゲリラやパルチザンが出ましたが、彼らを殺したことは、連合国の側でも枢軸国の側でも、何の問題にもなっていないのです。 だから、南京において日本軍がどれだけの便衣隊を殺したとしても、それはすべてシナ兵の責任です。日本側には責められるべき落ち度はなかった――このことを学校でも教えるべきだし、また世界中に訴えるべきなのです。 ラーベの日記には、さらに重要なことが書かれています。それは、日本軍が突入する前の南京城内の市民が約二〇万人であったという記述です。日本軍が占領して三、四週間後の統計では――これは食糧配布などと関連していますから、かなり正確な数字です――、当時、南京には二五万人の市民がいたことが分かっていますから、つまり、南京攻略戦後、南京の人口は約五万増えていることになる。これはつまり、日本軍が入城したので安心した民衆が五万人ぐらい南京に戻ってきたという意味です。日本軍による「虐殺」などなかったことは、この記述からも明白です。 さらに第二次大戦のヨーロッパの話をしたいと思います。 ドイツのナチ親衛隊に第六SS山岳師団というのがありました。 この師団がアメリカ軍の野戦病院を襲い、そこに収容されていた傷病兵を皆殺しにし、またすべての看護婦を強姦したという噂が、当時の連合国側に流れていたそうです。それで、第六山岳師団が投降したとき、アメリカ軍は即座にその全員を殺した。 ところが、あとになって調べてみると、意外なことが分かった。じつはそんな「虐殺」なんて、どこにもなかったのです。 事実はこうでした。この山岳師団が敗走していたときに、アメリカ軍の野戦病院に出くわした。そこでドイツ兵は、この病院に置いてあったトラックを奪って逃げようとしたわけです。すると、アメリカ兵が応戦に出た。その戦闘で死んだのは、わずかにアメリカ軍の士官一名、兵士二名だった。もちろん、傷病兵は一人も傷ついていないし、ましてや看護婦が強姦された事実もなかった。 だから、アメリカ軍が山岳師団の投降兵――もちろん、彼らは軍服を着用して、正規の手順で降伏しています――を皆殺ししたのは、まさに国際法違反の重大犯罪であったわけです。 谷沢 皆殺しをしたアメリカ軍の連中は、その後、どうなりました。 渡部 もちろん、何の処分もありません。まさに「勝てば官軍」とは、このことです。 私は、このエピソードを聞いて即座に「南京大虐殺」のことを連想しました。何の根拠もない噂によって、第六SS山岳師団の投降兵は全員殺された。これからも日本人が「南京大虐殺」という悪質なデマを放置しておくならば、その先には第六SS山岳師団のような運命が待っていないともかぎらない――私は真剣にそのことを憂えているのです。 (後略) 』 |
■中国人による残虐事件の歴史■ ・1864年、太平天国軍が占領していた「天京(てんけい)」(現在の南京)を、曾国藩の末弟である曾国荃(そうこくせん)の率いる湘軍が半年以上包囲したのちに陥落させ、そのあと殺人、強姦、放火、略奪が一カ月続いた。 |
『 そしていよいよ一八六四年一月、曾国藩の末弟・曾国荃(そうこくせん)ひきいる湘軍五万が天京を囲んだ。このとき、李鴻章の淮軍も参加しようとしたが断られている。 日がたつにつれて、城内では食糧が欠乏しがちとなり、洪秀全さえ雑草を食べていたという。囲むこと半年以上、城内を飢餓状態に追いやると、湘軍は七月十九日に総攻撃を開始した。城壁九カ所が爆破され、全軍が市内に突入した。 攻防は二週間で湘軍の勝利に終わったが、そのあと殺人、強姦、放火、略奪が一カ月も続いた。南京は湘軍による屠殺場となったのである。財宝を積んだ車列が、えんえんひと月も連なって南京城を出ていったともいう。 曾国藩の腹心で、曾国荃の目付役として派遣された趙烈文(ちょうれつぶん)の『能静居士日記(のうせいこじにっき)』には、このときの「大虐殺」が書かれているが、飢餓状態のまま五万人の暴漢(兵匪)に襲われた数十万の城民は、いったいどうなったのであろうか。 この南京攻防戦を含めて、十五年にわたる太平天国の乱で死んだ人は五千万人にのぼるともいわれている。なお、洪秀全は南京陥落の一カ月前に持病のため病死したとされるが、飢えが拍車をかけたのは間違いないだろう。』(引用:黄文雄 著『「食人文化」で読み解く中国人の正体』ヒカルランド、2013年、p143-144) 天京攻防戦 - Wikipedia 太平天国の乱 - Wikipedia の「太平天国の落日」の項 |
