7.新しい同窓会誌から

同窓会報 92 第一級の人間研究家 村尾 清一(2000)

大正12年文丙卒のフランス文学者河盛好蔵の生涯は、曰く、文化勲章(昭和63年)、曰く、日本芸術院会員と華に包まれたが、平成12年(2000年)3月27日に97才の生涯を閉じた。ここに次に掲げたのは同窓会を代表して捧げられた弔辞である。


河盛さん

あなたの有名なエッセーに「Bクラスの弁」というのがあります。自分をAクラスではない、Bクラスの人間と位置づけておられるのです。

またあなたは「誠実な平凡人であることを願っている」とも言われています。河盛さんの謙虚さと率直さを示すものです。

河盛さんは「人間はいくら努力しても運がなければ日の目を見ない。そういうときには長生きすることだ」というのが持論でした。

河盛さんの生まれた大阪・堺は、昔から自由な商人の町でした。豊かな肥料商だった河盛家の近くの羊羹商、駿河屋の店先では、娘のしょうさん(与謝野晶子)が横すわりに据わって本を読んでいる姿を見かけたこともあるそうです。河盛さんが晩年に長唄に熱中したのは、芸事の好きだった母親の血を受けたせいかもしれません。その母親を敗戦の年の堺空襲で失ったことは、河盛さんの生涯最大の痛恨事でした。

河盛さんは、青春時代を過ごした京都の旧制三高を過度に愛しておられました。「私は三高オンチです」と言うくらいに。大正12年に三高を卒業した同学年に中野好夫、吉川幸次郎がいました。一年上には伊吹武彦、二、三年下には梶井基次郎、三好達治、桑原武夫、それに湯川秀樹、朝永振一郎その他多くの俊秀がいました。これらの人々と親しく談笑しながら河盛さんは成長しました。

  河盛さんが関東大震災によって大学を東大から京大へ変わったことは、大きなプラスになりました。参考の友人たちがたくさんいたし、落合太郎先生からフランスのモラリスト(道徳家ではなく人間研究家)--モンテーニュ、ラロシュフコオからアラン、モーロアなどの面白さをたたき込まれたことです。

河盛さんは26才の時、昭和3年から2年余りフランスへ留学しました。千円でりっぱな家の建った時代、現代なら何千万円の費用を父親が出してくれたのです。

帰国後、河盛さんは、戦時中、立教、法政、海軍大学などでフランス語を教えながら、翻訳に、評論に、エッセーに精力的な活動を続けました。

戦後は、東京教育大教授、共立女子大教授を歴任しました。河盛さんは、自分を「フランス文学の町医者」と言っていました。私どもは直接河盛さんから教わる機会はありませんでしたが、戦前は「キュリー夫人傳」(白水社)。戦後は「エスプリとユーモア」(岩波新書)アンドレ・モーロアの数々の翻訳などを通じて河盛さんに親しんでいました。

河盛さんの書くものがマスコミに大いに受けたのは、大人の知恵に満ちていたからです。人生論、女性論、人や家族とつきあう法、どれもこれも“読んでトクをする話”がやさしい言葉で語られていました。

これも河盛さんが人生の達人だったからでしょう。関西生まれの関西育ち、それも豊かな商人の息子でした。だから自由で、明るくて、開放的でした。サービス精神が豊かで、そのおしゃべりも人を楽しくさせました。

一昨年、河盛さんが戦後顧問をされていた新潮社の野平健一君(本日これを読んでいる人)と東京大沼の河盛さん宅を訪れ、三高同窓生の集まりで「パリの日本人」のテーマでスピーチをお願いしました。
河盛さんは平成元年二月、昭和天皇の御葬儀の日に脳梗塞で倒れ、左手足が不自由になられていたのに、当日、車椅子で来て下さいました。
そのとき大正2年から二年間パリに滞在した島崎藤村が、下宿の女主人マリー・シモネェと彼女の故郷リモージュの疎開までずっと一緒に暮らし、友人たちから「君は下宿の女将とあやしいんじゃないか」と言われた。
「でも河盛さんの調べでは、藤村が40才、マリー・シモネェは15才も年上だと言うではありませんか。まさか二人が怪しいなんて」と尋ねると河盛さんは笑いながら言われた。

「フランスの女性は、死ぬまでおばあちゃんではないんだよ」

この言葉に河盛さんの好奇心の旺盛さ、感情の若々しさを感じさせられました。

河盛さんの「藤村のパリ」が再度読売新聞文学賞(賞金200万円)に選ばれました。その上、この作品と「パリの憂愁--ボードレェルとその時代」と併せて、母校京都大学の学位審査を通ったのです。河盛さんは95才で文学博士になったのです。
専門のフランス第三共和制時代の文学についても「フランス文壇史」などが評価され、すでに文化勲章も受章された河盛さんでも「学位が無いことは、学者としてはコンプレックスがないわけじゃない」と率直に述べられた。

