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1938年 ティンパーリが「What War Means: The Japanese Terror in China」をイギリスで刊行(中国国民党の反日宣伝本)


 ハロルド・J・ティンパーリ編『戦争とは何か』(注:ロンドンの英語版は『What War Means: The Japanese Terror in China』、ニューヨークの英語版は『The Japanese Terror in China』、漢訳版は『外人目睹中之日軍暴行』)は、1938年7月にロンドンで、同1938年にニューヨークでも英語版が出版され、同1938年7月に漢訳版も出版された。この本は、南京大虐殺論争火付け役となった本である。
 ハロルド・J・ティンパーリは、オーストラリア人で、当時イギリスの「マンチェスター・ガーディアン」紙の上海特派員であった。(出典:東中野修道・小林進・福永慎次郎著「南京事件「証拠写真」を検証する」p10)

 東中野修道氏は、2003年に、台湾の台北にある国民党党史館で、中国国民党中央宣伝部国際宣伝処が作成した極機密文書である『中央宣伝部国際宣伝処工作概要一九三八年〜一九四一年四月〔民国二十七年〜三十年四月〕』をはじめとする機密文書を発見した。この『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』には、ティンパーリ編『戦争とは何か』が国民党中央宣伝部国際宣伝処が製作した対敵宣伝書籍であると記載されていることがわかった。
 東中野修道氏は発見した極秘文書などを基に、著書『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』のなかで、「南京大虐殺」は中国国民党(注:第二次国共合作時)中央宣伝部による宣伝工作であることを明らかにした。東中野氏の説に反対する意見もありますが、当サイト管理人は非常に説得力のある説だと考えます。



【東中野修道氏の説】
 東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」により主張されている説の要点を、当サイト管理人なりにまとめると概ね次のとおり。
東中野修道氏は、台湾の台北にある国民党党史館で、中国国民党中央宣伝部国際宣伝処の作成した『中央宣伝部国際宣伝処工作概要一九三八年〜一九四一年四月〔民国二十七年〜三十年四月〕』(極機密文書)などを発見した。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p15)
・中央宣伝部国際宣伝処は、1937年11月1日に漢口に事務所を開くよう命じられ、1937年12月1日に工作活動を開始した。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p17)(注:この時期は第二次国共合作がなされた直後の時期である。また、南京陥落は、1937年12月13日です。)
南京陥落(1937年12月13日)の後まで(12月15日あるいは16日まで)南京に残っていた欧米のジャーナリストは次の5人。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p105)
 @アーチボールド・スティール 「シカゴ・デイリー・ニューズ」
 Aティルマン・ダーディン 「ニューヨーク・タイムズ」
 Bアーサー・メンケン 「パラマウント・ニュース映画」
 CL・C・スミス 「ロイター通信」
 Dイェイツ・マクダニエル 「AP通信」
・この5人が南京を離れる直前(12月15日)に、マイナー・ベイツ教授(金陵大学教授。中華民国政府の顧問だった。)から、「特派員に利用してもらう」ためにベイツ教授が「準備した声明」を渡したとみられる。その内容は、日本軍による殺人・掠奪・婦女暴行、死体、中国兵の摘発・連行・射殺などとみられるが、実態とは大きく異なっていた(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p118-121)
・5人のうち次の2人は、日本軍が蛮行を行っているとする記事をアメリカの新聞に書いた。これは、ベイツ教授から渡されたレポートを元に記述したと見られ、日本軍の残虐行為を記述している。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p105-107)
 @アーチボールド・スティール 「シカゴ・デイリー・ニューズ」12月15日付の記事。
 Aティルマン・ダーディン 「ニューヨーク・タイムズ」12月18日付の記事。