・1882年に朝鮮でおきた壬午軍乱を鎮圧するために出動した清国兵が、漢城(現在のソウル)で乱暴を働いた。 |
『(前略)しかしながら、李朝は中国軍の首都駐留という、これまでになかった新たな事態を受け入れなくてはならなかった。駐留清国軍は、漢城各所で略奪、暴行を働き、多くの漢城市民がその被害にあうことになってしまったのである。清国の軍兵たちが集団で富豪の家を襲い、女性を凌辱し、酒肴の相手をさせ、あげくのはては金銭財産を奪うなどの乱暴狼藉が日常のごとく行われたのである。』(引用:呉善花著「韓国併合への道」文春新書、2000年、p68-69) 世界史 ≫ 年表4 ≫ 1882年 朝鮮で壬午軍乱 |
・1927年、南京事件 (1927年)。蒋介石の北伐軍(国民革命軍)が南京を占領した際に、共産党が煽動(計画的策謀)して、日本を含む外国領事館と居留民を襲撃した。 |
日本領事館では反撃を禁じられていたため、館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受けた。抵抗すれば尼港事件のような民間人殺害を誘発する危険があると考えられていた。(出典: 南京事件 (1927年) - Wikipedia) 当時の首相は若槻禮次郎、外務大臣は幣原喜重郎。「幣原外交」と呼ばれる国際協調路線をとり、蒋介石の行った北伐に対しては内政不干渉の方針で、米国とともに英国による派兵要請を拒絶していた。(出典: 幣原喜重郎 - Wikipedia) 『 戦前派の私たちは、南京事件といえば、昭和二年(一九二七年)三月、蒋介石の北伐中に起きた共産派の暴徒による排外暴動を想起する。外国の権益や領事館、居留民団を襲い、虐殺、暴行、掠奪のかぎりを尽した事件である。米・英・仏の軍艦はついに城内に向けて火蓋を切った。しかるに、わが駆逐艦は中央の命により隠忍した。これをいいことに、暴動化した革命軍は、日清汽船のハルクに乱入してこれを破壊し、駆逐艦を射撃し、わが方に戦死者を出した。そのあげく、荒木大尉以下十二名の水兵が武装解除され、在留邦人は全部暴行、掠奪をうけ、ある者は殺害された。わが居留民全員は領事館に収容されたが、この領事館も三回にわたって暴徒の襲撃をうけた。 この時の惨状を佐々木到一氏(のち第十六師団第三十旅団長として南京に入城・少将)は次のように記している。 「領事(森岡正平)が神経痛のため、病臥中をかばう夫人を良人(おつと)の前で裸体にし、薪炭車に連行して二十七人が輪姦したとか、三十数名の婦女は少女にいたるまで凌辱され、現にわが駆逐艦に収容されて治療を受けた者が十数名もゐる。根本少佐が臀部を銃剣で突かれ、官邸の二階から庭上に飛び降りた。警察署長は射撃されて瀕死の重傷を負った。抵抗を禁ぜられた水兵が切歯扼腕してこの惨状に目を被うていなければならなかった」 その惨状は筆舌に尽しがたいひどいものであった。日本軍は発砲を禁じられて何の抵抗もせず、居留民保護に当るどころか、簡単に武装解除されて、監禁・暴行されるありさまであった。反撃なしと見るや、中国兵はますます日本兵に対して狂暴さを増すのみであった。佐々木氏は、これが日本の平和外交の現実か、結果的にはますます中国人に軽侮されるのみではないか、と日本政府のいわゆる幣原軟弱外交を慨嘆している。 』(引用:田中正明著「「南京事件」の総括」小学館文庫、2007年、p12-13) |
・1928年、済南事件。中国山東省の済南で、中国国民党の国民革命軍の一部が日本人を襲撃し、日本軍(第二次山東出兵)と北伐中の国民革命軍(南軍)が武力衝突した。(注:済南事件の検死模様の写真が、731部隊の人体実験の写真としてプロパガンダに使用されている。) |