そしてこの世にサイナラする潮時を待っているとも言われました。いま、その潮時をつかまれたのですが、河盛さんを失った日本のフランス文学は、淋しくなりました。さようなら。河盛さん。(昭17・9 文丙)

                                         代読 野平 健一(昭17・9 文丙) 

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同窓会報 93 琵琶湖周航の記 山内(吉田)敬行(2001)

これは山内氏の三十三回忌にご遺族が刊行された「ある青春」−山内敬行遺稿集(昭和52年8月)から同窓会報 93に再録された。山内氏の卒業年次から見るとこの周航は、琵琶湖周航の歌の作者小口達の周航から6〜8年後ということになる。「神陵史」では小口達の周航は二泊三日と書かれているが、このあたりの神陵史記事は誤って書かれており。小口たちの周航は三泊四日である。「琵琶湖周航の歌」からは想像もできないが、一般に西に比良の山々東に伊吹山に包まれた琵琶湖は吹き下ろす風に襲われて時にはひどく荒れるので、周航も必ずしも平穏ではなく、二泊三日の周航日程はよほど恵まれた条件の時であろう。遭難体験もあるこの山内氏の周航記は私達にこの様な荒れる周航の追体験を味わわせてくれる。高校生らしい未成熟さを感じさせる文体ではあるが、昔の高校生の漢字の素養も窺え、高校生らしい気負いも見え、在りし日の三高生の生活を垣間見させてくれる。


抑々京洛の自然は年中美しい。春は祇園の桜から動物園の花を初めとして、嵐山の若緑に、吉田山に映える若葉、夏は嵐山の遊覧船に、宇治石山の蛍狩り、疎水の水泳は一寸憚りがあるがこれもよい。秋となっては、鹿ヶ谷にすだく虫の声に、やがて十五夜の頃になれば清水の月、何処から見ても実によい。秋も更けて色づく頃は、若王子、永観堂は賑うが、高雄の紅楓には問題ではない。これと同時に霜におごる菊花は俗化はなれて見れば見るだけ美しい。花壇は至るところに見受けるが、植物園のは一番気持がよい。木枯荒む冬の日に、叡山登りは又特別だ・・・・・・。

列挙すれば際限ないが、かゝる楽しみは何処でも得られる。地名は代わってもそれ相応の美は得られるものである。

しかし、京洛に住むものにして、見落としてはならないものが一つある。琵琶湖の周航は又他に類が求められようか。比叡の高峯を後にして、比良、伊吹の雄姿に送迎されつゝ、古人の脳裡に強くきざまれた大自然の美を嘆賞する気分。殊に我々の如く筋骨逞しい腕にかけ、この秘密に満ちた大湖を廻り行く痛快さは、京都に住む三高生にとって求めても他に得られようか。

艇 員 飯田 義雄・石川 茂雄・折田 進二・上小沢猷敏・杉田 豊三
       田中 久雄・友永 信夫・豊田 立夫・丸山  薫・吉田 敬行(山内)

準備品 マント・シャツ・歯磨き・氷砂糖・やかん・ホータイ  

我々は、この挙を熱気に脱弱する夏期休暇を利用し、二ヶ月の休みを緊張して過ごすため、その皮切りとして実行することにした。


第一日(七月十一日)

かねて注意された身廻りの物を手軽く包んで、三条大橋に九時集合。十日の驟雨には翌日の出発が心配されたが、この驟雨も鴨川の水量を増すのみで、何の差し障りもなく済み一同喜ぶ。最初を祝う我々人間には、周航に起こりうる愉快そうな出来事が、いろいろな形をとって想像されていった。京津電車の水害も、待つ間もなく十時半には開通し、調子頗る良い。電車の軋む音も何時になく我々の心とリズムが合って元気体に溢れ、大湖を征服せんとする意気込みに、すべての挙動が軽快であった。用意品の買い求めとか、オール、シート、ストラップの取付等、雑多な出航準備も見る間にとりはこんで「玄武」の雄姿水上に浮ぶ。

艇庫出帆午前十一時四〇分、いよいよ湖上征服の途に上る。碧空に高く聳える比叡の明姿よさらば、灼熱した太陽は中天にかかり、湖上漫々として蒼波万里に流れている。グリーンランドを右に見て、オールの音軽やかに、小波をわけて漕ぎ行く様、暫く自然に疎んじていた我々の心には、限りなく美しく見えた。時々不節制に飛び出した感嘆詞は皆を笑わす、艇の進むに連れて、明媚秀麗な山水は転回していき、心の引きつけられること夥しい。実に自然は清麗である。矛盾で成立している不思議なこの世、嘘を尤もらしく云って、人をだますものが支配して行く此の世の醜さ、雲泥の差と云わずして何であろう。
夜雨に古人を泣かしめた、唐崎の枯松を沖合で鑑賞しつゝ、落雁で有名な堅田を指して進んで行く。堅田午後二時一〇分着。写真のみで知っていた浮御堂は案外小さかったが、小規模なりに調和した、古めかしい寂しさは、やはり数寄な心に適わしいものであった。名を壁に刻んで加護を祈る。散歩の後であったので、昼食は三時半にもなった。空腹のことゝて舌鼓を打って食べる。