他の3人は、自らの見聞したことを中心に記事を書いており、上の2人に比べれば穏健であるが、マイナー・ベイツ教授から渡されたレポートの影響も受けているようだ。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p107-113)
・その後、他のメディアでも、日本軍の残虐行為についての記事が報道された。これらは、ベイツ教授のレポートのほか、フィッチ師やティンパーリ記者が提供した情報によるとみられる。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p125-128)
 @「サウスチャイナ・モーニング・ポスト」12月25日付の記事。
 A「ワシントン・ポスト」翌1938年1月12日付の記事。
 B「マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー」1938年2月11日付の記事。
 C「サウスチャイナ・モーニング・ポスト」1938年3月16日付の記事。
・1938年に、ハロルド・J・ティンパーリが『戦争とは何か』の英語版と漢訳版を刊行した。
 英語版(ロンドン):『What War Means: The Japanese Terror in China』 ヴィクター・ゴランツ書店、1938年7月。(注:ヴィクター・ゴランツは、代表的な左翼知識人)
 英語版(ニューヨーク):『The Japanese Terror in China』Modern Age Books、1938年。
 漢訳版:『外人目睹中之日軍暴行』由楊明訳、漢口民国出版社、1938年7月。
 日本語訳版:訳者不明『外国人の見た日本軍の暴行』(中国語訳からの重訳、1938-1941年に軍関係者によって出版されたものと推定される)
 日本語復刻版:『外国人の見た日本軍の暴行』訳者不詳、評伝社、1982年。
 LINK ハロルド・J・ティンパーリ - Wikipedia
 LINK 脱・洗脳史講座脱・洗脳史講座 総目次南京虐殺各論目次南京虐殺(5−3) ―ティンパーリィ編『 戦争とは何か 』 ―
・ハロルド・J・ティンパーリ編「戦争とは何か」の南京について語られた第一章から第四章は、「南京在住の一外国人が上海の友人たちに送った手紙」などといった形で匿名で記されているが、実際の筆者は次のとおりであることがわかっている。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p136-215)
 @第一章前半 〜 ベイツ教授(12月15日に欧米のジャーナリストに渡したレポート)
 A第一章後半 〜 フィッチ師(日記形式・12月13日〜16日分)
 B第二章 〜 フィッチ師(日記形式・12月17日〜31日分)
 C第三章 〜 ベイツ教授(メモランダム形式)
 D第四章前半 〜 ベイツ教授
 E第四章後半 〜 筆者不詳
・1938年のティンパーリ編『戦争とは何か』に続いて出された次の出版物(いずれも中国で出版された英語版)には、上記C第三章〜ベイツ教授(メモランダム形式)が転載されている。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p207-208)
 @徐淑希編『日本軍の戦争行為』(1938年4月12日)
 A徐淑希編『要約・日本軍の戦争行為』(1939年1月28日)
 B『チャイニーズ・イヤーブック 1938-39』(1939年3月15日)
 C徐淑希編『南京安全地帯の記録』(1939年5月9日)


【国際委員会のメンバー(一部)】
 「国際委員会」は、南京に設けられた安全地帯(日本は承認していないが尊重した。)を管理するために南京に残った外国人らによって組織された委員会。
LINK 南京安全区国際委員会 - Wikipedia
ジョン・ラーベ
・国際委員会の委員長。南京国際赤十字委員会委員。ジーメンス社南京支社の支配人。南京のナチス党支部長代理。1938年2月28日に南京を去りドイツに帰国するが、日本軍の暴虐を止めるよう訴えたことが当時の党の政策に反し、党の監視下に置かれる。(出典:LINK 南京安全区国際委員会 - Wikipedia
・ラーベは、安全地帯において少なくとも3人(龍(大佐)・周(大佐)・汪漢萬(空軍大尉))の中国国民党軍の将校を匿った。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p80-81)これは、安全地帯の中立義務違反である。フィッチの回想録によると、汪漢萬はラーべ委員長の特別助手兼通訳となった。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p81)