『 国民革命軍兵士による済南商埠地の邦人店舗略奪事件をきっかけに日本軍と国民革命軍は衝突した。事件が起こると国民政府は諸外国や国際聯盟に働きかけ、事件の発生が日本兵の中国兵射殺に起因すること、日本軍不法行為の例として蔡公時殺害など、非は日本にあるように宣伝したが、当時は、日本側だけでなく、第三国においても、それらは支那一流の宣伝によると見なされていた。事件の発端については、日本側資料と中国側資料で見解が異なり、現状ではどれが正しいか不明とする意見もある。』(引用: 済南事件 - Wikipedia) 『 南京事件のあと、昭和三年五月には、済南で多数の日本人が虐殺され、凌辱、暴行、掠奪をうけた。佐々木氏はこの事件にも立会っており、次のような手記を残している。 「ところがこの日になって、重大事件が惹起されていゐ(注:ママ)ことが明かにされた。これより先、居留民は総領事の命令を以て老幼婦女は青島(チンタオ)に、残留する者は警備線内へ引揚げを命じてあったが、それを聞かずして居残った邦人に対して残虐の手を加え、その老壮男女十六人が惨死体となってあらはれたのである。予は病院に於て偶然その死体を実見したのであるが、酸鼻の極みだった。手足を縛し、手斧様のもので頭部、面部に斬撃を加へ、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。……」 まことに残忍の極みである。佐々木氏自身も、その直前に中国兵数名にとり囲まれ、鉄拳の暴行を浴び、激しい私刑(リンチ)を受けている。 このように続発する中国人の日本人に対する野蛮な犯罪にもかかわらず、時の日本政府は一切事なかれ主義をとり、ひたすら無為無策、平和外交(?)に終始した。佐々木氏はこれを敗北主義といって痛憤している。 この済南事件に対しても日本はほとんど抗議も行わず、泣きねいりであった。このような日本の軟弱外交は、中国の排日、抗日運動をいよいよつのらせ、侮日思想を一層高揚せしめた。そのあげくのはてが、昭和七年の第一次上海事件にまで発展するのである。 』(引用:田中正明著「「南京事件」の総括」小学館文庫、2007年、p13-14) |
・1930年、AB団粛清事件。長征前の中国共産党において、内部粛清が行われ、約7万人を処刑したらしい。ちなみに、ABはAnti-Bolshevik。(出典:石平著「なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか」ビジネス社、2012年、p30-47) ・1937年、通州事件。中国人の部隊である冀東防共自治政府の保安隊が、日本人約260人(朝鮮系を含む)を虐殺した。 |
『 昭和十二年(一九三七年)七月七日の盧溝橋事件をきっかけに、日本と中国は全面戦争へと発展するのであるが、そのシナリオは、前年の十二月、蒋介石が張学良に監禁された西安事件以後中国共産党によって工作され、劉少奇の指揮する抗日救国学生隊によって演出されたことは、今では公然と中共みずからが認めているところである。彼らは、夜間演習中の日本軍と宋哲元の二十九軍の双方に向って発砲し、事件をまき起したばかりでなく、日本政府の不拡大方針、現地解決の線に沿って、現地軍と宋哲元との間で話がまとまりかけるとこれをぶちこわし、次ぎ次ぎと事件を起こして拡大をはかった。 七月二十五日の郎坊(ろうぼう)事件――北京南方約五十キロの郎坊で、北京―天津間の電話線が何者かによって切断され、修理におもむいた日本軍が発砲をうけ死傷者を出すという事件――が起きた。 翌二十六日には廣安門事件が起きた。日本軍が中国側に事前通告をした上で、北京在留邦人保護のため部隊を派遣したところ、日本軍の先頭の一部が廣安門を通って市内に入るや、中国軍は突如城門を閉鎖して、分断し、その双方に対して攻撃を仕掛け、多くの死傷者を出した事件である。 さらに三日おいた七月二十九日に起きたのが通州事件である。