4.思い出の三高

入試の思い出

月月に月見る月はおおけれど月見る月はこの月の月

私は戦争中最後の入学で、中学校からの推薦が重視されたから、入学試験は比較的簡単なものであったと思う。この歌の中に出てくる「月」について説明せよというのが、国語の試験に出ていた。数人の先生方の面接もあり、紫外線と赤外線ではどちらが波長が短いかと質問された。

 
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入学まで−−昭和20年春の特殊事情

昭和20年は敗戦を目前にした年であっただけに、三高入学の段取りでも特殊な年で三高の歴史の上でも特筆すべきものがある。保存していた連絡文書もかなり風化してきたので、ここに記録して留めておく。

1月31日付で入学許可書が発送されたが、例年なら「直ちに」されるはずの入学手続きも3月31日迄でよく、入学式も追って通知すると書かれていた。同時に「入学者心得」「注意」も送られた。「入学者心得」には、3月31日迄にしなければならないことが、注に示したようにいくつか書かれていたが、殊に入学金はその日までに納入しないと入学許可取り消しということであった。しかし、手元にある私の領収証書の日付は5月2日になっている。5月31日付の領収証は前期分授業料50円、報国団入団費10円と報国団費前期分7円50銭のものであり(物価水準の目安として書くと、当時私たち中学生の動員の報酬は一ヶ月30円で、一般勤労者から強制徴用された徴用工で月収80円程度であった。従って授業料前期50円というのは現在の水準で15万円程度というところだろう。絹織物関係の会社に勤めていた父はもはや会社自身が休業状態にあり給料も半失業者同様であったから、この50円の工面さえなかなか大変だったと思う。帽子は正規のものとの連絡が来ていたから、熊野を少し上がったところにあった山本帽子店に米だったか小豆だったかを算段して制帽を求めに行ってくれた父を思うと今更ながら篤い感謝の気持ちがこみ上げてくる。入学式に何を着ていったかの記憶はないが、制服も売っていなかったかと思う。その後、私は妹に助けてもらって家にあった大きな木綿の風呂敷を真っ黒に染め、これをわたしの体型に合わせて型紙を作り、それに合わせて裁断し、自分でミシンで服に仕立てた。あまりにも体型に合わせたものだから着てみるとすごく窮屈だったが、これを着て登校した思い出がある。)、授業料領収書が「昭和20年度学校特別会計」「経常」「直轄諸学校」「諸収入」という分類になっているのに報国団関係は「昭和十九年度」となっているのは少々首を傾げたくなる。報国団費7円50銭は納入通知書(発行日付は書かれていない)によると、7月から9月までの3ヶ月分である。入学式通知は5月22日付で本人と父兄のそれぞれに送られ、昭和20年7月1日午前8時から行われた。

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動員先で

入学早々住友金属に動員され、寮に入ったが上級生が本を携えて部屋を訪ねてきて、阿部次郎『三太郎の日記』・倉田百三『出家とその弟子』・西田幾太郎『善の研究』などを読むようにいわれた。後日また訪ねてきてその本について議論してくるので、安心できなかった。私は理科の生徒で、戦争中ほとんど勉強らしい勉強はしていなかった頭には刺激が強かった。それでも三高生になった以上はこういう本も読まなくてはと、その後も分からぬままに繙いていた。 上級生がよく口にしたのはドイツ語で「denken」であった。「思索せよ」の言葉に高校生になった実感があった。
戦争も終わって吉田の校舎に通い出した後のことであるが、澎湃とおこる自由・民主の波の中で仙花紙を使って出版された粗末な新しい時代の本が、手にはいるようになった。忘れもしないがJ.S.ミルの自由論も市販された。読んだ私はこの様な本を読んでいた大正期の人達がなぜ自由を否定して太平洋戦争に巻き込まれていったのだろうと素朴に考えたものであった。またロマン・ローランの「ベ−ト−ベンの生涯」なども感激に胸を熱くしながら読んだものだったが、齢四十になって「もう一度あの感激を」と読み直したが、もうあの感激は遠いものだった。何かをするときにそれにふさわしい年齢があり、それは掛け替えのないもので、その年齢に味わっておかないと後では味わえない感激で人生とはそんなものだと今にして深く思う。

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空襲に遭う

私は京都三中の出身であるが、戦争中、愛知県半田市乙川の中島飛行機製作所に動員されていた。卒業式も乙川国民学校で行われた。卒業してもそのまま引き続き工場で働き、やっと三高入学が許されて京都に帰っても、7月1日入学式の後、直ちに7月19日大阪桜島の住友伸銅へ配属された。愛知県はさすが濃尾平野を控えているだけに乏しかったとはいえ、まだ食糧事情は関西よりははるかによく、住友にきて薄い海水のようなお吸い物に菜っぱが一筋浮いていて、自分の目玉が映って何か汁の具のように見えたのは我ながら情けなかった。これでは体が持たないと思いつつ工場の寮から実習に1週間ほど現場へ通っている間も、空襲警報に悩まされ、遂に最後の日を迎えた。

寮は海岸に近く、防空壕も海岸の砂地に掘られており、壕の近くには高射砲陣地があった。壕に入ってとなりを見ると津田禎三君がいたが、見ると「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」と唱えつつがたがた震えている。彼は堺の出身で既に空襲の体験者であった。私は直接空襲を経験していなかったので、本当の恐さを知らなかったが、それを見てぞっと恐ろしさが身に迫った。掌で眼をカバーし、親指で耳の穴を押さえ、口は開けて呼吸するのだが、これは爆弾が炸裂すると大量の空気を消費し、瞬間、減圧現象が起こって、内臓が飛び出してしまう恐れがあるからだった。

