「朝鮮で閔妃殺害事件(乙未事変)」に関する資料集 |
(当サイト管理人の感想:朝鮮のこのあたりの歴史を勉強しているといつもそうなんですが、朝鮮側の資料がほとんどみつからない。記録を残していなかったのか、朝鮮戦争で焼失したのか、日本で知られていないだけなのか、なぜなんでしょう(注:最近、当サイト管理人には、次のように思えてきました。「韓国は歴史を反日的にわい曲しているため、つじつまの合わない不都合な資料を隠しているのではないか。」と。)。 そのため、基礎資料は日本政府の外交資料が中心になってしまうのだが、反日の人たちは日本の資料を一部だけつまみ食いして、少しづつニュアンスを反日に変えて引用する。よく知らない日本人は(なぜなら、このへんの歴史は現在の日本人にとってはそんなに重要性が高くないから。)、そうなのかと思ってしまう。少しのニュアンスの誤りを確かめるために、一通りの資料に当たらなければならないという、すごく疲れる作業が待っている。労力の割には、反日に対抗するための理論武装以外にはあまり意味がないかもしれない。 きままに歴史 このサイトがなかったら、とっくに放り投げています。感謝です。 もうひとつ思うことは、この時の日本人は朝鮮半島で明治維新と同じことを成そうとしていたように見えます。そのために必要なら武力も使う覚悟があった。一連の歴史を単に侵略としか呼ぶことができない人は、自分の軽薄さを晒しているようなものです。歴史上において反省すべきことがいくつもあったけれども、幾多の障害を乗り越えて朝鮮の近代化を成し遂げたことは、もっと高く評価すべきであると思います。) |
【歴史の流れ】 ・1864年、高宗王が即位。大院君が政務を司る。 ・1873年、高宗王が親政。大院君が退けられ、閔妃と閔氏一族が政権を掌握。 ・1876年、日朝修好条規。 ・1882年、壬午軍乱。大院君はとらえられて清国へ。 ・1884年、甲申政変。金玉均らのクーデターは失敗。その後、日清両国とも朝鮮から撤兵。 ・1894年、甲午農民戦争(東学党の乱)。日清両国が派兵。 ・1894年、日本が金弘集を政権につける。 ・1894年〜1895年、日清戦争。 ・1895年、日清講和条約(下関条約)。 ・1895年、三国干渉。 ・1895年、乙未事変。日本の援助によるクーデター。閔妃を殺害。 ・1896年、露館播遷。ロシアの援助によるクーデター。 ・1897年、国号を大韓に改める。 ・1904年〜1905、日露戦争。 ・1904年、日韓議定書。 ・1904年、第一次日韓協約。 ・1905年、第二次日韓協約。(事実上保護国に。) ・1907年、ハーグ密使事件。 ・1907年、高宗が退位。純宗が即位。 ・1907年、第三次日韓協約。(韓国統監が実権を掌握。) ・1909年、伊藤博文が暗殺される。 ・1910年、日本が韓国を併合。 【乙未事変の流れ】 ほとんどは、 きままに歴史 ≫ 日露戦争前夜の日本と朝鮮(2) および 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料 このサイトを基に要約しました。それに、当サイト管理人が、若干の追加・修正を加えています。太字は、当サイト管理人が行ったものです。 できるだけ日時を追って並べたつもりですが、順不同があるかもしれません。 (注:日本は1873年(明治6年)に西暦を導入しているので、西暦と明治の日付は同じになっている。) 事変前 1894年(明治27年) ・1894年10月、井上馨(日本公使)が着任。 ・1894年11月18日、大院君邸に全大臣集合、岡本柳之助が列席。 ・1894年7月、金宏集内閣が成立。(甲午改革と呼ばれる急進的な近代化改革) ・1894年7月〜1895年3月、日清戦争。 ・1894年12月、第二次金弘集内閣。(井上馨公使の要請で、金泳孝が加わる。) 1895年(明治28年) ・1895年4月17日、日清講和条約(下関条約)の調印。清国の朝鮮に対する宗主権は否定された。 ・1895年4月23日、ロシア・フランス・ドイツによる日本への三国干渉。 ・1895年6月、第二次金弘集内閣が崩壊。 ・1895年7月、急速に親露派が台頭、金泳孝は 失脚して再び日本へ亡命。 ・1895年8月、第三次金弘集内閣。 ・1895年9月、三浦梧樓(日本公使)が着任。 事変直前 1895年(明治28年) ・9月、日本公使が井上馨から三浦梧樓(注)に交代することになり、井上馨(前の日本公使)は9月17日に京城を出発、9月21日に仁川から出帆した。 |
(注:三浦梧樓は、長州藩出身で、奇兵隊に入隊していたこともある。山縣有朋とは不仲だったらしい。予備役(陸軍中将)に編入された後、学習院院長・貴族院議員を歴任。1895年(明治28年)9月1日に、公使に就任した。(出典: 三浦梧楼 - Wikipedia ) 政治畑の井上馨から陸軍畑の三浦梧樓に交代したことは、政治的手法が行き詰まったので軍事的手法により事態を打開しようとする意図があったのではないかと推測されるが、それを示すような資料は見当たらず、実際どうなのかはよくわからない。 ただ、「在韓苦心録」によると、宮中の不穏なうわさを耳にした三浦は次のようなことを言っている。「初め東京出発の際に、早晩事変発生を予期したるも、明年一二月の頃までは大丈夫ならんと思いしなり。然るに何ぞ料らんや、事目前に迫れりと。」(出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「在韓苦心録 王宮事変部分」の項) ) |
・9月20日頃、朝鮮の有志家が大院君を戴て事を挙げんとの説がちまたで行われていることから、杉村濬(日本公使館一等書記官)は大院君の軽挙を懸念し、岡本柳之助(朝鮮国軍部兼宮内府顧問官)(注)と相談して、鈴木順見(通訳)を大院君邸に派して面会させた。大院君は国家の危機を憤慨していたが、敢て立つとは言わなかった。 |
(注:岡本柳之助は、紀州藩出身の元陸軍少佐で、竹橋事件で兵の暴動を主導したとして官職を追放され、福澤諭吉の門人となり、金玉均・朴泳孝と親交、上海に渡ったのち京城に渡り、大院君を奉じて朝鮮内部の改革を主導して、朝鮮政府の軍事顧問に就任した。(出典: 岡本柳之助 - Wikipedia ) ) |
