§古い同窓会誌から

同窓会報 77 「島田 叡氏のこと」 山本 英二(1993)

戦前最後の沖縄県知事島田 叡(あきら)氏は三高の卒業生であった。氏は兵庫県出身。旧制神戸二中(現兵庫高校)には島田の記念碑が沖縄の空に向かって建つ。前任知事が出張して帰任しないので昭和20年1月知事に発令された。単身で赴任し、県民の食糧確保のために台湾に出かけたり老人や子供の避難策に奔走。米軍上陸後は防空壕で職務を続け、戦争が最終段階に来たときには部下に解散を命じ生き抜くように指示した。戦闘終期に沖縄南部で消息を絶つ。『沖縄の島守』と今も慕われている。氏のことについては会報7に四天王寺管長出口常順氏の記事もあるが、この山本氏の記事が詳しいので採らせていただいた。


太平洋戦争も末期となった昭和20年の正月だったと思う。中学生の私が通っていた軍需工場も、原料不足で操業が途絶えがちに成り始めていた。ある朝、父が母に、今夜客がある、泊まっていくかもしれないと言っているのを聞いた。夕方、島田さんという客が見えた。父の三高の後輩ということで、名前も聞いたことがあり、二〜三回、お目にかかっていたのか、お顔に見覚えがあった。母が貧しいながらのご馳走を作り、とっておきの日本酒をお燗して勧めていた。しばらくはにぎやかな笑い声もあったが、母が父にこれからは大事な話があるから、来るなといわれたらしく、座敷の障子を閉めて、居間に帰ってきた。それから何時間くらいたったか、わからない。私はいつものように寝てしまい、明朝起きたときは、島田さんはいなかった。
その日の夕食の時だったか、父が母に「島田は死ぬ気だ」とぽつりと言った。母は「なんで、三高の人がそんなあほなことを・・・・・」とつぶやいたのを覚えている。父は一言も答えなかった。島田さんが沖縄に行くということは、うすうすわかった。母は”三高出の賢い人"がわざわざ危険な所に行く事を、解せなかったにちがいない。父は詳しい情勢と、島田さんの決心を聞いたにちがいない。或いは、止めたのかも知れなかった。

その後、動員や夜の補習の厳しさに紛れて、島田さんのことは念頭になかった。沖縄に米軍が上陸をした時、島田さんを思いだしたが、知事だからうまく脱出できるのではと、思ったりした。父も母も島田さんのことはあれ以来、一切口にしなかった。


本年は沖縄返還二十周年ということであり、来年のNHK大河ドラマは沖縄王朝の物語だという。

三高の方々は十分ご承知と思うが、琉球はかって三百年続いた独立王国であった。

「断るまでもなく、沖縄は沖縄だけの独自の歴史をもっている。沖縄は建国以来、慶長十四年(1609年)薩摩によって攻略征服されるまで、完全な独立国であった。中国皇帝の册封を受け、進貢(ちんくん)と称して中国へ朝貢する船は実際は貿易船で、その貿易の利益は莫大なものであった。・・・・・・当時の沖縄は、中国への進貢貿易ばかりでなく、マライからタイ、遠くはジャワ、スマトラまでも貿易船を出し、したがってその財政は実に豊かであった。その頃の那覇はまったくの国際都市で、中国、日本はもちろん、南海諸国の貿易船が集まって、まことに殷賑をきわめたものである。
/そういうわけだから、沖縄人は外国人に対して常に誠実であった。沖縄が国内から武器を撤廃して平和国家を宣言したのは、実に十六世紀の初頭、国王尚真の時代であった。この平和宣言は、沖縄の歴史をつらぬく大きな誇りであると同時に、また沖縄の歴史の悲劇の発端にもなるのである。というのは、沖縄の海外貿易による豊な財政に、常に垂涎していたのは薩摩であった。沖縄が国内から軍備を撤退してから約一世紀、慶長十四年に薩摩はこの平和国家に、無法にも三千の兵を送って、沖縄を攻撃したのである。
/軍備のない沖縄は、とうぜん薩摩の暴力に屈服するほかはなかった。それ以来、沖縄には薩摩の圧政と搾取の歴史が始まるのである。しかし、薩摩の沖縄攻略は進貢と称する中国貿易の利益を奪うのが目的であったから、その進貢を続けさせるために、薩摩は沖縄に独立国としての体面だけは残してやることにした。その搾取が明治十二年の琉球処分までつづいたのだから、沖縄人にとって、中国は与える国であり、薩摩は奪う国であったことはいうまでもない。・・・・・
その後、明治十二年になって、日本政府は沖縄は完全な日本領土にするために、琉球処分と称して中国に対する册封と進貢を禁止した。つまり沖縄は、中国からの経済援助を禁止された上に、日本政府による苛酷な国税の徴収が、ついに沖縄県をして、「蘇鉄地獄」といわれる経済破綻を招く結果になったのである。そしてさらに、今時大戦における暴力と破壊は、二十万人に近い沖縄人の生命を奪い、地上のあらゆる経済と文化が、形あるものはすべて破壊し尽くされた。考えると慶長十四年の薩摩の侵略以来、沖縄の歴史はすべて日本本土のための犠牲の歴史である。」(沖縄史の発掘 山里永吉著 潮新書)