堅田から小松に夕方迄に着くには、少々難しいことであったが、夕方の寂莫に漕ぐのも亦面白い。オール揃えて勇ましく、午後四時堅田出発、折しも一陣の風颯と吹き起こり,東天黒雲に包まれて、物凄い霹靂は耳を擘き、怖雨白い筋を描いて降り来る様は、修羅場の如くであった。こうした圧迫に反抗して猛進する痛快さ。しかし、寸尺もわきまえる事が出来ないのは如何にせん、堅田の人家に避難する。堅田から求めたカッパの包みの外は皆づぶ濡れになったが、夏向きですがすがしい気分がする。
夕立過ぎて爽やかな湖上に二条の虹かゝり、端艇の水を汲み出しながら数名高唱した。夕立の名残りは小雨となり、湖面は鏡の如く静かである。艇の進行に依って、しわの出来て行くのがなげかわしく思われた。雨中の事とて対岸は朦々と霞み、夢路を辿るような航路が続いて行く。
突如、前方にボートが発見された。(堅田で会った医大のボートである)何事にも負け嫌いな三高生は、遙かに見える艇を追い越したくて仕方ない。頑張の二字は総艇員を支配して元気湧出、力漕を続けて行く。両艇は次第に接近し、前艇の人員が薄暗い空気を通して、明瞭に分かる迄漕ぎつけて見たがその時は小松に着いてしまっていた。
自然の愛好者は我々のみと思ったが、道連れのあるのは、聊か頼母しい。

小松到着七時半。日は已に西山に没し、暮雲靉靆(あいたい)、夜のとばり次第に深くなっていく。白砂の汀に連なる松の並樹にしとしとと降る雨に音を立て。夜気と合して爽快な気がした。宿代が安いとか、気持ちがよいとかの理由で暗夜に宿屋をさがしたのは困難であったが、道すがら玉も乱れて飛び交う無数の蛍火は実に麗しかった。きれいだ。あゝ自然は実に きれいだ。
旅館は田舎の質素な家であった。米の洗い水の風呂ではあったが,抽籤で第一番に入浴できたのは愉快。鶏肉のスキで夕食したのは十時過ぎでもあったろう。口腔に残る美味しい味は未だ忘れない。気持ち良い睡眠に誘われて十一時寝る。母屋の二階には折田、上小沢、豊田、友永と自分の五人。後は離屋で雑魚寝した。上小沢、豊田、友永の怪童達は一時過ぎまで大勢を論じたとか、寸暇を惜しむ聖賢の類である。


第二日(七月十二日)

朝から怪しい雨模様である。田舎に似合わぬ刺身の朝飯も調子はずれにうまかった。雨中を赤黄いカッパを着て、ピチピチ撥泥(はね)かえりながら重いシート提げて畔道を出ていったのは、此の日一日の前兆であったか。
怖気た医大の奴に同情しつゝ、オールの揃い勇ましく湖征服の途につく勇姿、扠て扠て愉快である。「紅燃ゆる」の合唱は。湖上の端々までとどけよとばかり響いていく。左方を仰げば、飛流幾十丈絶壁にかゝって恰も一垂の素練の如く、皆その美を絶叫して止まない。
終日雨は止みそうで止まず、不順の冷気に腹の真底迄冷えてしまった。漕ぎ手の他は濡れマントにくるまって防寒につとめたが、体の振動は次第に募って行くばかり、体温補強のため大溝に上陸。早藤鹿蔵方の炭火と、宿からの握り飯とで漸く元気回復することが出来た。早藤家の人々は非常に親切で、づぶ濡れのシャツなり、服、マントに至るまで干して頂き感謝した。二円の志を払って出発。予定は竹生島に行き、今津に泊まることになっていたが、身体の疲労夥しく、取敢えず今津に直行することになる。引切りない雨に、早藤家の親切も二時間とたたぬうちに徒労に帰してしまった。天の無慈悲さよ。午後の冷寒は殊に著しく、戯談も次第に影を潜め、皆萎縮してしまう。途中、豊田のブラックシスターは実に名作であった。名俳優も及ぶところではない。これがため、暫く艇員も元気つき傑作に批評を加えて談笑して止まず。寒さの苦痛を暫くでも忘れたのは、ブラックシスターの効力偉大と云うべし。
坦々とした湖水は鏡の如く、ボートは静かな波を立てゝ進んで行く。雲に塞された連山は、とつぜん一巾の墨絵の如く雨声しばらくしめやかに、湖水は益々鈍色にかわって来る。寒いことはなはだしい。自然は若き青年に魅せられたのか、そして我々を浮世から奪い去らんとするのか、昨日は艶麗な姿に魂を酔わせ、今日は荘厳な景物で次第に心身を冷たくしていく。しかし浮世の未練は誘惑より大であった。皆極力防寒につとめ、激してくる五体の振動にもがきながら息の切れるまで頑張ったのである。湖水のこととて、何処にでも避難は出来るが、処世術中是が非でも、困難に打ち捷つことが最も大切で、吾人の日常生活を見るとき類こそ違え、皆右の則を踏んでいる。浮世に未練ある以上、この処世術を固守しなくてはならない。かくて我々は幸福を得るのである。頑張りに頑張りを重ね、苦闘を続けつゝ艇は依然として今津を指して進んだ。苦悩は益々激しくなって来たが、自然の悪辣な手段も効を奏せず、今津に到着(午後四時半)福田屋で乾いた浴衣を身に纏ったときの愉快さ、一日の苦闘と真反対であった。これこそ浮世の喜びである。萎縮した身体を風呂で温め、漸く晴々しい気分になる。
力尽きた折田、上小沢の両君は早く床に着いたが、残輩は銭廻しをして興じた。最後にアミダ籤で貧しいコンパを開くことになり、自分は最高額の三十銭を払った。豊田君の次に大なる資本を負担したが(二十銭)丸山、友永両君の無負担で駄菓子買いよりましであった。案外沢山の駄菓子が求められ、丸山、友永の両君は怯づ怯づと食べる。腹を膨らして夢路を辿る(十一時半)。