北の方角からやってきた米軍機はこの日は航空機用のスーパージュラルミンを作っていた住友金属も主要な攻撃目標であったようで、まず工場の外に何発かの爆弾を断続して落としていった。ついで、笊から小石をぶち空けたときのようなザアッと言う音がし始めたかと思うと、内臓がえぐり出されるような感覚と共に体全体が壕の中で飛び上がる。この様な経験を何度か味わう内に静かになり、誰かが外を覗いてもう終わったと言うので出てみると、壕の側にあった高射砲陣地は兵士もろとも跡形もなく、壕と寮の間には爆弾の炸裂による大きな穴が開いていて、既に海水が上がってきていて池が出来ていた。大量の爆弾が正確に工場内に投下されたらしく、大きな火の手が上がり、建物の鉄骨は飴のように曲がっているのが見えた。1週間ほど前、工場に来て、説明を受けた工場の幹部の人たちも恐らくみんな死んだのだろうと思った。三高生が全員無事だったのは、まさに奇跡的な出来事であった。あの海水のような汁を飲まないで帰れるという喜びの感覚もこみ上げてきた。
壕を出て歩いていると大勢の人の死体が転がり、子供が泣きながら「お父ちゃん、お父ちゃん」といって尋ね歩いている。どの死体も衣服は剥がれているのだが、ほんの先刻まで生きていただけに美しく、ただ腹のところだけが内蔵の内出血のためか紫色であった。生と死の境界も、あのザアッという音と共に直撃弾を喰らっていたら、何の感慨もないままに簡単に越えていたのだと思うと、生死もそんなものなのかという思いもした。日頃は死を恐ろしい物と思っていたのだが、目の前に次から次へと被爆者の死体が絵巻物のように繰り広げられていくと、全く痴呆になったように何の感慨もなく眺めながら私は黙々と歩いていくのだった。そのあと寮に荷物をとりに戻ったが、こういうときでも寮のスピーカーをはずして持っていく三高生もいて、ある種の逞しさに感心もした。
その夜は海岸で過ごし、離れたところでドラム缶が爆発して真っ赤になり、真っ暗な夜空を背景にかなりの高さに飛び上がる光景はすさまじくも美しく、一晩中眺めていた。翌朝罹災証明書をもらい、45度の角度に切れた断面を見せている爆弾の破片を、記念に拾って京都に帰った。

罹災証明を見せると無料で乗り物を利用できた。四条大宮から市電に乗ると、ご婦人が二人、「今日はエエ(注:良いと言う意味)お天気ドスな」とのんびり話し合っており、昨日の大阪の地獄絵図が遠い国で見た夢のようでもあった。

それからまもなく戦争は終わった。その日は奇しくも、次の動員先堅田へ行くための準備に三高に集まる日であった。グランドに集まった私たちに励ますように生徒主事 大城富士男教授が、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」を読むことを勧められ、また諸君は精神的な貴族であると言われたのが印象に残る。戦争に敗れても矜持はもてというお気持ちだったのであろう。

戦争が終わったと実感したのは、その夜から覆いをしないで電灯を点けられるようになったことと、街で“もんぺ”姿でないスカートを着けた女性の姿が見られるようになったことだった。

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「激」

毎朝学校の掲示板に「激」などと書いて驚くほどの達筆で、それぞれ自分の所信が毛筆で書かれて張られていた。今日は何が張られているかと学校に行くのが楽しみでもあった。百家争鳴、これも三高の自由の現れであった。

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対一高庭球戦

昼の休みにはグランドで大太鼓が鳴り響き、吉田山を仰いで応援歌の練習があった。参加するしないは自由だが、応援歌や寮歌を歌うのは気持ちの良いものであり、これぞ三高生という気持ちを味わえた。

私はあまりスポーツは好きではなく、熱狂することもめったにないのだが、昭和21年、戦後復活第一回の対一高戦テニスの試合は柄にもなく興奮し、声を限りと応援した。三高と一高とはたくさんある高校の中でも互いにプライドがあり、対抗意識が強かった。時は10月27日、部員の手で復興した万里小路の三高コートに一高を迎えて、庭球戦が行われた。三高の選手武間享次君が奮闘するのだが、どうしても勝敗が決しない、双方の応援歌が火花を散らす。秋の日は早、西に傾き、日暮れが迫ってくるのだが勝敗は決しない。遂に疲れ果てた武間君はコートに座り込んでしまって、立てなくなった。

座ってもラケットを振るすさまじい試合に、私も一生一代の声援を送った。しかし遂に如何せん破れた。

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生徒の気風

一人として、俺は勉強しているぞという素振りを見せる級友はいなかった。もしそんなことをしたら誰からも相手にされない恥ずかしさを味わう羽目になっただけだろう。 もう亡くなってしまったが、市原君などは授業の始まる前必ず教室に現れて、机に腰を掛けて級友と、楽しそうに雑談しているのだが、授業の始まる直前に「ほな映画見に行ってきまっさ」といって姿をくらましてしまう。

中にはお父さんが外交官で5才からドイツに住んでいたというので、ドイツ語を習う前から知っていた小野村敏信君やハングル語のできる栗本八郎君もいたが、ともかく勉強している風ではなかった。私がいちばん感じたのは、全国から集まってきた当時の秀才といわれる人達がどういうレベルの人たちであるかを知ることが出来たということと、才能はこういう自由な環境の中でこそ自ずから開花するという実感であった。

きっとどこかですごい勉強をしているのであろうが、学校や人前ではそういう素振りも見せなかった。図書館に行くと毎日ドイツ語の原書でヴィンデルバントの「西洋哲学史」に黙々と取り組んでいる文科の生徒もいた。この人は恐らく授業には出ないで、図書館で独学していたものと思う。

何かそういう関係のクラブがあったようで、昼休みに、クラシックレコード鑑賞会が催され、私はよく聴きにいった。フルトベングラー指揮チャイコフスキーの交響曲4番を聴いて感激したのもこの鑑賞会であった。これがその後私のレコード収集のきっかけを与えてくれた。現在もこの楽しみは生き続けているが、子供たちまで家の中に音楽がいつも流れていたのが影響したのかクラッシク音楽の鑑賞を趣味とし、彼ら自身がフルートあるいはファゴットを演奏することにもなっていったのである。このほか私は三高時代に謡曲を阪倉篤太郎先生に教えていただき、その後しばらくやめていたが四十になって何か趣味をと思って武田欣司先生に入門したのは、やはり阪倉先生に手ほどきを受けた謡曲であった。三高の与えてくれた物は、豊かで多岐に渉っていることを痛感する。

当時の三高生でも表面から官憲の目をおそれることなく、好きの限りを尽くす気風はまだ残っていた。四条河原町で大の字で寝そべるとか時には警察の検挙するようなことも平気でしでかしたが、いずれ三高から帝大を出れば地方の警察署長くらいにはすぐに任官したのでそのうちお前らの上には立つのだという妙なプライドはどこかに持っていた。現代にはとても許されないプライドと特権意識ではあろうが、昭和20年代にはまだ生き続けていた。そのプライドが三高生の矜持の源でもあった。