長い引用であったが、内容を批判する力は私にはない、しかし沖縄人の気持ちが、歴史を通して十分現れている。こういう沖縄の、最大重要場面に、島田知事は赴任したのである。「明治30年頃までの沖縄人は、決して自分たちが日本人であるとは思っていなかった。・・・・・・沖縄の一般庶民が自分たちは日本人であるという自覚をもつようになったのは、日清戦争以後の教育の力である。」悪いことに、明治政府は琉球の最後の王、尚泰王を「明治12年から死ぬまで(明治34年)東京に軟禁した」(上記書)のである。沖縄人を信用してなかった証拠であった。島田知事の頃にも、そういう古い沖縄人がまだまだいたことであろう。その中で、島田知事の評判は光っていた。

「沖縄県政66年の特質を“ある皇民化の過程”として要約することもできよう。その間、官選知事二十七代のうちには、さまざまの人がいて、それぞれの流儀でこの”皇民化”を推進した。皇民化教育という、この奇妙な押しつけがましい哲学は、知事の個性差によって、さまざまの色合いを見せたが、皇民化の最後の総決算が沖縄戦における県民の悲劇であるとすれば、県知事のそれへの向かい方として、われわれは二人の対照的な典型をもった。二十六代 泉守紀と二十七代 島田叡とである。

/1944年1月1日に就任した泉知事は、サイパンが失陥して以来、ふくらんでくる不安感のただ中に、2月末(12月の間違いか−−引用者)ついに出張名目で離県し、そのまま香川県知事へ転じた。

/沖縄戦は時間の問題だとされていた。後任知事に対する心ある県民の希求は@県庁職員の陣頭指揮者としての智と勇を備えた人物であり、A沖縄軍司令官と官等級で同級の知事であること、ということであった。政府でもこのことは人選の基準として持っていたにはちがいないが、もう一つ内務省の悩みは、後任知事が“死地に赴く”運命をになっているということであった。そして第一候補者に大阪府内政部長島田叡をあげ、断られたときの用意にあと二〜三名を考えていた。しかし、島田はあっさりと引き受けた。政府も驚いたが、もっとも強い衝撃を受けた家族へ、島田は言った。“おれは死にたくないから誰かやればいいじゃないか、といえるものではない。”1945年1月31日、島田は文字通り単身、随員も連れずに、トランクの中に拳銃2丁と『大西郷遺訓』と『葉隠』とを持って、着任した。

/臨戦知事の任務は軍との絶対の協力態勢のもとに、人口疎開と食糧確保を重点として、県民に不安を与えないことであった。一〇・一〇空襲のあと、県庁は焼け残っていたにもかかわらず、前任知事は県庁を普天間に移していた。これをまず本来にもどして、士気を引き立てた。人口疎開については、前任知事が消極的であったのと逆に、人口課を新設して積極的に推進した。そして、食糧不足が予想されたので、知事自ら危険を冒して台湾に飛び、米三千石の移入交渉に成功した。/四十六才であった。

学生時代は小説家志望だったともいうが、神戸二中、三高では野球部の名遊撃手で、仲間たちから人間的に慕われる存在であった。役人になっても、形式より実際を尊び、上司とも必要とあれば臆せず口論し、いわゆる役人らしくない役人であった。秀才組の官僚のよくもちえない勇気を持って、死地赴任をひきうけた。(中略)軍とはきわめて親密に協調的であったが、たとえば県外への学童疎開については、次の世代を確保するために軍の反対をおして強行し、戦線に敗色が濃くなって軍が首里放棄を決定し、住民に南下を命じた時は、それがつまりは戦線を拡大し県民の犠牲をいよいよ大きくするものだとして、反対した。真意は停戦の提唱にあったようである。