・9月27日、訓練隊が龍山に於て演習を行った際、禹範善(訓練隊第二大隊長)が宮本少尉(訓練隊教官にして守備隊附)に対して、訓練隊はまもなく解散させられ、将校は厳刑に処せられるはずなので、私は逃亡するつもりだと漏らしている。 ・9月下旬、李周會(前軍部協辨=次官)は杉村濬(日本公使館一等書記官)のもとを3回ほど訪れ、日本の援助を求めた。また、趙重應も来訪して同様の話をした。 ・事変前の閔妃側の動きについて、後に、次のような趣旨を、安駉壽が自白し、王妃の昵臣柳束根が供述した。 「 事変前に、李範晋等は、王妃の旨を奉じ、安駉壽と謀り、次の計画を立てた。 @閔泳駿を内閣に出し、閔派の内閣を組織する。 A金宏集始め兪吉濬抔数多の大臣を暗殺する。 しかし、事変が起ったため、計画は画餅に帰した。 」 (「韓国王妃殺害一件 第二巻 分割2 B08090168800」p6)」) (出典: きままに歴史 ≫ 日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)「朝鮮有志家の運動と援助要請」の項) |
(注:安駉壽は、日清開戦直後に日本の支持をえて閔氏政権を打倒して甲午政権の中枢をしめた。閔妃暗殺後は親露派に接近して親日派を殺害・追放した。1898年に高宗の譲位を画策して発覚し、日本へ亡命。1900年に帰国したが、逮捕されて処刑された。(出典: コトバンク ≫安駉壽 ) ) |
・9月末、堀口九萬一(日本領事官輔)と鮎貝房之進(日本人小学校教師)が大院君邸を訪問。詩文を筆記しての応答した。この筆談で、大院君が政治に復帰したい旨を示唆した。堀口は、公使館に戻ると、三浦公使・杉村書記官に伝えた。 ・「大院君は、其信任する洪顕鉄(=洪顯哲?)なる者を屡々堀口の宅に遣わし、三浦公使に面会の出来る様取計い呉れ度しとの事に付」 ・10月1、2日頃、三浦梧樓(日本公使)と杉村濬(日本公使館一等書記官)が打ち合わせ。大院君はこれまでの経緯(前年に英国に依頼して日本を斥けんと謀ったなど)から信用できないと考えていたが他に事態を打開する方法がなく、大院君を担ぐことにして、次のような案を作成した。 @王室の事務と国政事務を明瞭に区別し、大院君は高宗王を補佐して宮中事務に専念し、政務には干与しないこと。 A金宏集(=金弘集。改名)、魚允中、金允植を中心に、政事の改革を決行。 B李載冕(大院君の子・後嗣)を宮内大臣に、金宗漢を宮内協弁に復し、宮内府の事務を担当。 C李呵O(大院君の孫)を、三年間日本に留学させる。 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「在韓苦心録 王宮事変部分」の項) |
(注:閔妃を殺害する計画がないことに注意。この後も、日本公使館側の計画には出てこない。 大院君の政事干渉を禁止するのは、過去の経緯から大院君をあまり信用していないため。 李呵Oは大院君の孫で、それを笠に着て恐れられ疎まれていたため、留学の名の下に一時遠ざける。(久く野心を包蔵し既に王妃及世子に対する不軌罪を以て処刑まで受けたり)(大院君に鍾愛せられ) ) |
この案を、岡本柳之助を使いとして、大院君に示す。 この案を具体化していくのが、杉村濬(一等書記官)である。 ・10月2日、三浦公使から日本政府に電報発信。 ・10月3日夜、日本公使館で、杉村濬(一等書記官)が岡本柳之助(朝鮮国軍部兼宮内府顧問官)に、大院君の邸宅のある孔徳里まで行ってほしいと依頼。2人の話し合いにより、4条件のいくつかを修正した。 ・10月3日、京城東門内で警務庁巡検が訓練隊兵と争い、互いに死傷者を出す事件があった。 ・10月3日、禹範善(訓練隊第二大隊長)が馬屋原少佐(日本軍守備隊長)、石森大尉とともに、三浦公使を訪問。(注:上の衝突事件の前か後かよくわからない。) ・10月5日午前中、岡本柳之助は、宮中派の嫌疑を招かないよう、帰国のあいさつと偽り、鈴木順見(通訳)を伴って、孔徳里の大院君邸へ赴いた。(大院君の邸宅は警務庁(朝鮮政府?)が派遣した巡検が守衛をしている。このとき警務府(警務庁の上部組織?)は王妃派。) ・10月5日、李戴純(宮内府侍従院卿)が、謝恩日本特別全権大使( 注:内乱鎮圧・政治改良・日清講和条約による朝鮮独立の認定を日本に感謝するための使節)として京城を出発して仁川に向かう途中、孔徳里のある麻浦に至るまで岡本柳之助ら一行と前後したが、幸い知られることはなかったという。 ・10月5日夜、岡本柳之助は公使館に戻り、次のように述べた。 「大院君は、李載冕(大院君の子・後嗣)・李呵O(大院君の孫)と列座になって自分と対面し、今日の情勢を嘆いて、たいへん長い談話となったが、要するに同君入闕の決心は堅く、欣然として密約に同意を表して筆を執り、それを自記した。よって自分は、時機到来すれば自分が来て迎えるので、それ迄は静かに待たれよ、との辞を遺して帰った」 ・小早川秀雄(壮士として参加した新聞記者)は、この時の大院君の様子を、次のように述べているが、彼が実際にそこで聞いたのかどうかは分からない。 「大院君は激しい口調で憤懣をぶちまけ、まず王妃について、その陰険老獪、権謀術策の軽視できないことを説き、すなわち王妃は外面は日本に頼るふりをして、内実は露国と結んで日本の勢力を排斥しようとしており、露国と宮中との間には恐るべき密約が締結され、先日、宮中で催された盛大な宴会は、明治15年の変乱の時に王妃が忠清道から宮中に帰った日を記念した祝賀会であるが、その費用の5万円を露国が提供して催させたものである。閔氏が李氏の天下を奪おうとする魂胆の一部がここにはからずも現われているではないか、と大院君は痛烈にこれを嘲り且つ悪しざまにののしり、さらには、宮中では刺客をかかえて金宏集以下の内閣員を暗殺しようと既に手はずを整え、李呵Oや自分の一身もまた風前の燈火のごとく危いと述べて、泣かんばかりに歎いて大きなため息をついた」 ・10月5日夜、日本公使館側の協議内容。 @まず、訓練隊・朝鮮壮士・大院君の間に連絡をつけさせる。 Aその後に、こちら(日本公使館側)はひそかに行動開始の機会を与えて、裏からこれを指揮すべき。 B先に宮中(閔妃派)に機先を制せられて訓練隊の解散や金宏集政権の内閣大臣が罷免されてしまうと、回復が困難なので、あらかじめ時期を定めて準備する。 