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アンナカレニナ

ある年の夏、休み明けのクラスに顔を見せない友人があった。中川倫君(理科甲)である。彼は私の小学校時代の同級生なので、病気かと心配になってきて下鴨神社横の中川君の家を訪ねた。近くに住む向井君と一緒に訪ねたように思う。中川君の机は二階の廊下の片隅にしつらえてあった。中川君は元気にしていた。細かいことは思い出せないが記憶に残っているのは彼とのやり取りの間で彼の言った言葉である。「休み中にトルストイのアンナ・カレニナを読み始めたのだが、まだ全部読めない。これを全部読み終わるまでは学校へ行かないつもりだ」。

昔の三高にはそれぞれの生徒が自分の志したことは自由にやらせておくおおらかな自由があった。時たま三高の図書館にも出かけたが、いつもマントにくるまって黙々と読書をするいつも同じ文科の生徒を見かけたことも別項に書いた。彼の読んでいたのはドイツ語で書かれたヴィンデルバントの「西洋哲学史」原書だった。教室で講義を聞く以上にその人は一人で原書に挑むことに彼の青春を賭け、精神を豊かにしていたのであろう。三高という当時の日本の学校の空気は、登校拒否が問題になる現在の学校環境とは全く異なっていたのである。

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三高と京都市民

通学には大宮通を南に下がって、今出川大宮から市電を利用した。当時は市電もなかなか来ず、乗降口には鈴なりにぶら下がる有様であった。乗れなくて発車してしまった市電のお客の袖口に私の持っていたこうもり傘の持ち手が引っかかって思わず手放して、こうもり傘だけが市電と共に行ってしまった思い出もある。当時アメリカでは自家用車が普通で、皆自動車で往来すると聞いたのも夢のような話であった。自動車といえば島津製作所社長を引退された島津源蔵さんが悠然と市内を走らせる電気自動車デトロイト号だけであった。氏はGS(Genzou Simadzu) バッテリーを作る日本電池の社長でもあった。今日、日本でも往来にマイカーが普通になり、車の洪水が問題になっているのを見ると、そんな時代もあったのだなあと自分でも問いただす思いである。

それはさておき、三高生の多くは未成年であったが、酒・タバコ共に自由であった。街の中でも、警官のいるところでも、どこでも自由であった。結構市民の迷惑になりかねない振る舞いもした。

この様な振る舞いを許してくれたのは、成年に達した生徒もいたことも理由か知れないが、第一の理由は市民の信頼があったからで、この人達はやがて一流の仕事をし、社会の指導者になる人なのだ、三高生はそういう人たちなのだという温かい理解が浸透していたからである。紀念祭の日は校内も寮も運動会も市民に公開されたが、その日を多くの市民が楽しみにしていた。京都は今でも学問と学生を大切にする街であるが、殊に三高生といえば市民はその様な学生が京都にいることに誇りと尊敬をもって接していた。ありのままの姿は林 茂久先輩のこと 大岩 泰 清滝ますや聴聞録 梅田 義孝などをご覧頂ければおわかり頂けると思う。戦前の三高生の中には出世払いでよいということで、瓢亭など一流の料亭で過ごしたものもいたという。

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昭和21年の紀念祭

当然のことながら昭和20年には紀念祭はなかった。戦後の紀念祭は昭和21年のそれも11月に復活した。この年は敗戦の翌年でものは乏しかったが、自由の回復で、明るい希望に満ちた時だった。

後年文学座の座付作家となり杉村春子の有名な「女の一生」の原作者となった森本薫は、三高の卒業生であるが、この紀念祭では彼のラジオ・ドラマ作品「薔薇」が放送劇の形で演じられた。受付で良く目にするような長い机には役名ビラが張られ、そこに山本修二先生(ヤマシュウ)始め日頃謹厳な4人の先生達が着席された。このドラマは男女各2名の登場人物がいるが、女性の教授はおられなかったから、「杉江」と「夏子」役の二人の教授は女性の声色を使われ、それだけでも面白かった。この劇には2箇所ピストルの音がするところがある。恐らく占領下であったから、容易にピストルは使えなかったのであろう、電球が舞台裏で割られたのである。冒頭のところではまだしもバンとなったが、最後の場面でのピストル代わりの電球は、ブスッというような音がして割れたので、異様に印象が深い。この劇は現実と過去の回想が何度か交錯する形式の劇であった。

他に記憶に残っているのは寮生による岡本綺堂原作「修善寺物語」である。「桂」など女性役に当たった”いぶせき”寮生は、あまり美しくもない着物を着て、女装で熱演した。また、能楽部の「紅葉狩」連吟を聴いて、私も入部した。前田耕治さんなど化学班の上級生に能楽部にも所属している人がいたのも、入部の敷居を低くしてくれた。後年の趣味の一つの発端となった。

売るものもロクにない時代だったが、それでもグランド近く、部などの模擬店が出て、化学班も班員の土田君の家が造り酒屋で、頂けた酒粕を使って甘酒を販売した。市民も訪れて盛会だった。運動会の合間には仮装行列もあり、私のクラスは「鯨捕り」を演じた。私は、鯨の頭部を作るのに間に合う古い鶏の鳥籠が家にあったので、それを背中に背負い、船岡山から吉田まで歩いて学校まで持っていった。

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進級の発表

この頃は敗戦直後でもあり、実によく停電した。停電とまで行かなくてもおそらく電圧が下がったのだろうが電灯が瞬き始めかすむように消えることもしょっちゅうだった。定期試験になると暗くなったからと寝る訳にもいかず、千本通りまで街路灯の光を求めて出かけ電柱の陰でその光を頼りに勉強したこともあった。住まいの電灯が停電しても交通や治安を守るために街路灯は停電しないのだった。

