4.思い出の三高 |
入試の思い出
私は戦争中最後の入学で、中学校からの推薦が重視されたから、入学試験は比較的簡単なものであったと思う。この歌の中に出てくる「月」について説明せよというのが、国語の試験に出ていた。数人の先生方の面接もあり、紫外線と赤外線ではどちらが波長が短いかと質問された。 |
![]() 入学まで--昭和20年春の特殊事情
1月31日付で入学許可書が発送されたが、例年なら「直ちに」されるはずの入学手続きも3月31日迄でよく、入学式も追って通知すると書かれていた。同時に「入学者心得」、「注意」も送られた。「入学者心得」には、3月31日迄にしなければならないことが、注に示したようにいくつか書かれていたが、殊に入学金はその日までに納入しないと入学許可取り消しということであった。しかし、手元にある私の領収証書の日付は5月2日になっている。5月31日付の領収証は前期分授業料50円、報国団入団費10円と報国団費前期分7円50銭のものであり(物価水準の目安として書くと、当時私たち中学生の動員の報酬は一ヶ月30円で、一般勤労者から強制徴用された徴用工で月収80円程度であった。従って授業料前期50円というのは現在の水準で15万円程度というところだろう。絹織物関係の会社に勤めていた父はもはや会社自身が休業状態にあり給料も半失業者同様であったから、この50円の工面さえなかなか大変だったと思う。帽子は正規のものとの連絡が来ていたから、熊野を少し上がったところにあった山本帽子店に米だったか小豆だったかを算段して制帽を求めに行ってくれた父を思うと今更ながら篤い感謝の気持ちがこみ上げてくる。入学式に何を着ていったかの記憶はないが、制服も売っていなかったかと思う。その後、私は妹に助けてもらって家にあった大きな木綿の風呂敷を真っ黒に染め、これをわたしの体型に合わせて型紙を作り、それに合わせて裁断し、自分でミシンで服に仕立てた。あまりにも体型に合わせたものだから着てみるとすごく窮屈だったが、これを着て登校した思い出がある。)、授業料領収書が「昭和20年度学校特別会計」「経常」「直轄諸学校」「諸収入」という分類になっているのに報国団関係は「昭和十九年度」となっているのは少々首を傾げたくなる。報国団費7円50銭は納入通知書(発行日付は書かれていない)によると、7月から9月までの3ヶ月分である。入学式通知は5月22日付で本人と父兄のそれぞれに送られ、昭和20年7月1日午前8時から行われた。 |
![]() 空襲に遭う
北の方角からやってきた米軍機はこの日は航空機用のスーパージュラルミンを作っていた住友金属も主要な攻撃目標であったようで、まず工場の外に何発かの爆弾を断続して落としていった。ついで、笊から小石をぶち空けたときのようなザアッと言う音がし始めたかと思うと、内臓がえぐり出されるような感覚と共に体全体が壕の中で飛び上がる。この様な経験を何度か味わう内に静かになり、誰かが外を覗いてもう終わったと言うので出てみると、壕の側にあった高射砲陣地は兵士もろとも跡形もなく、壕と寮の間には爆弾の炸裂による大きな穴が開いていて、既に海水が上がってきていて池が出来ていた。大量の爆弾が正確に工場内に投下されたらしく、大きな火の手が上がり、建物の鉄骨は飴のように曲がっているのが見えた。1週間ほど前、工場に来て、説明を受けた工場の幹部の人たちも恐らくみんな死んだのだろうと思った。三高生が全員無事だったのは、まさに奇跡的な出来事であった。あの海水のような汁を飲まないで帰れるという喜びの感覚もこみ上げてきた。
罹災証明を見せると無料で乗り物を利用できた。四条大宮から市電に乗ると、ご婦人が二人、「今日はエエ(注:良いと言う意味)お天気ドスな」とのんびり話し合っており、昨日の大阪の地獄絵図が遠い国で見た夢のようでもあった。
それからまもなく戦争は終わった。その日は奇しくも、次の動員先堅田へ行くための準備に三高に集まる日であった。グランドに集まった私たちに励ますように生徒主事 大城富士男教授が、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」を読むことを勧められ、また諸君は精神的な貴族であると言われたのが印象に残る。戦争に敗れても矜持はもてというお気持ちだったのであろう。
戦争が終わったと実感したのは、その夜から覆いをしないで電灯を点けられるようになったことと、街で“もんぺ”姿でないスカートを着けた女性の姿が見られるようになったことだった。 |
![]() 「激」
![]() ![]()
![]() ![]()
![]() ![]()
![]() ![]()
![]() ![]()
![]() ![]()
![]() ![]()
![]() ![]()
2012年ノーベル生理学・医学賞を受賞した京大教授山中伸弥は府知事との対談の中で「京都大学の校風は自由ですし,枠にとらわれず、研究者同士が干渉しません」「日本人のノーベル賞受賞者が私で19人目なんですが,11人が京都にゆかりのある方ですね。これは偶然とは思えない、何かがあるのは間違いないと思います。」と述べている。(きょうと府民便り第381号2013.1月所載)
|