マイナー・ベイツ教授
・国際委員会の中心メンバー。南京国際赤十字委員会委員。金陵大学歴史学教授、博士。知日派で日本社会を分析した論稿も多く、妻と2人の息子は日本で避難生活を送る。中華民国政府顧問であったことが判明している。(出典:LINK 南京安全区国際委員会 - Wikipedia
・日本軍の残虐行為を記述したレポートを、欧米の特派員に渡したと見られる。また、匿名で『戦争とは何か』に執筆している。
ジョージ・フィッチ
・国際委員会のマネージャー役を担当。ニューヨークにあるYMCA国際委員会の書記。中国の青年をYMCAが組織した励志社の顧問として南京に滞在。委員名簿に名前は載っていないが、安全区の管理責任者として活動した。(出典:LINK 南京安全区国際委員会 - Wikipedia
・彼の妻は、蒋介石の妻である宋美齢と親友。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p79)
・匿名で『戦争とは何か』に執筆した際、国民党軍は安全地帯からの退去に協力的であったと書いたが、実際は、国民党軍は安全地帯から退去せず、安全地帯に大砲や堡塁を増やしていた。(出典:東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p78-79)
ジョン・マギー
・国際委員会の委員。南京国際赤十字委員会委員長。アメリカ聖公会伝道団宣教師。16ミリフィルムのカメラで日本軍の暴行によるとされる負傷者や虐殺死体などの映像を撮影した(マギー・フィルム)。(出典:LINK 南京安全区国際委員会 - Wikipedia
ルイス・スマイス
・国際委員会の書記。南京国際赤十字委員会委員。金陵大学社会学教授。南京戦およびその後の暴行による被害状況を調査し、『南京地区における戦争被害』としてまとめた。(出典:LINK 南京安全区国際委員会 - Wikipedia



【東中野修道著『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』から引用】
 東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p60-62 から引用
 ティンパーリ編『戦争とは何か』が中国国民党中央宣伝部国際宣伝処の製作した対敵宣伝書籍であると記述している部分です。なお、文中の「中央宣伝部」とは、中国国民党中央宣伝部です。
(前略)
 先にも述べたとおり、中央宣伝部は対敵宣伝物として単行本も製作していた。極秘文書は次の二冊を秘密報告している。

 1、単行本
 本処〔国際宣伝処〕が編集印刷した対敵宣伝書籍は次の二種類である。
A『外人目睹中之日軍暴行』〔=『戦争とは何か』〕
 この本は英国の名記者田伯烈(ティンパーリ)が著した。内容は、敵軍が一九三七年十二月十三日に南京に侵入したあとの姦淫、放火、掠奪、要するに極悪非道の行為に触れ、軍紀の退廃および人間性の堕落した状況についても等しく詳細に記載している。この本は中国語、英語で出版したほか、日本語にも翻訳した。日本語版では書名を『戦争とは?』〔『所謂戦争』〕と改めている。日本語版の冒頭には、日本の反戦作家、青山和夫の序文があり、なかに暴行の写真が多数ある。本書は香港、上海、および海外各地で広く売られ、そののち敵の大本営参謀総長閑院宮(かんいんのみや)が日本軍将兵に告ぐる書を発し、〈皇軍〉のシナにおける国辱的な行動を認め、訓戒しようとした。
B『神の子孫は中国に在り』〔神明的子孫在中国〕
 本書はイタリア人范思伯(ファンスボー)の著書で、敵の諜報機関が東北三省において財産の略奪と、わが同胞を蹂躙する内幕、またわが東北義勇軍の勇敢なる敵殲滅の状況を多く記述している。本書は最も有力な対敵宣伝書であって、敵の軍閥が国民を騙すやり方を暴露し、東北の同胞が敵の統治下で圧迫されている様子を描いている。中国語版、英語版のほかに、日本語にも翻訳した。表紙に『戦後施策と陸軍の動向』と印刷し、敵方の検査をかいくぐって日本内部へ運び込んだ。

 先ほどから何度も述べているように、対敵宣伝の狙いは日本人の精神を貶めることであった。また欧米人がそれを読んで日本を侮辱するように仕向けることであった。もしもその編者が中国人であったならば、それを手にした読者は当時どう思ったであろうか。戦争中のことでもあり、敵側の宣伝本ではないかと疑ってかかり、最後まで読もうとはしなかったであろう。読んだとしても、疑いの目で読んだことであろう。この肝腎要の大事を、中央宣伝部は忘れなかった。
