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1950年 中国で反革命鎮圧運動と土地改革



 1945年の日本の敗戦後、中国大陸での国共内戦は毛沢東の中国共産党が制し、1949年10月1日に中華人民共和国の成立を宣言した。一方、中国国民党は、1949年12月に中華民国政府を台湾へ移転させた。

 毛沢東は、1950年10月から、全国規模で中国国民党政権の残党に対する弾圧(反革命鎮圧運動)を開始した(出典:ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p546)。全国規模の反革命鎮圧運動は一年間続き、武力抵抗を試みた者や、国民党の情報機関で働いた者などが、弾圧され、処刑された(出典:ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p547)

 新たに共産党政権に組み込まれた地域(人口にして中国全体の三分の二に相当)では、反革命鎮圧運動と並行して土地改革が行われた(出典:ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p547)
 土地改革とは、「地主の土地・家屋・生産手段を没収し農民に分け与えた革命運動で、1927年から37年の第二次国内革命戦争期に始まり,1938年から49年の第三次国内革命戦争期に解放区で広く行なわれ、1952年に基本的に完了した」と LINK 中国語辞書 - Weblio土地改革の意味 に記されている。(注:年代などのとらえ方は、ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」とは異なっているようです。)

 土地改革は、以前から共産党の支配地域では行われていた。
 長征後の中国共産党の根拠地であった延安で、「1942年から1943年にかけての清風運動によって、毛沢東は権力基盤である共産党員を恐怖の力で押さえつけ、有能な手先に作りかえた。」(出典:ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p534 および p408-419。太字は当サイト管理人による。)
 毛沢東は、1947年末、淮海戦役に備えて、山東省に康生(カンション。人)を派遣し、この地域で二回目の土地改革を行わせた。拷問や処刑が公開で大量におこなわれ、山東省の住民を恐怖のプロセスで支配した。(出典:ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p534-535)
 中国大陸を制圧した毛沢東は、1950年から反革命鎮圧運動を開始するとともに、これと並行して土地改革を実施した。ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p547 では、「処刑、群衆による暴行、自殺によって、約300万人の命が失われた。」とみている。(出典:ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p546-547)


 また、中国人の夫と結婚して後に死別し、当時の中国で地主だった福地いま さんが、「私は中国の地主だった ―土地改革の体験―」(福地いま著、岩波新書、1954年(特装版 1984年))と題する著書を残している。この本に、福地いま さんが地主であった 四川省 逹縣の河市壩(ク) (注:読みは、河市壩=ホスパ。ク=シアン。)での体験を記している。
 それによると、まず最初に 反帝運動 (帝国主義分子に反対する運動)が行われ、外国人とくに宣教師が拘禁され、1か月ほど経って中央政府の判断で国外追放となった(出典:福地いま著「私は中国の地主だった」p54-55)。次に 反革命分子鎮圧運動 が行われ、国民党の残した特務(スパイ)として学校・工場・政府機関などから摘発された(出典:福地いま著「私は中国の地主だった」p55)。その次に、 減租退押(ジェンズートイヤ)と呼ばれる、小作料引下と保証金返還が行われた(出典:福地いま著「私は中国の地主だった」p67)。保証金は、小作契約をする時に、小作人から地主に入れていた(出典:福地いま著「私は中国の地主だった」p67-68)
 1951年の早々から、逹縣一帯で学習運動がはじまり、住民の思想改造が行われた(出典:福地いま著「私は中国の地主だった」p99) 。「地主は地主ばかり一ヵ處に集められて學習を始めさせられました。農民も農民以外の一般無産者も皆それぞれ學習を始めさせられました。」(引用:福地いま著「私は中国の地主だった」p99) 農民たちからは、これまでの地主の横暴や、地主が農民に預けた隠し財産の摘発がなされ、これに基づいて公衆面前での裁判である公審大会で地主の断罪が行われた(出典:福地いま著「私は中国の地主だった」p99-101)。地主は、全財産を告白し、農民たちの賠償額の見積もり(帽子(マオツ)と呼ばれた。)と比べられ、全てを没収されて、これが終わると(関門通過(過関)と呼ばれた。)、過関証が発行・手交されて人民として認められた(出典:福地いま著「私は中国の地主だった」p102-107)
(以下作成中)






 ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上」p546-549 から引用します。引用文中の は引用元での注で、(注)は当サイト管理人による注です。また、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。
 一九五〇年一〇月、毛沢東は全国規模で「反革命鎮圧運動」を開始した。これは毛沢東が政権を取ったあと初めておこなわれた弾圧で、毛沢東はこの運動にかなりの精力を傾注し、公安責任者に「わたしに直接報告を上げるように」と命じた。標的にされたのは、旧国民党政権の残党である。彼らはまとめて「階級敵人」と呼ばれた。「階級敵人」の中には「土匪(どひ)」という分類があり、これには武力抵抗を試みた者全員が含まれた。これだけでも何百万という数にのぼった。もうひとつ「特務(スパイ)」という分類もあり、これは実際にスパイ行為をした人間ではなく、国民党の情報機関で働いたことのあるすべての人間を意味した。農村部の国民党幹部も、まとめて犠牲になった。ただし、国民党幹部でも、大物は保護された。外国に逃げた国民党員を中国に呼び戻すおとりとして使うためである。「大きな蔣介石は一人たりとも殺さない。われわれが殺すのは小さな蔣介石どもだ」と、毛自身が発言している。
 毛沢東は次々に命令を発して軟弱すぎる地方幹部を非難し、もっと「大規模な逮捕、大規模な殺人」を要求した。たとえば、一九五一年一月二三日、毛沢東はある省を「手ぬるい、殺人が[十分で]ない」と批判した。その結果、この省で処刑率が上がると、毛沢東はこの「改善」を見て「たいへん喜ばしい」気分である、と発言した。
 全国規模の反革命鎮圧運動一年間続いたが、新しく共産党支配下に組み込まれた地域(人口にして中国全体の三分の二に相当)では、これと並行して土地改革(注:地主やクラーク(富農層)のほか共産党員や住民なども対象に、幅広い弾圧を行った。この本のp534〜536に記載がある。)も実施された。処刑、群衆による暴行、自殺によって、約三〇〇万人の命が失われた。毛沢東は社会に最大の衝撃を及ぼすような殺人のやり方を望んだ。すなわち、公開処刑である。一九五一年三月三〇日、毛沢東は、「多くの地方で……反革命分子の殺害をおおいに宣伝して大規模に実施するということをしていない。この状況は変えなければならない」と指導した。北京だけでも約三万回の判決・処刑集会がおこなわれ、三四〇万近い人々が参加させられた。

★毛沢東は、処刑者は全体で七〇万人である、としたが、これには一九四九年以降の土地改革で殴り殺されたり拷問で殺されたりした人々(最小に見積もっても、処刑者と同等の人数)が含まれていない。さらに、これ以外に自殺者があり、数ヵ所で調査した結果にもとづいて推計すると、おそらく、殺害された人々とほぼ同じ人数にのぼると思われる。

 半分中国人の血を引くある若いイギリス人女性は、北京の中心部でおこなわれた群衆集会を目撃した。約二〇〇人が街路を引き回されたあと頭を打ち抜かれて処刑され、脳みそが見物人のところまで飛び散った。なんとか集会に行かずにすんだ人々も、恐ろしい光景を見なくてすむとは限らなかった。死体を積んだトラックが血をしたたらせながら街路を往来していたからだ。
 毛沢東は人民の大多数――子供も大人も――が暴力行為や殺人行為を見ることを望んだ。全国民の脳裏に恐ろしく残忍な光景を刻みつけるためだ。そのやり方は、最も汚い犯罪を人目に触れないところで処理したスターリンやヒトラーをはるかに凌ぐ残忍さだった。
 強制労働に使えそうな人間は、処刑を免れた。「死をもって処すべき罪を犯した」者もいるが、彼らを殺してはならない、ひとつには「大きな労働力を失うことになる」からだ、という毛沢東の命令に趣旨がよく表れている。こうして、何百万という人々が処刑されるかわりに強制労働に送られた。毛沢東は囚人の移送や施設運営に関してソ連人専門家から助言を受けて、各地に強制労働収容所を設けた。強制労働収容所は、正式には「労改(ラオカイ)」と呼ばれた。「労働を通じて改造する」という意味だ。労改送りになるということは、最も条件の厳しい荒れ地や最も汚染のひどい鉱山でたえず迫害されながら苛酷な労働に従事させられる、ということを意味した。社会の目が届かぬ強制労働収容所で、身体の虚弱な人間や性格の強情な人間が重労働の果てに死んでいった。処刑された者も多かった。一方で、麦わら裁断機に飛び込むなどあらゆる方法で自殺する人間も多かった。二七年にわたった毛沢東の支配下において(注:1949年から、毛沢東が死去した1976年までを、指すものと思われる。そうであれば、大躍進政策や文化大革命の時期を含んでいる。)、刑務所や労改で死んだ人々の数は総計で二七〇〇万人に達すると思われる

