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1911年 モンゴルが中国からの独立を宣言


 19世紀には外モンゴルと内モンゴルの地域はともに中国清朝の支配下に置かれていた。清朝はかつては漢民族に対抗する同盟者としてモンゴルを厚遇していたが、次第に圧政に傾いていった。 内モンゴルの中国本土に近い地域には、19世紀から大規模な漢人農民の入植が始まった。1906年の清朝官制改革ではモンゴル支配政策の転換が計画され、ロシアや日本の進出に備えるため、辺境地域への漢人入植制限を廃止する方針となり、1910年から実施されることになった。漢人の入植が進むと、モンゴルの牧地がしだいに漢人の農地に浸食されていき、漢人の高利貸しに遊牧民の牧地を奪われて債務奴隷化する者もあった。また、漢人商人が商業網をつくりあげて経済を支配するようになる。内モンゴル地域では反清感情が高まって暴動が頻発したほか、いわゆる「馬賊」なども現れた。
 一方、内モンゴルの知識人ハイシャンらは、未だ危機感の薄かった外モンゴル地域との連携を画策し、外モンゴル貴族のツェレンチミドらと協力して外モンゴル諸侯への説得工作を行った。1911年7月には、庫倫(現在のウランバートル。イフフレー(フレー旗)。ロシア名はウルガ。)南部の聖山ボグド山で密かに独立計画が練られ、帝政ロシアへ支援要請の密使が送られた。1911年10月10日に中国で辛亥革命が起こって清朝が混乱に陥ると、この機をとらえて1911年11月30日、ハルハ地方外モンゴルの多くの地域)の王侯たちは清からの独立を宣言した。この日、庫倫に駐在する清国弁事大臣サントワはロシア兵に護衛されてやむなく引き上げたが、モンゴル民衆は一行に対して砂やゴミを投げつけたという。
 さらに1911年12月29日には、モンゴルにおけるチベット仏教界の最高権威であった化身ラマ(活仏)のジェプツンダンバ・ホトクト8世が君主(ハーン)についてボグド・ハーンとなり、聖俗の全権を握る神権政体をとるモンゴル国をつくった。


【その後の経緯】
・統治機構は、従来の清朝のものをほぼそのまま利用したため、安定的に移行できた。
・1913年に内モンゴル地域へ軍を派遣して大部分を制圧したが、モンゴルの後ろ盾となっていた帝政ロシアが中国(中華民国)への配慮から撤退を要求し、撤収を余儀なくされて解放戦争は失敗した。
・1913年、チベットと相互承認条約を締結。(注:チベットも、辛亥革命後にダライ・ラマ13世政権が実効支配を確立し、1913年に清からの独立を宣言した。)
・1915年、中国(中華民国)の宗主権下での外モンゴルの自治が、中華民国とロシアによって認められた。(キャフタ条約
・1917年にロシア革命が起こると、中華民国は1919年に外モンゴルを占領し自治を撤廃した。
・1920年10月、ロシアの赤軍(革命軍)と戦っていた白軍(反革命軍)のロマン・ウンゲルンは、戦況が不利になるとモンゴルへと侵入して中国軍を駆逐してボグド・ハーン政権を復興させた。
・ウンゲルンの残虐な行動に人心が離反し、民族主義者と社会主義者らによって結成されたモンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)はソビエトに援助を求め、赤軍や極東共和国軍がモンゴルに介入した。(注:「極東共和国」は、ソビエトが日本のシベリア出兵に対峙すべく建国した極東の緩衝国家で、1920年3月7日〜1922年11月19日の間存在した。)
・こうして、1921年7月にモンゴル人民政府が樹立された。ジェプツンタンパ8世をそのまま君主とする、立憲君主制である。
・1924年にジェプツンタンパ8世が死去すると、人民共和国へと政体を変更し、1924年11月26日にモンゴル人民共和国(社会主義国)が成立した。以後、中ソ対立以後も徹底した親ソ政権が続いた。
・1929年〜1932年には、厳しい宗教弾圧と急進的な社会主義政策が行われ、各地で国民の約45%が参加した暴動が発生、多くのチベット仏教僧・富裕遊牧民が暴動の指導者として虐殺された。
・1937年から、800の修道院が破壊され、約17,000名の僧侶が処刑された。
・さらに同1937年、大規模なソ連軍が進駐すると、政府・軍部高官・財界首脳等57,000人が逮捕され20,000人が処刑された。
・1939年、ノモンハン事件(ハルハ河の戦闘・ハルハ河戦争)。
 モンゴルと満州国の国境付近において、モンゴル人民軍・ソ連赤軍連合軍と日本軍・満州国軍とが軍事衝突した。
LINK ノモンハン事件 - Wikipediaから引用。
『 清朝が1734年(雍正十二年)に定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中国の歴代政権の間で踏襲されてきたが、1932年(昭和7年)に成立した満洲国は、ホロンバイルの南方境界について、従来の境界から10-20キロほど南方に位置するハルハ河を新たな境界として主張、以後この地は国境紛争の係争地となった。
 1939年(昭和14年)にこの係争地でおきた両国の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、交戦後にさらに兵力を増派して、大規模な戦闘に発展した。』
・第二次世界大戦終了後の1946年1月に、中華民国はモンゴルの独立を一旦認めたが、中国の国共内戦でソ連が共産党を支援するとモンゴルの承認を取り消した。このため、中華民国(台湾)はその後しばらくモンゴルを自国領と主張していたが、陳水扁政権が実質的にモンゴルの独立を認めた。
・1990年春、一党独裁を放棄。
・1992年、モンゴル人民共和国からモンゴル国へ改称、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄した。





