W.史か小説か  堀 準一 同窓会報 53(1981)

前々項小口のはがきからは宿泊第二夜は今津であったと思われるがそれでもなお歌が作られたと中安が言ったのは第三夜の彦根ではなかったのかという疑念も出る。これらはすべて「神陵史」の記述の正否を疑わせるのである。この点について論究したのが堀 準一氏である。氏は数編の論究を発表しているが、当事者中の当事者谷口氏との接触で「琵琶湖周航の歌」成立の時と所を明らかにされているのである。その集大成ともいうべきものがこの1981年の論究である。この論究の大事なことを教示してくれたのも海堀氏である。

この表題は今春刊行の「神陵史」に収められた「琵琶湖周航の歌」に関する記事が歴史か小説かという意味である{以下簡単に神陵史と書くがもちろんこの部分だけのことである}。昭和五十四年春の或る綜合雑誌に載った「琵琶湖周航の歌のルーツ」と題する羊頭狗肉の読み物を読んだ同窓の一人から「あれは調査報告ですか小説ですか。堀さんの書いたものと比べているのですが」と尋ねられたことがある。そういう質問者のためにも、神陵史の記述に対する私の考えを明らかにしておこうと言うのが本文の動機である。何れを採るかは読者の眼力次第という外はない。

神陵史に述べている周航歌成立史の要旨は「大正七年、周航第二夜の彦根で、作詞が披露され、そこでクルーの注文に添削された」である。これは私が検証報告した谷口氏の記憶「大正六年、周航第二夜の今津で、作詞が披露された」を改変したものと考えるが、もし「周航第二夜、中安氏が小口氏の作詞を披露し、谷口氏らがひつじ草のふしで歌ってみた」という資料が私の報告以外にあるという人がいるならば具体的にそれを明示して貰いたい。それができない限り、上記の私の見解は認めざるを得ないだろう。
私と谷口氏との最初の意志疎通の不完全から会報41号(昭和47年8月発行)では大正七年と書いたが、その後の資料発見で会報48号(52年6月)では大正六年と訂正を広告し、その理由の詳細は会報50号(53年11月)で発表した。神陵史の初稿執筆者は会報50号を読んでいたのだが私の説明を充分理解できなかったらしい。従って順序として何故大正六年作詞であるかを再び説明しよう。
私が昔のことを発表する際は、先輩の言だからといって一人の言うことを鵜呑みにして受け売りしているのではない。可能な限り傍証を集め、矛盾のない結論をまとめる為に報文に数倍する資料を持って考察しているのである。当時の記録があれば信頼できるだろうが、寮生が暇潰しに戯れに作った寮歌など、記録や文書という程のものが残ってないのは当然である。従って先輩の記憶が資料の殆どであるが、記憶というものに誤りの多いことは今更いう迄もなく、私も益々それを痛感している。例えば堀内敬三氏の音楽五十年史(昭和十七年版。戦後版、近年の文庫版もある)にも同様の感想が述べられている。一方私は著作権法に規定する引用の精神も常に考慮している。即ち著者の名を明らかにすることと安易に改変してはならないということである。以上は当然のことであり読者の既に周知のことではあるが、それを念頭において以下の各項を読んで頂きたいと思う。

