太平洋戦争も末期となった昭和20年の正月だったと思う。中学生の私が通っていた軍需工場も、原料不足で操業が途絶えがちに成り始めていた。ある朝、父が母に、今夜客がある、泊まっていくかもしれないと言っているのを聞いた。夕方、島田さんという客が見えた。父の三高の後輩ということで、名前も聞いたことがあり、二〜三回、お目にかかっていたのか、お顔に見覚えがあった。母が貧しいながらのご馳走を作り、とっておきの日本酒をお燗して勧めていた。しばらくはにぎやかな笑い声もあったが、母が父にこれからは大事な話があるから、来るなといわれたらしく、座敷の障子を閉めて、居間に帰ってきた。それから何時間くらいたったか、わからない。私はいつものように寝てしまい、明朝起きたときは、島田さんはいなかった。
その日の夕食の時だったか、父が母に「島田は死ぬ気だ」とぽつりと言った。母は「なんで、三高の人がそんなあほなことを・・・・・」とつぶやいたのを覚えている。父は一言も答えなかった。島田さんが沖縄に行くということは、うすうすわかった。母は”三高出の賢い人"がわざわざ危険な所に行く事を、解せなかったにちがいない。父は詳しい情勢と、島田さんの決心を聞いたにちがいない。或いは、止めたのかも知れなかった。
その後、動員や夜の補習の厳しさに紛れて、島田さんのことは念頭になかった。沖縄に米軍が上陸をした時、島田さんを思いだしたが、知事だからうまく脱出できるのではと、思ったりした。父も母も島田さんのことはあれ以来、一切口にしなかった。
本年は沖縄返還二十周年ということであり、来年のNHK大河ドラマは沖縄王朝の物語だという。
三高の方々は十分ご承知と思うが、琉球はかって三百年続いた独立王国であった。
「断るまでもなく、沖縄は沖縄だけの独自の歴史をもっている。沖縄は建国以来、慶長十四年(1609年)薩摩によって攻略征服されるまで、完全な独立国であった。中国皇帝の册封を受け、進貢(ちんくん)と称して中国へ朝貢する船は実際は貿易船で、その貿易の利益は莫大なものであった。・・・・・・当時の沖縄は、中国への進貢貿易ばかりでなく、マライからタイ、遠くはジャワ、スマトラまでも貿易船を出し、したがってその財政は実に豊かであった。その頃の那覇はまったくの国際都市で、中国、日本はもちろん、南海諸国の貿易船が集まって、まことに殷賑をきわめたものである。
/そういうわけだから、沖縄人は外国人に対して常に誠実であった。沖縄が国内から武器を撤廃して平和国家を宣言したのは、実に十六世紀の初頭、国王尚真の時代であった。この平和宣言は、沖縄の歴史をつらぬく大きな誇りであると同時に、また沖縄の歴史の悲劇の発端にもなるのである。というのは、沖縄の海外貿易による豊な財政に、常に垂涎していたのは薩摩であった。沖縄が国内から軍備を撤退してから約一世紀、慶長十四年に薩摩はこの平和国家に、無法にも三千の兵を送って、沖縄を攻撃したのである。
/軍備のない沖縄は、とうぜん薩摩の暴力に屈服するほかはなかった。それ以来、沖縄には薩摩の圧政と搾取の歴史が始まるのである。しかし、薩摩の沖縄攻略は進貢と称する中国貿易の利益を奪うのが目的であったから、その進貢を続けさせるために、薩摩は沖縄に独立国としての体面だけは残してやることにした。その搾取が明治十二年の琉球処分までつづいたのだから、沖縄人にとって、中国は与える国であり、薩摩は奪う国であったことはいうまでもない。・・・・・
その後、明治十二年になって、日本政府は沖縄は完全な日本領土にするために、琉球処分と称して中国に対する册封と進貢を禁止した。つまり沖縄は、中国からの経済援助を禁止された上に、日本政府による苛酷な国税の徴収が、ついに沖縄県をして、「蘇鉄地獄」といわれる経済破綻を招く結果になったのである。そしてさらに、今時大戦における暴力と破壊は、二十万人に近い沖縄人の生命を奪い、地上のあらゆる経済と文化が、形あるものはすべて破壊し尽くされた。考えると慶長十四年の薩摩の侵略以来、沖縄の歴史はすべて日本本土のための犠牲の歴史である。」(沖縄史の発掘 山里永吉著 潮新書)