 そのためABどちらの単行本にしても、編集者は外国人となっている。あたかも外国人が独自に編集し、独自に出版したかのような体裁がとられている。分担執筆者や編者が第三者的立場の外国人であるかぎり、読者は興味をそそられ安心して読んだであろう。たとえば当時『ロンドン・タイムズ』は『戦争とは何か』を高く評価し、「ここに提示された証拠が正真正銘かつ正確であることは明らかである」という書評を載せている。このような中央宣伝部の工作の巧みさは南京陥落当時も発揮された。
(以下略)

東中野修道著「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」p216-229 から引用
 この著作の最終章であるまとめの部分。長文ですが、重要だと思われるのでそのまま引用します。
 なお、文中の「中央宣伝部」は中国国民党中央宣伝部、「国際委員会」は南京陥落に備えて南京市内に設けた安全地帯を運営するための外国人らによる委員会です。
 第八章 極秘文書は玉手箱だった……エピローグに代えて
◆戦争プロパガンダの視点に立って
 私の研究生活において、戦争プロパガンダという視点を加えて史料を読んだことなど、いまだかつてないことであった。しかし、今日、南京大虐殺の重要な根拠とされている『戦争とは何か』が中央宣伝部の製作した宣伝本であったと判明した以上、思い切って戦争プロパガンダの視点に立って、そこから史料を見なければ、南京事件の解明は先へ進まないように思えた。
 しかしながら、戦争プロパガンダの視点を加えるとなると、どうしても偏った見方になりかねない。それは、意識して自戒しなければならないことであった。そこで私がみずからに課したことは、ある一つの記録にたいして、まず中央宣伝部の極秘文書という一つの資料から光をあてる、そしてそこから見えてきたことを他の史料と付き合わせながら、あくまでも、こうとしか考えられない解釈だけを選択していく、ということであった。
 こうして極秘文書を座右に置いて、始めた検証作業であった。するとどうであろう。白と黒が同時に混在するという矛盾が(戦争プロパガンダの視点を加えることによって)消えていったのである。
 たとえば、国際委員会委員としてのベイツ教授は、匿名では、日本軍が捕虜三万人と市民一万二千人を殺害したと批判していた。ところが、公の場では、そう批判したことは一度もなかった。また、中央宣伝部は「南京陥落一周年」と題して一九三八年(昭13)十二月十四日の『中央日報』〔中央宣伝部に隷属する国民党の機関誌〕に「二十万人」の虐殺を発表させていた。ところが、その中央宣伝部は、みずからの極秘文書においてはまったく南京大虐殺に触れていなかった。彼らがほぼ毎日のように開いていた記者会見でも南京大虐殺発生というニュースを発表したことはなかった。
 このように、同一人物があるときは白と言い、あるときは黒と言っていたのだが、これまでの史料群に一線を引くことによって、それを分水嶺として白と黒が画然と分かれ始め、結局、一方が事実からかけ離れた戦争プロパガンダであることが判明したのである。
 また、戦争プロパガンダの視点を加えることによって、次のことも生じてきた。これまでばらばらに点在していた個々の疑問点が、徐々に相互に関連性を持ち始め、一本の線で繋がり始めたのである。
 たとえば、(一)南京陥落後、市民殺害の目撃は一件もなく、処刑されたのは戦争捕虜(prisoners of war)にはなれない不法戦闘員であったにもかかわらず、アメリカの二人の新聞記者、ダーディンとスティールは、陥落後の三日間に市民と捕虜が殺されたという記事を書いていた。なぜなのか。それが最初の疑問であった。そして、(二)ベイツ教授はみずから書いた「レポート」をこの二人を含めた特派員に渡していたことが判明した。ここで、なぜベイツ教授はそうしたのかという次の疑問が出てきた。更に(三)ベイツ教授の「レポート」を検証してみると、これも事実からかけ離れていることが分かった。一般にレポートとは事実の報告なのだが、なぜ事実からかけ離れたレポートが用意されたのか。これもまた大きな謎であった。
 ほかにもあるが、ともかくこのような三つの疑問がばらばらに点在していたのである。そこへ、極秘文書から光をあててみた。すると、中央宣伝部は極秘文書に(四)「各国新聞記者を使ってわが抗戦宣伝とする」とか「われわれが発表した宣伝文書を外国人記者が発信すれば、最も直接的な効果がある」と記していた。また、(五)お茶会や記者会見を頻繁に開いていた。(六)「記者団を招待する」とか、「記者の取材に協力する」という記録のなかに、ダーディン記者やスティール記者の名前が見えた。(七)中央宣伝部は陥落後の宣伝工作として「首都陥落後の敵の暴行を暴く」ことに重点を置いていた。