★一般的な推計によると、毛沢東時代、中国の刑務所や労改の収容人数はどの年をとってもだいたい一〇〇〇万人前後だった。収容されていた人々の話にもとづいて推計すると、年間死亡率は少なくとも一〇パーセントを超していたと考えられる。

 処刑や刑務所・労改送りに加えて、毛沢東支配の本質を典型的に表す第三の懲罰方式があり、何千万という人々が対象となった。これは犠牲者を社会の中で「監視下に置く懲罰で、事実上「刑務所外での服役」と同じだった。犠牲者はつねに仮釈放のような条件下で厳しく監視され、新しい弾圧運動がおこなわれるたびに引き出されて痛めつけられた。しかも、一家全員が社会から白眼視されて暮らさなければならなかった。汚名を着せられ辱められて生きる犠牲者の姿を見て、人々は政権に刃向かうことの恐ろしさを肝に銘じた

★国民党時代と共産党時代をまたいで一〇年にわたって在中国大使の地位にあり、毛沢東の弾圧を間近に見たソ連のある外交官は、のちに機密文書の中で、国民党がいかに残酷なことをしたといっても共産党支配の残酷さには遠く及ばない、と述べている。この外交官は、毛沢東による初期の弾圧だけでも、殺害された国民の数は国共内戦の犠牲者を上回るだろう、としている。


 福地いま著「私は中国の地主だった ―土地改革の体験―」p54-58 から引用します。なお、一部の旧漢字で、そのまま表示できなかったために、近い字体を使用したものがあります。
 また、引用文中の(注)は当サイト管理人による注で、引用文中の太字も当サイト管理人が施したものです。
    六 反帝運動と反革命鎭壓(注:鎭壓=鎮圧)

