又ユニークな先生が多く、担任の佐藤幸治先生なんかは、入学した途端顔合わせの時、講義卓に仰向けになって腹をむき出しにし大腸をグデングデンと腹芸よろしく上下左右に回転させて、「断食とこれで治らない病気はない」と言って我々の度肝を抜いてしまわれた。級友宮田君が「古木の如き」と言う杉山先生はドイツ語の突ッ端の授業で、突然、ボソッと「わしゃ知らん」と独り言のように言うので何と思ったら、文法教科書の一番最初の例文シラーのローレライの冒頭の句「Ich weiss nicht]の訳だったので面食らった。時たま羽織袴で登校される国文学の島田退蔵先生は「堤中納言物語」の授業の際、女人形に十二単を、男人形に衣冠束帯を着せて見せて下さり、その上ご丁寧に、人形に「夜這いをさせましょう」と人形を遣い「その時お姫さんはこうして顔を隠す」と人形の小さい手に可愛らしい扇子を持たせ、お姫さんが恥ずかしそうに顔を隠す仕草をさせて見せて下さった。また後に、京大教養部長になられた西田太一郎先生には「孟子」を習ったが、夏休み前の暑い講義中、(教室は今のようにエア・コンなんて贅沢な設備はなかった)先生曰く「みなさん、孟子なんか読むの嫌でしょう?私もっと嫌です。皆さんは一学期で済みますが、私は十年間此を読んでいます。来年も再来年も読むことになっています。ですから皆さん方より私の方がもっと退屈でかないません。これから暫く他の面白いものを読んでみましょう。だが、私は立命館大学にも講義に行っておりますので、もし皆さん方のお友達に立命館の方がおられましたら、私が三高でこんな本を読んでいると決して仰言らないで下さい。」とこんな風に丁寧な言葉で前置きなさってからその日の授業を終え、次の時間に「聊斎志異」の最も面白くてきわどい段をわざわざご自分でガリ版を刷って(此も今のようにコピー機といった便利なものは無いのにご苦労さまでございました。)皆に配って下さり、これを読んで授業の退屈さを緩和して下さった。その内容たるや痛快無比であるが、表面的にはポルノ顔負けの話で、漢文であるから音読しても厳めしく聞こえ、さして違和感は感じられないけれど、口語では到底そのまま訳すことができないような表現の内容であった。
こんな風な先生方のお陰で我々三高生は、勉強の面白さを知ることが出来たし、たった一年であったが、誰からも干渉されることなく、文学書、哲学書果ては数学書まで手当たり次第に読みあさり、気儘な学校生活を満喫したのである。
噫 こんなに素晴らしい学校は今は無い!「京都大学教養学部として残っているではないか」と言われても中身はすっかり別のものである。
噫 三高よ もう二度と蘇ることはないのか!
文乙一修の机を並べた級友の四十一人の内、既に十人以上が他界した。その内の一人が今年亡くなった芦津君である。芦津君と名が出てすぐ思い出すことと言えば、秋の文化祭で三浦アンナ先生のご指導を受けてドイツ語劇を彼と共演したことである。
演題はゲーテのゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンである。私が主役のゲッツ、芦津君は皇帝マキシミリアンの息子カルルとヴァイスリンゲンの小姓の二役の他に、ちょっとだけ舞台に顔を出すティゴイナーの少年の役を演じた。ゲルマニア協会には、ドイツ語に堪能で演劇にも凝っていた仲間が沢山いたのに、選りにもよって、ドイツ語の成績もそれほど良くなく、その上練習にもなまくらな私如き者を、何故最も台詞の多い主役にしたのかと、今もって分からない。案の定開演の前日に、前祝いと口実をつけ、遅くまでみんなで濁酒をしこたま飲んで寝たので、舞台に出た途端台詞をド忘れして一瞬立往生の格好。幕開けから幕引きまで芦津君の適切なプロンプトのお陰で何とかやり遂げることが出来た。
それでも冒頭の台詞の一節を50数年経た今でも、たった一言ではあるが唱えることが出来る。Wo meine Knechte breiben? Auf und ab muss Ich gehen, sonst uebermannt mich der Schlaf.(家来どもはどこへ行き居った。こうして絶えず往ったり来たり足を動かして居らぬと、眠気に耐えられぬ。)
兎に角30ページばかりのドイツ語の台本を一週間程度で暗記することが出来るなんて、今なら正に神業で、あの頃は自分もさすがに若かったのだなあと思い、自分よりも一、二歳若い級友が次々に亡くなっていく自分の年に思いを馳せて、感慨に浸らざるを得ない。この劇で芦津君の扮するジプシーの少年が
"Mutter, Ich fing eine Maus" (母ちゃん野ネズミ一匹捕まえたよ)
と縫いぐるみの野ネズミを差しだす子供っぽい可愛いい姿が瞼の底に浮かんでくる。
彼とは再度縁があって、私が勤め先の任期を数年残して退職し、原始仏教学を研究する目的で大谷大学の大学院で遊んでいたとき彼は花園大学から谷大に招聘され、ドイツ文学の講師として講座を持っていた。「おい、あんたも先生やっとるんか?」と私の顔を見るなり例の和歌山弁の訛り丸出しで、彼に尋ねられ、「とんでもない!月謝を払って来ている学生だよ」と答えたら、彼は何だか腑に落ちない顔をしていた。私は当時、博士課程に必要なドイツ語の単位を取るために自分にとってはかなり難解であった「東洋と西洋との差異についての覚え書」(Karl Loewith.1897〜1973)(Bemerkungen zum Untershied von Orient und Okzident. Fest schrift fuer H.Gademer:Die Gegenwart der Griechen im neueren Denken 1960)を読んでいて少々手古摺っていたところだったので、これ幸いと講師控室に彼を襲い講師用に用意されていたコーヒーを飲みながら難しい箇所を教えて貰い、博士課程に必要なドイツ語の試験にどうにか合格することが出来た。私がもし元気で研究を続けることが出来て、万が一博士号を取得するようなことがあったとしたら、それは総て芦津君がドイツ語を私におしえてくれたことに帰する。(既に勉強を捨てざるを得ない状況になって学問を諦めた私が、学位を取得するなんてことは一〇〇%あり得ないけれども)万が一あったとした時、最初に報告をしてお礼を言わなければならない人は芦津君である。その芦津君はもうこの世の人で無い。
噫 芦津君
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