さて進級の合否発表の日には、名表が掲示板に張り出してあり、赤線で名前が消してあったら落第であった。及落会議では担任は担当クラスの生徒の落第には、相当抵抗をされたとも聞くが、私たちの時には、担任に「僕、落ちました」と泣きつき半分に行っても「そうですか。落ちましたか」といわれるだけだったとも聞く。私たち戦中入学組には、学校としては学力に不安があったので、ことさらに厳しい姿勢で臨まれたように思われる。いくら全科目の平均点がよくても、最終成績に60点以下40点以上2科目、あるいは、40点以下1科目あれば、容赦なく留年であった。この結果神陵史によると、私たちの学年は昭和21年3月には文科生174名中の36名,理甲312名中の74名、理乙の105名中23名が進級できなかった。平均実に22.5%が原級に止まったのである。この結果21年春の入試は募集定員360名であったが実質定員は360マイナス133名となり激烈な競争率を記録した。現在のように特殊な事情にあるからと妙な温情を施すこともなく堅実にレベルを要求するのが三高だった。

 
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ヤマシュウこと山本修二先生

yamasyuu

新しく本を買ってくると、先ず本の真ん中辺で大きく開く。次に開き分けたそれぞれ半分のページのそのまた半分で大きく二つに開く。同じようにもう一度その半分で開く。そのたびに私は“ヤマシュウ”を思いだしている。なぜならこのような本の扱いは先生が授業の時に教えて下さったものだから。"ヤマシュウ"は布製の 頭陀袋 のような鞄を肩から斜めに掛けて学校に独特の雰囲気を漂わせつつ現れたが、校庭で挨拶すると少し上目がちに無言で答礼された。よく描けているので先生のお姿を西山卯三著「あゝ楼台の花に酔う」(筑摩書房刊)から転載させて頂いた。

さて、先生は日本演劇学会会長で、シング(J.M.Synge (1871-1909))研究の第一人者であった。先生は私のクラス5組の担任であって、英語をお習いした。"THE GREEK MYTHES"も習ったし、アメリカのユーモア作家Clarence Day (1874-1935)の"LIFE WITH FATHER"も習った。教科書のないときで前者は三高の所蔵品、後者は駐留軍(占領軍)の払い下げのペーパーバックスの一冊であった。先生の英語の発音は正直に言ってひどいもので、独特の抑揚をつけて発音され、時には「えー」とか「うー」を交えられるのである。しかし訳は名訳が湧くようにお口からでてくる。LIFE WITH FATHERの訳は、その後NHKのラジオで先生ご自身が放送もされた。この本の中に「エクレア」のことが出てきた。今の日本では珍しくもないお菓子であるが、主食にも事欠いた当時、私には遠い異国の見知らぬ美味しいお菓子への夢と想像をかきたてられたものであった。この本に関連して、先生は親から授業料をもらって学校に払わず、南座へ芝居を見に行かれた話をされたが、いったん金を渡したあとは、それを何に使ったなどと言わないのが父親というものだとも話された。THE GREEK MYTHESは関連した事項なども参考に入っていて、その後美術館でギリシャ神話に題材を取った外国の絵を鑑賞する時の素養ともなった。先生は毎時間終わる頃に「何か質問があれば」と言われた。生徒が質問すると「なに、そんなことがわからん。もっと勉強したまえ」といわれる。あるいはlight soilをもろい土と訳されたので「先生そんな訳は字引に出ていませんが」と聞く生徒に「何、君の辞書には書いてない。書いておきたまえ」と言われたこともある。次第に質問する生徒はいなくなった。当時は蕩々と「キュリー夫人」などアメリカ映画が入ってきて、松竹座で上映されていた。一人の生徒が「先生は英語の先生ですから、字幕を見られなくても、何を言っているか分かられるのでしょうね」と質問すると、「僕には何を言っているかわからん。君は恋人が何を考えているのか、言葉を聞かないと分からないかね」といわれた。このことは長く私の心の中で引っかかっていたが、退官講義で謎が解けた。

1957年1月29日午後、旧三高尚賢館南室で山本修二先生の京大教授退官記念講義があった。題目は「三つの演劇用語について」であった。アリストテレスの詩論に出てくるηθη(エーテー),παθη(パテー),πραξεισ(プラクセイス)を先生の専門で、お好きであった演劇の立場から論じられた。先生は演劇でもっとも重要なのはπραξεισ(プラクセイス)、則ちaction(身体による表現)だと言われた。体の動作を見ておれば、言葉などどうでもよいではないかというのが、先生の答えなのであった。
ちなみにηθη(エーテー)というのはcharactor(人柄・性格)、παθη(パテー)というのはemotion(感情表現)と訳される。

ヤマシュウからではないが、英語の先生のどなたかにこのほかHester Prynneが登場するNathaniel HawthorneのThe scarlet letter(緋文字), Lafcadio Hearn(小泉八雲)のOn Literature も習った。Hearnの中には怪談の著者らしく「神秘主義のない文学は真の文学ではない」と書かれていた。緋文字については最近懐かしくなってドイツ・スペインの合作映画「Der Scharlachrote Buchstabe」のDVDをamazonから購入した。また、Robert Browning(あるいは夫人のElizabeth Barrett Browningかもしれない)の詩についての評論にも多くのページがさかれ、専門外のことで分からないが、Hearnの関心が深い分野であったのかとも思われる。取り上げられた詩も神秘主義的であったように記憶する。石田英二先生にはThomas CarlyleのOn Heroes(英雄崇拝論)をお習いした。マホメットのところに書かれていた「もしマホメットの教えがいかさまなものであったら、どうして今日まで続いていようか」という件りはいまも心の中に印象深く残っている。市原君に誘われて、石田先生のお宅にお伺いしたことがある。長い廊下の片側は作りつけのレコード収納棚になっていて、膨大なコレクションが収められていた。

それはともかく、戦争中の中学校では、勤労動員があり、また敵性語として英語の教科書は、ネルソンのトラファルガーの勝利の話などは墨を塗って抹消するよう命ぜられ、英語の講義はほぼ中断された。何しろ昨日まで音楽の時間にlong long ago をやっておられたのが、一日、日が変わると”Deutschland Deutschland ueber Alles” (当時のナチス国歌、曲はハイドンによる。今のドイツ国歌も曲は変わっていない)が教えられた時代である。 満足に英語を習っていない私にとっては、三高では急に難しい教材に出くわし、必死に勉強した。私だけでなく、私たちの同期生はみんなほぼ同じ状況であったから、独学といって良い状態で英語を身につけていったと思う。生徒に基礎学力が欠けているからといって妥協することなく、語学的にも内容的にも高いレベルのものを従来通り教授するのが三高のやり方であった。