第三日(七月十三日)

隣室の怪音に眠りを覚ませば(六時半)数名は已に騒いでいた。今日は去る二日と引き換え、周航以来の夏らしい日和である。窓辺に寄れば赤日湖面に照り、瑠璃のごとき淡水は茫々然として暢びている。遙かに白雲中腹に棚引く峻嶺は伊吹山であろうか。眼前の孤島は、仏の領し給う竹生島である。健児の意気頓る揚がる。今日はこの竹生島から多景島を廻って、彦根に行く予定。

出発午前八時半。昨日飯田氏の献言により艇旗があがる。滄莫坦々たる真只中に、鮮明な赤地に三筋の艇旗、朝風に勇ましく翻える端艇姿、実に三高の表象である。遅々刻々竹生島は近く、今津は薄れる。島上の樹木が見え、枝葉が発見されるまでは随分時間を要した。竹生島は全部厳石より成り、厳頭は緑樹蒼々として景色雄大、日影に出来た峻の陰影はクッキリとして我々の注目を引いた。昨日の難航に対して今日の愉快さは言語道断の感がある。奸策に富んだ輩は、出帆当時漕いで島近くにて交替し、この自然美を独占せんと争ったが、島は間近くに見えても容易に達しない。雄々しい掛声に力漕五十本、百本と繰り返された。壮腕硬しと雖も連日の猛漕には、如何せん掌中の傷みまして堪え難いものがある。折しも医大のボート、追手に真帆ふくんで竹生島を出帆する様、少々癪であった。十一時四十分到着。ここは松樹鬱蒼緑は愈々増して、青苔滑らかな寂莫幽静の霊地である。見る物聞く物凡て古き歴史を伝えざるもの無く、自ずから一種の雅趣を帯びている。傾斜急な磯を登れば、至るところ断崖削立し、垂枝の老松影を滄莫に浮べて、景趣の妙に富み、森々とした昼なお暗い古樹の間に、古雅な伽藍黙見する時は自ら畏敬の念に打たれざるを得なかったのである。祭殿らしいところで簡単に昼食を済ます。
医大に習って帆にて航行することになった。帆と云っても立派な帆がある筈がない。方々から竹を没収し、マントで作ったのである。黒い帆に、鳶色の帆、実に風流。
出発午後一時、昼近くより吹き出した風は、漸く強く満帆にはらむ心地よさ、艇員皆手を拱いて煙草の煙長閑に談笑す。かゝる間も科学の応用物は端艇を導いていた。風の募るに連れて波浪は次第に高くなり、舷側に砕ける白濤に詩興を感じたのは束の間で、艇は木の葉の如くに浮沈し始めた。追撃してくる怒濤は鵜呑みにせんとする如く、去り行く白濤は不成功を悔い、失望するようである。見る見るうちに眼前に直立する大濤は舷頭に激突して狂い、白牙の音厳しく、その大口腔中に突入するかと疑わしめる。今回顧するだに身の毛のよだつのを覚える。
 