さて谷口氏の記憶の有用な線は「大正六年七月周航第二夜の今津で中安氏が小口氏の作詞を披露し皆でひつじ草のふしで試唱した、九月に寮の大コンパの時谷口氏が皆の前で歌った」というものである。七月とは学年末試験終了後夏休みの初めと解すべきことは私が最初に谷口氏に提示してあり、正確に言えば六月末であり、さらに詳しく言えば今津宿泊は六月二十八日である。この谷口氏の記憶の前半時と所の正しいことは小口氏のはがきで証明されている。小口氏がボートの中で歌を作ったことについては葉書は何も触れてないが、何故触れてないかと言ったところでそれはカラスの勝手でしょう!強いていえばそのはがきを受取るべき小玉氏は「高校以来大勢一緒の時でも寮歌など歌った覚えのない」様な方であり、又小口氏としてはまだ自ら発表する程完成したとは考えてなかったのかも知れない。兎に角この周航の少なくとも最初の二日間は天気良好で歌を作ったり絵を描いたりする余裕の充分あったことをこのはがきは物語っており、即ちこの葉書も作歌の可能性は証明している。そしてこの夏の周航で作詞及び選曲のなされたことは谷口氏の記憶の後半である寮の大コンパで歌ったのを田島氏が聞いたということにより証明されるのである。いう迄もなく歌を歌ったということはそれより前に歌詞と曲が存在したことを意味する。田島氏の聞いたのが大正六年九月であって大正七年でないことは、田島氏は大正六年九月に入学してから七年七月までしか寮に居なかったことから断定できる。即ち大正六年作詞ということは谷口氏の記憶が小口氏のはがき及び田島氏の記憶と一致しているから採用しているのであって、今日に於いてこれ以上客観的の証明を求めるのは無理である。未確認情報としては会報50号で触れたように大正七年七月の卒業生の中に在学中周航歌を知った人が居るという問題があり、又最近得た情報では大正七年九月に入学して八年三月迄寮に居た方が在学中に買った三高歌集を見ながら周航歌を歌った、それには歌詞だけが印刷してあったというのもあるが、もしこれが事実であればその歌集は大正七年五月版であろうから大正六年夏作詞の物的証拠となるのであるが、これもその歌集が発見される迄は未確認情報としておく。大正六年か七年かということはそう騒ぎ立つべき問題ではないが、数字を挙げるとなれば大正六年が正しいことは上述の如く谷口、小口、田島氏によって完全に証明されていると私は考える。
それにも拘らず神陵史は大正七年説をとっているのであるが、なぜ七年説をとったかは執筆者に問うてみなければ判らない。その誘因は私にも想像できないことはないが、そこ迄説明する程この紙面を無駄に使う事はできない。「彦根で作詞が披露された」という、従来の関心者を唖然とさした点と、「その夜クルーの注文に応じて歌詞が添削された」という点だけを推理してみよう。

「大正六年、周航第二夜、今津」を大正七年に変更するとどうなるかといえば、大正七年の周航は第一夜今津で第二夜は彦根であるが、仙石氏の報告によればこの第一日は長距離の上に「力漕して進むも思うにまかせず」という状態で夜九時頃今津にたどり着いたという。これは大正六年の周航とは違ってとても歌を作ったりする状況ではない。そして第二日の彦根迄のコースは難所でもあったが天気は上々で船を急がせて明るいうちに彦根へ着いている。だから作詞披露の夜として今津を捨て、第二夜を生かして彦根としたものだと思う。
作詞披露の夜クルーで歌詞を添削したという考えの出所は最初私には見当が付かなかった。それも種があった、即ち安田氏編の「文集」に寄せた五十子氏の文章の中に、会報41号の堀の報告からの引用として「(中安氏の見せた)小口氏の原案に対してクルーの連中が若干意見を述べ訂正を加えたかもしれない」と書いてある。然し私の報告にはこんな文章は全くない。私の文章は「これ(作詞)は・・・・中安氏らが関与したとも考えられる」と書いているのであって、中安氏の言われた様に作詞が協力してなされたことを認めるとしても、それはボートの中での起草段階のことを想定したのであった。「われは湖の子」碑建設の時に、周航歌はクルー全員の合作だとの意見もでた様に聞いているが、私は元来創作というものは多人数の協力で生まれるとは考えていない。そう見えるものがあるのは、真の創作でない場合か、創作の集合体をピントの鈍い眼鏡で見ている場合である。政策的に協力を強調した方がよい場合もあろうし、創作者の業績を希薄化する意図を含んでいる場合もあろう。兎に角作詞披露の夜にクルーが検討添削したという様な資料はないと思う。

これで神陵史の記事の根拠は我々の知る範囲の資料ですべて説明でき、従って神陵史は従来関心者の熟知している「文集」や「メモ」や会報41号以降の我々の報文以外の資料を参照したものでないと推定できるのであって、この結果は当然神陵史の記事は資料に基づかない小説に過ぎないということになる様である。