 極秘文書とは別の資料から判明したこととして、(八)ダーディン記者は中央宣伝部の副部長董顕光と旧知の親密な間柄であった。(九)ベイツ教授は中華民国政府の「顧問」であった。(十)ベイツ教授が特派員に渡した「レポート」は『戦争とは何か』の第一章を構成していた。そして極秘文書から(十一)『戦争とは何か』は中央宣伝部の製作した宣伝本であることが判明した。
 どうであろうか。中央宣伝部の戦争プロパガンダという視点から改めて見直してみると、最初の(一)(二)(三)の疑問は中央宣伝部の宣伝工作という一本の線で繋がってくる。それ以外に疑問や矛盾の解き方は見出せないのではないか。本書の第一章から第七章にわたって、以上の矛盾と疑問の解き方については縷々(るる)詳説してきた。
 以上のように、戦争プロパガンダの視点に立って最終的に見えてきたことは、次のようになる。
 まず初めに「対敵宣伝本」を作るという中央宣伝部の計画があった。そして、そのためにさまざまな工作が行われた。そうしてできあがったのが『戦争とは何か』であった。『戦争とは何か』は、中央宣伝部の宣伝工作の総決算であったから、それが目的達成の成果として極秘文書には報告された。したがって『戦争とは何か』は中央宣伝部が総力を挙げて取り組んだ、ないものをあるかのように見せかけた巧妙な拡大宣伝の精華であった。あれもこれも、すべては、『戦争とは何か』の作成という目的に向かって統(す)べられていたのである。
『戦争とは何か』が製作されていなかったならば、あるいは二十一世紀になるまで六十年以上も宣伝本と見破られなかったほど巧妙に作られていなかったならば、今日の南京大虐殺はなかったと言っても過言ではない。敵に知られてはならない大切なことを秘録した、極秘文書という玉手箱が、その形成過程を明かしていたのである。
 しかしここで読者は戸惑いを覚えるのではないか。本書の言うように、南京大虐殺が戦争プロパガンダであったのならば、それは戦争終結とともに消えていくべきであったのではないか。つまり、南京大虐殺を報じたアメリカの新聞記事や『戦争とは何か』も戦争プロパガンダとして消えていくべきだったのではないか。ところが、東京裁判は南京大虐殺を事実と決定したではないか。あの東京裁判の断罪はどう考えればよいのか、と。
 たしかに、それは誰もが抱く疑問である。したがって、本書は東京裁判の判決についても検証しなければ不十分となる。そこで、東京裁判を改めて眺めてみた。そうすると、不可解としか言いようのないことが見えてきた。本書が追究してきた、中央宣伝部の戦争プロパガンダの延長線上にあったアメリカの新聞記事と『戦争とは何か』に焦点をあてて、その一端を示しておきたい。
◆東京裁判の根拠は「証人たちの述べるところ」であった
 昭和二十年(一九四五)八月十五日、日本は「日本軍の無条件降伏」その他を条件として連合軍に降伏した。敗戦から四ヶ月にも満たない昭和二十年十二月八日、連合軍司令部(当サイト管理人による注:=GHQ)は全国紙の全面二頁に「太平洋戦争史――真実なき軍国日本の崩潰(ほうかい)――連合軍司令部提供」を掲載させた。
「南京における悪夢……日本軍は恐る可(べ)き残虐行為をやつてしまつた。近代史最大の虐殺事件として證人(しょうにん)達の述べる所によればこのとき実に二万人からの男女、子供達が殴殺(おうさつ)された事が確証されてゐる。四週間に亘(わた)つて南京は血の街と化し、切りきざまれた肉片が散乱してゐた」
 ある事件が数年を経て右のような新聞報道にいたるには、通常、次のような流れが考えられる。
 (一)南京陥落当時、南京大虐殺が知らされていた。
 (二)それが調査されていた。
 (三)検証の結果、それは事実と判明したので、世界各国は日本を非難していた。
 (四)戦争が終わり、それが改めて俎上(そじょう)に載せられ、関係者が裁かれることになった。
 たしかに、(一)はそうであった。陥落直後にアメリカの新聞が報じ、その後に出た『戦争とは何か』が南京大虐殺を知らせていた。(二)の調査は、公式にはなかったが、コーヴィル武官によって非公式にはなされていた。しかし(二)の結果としての(三)はなかった。中国やアメリカ政府をはじめとして、当時どこの国も日本軍の不法殺害、つまり南京大虐殺を事実と確認して、日本政府を非難したことはなかった。
 それでは、何を根拠に、連合軍司令部は「二万人からの男女子供が殴殺された事が確証されている」と発表し、(四)のように、やがて東京裁判に持ち出すことになったのであろうか。一応ここで考えられることは、連合軍司令部が(一)のアメリカの新聞記事や『戦争とは何か』で南京大虐殺が知らされたことを思い起こし、(二)の調査が不十分だったので、戦後の四ヶ月間に国際調査団に検証をさせた結果、「二万人からの男女子供が殴殺された」という確実な証拠が得られたから、ということであろう。
