三高歌集

琵琶湖周航の歌

大正六年  小口太郎 作詞   大正四年  吉田千秋 原曲

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コントラバスの名手Gary Karrは自分で日本人の生まれ変わりだというほどの人で、演奏の中に“琵琶湖周航の歌”があります。紹介しましょう。次行の「流星」の絵をクリックしてしばらくお待ちください。この間にjavaが起動します。"Karr:琵琶湖周航の歌"とでましたら、左の方の三角形をクリックしてください。良い演奏ですね。


われは湖の子さすらひの
旅にしあればしみじみと
昇る狭霧やさざなみの
志賀の都よいざさらば


われはうみのこ さすらいの
たびにしあれば しみじみと
のぼるさぎりや さざなみの
しがのみやこよ いざさらば


松は緑に砂白き
雄松が里の乙女子は
赤い椿の森蔭に
はかない恋に泣くとかや

まつはみどりに すなしろき
おまつがさとの おとめごは
あかいつばきの もりかげに
はかないこいに なくとかや


波のまにまに漂へば
赤い泊火なつかしみ
行方定めぬ波枕
今日は今津か長濱か

なみのまにまに ただよえば
あかいとまりび なつかしみ
ゆくえさだめぬ なみまくら
きょうはいまづか ながはまか


瑠璃の花園珊瑚の宮
古い傳への竹生島
佛の御手にいだかれて
ねむれ乙女子やすらけく

るりのはなぞの さんごのみや
ふるいつたえの ちくぶしま
ほとけのみてに いだかれて
ねむれおとめご やすらけく


矢の根は深く埋もれて
夏草しげき堀のあと
古城にひとり佇めば
比良も伊吹も夢のごと

やのねはふかく うずもれて
なつくさしげき ほりのあと
こじょうにひとり たたずめば
ひらもいぶきも ゆめのごと


西國十番長命寺
汚れの現世遠くさりて
黄金の波にいざこがん
語れ我が友熱き心

さいごくじゅうばん ちょうめいじ
けがれのうつしよ とおくさりて
こがねのなみに いざこがん
かたれわがとも あつきこころ

私が底本に使った三高歌集−創立九十五周年記念では大正八年小口太郎作詞作曲となっているが、その後の諸研究の成果をふまえて、この私説では大正六年作詞 大正四年 吉田千秋 原曲とした。堀氏曰く“私が「湖国と文化」1980年夏号に「大正六年作詞と改めることを提案したいと考えている。大正六年とは最初の作詞年度と解すべきで、周航歌の完成はもっと遅れるとの見方も成立つ」と書いておいたのは、云々”(同窓会報68 堀(1988))。私もこの堀氏の考えに賛同する。
作詞者小口太郎は、明治30年8月30日、信州諏訪湖西岸の湊村(現長野県岡谷市湊)で生まれた。大正5年9月三高二部乙に入学した小口は、二部の代表クルーとしての練習、級友との漕艇行で琵琶湖に親しんだ。学年末、周航を楽しむのが二部クルーの慣例であった。

びわこ
この歌は大正6年6月末、小口ら7名が試みた三泊四日の周航の時に生まれた。小口が親友小玉博司に今津から送ったはがきの内容からも第一日目は大津三保ヶ崎から堅田を過ぎて雄松に至り、この地で泊まり、今津に泊まったのは二日目(6月28日)と思われる。三日目は彦根で泊まったのであろう。同窓会報93所載の山内(吉田)敬行の夏休みを利用した「琵琶湖周航の記」でも一日目は小松に泊まり、二日目今津泊となっている。三日目は「今日はこの竹生島から多景島を回って、彦根に行く予定」と書かれ、文中に「周航は四日間が普通の日限である」ともある。この今津の宿で、中安治郎氏が「小口がこんな歌を作った」と歌詞を部員に紹介したところからこの歌の歴史は始まる。中安氏他数氏も作詞に協力した。

歌詞には曲をというので、クルーの一人谷口謙亮が当時三高の中で流行っていた「ひつじぐさ」のメロディで歌って見たところ歌詞によく合った。小口自身は明治時代の小学唱歌「寧楽の都」にあやかる新曲を構想していたが、その後ひつじぐさのメロディが定着していった。歌詞と曲とのドッキングを試みた谷口の功績を忘れてはならない。