尚神陵史の記事には多くの誤りが見いだされるのであって、以下それらを記載順に拾い出して見よう。

@瀬田唐橋をバックに艇の側で写した写真の前列中央の人物を柴野金吾氏としているのは作為であって、これは滝野覚之助氏の誤りである。写真中の人物仙石氏は勿論これらの人の顔をよく知っているが、仙石氏によれば柴野氏が当日来れなかったので代わりに滝野氏に来てもらったと報告されている。大体この写真は谷口氏から私に送ってこられたのが最初で、その裏に書かれた人名の卒業年度を私が調べた際仙石氏の名だけ訂正し、それが講談社及び大津放送局にも伝えられたもので、前列中央の人物は最初から滝野氏で「メモ」も「文集」もそうなっている。「文集」初版の小口氏年譜の中で作詞当時の二部クルーとしてこの写真の人名を書いてあるがあれは私が直接教えたものではない。神陵史はこの写真のタイトルと「名歌を生んだ二部クルー」と書いてあるが、もしこの写真の人物を大正七年のレギュラーメンバーに一致させるために名前をすげ代えたとすれば随分失礼な話である。

A中安夫人が「四節あたりからみなの合作と聞いている」と語ったと書いてあるが、正確には中安夫人の書いているのは「今津あたりから」である。これらの話はすべて谷口氏の話が私を通じて拡がってからのことであって、中安夫人の言われている意味を敷衍すれば次の通りであろう。今津で歌詞が披露されてから作詞の行われていることをクルーが知り、歌詞が周航の前進に伴うて作られ全員参加ということを前提とすれば「今津あたりから皆の合作」となる訳である。然し神陵史では今津は特別の意味を持たぬ地点となって了ったから「四節あたりから」と変えたものと考える。

B「英国歌謡のひつじ草の曲が転用された」という様な書き方が適当でないことは会報50号を読んだだけでも判る筈である。ひつじ草の曲が転用されたのはその通りであるが、曲に注目する限りひつじ草は英国歌謡ではない。神陵史の様な書き方をするから周航歌の曲は外来曲という話が出るので、今ではひつじ草は「吉田ちあき作曲」ということがはっきりしている。

C谷口氏と岡本氏が「同じ総代部屋で起居をともにした」と書いてあるのは事実でない。会報50号で明らかにしたように岡本氏が総代の時は谷口氏は他の室長で、唯お二人とも歌好きのため話が合い谷口氏が屡々総代室に出入りしていたのである。

D岡本氏を「桜楽会に所属する」と書いているのは誤りであり、本人も否定されている。岡本氏は桜楽会の和田氏と共同で庭球部歌を作曲しておられ、桜楽会で歌うような歌曲を好んで歌われたそうだから桜楽会所属といっても実害はないかも知れないが、神陵史の記事があて推量で書かれている一例である。

E谷口氏が全寮生の前で周航歌を歌ったのは大正六年九月であってこれについては最初に論議した。

F周航歌の普及が早かった様に私も聞いたので会報41号ではそう書いたが、実際はその様でもなかったことは会報50号にも現われていると思う。

G谷口氏のいう「音符化」や三高歌集に記載する「大正八年作」についても会報41号の認識で書かれている様で、会報50号ではこれらに対する疑問を含ませているのであるが感知されなかったらしい。

H小口氏のはがきの文句を「美人を天の一角に望んだ」として二回も引用してあるが、これは看過できない誤りである。小口氏は前赤壁賦の一句を暗記していて「美人を天の一方に望だ」と書いているのであり「ん」を落としている所にも漢文の「望ム」を想起していることがうかがわれる様である。周航の途中で、絵はがき裏の狭い場所に書く短文ででも、咄嗟にこの漢文の一句を引用して書けるということは、小口氏の国漢の実力を立証する貴重な事実であり、周航歌の作詞者としてのタイトルを保証するものであるが、これを「一角」と書いて了っては小口氏の文才も台なしである。少し難しくいえば、これは引用の改変による著作者人格権侵害の最も簡単明瞭な一例である。