 編者 税の取立てからすぐ土地改革に入るのですか。
 rn そうではありません。その前に、反帝と反革命鎭壓の二つの運動があります。その最初は反帝運動、つまり帝國主義分子に反對する運動で、それから反革命鎭壓運動となったわけです。反帝運動では多くの外國人、とくに宣教師が槍玉に擧げられました。外國人宣教師は、~様の帽子をかぶって、實(注:實=実)は帝國主義のお先棒をかついでいた人逹が多かったのでした。學校と病院を根城に、口では~の愛を語りながら裏では上手な搾取をしていた人逹が、立上った中國人民から、その本來の姿を曝露されたのです。廣東でも四川省でも、人民逹からあばかれて、~様のお面をはがされてしまいましたが、その頃逹縣縣城(注:逹縣縣城=四川省の「達」県の街を城壁で取り囲んだ城塞都市)でも外國人(フランス、イタリア、カナダ、アメリカ等)の宣教師が公安局に拘禁されました。彼等の下で働いていた使用人が政治的に自覺した結果、舊(注:舊=旧)主人の惡事を曝露したのです。その惡事とは、宣教師逹は第二次大戰開始の頃、保育園の子供逹から血を絞って殺したというのです。宣教師逹は手錠をはめさせられて、城内を引張りまわされました。そして、人民が擧げた人證、物證の前に、彼等はただ頭を下げるだけでした。一九五一年十月の初めのことでした。逹縣では、外國人宣教師を、勞働改造隊から連れ出して公審大會にかけました(勞働改造隊については一一五頁、公審大會については六〇頁參照)。中國兒童の虐殺の件に對して、人々は憤激でわき立っていました。人民逹は大聲で、彼等の銃殺を要求しましたが、縣長はちょっとためらって、「この人逹は外國人だから中央政府の指示をあおいでからにしましょう」といって閉會しました。あれがもし中國人だったら、當然(注:當然=当然)に卽時(注:卽時=即時)銃殺となったことでしょう。一ヵ月の後、中央政府から「驅逐(注:驅逐=駆逐)」の命令が來て、外國人を全部國外に追放しました。反帝運動は逹縣では、このようにして行われました。
 次に來たのが反革命分子鎭壓運動です。外國人を打倒した人民逹は、勇氣百倍して國内の敵にとっ組みました。敵というのは、國民黨(注:國民黨=国民党)が崩壊の時殘した特務(スパイ)で、彼等は學校、工場、政府機關(注:機關=機関)に潜入していたのです。それはこうだったのです。一九五〇年の初夏でした。蠅や蚊がブンブン飛んで傳染病(注:傳染病=伝染病)が流行する氣候になりました。國民黨は特務を使って、井戸の中に毒を投じました。毒を入れられた井戸の水は、強い臭氣を放っていました。あちらにもこちらにも井戸に毒が入れられたので、山中の農家では飲み水に困りました。「國民黨の畜生奴!」と、農民も政府も怒り出しました。政府はこれらの特務の反共工作に對抗するために、田植えが終ると直ぐ、農民を組織して、民兵(人民武装隊)をはじめて編成しました。男女の若い農民逹が、朝の五時から夜の十時まで、政治教育軍事訓練を受けました。地主の行動を極端に拘束し出したのも、この頃からです。私たちは村を一歩出るにも、人民代表、村長、公安員、人民武総隊長の證明が必要になりました。通行證を發行して、行き先、目的、通過道路などを詳しく書込んだものです。大小の道路には、この武装隊が歩哨に立っています。そこで證明書を出して、一つ一つの關門を通らなければなりませんでした。このようにしているうちに、農民の政治的自覺が高まりますと、村々では特務の逮捕が始まりました。捕えられた大勢の人々が、後手に高くしばり上げられて、縣城に連れて行かれました。
 編者 あなた御自身は反帝反革命運動の場合、どういうことになりましたか。
 rn 私はむろん特務ではありませんが、地主や官僚の陰謀と謀略の中で、戰いつつ進む中國では、地主階級は常に嚴格な監視(注:監視=監視)を受けます。特務の活動が盛んな頃は、當然私も注意人物の中に入れられます。それに政府は建國早々で基礎もまだ強固でない上に、いろいろな外敵に當らなければなりません。現にその頃國際暗殺團の一味が北京で逮捕されました。それは各國人を網羅しており、首諜はイタリア人で、山口さんという日本人もおりました。天安門で毛澤東を殺害しようとした事件で、天安門事件(注:1989年の天安門事件とは異なる。)と呼ばれています。一方、汪政府(注:汪兆銘(汪精衛)の親日政権を指すと思われます。)の下にいた人逹が續々と、情報關係で檢擧されていました。地主である上に、もと汪政府の下にいた私に政府が注意するのは當然です。地主階級は、いつでも人から疑われているのですから。でも、監視を受けるのは、氣持ちのいいものではありません。
 編者 反革命分子には地主とか特務などのほかにはどういう人がいたのでしょう。
 rn 革命に反對する一切の人を反革命分子というのですから、どんな人でもそれになる可能性があるわけです。農民階級でも、地主階級を庇護して政府の政策に反對すれば反革命分子ですし、その反對に地主でも進歩的で人民一邊倒(注:一邊倒=一辺倒)なら、反革命分子ではありません。乞食でも特務から金で買収されて、井戸に毒藥を入れればもちろん反革命分子です。反革命分子は、階級による區別(注:區別=区別)ではなくて、政府に反對かどうかによって決定されます。それからいろいろな幇(パン)、紅幇(ホンパン)とか幇(チンパン)(一七八頁參照)とかいうものも、その親分は皆蔣介石の方と連絡をして、新政府の政策を妨害しましたので、反革命分子として處分(注:處分=処分)されました。そしてその團體(注:團體=団体)は、木の葉のように分散させられました。それからいろいろな迷信、いかがわしい宗教などもいまはきれいになくなりました。そういう團體は大抵特務の手先になっていたからでした。その親分は大抵反革命分子として處分されたようです。
 編者 反革命分子は必ず殺されるのですか。
 rn 人民に對する影響力の大小によって罪が決定されました。死刑、勞働改造、人民管制等さまざまでした。ですが、政府はいつも赤裸々にその罪を坦白(タンパイ)(告白)して、人民に謝罪する者には寛大な處置をとります。一番いけないのは坦白しないことなのです。(人民管制については一二一頁以下參照)
(以下省略)


 福地いま著「私は中国の地主だった ―土地改革の体験―」p67 から引用します。なお、一部の旧漢字で、そのまま表示できなかったために、近い字体を使用したものがあります。
 また、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。
    八 小作料引下げと保證金返還(減租退押)