/県民の心の平和を維持することを着任早々から考えていた。着任後まもなく税務署と専売局出張所を訪問して、酒、たばこを広く県民へ特配することをはかり、荒井警察部長に風紀取締りを止めるように指示し、村芝居の復活を考え、地方行脚をして、農家の酒宴にも加わった。県政六十六年のあいだに染みついた他県人治政の冷たさが一挙に吹き払われるようであった。

/赴任したとき“皆さん、一緒に死にましょう”といったとも伝えられるが、それはおそらく誤伝である。自分は死ぬ覚悟でだったが、県民は一人でも多く生き延びさせることを考えた。県政が事実上総崩れになったあとも数人の部下職員が、“この知事とともに”とついてきたが、そのひとりびとりを説得して戦線を離脱せしめた。ある壕のなかで、ある県庁幹部が、県民すべて竹槍を用意して斬り込み玉砕の用意をせよと命令を流したとき、島田はその命令を受けた人たちを呼んで、“絶対にその命令を聞く必要はない”と、強く止めた。(中略)

/彼の死については、つまびらかでない。牛島中將の自決は六月二十三日で、これを戦争終結の日としているが、それから暫くして入水したとも伝えられる。陸上で屍をさらして、人に迷惑をかけたくない、とつねづね漏らしていた。」(近代沖縄の人びと 新里・大城著 琉球新報社編 太平出版社)

上記「近代沖縄の人びと」には104名の人物が紹介されているが、官選知事の27名のうち、初代鍋島、二代目上杉は沖縄に貢献したらしい。三代目の奈良原は業績があったものの、評価はまちまちである。それ以外の知事は島田以外、一切紹介されていない。


現三高同窓会関東支部長の藤林さんは、かって琉球大学に集中講義に行かれたことがある。そのときの話を紹介する。
「私は昨年沖縄へ来たときに、南部の戦跡へ行きまして、たまたま私の三高の先輩が、沖縄戦当時の知事として、ここで果てた記念の碑を見てきたのです。(中略)島田叡という人のことです。この沖縄本島が米軍の攻略を受けたとき、この地に果てた知事です。誰も知事になる人がなかったという話です。しかし、島田さんはここで命を落とすことを覚悟で、家族を郷里に置いて赴任した人だということです。(中略)その方の運動部の仲間や後輩が、歌を作って石碑を建てたのです。

島守りの塔にしづもるそのみ魂
紅萌ゆるうたをききませ

皆さんにはわからないかもしれませんが、“紅萌ゆるうたをききませ”というのは、"紅萌ゆる丘の花"といううたい出しの私の高等学校の寮歌があるのです。歌って聞かせてもよいのですが。(中略)この石碑を見ましたときに、私は非常な感動を覚えました。不思議なことですが、これだけでも沖縄が近くなったという気がしたのです。

藤林さんは六日目の最後の講義が終わったところで、約束を果たされた。ただ“紅もゆる”でなく、「紅もゆるという歌は大変むつかしい文句を使ってますので」加藤登紀子さんがうたった“琵琶湖周航の歌”を「六番まで全部」歌ったのである。琉球大学垣花教授の注によると、(先生が歌を歌い始めると教室はシーンと静まりかえった。先生の歌声は、『知床旅情』をうたう森繁久弥のようにしぶくて太く、聞くものの心にしみこんでいく。)とあり、(先生が歌い終わると受講生一同は我を忘れたかのように、万雷の拍手を送った。感動の余韻が、長く教室を包んだ。)島田さんはこの光景を天から見ていたであろうか。

三高の誇るべき人は多々ある。その中にあって、島田さんのことは、世間では遠い昔のことのように、忘れ去られようとしているような気がする。
私はたった一晩の想い出であるが、私の家に一泊されて、沖縄に発たれた島田さんの面影を一生忘れないであろう。そして、父の後輩で私の先輩の島田さんを大変誇りに思う。
今後さらに、沖縄の正しい歴史を認識するとともに、島田さんが死を以て果たしたすばらしい役割を、語り伝えて行きたいものだ。 (昭25・文丙)