小口は卒業後東京帝大理学部物理学科に進み、三年在学中には「有線及び無線多重電信電話法」を発明し、各国の特許を得ている。東大卒業後は同大学の航空研究所に入ったが、徴兵検査後神経を昂じさせて病を得、研究所を退所、大正13年5月16日、26才の若さで逝った。病死と公表されたが、自殺である

小口について諏訪中学校で同級生であり親友であった小口大次氏は「彼の容姿は端麗、優雅、女性的であり、しもぶくれの顔立ちで両眼は細く、笑った時には糸を引いた様になり、両頬には可愛らしい笑窪が出来た。性格は温和、従順で他と争う様なことは絶無であったが、胸中に自己の堅い信念らしきものを持っていた様に思われる」(思い出:『小口太郎と「琵琶湖周航の歌」』(安田保雄編 中安善也発行 昭和52年2月 非売品))と書き、また三高で一年後輩の五十子巻三氏は飯田忠義氏に「五尺三、四寸の小柄な人で性格はおとなしく、ややデリケートの面のある大変な美少年でした。彼は2,3の発明を残しています。長生きをしていたら大変な学者になっていたことと思います。」と語っている。

英国の児童唱歌本(“Songs for our Little Friends”)に載っているE.R.B.(Education & Resettlement Bureau)(森田穣二:『周航歌』原曲の『ヒツジグサ』(解釈学第三十九輯 平成15年11月 p.35、森田穣二:吉田千秋の「ヒツジグサ」−卒業生への書簡−解釈学第四十五輯 平成17年11月 p.17))作詞の "Water-Lilies"を大正2年吉田千秋氏が邦訳し、この翻訳歌詞に新しく吉田氏が作曲したものが「Hitsuji-Gusa」の曲で大正4年雑誌『音楽界』8月号に発表された。

小菅宏氏の著書によれば、吉田千秋氏は『大日本地名辞書』の著者、また北朝正統論者として有名な歴史地理学者吉田東伍博士の次男として明治28年2月18日新潟県小合村大字大鹿で生まれた。2歳の時上京して牛込区の赤城尋常小学校に入学、1年生の1学期終了で、大鹿に戻され小合村小鹿尋常小学校に転校する。四学年を終了すると明治38年4月、新津町新津高等小学校へ進学し、翌年再び上京、赤城高等小学校へ編入。明治40年4月東京府立四中へ進学、明治45年3月同校卒業とともに、東京農業大学(小菅宏氏の著書では農科大学となっているが誤り)に進んだが、結核のため大正2年休学し程なく退学する。4ヶ月の入院生活の後、大正4年6月療養のため祖父母のいる大鹿に向かう。大鹿での療養中も動物、植物、天文学、方言学、音楽、文学、宗教と千秋は何にでも関心を示したが、病床でも作詞作曲に励んだ。病は好転せず、大正7年7月28日診断を受けるために上京し秋まで大学病院に通院する。その結果は千秋自身の書いたものによると「医師曰く『七月の初診の際の如く、左肺に著しき変化を来し、病気進行なれば大いに注意せざれば万事休す』との由」で、10月再び大鹿に戻った。大正8年24歳の誕生日を迎えて間もない2月24日亡くなり、大鹿の吉田家墓地に葬られた。現在「ちあき」の会(新潟県新津市大鹿624吉田文庫内)が結成されていて会報『ひつじぐさ』が発行され、毎年2月24日の命日には「睡蓮忌」を催している。

"Water-Lilies"は石川林四郎(東京高等師範学校教授)によって“睡蓮”として訳されてもいるが(『英語青年』明治43年3月15日号所載)、吉田千秋は大和言葉の語感を愛し“Hitsuji-Gusa”と訳した(『ローマ字』大正2年9月号所載)。睡蓮は7月〜8月に水上に蓮のような白い花を開く。ひつじぐさと呼ばれる由来は未の刻に花が咲くところからだが、実際は午前11時頃から夕刻4時頃にかけて咲くらしい。森田穣二氏はもとの詩が夜景を詩っているので,『夜咲性』のひつじぐさではないかと検討を進めているが、堀準一氏によると欧州原産の普通の睡蓮でも状況によっては、夜8時頃まで完全に閉じないものもあると言うことである。三日にわたって咲き、その後水中に潜って実を付ける。この訳詩「ひつじぐさ」に自分で曲を付けて『音楽界』に発表したのである。この雑誌は当時東京市外池袋にあった帝国楽事協会が編集し、神田区三崎町の音楽社が発行するもので、新しい楽曲や音楽関係論文も掲載する著名な月刊音楽誌であった。吉田千秋は独力で作曲の能力を身につけていた。「ひつじぐさ」に先だって童謡を習作しているが、本格的な作曲としてはこの曲が処女作であった。

