W.飯田忠義氏からの私信

1950年9月18日当時NHK大津放送局におられた飯田忠義氏がメロディーの美しさと小口太郎の魅力に引かれて提案されて完成した“「われは湖の子」−琵琶湖周航の歌物語”が近畿地方で放映された。好評を博したので続いて11月23日「日本ところどころ」として全国で放映された。氏のこの歌への打ち込みは1977年9月には氏の編集になる「琵琶湖周航の歌−小口太郎・その生涯−」発行となって結実した。

小口の親友小玉博司氏(大正8・二部乙丙卒)が生前この飯田忠義氏(現NHK京都文化センター次長)に宛てた手紙の中で、小口自身は小玉氏に歌が誕生してからしばらく後にも「自分が作った歌詞には『寧樂の都』の節が良いと思う」と漏らしていたと記している。『寧樂(なら)の都』は明治時代の小学唱歌であったが、ひつじぐさの曲が広く親しまれ、『寧樂の都』バージョンは幻となった。
この幻のメロディで1999年5月15日京都コンサ−トホ−ル 小ホールで佐藤瑛杜子先生が「琵琶湖周航の歌」を歌われた。このことが1999年7月8日 京都新聞朝刊に”幻のメロディーあった”という記事で報じられたので、私は飯田氏に手紙を差し上げたところ、お返事がいただけた。その一部を紹介すると

(前略)

7月8日付けの京都新聞で「寧樂の都」について取り上げてくれましたが、私自身としては「今頃になってなぜ?」という感じです。
小口さんが、この「寧樂の都」の曲を付けたかったと親友の小玉博司さんに話していたということは、もう20年も前に私が冊子に書いていることです。 先日、共同通信の記者が周航の歌の他の取材で来た時に「『寧樂の都』の曲をつけて、先日の演奏会で発表したばかりです」とはなしたところ、そのところは書かずに「『寧樂の都』をつけたかった」という所だけが紙面に載りました。正直に言って複雑な気持ちです。

周航の歌について調べ始めた頃ころ(20年ほど前のことですが)当時まだご健在だった小口さんの三高・東大時代の友人の方全員に手紙を出しました。いろいろ小口さんについての興味ある返事をもらいましたが、小玉さんは便箋50枚にわたって小口さんとのつきあいの様子や時代背景などを知らせてくれました。その中に上記の部分も書いてありました。

小口さんが、周航の歌が誕生した晩に今津の宿から小玉さんにハガキを書いていることからも分かるように、この二人は真の友人であったようです。小玉さんは私への手紙の中で「小口を知ったのは寮で他の数人と同室したのが始まりで、たちまち彼の快活な人柄にひかれ親交を結んだ」「良く京都市内の名所・旧跡をまわったが、彼は仏像らしいものを見ては敬虔げに頭を下げるのに感心した」「彼の持ついたずらっ気は、またかえって愛嬌にみえた。例えば人を誉めるときに、誰に対してもまずその人の長所をあげて『これだけは実に感心で大したものだ』といった後、『他に良いところは一つも無いが』と付け加えることを忘れなかった」などと書いており、小口さんの風貌・性格・行動が生き生きと描かれています。

生前、小玉さんには数回逢う機会がありましたが「時には大ゲンカをして『もう絶対に来ない!』といいながら出ていっても何日かするとまたひょっこりとやってくる。そして、こういうんだ。『小玉、やはりお前が一番いい』アハハハ・・・・・」。
手紙だけでなく、小玉さんからは直接沢山の話を聞くことができました。

(中略)以下蛇足ですが・・
「周航の歌」誕生の記述の中に−−−雄松に至り、小憩後、今津をめざし−−−とありますが、これは完全な間違いです。
前記した小口さんの今津からのハガキには、「昨日は猛烈な順風で殆ど漕ぐことなしに雄松まで来てしまった・・今夜はこの今津に宿る」と記されており、1日目は雄松に泊まり、2日目に今津に泊まったことが分かります。となると、この周航の日程は2泊3日ではなく、3泊4日だったのでしょう。(後略)

7月20日(注:1999年)

飯田氏は小口の親友小玉博司氏と手紙の往来があったばかりでなく数回も会ったと書かれている。また 当時小口の友人たちとも連絡をされて調べておられる。文面からは小口の人となりに焦点をあてて調べられたと推定され、その結果が前述の、“飯田忠義編 琵琶湖周航の歌 −小口太郎・その生涯−(昭和52年)”なのである。次ページへ続く

grenz