注 三泊四日の琵琶湖周航−−神陵史記述二泊三日の誤り
神陵史の「琵琶湖周航の歌」関係記述には誤りが多い。先ずT.に神陵史の記述を掲載し、続く項でその誤りの指摘を披露したい。中でも堀準一氏のW.史か小説かをご覧いただきたい。 |
T.神陵史の記述
神陵史594ページには次のように書かれている。
大正七年七月、二部の代表クルー七名に応援方一名(氏名不詳)を加えた八名が、二泊三日の琵琶湖周航を試みた。
コックス 柴田 四郎(大正八年二部甲)
整 調 小口 太郎(大正八年二部乙丙)
五 番 中安 治郎(大正八年二部甲)
四 番 柴野 金吾(大正十年二部乙丙)
三 番 仙石 大(大正十年二部甲)
二 番 谷口 謙亮(大正八年二部甲)
トップ 河西 定雄(大正九年二部甲) |
毎年、学年末のこの時期には、翌年四月の対部レースにそなえる意味と、学年末の開放感を満喫するために、“周航”を楽しむのが二部クルーのおきまりで、前年にも参加した小口太郎にとっては、すでに幾度か経験ずみの周航参加であった。
第一日目、三保ヶ崎より堅田を過ぎて雄松まで、快調な漕艇行。雄松で小憩ののち、今津をめざしたが、やがて日も落ちて、暗夜の航行となる。用意のカンテラに灯をともし、夜の九時頃、やっと今津の浜にたどりつく。二日目は、今津を発って、竹生島に立ち寄り、明るいうちに彦根に到着、なじみの楽々園に投宿した。三日目は周航の最終日、オールも軽く、一路三保ヶ崎へと直行した。
−−二泊三日のこの周航中に、「琵琶湖周航の歌」がつくられた。
第二日目のコースを終わり、彦根の旅館に泊まった夜、中安治郎が、「小口がこんな歌をボートの中で作った」と、みんなに披露した。中安のいうように、厳密に「ボートの中で」であったかどうか、それはいささかうたがわしい。案外、小口としては、以前から想を練っていたものを、たまたままとめたのがこのときであったのかもしれず、強行日程の、激しい力漕中ということを思い合わせると、どうもそのように考えるのがよいように思われる。
ともかくも、このときはじめて歌は披露された。かねがね、二部クルーの歌をもとうではないかというのがみんなの気持ちであったから、昼間の疲れも忘れて、一同、小口と中安の周りに集まった。名歌である。みんなは感動しながら聞き入った。感動はしたが、そこは口さがない三高生、クルー同士の気易さもある。歌詞にいろいろな注文がつけられて、小口も気軽に応じて、添削の手を加えた。
こうして琵琶湖周航の歌ができ上がる。−−のちに、中安治郎夫人の語るところでは、「四節辺りから、みなの合作と聞いている」ということだが、おそらくまちがいのないところであろう。そして、このことは、原作者としての小口太郎の名誉をいささかも傷つけるものでないことも、またもちろんである。
名歌にふさわしい曲として、オリジナルの作曲によらず、英国歌謡の「ひつじ草」の曲が転用されたについては、次のような経緯がある。
クルーの一人、谷口謙亮は、当時寮総代をつとめていたが一年生の頃、同じ総代部屋で起居をともにした岡本愛祐(大正六年一部甲)がしょっちゅう「ひつじ草」を口ずさむのを聞いていて、いつとはなしに覚えこんでしまった。耳にタコというやつである。岡本は、そのころの寮総代で、音楽同好会「桜楽会」に所属するなかなかの音楽通、珍しい英国歌謡などもよく知っていたわけである。
歌詞に曲を、ということで、ふと谷口の口をついて出たのが、この「ひつじ草」であった、調子はぴったり、これでいこうと一晩のうちにたちまち歌詞も曲もでき上がった。
その夜、彦根の旅館で、一同さっそく歌ったという。−−あっけないほどの名歌の誕生であった。次ページへ続く |