天帝よ汝は手を替え品を換えて何処まで我らを奪わんとするのであるか。偉大なる神の執念深きことよ、今津を出発のころは、波長短く揺籃に乗っているような快感を貪ったが、海の怒りはこんな生やさしいものでは無かった。天帝の彼に下す命令は益々酷しい、狂瀾怒涛天に沖し、艇波の谷に陥っては海底の藻屑とならんとし山に登ってはたちまちにして奈落に墜落するが如く、かゝることに経験浅い自分は遂に船酔を催するに至った。その苦悶、例えるに物なく、云うに言葉がない。胃に食物の存在する間は、嘔吐によって暫時回復することが出来、話もし笑いもしたが、度数を重ねるに連れて胃は空虚となり、臓腑を搾るような苦しみ甚しく、身体の疲労殊に夥しい。あまつさえ冷風強く、すくなからず寒いのに、打ち破る怒涛にずぶ濡れになっては、寒いこと、昨日の比ではない。苦悶と寒気は疲労につれて著しく、疲労は益々烈しく動揺につれて増進した。艇友の戯談に耳を借し、恨ましく思ったのも暫くで、次第に意識は鈍くなり、嘔吐の苦悶が全神経作用を占領してしまったのである。湖の如く艇底に浸入した水中に膝をつき、四つ這になっていたことは辛うじて記憶されているがあとはあまり印象がない。
時々回復する意識は、陸には未だ程遠いだろうと云う心配のみであった。こうなってはもう捨鉢である。端艇も転覆するならせよ、この世の未練もうるさくて、気高く思われている天帝に仕えたい気がしてきだした。身体の麻痺甚だしい。折しも打ちかぶる濤は大きかった。
生存への未練は未だあったが、無意識に躍立すれば白濤畳々とし、艇上に押しかけている。端艇は岸辺に押し着けられて波の上下に順応することが出来なくなったのである。躊躇する瞬間もあらばこそ、舳に走って飛び込めば、陸地に足の着いた喜び、おして知るべしである。
端艇は無惨にも沈没。周航の必需品は波にさらわれて行く。しかし、かかる悲惨も先の絶望的悲哀にはたいしたことでもなかったが、岸辺に群がる磯村の老若男女は、皆、自分の子のように救助に尽くしてくれた。やかんと水かえしか失わなかったのは、これらの人々の奮闘のためである。
かねて人生は裏切りを以て満たされたものと思っていたので、随分残酷な悪口でののしったが、このとき初めて人の良心に接触し、肝胆に銘じて喜んだ。人の心は窮して現れると先人は云ったが宜なるかな!周航中最も責任ある端艇を引揚げると安堵したのか、心身の疲労は前に倍して昏睡状態に陥ってしまった。石川君に援けられて、最寄りの農家に運搬される。この家は米原町字磯村四番屋敷、中西勘次郎氏と云うのである。賎しい襤褸の袷に包まれて、藁火に暖められ漸く、意識も鮮明になって来た。この農家のお婆さん達は、自分の顔色の無いのを見て、非常に心配してくれたそうである。体が回復すると蚤のゴソゴソするのが気になったが、口に出す程のこともない。否出すにも出されなかった。自分の最初の恩人として、一生この家名を記憶しよう。応急手当がすむと、十人とも篤志家の藤森千代吉氏、藤森千太郎氏方に世話になることになった。当家はこの地方の財産家らしい。彦根の高商生もいた。盆栽のある奥座敷で歓待されたのには誰も感謝した。
遭難したのは三時頃であったが、夜十一時頃寝るまで遭難当時の話で持ち切る。人事不省に陥ってからの出来事はこの談合で知り、磯村に避難した理由も分かってきた。ラダーの飯田君は頑張って彦根に向かったのであるが、風のため吹き流され、止むなく磯村に着けたとのこと(彦根までに湖上一里)自分の他、友永、石川両君も嘔吐したそうであるが、何れも軽かった。艇友の元気旺盛なるに対し、今日の自分の醜態は実に恥かしい。普段船酔には強いのであるが、竹生島や端艇中で握飯を食べたのが悪かったのであろう。田中君は端艇中で艇中の元気を保つため、狂言染みた冗談で笑わしたと云うことである。田中君の多才なるに聊か感銘。医大のボートは磯村の先で暗礁し、艇底を破損したと聞き、一同無事であったのを喜ぶ。昼の疲労のため熟睡。窓際近く雄叫ぶ怒涛は夢のシンフォニーであった。


第四日(七月十四日)