通州の日本人居留民約三五〇人に対し、中国保安隊と暴民が襲いかかり、掠奪、暴行のあげく、婦人・子供をふくむ日本人二百余名が虐殺された事件である。 事件は真夜中に起きた。中国の保安隊はまず日本の特殊機関を襲い、応戦した細木中佐と甲斐少佐を銃殺し、喊声をあげて日本人街になだれこんだ。日本人住宅を襲い、掠奪・暴行をほしいままにして、婦女子をふくむ二六〇人の日本人を城壁のところに連行し、そこで皆殺しにした。見るも無残な殺し方であった。街の中央にある日本人旅館近水樓(きんすいろう)を襲った中国兵は、銃声を放って闖入し、数十人の日本人客や女中を惨殺した。ある者は耳や鼻を削がれ、女性は陰部に丸太を突き刺され、乳房を削がれ、ある者は鉄線で数珠つなぎにされて池に放り込まれた。中国人の言う「屠城」による「屠殺」そのままであった(本編は新勢力社編『日本人が虐殺された現代史』〈新人物往来社〉を参照した)。 南京事件の僅か五ヵ月前に、中国軍民によるこのような大量の日本居留民虐殺の暴虐事件があったことを記憶しておく必要があろう。 このほかに、昭和十年から十一年にかけて中山水兵射殺事件、仙頭(スワトウ)事件、萱生事件、長沙事件、成都事件、北海事件など一連の虐殺事件があり、満州の万宝山事件、中村大尉惨殺事件、上海陸戦隊の大山中尉、斉藤一等水兵の惨殺事件等、数多くの日本人虐殺事件があったことを銘記したい。必ずしも日本だけが一方的な「加害者」であり「犯罪者」ではないということである。 』(引用:田中正明著「「南京事件」の総括」小学館文庫、2007年、p14-16) 通州事件 - Wikipedia 世界史 ≫ 年表5 ≫ 1937年 中国で通州事件 |
・1938年、黄河決壊事件。中国国民党軍が黄河を決壊させて大洪水を起こし、甚大な被害をもたらした。 |
中国国民党軍が日本軍の進撃を止めるために、河南省の鄭州の付近で黄河を決壊させて、河南省・安徽省・江蘇省にまたがる大洪水を発生させた。数十万から100万ほどの中国国民が水死し、農地が破壊された。黄河の流れが変わってしまい、その後も多くの国民が干魃・洪水・飢饉に苦しんだ。 黄河決壊事件 - Wikipedia 世界史 ≫ 年表5 ≫ 1938年 中国で黄河決壊事件 |
・1938年、長沙大火。中国国民党軍によって起された放火事件。 |
中国国民党軍が、湖南省の長沙で放火事件を起こした。人口50万の都市であった長沙は、この火災で市街地のほとんどを焼失した。目的は、日本軍に対する焦土作戦とみられるが、周恩来を暗殺するためとの説もある。 長沙大火 - Wikipedia |
・1946年、通化事件。反乱蜂起した敗戦後の日本人避難民らを、鎮圧・殺害・虐待した。 |
通化事件 - Wikipedia から要点を抜粋しました。不正確な部分があるかもしれません。 終戦後、満州国通化省通化市(現在の吉林省通化市)には、他の地域からも集まった大勢の日本人避難民が集まっていた。ソ連兵は、この避難民に対して、殺害・強姦・暴行・略奪を繰り返した。 ソビエト軍の撤退後、中国共産党軍が通化を支配した。通化省行政の幹部を連行・拷問・人民裁判ののち処刑、民族を問わず通化市民から金品を掠奪、日本人に対して共産主義教育を行い、日本人遺留民の財産を全て供出し再配分するよう要求、男女を問わず日本人を強制的に従軍・徴用(無償の強制労働)などを行った。 1945年12月10日、降伏後に中国共産党軍に編入されていた日本人の航空隊と戦車隊(300名以上)が通化に到着した。12月23日に日本人遺留民大会が開かれたが、発言者は後日に連行され処刑された。1946年1月10日、中国共産軍側工作員(内海薫)を殺害した容疑で140名が連行された。 1946年2月3日、中華民国政府の要請に呼応して在留日本人たちが反乱を起こして蜂起したが、中華民国側は延期したため蜂起に加わっていない。武器はわずかな小銃と刀、大部分はこん棒やスコップなど。待ち構えていた中国共産党軍の攻撃により、日本人部隊は壊滅したり撃退されたりして蜂起は失敗。