三高を終生愛したのは卒業生だけでなく、多くの市民が三高を誇りに思い、生徒を愛し、支えた。この記事にはその片鱗が描かれている。林さんは、正に三高の伝統を身を以て後輩に伝えようとされた方であり、その次に描かれている氏家さんは三高を心から応援してくれた街の親分であった。その頃は京都の各地域に親分がおり、夜店や、祭の差配を司っていたものである。林茂久氏についてはモクさんもご覧いただきたい。 最後の藤田菊次氏とはかの賄征伐の歌に登場する“阿彌陀(アミダ)”その人である。
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「一高三高野球戦史」を読みふけって、ふと気づくと時計はもう真夜中を遙かに廻っていた。感銘が胸にこみ上げてきた。そして自分も数々の、今なお。僕の生命の内に脈々と鼓動している魂の感動を書き綴って見たくなった。諸先生や既に鬼籍に入っておられる諸先輩への感謝の気持ちをこめて・・・・
〇林茂久先輩のこと
三高三年の生活でもっとも大きな感銘を受けたのは林茂久先輩だった。
雨が降っても、照っても、必ず一日に一度は、三高に姿を見せる林茂久先輩の姿は、そのまま三高伝統の権化であり、伝統精神の雰囲気に触れる思いがした。
我々が帽子をとって挨拶すると、きまってくわえておられたパイプをはなして丁寧に、返礼されるのは「三高生の一人一人を立派な人格として考えている・・・・」茂久老のたくまざる現れだったのであろう。
功なり名遂げて、悠々自適されておられた茂久老の温和な顔容の内には、射すくめるような眼光が一際光彩を放っていた。
新入生にとって最初の感激である自由寮の入寮式の歓迎会の席上、一先輩として登壇された茂久老は、「諸君は美男子であるかもしれぬが、好男子ではない。諸君はこの自由寮三年の生活を通し、三高の伝統の精神に培われて生まれ変わるのだ。・・・・・」と前置きされて、「張胆明目」の講義を諄々として説かれた感銘は未だに忘れ難い。後年僕は大学で冶金学を修め、金属の組織を顕微鏡写真で写し出して、はからずも、この茂久老の言葉をまざまざと想いだした。
鉄鋼をわずか、二~三百倍に拡大しただけで金属の相は、その組成から履歴まで、寸分のまぎれもなく厳然として写し出されるのである。ましてや人間に於いて・・・・・。僕は言葉や、地位を絶した人間の持つ絶対性、人間の厳粛さを痛烈に感銘したのであるが、この人間の底に横たわる絶対的な尊厳さを最初にはっきりと教えてくれたのが林茂久大人であった。この感情は、あの長い戦争の期間を通じて生死の間を彷徨し、幾多の異民族の赤裸々な断面に触れて、しかもこれらのすべてを超えた動かすべからざるものとして感銘されてくるのである。
これは一年のときの自由寮の秋の紀念祭のときだったと思う。森総校長を目の前にして、登壇された茂久老が、「・・・・もとの溝渕(注 溝渕進馬校長 三高の卒業生からの初めての校長。昭和六年から十年逝去されるまで在任。後任が森総之助(愛称モリソウ)教授)は偉かったが・・・・」と開口一番されたのには、寮生も少なからず度肝を抜かれた。我々寮生は、誰もが森校長に三高らしい親しみと愛着とを感じていたのだから。ただ茂久大人は人間鍛錬の厳粛さに於いて森校長にもの足らぬものを感じておられたのかも知れない。昭和二十二年五月、僕が復員直後にお伺いしたときにも、林茂久老は、
「三高の校長は生徒が校長を訪ねて、心服し感銘を受けて帰る人物でなければならぬ。校長としての仕事とともに、生徒を教育しうる人物であることが大事だ」
とも語られ、
「わが輩は大正六年から三高を見ているが、全く今昔にたえない。三高伝統の気風は失われた。日本の現状はこれでは駄目だ。いまの情勢を反動というなら、さらにこれに対して反動がなければ駄目だ」
とも語られた。
「溝渕が生きていたら、それもできるかも知れない。溝渕は母校に最後の御奉公をするつもりで身命を賭していた。三高出身者でなければこの気持ちは分からない」(中略)
「三高の気風とは、三高生は常に三高生であることを忘れないことだ。この誇りを忘れないことだ。ゾウジテンパイにも三高生ということを忘れないことだ。この気風が望ましい。威張っていなさいというのは傲岸でいいと云うのではない。矜持をもちなさいということだ」(中略)