長い引用であったが、内容を批判する力は私にはない、しかし沖縄人の気持ちが、歴史を通して十分現れている。こういう沖縄の、最大重要場面に、島田知事は赴任したのである。「明治30年頃までの沖縄人は、決して自分たちが日本人であるとは思っていなかった。・・・・・・沖縄の一般庶民が自分たちは日本人であるという自覚をもつようになったのは、日清戦争以後の教育の力である。」悪いことに、明治政府は琉球の最後の王、尚泰王を「明治12年から死ぬまで(明治34年)東京に軟禁した」(上記書)のである。沖縄人を信用してなかった証拠であった。島田知事の頃にも、そういう古い沖縄人がまだまだいたことであろう。その中で、島田知事の評判は光っていた。
「沖縄県政66年の特質を“ある皇民化の過程”として要約することもできよう。その間、官選知事二十七代のうちには、さまざまの人がいて、それぞれの流儀でこの”皇民化”を推進した。皇民化教育という、この奇妙な押しつけがましい哲学は、知事の個性差によって、さまざまの色合いを見せたが、皇民化の最後の総決算が沖縄戦における県民の悲劇であるとすれば、県知事のそれへの向かい方として、われわれは二人の対照的な典型をもった。二十六代 泉守紀と二十七代 島田叡とである。
/1944年1月1日に就任した泉知事は、サイパンが失陥して以来、ふくらんでくる不安感のただ中に、2月末(12月の間違いか−−引用者)ついに出張名目で離県し、そのまま香川県知事へ転じた。
/沖縄戦は時間の問題だとされていた。後任知事に対する心ある県民の希求は@県庁職員の陣頭指揮者としての智と勇を備えた人物であり、A沖縄軍司令官と官等級で同級の知事であること、ということであった。政府でもこのことは人選の基準として持っていたにはちがいないが、もう一つ内務省の悩みは、後任知事が“死地に赴く”運命をになっているということであった。そして第一候補者に大阪府内政部長島田叡をあげ、断られたときの用意にあと二〜三名を考えていた。しかし、島田はあっさりと引き受けた。政府も驚いたが、もっとも強い衝撃を受けた家族へ、島田は言った。“おれは死にたくないから誰かやればいいじゃないか、といえるものではない。”1945年1月31日、島田は文字通り単身、随員も連れずに、トランクの中に拳銃2丁と『大西郷遺訓』と『葉隠』とを持って、着任した。
/臨戦知事の任務は軍との絶対の協力態勢のもとに、人口疎開と食糧確保を重点として、県民に不安を与えないことであった。一〇・一〇空襲のあと、県庁は焼け残っていたにもかかわらず、前任知事は県庁を普天間に移していた。これをまず本来にもどして、士気を引き立てた。人口疎開については、前任知事が消極的であったのと逆に、人口課を新設して積極的に推進した。そして、食糧不足が予想されたので、知事自ら危険を冒して台湾に飛び、米三千石の移入交渉に成功した。/四十六才であった。
学生時代は小説家志望だったともいうが、神戸二中、三高では野球部の名遊撃手で、仲間たちから人間的に慕われる存在であった。役人になっても、形式より実際を尊び、上司とも必要とあれば臆せず口論し、いわゆる役人らしくない役人であった。秀才組の官僚のよくもちえない勇気を持って、死地赴任をひきうけた。(中略)軍とはきわめて親密に協調的であったが、たとえば県外への学童疎開については、次の世代を確保するために軍の反対をおして強行し、戦線に敗色が濃くなって軍が首里放棄を決定し、住民に南下を命じた時は、それがつまりは戦線を拡大し県民の犠牲をいよいよ大きくするものだとして、反対した。真意は停戦の提唱にあったようである。
/県民の心の平和を維持することを着任早々から考えていた。着任後まもなく税務署と専売局出張所を訪問して、酒、たばこを広く県民へ特配することをはかり、荒井警察部長に風紀取締りを止めるように指示し、村芝居の復活を考え、地方行脚をして、農家の酒宴にも加わった。県政六十六年のあいだに染みついた他県人治政の冷たさが一挙に吹き払われるようであった。
