1905年 第1次ロシア革命1905年1月22日、ガポン神父に率いられた民衆が、生活苦の打開、立憲政治の実施、戦況不振な日露戦争の即時停止などを、ロシア皇帝ニコライ2世へ請願するため、首都ペテルスブルクの冬宮に向かってデモ行進を行った。これに対して、軍隊が発砲を行い、3000人以上の死傷者を出した。この事件は「血の日曜日」と呼ばれ、第1次ロシア革命のきっかけとなった。 この事件によって民衆の不満はいっそう高まり、1905年を通じてストライキが頻発した。6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号の水兵がオデッサ市のストライキに呼応して反乱を起こしたが失敗している。10月にはゼネストが決行された。 この間に、首都ペテルスブルクなどの大都市で、はじめてソヴィエトと呼ばれる労働者の代表機関が組織された。 皇帝ニコライ2世は、こうした革命運動の高まりに対して弾圧を行ったが、ついに10月30日、立憲政体の採用と国会の開設を約束し、政情不安も安定に向かった。 1905年におけるこれら一連の動きを、第一次ロシア革命と呼ぶ。 【ソヴィエト】 「ソヴィエト」とは、ロシア語で委員会または会議を意味する。1905年の第1次ロシア革命の際にペテルスブルグやモスクワの労働者によって組織されたことにはじまる。1917年の三月革命後は労働者・兵士代表ソヴィエトが組織されて、臨時政府との間に二重権力の状態をつくり出したが、同年の十一月革命により権力を握り、ソ連の基本的政治単位となった。 【参考ページ】 日露戦争 参考文献 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 「年表式世界史小辞典」酒井忠夫監修、文英堂、1988年 「改訂新版 世界史辞典」前川貞次郎・会田雄次・外山軍治編著、数研出版、1974年 2004/1/8 |