2007年11月飯田忠義氏が関係者からの聴聞を中心にした『琵琶湖就航の歌』を出版された。これについてはindex頁に紹介しておいたので御覧ください。

三高生がみんな亡くなっても、この歌は永久に歌われることと思われる。近江今津の琵琶湖周航の歌資料館を訪れると、その一角でいろいろな有名歌手の歌うこの歌を聴くことが出来る。三高生の歌う調子とは異質なものなのだが、多くの人に愛されていることは窺える。高島市今津町では毎年「琵琶湖周航の歌音楽祭合唱コンクール」(実行委主催)が開かれ2013年も第17回のコンクールが同市民会館で開かれ、盛況のうちに6府県から19の合唱グループが参加した。

歌碑は琵琶湖周辺を始め諏訪湖にも建てられている。小口らの周航は三日目、今津から竹生島を経て彦根に至り、第四日は一路大津に帰港したが、周航の順に歌碑を辿ると、まず、大津三保ケ崎の旧三高艇庫の上「我は湖の子」碑(三高衝濤会の呼びかけで同窓生約900名が拠金。1973年6月竣工)、次いで近江舞子のホテル“琵琶レイク・オーツカ”正面前の浜に二番の雄松崎の碑(琵琶レイク・オーツカによる。1989年3月竣工)、三番の碑は今津の桟橋の先端にある航行標識で“赤い泊火”がいまも懐かしく灯る。その軸部に三番の歌詞が記されている((琵琶湖汽船による。1985年6月竣工)。四番の碑は竹生島(琵琶湖汽船による。1987年5月竣工)に建てられた。これまで唯一欠けていた五番彦根城の碑は湖東地区在住のOB諸兄の手で建立が進められ、彦根港湾突堤(竹生島めぐり汽船乗り場付近)に創られる歌碑苑 約100u(枯山水庭園)に主碑(自然石10トン 第5節彫字)、副碑(自然石 3トン 全歌詞彫字)、説明版(陶板600X900に周航の歴史、航路図、琵琶湖を含む滋賀県全図の衛星写真焼き付け)が建てられた。竣工式は2005年10月14日午前11時となっている。 HOME

六番長命寺の歌碑は、長命寺港桟橋後方の芝生平地に建てられ(井狩・前田両氏の呼びかけ、近江八幡市協力)、1998年4月除幕式を迎えた。かねがね問題となっていた”西国十番”の問題は住職の好意ある対応で、歌碑文を「黄金の波にいざ漕がん  語れ我が友 熱き心」(綾村坦園(昭3・文甲卒)筆)とされ、回避された。

全歌詞の碑は三保ケ崎の副碑の他、諏訪湖の小口太郎像(田畑一作の作)の前に江崎玲於奈氏の手になるもの(写真資料室参照)、琵琶湖汽船桟橋の湖岸側近く親水公園には故奥田東同窓会長筆のものがある(この碑は今津市が町おこしの一環として建てた赤御影石のもの(写真資料室参照))。長命寺の碑にも、また、最近建てられた最後の「彦根」の碑にも全歌詞の碑が副碑として添えられている。

JR近江今津駅から観光船乗り場方向へ徒歩約5分の所に『琵琶湖周航の歌』資料館がある。この資料館前から今津港観光船乗り場に至る道路沿いに約10メートル間隔で各節の歌が御影石にはめ込まれた銘板に書かれている(写真資料室参照)。それぞれが歌碑になっている(森田穣二氏から贈られた「寮歌祭よもやま話 第六輯」による)。以上写真資料室を参照願いたい。

京大ボート部はこの歌を歌い継いでいる。2011年11月22日日経夕刊「いまドキ関西」によるとこの年の夏この歌にちなんだ新しい「琵琶湖周航艇」” が建造され、“とまりび”と“さざなみ”と命名された。