八時半起床、昨日の時化に引き代えて、湖面穏に好い。小波は滑る岸に寄せている。雲切れのかすめる空は朝の湖面にふさわしく、竹生島の黒緑姿を遙に望み、湖水を掬す心地よさ、夢のようだ。出会う村人は慰労の辞をかたむけてくれた。
周航は四日間が普通の日限である。大津に直航すれば先例を守る訳であるが、自然に親しみ、湖畔の名所旧蹟を訪れるのがその第一目的であるのだ。去る二日天災のために日程を完全に果たさなかった多景島沖の白石は一生の心残りになってしまう。この周航たるや心まずい思い出になりはせぬか、艇員の恨みは全く一致したのである。第一目的を果たすため、多景島を廻って彦根に一泊することにした。
藤森氏の好意を感謝しつゝ、純朴な村民の手に干した衣服を纏って出発(午前十時)謝礼の力漕勇ましく、別離の帽子を振り翳し振り翳し懐かしき磯村いざさらば。多景島は峻烈な長細い巌石で出来ていた。樹木もまばらに海洋の奇岩を髣髴せしめる。島上には小さい仏の宿のみで、鳥類の塒となっている。工事中のちかいの御柱が建立されたらさぞ美観で有ろう。とある水鳥が巌頭で首をかたむけては眺めていた。岩石に彫刻された南無阿弥陀仏をはじめ、目にうつるもの凡て神秘なものであった。到着十一時五十分・・・・出発十二時半。撮影して欲望を満たすと、一直線に彦根に向かう(到着午後二時十五分)。
旅館は玄宮園で、楽々園と共に井伊旧藩主の庭園を遮断しているところである。一名八景亭と云うが、近江八景を模型にした大規模の庭園よりきた名前らしい。堅田の浮御堂とも云うべき池水に突出して、藁ぶきの部屋が我々の部屋となった。宿料二円。山海の珍味を盛りながら、イルミネーションされた模倣の琵琶湖を眼前に舌鼓打つとは、臑囓りの学生身分には少々恐れいる。しかしこうしたブルジョア気分は晩餐の時である。昼食は学生の好物たる饂飩、蕎麦ですました。
彦根は徳川時代の俤を能く保存した日本町で、白壁の頑丈な住宅が至るところに散在している。基督教会に城塞式建物があったが、かゝる点から察しても如何に古風な町であるかゞ想像されるのである。北方に見た彦根城は昔の繁華はないけれど、この町の古風趣味を統一し、別種の雰囲気を作っている。老樹鬱蒼として群る蝉声は在りし昔を偲ぶのか?丘陵に高く聳ゆる天守閣は、曠古懐舊の的となっていた。矢の根深い濠溝にあやうくかかる木橋を渡れば、小寒い風は辺りを鎮め、懐古の情禁じ難い。ここで、往昔千軍万馬が馳駆したのか?ここぞ武士道の根源であるか。蔦縦横に這う古塁を廻ると天守閣の広場がある。かって摂政宮及び英皇太子の御幸臨あらせられたところ。眺望眼下に開けて彦根城下は脚下に見下される。雲に遮られて遺憾ながら、比良も伊吹も見えなかった。此方彼方の地名を検べつゝ、降雨に名残りを惜しんで宿に落着く。庭園散策中に蜂に刺されて笑止千万。
入浴も長閑にすまして、豊田、上小沢両君と囲碁を戦わす。他の人達はトランプに戯れた。夜に入り蚊の襲来夥しく、その刺し込みと来たら一方でない、折角のブルジョア気分も大いに害されてしまった。蚊帳の中で銭廻に興ずる。電燈が暗いので狡猾な連中は巧みに狡猾振りを発揮して、大いになやまされた。温厚な君子揃いの我が組は無残なる敗北。十一時頃寝床に潜り込んだが、猥談会と来ては少々まいった。誰しも一つは話さなければならなかった。中には真に迫ったものがある。異様に神経が興奮し、不眠症にとりつかれてしまった。自分独り簡単な散歩に出て、亭の番犬と戯れる。大きな人馴つこい犬であったが、これも蚊軍に苦しめられるのだろう。別れを辛そうにして寝た。


第五日(七月十五日)

起床六時、八時半、昨夜の猥談のため、睡眠不足。しかしながら就航中最大距離を漕ぐ最終日である。一同大いに緊張し、オールの操りもいと軽い。太陽東天に表れて、この壮挙の成る日を祝福するものゝ如く、彦根城は久しく後方に見えて健児の別離を惜んでいた。我々も天守閣の見える限り彦根の位置を指しては古都を記憶に刻んだのである。
大体三十分交替で、ミドル五十本、ラスト百本の力漕で行く。艇の疾走譬うるに物なく、竹生島、彦根、多景島は時々刻々と遠ざかるのが見える。鮮血に染まる艇旗は益々美しい。最大島の沖の島を右に見、二三十ヶ所の岬を数えながら、元気弛まず進む。長命寺到着午後0時半。
長命寺は西国三十一番の霊験的な名刹である。屈曲せる石段を登ること八百余、汚れの現世を抜きん出て、幽遠な恵、全山に漲っていた。丸山、折田両君を後に残し参拝。荘厳な堂塔伽藍古雅に色づき、見るからに服をあらため体の清まるを覚える。軒に懸かる連歌の筆蹟は尋ねれば遠い昔のものであろう。眺めれば興味あろうものをうるさく思って素通りした。礼拝後、石段基の裁法師のうちでお茶を乞い、梅干しに鮎の甘だきで握飯を食う。まずかった。周航の歌を吟んでは、今更のようにその内容の豊富なのを知る。漕ぐことに気を奪われているので、感想深く長命寺の暇乞いも簡単であった。出発午後二時十分。
風出て波少し高い。堅田の沖に出た頃、夕立の当時を思い出し、雨宿りの家を探しても見た。ここより最終のコースに移るのである。偉大なる自然よ、神秘なる自然よ、汝は余りにうぬぼれ過ぎる。奸智に丈けた人間はか弱いものと思うなよ、汝に媚びて機嫌をとり、どこまでも私欲を逞しくするものである。汝の寛大は尊敬する。しかし寛大なるために秘蔵せる宝は盗視されているのを知らないだろう。嗚呼、痛快な自然征服!!筋肉逞しそうなこの腕、実に頼母しいかな!!休憩二十分後スタートを切る。杉田、上小沢、田中、最後の頑張りを見せる。亦も雨模様となって来た。波次第に高く、唐崎の松を過ぎたる頃、大湖征服の歓喜禁じ難く、「紅燃ゆる」を高唱し、振れ仏法三回怒鳴って祝った。雨はポツポツと恰も被征服者の嘆きの如く遺って来た。黄昏漸く訪れて煙に霞む滋賀。親しい姿に五日目に接するのである。黒い帷を漕ぎ分けて七時十分遂に艇庫帰着。男の子の歓喜胸も張り裂けんばかり。不慮の災難のため残費つく。
大挙成就のコンパを、貧しい饂飩ですますのは悲哀。しかし、それだけ他の周航よりは大湖に親しめたことを思えば、この悲哀の裏には大なる獲物があることを知れ。愉快々々、将来永く周航記を繙いては当時を偲び、周航の歌を吟んては感激せんかな。互いに夏休みを祝して解散した。(大正15文丙)

