注 吉田への移転
「同校在来の屋舎が狭隘なるに付、新校地を選びて之を建築せんとの議より、且新敷地は伏見の桃山に於て撰定せらるるならんとの説ある趣は、客冬旧校長折田彦市氏上京の時已に報道せしが、右桃山に於ては其后見合わせとなり、今度更に東成郡天王寺村茶臼山の南七万坪を其敷地となす事になりて、桜井郡長の下検分も已にすみたるに依り、同村戸長は昨日其地坪及び地価を記せし書面に地図を添へて、其筋へ差出したりとの事なり」
注 超大物教授
注 成瀬無極先生
“もと特攻隊員の兄と弟は、岩井忠正さんと岩井忠熊さん。二人は1943年9月の「徴集猶予」停止による「学徒出陣」で勉学の道を断たれ軍隊に送り込まれました。忠正さんは慶応大学文学部哲学科の学生、忠熊さんは京都大学文学部史学科の学生でした。(中略)忠熊さんも11月20日、大学での壮行会に臨みました。多くの教授が「武運長久」の話をする中で、ただ一人、「生きて帰って、また勉強するように」と語った成瀬無極教授の言葉に感動したと言います”
注 折田先生胸像
寄 付 要 項 一、期 限 昭和三十年六月二十日まで 一、金 額 一 口 三 百 圓
注 「紅萌ゆる」歌碑建設てんまつ
二月二十三日、同窓会理事会では、この申し入れをいろいろと検討した結果、
紅萌ゆる丘の花
早緑匂う岸の色
都の花に嘯けば
月こそかかれ吉田山
三高は昭和25年になくなってしまったが、この歌声とともに、それはなお、八千同窓生の胸に生き、また京都のひとびとの、さらに、日本のひとびとの心に生きている。しかし、また、それはとりわけ、吉田の界わいのひとびとにとっても忘れえない「美まかりし日の思い出の花」なのである。
「なにかのこしておこうじゃないか」という意見が、同窓生のなかで、たびたび、かわされはしたが、そのたびごとに、失ったもののあまりの大きさにいまさらのようにおどろいては、実行の着手を見合わせるというありさまであった。ところが昭和三十一年のはじめ、吉田神社鎮座千百年祭を計画していた、吉田神社宮司、大爺恒夫氏はちいさいときから吉田山と三高生とのつながりのいみじくもまたくすしきありさまに心をうたれ、この期に、三高の伝統を象徴するなにものかを吉田山にむすびつけたいと考えた。この具体案として、「紅萌ゆる丘の花」記念碑建設を同窓会の援助をえて完成したいという意向を、阪倉会長のもとにつたえたのが、六月であった。
ところが、八月にひらかれた同窓会理事会は、
「紅萌ゆる記念碑の建設は是としても、一宗教行事に同窓会が賛同することは、同窓会の本旨からして、できえない」
と決定した。
こうして吉田神社の企画した記念碑建設は三高同窓生のなかの二十名の個人的賛成をえたが同窓会とは無関係にその募金事業をつづけていったのである。ところが、この募金がすすめられてゆくにつれて全国の同窓生のなかから、いったいこの事業は同窓会と関係があるのか、ないのかという疑問や、こんな事業は同窓会がやるべきだという意見などがいろいろとではじめた。このような雰囲気のなかで、同窓会としても記念碑がどんな規模のものかを知る必要があるのではないかという意見もまたぼつぼつとでるようになり、十一月十八日京都市公会堂でおこなわれた、三高同窓会京都大会でも右の意見がきかれるようになった。
こえて昭和三十二年一月二十二日、三高会館で集まった同窓会の役員たちで、記念碑に関する情報交換をおこなったところ、今のような募金状況では、後世にのこす記念碑の建設には不十分ではなかろうかという意見が聞かれた。この点について、永末・中村両理事が阪倉会長の旨をうけて、吉田神社の意向をきくことになった。二十五日、吉田神社の大爺宮司から、
「この事業をすすめてきたところ、まことに大きな社会的事業であることを感じ、神社の事業として完成するよりは、同窓会全体の事業として完成せられるのが適当だと思うから、ぜひ、こんごは同窓会の事業としておすすめねがいたい。神社としては、全面的に協力をいたすことにしたい。」
という申し入れをうけた。
「吉田神社の事業に協賛しないことは、すでにさきの理事会で決まったとおりである。しかし、来年は三高創立九十周年にあたるので、大々的に記念事業をおこし、その事業のひとつとして『紅萌ゆる記念碑』の建設を同窓会で考えよう」
という意見に一致をみた。そして阪倉会長を九十年記念事業実行委員長とする実行委員会をつくって、これに記念事業のいっさいを企画実行させることをとり決めた。
三月二十三日、久米・内藤・永末・中村四理事は吉田山に、碑建設の現場と現状をたずねて、既に建設用材の石が到着していることを確認し、その位置についてもいろいろと検討した。四月二日阪倉会長・石橋副会長らと大爺宮司との間に最終的な打ち合わせをして、次のような協定書をとりかわした。 記
協 定 書
京都市左京区岡崎西福ノ川町
三高同窓会々長 阪倉篤太郎
(以下甲という)
京都市左京区吉田神楽岡町
吉田神社宮司 大爺 恒夫
(以下乙という)
「紅萌ゆる」記念碑建立に関し左記のとおり協定する
一、甲は三高創立九十年記念事業の一として「紅萌ゆる」記念碑を建立し乙はこれに
協力する