/赴任したとき“皆さん、一緒に死にましょう”といったとも伝えられるが、それはおそらく誤伝である。自分は死ぬ覚悟でだったが、県民は一人でも多く生き延びさせることを考えた。県政が事実上総崩れになったあとも数人の部下職員が、“この知事とともに”とついてきたが、そのひとりびとりを説得して戦線を離脱せしめた。ある壕のなかで、ある県庁幹部が、県民すべて竹槍を用意して斬り込み玉砕の用意をせよと命令を流したとき、島田はその命令を受けた人たちを呼んで、“絶対にその命令を聞く必要はない”と、強く止めた。(中略)
/彼の死については、つまびらかでない。牛島中將の自決は六月二十三日で、これを戦争終結の日としているが、それから暫くして入水したとも伝えられる。陸上で屍をさらして、人に迷惑をかけたくない、とつねづね漏らしていた。」(近代沖縄の人びと 新里・大城著 琉球新報社編 太平出版社)
上記「近代沖縄の人びと」には104名の人物が紹介されているが、官選知事の27名のうち、初代鍋島、二代目上杉は沖縄に貢献したらしい。三代目の奈良原は業績があったものの、評価はまちまちである。それ以外の知事は島田以外、一切紹介されていない。
現三高同窓会関東支部長の藤林さんは、かって琉球大学に集中講義に行かれたことがある。そのときの話を紹介する。
「私は昨年沖縄へ来たときに、南部の戦跡へ行きまして、たまたま私の三高の先輩が、沖縄戦当時の知事として、ここで果てた記念の碑を見てきたのです。(中略)島田叡という人のことです。この沖縄本島が米軍の攻略を受けたとき、この地に果てた知事です。誰も知事になる人がなかったという話です。しかし、島田さんはここで命を落とすことを覚悟で、家族を郷里に置いて赴任した人だということです。(中略)その方の運動部の仲間や後輩が、歌を作って石碑を建てたのです。
島守りの塔にしづもるそのみ魂
紅萌ゆるうたをききませ
皆さんにはわからないかもしれませんが、“紅萌ゆるうたをききませ”というのは、"紅萌ゆる丘の花"といううたい出しの私の高等学校の寮歌があるのです。歌って聞かせてもよいのですが。(中略)この石碑を見ましたときに、私は非常な感動を覚えました。不思議なことですが、これだけでも沖縄が近くなったという気がしたのです。
藤林さんは六日目の最後の講義が終わったところで、約束を果たされた。ただ“紅もゆる”でなく、「紅もゆるという歌は大変むつかしい文句を使ってますので」加藤登紀子さんがうたった“琵琶湖周航の歌”を「六番まで全部」歌ったのである。琉球大学垣花教授の注によると、(先生が歌を歌い始めると教室はシーンと静まりかえった。先生の歌声は、『知床旅情』をうたう森繁久弥のようにしぶくて太く、聞くものの心にしみこんでいく。)とあり、(先生が歌い終わると受講生一同は我を忘れたかのように、万雷の拍手を送った。感動の余韻が、長く教室を包んだ。)島田さんはこの光景を天から見ていたであろうか。
三高の誇るべき人は多々ある。その中にあって、島田さんのことは、世間では遠い昔のことのように、忘れ去られようとしているような気がする。
私はたった一晩の想い出であるが、私の家に一泊されて、沖縄に発たれた島田さんの面影を一生忘れないであろう。そして、父の後輩で私の先輩の島田さんを大変誇りに思う。
今後さらに、沖縄の正しい歴史を認識するとともに、島田さんが死を以て果たしたすばらしい役割を、語り伝えて行きたいものだ。
(昭25・文丙)
(注)(2003年5月記)元読売新聞記者 田村洋三氏が「沖縄の島守内務官僚かく戦えり」を中央公論新社から出版された。(¥2,800)島田叡知事と島田を支えて共になくなった警察部長荒井退造についての記録である。
(2012年6月23日記)沖縄慰霊の日に当たる今夕、毎日新聞夕刊に“「最後は投降を」知事の言葉胸に”という記事が掲載された。引用させていただく。
(2014年8月10日記)敗戦から69年、朝日新聞デジタルに“沖縄球児、戦時の「島守」知事しのぶ 母校・兵庫高訪問”という記事が掲載された。引用させていただく。
(2014年9月27日記)
島田叡氏の足跡しのぶ 那覇に顕彰碑建立 最後の官選知事