【LINK】
LINK 福岡国際問題研究所次著メモ(00):張鼓峰/ノモンハン事件の歴史的意義 〜個人のブログ。ノモンハンの位置がわかる地図があります。
LINK 偽善者キツィこのブログ隠された戦争“ノモンハン事件”現地を見た 〜個人のブログ。ノモンハン事件の現地調査の模様についてのニュース番組の録画がある。



【参考ページ】
1911年 モンゴルが中国からの独立を宣言 〜このページ
1936年 中国(内モンゴル)で綏遠事件(未作成)
1937年 中国(内モンゴル)でチャハル作戦(未作成)
1939年 満蒙国境でノモンハン事件(未作成)
1939年 蒙古聯合自治政府(内モンゴル。首府は張家口。親日政権。〜1945)(リンクのみ)
世界の国々モンゴル国





参考文献
「地域からの世界史6 内陸アジア」間野英二・中見立夫・堀直・小松久夫著、朝日新聞社、1992年
LINK モンゴル国 - Wikipedia 「歴史」の項
LINK モンゴル - Wikipedia 「歴史」の項
「20世紀全記録」講談社、1987年(注:1991年に増補版が出ています。)
LINK ボグド・ハーン - Wikipedia
LINK ジェプツンダンバ・ホトクト - Wikipedia
LINK ボグド・ハーン政権 - Wikipedia
LINK 化身ラマ - Wikipedia
LINK チベット仏教 - Wikipedia
 これによると、1240年にモンゴル帝国がチベットに侵攻し、これを機に中国の元朝内に広まっていった。元朝滅亡後は、モンゴルの諸ハーンが元朝の後継者としてチベット仏教の保護者となることで権威付けを図った。
LINK モンゴル人民共和国 - Wikipedia
LINK ホルローギーン・チョイバルサン - Wikipedia
LINK ノモンハン事件 - Wikipedia
LINK ノムンハーネイ・ブルド・オボー - Wikipedia
LINK ノムンハン - Wikipedia
LINK オボー - Wikipedia
LINK 内モンゴル自治区 - Wikipedia
LINK チベットの歴史 - Wikipedia
LINK 中華民国の政治 - Wikipedia 「対蒙関係」の項
LINK フレー旗 - Wikipedia
LINK 盟旗制度 - Wikipedia
LINK ハルハ - Wikipedia



更新 2014/11/2

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