(注)(2003年5月記)元読売新聞記者 田村洋三氏が「沖縄の島守内務官僚かく戦えり」を中央公論新社から出版された。(¥2,800)島田叡知事と島田を支えて共になくなった警察部長荒井退造についての記録である。

(2012年6月23日記)沖縄慰霊の日に当たる今夕、毎日新聞夕刊に“「最後は投降を」知事の言葉胸に”という記事が掲載された。引用させていただく。

(2014年8月10日記)敗戦から69年、朝日新聞デジタルに“沖縄球児、戦時の「島守」知事しのぶ 母校・兵庫高訪問”という記事が掲載された。引用させていただく。

(2014年9月27日記) 島田叡氏の足跡しのぶ 那覇に顕彰碑建立 最後の官選知事

という記事が掲載された。引用させていただく。

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同窓会報 7 「林 茂久先輩のこと」 大岩 泰(1955)

三高を終生愛したのは卒業生だけでなく、多くの市民が三高を誇りに思い、生徒を愛し、支えた。この記事にはその片鱗が描かれている。林さんは、正に三高の伝統を身を以て後輩に伝えようとされた方であり、その次に描かれている氏家さんは三高を心から応援してくれた街の親分であった。その頃は京都の各地域に親分がおり、夜店や、祭の差配を司っていたものである。林茂久氏についてはモクさんもご覧いただきたい。 最後の藤田菊次氏とはかの賄征伐の歌に登場する“阿彌陀(アミダ)”その人である。 


「一高三高野球戦史」を読みふけって、ふと気づくと時計はもう真夜中を遙かに廻っていた。感銘が胸にこみ上げてきた。そして自分も数々の、今なお。僕の生命の内に脈々と鼓動している魂の感動を書き綴って見たくなった。諸先生や既に鬼籍に入っておられる諸先輩への感謝の気持ちをこめて・・・・


林茂久先輩のこと

三高三年の生活でもっとも大きな感銘を受けたのは林茂久先輩だった。
雨が降っても、照っても、必ず一日に一度は、三高に姿を見せる林茂久先輩の姿は、そのまま三高伝統の権化であり、伝統精神の雰囲気に触れる思いがした。

我々が帽子をとって挨拶すると、きまってくわえておられたパイプをはなして丁寧に、返礼されるのは「三高生の一人一人を立派な人格として考えている・・・・」茂久老のたくまざる現れだったのであろう。
功なり名遂げて、悠々自適されておられた茂久老の温和な顔容の内には、射すくめるような眼光が一際光彩を放っていた。

新入生にとって最初の感激である自由寮の入寮式の歓迎会の席上、一先輩として登壇された茂久老は、「諸君は美男子であるかもしれぬが、好男子ではない。諸君はこの自由寮三年の生活を通し、三高の伝統の精神に培われて生まれ変わるのだ。・・・・・」と前置きされて、「張胆明目」の講義を諄々として説かれた感銘は未だに忘れ難い。後年僕は大学で冶金学を修め、金属の組織を顕微鏡写真で写し出して、はからずも、この茂久老の言葉をまざまざと想いだした。
鉄鋼をわずか、二〜三百倍に拡大しただけで金属の相は、その組成から履歴まで、寸分のまぎれもなく厳然として写し出されるのである。ましてや人間に於いて・・・・・。僕は言葉や、地位を絶した人間の持つ絶対性、人間の厳粛さを痛烈に感銘したのであるが、この人間の底に横たわる絶対的な尊厳さを最初にはっきりと教えてくれたのが林茂久大人であった。この感情は、あの長い戦争の期間を通じて生死の間を彷徨し、幾多の異民族の赤裸々な断面に触れて、しかもこれらのすべてを超えた動かすべからざるものとして感銘されてくるのである。