16歳以上の日本人男性全員と事件に関与したとみなされた女性の3000人以上が連行された。蜂起計画に関与しなかった一般市民を含めて、民間の2千人(数千人とも)近くが殺され、数百人が凍傷に罹り不具者となった。 その後、朝鮮人民義勇軍の兵士たちが棍棒で殴りつけ多くが撲殺・手足骨折、中国共産党軍が拷問・尋問し凍結した渾江(鴨緑江の支流)の上に引き出して虐殺した。「男性たちが拘束されている間、中国共産党軍の兵士には日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦する者もあり、凌辱された女性からは自殺者も出ている。」「蜂起の負傷者に手当を施した者は女性・子供であっても容赦なく銃殺された。」 |
・1947年、台湾で二二八事件。国民党が台湾人の反乱を鎮圧。約28,000人を殺害。 |
YouTube ≫ 【台湾チャンネル】第22回、検証−終戦直後の228事件での中国軍の台湾人大量虐殺[桜H26/3/13] 二・二八事件 - Wikipedia |
・1950年〜1951年、反革命鎮圧運動。国民党派残党への弾圧と処刑。 ・1950年?〜、土地改革。地主・富農などの弾圧と処刑。 |
世界史 ≫ 年表5 ≫ 1950年 中国で反革命鎮圧運動と土地改革 |
・1958年〜1960年、大躍進政策。推計で2000万〜5000万人の餓死者を出した。 |
ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著『マオ 誰も知らなかった毛沢東 下』(土屋京子訳、講談社、2005年)によると、大躍進政策は、重工業の促進政策ではなく、実際は(隠されていたが)、毛沢東が軍事超大国を目指した政策であったとしている。そのために、農民から穀物などを税として苛酷に搾り取り、これを外国へ輸出して得た資金により、武器の輸入や軍事技術の導入に当てられた。このために、中国国内の食糧が極端に欠乏し、多くの餓死者を出した、というのが真相らしい。 また、黄文雄 著『「食人文化」で読み解く中国人の正体』(ヒカルランド、2013年)のp45では、大躍進政策の失敗に伴う死者数について、次のように記述している。 『 いったいどれほどの規模の災害であったのか。中国政府の機密事項なので推定するしかないが、一般には餓死者が千二百万人から二千四百万人といわれている。米プリンストン大学のエール教授の推計では二千七百万人。文革後の党中央の幹部会議で出た資料のなかでもっとも多い数字が六千万人。毛沢東生誕百年のさいに出された資料では四千三百万人と、今でもはっきりしない。』 YouTube ≫ 【禁聞】「三年大飢饉」死亡者リスト 〜新唐人テレビの動画 |
・1964年〜、新疆ウイグル自治区で核実験(空中爆発を含む)を繰り返す。 |
多数の死者と被爆者を出した模様。 世界史 ≫ 年表5 ≫ 1964年 中国が初の核実験 |
・1966年〜1977年、文化大革命。数百万〜1000万人を殺害(処刑)したとみられる。 |
MSN産経ニュース ≫ 【阿比留瑠比の極言御免】第三者・モンゴルから見た「慰安婦問題」(2013年12月19日付の記事) 内モンゴルと中国文化大革命 ≫ モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料 (5) ・楊海英 編「モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料(5) 被害者報告書(1)」風響社、2013年 (静岡大学人文社会科学部研究叢書 32 内モンゴル自治区の文化大革命 5) ・楊海英 著「墓標なき草原(上・下) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録」岩波書店、2009年 ・楊海英 著「続 墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録」岩波書店、2011年 |