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ドイツ語

ドイツ語は高安國世先生、前川誠郎先生、岸田晩節先生に習った。高安先生はCarossaのドクトルビュルガーの運命(Das Schicksal des Doktor Buerugers)の抜粋をテキストにされた。私たちが理科の生徒であったからか、結核を患った若い娘を治療する医師の悩みを日記体の小説で、毒も少量使うと薬になるという件りが印象深い。この頃は文庫本にもカロッサの作品は全くといってもよいほど見られなくなった。昔のドイツの大学生活を書いた「大学時代」とか「美しき惑いの年」などが訳本で読めないのは淋しいことである(注:日本の古書店で検索すると、カロッサの作品も入手できるものがある。;最近京都の臨川書店からハンス・カロッサ全集全10巻が新訳で出揃った。)

高安先生については次項で改めて記す。

前川先生には何を習ったか思い出せないが、ある時、時の人(Mann der Zeit)という写真集を授業時間に見せてくださった。フルトベングラーやブルーノ・ワルターなども出ていた。偉人達の眼が片方は現実をしっかり見つめ、他方の眼はより高いなにものかを求めるように、斜め上を見つめているのが、なぜか深く印象に残る。前川先生は靴がない時代だったからだろう、いつも頑丈そうな古ぼけたスキー靴を履いて教壇に立たれた。そういうわけで、見たところはそんなに豊かな方と思わなかったが、ある時ドラクロワの絵が授業で出てきたとき、「この程度の絵は私の家にも掛かっています」と言われた。先生は後年ドイツの画家デューラーの研究で世界的に著名となり東大で西洋美術史を講義され、国立西洋美術館館長、新潟県立美術館長など歴任されたが2010年1月15日心不全で亡くなられた。当時の一言には本当にびっくりした。

(注)少し用事があって中学以来の友人、藤田稔夫君に手紙を送ったら、電子メールでお礼が来て、そのついでに教えてくれたのが次のことがらである。

前川先生に 習ったドイツ語の教科書 は、Annett von Droste-Huelshoffの Die Judenbuche で Friedrich Mergel という人物が 主人公 でした。実は 約十年前 ドイツの Muenster に立ち寄った時 その郊外にWasser-Schloss があるから見に行こうとつれていってもらったのが Huelshoffのお城 だったのです。教科書は、何処かに行ってしまったので、そこで Gesamte Werke を買ってきました。暇が出来れば読み返してみようと思っています。三高三年生のときの方が ドイツ語は よっぽど よくできたようです。

岸田先生にはゲーテの自然科学論文を集めた自然論、「Die Natur」を習った、色彩論なども入っていた。ヘッセのツアラトウストラの回帰(Wiederkehr des Zarathustras)も印象に残っているが、これも岸田先生から習ったと記憶する。こちらはタイプ打ちしてプリントをテキストとして配られた。

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高安先生

高安先生は昭和58年秋に胃の手術をされたが、翌年七月十六日にはご自身車を運転されて信州飯綱の別荘に赴かれた。同地で異常を感じられて二十二日帰洛、翌日から入院されたが、三十日体内出血のため急逝された。私の妻も先生が主催される短歌同人「塔」に所属していたのでその因縁から私が追悼文を「塔」に寄稿した。

高安先生を偲ぶ

先生の御父君がお医者さんだということは仄聞していた。そういうこともあってか、先生はドイツ語の教材にカロッサの“ドクトル・ビュルゲルの運命”を選ばれた。戦争中に作られた教科書は抜粋を編集した、小さい薄っぺらい造本であった。日記体の内容は結核を病んだ人たちをみとる医師の苦悩を克明に記したもので、毒薬も少量与えると治療効果が得られるというくだりなどは、理科の生徒にも充分興味の持てる内容であった。先生はいつも端然とされ、しかも何か物憂げな面持ちであった。講義の合間の雑談にご自分も子供の時に体が弱く、性格も女性的だとも話された。先生の辺りにはいつも柔らかい雰囲気が漂っていた。先生が激怒されたのを一度だけ経験したことがある。三高生に代返(友人の代わりに返事をすること)は日常茶飯事で、出席者の中には二人分位引き受ける猛者もいた。出席を取り終われた時、顔と返事の数があまりにも違い、先生は「こんなクラスには授業しません」と言って出て行ってしまわれた。クラス代表がお伺いしても遂にお許しがなく、その時間は講義されなかった。
入学したのが終戦の年で、当時テニスコートも芋畑に転用され、先生方に区画の割当があったようである。休日には家族連れでお見えになっていた。一度先生が畑の方から御一家お揃いで歩いてこられるのにお目にかかった。やはり端然としておいでであった。先生御家族も芋つくりにお見えになっていたように思うのだが、或いは失礼な誤った記憶かも知れない。
私は塔の会員ではない。妻が前に属していた会を事情で退くことになって、先生の周りにいつもあった詩的な高貴なものに魅されていた私は、妻の力も無視して、高安先生の門を叩かせたのである。先生には遂にお話ししなかったが、妻までも教えて頂くことになった。

(昭和六十年 九月 塔 第三十二巻 九号)

 

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先生群像

記憶に誤りがあるかも知れないが、単位登録の前に、大きい教室で、先生方の授業の顔見せがあった。記憶に残っているのはダイハチこと大浦八郎先生の英語の授業。The Japan Times のeditorial を教材にされて、ややくぐもった甲高い声で憎々しげに”ノトーリアス(notorious)東条”を連発、当時次第に問題にのぼってきた戦犯問題を講義された。これで一度にnotoriousという英単語が頭に焼き付いてしまった。江原眞伍先生の地質学の講義も聴きに行ったが、手書きのプリントで岩石の学名をずらりと並べたものを下さった。この名前を全部覚えるとなると、これは私の性に合わないと、一度講義を覗いただけで登録を断念した。生物は吉井良三先生にお習いしたが、覚えているのは先生の足の指が御父君の足の指と類似していたというお話だけで、コレは遺伝に関連しての講義ではあった。

