空襲に遭う
私は京都三中の出身であるが、戦争中、愛知県半田市乙川の中島飛行機製作所に動員されていた。卒業式も乙川国民学校で行われた。卒業してもそのまま引き続き工場で働き、やっと三高入学が許されて京都に帰っても、7月1日入学式の後、直ちに7月19日大阪桜島の住友伸銅へ配属された。愛知県はさすが濃尾平野を控えているだけに乏しかったとはいえ、まだ食糧事情は関西よりははるかによく、住友にきて薄い海水のようなお吸い物に菜っぱが一筋浮いていて、自分の目玉が映って何か汁の具のように見えたのは我ながら情けなかった。これでは体が持たないと思いつつ工場の寮から実習に1週間ほど現場へ通っている間も、空襲警報に悩まされ、遂に最後の日を迎えた。
寮は海岸に近く、防空壕も海岸の砂地に掘られており、壕の近くには高射砲陣地があった。壕に入ってとなりを見ると津田禎三君がいたが、見ると「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」と唱えつつがたがた震えている。彼は堺の出身で既に空襲の体験者であった。私は直接空襲を経験していなかったので、本当の恐さを知らなかったが、それを見てぞっと恐ろしさが身に迫った。掌で眼をカバーし、親指で耳の穴を押さえ、口は開けて呼吸するのだが、これは爆弾が炸裂すると大量の空気を消費し、瞬間、減圧現象が起こって、内臓が飛び出してしまう恐れがあるからだった。
北の方角からやってきた米軍機はこの日は航空機用のスーパージュラルミンを作っていた住友金属も主要な攻撃目標であったようで、まず工場の外に何発かの爆弾を断続して落としていった。ついで、笊から小石をぶち空けたときのようなザアッと言う音がし始めたかと思うと、内臓がえぐり出されるような感覚と共に体全体が壕の中で飛び上がる。この様な経験を何度か味わう内に静かになり、誰かが外を覗いてもう終わったと言うので出てみると、壕の側にあった高射砲陣地は兵士もろとも跡形もなく、壕と寮の間には爆弾の炸裂による大きな穴が開いていて、既に海水が上がってきていて池が出来ていた。大量の爆弾が正確に工場内に投下されたらしく、大きな火の手が上がり、建物の鉄骨は飴のように曲がっているのが見えた。1週間ほど前、工場に来て、説明を受けた工場の幹部の人たちも恐らくみんな死んだのだろうと思った。三高生が全員無事だったのは、まさに奇跡的な出来事であった。あの海水のような汁を飲まないで帰れるという喜びの感覚もこみ上げてきた。
壕を出て歩いていると大勢の人の死体が転がり、子供が泣きながら「お父ちゃん、お父ちゃん」といって尋ね歩いている。どの死体も衣服は剥がれているのだが、ほんの先刻まで生きていただけに美しく、ただ腹のところだけが内蔵の内出血のためか紫色であった。生と死の境界も、あのザアッという音と共に直撃弾を喰らっていたら、何の感慨もないままに簡単に越えていたのだと思うと、生死もそんなものなのかという思いもした。日頃は死を恐ろしい物と思っていたのだが、目の前に次から次へと被爆者の死体が絵巻物のように繰り広げられていくと、全く痴呆になったように何の感慨もなく眺めながら私は黙々と歩いていくのだった。そのあと寮に荷物をとりに戻ったが、こういうときでも寮のスピーカーをはずして持っていく三高生もいて、ある種の逞しさに感心もした。
その夜は海岸で過ごし、離れたところでドラム缶が爆発して真っ赤になり、真っ暗な夜空を背景にかなりの高さに飛び上がる光景はすさまじくも美しく、一晩中眺めていた。翌朝罹災証明書をもらい、45度の角度に切れた断面を見せている爆弾の破片を、記念に拾って京都に帰った。
罹災証明を見せると無料で乗り物を利用できた。四条大宮から市電に乗ると、ご婦人が二人、「今日はエエ(注:良いと言う意味)お天気ドスな」とのんびり話し合っており、昨日の大阪の地獄絵図が遠い国で見た夢のようでもあった。
それからまもなく戦争は終わった。その日は奇しくも、次の動員先堅田へ行くための準備に三高に集まる日であった。グランドに集まった私たちに励ますように生徒主事 大城富士男教授が、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」を読むことを勧められ、また諸君は精神的な貴族であると言われたのが印象に残る。戦争に敗れても矜持はもてというお気持ちだったのであろう。
戦争が終わったと実感したのは、その夜から覆いをしないで電灯を点けられるようになったことと、街で“もんぺ”姿でないスカートを着けた女性の姿が見られるようになったことだった。 |