I「昇る狭霧」と「煙る狭霧」、「赤い椿」と「暗い椿の森蔭」の問題について「昭和十二年ごろの歌集つくりの際誤用されたという」と書いてあるが、何でこの様な書き方をするのか判らない。全く何も知らないのか、それとも筆を曲げているのか。会報50号までの諸報告や「われは湖の子」碑竣工報告書を見れば判る通り前者は昭和二年の三高歌集に「改訂」歌詞として掲載され爾後そのまま継続しているものであり、その時以後三高に入学して初めて周航歌を知った者は、殊に寮に入らなかった者は新歌詞しか知らないのが実状である。私は四年の入学であるが、考え方社の寮歌集の歌詞が誤りで当時の三高歌集のが正しいのだろうと信じて前者を訂正してあったが、今日の知識を以てすれば前者こそ大正十一年版三高歌集で確立した正統歌詞であって、大正年間の人がそれを優れたものとするのは当然である。
旧歌詞が「もとの作詞に忠実で正しい」とも書いているが、そういう考え方は歌碑でも建てる時の考え方で、私が先頃から二つの歌詞を掲げているのはどの言葉が歌詞として優れているかを問いかけているのである。既に夫々の歌詞を覚えている人は死ぬまでその歌詞を歌うだろうが、これから周航歌を覚える人達は良い方の詞で歌って貰いたく、それで初めて周航歌は名歌だといえるのではなかろうか。「われは湖の子」碑除幕式の会場で、五番の歌詞を「湖上に一人」と書いた一投稿を載せた関東支部報が配布されていたが、周航歌の中で最も秀逸とされている五番の歌詞をこの様に理解していてはとても名歌とは言えないし、そんなものを来客も多いあの会場で配布するとは気のきかぬ話である。「古城」を湖上とするのは大正十年周航歌が歌集に収録される前に乱立していた誤った歌詞の一つであるが、それ以来このイメージを以て周航歌を合唱していたとすれば正に同唱異夢(正しくは勿論床)である。

また新歌詞が「今日いかに普及しても」とあって新歌詞が定着している様な書き方であるが、実状は必ずしもそうでないことを指摘しておきたい。「われは湖の子」碑の副碑では「波の間に間に」は旧歌詞の「まにまに」に戻っており、「滋賀の都」は「志賀の都」に変わっている。私は後者の変更には賛成でなく、両者とも配字の美や刻字の容易さからなされたものと解釈する考えであるが、良い方への変更は忌避する必要はない。先人の公表しているものに殊更異を立てて劣った自説を主張する者こそ恥ずべきである。また末尾の「語れわが友」を「語れ乙女子」とするのは創造性に乏しい戦後の軽薄子の作り替えであろうが、歌詞を理解しない多くの印刷物がこれに見なろうており「寮歌振興会推薦」と書いた豆本や寮歌祭のパンフレットに迄この誤った歌詞が「第三高等学校寮歌・琵琶湖周航の歌」として載っているのは嘆かわしい風景である。今後とも関係者の注意を喚起したい。

J三高歌集の譜もミスの所は正調して行くべきで、いつ迄もミスのままでコピーを続けるのは芸がない。私はものを書き改める毎に短くすることと誤りを正して行くことは読者に対する親切であり義務であると信じている。

以上11個所の中、今直ちに誤りと断定できるのは@、A、B、C、D、H、I、Jであり、神陵史の執筆者が反証を挙げぬ限り誤りであり反証は恐らく出せぬだろうと思われるのはE、Gである。これだけの誤りを含む執筆者による神陵史の周航歌成立史「大正七年彦根披露」説は誰が信用するのだろうか。敢えて歯に衣を被せぬ結論を申し上げるならばあれは昭和19年の卒業生が昭和53年に綴った絵空事であるということになる。私は「神陵史」が正史であることを願ってこれ迄述べたので、反対論があれば大いに歓迎する、夫れは真実に近づく道だからである。
(後略)
(昭和7年理甲卒、昭55・10・29記)

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