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同窓会報 94 噫三高 噫芦津君 西岡 昭一(2001)

第三高等学校最後の人たちは一年で三高生活を失った。文科乙類一年終了の人たちが亡くなった友人を追悼して「寂志集」を発行しておりその一部が同窓会誌94に載せられた。その中から2000年暮れに急逝した芦津武夫氏を追悼した文を紹介しよう。芦津氏は京都大学名誉教授、花園大学教授、ドイツ文学者でゲーテの文学と自然科学論を研究し日独の文化交流に尽力された。三高は最後まで三高であり続け、一年の三高生活も生徒たちに大きなものを与え続けたのがわかる。


齢七十才を経て今まで一番嬉しかったこと?と誰かに聞かれたら、即座に「旧制第三高等学校に入学できたこと、三高の入学試験に合格した時」と答えるであろう。中学時代の五年間の内勉強できたのは一年生と、戦争が済んでからの五年生のたった一年だけでその上、その間にあったことと言えば、学徒勤労動員で殆ど無報酬の工員として軍需工場で働いたことと、配属将校から怒鳴られたり殴られたりの軍事教練だけであった。戦後になっても先生が生徒の人格を重く見ないことには変わりはなかった。

ところが三高に入った途端「あなた方」「誰々君」と先生に呼ばれ、「皆さん方がそうなさいますと」なんて敬語を使っていただいて面食らうと共に、自分がなんだか急に偉くなったような気がしてきて、少々くすぐったく面映ゆい思いをしながら、自分たちも一人前に扱っていただくのだから、真面目に勉強しなければと、中学では腕白坊主であった連中が全く新しく珍しい環境に接して、殊勝になり感激せざるを得なかった。その割にみんなあまり勉強しなかったようだが・・・・・しかし誰もが、各分野の書籍を手当り次第に良く読んだし、また友人と夜更けまで議論したり、時に先生に助言を求め、生意気にも古典の翻訳を試みたりもしたのである。

又ユニークな先生が多く、担任の佐藤幸治先生なんかは、入学した途端顔合わせの時、講義卓に仰向けになって腹をむき出しにし大腸をグデングデンと腹芸よろしく上下左右に回転させて、「断食とこれで治らない病気はない」と言って我々の度肝を抜いてしまわれた。級友宮田君が「古木の如き」と言う杉山先生はドイツ語の突ッ端の授業で、突然、ボソッと「わしゃ知らん」と独り言のように言うので何と思ったら、文法教科書の一番最初の例文シラーのローレライの冒頭の句「Ich weiss nicht]の訳だったので面食らった。時たま羽織袴で登校される国文学の島田退蔵先生は「堤中納言物語」の授業の際、女人形に十二単を、男人形に衣冠束帯を着せて見せて下さり、その上ご丁寧に、人形に「夜這いをさせましょう」と人形を遣い「その時お姫さんはこうして顔を隠す」と人形の小さい手に可愛らしい扇子を持たせ、お姫さんが恥ずかしそうに顔を隠す仕草をさせて見せて下さった。また後に、京大教養部長になられた西田太一郎先生には「孟子」を習ったが、夏休み前の暑い講義中、(教室は今のようにエア・コンなんて贅沢な設備はなかった)先生曰く「みなさん、孟子なんか読むの嫌でしょう?私もっと嫌です。皆さんは一学期で済みますが、私は十年間此を読んでいます。来年も再来年も読むことになっています。ですから皆さん方より私の方がもっと退屈でかないません。これから暫く他の面白いものを読んでみましょう。だが、私は立命館大学にも講義に行っておりますので、もし皆さん方のお友達に立命館の方がおられましたら、私が三高でこんな本を読んでいると決して仰言らないで下さい。」とこんな風に丁寧な言葉で前置きなさってからその日の授業を終え、次の時間に「聊斎志異」の最も面白くてきわどい段をわざわざご自分でガリ版を刷って(此も今のようにコピー機といった便利なものは無いのにご苦労さまでございました。)皆に配って下さり、これを読んで授業の退屈さを緩和して下さった。その内容たるや痛快無比であるが、表面的にはポルノ顔負けの話で、漢文であるから音読しても厳めしく聞こえ、さして違和感は感じられないけれど、口語では到底そのまま訳すことができないような表現の内容であった。