この二十二年五月にお訪ねしたのが、林茂久大人にお会いした最後になってしまったが、あの戦後の物資の乏しい時期で、ちょうど買ってこられたばかりの煮干しを一緒に囓りながら、話は七年前と少しも変わらない何度も聞き古したことだったが、言葉には言い尽くせぬ感銘に触れるのだった。
野球の話になると話は尽きない。
「我々のときの野球はグローブをもっていたのは、バッテリーと一塁手のみだった・・・・」から
「三高の野球は技は問題でない。気力の充実した立派なものであってほしい。三高の風格が、にじみ出るような野球でありたい。三高野球部が親しまれたのは、その風格であった。グラウンドを圧倒する風格がほしい・・・・」
それから例の三高-一高野球戦の晩に、「本日のところは私にお任せ願いたい・・・・・」と野球部選手を警察に貰い下げに行った話をされるのだった。
一高戦といえば、僕が三高一年生のとき、庭球部の合宿に参加し、一高戦を目前に控えて炎熱のコートに練習を繰り返していたときのことを思い出す。日も暮れ果てて、ボックスで休んでいると、林茂久老が現れ、
「・・・・禅で、“蝉の音を消せ”・・・・・という命題が与えられる。“蝉の音は消える”・・・・」
と話されたことがある。数日後、三高-一高両応援団の怒号の中で私はふと林茂久老のその言葉を思いだした。
惰容を容赦しない峻厳さの内にも林茂久先輩の人柄には言いしれない暖かみがこもっていた。僕が三年生のとき、一年生として入寮した者の内に函館中学から来た阿部鏡太郎君がいた。入学式の直後の身体検査で胸部疾患を宣告され入学取り消しになるかも知れぬという話があった。その日の夕刻、僕は、茂久先輩の呼び出しを受けた。
「大岩君、せっかく入学できて既に一日でも寮生となった者が、退学になろうとするのを君達は黙って見ているのですか」
と叱責された。
幸い、阿部君は一年休学ということで、三高の帽子をかぶったまま「紅もゆる・・・・」に送られて、京都駅から北海道へ帰ったが、あのときの林茂久先輩の愛情をしみじみと思い出す。
それからあの戦時中、紀元二千六百年祭の当時。林茂久老はしきりと、
「・・・・記念樹を植えておき給え。私は今でもときどき大学構内にあるクスノキを訪ねる・・・・」
と私に奨められた。生徒総代会の決議として提案された記念植樹が十五年秋に、尚賢館の左手に紀元二千六百年の記念樹として植樹されたが、戦後、南方の野戦から復員して初めて三高を訪ねたとき、私は尚賢館の庇までとどくほどに生長した記念樹の傍らにしばし立ち止まって、言い知れぬ感銘を深くしたものでした。
林茂久先輩は、私がもっとも尊敬する人物である。私の一生の目標は林茂久先輩のような人物となることである。社会的な地位や名声は好運と機会に恵まれれば得られるかも知れない。しかし人間の絶対的な価値、偉大さは、好運によっては得られない。
大正六年から数えてほとんど三十数ヵ年間にわたって幾多の三高生に、三高の伝統精神を身を以て伝えた林茂久老はおそらく、もっとも幸福なもっとも生き甲斐のある一生を過ごされた人だろうと思う。「五十才までに世間の仕事はしてしまって、それから後は茂久老の後半生の生涯にならいたい」これが今の僕のもっとも大きな念願であり、理想でもある。
〇氏家親爺のこと
我々が入学してまもなく、当時の応援団長だった池田正巳や副団長の柴萬三郎、三年の幹部の松岡怪物、井上金時、池田庸之助らが桜の花の散る中庭の校庭で白線三條のまだ真新しい新入生に活を入れる演説をやっていた。その大太鼓の傍らに、“ひげ”の人相卑しからぬ親爺が、三高の金色のメダルを腰間に輝かして悠然として立っているのが、新入生の我々には異様だった。この親爺こそ三高応援団にとっては、“主”ともいうべき氏家親爺であった。
京都北白川地区の親分と聞いていたが、三高-一高の対校試合には、子分を引き連れて、グラウンドの設営から太鼓の借り出しから輸送配置まで、事細かく面倒をみてくれるのが常であった。年毎に幹部の改まる応援団にとっては、西京極、駒場、神宮いづれのグラウンドの地形の隅々までも熟知した氏家氏はかけがえのない存在だった。
三高の伝統精神と共に生き、そして奇しくも文字通り三高の終焉とともにこの世を去った氏家は、三高史上に忘れられない一人であるが、その最後はいかにも氏家親爺にふさわしい瞑目であった。