C協議の結果、10月10日に事を挙げることに決す。 D準備は杉村濬(一等書記官)が担当。 E岡本柳之助は帰国と称して仁川に下り、杉村からの電報を待って再び入京する。(注:大院君に会うために「帰国のあいさつ」としたことから、これを怪しまれないため。) ・10月6日、岡本柳之助は仁川に向った。 ・10月6日、杉村濬(一等書記官)は公使の内意を受けて、単身で金宏集(=金弘集。総理大臣)を訪問し、政事に関する意見を尋ねた。 金宏集は、次のような趣旨を述べた。 「切に国家の危機に瀕した」 「自分は微力なのでこれを救うことができない」 「理由なく辞表を出せば、世人の疑いを招き、かつ国王にも憚られる」 「止むを得ないなら大院君に面倒をかけるしか道はない。しかし大院君を引出す方法はない」 ・10月6日、杉村濬(一等書記官)は帰館の途中、趙義淵(元軍部大臣)を訪ねた。権濚鎮(当時警務使)も同席。 話は決起の事に及び、杉村濬(一等書記官)は両氏に次のように述べた。 「訓練第二大隊は隊長禹範善以下みなが宮中の処置に激憤しており、時至れば献身的に行動するだろうが、第一大隊の方は比較的に熱意が感じられない。万一に及んで躊躇するようなことがあっては大事を誤るだろう。貴君らは、第一大隊を動かして第二大隊と同じ働きをさせる方法はなかろうか」 これに対して、趙義淵(元軍部大臣)は次のように答えた。 「それは容易である。第一大隊長の李斗璜は自分が引き立てている人である。よって自分が担当してこれをよい方向に導こう」 ・10月6日、杉村濬(一等書記官)は公使館に戻って、三浦公使へ報告。 ・10月6日、訓練隊が不穏であるとの噂や楠瀬幸彦中佐(軍務顧問官)が訓練隊を率いて事を起すとの風説が立ったことから、三浦梧樓(日本公使)は、2・3日間の巡視から戻った楠瀬幸彦中佐を、明日に帰国と称して仁川に下るよう命じた。 ・10月6日夜、警務庁では、多数の訓練兵が来襲したと言いふらして騒ぎ出したが、訓練担当の日本士官が直に訓練隊の兵営に行って調べたところ、一人も兵営を出た者はなく、極めて平穏であった。訓練隊解散の口実を作るため、宮中から警務庁に内通して騒ぎを発したものと思われる。 ・10月6日、三浦公使から日本政府に電報発信。 ・10月7日に、王妃は閔泳駿を宮内府に入れる。 ・10月7日に、訓練隊の解散命令が出たらしい。 ・10月7日朝、杉村濬(一等書記官)は前日に続いて再び金宏集(総理大臣)を訪れ、次いで金允植(外部大臣)を訪れた。その際の概要は次のとおり。 きままに歴史 ≫ 日露戦争前夜の日本と朝鮮(2) 「われら李氏五百年の臣であって、閔氏の臣にあらず」の項から、そのまま引用します。
・10月7日午前、日本公使館では、三浦梧樓(日本公使)の求めで鄭秉夏(農商工部大臣農商工部協弁)が来ていたが、その帰りぎわに安駉壽(軍部大臣)がやってきた。安駉壽とやりとりをしている頃に禹範善(訓練第二大隊長)が来て別室で待たせた。ニアミスである。 その模様を、 きままに歴史 ≫ 日露戦争前夜の日本と朝鮮(2) 「訓練隊解散と閔泳駿入府」の項から、引用します。
・上の記事にあるように、閔泳駿の入閣と、訓練隊の解散についての情報がもたらされた。 ・10月7日午前、日本公使館にて、禹範善(訓練第二大隊長)は、訓練隊が激怒していると述べ、自身の決心が固いことを示した。 ・10月7日正午過ぎ、杉村濬(一等書記官)は馬屋原少佐(日本軍守備隊長)に、10日まで待つべきではなく、明日に発動したいと述べ、馬屋原少佐は同意した。 ・10月7日午後、杉村濬(一等書記官)が安駉壽(軍部大臣)の伝言を伝えると、三浦梧樓(日本公使)は、閔泳駿の任命はしばらく同意する方がよいと判断、杉村書記官は直にその返答を王宮に送った。 ・10月7日午後4時近く、仁川に下った岡本柳之助とようやく電報による連絡ができたので、事に着手することになった。 事変が始まる ・10月7日午後4時、日本公使館では、事に着手することを開始。その計画は次のとおり。 @岡本柳之助を今夜12時、遅くとも午前1時までに麻浦まで帰着させ、同所に迎えとして待たせた通訳の鈴木順見、剣客の鈴木重元の両人を伴って孔徳里の大院君邸に至らせ、 A馬屋原少佐(日本軍守備隊長)は訓練隊付士官に訓練隊の指揮をさせ、8日の午前2時頃より訓練隊第二大隊の一部を孔徳里に派して大院君を迎えさせ、その他は宮城の内外で待って大院君入闕の護衛に充て、訓練隊第一大隊は王宮外を守るような装いをさせて、大院君の来着を待って共に入闕させる。 B浅山顕蔵(朝鮮国補佐官)に李周會(前軍部協辨=次官)以下有志の朝鮮壮士らを指揮させ、孔徳里に行かせて岡本柳之助が大院君邸に入る時に守衛の巡検らが妨害しないように助力させる。 杉村濬(一等書記官)は主に@とBを担当してそれぞれに準備をさせ、また、趙義淵(元軍部大臣)を促して急ぎ訓練隊第一大隊のことを約束させた。 その他、王宮内の地理を熟知している者が必要ということで、それなら荻原秀次郎(警部)が詳しいので、警部と部下巡査もまた同行させることとなった。 ・10月7日午後、三浦公使から日本政府(外務大臣)宛てに、「形勢の追々切迫し来る」を電報発信。しかし、事変の計画についてはなにも触れていない。外務大臣から回答の電報はなく、ただ、井上馨(前公使)から三浦公使宛てに「参内して国王王妃に忠告して宮中の横暴を制するように」との趣旨で忠告の電報があった。(しかし、これは無理。) ・10月7日午後、王宮(景福宮)の東門から東北門にかけて多くの訓練隊が集まっており、王宮の中を窺うような動きがあることから、王宮内では不安の声が上がり始めていた。 ・10月7日夕、三浦梧樓(日本公使)は、安達謙蔵(漢城新報新聞記者兼社長)・国友重章(同記者)を公使館に引き入れて、杉村濬(一等書記官)に言った。「朝鮮人だけでは入闕の目的が達せられるかどうかは甚だ案じられる。それで安達謙蔵と国友重章に諭して、10人ほどの壮士に助力させることにした。」 計画上、表立った行動は朝鮮人壮士と訓練隊とにしたい杉村濬(一等書記官)は、安達謙蔵(漢城新報新聞記者兼社長)に向かって言った。「壮士らが大院君に随行するなら朝鮮の服装をさせよ。なるべくは制して宮門内に入らせるな。もし門内に入れば夜明け前に門外に出させよ。