 ところが、そうではなかった。連合軍司令部の根拠は「證人達の述べる所」であった。では、その「證人達」とはいったい誰だったのか。陥落当時、南京に避難していた南京市民や欧米人だったのか。一一四頁で見たように、当時、南京市民が手袋やセーターを盗まれたと訴えた事例は、欧米人の手で「市民重大被害報告」として日本大使館に提出されていた。『戦争とは何か』の編者ティンパーリ記者でさえ「市民重大被害報告」について「日本軍南京占領の最初の二ヶ月間に報告された話を完全に取り揃えている」と述べているように、これが南京で起きた事件のすべてであった。ましてや殺人となると、目撃は一件もなかった。つまり当時、南京市民も欧米人も殺人を目撃したと言った人はいなかったのである。
 それとも当時はそうであったが、戦後になってから新たに、南京市民や欧米人が訴えてきたのであろうか。一九四六年(昭21)二月付で東京裁判に提出された、南京地方裁判所付き検察官の「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」は、日本軍の虐殺行為を申告する者が「甚(はなは)ダ少キ」と記している。南京の大残虐事件の聞き取り調査を受けた市民のなかには、「冬ノ蝉ノ如ク口ヲ噤(つぐ)ミテ語ラザル者」がいた。また、そんなものはなかったと「否認スル者」すらいたと報告していた。それとも南京在住の外国人に戦後、聞き取り調査がなされたのであろうか。しかしそれは分からない。
◆東京裁判に出廷すべき「証人たち」が出廷しなかった
 そのような状況のなか、連合国はいったい誰を証人にして「二万の男女子供」が殺害されたという確証を得たのであろうか。連合国が南京大虐殺の「證人」として東京裁判に出廷させたのは、ベイツ教授、ウィルソン医師、マギー師であった。南京市民の中からは、許伝音、尚徳義、伍長徳、陳福宝、梁廷芳の各氏であった。
 ここで読者は、おやっと思われないだろうか。連合国が「證人」として真っ先に立てるべきは次の五人ではないか、と。まず世界初の「南京大虐殺物語」を報じたスティール記者やダーディン記者である。連合国が彼らの新聞に目を通していなかったことはないであろう。次に三十万人虐殺を電報で打とうとした『戦争とは何か』の編者ティンパーリ記者と、そこに分担執筆したベイツ教授やフィッチ師であった。ところが、この五人のうち出廷したのはベイツ教授だけであった。
 ダーディン記者、スティール記者、ティンパーリ記者、フィッチ師は、なぜ東京裁判に出廷しなかったのか。彼らにとって東京裁判は、当時の記事や報告を改めて国際的に認知させるうえで、またとないチャンスであった。彼らが当時書いたことは正当だったという自負があれば、歴史的な舞台で証言する好機到来と受け取られたはずだ。ところが彼らは出廷しなかった。
 なぜなのか。まず考えられることは、彼らはみずからの記述を目撃証言として法廷で述べるだけの自信がなかった、つまりみずから虚報と認めていたのではないか。
 二番目に考えられることは、彼らの記事や報告が中央宣伝部の宣伝戦上にあると露見することを恐れたからかもしれない。スティール記者、ダーディン記者は、アメリカの新聞に南京大虐殺の記事を書いた特派員として知られていたのだが、特にダーディン記者が中央宣伝部の董顕光副部長と旧友であったことは、知る人ぞ知るであった。フィッチ師は広東の呉鉄城省主席〔国民党香港支部主任委員〕たちとも交流があり、アメリカで南京大虐殺を講演して回っていることも日本側に察知されていた。彼の妻が蒋介石の妻の「親友」であったことも知られていたであろう。ティンパーリ記者は、同盟通信の松本重治上海支局長が回想しているように『戦争とは何か』の編者として知られていた。
 こうみてくると、連合国はあたかも、当時南京大虐殺を知らしめた人、あるいは中央宣伝部と関わりがあった人を証人に喚問することを、あたかも避けていたかのようだ。しかし連合国としては、当時南京大虐殺を主張した人を出廷させることがどうしても必要であった。それは五人のうちでベイツ教授しかいなかった。ベイツ教授は蒋介石政府との関係を知られていなかった。べイツ教授は『戦争とは何か』の分担執筆者であったが、それが判明したのは最近になってのことである。匿名の執筆であったから、当時はまったく知られていなかった。
◆アメリカ人三人の証言
 東京裁判で第三国の証人は貴重であった。ウィルソン医師、マギー師、ベイツ教授が出廷した。彼らの証言を簡単に見ておこう。
