1975年 インドネシアが東ティモールへ侵攻ティモール島は、16世紀にポルトガルの植民地となった。その後オランダが進出したが、一時はポルトガルがこれを撃退。1859年に、ティモール島は東西に分割され、西ティモールはオランダ領となった。 ポルトガル領の東ティモールでは、1911年〜1912年に、収奪の厳しさに耐えかねて反乱が発生、戦死者3424人、負傷者1万2567人を数えた。1959年には、ピケケ県知事誘拐・蜂起事件が起きて、150人の死者が出たとの説もある。 第二次世界大戦が勃発すると、ポルトガルは中立を守ったが、オランダ軍とオーストラリア軍がティモール島を保護占領し、その後日本軍が占領した。日本の敗戦後は、オーストラリア軍の進駐を経て、ポルトガルの支配が復活した。1949年に、西ティモールはインドネシアの一部として独立が確定したが、東ティモールはそのままポルトガルの支配が続くことになった。 1974年に、ポルトガルでカーネーション革命が起こり、植民地維持を掲げる保守政権が崩壊すると、東ティモールでも独立への動きが加速し、左翼革命政党を含む3つの政党が旗揚げした。 その政党は、次の3つ。 @ティモール社会民主協会(ASDT。9月に東ティモール独立革命戦線FRETILIN(フレティリン)に改称。反植民地主義、即時完全独立を要求) Aティモール民主同盟(UDT。ポルトガルとの関係維持を主張) Bアポデディ(インドネシアとの統合を主張) 反フレティリンの右派勢力と連携するインドネシアは、1975年12月7日に東ティモールに侵攻した。インドネシアのスハルト政権は、抵抗勢力を厳しく弾圧し、侵攻後の2か月間で約6万人の住民が殺害されたとされる。インドネシアとポルトガルは断交。インドネシアは1976年に東ティモールをインドネシア27番目の州と宣言した。 その後、2002年の独立まで、インドネシアによる支配が続いた。 インドネシアによる占領直後から1980年代までに、殺戮や飢餓により命を落とした東ティモール人は20万人にのぼるとの見解があるほか、インドネシアによる統治の間に、全人口の4分の1から3分の1の人々がインドネシア国軍の犠牲になったとの見方もある。 【外国の反応】 国連総会ではこの侵攻と占領を非難する決議が直ちに採択されたが、日・欧・米・豪など西側の有力諸国は反共の立場をとるインドネシアとの関係を重視し、併合を事実上黙認した。 【その後の東ティモール】 ・1991年、サンタクルス事件。平和的なデモ隊にインドネシア軍が発砲し、400人近くを殺害。 ・1996年、現地カトリック教会のベロ司教と、独立運動家のジョゼ・ラモス=オルタに、ノーベル平和賞が贈られた。 ・1998年、インドネシアの民主化運動でスハルト政権が崩壊。後任のハビビ大統領は、特別自治権の付与を問う住民投票を実施する事で、旧宗主国のポルトガルと同意した。 ・1999年8月30日、国連のミッショとして住民投票が行われ、独立賛成派が圧勝。これを不服とする反対派民兵らが住民を襲撃し町を破壊した。オーストラリア軍を主力とする多国籍軍が派遣されて、暴力行為は収拾したが、多くの難民が西ティモールに逃れ、あるいは強制的に連れ去られたりした。 ・1999年10月、国際連合東ティモール暫定行政機構 (UNTAET) が設立された。 ・2002年5月20日に独立。(大統領シャナナ・グスマン、首相マリ・アルカティリ。) ・2006年4月、待遇改善と差別の廃止を求めて軍人がストライキを実施、5月下旬には武装蜂起となった。警察や国軍の一部が蜂起に同調、警察官の職務放棄、若者を中心に暴徒化、ディリは混乱に陥った。治安を維持できない政府は、5月24日にオーストラリア・マレーシア・ニュージーランド・ポルトガルに治安維持軍の派遣を要請、その後4カ国による治安維持が行われた。 【参考ページ】 2002年 東ティモールが独立 世界の国々 ≫ 東ティモール民主共和国 参考文献 東ティモール - Wikipedia 東ティモール紛争 - Wikipedia サンタクルス事件 - Wikipedia 「20世紀全記録」講談社、1987年 更新 2013/5/4 |