外国人に我が国の人の関係を覚られるな」 安達謙蔵と国友重章はそれを承諾し、公使館を出て漢城新報社に戻った。 杉村濬(一等書記官)はまた、鈴木重元(晒業)、浅山顕蔵(朝鮮国補佐官)を呼んで大院君の入闕の事を告げ、鈴木重元には通訳の鈴木順見を龍山に派すことを託し、浅山顕蔵には李周會(前軍部協辨=次官)に報せるよう指示し、また、大院君入闕の際の趣意書を起草し、これを堀口九萬一(領事官輔)に持たせ、荻原秀次郎(警部)と共に、平服姿の巡査渡辺、境、横尾、小田、木殿(木脇?)、成相(成瀬?)の部下6人を率いて、仁川から戻る岡本柳之助と落ち合う場所である龍山の荘司章(日本人)の宅に行くよう指示した。 ・その後、三浦公使は内田領事の晩餐に招かれていった。一方、楠瀬中佐は夜半に帰京した。 ・10月7日午後、漢城新報社に、壮士らが集まってきた。 安達謙蔵(漢城新報新聞記者兼社長)、国友重章(同記者)、小早川秀雄(漢城新報社)、佐々正之(漢城新報社)、山田烈成(日本新聞社)、藤勝顕(無職業)、月成光(雑業)など。 それぞれが武装して集合場所である龍山の荘司章宅に向う。 ・10月7日10時には、荘司章(龍山に住む日本人)、浅山顕蔵(朝鮮国補佐官)、李周會(前軍部協辨=次官)、柳赫魯、鄭蘭教、朝鮮人壮士などが合同した。 ・10月7日夜遅く、岡本柳之助が龍山に到着。一同は孔徳里の大院君邸に向った。その時には、日本人がおよそ35人、朝鮮人がおよそ25人以上と、計60人余り。日本人の服装をした朝鮮人もいたようである。(出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項 「機密第三六号」別紙第七号写) ・10月7日夜12時頃、大院君邸に到着。邸宅は警務庁巡検10人程が警備し、門は閉じていた。荻原警部は渡辺巡査に命じ、横尾巡査の肩に乗り墻壁を越えて門内に入り、内部から開いたので、一行の者は直に邸内に入った。同時に警備の巡検を脅しつけて一室に閉じ込め、着用していた制服制帽を奪い取って日本人の巡査に着用させた。 大院君や家僕が一行を迎え、岡本柳之助が来意を告げると、大院君はこれを謝して、居室に案内しておよそ2・3時問評議した。 ・10月8日午前2時か3時、轎に乗った大院君を擁し、日韓両国の者が一群となって門を出る。 李呵O(大院君の孫)が来て自分も行くといったが、大院君はこれを止めて待つようにと諭した。 ・門を出てしばらくし、岡本柳之助は衆を集めて大院君に代って言った。「大院君に代わって諸君の志に多謝する。しかし今日の事はただ護衛にある。宮中において暴挙するなかれ。」皆は喝采して「朝鮮万歳」と声をあげた。 ・景福宮の建物について(当サイト管理人による補足説明) 王宮である景福宮は広い区域があって、いろいろな建物が建っていたようです。王と王妃が居住していた建物は、乾清宮です。乾清宮は、王の居住する長安堂・王妃の居住する坤寧閤・坤寧閤に付随する玉壷樓などから構成されていたようです。 閔妃が「寝室」で殺害されたとする記述をよく目にしますが、寝起きをしていた建物ということであって、寝室という表現は不適当であろうと思います。しかも、このころの閔妃は、夜間に起きている生活をしていたようで、寝ようとしていたところを襲われたわけでもないように見えます。 次のサイトに、乾清宮の鳥瞰図があります。わかりやすく、建物をイメージできると思います。朝鮮日報に掲載された記事の転載ですが、記事の内容には疑問点が多いです。 NAVER総督府 ≫ 明成皇后が殺害された場所は庭先だった 〜2005年1月13日付で朝鮮日報に掲載された記事の引用。「NAVER総督府」は、個人のグループによるサイト。この記事に添えられている乾清宮(景福宮のなかにある建物)の鳥瞰図が非常にわかりやすいので参照のこと。記事の内容については疑問あり。この図が正確かどうかは、私にはわかりません。 NAVER総督府 ≫ 李泰鎭教授への公開質問状 〜「NAVER総督府」が上の記事について照会したようです。 NAVER総督府 ≫ 李泰鎭教授からの回答 chosun.com ≫ 1895년 일본인들이 명성황후 시해한 장소 침실이 아니고 마당이었다 〜元記事。ハングルです。 NAVER総督府 ≫ 史料本廠 ≫ 機密第五十一号 〜宮殿の図面がのってます。 Google マップ ≫ 景福宮の地図 トリップアドバイザー ≫ 景福宮 続いて、 きままに歴史 ≫ 日露戦争前夜の日本と朝鮮(2) 「同士打ちの侍衛隊。そして護る者は誰もいなくなった」の項から、引用します。
きままに歴史 ≫ 日露戦争前夜の日本と朝鮮(2) 「宮女は殺害されず、ただ王妃のみ」の項から、引用します。
【いくつかの論点について】 ○閔妃の殺害を指示したのは大院君か 岡本柳之助が大院君の意向を受けて一同に述べた言葉であるが、「今世人物評伝叢書」の記述では「国王及び世子の身上は十分に保護あるべし。但し王后に対しては宜く臨機の処分あるべし、と告げたり。」となっているものの、菊池謙譲の著述では「閔妃を処分せよ」という記述はない。 ・「今世人物評伝叢書」の著述 『百四十 朝鮮の政界は常に一轍出で、党同伐異是れ事とし、私朋互に排擠するを以て能事とす。而して其原動力は常に王妃[閔党]と大院君[李党]となり、一朝朴泳孝等を黜け、李呵O等を処罰し[幾ばくもなく特赦せられたれども]、閔泳駿等を召喚したるより、閔党大に勢力を増し、大小の政治皆な宮中に出で、茲に王妃の権、益々盛なり。夫れ物極れば変ず。大院君たるもの=殊に其愛孫の事に関して怨骨髄に徹せる=豈に報復の事なくして止むべけんや。 果して変は俄然として起れり。明治廿八年十月八日暁、大院君、訓練隊を率いて宮中に突入し、直に国王に謁し、改革の令を下す。此時侍衛隊、防戦して死せし者数名。隊将一人之に死す。 初め大院君の事を挙ぐるや、首謀の者に向い、国王及び世子の身上は十分に保護あるべし。但し王后に対しては宜く臨機の処分あるべし、と告げたり。』(明29年10月2日発行 民友社 今世人物評伝叢書 第1編 「山縣有朋」の「岡本柳之助」の項より) (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「国王、世子、王妃の処遇について」の項 近代デジタルライブラリー ≫ 「今世人物評伝叢書 ; 第1編」山県有朋・渡辺国武・ 岡本柳之助 p140 (72/102) ・菊池謙譲の著述 『大院君の轎、孔徳里の門を出づ。