 ウィルソン医師は鼓楼医院〔南京大学付属病院〕の外科医であった。したがって、毎日病院で患者の治療に忙殺されていた。彼が見たのはほとんどが病院内の患者であって、彼の証言内容のほとんどは患者の話であった。彼が「二万人からの男女子供が殴殺された」という確証を示したことはなかった。
 マギー師は南京の牧師であった。東京裁判で彼は日本軍の殺人、強姦、略奪などについて述べた。そのとき、「それでは只今お話しになった不法行為もしくは殺人行為の現行犯を、あなたご自身どれくらいご覧になりましたか」と質問されると、マギー師は「ただ僅か一人の事件だけは自分で目撃しました」と答えた。(そこでマギー師の日記を見てみると、「その殺人が現実に起きたとき、われわれはそれを見ていなかった」と記していた。したがってマギー師が東京裁判で証言した「一人の事件」の目撃さえ、はなはだ疑わしいことになる)。またマギー師はみずからの証言を裏付けるため、何枚も写真を撮ったと言っていたが、そのフィルムを証拠として提出することもなかった。マギー師のフィルムについては共著の『南京事件「証拠写真」を検証する』で検証しているように、そこに写されているのは、ほとんどが病院の患者の様子である。
 ベイツ教授は「色々な調査と観察の結果、我々が確かに知っている範囲内で、城内で一万二千人の男女及び子供が殺された」と述べたうえで、更に三万の兵士が「降服して武装を解除されてから七十二時間後に機銃掃射により射殺された」と証言した。これは、本書の第六章や第七章で検証した英語版の『戦争とは何か』の一文と同じ趣旨であった。つまり婉曲的に「日本軍(四万人)不法殺害」を主張したのである。この証言が決定的な影響を与えたと思われる。この証言により初めて「二万人からの男女子供が殴殺された」という連合国側の発表が裏付けられる結果となった。
◆ベイツ証人にたいする疑問
 ベイツ教授が証言した「日本軍(四万人)不法殺害」は、本書の第七章で論じたように、ベイツ教授自身も、中央宣伝部も、削除し否定していた。ベイツ教授はそれを東京裁判で蒸し返したわけである。日本の弁護側がその削除と否定の事実を知っていたならば、なぜベイツ教授が裁判で再度主張したのか、その理由を反対尋問できたかもしれないが、それは今になって分かったことであって、当時としてはまったく分からないことであった。
 しかも、日本側のアメリカ人弁護士は、ベイツ教授がアメリカの新聞記事のニュースソースであったことも、『戦争とは何か』の執筆者であったことも、まったく知らなかったから、当然のことながらそのことについても反対尋問していない。
 しかし東京裁判において何よりも不可解なのは、証言台のベイツ教授が『戦争とは何か』に一度も言及していないことである。ベイツ教授にとって、匿名にしておく必要はもうなかったであろうに、また当時書いた『戦争とは何か』の記述を、みずからの証言の裏付けとして示してもよかったであろうに、その『戦争とは何か』に触れることは決してなかった。もちろん、アメリカの新聞記事についても触れなかった。むしろ、それらに言及することを避けていたかのようであった。ベイツ教授にとっては、知られてはならない著作だったのであろうか。
 同じことを連合国の側から見てみよう。連合国が南京大虐殺を俎上に載せる際、陥落当時の目撃談を記録したアメリカの新聞記事や『戦争とは何か』は証拠として貴重だったはずである。南京大虐殺の証拠として、それらを提出してもよかったはずである。フィッチ師がアメリカ講演の際に虐殺の証拠として持参したマギー師のフィルムも、証拠として提出してよかったはずである。ところが、それらを提出することはなかった。連合国側の検察官は、南京残留の欧米人が殺人を目撃したと書いていたアメリカの新聞や『戦争とは何か』の報告を引き合いに出して、それらの内容を裏付けるため、ベイツ教授その他の証人から証言を引き出してもよかったはずである。ところが、連合国の検察側も、アメリカの新聞記事や『戦争とは何か』の内容に言及することは決してなかった。
 アメリカの新聞記事や『戦争とは何か』が南京大虐殺の決定的な証拠と評価されてきたことを思えば、彼らがそれに触れなかったことは不可解だ。東京裁判の法廷でアメリカの新聞記事や『戦争とは何か』が議論の対象となって、それが中央宣伝部の宣伝戦の一環であったと判明することを恐れていたかのようである。
 もしも日本の弁護団が今日判明していること、つまりベイツ教授が中華民国政府の「顧問」であったこと、ベイツ教授の「レポート」がアメリカの新聞記事のニュースソースになっていたこと、『戦争とは何か』は中央宣伝部が製作した宣伝本であったこと、ベイツ教授はその宣伝本『戦争とは何か』に分担執筆していたこと、その『戦争とは何か』の内容は事実から大きくかけ離れていたこと、その宣伝本に書き込んだ「日本軍(四万人)不法殺害」の一文はベイツ教授自身が五度も削除に応じていたこと、以上のことを把握していたとしたならば、どうなっていたであろうか。おそらく東京裁判の展開は違っていたであろう。しかし残念なことに、東京裁判の時点では、それは分からず、したがって反対尋問されることもなかった。