二、甲は乙が吉田神社御鎮座千百年祭奉賛会事業の一として企画した「紅萌ゆる」記
念碑建立の計画を尊重する
三、記念碑建立に関する事業の引き継ぎについては甲乙両者協議の上これを決定する
昭和三十二年四月二日
京都市左京区岡崎西福ノ川町
三高同窓会々長 阪倉篤太郎 印
京都市左京区吉田神楽岡町
吉田神社宮司 大爺 恒夫 印
なお、四月二十六日記念碑の地鎮祭をとりおこない、それ以後は同窓会が碑建立を九十年記念事業の一つとして精力的にすすめることになった。
四月二十六日春たけなわの吉田山上はどこから聞きつたえたか紅萌ゆる碑建設地鎮祭の有りさまをみようとするひとびとでにぎわった。竹中稲荷社務所の南、三高を見わたせる景勝の岡で松林で囲まれた、広い平地、黒白のまんまくをめぐらした祭典場には、紅の硫旗二りゅう春風をはらんで飜るなかに神楽おごそかに奏せられ、祭典は左のようにとりすすめられた。(中略)
終わって、久方ぶりに吉田山上にひびく紅萌ゆるの歌声は三高不滅のいのちを象徴するかのようであった。(後略)
同窓会報 14(1958)は三高創立九十周年記念特集号で実行委員会「歌碑建設委員会」の報告を載せている。摘記しておく。
歌碑は最初吉田神社の鎮座千百年事業の一として企画されたため、重森三玲氏によるその設計も神道の精神に基づいてなされ、その目的に従って碑石の選定がなされたことも当然であった。
既存の材料を利用することは、一見便利のようであるが、ものがものであり、一つの宗教に偏したりすることなく、真に三高的な創造をもたらすことは、如何に困難な事であったろうか。内藤委員の苦心は実にそこにあったと思われる。
何分にも主石の高さ4b余、重量7d、全二十個の総重量20dという石群である。吉田神社の手で運ばれた太元宮東側の置き場から現在地まで(実距離約200b、標高差20b
)運ぶだけでも六万円を軽く突破する有様である。(中略)
予期しない困難が次々と起こって、実際に着工したのは三月の彼岸も過ぎた頃であった。
主石の彫刻の終わったのが四月十日過ぎ、主石群の基礎工事の出来たのが十五日、主石の建ったのが十六日という有様である。この頃雨の日が多く、さすがの専門家柴田石材店のエキスパートたちでさえ京都でははじめてという大きさ故、万一の事故を考えて、雨中に強行するわけには行かない。この頃の内藤氏はじめわれわれ関係者の焦燥ぶりは非常なものであった。
主石が据わってしまえば、あとは快速調で工事が捗る。その上四月下旬に入ってからの快晴つづきはこれに拍車をかけた。
四月二十七日には敷石・玉石なども到着、庭木の植え込みがはじまる。二十九日天皇誕生日にはひと通りの形がととのい、五月一日には境界内は完成、周辺の手入れがはじまった。(中略)
内藤・近藤両委員の苦心と労力がここに見事に実を結んで、五月三日午后、阪倉式子(のりこ)さんの手で除幕され、三高一万五千同窓生のデンクマールが縁の吉田山頂に成ったことを心から喜びたい。
経緯を問うことなく、三高同窓会の申し出を快く受け容れ、しかも無償で建設地積を供出、建設中は申すに及ばず、今後永久に歌碑のお守りを約束せられた吉田神社側の寛容と協力、特に大爺恒夫宮司の英断には心から敬意を表したい。また、自らの設計に基づき、老躯を提げ、吉野川上流に緑泥片岩を物色せられながら、計画の変更により経綸を実地に示す機会を快く抛たれた重森三玲氏にも敬意を表する。
造園業花豊社長山田米次郎君ならびに柴田石材社長柴田君さらに連日真摯敢闘してくれた両者従業員諸君にも厚くねぎらいの言葉を申し述べたい。これらの諸君は、本事業の意義を認識し、「三高のために」最後の追い込みを成功させてくれた。
立派な芸術品、記念物を創造することに大きい生き甲斐を感じている諸君に接して、打たれること少なからずであった。
除幕式には「紅もゆる」の作者故沢村先輩の三令嬢のうち次女にあたられる志賀初音夫人(夫君は同志社大学教授志賀英雄氏)がご遺族を代表して御参列下さった。長女であられる小林太市郎神戸大学教授夫人は御病中、御三女は遠くに住まれ御参列いただけなかった。
なお、今後毎年数回花豊の手で歌碑境内の手入れを怠らず、永久に今日の姿を伝えることになっている。更に、歌碑の由来記(島田退蔵先生撰)と歌碑への道標は目下内藤・近藤両委員の手許で考案中である。
注 吉田千秋関係文献
注 元々の詩
節 現在の歌詞 元の歌詞 第二節 雄松が里の乙女子は 雄松が里の乙女子よ 赤い椿の森蔭に 暗い椿の森蔭に 第三節 赤い泊火なつかしみ 赤い泊火なつかしや 第六節 汚れの現世遠くさりて 汚れの現世遠ざかり 黄金の波にいざこがん 白金の波にいざこがん 語れ我が友 語れよ我が友
注 ブロンズの水族館A 川合 敏久
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この時に除籍された生徒の一人木村正吾氏(91)はご健在で、週刊京都民報2002年5月19日号に木村氏の言葉が出ていた。当時の話でも、その後の同氏の消息でもないが、現在議論されている“有事法制”について話されている。三高ストライキを敢行された気骨ある同氏の現在の言葉に除籍後歩まれた足跡が偲ばれる。 |