これは一年のときの自由寮の秋の紀念祭のときだったと思う。森総校長を目の前にして、登壇された茂久老が、「・・・・もとの溝渕(注 溝渕進馬校長 三高の卒業生からの初めての校長。昭和六年から十年逝去されるまで在任。後任が森総之助(愛称モリソウ)教授)は偉かったが・・・・」と開口一番されたのには、寮生も少なからず度肝を抜かれた。我々寮生は、誰もが森校長に三高らしい親しみと愛着とを感じていたのだから。ただ茂久大人は人間鍛錬の厳粛さに於いて森校長にもの足らぬものを感じておられたのかも知れない。昭和二十二年五月、僕が復員直後にお伺いしたときにも、林茂久老は、
「三高の校長は生徒が校長を訪ねて、心服し感銘を受けて帰る人物でなければならぬ。校長としての仕事とともに、生徒を教育しうる人物であることが大事だ」
とも語られ、
「わが輩は大正六年から三高を見ているが、全く今昔にたえない。三高伝統の気風は失われた。日本の現状はこれでは駄目だ。いまの情勢を反動というなら、さらにこれに対して反動がなければ駄目だ」
とも語られた。
「溝渕が生きていたら、それもできるかも知れない。溝渕は母校に最後の御奉公をするつもりで身命を賭していた。三高出身者でなければこの気持ちは分からない」(中略)
「三高の気風とは、三高生は常に三高生であることを忘れないことだ。この誇りを忘れないことだ。ゾウジテンパイにも三高生ということを忘れないことだ。この気風が望ましい。威張っていなさいというのは傲岸でいいと云うのではない。矜持をもちなさいということだ」(中略)

この二十二年五月にお訪ねしたのが、林茂久大人にお会いした最後になってしまったが、あの戦後の物資の乏しい時期で、ちょうど買ってこられたばかりの煮干しを一緒に囓りながら、話は七年前と少しも変わらない何度も聞き古したことだったが、言葉には言い尽くせぬ感銘に触れるのだった。

野球の話になると話は尽きない。
「我々のときの野球はグローブをもっていたのは、バッテリーと一塁手のみだった・・・・」から
「三高の野球は技は問題でない。気力の充実した立派なものであってほしい。三高の風格が、にじみ出るような野球でありたい。三高野球部が親しまれたのは、その風格であった。グラウンドを圧倒する風格がほしい・・・・」
それから例の三高−一高野球戦の晩に、「本日のところは私にお任せ願いたい・・・・・」と野球部選手を警察に貰い下げに行った話をされるのだった。

一高戦といえば、僕が三高一年生のとき、庭球部の合宿に参加し、一高戦を目前に控えて炎熱のコートに練習を繰り返していたときのことを思い出す。日も暮れ果てて、ボックスで休んでいると、林茂久老が現れ、
「・・・・禅で、“蝉の音を消せ”・・・・・という命題が与えられる。“蝉の音は消える”・・・・」
と話されたことがある。数日後、三高−一高両応援団の怒号の中で私はふと林茂久老のその言葉を思いだした。

惰容を容赦しない峻厳さの内にも林茂久先輩の人柄には言いしれない暖かみがこもっていた。僕が三年生のとき、一年生として入寮した者の内に函館中学から来た阿部鏡太郎君がいた。入学式の直後の身体検査で胸部疾患を宣告され入学取り消しになるかも知れぬという話があった。その日の夕刻、僕は、茂久先輩の呼び出しを受けた。
「大岩君、せっかく入学できて既に一日でも寮生となった者が、退学になろうとするのを君達は黙って見ているのですか」
と叱責された。

幸い、阿部君は一年休学ということで、三高の帽子をかぶったまま「紅もゆる・・・・」に送られて、京都駅から北海道へ帰ったが、あのときの林茂久先輩の愛情をしみじみと思い出す。

それからあの戦時中、紀元二千六百年祭の当時。林茂久老はしきりと、
「・・・・記念樹を植えておき給え。私は今でもときどき大学構内にあるクスノキを訪ねる・・・・」
と私に奨められた。生徒総代会の決議として提案された記念植樹が十五年秋に、尚賢館の左手に紀元二千六百年の記念樹として植樹されたが、戦後、南方の野戦から復員して初めて三高を訪ねたとき、私は尚賢館の庇までとどくほどに生長した記念樹の傍らにしばし立ち止まって、言い知れぬ感銘を深くしたものでした。

林茂久先輩は、私がもっとも尊敬する人物である。私の一生の目標は林茂久先輩のような人物となることである。社会的な地位や名声は好運と機会に恵まれれば得られるかも知れない。しかし人間の絶対的な価値、偉大さは、好運によっては得られない。
大正六年から数えてほとんど三十数ヵ年間にわたって幾多の三高生に、三高の伝統精神を身を以て伝えた林茂久老はおそらく、もっとも幸福なもっとも生き甲斐のある一生を過ごされた人だろうと思う。「五十才までに世間の仕事はしてしまって、それから後は茂久老の後半生の生涯にならいたい」これが今の僕のもっとも大きな念願であり、理想でもある。