 ベイツ教授の晩年の資料がイェール大学所蔵のベイツ文書の中にある。その一つが履歴書で、ベイツ教授はそこに「一九三八年と一九四六年、日本との戦争中の人道的奉仕にたいしてシナの政府から勲章を授与される」と記している。一九三八年(昭13)とは、中央宣伝部がべイツ教授 の分担執筆した『戦争とは何か』を出版した年であった。一九四六年(昭21)とは、ベイツ教授が東京裁判に出廷して「日本軍(四万人)不法殺害」を証言した年であった。
◆極秘文書という玉手箱を開いてみると
 東京裁判では、四万人虐殺を南京在住のベイツ教授が証言する一方、蒋介石政府は三十万人虐殺を主張した。本書で見てきたように、蒋介石の中央宣伝部はアメリカの新聞記事に南京大虐殺が出ても、そのために緊急記者会見を開いて、内外の記者団の前で南京大虐殺を非難したことはなかった。それにもかかわらず、日本が敗色濃厚となり始めた一九四三年(昭18)、アメリカで出版した『チャイナ・ハンドブック一九三七〜一九四三』には、「日本軍は首都南京を占領すると、中国人市民の組織的殺害、女性にたいするレイプ、資産の焼却、略奪を始め、それが約五ヶ月間も続いた」と記した。そして、その翌年に出した『チャイナ・ハンドブック一九三七〜一九四四』と、東京裁判の最中の一九四七年(昭22)にアメリカで出した『チャイナ・ハンドブック一九三七〜一九四五』には、「侵入者は南京を占領すると、外部とのすべての連絡を遮断して、南京を組織的に略奪し始めた。南京における日本軍の大量の虐殺と、レイプと、殺人と、略奪と、残虐行為の物語は、現代史上、前例がなかった」と記していた。こうして、東京裁判では三十万人虐殺を主張したのである。
 東京裁判でアメリカ側は、南京大虐殺「数万」という起訴状を読みあげた。しかしそれから約二年半後の昭和二十三年(一九八四)十一月十一日には南京大虐殺「二十万人以上」という「判決」が朗読され、その翌日には松井石根司令官にたいして南京大虐殺「十万以上」の責任を問うという「判定」が朗読された。
 このように「二十万以上」が一日後には「十万以上」となること自体、不思議なことであった。昭和二十年十二月八日に出た「太平洋戦争史――真実なき軍国日本の崩潰――連合軍司令部提供」のいう「確証」は、遂に東京裁判の判決においても示されることはなかった。したがって、第一章でも述べたように、この東京裁判の断罪は、その後一九七〇年(昭45)まで、有名無実のごとくであった。中国の教科書にも、日本の教科書にも、世界の教科書にも、南京大虐殺が書かれることはなかった。
 当時、南京大虐殺の源流を作った中央宣伝部の人たちも、その宣伝戦に関係した人たちも、真実を明かすことはなかった。誰もが黙していた。しかしあれから七十年、極秘文書が出てきた。極秘文書という、中央宣伝部に結集した国民党員と共産党員の真の胸の内を収めた玉手箱が、今や開かれたのである。その玉手箱の中に、南京大虐殺の確証があるかと思いきや、それはなかったのである。






【参考ページ】
世界史年表51937年 アメリカのライフ誌に反日のねつ造写真記事
私の思うところ反日宣伝(プロパガンダ)に関するリンク集 の「南京大虐殺論争」の項



【LINK】
LINK 脱・洗脳史講座脱・洗脳史講座 総目次南京虐殺各論目次南京虐殺(5−3) ―ティンパーリィ編『 戦争とは何か 』 ―





参考文献
「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道著、草思社、2006年
「南京事件「証拠写真」を検証する」東中野修道・小林進・福永慎次郎著、草思社、2005年
LINK ハロルド・J・ティンパーリ - Wikipedia
LINK 東中野修道 - Wikipedia
LINK 南京安全区国際委員会 - Wikipedia
LINK 南京大虐殺論争 - Wikipedia
LINK 脱・洗脳史講座脱・洗脳史講座 総目次南京虐殺各論目次南京虐殺(5−3) ―ティンパーリィ編『 戦争とは何か 』 ―
LINK マイナー・シール・ベイツ - Wikipedia
LINK ジョージ・アシュモア・フィッチ - Wikipedia
LINK ジョン・マギー - Wikipedia


更新 2012/12/10

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