・1989年、天安門事件(六四天安門事件)。学生・市民のデモを武力弾圧し、多数の死傷者を出した。中国政府は事件を隠蔽しており、死者数もよくわからない。 |
保守速報 ≫ 【閲覧注意】中国共産党による人民大虐殺 …『六四天安門事件』(写真65枚) 〜残酷な画像もありますので、ご注意ください。 天安門事件 - Wikipedia 六四天安門事件 - Wikipedia YouTube ≫ 天安門事件25周年を前に見せしめ逮捕が横行 YouTube ≫ 【禁聞】趙紫陽の息子「歴史の隠蔽は国の恥」 YouTube ≫ 【禁聞】天安門事件弾圧 多くの軍人が抵抗 上の新唐人テレビが製作した動画(0分19秒付近から)のなかで、次のように述べられている。 『先日、香港のアップルデイリー傘下の雑誌は、アメリカ政府が入手した中南海の内部文書に基づき、事件(注:六四天安門事件)で死傷した市民は4万人で、そのうち、10,454人が殺されたと伝えました。』 YouTube ≫ 【日いづる国より】坂東忠信、中国人の残虐性・天安門事件と中国人実習生の例から[桜H26/8/29] 重要 〜特に、7分10秒付近からの新情報。 世界史 ≫ 年表5 ≫ 1989年 中国で天安門事件(リンクのみ) |
・1999年?〜、法輪功の弾圧。組織的な臓器移植も行われた模様。 |
法輪功 - Wikipedia 現代世界の諸問題に関するリンク集 の 「■中国の抱える諸問題■」の項内にある「・法輪功の弾圧」を参照のこと。 |
・2008年、チベット騒乱を武力弾圧。 ・2009年、ウイグル騒乱を武力弾圧。 ・2013年ころ?〜、深刻な環境汚染。 |
深刻な環境汚染によって、今後、大量の死者を出すことが、もはや避けられないように見えます。 現代世界の諸問題に関するリンク集 の 「■中国の抱える諸問題■」の項内にある「・環境汚染」を参照のこと。 余命3年時事日記 ≫ 2015は極限値 (大気汚染)(2014年4月17日付) YouTube ≫ 【禁聞】中国が直面するがんの危機 |
・2014年、ウイグルで暴動を武力鎮圧したものとみられる(未確認)。 |
世界史 ≫ 年表6 ≫ 2014年 中国新彊ウイグル自治区で暴動を武力鎮圧(リンクのみ) |
この本によると、中国国民党軍の将兵が軍服を脱ぎ捨てて安全地帯へ逃げ込んだ後、日本兵が残虐行為をしていたように見せるために、強姦・略奪・放火などを行って工作活動をしていた可能性があるようです。もちろん、中国人の不逞の輩が行った犯罪もあったでしょう。日本兵と見分けのつかない場合も多かったのではと考えてしまいます。 |
・阿羅健一著 『「南京事件」日本人48人の証言』小学館文庫、2002年 ・DVD『戦記映画復刻版シリーズ 4 南京〜戦線後方記録映画〜』日本映画新社・ニコービデオ(内容は、1938年(昭和13年)東宝映画文化部 製作。56分・白黒。) ・ YouTube ≫ 戦線後方記録映画「南京」 1938年東宝文化映画部作品.avi ・鈴木明著『「南京大虐殺」のまぼろし』文藝春秋、1973年 ・鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』飛鳥新社、1999年 ・松村俊夫著『「南京虐殺」への大疑問』展転社、1998年 ・北村稔著『「南京事件」の探求 その実像を求めて』文春新書、2001年 ・川野元雄著『南京「大虐殺」被害証言の検証』展転社、2012年 ・ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著『マオ 誰も知らなかった毛沢東 上・下』土屋京子訳、講談社、2005年 ・鳴霞/千代田情報研究会 著『あなたのすぐ隣にいる 中国のスパイ』飛鳥新社、2013年 ・西尾幹二著『決定版 国民の歴史 下』文春文庫、2009年 ・このページのリンク先サイト ・各種ニュース報道 更新 2022/1/22 |
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