「文学」を習った池上禎造先生(2005年12月14日老衰のため逝去。94才)は羽織袴姿で教壇に立たれた。印象に残るのは、開口一番「文学は楽しむためにあるのです」といわれたことだった。中学時代、国語の時間に登場してくる文学作品は、学び、文法的に解剖するもので楽しむものではなかったからである。

戦争中に中学時代を送った我々の学年の入学生徒は、多分学力不足だという理由からだと思うが、夏休みに希望者の補習授業があった。秋月康夫先生は「代数学」を教えられたが、「数学はfreiheit(自由)を追求します。代数学はプラス、マイナス、掛ける、割るという四つの操作だけで何が出来るかを追求します」といわれた。私は数学は苦手であったが、この言葉には妙に心惹かれるものがあった。

数学の先生といえば桑垣 煥先生は海軍の軍服を着ておられたが、私が予め教科書に書かれている公式的なものを応用して問題を解いて授業に出ると、いつも先生はそういう解き方もあるのかというようなやり方で見事に問題を解かれた。芸術的でさえあった。

「図学」は池田総一郎先生にお習いした。先生はダンディで、戦後間もないあの時代でも美しく髪を整えておられた。図学というのはいわば製図法の基礎であった。円こそコンパスを使って描かれたが、立体の正面、側面の展開図もフリーハンドでツツット直線を下ろされて美しく正確に書かれるのであった。図学の教室には過去の優秀作品が展示されていたが、私は修正すればするほど画面が汚くなり、製図は生まれついての能力がないと、あか抜けした図面は描けないものと諦めてしまった。

三高の生徒時代池田先生と同期であった小堀憲先生は、対照的に蛮カラ風で、確率論などを習った。先生は数学史の方面でも有名であったが、何でも独学でイタリヤ語を1週間でものにされたという噂であった。先生はローマ字主義の方であったのか、ある時の試験で問題が配られると、横文字が並んでいた。英語かと思ったが、書かれていたのは、ローマ字で書かれた数学の問題であった。

「東洋史」は羽田明先生に習った。内容はすっかり忘れたが、中学時代ただ覚えるものであった歴史と違って、中国という国は絶えず新しい王朝が北から、南からと揺れ動いたのだなという印象が残っている。

佐藤幸治先生には「心理学」を習った。先生は座禅を愛され、授業でもその効用を説かれたが、屋上で生徒の有志と共に実践もされた。定期試験の問題にも座禅の効用について記せというテーマがあったが、私は当時「The seventh veil」というアメリカ映画を見ていたので、座禅も出来ない状態になった人の、心の悩みを解決するためには、もっと科学的な心理分析の手段も必要だと書いたら、90点をくださった。The seventh veilは一人の女性ピアニストの悩みを一枚一枚ベールを剥ぐように分析していって、遂に少女時代にモツアルトの曲の厳しい練習のとき、間違った弾き方をすると鞭で指を叩かれたときのショックが、このピアニストの精神的病の根元にあることを突き止めるというストーリーであった。

山内先生と申し上げたかお名前すらはっきりしないが、「自然哲学」の講義もあり魔法と科学の違いを説かれた。この講義は私の科学史へのその後の興味に火を点けてくれた。 先生方はどなたも超一流の方ばかりで、三高解散後はいろいろな大学の教授として活躍された。思えば贅沢な教育を受けられたものだ。

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土井虎

ドイトラこと土井虎賀寿先生には哲学の時間に、PascalのPensees(瞑想録)を習った。フランス語など全く分からない生徒を前に、先生は黒板の左から右に向かって瞑想録をフランス語で書いて行かれる。端まで来るとサッと黒板を消されて再び左端に来られ、続きを書いて行かれる。講義もあったと思うが、私にはこの情景しか思い出せない。そして今も綴りなど全く知らないリエゾン、エスプリというフランス語の響きだけが蘇える。

先生が一度試験監督に見えたことがある、先生は椅子を窓際に持って行かれ、脚を窓枠に載せて読書に没頭され出した。生徒はみんな部屋の中を歩き回って、雑談したり、友人に答えを聞いて回っているのだが、先生は一瞥すらなさることなく、ひたすら読書されていた。妙なところで、「さすがは哲学者」と大いに感心した。先生は西田幾太郎門下の俊才であったと聞く。

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自然科学の講義

ヨタシンこと藤田慎三郎先生、八木三郎先生、加古三郎の三先生には化学を、丹羽 進先生には物理を習った。ヨタシンというのは慎三郎先生の岳父、藤田元春先生も三高の名物教授の一人でヨタハルの異名を持っておられたからである。

藤田先生の有機化学は、ドイツの原書を訳した膨大なものを謄写版刷りのプリントとして配布された。しかもそれを一々講義されるのでもなく、重要なところを指摘されて、あとは自分で勉強するように仕向けられた。

八木先生は無機化学と理論化学を講義されたが、こちらは比較的丁寧に英語の術語をまじえて個々の事実を教えられた。八木先生はカメラがお好きであったが、このきっかけはお母上から三高か京大かの入学祝いに、カメラを買ってもらわれたことだといわれた。それ以来カメラの虜になられ、学位論文のテーマとされたリーゼガング現象というのも、カメラの乾板のゼラチン内での反応との関連からであった。先生はわりに短気な方であった。授業は階段教室でされたが、私語が気になられると、チョークの小さいのがピュッと飛んできた。それもかなりの命中精度で。先生のお話で印象に残るのは、先生が大学を卒業された頃は肥料会社が盛況で、級友も大勢その方面に就職していったが、自分は学問の道を選んだ。就職に当たって世間で好況といわれている花形分野は、もはやピークにあるので、むしろ誰も見向きしていない方面のほうがよいと云われたことである。この話をされた当時はもはや肥料は斜陽産業であった。

午後には無機定性分析化学の実験があった。教科書は全文わかりやすい英語で書かれ、謄写版刷りで製本されたものだった。この実験で個々のイオンの性質は本での知識でなく、身に付いたものとなった。これらの授業は化学英語に馴染ませることも目的の一つであったように思われる。物理の方ではプリント製本された教科書を使われたが、別に運動方程式に基づいた系統的な力学のプリントもあって講義が午後にあった。

加古先生は、やや腫れた顔つきをされていて、講義でも「栄養失調で声が出ません」といわれる時代であった。そういえば時に食糧休暇が1週間ほどあって地方出身者は、故郷に帰って栄養補給をしてきた。たしかに帰って来ると皆元気になっていたが、私のように京都出身で食糧の豊かな故郷を持たないものにとっては、単なる休暇であった。