氏家親爺のこと

  我々が入学してまもなく、当時の応援団長だった池田正巳や副団長の柴萬三郎、三年の幹部の松岡怪物、井上金時、池田庸之助らが桜の花の散る中庭の校庭で白線三條のまだ真新しい新入生に活を入れる演説をやっていた。その大太鼓の傍らに、“ひげ”の人相卑しからぬ親爺が、三高の金色のメダルを腰間に輝かして悠然として立っているのが、新入生の我々には異様だった。この親爺こそ三高応援団にとっては、“主”ともいうべき氏家親爺であった。

京都北白川地区の親分と聞いていたが、三高-一高の対校試合には、子分を引き連れて、グラウンドの設営から太鼓の借り出しから輸送配置まで、事細かく面倒をみてくれるのが常であった。年毎に幹部の改まる応援団にとっては、西京極、駒場、神宮いづれのグラウンドの地形の隅々までも熟知した氏家氏はかけがえのない存在だった。

三高の伝統精神と共に生き、そして奇しくも文字通り三高の終焉とともにこの世を去った氏家は、三高史上に忘れられない一人であるが、その最後はいかにも氏家親爺にふさわしい瞑目であった。
最後の三高−一高戦が行われた昭和二十四年夏、十七勝十七敗の最後を決する野球戦が東大球場で行われる日、氏家氏はこれが最後と部下の手勢を引き連れて東上してきた。数ヵ年間の戦争の空白の後に再開した我々はともに固く手を握りあって、再会を喜んだが、なぜか氏家親爺に往年の鋭気が見られなかった。それでも、子分を指揮して、グラウンドの設営に細かい気を配っていたが、顔はどす黒くくすんで張りがなかった。後で知ったのだが、氏家は、この時すでに胃ガンに侵されており、家人の止めるのを強引に振り切って東征してきていたのである。
この最後の歴史的な対校戦は、水上の快勝に、四部完勝の勝利を飾ったが、その晩、野球の応援に駆けつけた大西、船山、環、北村ら応援団幹部で本郷に集まった四部完勝の応援団祝賀の席上には、おそらく、現役の応援団幹部とともにグラウンド設営の最後の締めくくりをして来てくれたのだろう、氏家親爺も遅れて出席してくれて、ともに尽きせぬ感激を分かち合ったが、その席上応援団先輩有志で贈ったささやかではあったが四部完勝の記念品を、無上に喜んでくれたのも虫の知らせであったかも知れない。

その年の秋、三高が学制改革に伴ってなくなることが決定した最後の紀念祭に、私が上洛したとき、誰からともなく、氏家親爺が重体で入院していることを聞いた。一高戦から帰ると間もなく病状は急激に悪化したのだが、三高関係者の手によって京大病院に入院しているとのことだった。
いよいよ最後の紀念祭が行われるその朝、私は塚脇君と一緒に、病院に親爺を見舞った。
ベッドの上に横たわった親爺はほっそりとやせ細り、黒々とした“ひげ”と炯々たる眼光のみが往年の面影を残すのみであったが、涙を流して、自分から半身を乗り起こして、固い握手をしてくれた。そして誰それはどうしているとしきりに我々の消息を尋ね、先日は誰それが見舞ってくれたと嬉しそうに話すのだった。(中略)
氏家と固い握手を交わして辞し去ろうとした瞬間だった。
「まだ紀念祭の太鼓が響いてこない」
こうつぶやく氏家親爺の顔には沈痛な不安が横切っていた。大学病院の病棟までは、おそらく三高の太鼓の響きは届くまい。しかし氏家は確かに「最後の紀念祭」の太鼓の響きを聞いてくれたのだろう。

氏家が死んだのはそれから間もなくだった。

氏家親爺こそは、三高とともに生き、三高とともに死んだのだ。私は氏家の名前が同窓会名簿に名誉会員として載るときにこそ、同窓会名簿が本物になるような気がする・・・・・。