 編者 それからいよいよ土地改革に入るのですか。
 rn いいえ、その前にもう一つ減租退押(小作料引下げと保證金返還)というものがあります。私ども地主にとっては、これが、一番骨身にこたえたのです。先程申しました農民の學習が終りましてから、いよいよ減租退押に入りました。減租というのは、地主の小作料七割の中からその二割五分を農民に引渡すことです。だから地主と小作人との取り分が約半分ずつになります。さて、この半分の中から税を差引きますと、地主は小作人からいくらか貰う勘定になるのです。それを退押、つまり保證金返還に充てます。保證金というのは、小作契約をする時に、小作人から地主に入れるもので、その額は小作料の二割位というのが相場のようでした。
(以下省略)





【参考ページ】
1948年 中国で長春包囲戦
1949年 中華人民共和国の成立(主席毛沢東)
1949年 中華民国政府が台湾へ移転
1950年 中ソ友好同盟相互援助条約の成立
1950年 朝鮮戦争(〜1953)(注:リンクのみ)



【LINK】
LINK 中国語辞書 - Weblio土地改革の意味
LINK 老酒保's space中国の土地改革(1950-1953)
 このサイトに、次の記述がある。「大紀元」からの抄録のようです。
『専門家によれば、控えめな推計でも、当時、土改運動で殺害された“地主分子”は200万にのぼる。ある米国学者の推計では、土改中の死亡者は450万人の多きに達する。』(第5項目の文中)
『土改運動における重要な項目として、農村人口の階級成分(属性)への分類がある。雇農、貧農、中農、富農、地主の五つの属性に分類された。貧雇農は中共のバックボーン(依靠的対象)であり、中農は団結対象であり、地主富農は搾取階級と定義され打撃の対象であった。ここに、中国農村における階級前線は分明となり、永遠の下等階級,つまり地主と富農が出現した。』(第7項目の文中)
(注:「依靠」とは、「頼みにする、よりどころとする」との意味だそうです。出典:LINK 中国語辞書 - Weblio依靠の意味
LINK 打倒中国共産党2008年の論説中国共産党の犯罪 六 土地改革と鎮反運動
 このサイトに、次の記述がある。
『 1951年10月まで続いた鎮反運動により、71万人が虐殺され、そのほかに129万人が逮捕された。中華人民共和国建国からわずか2年で、中国共産党は土地改革と鎮反運動によって300万人の大虐殺を行ったのである。』
LINK KINBRICKS NOW 中国・新興国・海外ニュース&コラム中国土地改革のミッシングリンク=書評『中華人民共和国誕生の社会史』(kaikaji)
LINK サーチナ【今日は何の日?】1950年:土地改革法が施行される
 この記事を、全文引用します。
【今日は何の日?】1950年:土地改革法が施行される
【コラム】 2007/06/30(土) 08:32
 1950年6月30日、中央人民政府は『土地改革法』を公布、施行した。
 国共内戦中の1947年10月、中国共産党は土地改革の基本要綱である『土地法大綱』を採択した。
 1950年、新中国成立後なおも残る地主の封建的搾取に対し、中国共産党は、地主階級の土地所有制を廃止し農民による土地所有制に改めることをうたった『土地改革法』を公布。農村を開放して生産力を高め、新中国の工業発展に道筋をつけようという目的があった。
 地主階級の土地を農民に分配する原則は基本的に『土地法大綱』と同じであるが、『土地法大綱』が富農(裕福な農民)の余剰の土地や財産を没収するとしていたのに対し、『土地改革法』は富農経済を保存すると規定している。
 同法に基づいた土地改革運動は同年秋から盛んに実施され、1952年に基本的に完成した。中国の土地改革は、虐げられていた貧しい農民と沈滞していた農村に活気をもたらしたが、一方では多くの地主が肉体的にもリンチに近い扱いを受けたとの証言も多い。(編集担当:梅本可奈子・如月隼人) 』
LINK ダライ・ラマ法王日本代表部事務所チベットの歴史 History1957年2月7日 中国共産党当局「チベットの土地改革は6年間延期されるであろう」と発表





参考文献
「マオ 誰も知らなかった毛沢東 上・下」ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著、土屋京子訳、講談社、2005年
「私は中国の地主だった ―土地改革の体験―」福地いま著、岩波新書、1954年(特装版 1984年)
「20世紀全記録」講談社、1987年(注:1991年に増補版が出ています。)
LINK 中華民国の歴史 - Wikipedia
LINK 淮海戦役 - Wikipedia
LINK 中国語辞書 - Weblio土地改革の意味
LINK 中国語辞書 - Weblio依靠の意味


更新 2013/9/5

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