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化学班

私は化学班に属していたが、藤田先生は顧問であり指導者であった。研究テーマも先生から指示された。敗戦直後の当時薬品も乏しく、テーマであった錯塩の結晶を、水溶液から析出させるのになくてはならないエチルアルコールの入手も困難であった。先生は休み時間にはモンペに穿き替えられて、みずから鍬を持って校舎の傍らの畑で菊芋を栽培された。芋が出来るとこれをまな板で刻み、発酵させてアルコールを作っておられた。このアルコールを蒸留して私たちに下さるのである。今の人には想像も出来まいが、まさに宝物で無駄には出来ない代物であった。

八木先生は化学班の実験台の一つで当時ご自分の学位論文の研究をされていた。先生は写真がお好きで、研究のテーマは「リーゼガング・リング」であった。班員もそれぞれ研究報告を班誌「舎密」に論文として発表した。班所属の上級生武田進氏や同級の高橋玲爾氏は、実験室の片隅に寝泊まりしてそこから授業にでていた。また、武田氏は京大への進学に当たっては、自分の行こうとする教室の教授を訪ねて研究内容を確かめて来て決断していた。

創立を記念する紀念祭には、土田(北条)卓君の家が「稲槌正宗」の醸造元であったので、提供してもらった酒の粕で甘酒をつくって模擬店を出した。化学班のコンパにはこの「稲槌正宗」があったが当時は充分量の供給は困難で、藤田先生作のアルコールに杉の葉を浸して杉樽めいた風味をつけたものも供された。今日各地、各種の銘酒を自由自在に楽しめるのは、まさに往時の王侯貴族にも比べられる贅沢という思いである。また班対抗のボートレースが瀬田川であって、私も漕ぎ手として参加したが、掌に豆が出来て大変だった。

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私の結婚式

解散前、同窓会の中心である三高会館は京都四条寺町角の菊水ビルの6階にあったが、元の会館は昭和24年7月以来、聖護院のある春日通り岡崎西福ノ川町にあった。敷地約4百坪の中には枯山水もある立派な庭もあった。160坪の建物の一階は通しにすると、畳廊下付きの22畳敷きの大広間になり、天井にはもう一部やぶれてはいたが、立派な金色の鳳凰の絵が描かれていて華やかでノーブルな雰囲気だった。

昭和34年5月27日私は小学校時代の恩師芦田重左衛門先生(のちに京都府議会議長)に媒酌をお願いし、日本諸礼式大全という本(大正14年発行)に書かれている古風な婚礼の儀式を参考にして、自分で式次第を作製かつ演出し、中学校時代からの親友に屏風のかげで謡曲「高砂」を謡ってもらう中、この会館で結婚式を挙げた。近くの須賀神社から神主を呼びましょうかと会館のおばさんがいってくれたが、「おばさん、あんたが三三九度の盃の世話をしてくれたらええわ」といって無理にお願いし、その後の主な親戚だけを招いた披露宴も、会館の別室で近くの仕出し屋から祝い膳を届けてもらって行った。ひょっとすると会館で結婚式を挙げた人は、そう多くはあるまいと思う。記録によると会館使用料500円、祝い膳一人前500円、酒1級3本2,600円となっている。

新婚旅行は勤めの都合もあり、家内の兄からもらった1万5千円のお金をもって7月19日夜行列車で金沢から能登方面に出かけた。帰途、滋賀県北部にある私の母の実家にも立ち寄り24日に帰宅した。旅館に泊まったのは飯田(現在の珠洲市飯田町の助則旅館と七尾の加賀屋別館で、加賀屋は今はすっかり建物も変わってしまったが当時は本館も別館も純和風、別館呼帆荘の豪華な「うづき」の間(前年昭和天皇が宿泊した部屋)に宿泊させてくれた。ベッドも天皇の使ったもので、大きくゆったりとしていて、私の記憶に誤りが無ければ黒漆塗りのベッドであった。新婚旅行でしかも当日部屋が空いていたからの大サービスで、一泊一人食事・税・サービス込みで1,500円、ビールは1本180円であった。
飯田に泊まったのは20日の夜だが、思いがけずもこの日は町の曳き山祭りの日にあたり、夜店も出て賑わう。北国新聞主催の花火大会も海岸で開かれ、殊に水中スターマインといって海中より噴水のように現れるものや、仕掛け花火は空中の火が海に映って上下の対になり、それは見事なものである。もう一度見たい思いがする。驚いたことに曳き山は夜半12時頃から3時頃にわたって、鐘・太鼓を打ち鳴らし、老若男女大声を張り上げながら、町の中を練り歩くのである。賑やかで昼間の雰囲気で、とても眠っているわけにはいかない。今もやっているのであれば、珠洲市飯田を訪れるのはこの日に限る。