最後の三高-一高戦が行われた昭和二十四年夏、十七勝十七敗の最後を決する野球戦が東大球場で行われる日、氏家氏はこれが最後と部下の手勢を引き連れて東上してきた。数ヵ年間の戦争の空白の後に再開した我々はともに固く手を握りあって、再会を喜んだが、なぜか氏家親爺に往年の鋭気が見られなかった。それでも、子分を指揮して、グラウンドの設営に細かい気を配っていたが、顔はどす黒くくすんで張りがなかった。後で知ったのだが、氏家は、この時すでに胃ガンに侵されており、家人の止めるのを強引に振り切って東征してきていたのである。
この最後の歴史的な対校戦は、水上の快勝に、四部完勝の勝利を飾ったが、その晩、野球の応援に駆けつけた大西、船山、環、北村ら応援団幹部で本郷に集まった四部完勝の応援団祝賀の席上には、おそらく、現役の応援団幹部とともにグラウンド設営の最後の締めくくりをして来てくれたのだろう、氏家親爺も遅れて出席してくれて、ともに尽きせぬ感激を分かち合ったが、その席上応援団先輩有志で贈ったささやかではあったが四部完勝の記念品を、無上に喜んでくれたのも虫の知らせであったかも知れない。
その年の秋、三高が学制改革に伴ってなくなることが決定した最後の紀念祭に、私が上洛したとき、誰からともなく、氏家親爺が重体で入院していることを聞いた。一高戦から帰ると間もなく病状は急激に悪化したのだが、三高関係者の手によって京大病院に入院しているとのことだった。
いよいよ最後の紀念祭が行われるその朝、私は塚脇君と一緒に、病院に親爺を見舞った。
ベッドの上に横たわった親爺はほっそりとやせ細り、黒々とした“ひげ”と炯々たる眼光のみが往年の面影を残すのみであったが、涙を流して、自分から半身を乗り起こして、固い握手をしてくれた。そして誰それはどうしているとしきりに我々の消息を尋ね、先日は誰それが見舞ってくれたと嬉しそうに話すのだった。(中略)
氏家と固い握手を交わして辞し去ろうとした瞬間だった。
「まだ紀念祭の太鼓が響いてこない」
こうつぶやく氏家親爺の顔には沈痛な不安が横切っていた。大学病院の病棟までは、おそらく三高の太鼓の響きは届くまい。しかし氏家は確かに「最後の紀念祭」の太鼓の響きを聞いてくれたのだろう。
氏家が死んだのはそれから間もなくだった。
氏家親爺こそは、三高とともに生き、三高とともに死んだのだ。私は氏家の名前が同窓会名簿に名誉会員として載るときにこそ、同窓会名簿が本物になるような気がする・・・・・。
昭和十五年真夏の応援団の合宿のとき、物資の不足し始めた頃、快く我々の頼みを聞いて、みそ、その他をかき集めて寮の大広間で“闇汁”をやったこと。またこれはいつか大西団長が、いつか私に語っていたが、大西氏が満州から引き揚げてきた当座、薪から米まで世話してくれたとのことなど、氏家の美挙を数えたらおそらく際限はないだろう。
今も私は心から氏家親爺の冥福を祈念するのである。
〇寮の藤田氏のこと
藤田菊次(編者注:菊蔵が正しい)氏通称あみだ氏こそは我々自由寮生にとって忘れ得ぬ一人である。
自由寮の小使室のいろり端で、あるいは門衛の部屋の火鉢に手をあぶりながら、我々は、あみだ氏から早川さんは、板倉さんは、喜田さんは、西谷さんは・・・・・・と、昔の先輩の武勇伝や逸話を聞いたものだった。我々寮生は、あみだ氏を通じて、幾人もの見知らぬ先輩と結ばれ、三高の伝統の雰囲気に培われてきた。
乱暴で、わがままで、自負心が強く、横着だった我々の自由寮ではどんなにか、あみだ氏らに迷惑を掛けていたのだろう。しかしそれを嘗て一度もあみだ氏から愚痴として聞いたことはなかった。おそらくは、直感的に我々の底に流れているものを、母親のような愛情で温かく理解していてくれたのにちがいない。
昭和二十四年の四部完勝のときに、応援団として贈った、ささやかな記念品を率直に、喜んでくれたのも藤田氏だが、最後の紀念祭の日にホール二階で応援団のコンパを開いたとき紋付羽織で出てくれて、自己紹介とともに、三高の歴史を語ってくれたのもあみだ氏だ。氏家親爺とともに三高同窓会名簿に名誉会員として忘れられない一人である。(昭16・理甲卒)
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