(前略)
7月8日付けの京都新聞で「寧樂の都」について取り上げてくれましたが、私自身としては「今頃になってなぜ?」という感じです。
小口さんが、この「寧樂の都」の曲を付けたかったと親友の小玉博司さんに話していたということは、もう20年も前に私が冊子に書いていることです。
先日、共同通信の記者が周航の歌の他の取材で来た時に「『寧樂の都』の曲をつけて、先日の演奏会で発表したばかりです」とはなしたところ、そのところは書かずに「『寧樂の都』をつけたかった」という所だけが紙面に載りました。正直に言って複雑な気持ちです。
周航の歌について調べ始めた頃ころ(20年ほど前のことですが)当時まだご健在だった小口さんの三高・東大時代の友人の方全員に手紙を出しました。いろいろ小口さんについての興味ある返事をもらいましたが、小玉さんは便箋50枚にわたって小口さんとのつきあいの様子や時代背景などを知らせてくれました。その中に上記の部分も書いてありました。
小口さんが、周航の歌が誕生した晩に今津の宿から小玉さんにハガキを書いていることからも分かるように、この二人は真の友人であったようです。小玉さんは私への手紙の中で「小口を知ったのは寮で他の数人と同室したのが始まりで、たちまち彼の快活な人柄にひかれ親交を結んだ」「良く京都市内の名所・旧跡をまわったが、彼は仏像らしいものを見ては敬虔げに頭を下げるのに感心した」「彼の持ついたずらっ気は、またかえって愛嬌にみえた。例えば人を誉めるときに、誰に対してもまずその人の長所をあげて『これだけは実に感心で大したものだ』といった後、『他に良いところは一つも無いが』と付け加えることを忘れなかった」などと書いており、小口さんの風貌・性格・行動が生き生きと描かれています。
生前、小玉さんには数回逢う機会がありましたが「時には大ゲンカをして『もう絶対に来ない!』といいながら出ていっても何日かするとまたひょっこりとやってくる。そして、こういうんだ。『小玉、やはりお前が一番いい』アハハハ・・・・・」。
手紙だけでなく、小玉さんからは直接沢山の話を聞くことができました。
(中略)以下蛇足ですが・・
「周航の歌」誕生の記述の中に−−−雄松に至り、小憩後、今津をめざし−−−とありますが、これは完全な間違いです。
前記した小口さんの今津からのハガキには、「昨日は猛烈な順風で殆ど漕ぐことなしに雄松まで来てしまった・・今夜はこの今津に宿る」と記されており、1日目は雄松に泊まり、2日目に今津に泊まったことが分かります。となると、この周航の日程は2泊3日ではなく、3泊4日だったのでしょう。(後略)
7月20日(注:1999年) |