1948年 朝鮮で済州島四・三事件済州島は朝鮮半島南部にある島で、朝鮮半島がアメリカ軍とソ連軍によって南北に分断された際には、南部のアメリカ軍占領地域に入った。 南北政府の樹立に向けての動きが進むなか、1947年3月1日に、済州市内で「南北統一された自主独立国家の樹立」を訴えるデモに警察が発砲して6名が死亡し、これに抗議する全島ゼネストが3月10日に行われた。アメリカ軍は警察官や「西北青年団」(右翼青年団体)を済州島に送り込んで厳しい弾圧を行った。これに反発する左翼勢力を中心とする島民が、翌1948年4月3日に武装蜂起した。 武装蜂起は短期間で鎮圧されたものの、残存勢力はゲリラ戦で対抗、治安部隊は同調する島民の処刑・粛清を行った。これは、1948年8月15日の大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、数週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したという。 1950年に朝鮮戦争が発生すると左翼弾圧は熾烈さを極め、韓国本土の保導連盟事件と同様に刑務所で1200人が殺害された。1954年9月21日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までに8万人が殺害されたとの推測もある。 海上に投棄された遺骸が日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている。また、この騒乱を逃れて日本へ密航した島民もあり、その後も帰国できずに在日朝鮮人となった人もいる。 韓国では、この事件を語ることが永らくタブー視されてきたが、2003年に就任した韓国の盧武鉉大統領は、自国の歴史清算事業を進め、2006年には済州島で犠牲者慰霊祭が開かれた。 【麗水・順天事件】 済州島四・三事件を鎮圧するために、全羅南道麗水郡に駐留していた国防警備隊第14連隊に派遣命令が出たが、南朝鮮労働党を支持していた連隊将校は命令に服さず、1948年10月19日に反乱を起こした。 反乱軍約2000名は、麗水警察署、麗水郡庁などを占拠、抵抗する警察官・李承晩派の韓民党員・右翼幹部など数十名を連行して殺害、その後同調する兵士・学生・市民を取り込みながら、隣の順天郡(現在の順天市)を掌握、その周辺地域にも展開した。 李承晩は正規軍による鎮圧部隊を投入し、1週間後の10月27日にはほぼ鎮圧されたが、山中に逃げ込んだ反乱軍がゲリラ戦を展開し、完全に終結したのは10年後の1957年であった。鎮圧に際して、共謀者のあぶり出しが行われて数千人が殺されたが、無関係の市民も多く含まれていたという。 この事件の際にも、日本へ密航し在日朝鮮人となるものがあった。 【済州島の歴史】 古くは耽羅国が、主に百済や新羅に朝貢していたが、日本へも何度か朝貢している。耽羅国の言語は韓族とは言語系統が異なるとするのが通説である。 高麗時代に直轄領とされ、元のときに反乱を起こしたが元・高麗軍によって平定された。朝鮮王朝の時代には全羅道に組み込まれ、江華島と並ぶ流刑地であった。 【参考ページ】 ![]() 【LINK】 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 参考文献 ![]() ![]() ![]() 更新 2023/2/20 |