有志数十名之に従う。孔徳里の柳楊交垂るの処に至り、岡本柳之助、衆を集め大院君に代りて曰く。邸下諸君の志を多謝す。然れども今日の事只だ護衛に在り。宮中に於て、暴挙する勿れと。衆喝采して朝鮮万歳と呼ぶ。麻浦街路より城外の一邑峴に至りて止りて訓練隊の来るを待つ。』(「菊池謙譲著『朝鮮王国』民友社 明治29年10月26日発行」p514) (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「菊池謙譲の事変記述」の項 近代デジタルライブラリー ≫ 菊池謙譲 著「朝鮮王国」p514 (274/306) ・「予審終結決定書」から、容疑についての記述(2か所)を引用します。 『尚被告梧樓は(中略)、又被告安達謙蔵、国友重章を公使館に招致し、其知人を糾合して龍山に柳之助と会し、共に大院君入闕の護衛をなす可き事を委嘱し且当国二十年来の禍根を絶つは実に此一挙にありとの決意を示し、入闕の際王后陛下を殺害すべき旨を教唆し、(後略)』 『 而て被告柳之助は其際表門前に一同を集め、入城の上狐は臨機処分すべしと号令し、以て王后陛下殺害の事を教唆し、未だ其事実を知らざりし被告益太郎外数名をして殺意を決せしめ、夫より京城に向い徐々前進し、(後略)』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「予審終結決定書」の項 ○閔妃を直接手に掛けたのは誰か 閔妃を直接手に掛けたのが誰なのかは、判然としていません。「機密第三六号」に女官ら3人を殺害しこのうちの1人が閔妃であったという具体的な記述があるのですが、事変の後の確認で女官は一人も死んでいないとされ、「機密第三六号」の内容に疑念の余地が残ります。そもそも「機密第三六号」は内田領事が聞き取りを基にまとめたものなので、十分な証拠を踏まえたものではありません。さらに、宮女ら3人を斬った者が、高橋源治こと寺崎泰吉(日本人壮士)なのか、田中賢道(日本人壮士)なのか、それとも日本人士官がまず一太刀を加えているのか、いくつもの矛盾する証言があります。 日本側の取り調べにおいては、王妃殺害など核心である後宮(乾清宮)内での模様を十分に語らない傾向が見受けられます。事変の中心にいた岡本柳之介なども、ほとんど語っていません。これは、日本公使館が日本の関与を否定しようとしていたことと、供述の内容によっては国際社会での日本の立場が悪くなると考えたためと推測できます。一方、日本人壮士などは、事変後に手柄話のように事実を誇張して吹聴する傾向が認められます。こうしたことが、資料の信頼性を低めており、歴史的事実を捉える作業を難しくしています。 後日談などで「私が閔妃を殺しました」とか「閔妃を殺したのは彼だ」というような証言などを目にしますが、これは「閔氏を殺害したグループのなかにいた」という意味で使われていることが多いように思います。 ・「機密第三六号」から引用。 『然るに後宮に押寄せたる一群の日本人等は、外より戸をこじあけて内部を伺うに、数名の宮女其内に潜み居ることを発見せしかば、此ぞ王妃の居間なりと心得、直ちに白刃を振って室内に乱入し、周章狼狽して泣き叫び逃げ隠れんとする婦人をば、情け容赦もあらばこそ皆な悉くひっ捕え、其中服装容貌等優美にして王妃とも思わるべきものは直に剣を以て殺戮すること三名に及べり。去れども彼等の中には真に王妃の容貌を識別し得る者一人としてなかりしのみならず、既に殺害せられたる婦人の死骸及尚お取押え居る者の相貌を一々点検するに、其年配皆な若きに過ぎ、予て聞き及びたる王妃の年令と符合せざるを以て、是れ必定王妃を取逃したるならんと思い、国友重章の如きは尚お残り居る一婦人を捕え、室内より縁側に引ずり出し、左手に襟髪を攫み、右手に白刃を以て其胸部に擬し、王妃は何処にありや、何時何処に逃げ行きたるや、杯と邦語を以て頻りに怒号すれども、邦語に通ぜざる宮女の事なれば、何を云うのか又何と返答すべきやを知らざるにつき、唯徒らに号叫して哀を乞うのみなりしが、旁に居合わせたる堀口は国友に向い、斯る残虐を行うべからずとて之を制止したれども、更らに聞き入るべき模様なく、荻原の叱責により始めて其暴行を中止せり。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項) ・「機密第三六号」から引用。 『又た王妃及び前記せる宮女の外に殺害せられたる者は、訓練隊大隊長洪啓薫、宮内大臣李耕植、及侍衛隊の兵士一名にして、他には韓人中一名の負傷者も無かりしが、侍衛隊の士官玄興澤は、王宮内に於て一時本邦人の為めに捕えられたるも遂に逃れ去りたり。然るに右の人々は皆本邦人の手に掛り殺害されたるには相違なかるべきも、日本人中何人の手に殺されたるや未だ判然せず。 去れども王妃は我陸軍士官の手にて斬り殺されたりと云う者あり、又た田中賢道こそ其下手人なりと云う者あり、横尾、境両巡査も何人かを殺傷せしやの疑あり、高橋源次も亦慥かに或る婦人を殺害せり。其証憑は即ち別紙第四号写の如し。洪啓薫は、我陸軍士官之を殺害したりとは信ずべきが如し。侍衛隊の兵卒壱名は多分我守備隊の銃弾に斃れたるものなるべし。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項) ・「機密第三六号の別紙第四号」から引用。 『(別紙第四号写) 拝呈仕候、昨夜来失敬仕候、陳者今朝は粗暴之挙止実以慙愧之至に御坐候 宮中口吟 国家衰亡非無理 満朝真無一忠臣 宮中暗澹雲深処 不斬讎敵斬義人 実に面目次第も無之、只今迄憂鬱罷在候処、今一友の話に依れば、或は王妃なりと。然共疑念に堪えず候故此儀真否御承知に御座候わば御一報被成下度奉万願候。 十月八日 高橋源次 再拝 鈴木重元様 呈梧下 』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項) ・「きままに歴史」のサイト管理人さんの意見 『 王妃殺害者は誰か 王妃殺害の主犯者はもちろん大院君であると筆者は見る。