昭和十五年真夏の応援団の合宿のとき、物資の不足し始めた頃、快く我々の頼みを聞いて、みそ、その他をかき集めて寮の大広間で“闇汁”をやったこと。またこれはいつか大西団長が、いつか私に語っていたが、大西氏が満州から引き揚げてきた当座、薪から米まで世話してくれたとのことなど、氏家の美挙を数えたらおそらく際限はないだろう。

今も私は心から氏家親爺の冥福を祈念するのである。


〇寮の藤田氏のこと
 

藤田菊次(編者注:菊蔵が正しい)氏通称あみだ氏こそは我々自由寮生にとって忘れ得ぬ一人である。

自由寮の小使室のいろり端で、あるいは門衛の部屋の火鉢に手をあぶりながら、我々は、あみだ氏から早川さんは、板倉さんは、喜田さんは、西谷さんは・・・・・・と、昔の先輩の武勇伝や逸話を聞いたものだった。我々寮生は、あみだ氏を通じて、幾人もの見知らぬ先輩と結ばれ、三高の伝統の雰囲気に培われてきた。

乱暴で、わがままで、自負心が強く、横着だった我々の自由寮ではどんなにか、あみだ氏らに迷惑を掛けていたのだろう。しかしそれを嘗て一度もあみだ氏から愚痴として聞いたことはなかった。おそらくは、直感的に我々の底に流れているものを、母親のような愛情で温かく理解していてくれたのにちがいない。

昭和二十四年の四部完勝のときに、応援団として贈った、ささやかな記念品を率直に、喜んでくれたのも藤田氏だが、最後の紀念祭の日にホール二階で応援団のコンパを開いたとき紋付羽織で出てくれて、自己紹介とともに、三高の歴史を語ってくれたのもあみだ氏だ。氏家親爺とともに三高同窓会名簿に名誉会員として忘れられない一人である。(昭16・理甲卒)

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同窓会報 17 おでん屋のオッサン  勝島 喜一郎(1960)

三高を終生愛したのは卒業生だけでなく、多くの市民が三高を誇りに思い、生徒を愛し、支えた事は前の文章でも明らかだが、この記事にもその片鱗が描かれている。三高生もその好意に甘えてずいぶん悪いことをしたものだ。 


美留軒主人の喜寿祝いを十月二十五日盛大に行って同窓百八十余名から寄せられた記念品を贈った。ビリケンの喜びはたとえようもなく私共も亦嬉しかった。(編者注:ビリケンというのは三高生のよく利用した散髪屋美留軒の主人)

それにつけて思い出すのは大正八、九年の頃、三高の東門を少し下がり、東へ行く道のオアシスの筋向かいにおでん屋を営業していたオッサンの身の上である。彼は日露戦争の時に浅間艦乗り組みの水兵で、艦長は仁川沖の海戦に出動の際、甲板に全員を集めて「千鳥の曲」を尺八で吹奏して聞かせたという風流武人。其の八代提督に特に近かったというような話を、面白く語りながら実に気前よく三高生にうまいおでんをサービスしてくれた。そして勘定は絶対に催促しなかった。

もちろん大部分の三高生は支払ったのだが横着な数名、特に寄宿舎に巣くう不良連は、オッサンの厚意に甘えて支払いを何ヶ月分もとどこらし、中には学期末に帰省する旅費まで借り放しにした不届き者もあった、これがために店は繁盛しながら材料屋へ数百円の負債が出来て、みかねたオバサンが生徒に催促しようといっても、「ナニ最高教育を受けて将来立派に出世なさる方々だ。今にきっと支払って下さるよ」と言ってきかず、気前はよくても気の小さいオッサンは三高生と材料屋との板挟みになって苦しみ、神経衰弱になって入院してしまった。
その後オバサンが独りで細々と一、二年おでん屋を続けていたが、いつの間にか見えなくなってしまって、現在その店は果物屋になっている。

もちろんそんな悪いことをした連中はよかろう筈がなく、二年続けて落第して退校になったり、行方不明になったりしたようであるが、わたしの楽しい懐かしい三高生活の中でこのことだけが未だに気にかかる。オッサンはまもなく死んだそうだが、あのオバサンはその後どうなったろうか。

大正八、九年頃あのおでん屋で飲食した連中で、一度あのオッサンの追悼法要を行って、底抜けに三高生を愛した彼の霊を慰めてやりたいものだ。(大10・二甲卒)

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