こんな風な先生方のお陰で我々三高生は、勉強の面白さを知ることが出来たし、たった一年であったが、誰からも干渉されることなく、文学書、哲学書果ては数学書まで手当たり次第に読みあさり、気儘な学校生活を満喫したのである。
噫 こんなに素晴らしい学校は今は無い!「京都大学教養学部として残っているではないか」と言われても中身はすっかり別のものである。
噫 三高よ もう二度と蘇ることはないのか!

文乙一修の机を並べた級友の四十一人の内、既に十人以上が他界した。その内の一人が今年亡くなった芦津君である。芦津君と名が出てすぐ思い出すことと言えば、秋の文化祭で三浦アンナ先生のご指導を受けてドイツ語劇を彼と共演したことである。
演題はゲーテのゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンである。私が主役のゲッツ、芦津君は皇帝マキシミリアンの息子カルルとヴァイスリンゲンの小姓の二役の他に、ちょっとだけ舞台に顔を出すティゴイナーの少年の役を演じた。ゲルマニア協会には、ドイツ語に堪能で演劇にも凝っていた仲間が沢山いたのに、選りにもよって、ドイツ語の成績もそれほど良くなく、その上練習にもなまくらな私如き者を、何故最も台詞の多い主役にしたのかと、今もって分からない。案の定開演の前日に、前祝いと口実をつけ、遅くまでみんなで濁酒をしこたま飲んで寝たので、舞台に出た途端台詞をド忘れして一瞬立往生の格好。幕開けから幕引きまで芦津君の適切なプロンプトのお陰で何とかやり遂げることが出来た。
それでも冒頭の台詞の一節を50数年経た今でも、たった一言ではあるが唱えることが出来る。Wo meine Knechte breiben? Auf und ab muss Ich gehen, sonst uebermannt mich der Schlaf.(家来どもはどこへ行き居った。こうして絶えず往ったり来たり足を動かして居らぬと、眠気に耐えられぬ。)
兎に角30ページばかりのドイツ語の台本を一週間程度で暗記することが出来るなんて、今なら正に神業で、あの頃は自分もさすがに若かったのだなあと思い、自分よりも一、二歳若い級友が次々に亡くなっていく自分の年に思いを馳せて、感慨に浸らざるを得ない。この劇で芦津君の扮するジプシーの少年が
"Mutter, Ich fing eine Maus" (母ちゃん野ネズミ一匹捕まえたよ)
と縫いぐるみの野ネズミを差しだす子供っぽい可愛いい姿が瞼の底に浮かんでくる。

彼とは再度縁があって、私が勤め先の任期を数年残して退職し、原始仏教学を研究する目的で大谷大学の大学院で遊んでいたとき彼は花園大学から谷大に招聘され、ドイツ文学の講師として講座を持っていた。「おい、あんたも先生やっとるんか?」と私の顔を見るなり例の和歌山弁の訛り丸出しで、彼に尋ねられ、「とんでもない!月謝を払って来ている学生だよ」と答えたら、彼は何だか腑に落ちない顔をしていた。私は当時、博士課程に必要なドイツ語の単位を取るために自分にとってはかなり難解であった「東洋と西洋との差異についての覚え書」(Karl Loewith.1897〜1973)(Bemerkungen zum Untershied von Orient und Okzident. Fest schrift fuer H.Gademer:Die Gegenwart der Griechen im neueren Denken 1960)を読んでいて少々手古摺っていたところだったので、これ幸いと講師控室に彼を襲い講師用に用意されていたコーヒーを飲みながら難しい箇所を教えて貰い、博士課程に必要なドイツ語の試験にどうにか合格することが出来た。私がもし元気で研究を続けることが出来て、万が一博士号を取得するようなことがあったとしたら、それは総て芦津君がドイツ語を私におしえてくれたことに帰する。(既に勉強を捨てざるを得ない状況になって学問を諦めた私が、学位を取得するなんてことは一〇〇%あり得ないけれども)万が一あったとした時、最初に報告をしてお礼を言わなければならない人は芦津君である。その芦津君はもうこの世の人で無い。
噫 芦津君

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