ではその爪牙となって直接殺害した者は、内田領事の調査資料から見れば、上記「同 別紙第四号写」の高橋源次こと寺崎泰吉が鈴木重元に宛てた書簡から、内田領事も機密第三六号で「高橋源次も亦慥かに或る婦人を殺害せり。其証憑は即ち別紙第四号写の如し」とあるように、彼が最有力者となる。後の彼の回顧の弁によれば、その時に中村楯雄の手も切ったとあるらしいが、そのことは、内田の調書すなわち「加害と被害など」中にある「被告人中村楯雄、小田俊光は、王城事変の時、或婦人を捉え居りしに、他の日本人が刀を以て之を殺害するに当り、右の手に負傷せりとのことなり」「中村が負傷せしことは、之を治療せる当地の医師本邦人近藤賢吉なる者、之を承知せり」と合致する。もっとも、内田はその他「横尾が或婦人を殺害したることは、彼自ら其事実を小官に打明けたり」とも述べている。だが、打明け話が正直なものとは限らない。人は自分のために他人のために利害のために、時に嘘をつくものである。内田の調書に彼のその打明け話を裏付けるものはない。 よって、宮女は殺害されていない、つまりは女では王妃のみが殺害されたことを前提とすれば、高橋源次こと寺崎泰吉が直接の殺害者である可能性が極めて高いことになる。そうしてみれば、機密第三十六号の「別紙第四号写」の文意がよりリアルなものとして迫ってこよう。 そして「往電第31号」にある純宗の言葉であるが、「機密第三六号」と「証人鄭秉夏訊問調書」にあるように、当時国王と世子は国王居室にいたわけであって。 さて、もれ聞くところによれば、全く別人の子孫という人が数年前に謝罪の墓参をしたという。まことに気の毒な誤解である。それに宮女などを手当たり次第に殺害するということもなく、深夜に大院君邸を出た後に岡本が大院君に代わって呼びかけたという「宮中に於て暴挙する勿れ」という言葉はほぼ守られたということになろう。ただし、王妃に関しては、これまた大院君が言うように「宜く臨機の処分あるべし」も守られたのであるが。』 (出典: きままに歴史 ≫ 日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)「宮女は殺害されず、ただ王妃のみ」の項) ○閔妃は寝室で殺害されたか 王宮である景福宮は広い区域があって、いろいろな建物が建っています。このうち王と王妃が居住していた建物が乾清宮で、乾清宮は、王の居住する長安堂・王妃の居住する坤寧閤・坤寧閤に付随する玉壷樓などから構成されていたようです。王と王妃が寝起きする乾清宮で事件があったため、「寝室」という表現をされたのではないかと推測しますが、この表現は不適当であろうと思います。しかも、このころの閔妃は、夜間にずっと起きている生活をしていたようで、また、騒動が起きていることに気がつて行動しているので、寝ているところを襲われたというわけではないように見えます。 ・「証人鄭秉夏訊問調書」から引用。 『此時陛下并に東宮殿下は内官等を従え王后陛下は宮女に擁衛せられて同殿の中庭に立退かせられしを見上げたり。依て自分は直に陛下の御手を執り、斯かる処へ出御なりては却て御危険の旨を申上げ、急ぎて再び同殿に入りしが、同時に弾丸飛来り甚だ危険なるを以て陛下を護衛して室の一隅に屈服し居りしに、室外及同室の後方は頗る喧譟の様子なりし。暫くして東宮殿下窓外に避け来られし故、之を迎入せり。良々ありて李耕植も亦椽端に来りし処、何者とも知れず刀を以て之を打倒したり。既にして夜漸く明け、大院君入闕せられ、喧譟も寝みたるを以て更に長安堂に移御せられたり。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「証人鄭秉夏訊問調書」の項 ○この事変で殺害された人は誰か 私なりにまとめてみると、ほぼ次のとおり。 閔妃〜乾清宮にて。殺害状況は「機密第三六号」に記載があるが、聞き取りであり、疑問の余地あり。 宮内大臣李耕植〜乾清宮において。誰によって何故殺されたのかよくわからない。頗る惨酷なる方法を以て殺害したりと云う(「石塚英蔵書簡」)。 訓練隊の連隊長洪啓薫〜光化門を守備していた。ほかの兵は逃げた模様。 宮女2人?(「機密三六号」)〜ただし、事変後の確認では宮女は一人も死んでいないとされている。 侍衛隊兵の死亡2人・負傷3・4人〜侍衛隊の同士討ち。(ゼネラル・ダイ証言) 兵1人〜乾清宮の池畔にて。(ゼネラル・ダイが目撃) 兵の死亡については、もう少しいるかもしれない。 ・「機密第三六号」から引用(三浦公使からの聞き取り)。 『多少の騒擾ありたれども、間もなく鎮定に帰し、国王及び世子宮は安全なり。但し王妃は騒擾の際、或者に殺害せられ、其他宮女二三名、訓練隊聯隊長洪啓薫、及宮内大臣李耕植、及び兵卒一名も亦殺害せらるヽに至れり。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項) ・「機密第三六号」から引用。 『又た王妃及び前記せる宮女の外に殺害せられたる者は、訓練隊大隊長洪啓薫、宮内大臣李耕植、及侍衛隊の兵士一名にして、他には韓人中一名の負傷者も無かりしが、侍衛隊の士官玄興澤は、王宮内に於て一時本邦人の為めに捕えられたるも遂に逃れ去りたり。然るに右の人々は皆本邦人の手に掛り殺害されたるには相違なかるべきも、日本人中何人の手に殺されたるや未だ判然せず。 去れども王妃は我陸軍士官の手にて斬り殺されたりと云う者あり、又た田中賢道こそ其下手人なりと云う者あり、横尾、境両巡査も何人かを殺傷せしやの疑あり、高橋源次も亦慥かに或る婦人を殺害せり。其証憑は即ち別紙第四号写の如し。洪啓薫は、我陸軍士官之を殺害したりとは信ずべきが如し。侍衛隊の兵卒壱名は多分我守備隊の銃弾に斃れたるものなるべし。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項) ・「証人ゼネラルダイ訊問調書」から引用。 『問 当時闕内に於て朝鮮人の屍躰を見ざりしや。 答 自分の立ち居りし前を二名の韓兵の死せるを見たり。其他三四名の負傷者ありたりと雖も、如何せしやを知らず。 問 夫等の人は誰の為めに殺され又は負傷せしものなるや。 答 韓兵同士打をなせしにより死者及び負傷者ありたるなり。 問 如何にして同士打をなせしことを知れりや。 