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京都大学

私は京大の理学部に進み、化学を専攻したが、京大では、有機化学も無機化学も教科書に書かれている事実を学ぶという講義ではなかった。普通の教科書に書かれている事柄は、高等学校でもう十分に習って知っているということが前提になっていて、細かい事実の講義は何もなかった。京大の講義の眼目はそういう事柄がどういうようにして獲得されていったのかを追体験させることであった。有機化学の野津龍三郎先生はシュタウディンガーのところへ留学された。シュタウディンガー指導下で、ゴムやセルローズの分子が、当時未知であった高分子であることを明らかにして行く研究の過程を、歴史的に通年講義された。無機化学の佐々木申二先生は分厚いN.V.Sidgwickの原書をテキストにされたが、一年間の講義はそのうちのごくごく一部分、たかだか2,30ページで、教科書外の例えば錬金術(アルケミー)の話や、本文外に引用されている文献の内容などを講義された。こうして原書をどのように読めばよいのか、本を読むとはどうすることなのかを教えられた。佐々木申二先生は三高の出身(大6第2部甲)だったが、無機化学の試験の時、普通の縦書きの四百字詰め原稿用紙を配られ、レッキとした無機化学の5題の問題の答えをそこから一字もはみ出すことなく且つ句読点はそれぞれ一字分の区画を取って書くように指示された。うやむやなことを書き連ねてボリュームで点を稼ごうなどということは通用せず、本当に重要なエッセンスは何かを考えて書くしかなかった。後年私も長く教職についたが、こういう形式で化学の試験をしようとすると何よりも何を出題するかが難しくて到底真似はできず、改めて佐々木先生の偉大さに脱帽する思いであった。現在では原子の存在を疑うなどということは考えも出来ないが、19世紀末にはまだ存在を疑う人の方が多かった。佐々木先生は原子の存在を確信され、何とかすべての人に原子そのものを見せようと考えておられたように思う。先生の門下で2003年春叙勲された京大名誉教授植田夏教授(昭19理甲)は電子顕微鏡の分解能向上に尽力され原子や分子を直接観察することに努められた。また、分析化学の石橋雅義先生は常に「新しいことを勉強するよりもここではしっかり基礎的なことを学びなさい。基礎が出来ておれば、卒業後にどんなに新しいことが出てきても立派に理解でき、必要に応じて勉強もできます。」と力説された。その後の私の経験でもこれは真理であった。また分析の法典であったTreadwel-Hallの本の中にリンの分析について石橋先生の業績が紹介されており、そこに資料と試薬を30分加熱するくだりがあるがこの30分という時間を確定するに至るまでのご苦労を話された。先生は未完の自著「分析化学特論」をテキストに、研究を通じて得られた分析化学の奥義を語られた。こまかい事実よりは学ぶということがどういうことなのかを教えることが当時の化学教室の講義の真髄であった。思えばこういう理念を教授方が共通のフィロソフィーとされていた化学教室最後の教育を受けられた幸福を思わずにはおられない。
私は女子大を退職するまで、40年にわたり化学教室の図書室を顔パスで利用させてもらったが、京大は戦争中も爆撃を受けず、世界の19世紀の化学関係雑誌が第二図書室に収納されており自由に閲覧できた。やはり多くの大学があってもこの文献の収納という点では京大は群を抜いていることは研究上傑出している。皮で製本された雑誌は手に取るとボロボロと崩れる有様で、再製本の努力が続けられていた。

京大での有機化学実験や無機化学実験も合成そのものより、いろいろな合成テーマを学生に提示されるだけで、学生自身が合成に必要な文献の探索をどのようにやり、それを具体的な実験方法に組み上げ、その正否を自分の実験で確かめることに主たる目的があるように思われた。

教科書に書かれている個々の細かい事実は三高のときに習った。それが今日に至るまで私の化学や物理の知識の基礎になっている。

三高略史にも記したが京都大学は三高の延長線上に生まれた大学である。三高から伝わった基本の学風に「自由」の伝統があった。理科方面での秀峰日本のノーベル賞受賞者の中、福井謙一先生は三高の卒業生ではないが、江崎玲於奈、湯川秀樹、朝永振一郎の三氏はいづれも三高の卒業生である。福井先生は燃料化学の教授であったが、周知のように先生の受賞対象はフロンティアエレクトロン理論であって、直接石油化学とは関係のない量子力学関係のものである。私が思うのに恐らく京大でなかったら、燃料化学教室教授の福井先生の研究すべき領域とは直接関係のない領域として、先生の研究は他の先生方の近視眼的な非難こそ受け、その研究を奨励するような雰囲気は期待できず、逆に潰そうとする圧力さえ働いたのではなかったかと思われる。事実そういう空気は京大といえどもなかったわけではなかったようで、工業化学の御大、喜多源逸(明治36年・三高二部工卒)を頂点とする自由な考えをする人達の温かい庇護応援がなかったら福井先生のノーベル賞は生まれなかったであろう。喜多先生は独創性を重んじられ、その研究室からはユニークな研究者が数多く育っていった。大正15年卒桜田一郎のビニロン発明は、繊維化学科創設を導き、昭和3年卒児玉信次郎の合成石油研究の成功は燃料化学科の創設へと展開した。福井先生も喜多門下で昭和16年の京大卒業生である。三高卒業の喜多が生み出した雰囲気こそ京大工学部が他の大学の持ち得なかったものであり、ノーベル賞を生み出す根元であったのだろうと思う。後に原子核工学科に移った理論物理学の荒木源太郎を、工業化学科の教授として迎えたのも喜多であった。

2012年ノーベル生理学・医学賞を受賞した京大教授山中伸弥は府知事との対談の中で「京都大学の校風は自由ですし,枠にとらわれず、研究者同士が干渉しません」「日本人のノーベル賞受賞者が私で19人目なんですが,11人が京都にゆかりのある方ですね。これは偶然とは思えない、何かがあるのは間違いないと思います。」と述べている。(きょうと府民便り第381号2013.1月所載)

その功罪はともかくとして、いまから半世紀くらい昔は京大教授の選考に当たっては、その人が三高の卒業生かどうかが問題にされた教室さえあった。この事は半ば怒りを込めて語った知人を通じて知ったのであるが、この考え方も学問のグローバル化と、何よりももはや三高卒業者のいない現状の前に消滅した。時勢のいたすところ、かっての京大の持っていた論文の数よりも「自由さ」「独創性・創造を評価する」姿勢を失わせ、他の大学とくらべて際だっていた政治からの独立性、学問に於ける自由性、独創性を失わせてしまっているのではないかと私は思っている。京大の人達がいまの方向を前進とさえ思っている愚かさを想わずにはおれない。京大が三高の持っていた伝統から離れた方向を辿るとき、京大らしさが失われ、学問の自由な前進と実りを失って行くであろうと私は危惧している。三高のなくなった現在、三高で育ってきた人材に京大の学風をリードさせることは不可能であるが、京大で仕事をしている人達は、京大とは何なのか、東大や他の大学とその精神において何が違うべきなのかをぜひ考え、三高の中に生きていたものを検討し、再確認してもらえないだろうかと思う。そうして学問・研究の中にそれを実証して国の内外に問うて行ってほしいものだと敢えて申し述べる。

2010年12月27日京大は新しいリーディング大学院の構想を発表した。運営次第では三高の精神を生かすことも出来るだろう。何よりも戦後否定し続けられたエリート教育を復活させ、社会をリードする教育を意図したところに同感するものを覚える。
「紅萠」(くれなゐもゆる)とは京都大学広報誌の題名である。ここに京大と三高の一体感があって、嬉しく思う。

 

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