注 小口太郎の死

神陵史の「琵琶湖周航の歌」関係記述には誤りが多いが小口の死については正確なようである。『小口太郎と「琵琶湖周航の歌」』(安田保雄編 中安善也発行 昭和52年2月 非売品)に収載されている安田保雄氏の「小口太郎先輩の生家をを訪ねる」及び「小口太郎伝聞き書」に詳しい。1973年10月7日安田氏は小口太郎の令弟秀雄氏の次男富久雄氏を訪問され、保存されていた資料を見、こたつに入ってもてなしを受けつつ懇談された。小口太郎の死は病死とされていたようであるが、ご遺族の口からも公に自殺が語られており、事実は事実として受け止めるべきであろうと思うので、関係部分を摘記する。文中の小口ひさ氏というのは太郎の弟光男氏の夫人である。


小口秀雄氏が書き残したメモを見ると、三高時代について、
   
ボートニ精力的デアッタ  競技場ノ琵琶湖ガ古郷ノ諏訪ニ通ジル処有ッタノカモ知レナイ
とあり、また
心ノヤサシイ兄ハ家族ニモ話サナカッタ胸ノ内ノフルサトノ想ノ一片ヲ琵琶湖周航ノ歌ノ心ニモ託シタ
ノデワナカッタカナソンナ気モシマス
ともある、いみじくも「琵琶湖周航の歌」の原点を言い当てている。

(中略)小口家には、昭和四十六年八月四日の『夕刊フジ』が蔵せられ、夫れには「知床から琵琶湖へ周航ー加藤登紀子またウラ面のヒットー」の見出しで、レコードのヒット曲となった事情を報じている。が、同じ昭和四十六年八月八日の『夕刊フジ』には「苦悩の青春“28歳の命”を断っていたー『琵琶湖周航の歌』の小口太郎さんー」の見出しで、八月四日の記事を読んだ読者の一人宮坂洋子さん(富久雄氏の話では小口ひさ氏の姪という)の知らせによって取材した記事が載っている。これは小口太郎の紺がすり姿の写真と生前の小口秀雄氏の写真入りの注目すべき記事で、小口太郎の死が自殺であったことが秀雄氏の口からもらされている。私はこれを読んで一瞬息をのんだ。
富久雄氏も父君の生前に、太郎伯父の自殺の原因についてたずねてみたことがあったそうであるが、入営と研究の板ばさみとなって苦しんだのが原因であろう、とのことで、あとは口をつぐまれたとのことである。念のため、湊の生家でかと思ってうかがうと場所は東京でとのことであった。夫れが大正十三年五月十六日の出来事であったのであろう。(中略)。

小口家には、他に『信陽新聞』昭和二年四月十日に載った「竜門紀伝−小口太郎(一)」と、それにつづく(二)の複写もあったが、小口太郎の學問的業績のみが語られて、「琵琶湖周航の歌」については一言も触れられていない。当時は郷里の人たちも、小口太郎が「琵琶湖周航の歌」の作者であったことは全く知らなかったものらしい。(安田保雄「小口太郎先輩の生家を訪ねる」)

太郎の許嫁浜すずさんの兄浜徳太郎氏は諏訪中學での後輩であり、連れだって岡谷から上諏訪まで一緒に汽車通學された間柄であるが、「太郎が死んだ当時徳太郎氏は未だ松本高校の生徒であったが、太郎の死因は結核?と思っていたとのこと、自殺とは今日まで全然知らなかったし、また太郎が「琵琶湖周航の歌」の作者であることを知ったのも数年前のことだ」という。さらに安田氏がすずさんとの対話の中でうかがえたのは「小口太郎が亡くなった当時、小口家から浜家に対し丁寧な挨拶があったこと。太郎の死因は脳溢血と聞かされ、長くそう信じていたこと。最近になって、湊に住んでいた叔母が亡くなったが、叔母が生前太郎の死因について何か話していなかったか、と従兄弟の嫁に尋ね、やはり自殺であったことを確かめたとのこと、等々である。」(安田保雄「小口太郎伝聞き書」)という。

改製前の原戸籍から小口の死は大正拾参年五月拾六日午後七時、東京府豊多摩郡淀橋町大字柏木参百四拾八番地であったことが分かっている。(安田保雄「小口太郎伝聞き書」)

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注 “一周忌に  中安タカネ”から

堀氏の云われる中安夫人の書いておられることとは『小口太郎と「琵琶湖周航の歌」』(安田保雄編 中安善也発行 昭和52年2月 非売品)に収載されている中安タカネ夫人の文章である。関係部分を摘記する。


(前略)その後、あの歌は、琵琶湖を一周する時に、何か記念に歌でも作ろうかと、小口様と二人で書きはじめ、今津あたりからは皆様との合作になった様に聞いております。
何かの時に「雄松にそんなに素敵な少女がいたのですか」と聞きました所、「ナアニ、僕達がボートを着けると、いつも下駄を持って来てくれた、色の真黒な女の子だよ」と申しましたので、聊かロマンの夢を破られ、ガッカリしたのを覚えております。(後略)

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注 入學許可書

元のものは縦書きで書かれているが、横書きで示す。


〇〇〇〇
右本校高等科理科第一學年級ニ入學ヲ許可ス
入學者心得ニヨリ三月三十一日迄二入學ノ手続ヲナスベシ
入學式ハ追テ通知ス

昭和二十年一月三十一日
第三高等學校

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注 入學式案内

元のものは縦書きで書かれているが、横書きで示す。


理科第一學年甲類五組
〇〇〇〇
来ル七月一日午前八時入學式挙行可致ニ付相違ナク登校スベシ

昭和二十年五月二十二日
第三高等學校

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注 入學者心得・注意

元のものは縦書きで書かれているが、横書きで示す。


入 學 者 心 得
一、入學ノ許可ヲ得タル者ハ三月三十一日迄ノ間ニ左ノ手続ヲ行フベシ

  1. 入學料金参圓ヲ会計課ニ納付スル事
    右日限内ニ納付セサル時ハ入學許可ヲ取消サルベシ
  2. (一)保證書(二)履歴書(三)戸籍謄本(或ハ戸籍記載事項證明書)ヲ順次ニ綴リテ教務課ニ差出ス事
    保證人ハ父兄又ハ之ニ代ルベキ者ニシテ本人在學中其身上一切ノ件ニ對シ責任ヲ負フモノタルベシ
  3. 左ノ何レカ一ツヲ教務課ニ提出スル事
    注:実際はローマ数字でなくアイウエオ
    1. 中等學校卒業證明書(卒業證書ニ非ズ)
    2. 中學校第四學年終了證明書
    3. 高等學校高等科入學資格検定試験合格證書
    4. 官公立中學校ノ卒業検定試験合格證書
    5. 専門學校入學者検定規定ニ依ル検定試験合格證書
    6. 特ニ文部大臣ノ指定シタル學校卒業證書

二、入學式ハ追テ通知ス
三、制服ハ左ノ制式ニヨル
服 型  立襟背広形又ハ国民服乙型
但シ現下資材不足ノ事情ニ鑑ミ当分ハ在来ノ學校服装ヲ用フル事ヲ認ム
帽子ハ必ズ制規ノモノヲ用フベシ
四、本年一月以降ニ撮影セル写真三葉(手札型台紙ナキモノ)ヲ
入學手続ト同時ニ生徒課ニ提出スベシ


次ページへ続く
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