答 最初諸門を守り居たる兵丁が、自分の立ち居る処をに集り来り、同時に国王の御側にありし兵丁も亦来りし故、自分は此等の兵に命令して填弾せしめしに、其中一兵丁誤て一発発砲せし者ありしと覚えしが、其時他の兵丁等は右の誤発を以て、相図の砲と誤想し、同時に発砲して逃散りたりしが、其時銃傷せしものと認む。故に同士打ちと云うなり。 』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「証人ゼネラルダイ訊問調書 12月16日」の項) ・「証人鄭秉夏訊問調書」から引用。 『問 宮女中、二三名殺害せられしと云うが如何。 答 之れなし。後にて宮女の数を調べしに、一も不足なかりしと云。 問 兵丁の死せし者ありしや。 答 坤寧閤の後庭にて二人の屍躰ありしを目撃せり。又、蓮池の端にも二人程倒れ居りたりと聞けり。 』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「証人鄭秉夏訊問調書」の項 ・「石塚英蔵書簡」から引用。 『殊に野次馬連は深く内部に入込み、王妃を引き出し、二三ヶ処刃傷に及び、且つ裸体とし、局部検査[可笑又可怒]を為し、最後に油を注ぎ焼失せる等、誠に之を筆にするに忍びざるなり。其他宮内大臣は頗る惨酷なる方法を以て殺害したりと云う。 右は士官も手伝えたれ共、主として兵士外日本人の所為に係るものゝ如し。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「石塚英蔵書簡」の項) ○宮女は殺されたか ・「機密第三六号」から引用。 『然るに後宮に押寄せたる一群の日本人等は、外より戸をこじあけて内部を伺うに、数名の宮女其内に潜み居ることを発見せしかば、此ぞ王妃の居間なりと心得、直ちに白刃を振って室内に乱入し、周章狼狽して泣き叫び逃げ隠れんとする婦人をば、情け容赦もあらばこそ皆な悉くひっ捕え、其中服装容貌等優美にして王妃とも思わるべきものは直に剣を以て殺戮すること三名に及べり。去れども彼等の中には真に王妃の容貌を識別し得る者一人としてなかりしのみならず、既に殺害せられたる婦人の死骸及尚お取押え居る者の相貌を一々点検するに、其年配皆な若きに過ぎ、予て聞き及びたる王妃の年令と符合せざるを以て、是れ必定王妃を取逃したるならんと思い、国友重章の如きは尚お残り居る一婦人を捕え、室内より縁側に引ずり出し、左手に襟髪を攫み、右手に白刃を以て其胸部に擬し、王妃は何処にありや、何時何処に逃げ行きたるや、杯と邦語を以て頻りに怒号すれども、邦語に通ぜざる宮女の事なれば、何を云うのか又何と返答すべきやを知らざるにつき、唯徒らに号叫して哀を乞うのみなりしが、旁に居合わせたる堀口は国友に向い、斯る残虐を行うべからずとて之を制止したれども、更らに聞き入るべき模様なく、荻原の叱責により始めて其暴行を中止せり。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項) ・「機密第三六号」から引用。 『斯くて本邦人の乱入者は処々に王妃の所在を捜索中、或る宮女の言により、王妃は頬の上部に一点の禿跡ありとのことを聞き、已に殺害せる婦人の屍を点検するに、其内壱名は果して頬の上部、即ち俗に米噛みと称する部分に禿跡の存する者あるを発見せるにより、之を他の宮女数名に示したるに、何れも皆王妃に相違なしと云い、後ち之を大院君に告げたるに、同君も亦必ず其王妃なるを信じ、手を拍って頗る満足なる意を表されたり。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項) ・「機密第三六号」から引用。 『其後間もなく三浦公使は、杉村書記官、国分通訳官を伴い参内し、大院君列座の上国王に謁見し、何事か奏上する所ありし趣きなるが、王妃の屍は三浦公使の入闕後、公使の意に出でたるや否や詳かならざれども、荻原の差図により韓人をして或門外の松林中に運び行かしめ、薪を積んで其上に載せ、直ちに之を焼き棄てたりと云う。 而して之を焼き棄つる際、王妃の腰に掛り居りし巾着の中を探りたるに、朝鮮国王より露国皇帝に向い、露公使「ウエーバー」氏留任を依頼する書状の原稿にして王妃の自筆に成れるもの二通を発見せしかば、荻原は之れを鈴木順見に渡したりとか聞及候。 而して小官は其後公使館に於て杉村書記官が之れを其机の引出しより取出し居るを一見せしが、当時尚麝香の香馥郁として鼻を衝けり。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項) ・「証人鄭秉夏訊問調書」から引用。 『問 宮女中、二三名殺害せられしと云うが如何。 答 之れなし。後にて宮女の数を調べしに、一も不足なかりしと云。 問 兵丁の死せし者ありしや。 答 坤寧閤の後庭にて二人の屍躰ありしを目撃せり。又、蓮池の端にも二人程倒れ居りたりと聞けり。 』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「証人鄭秉夏訊問調書」の項 ・「証人玄興澤訊問調書」から引用。 『問 宮女中死者なかりしや。 答 宮女の死せし者を認めず。又死せしことを聞かず。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「証人玄興澤訊問調書」の項 ○日本政府は関与したか 日本政府が関与した証拠となるような資料を、私は見たことがありません。日本公使館の独断専行だと思います。 ただし、公使が井上馨から三浦梧樓に代わったのは、政治的な方策が行き詰まったので、武力による打開を期待していたかもしれません。また、日本政府の方針は関係者みんなが知っていて、その方針に沿った形での現場判断です。 もっというと、政府に伺いをたてると認められないので、現場の独断専行という形で実行してしまう。閔妃派のクーデターに先んじる必要があり、だまっていたら事態はもっと悪くなっていたため、日本政府としては強く非難することができず、追認するような形になっていく。 こうしたことは、日本の悪い慣例になっていて、以前の江華島事件とか、後の満州事変・盧溝橋事件とかも、同じ構図だと思います。現場の判断では、国際政治の状況にまで細かな配意をすることは無理ですから、国際社会での日本の立場が悪くなり、最後には抜き差しならない結果をもたらしてしまったと言えると思います。 ○大院君が払った謝礼金 ・内田領事から草野検事正への電報。 『今回の事変に付、被告人等は大院君より合計壱万九千円を受取り、其内三千円は事変後間もなく同君より岡本に渡し、其後更に三千円宛を岡本と鈴木順見に渡し、尚壱万円を三浦に渡したるやに聞及べり。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「大院君の謝礼金」の項) ・「機密第三六号」から引用。 『而して彼等は警察の取調を受くる以上は退韓又は多少の刑罰に処せらるヽの覚悟は致し居り侯処、是れ皆柴四郎等の取計により、大院君より報酬として貫い受けたる金六千円の分配に与かる約束を以て之を承諾せしめたるやに聞及び侯。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項) ・「機密裁第二号」から引用。 『尚又隈部米吉及大崎正吉の両名は、客月十二日、当館に於て取調を相受け候節、自ら関係者なりと申立候に付、他の人々と同様退韓の処分を言渡し候得共、其後探聞する所によれば、同人等は本件関係者が大院君より貰い受けたる金子の分配に与からんが為め、故らに虚偽の申立を為し、関係者なりと名乗り出でたるものと認められ候。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号(検事正に提出の「機密裁第二号」も)」の項) ○その他備忘録 ・「機密第三六号」から引用。 『 扨て十月八日の朝、王宮内に於て日本人が殺戮を行いたる時は已に白昼なりしなり。米国人「ゼネラル・ダイ」と露国人「サバチン」とは、其現場に在って之を目撃せり。且つ同日王宮内の事変を聞き直ちに参内せし露国公使を始め、門外に群集せる数多の朝鮮人は、兇器を携えたる日本人三三伍々群を為して光化門内より出で去るを認めたり。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項) ・「石塚英蔵書簡」から引用。 『大凡三時間余を費して、右の荒仕事を了したる後、右日本人は短銃又は劔を手にし、徐々として光化門[王城正門]を出で、群集の中を通り抜けたり。 時已に八時過にて、王城前の広小路は人を以て充塞せり。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「石塚英蔵書簡」の項) ・「機密第三六号」の別紙第七号写から引用。 『一 ○○君同行の時、朝鮮人も多数随行し、其中日本服を着したる朝鮮人も大分見受けたり。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項) ・「機密第三六号」の別紙第七号写(調書)から引用。 『問 本月八日、大院君入闕に付、汝が随行したる始末を申立よ。 答 本月七日、国友重章は大院君より入闕するに付、途中護衛を依頼せられ、其節国友より通知を受け、又た私も大院君とは間接の交際もあれば、大院君の邸に至り随行したり。 問 入闕の途中何事もなかりしか。 答 途中は無事なりしも、宮城門前に至り大院君護衛の訓練隊と宮中の侍衛隊と争闘を始めたり。依て私は大院君の傍らを護衛をなし居る内、宮内に入りたれども騒擾止まず。朝鮮人等抜刀して争闘せし為、大院君の傍を離れず防衛せる内、終に鎮静し大院君は無事入闕せられたるに認めたれば、夫れより帰宿したり。 問 宮城内に於て死傷者は認めざりしか。 答 一二名の死傷者を認めたり。然れども未明なりし故詳細に分らざるなり。 問 日本人にして争闘せしものなきや。 答 争闘せしもの認ざりし。 』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「機密第三六号」の項) ・「証人鄭秉夏訊問調書」から引用。 『同時に弾丸飛来り甚だ危険なるを以て陛下を護衛して室の一隅に屈服し居りしに、室外及同室の後方は頗る喧譟の様子なりし。暫くして東宮殿下窓外に避け来られし故、之を迎入せり。良々ありて李耕植も亦椽端に来りし処、何者とも知れず刀を以て之を打倒したり。』 (出典: きままに歴史 ≫ 「日露戦争前夜の日本と朝鮮(2)」補足資料「証人鄭秉夏訊問調書」の項) |
【当サイト管理人の根拠のない仮説】 ここまで全部読んだ人ならわかると思いますが、この事件はおかしなことが多すぎます。 資料を分析しているだけでは、どうも真実が見えていないのではないだろうかと思うようになってきました。そこで、資料はひとまず置いといて、この事件の本質について考えてみると、次のような仮説を思いつきました。 ・まず、一番閔妃を殺したい人は誰かと考えると、大院君しかありえない。 ・大院君が殺害を指示するとすれば、岡本柳之助(および日本人壮士)。大院君邸を出発する前に、ずいぶんと議論に時間がかかっている。出発後に岡本柳之助が一同に向かって語った言葉は、殺害を指示(暗示)するものだったのではないのか。 ・もう一歩踏み込むと、事変の前(10月5日)に岡本柳之助が大院君邸を訪ねた際、閔妃殺害の話が出た可能性もある。この場合、岡本柳之助の方から三浦公使に日本人壮士の参加を要請したかもしれない。三浦公使が閔妃殺害計画まで知った可能性はあるが、杉村書記官には知らされなかった。そして、岡本は日本人壮士を説得するために、大院君の憤慨を詳しく語ったであろうから、小早川秀雄(日本人壮士)が大院君のようすを知って後に話をした。 ・岡本柳之助はどうやって殺すか。ことの重大性からみて、自分自身で殺害に及ぶか、少なくとも日本人壮士の中心人物らによる犯行。 ・岡本が殺したことがわかればまず間違いなく死刑になるので、誰が殺したかわからないように隠蔽する。そのために、周囲の者たちが嘘の証言をする。事実と嘘をまぜることで、実際に真実が判然としなくなってきている。証言に嘘があるとすれば、宮女も実際には殺されていないのかも。 ・そして、閔妃の死体を焼いたのも、嘘の証言との矛盾がバレないように、殺害の状況を隠すための証拠隠滅。(刀で切られたのではなく、銃で撃たれた可能性だってあると思います。) ・事変の後、岡本自身はほとんど証言していない。 ・こうした裏事情があれば、大院君から謝礼金が出るのも十分理解できる。 これだとずいぶん納得がいくのですが、証拠は全くありません。 (2012/8/28) |