 猪熊紀彦という方から電子メールをいただきました。以下にご紹介しましょう。大正八年当時の歌詞が分かります。歌い継がれる内に歌詞が練られていき、名歌は歌う人がみんなで作っていくものだと今さらながら感じます。

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私の手許に「三高歌集」という小冊子があります。大正8年版と10年版の2冊で、私の伯父(猪熊信二、大正8年文甲入学)から亡父がもらったもののようです。 この2冊とも[琵琶湖周航の歌」と「賄征伐の歌」は掲載されていません。どちらも「いわゆる寮歌」とは認識されていなかったのでしょうか。
但し、8年版の余白に伯父が手書きで歌詞をメモしていますので、ご紹介いたします。

周 航

我は水の子 さすらひの
旅にしあれば しみじみと
けむるさ霧は 小波の
志賀の都よ いざさらば

るりの花園 さんごの宮
古きつたへの 竹生島
佛の御手に 抱かれて
眠れよ乙女 安らけく


松は緑に 砂白き
小松が里の 乙女子よ
暗い椿の 森影に
果敢ない恋に 泣くとかや

矢の根は深く 埋もれて
夏草しげき 堀のあと
古城に獨り たゝずめば
比良も伊吹も 夢のごと


風のまにまに ただよへば
赤いとまりび なつかしみ
行へ定めぬ 波まくら
今日は今津か 長浜か

西国十番 長命寺
汚れの現世 遠く去り
白銀の波に 漕ぎゆかん
語れよ友よ 熱きこゝろ

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この2冊の『三高歌集』は貴重なもので、同窓会本部の懇請を容れて、猪熊さんから快く寄贈され保存されることになりました。会報89(1999)に海堀昶氏がこの2冊の歌集についての考察を詳細に記されている。なおここでも見られるように歌詞は現行のものとかなり異なっている。全体の「琵琶湖周航歌の歌詞の変遷について」は「同窓会報88」(1998)19ページに海堀氏の論考がある。

 最近わたしの手元に次のメールが送られてきた。岩辻さんが堀準一さんの奥さんから入手された手書きのものを別項に収録しておく。

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From: 岩辻賢一郎 [mailto:silexponkin@miracle.ocn.ne.jp] 
Sent: Sunday, June 22, 2008 7:24 PM
To: 'tbc00346@mbox.kyoto-inet.or.jp'
Subject: 手書き琵琶湖周航の歌 入手

先日、堀準一さんの奥さんより、
『三高歌集』明治四十四年、大正三年、大正四年、大正十年(五月)版と、大正
十年(再版数ページのみ)部分を戴きました。

手書き琵琶湖周航の歌が、大正十年(五月)が奥付の余白にあります。
また、大正十四年(国会図書館所蔵)は改定琵琶湖周航の歌初出で小口太郎が
作歌者として『三高歌集』に初出の年ですが、これもあわせて送ります。ご参考
に。
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◆京大応援団OBの石黒 治さんが琵琶湖就航の歌の英訳版が完成したと教えてくださった。英訳は津田氏の手になるものもあるが、一読してなかなかよくできているとの感想を得た。興味のある方はご覧ください。訳者はPhilbert Ono氏です。

◆ 1999年7月8日 京都新聞朝刊に”幻のメロディーあった”という記事が出た。小口の親友小玉博司氏(大正8・二部乙丙卒)が生前NHK京都文化センター飯田忠義次長に宛てた手紙の中で、小口自身は小玉氏に歌が誕生してからしばらく後にも「自分が作った歌詞には『寧樂の都』の節が良いと思う」と漏らしていたと記している。『寧樂(なら)の都』は明治時代の小学唱歌であったが、ひつじぐさの曲が広く親しまれ、『寧樂の都』バージョンは幻となった。再現されたこの曲を聴いた野呂達太郎(昭11・文甲卒)によると「『寧樂の都』は小学時代によく歌った。懐かしい。この曲の方が当時の寮歌らしい気がする」と。

(注:この幻のメロディで1999年5月15日京都コンサ−トホ−ル 小ホールで佐藤瑛杜子先生が歌われた「琵琶湖周航の歌」を聴いてみたい方は私宛e-mail(tbc00346@mbox.kyoto-inet.or.jp)でお申し越し下さい。飯田氏との約束によりホームページ上での公開は出来ないのです。412kb


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