注 大阪か?大坂か?

この略史を編纂中「大阪」か「大坂」か頭をひねることもあった。幸い昭和14年、三高同窓会発行の「創立七十周年記念グラフ」には資料の写真が掲載されているのでこれを参照したが、やはり気になった。たとえば、「大中学校長 折田彦市印」があるのに公印は「大中学校印」になっており、大阪朝日新聞所載の「生徒募集広告」には「大中学校」と書いてあるという状態であった。そこで大阪府の事務局 広報報道室に尋ねた所次のメールを頂いた。

お問い合わせの件ですが、下記のとおりご回答させていただきます。

          記

「おおさか」という地名は、戦国時代以降になって史料に登場します。
上町台地の北端、今の大阪城のあたりに石山本願寺を創建した蓮如上人が 1496年に書いた手紙が、その代表といえます。  それには、「摂州(摂津ノ国)東成群生玉之庄内、大坂トイフ在所」とある。  当時は非常に狭い地域を指す地名で、台地ということで”坂のある道”という ほどの意味だったようです。
 その後、本願寺の寺内町や大坂城の城下町が広がるにつれて「大坂」と呼ばれる 地域が拡大し地名として定着したのです。
 その大坂が「大阪」とも書かれるようになるのは江戸時代末です。「「土」偏に 「反」と書く「坂」の字は「土に反る」につながり縁起が悪いと嫌って「阪」 の字を使うべき」と江戸後期の狂言作者、浜松歌国は「摂陽落穂集」に書いている。  もっとも、明治新政府が1868年に大阪鎮台や大阪府を設けた際には、どちらも 「阪」の字を使っています。新政府は当時の「慣用」をもとに役所の名前を決めたようですから 「阪」の字ほうが多く使われていたのかもしれません。  公文書などで使われるようになって「大阪」の表記が一般化したのは明治10年 代後半といわれています。

(おおさかなんでも質問箱 6年度作成分より抜粋)

  事務局 広報報道室

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注 吉田への移転

第三高等中学校の京都吉田移転、ひいては京都大学の吉田での開校には明治十九年当時の森有礼の決断が否定できないように思える。神陵史251ページには大阪朝日新聞の記事が3つ記載されている。

明治十九年二月二日「大学分校の新校地」

「同校在来の屋舎が狭隘なるに付、新校地を選びて之を建築せんとの議より、且新敷地は伏見の桃山に於て撰定せらるるならんとの説ある趣は、客冬旧校長折田彦市氏上京の時已に報道せしが、右桃山に於ては其后見合わせとなり、今度更に東成郡天王寺村茶臼山の南七万坪を其敷地となす事になりて、桜井郡長の下検分も已にすみたるに依り、同村戸長は昨日其地坪及び地価を記せし書面に地図を添へて、其筋へ差出したりとの事なり」

ここではまだ京都移転は見合わせられ大阪に新校地を求める動きが強く見られる。しかし。次の記事には京都の西方、等持院方面に移転の動きがうかがわれる。

「第三高等中学校は大阪府下に置かるる制定なるも、同府下は教育に適当せざるの地形なれば、之を改めて京都府下に置かるることに内決ありて、其筋より同校に適当の地形を取調べらるる都合にて、這は葛野郡谷口村、小松原村、等持院村等の内にて、七万余坪の地を撰み之が設立に充つるこそ適当なれ、と当府庁(京都)に於て見込まれ、目下其地形等の調査中なる由」(明治十九年十月二十八日付大阪朝日新聞・京都通信)

同年十一月六日には学校長中島永元および幹事平山太郎が等持院村などを見分。この後十二月十六日にも同地の見分がおこなわれた。それが一転して愛宕郡吉田村に決定したのは十二月二十七日の文部大臣森有礼臨席の見分後であった。

「夫の葛野郡谷口村等持院村内に定めらるる筈なりし第三高等中学校の位置は、旧臘森文部大臣の見分ありたる末、更に愛宕郡吉田村旧名古屋藩邸が跡に定められ、其建築工事も本年四月上旬と内決せられたる由」(明治二十年一月五日付大阪朝日新聞・京都通信)

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注 超大物教授

神陵史のなかに野々村直太郎先生と山内晋郷先生のエピソードが出ている。摘記する。

野々村直太郎先生(倫理・論理・心理学) 在任期間 明治32年−大正5年
先生の遅刻を幸いに、教室からエスケープする生徒があっても意に介さない。授業が終わってグラウンドを通りかかるとき、その生徒たちが野球に興じていると、「おもしろいかね」と気さくに声をかけて、図書館へと帰っていく。心ののびやかな大人物であったといってよいであろう。

山内晋郷先生(漢文) 在任期間 明治32年−大正10年
由来、本校には”名物教授”が数多いが、その代表格がこの人で、茫洋たる大人物の風格があった。
人気の焦点は講義中の脱線−−時局談、歴史談、人生観、文明批評など、談論風発の脱線ぶりは、単に教室での生徒をよろこばせたばかりでなく、のちのちまで生徒にとっての有益な人生訓となり、深く感謝されている。
授業の始めに、生徒が前週の講義のある部分について質問をすると、「うん、この質問は力がないとでけんのや」と、先生嬉しげにが目を細め、滔々と解説を始める。やがて興に乗るや、おきまりの脱線、文明批評がはじまって、教科書のほうは一、二行しか進まない仕儀となる。
風采あがらぬ小躯ながら、教科書片手に教壇を行きつ戻りつ、たとえば、荘子の「逍遙遊」などを説くくだりは、眼光するどく、音吐朗々として、教室中を酔わせた。
ところで、授業のおもしろさはこの上なしであったが、試験が難物だった。もっぱら応用問題の出題で、しかも採点がはなはだしく辛かった。−−−総じて、三高の教師は試験の点数に辛いのが特徴で、生徒の学力に対して寸毫の容赦もしないという伝統があるが、その中でも山内教授の漢文はきつかったという。

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注 成瀬無極先生

神陵史によると成瀬無極氏は明治41年から三高の教授としてドイツ語を教え、大正9年京都帝国大学に転じ、ドイツ文学を講じた。無極は号で、本名は清であった。文芸、演劇に造形深く、自らセリフを朗読するのを好んだが、そのうまさは玄人はだしであったという。この無極の朗読熱心の影響か三高の、後の語学教授には、セリフ朗読の上手が多かったという。私が昭和21年の紀念祭で紹介したヤマシュウの朗読を聴けたのもこのおかげであろう。


同じく神陵史掲載の座談会出席者大正2年1部丙卒の岸田幸雄によると、三高にも鉄拳制裁がなかったのでもない。明治44年ごろ三高で鉄拳制裁反対運動があった。それは当時学内に硬派の演説会グループ卓風会があり、三高生の中で宮川町の遊郭に出入りしているものがあり、怪しからんといって、白昼の校庭に引き出して鉄拳制裁を加えた。これに対して、自由の三高で、暴力はいかんというので岸田らの弁論練習グループ縦横会が大演説会を開き硬派グループを弾劾した。会場の雨天体操場にはほとんど全校生徒が出席し、この後全く暴力行為は学内から跡を絶ったという。


、“赤旗”2001年8月17日「56年目の特攻隊員」に立命館大学名誉教授岩井忠熊氏に関する次の話が掲載されている。

“もと特攻隊員の兄と弟は、岩井忠正さんと岩井忠熊さん。二人は1943年9月の「徴集猶予」停止による「学徒出陣」で勉学の道を断たれ軍隊に送り込まれました。忠正さんは慶応大学文学部哲学科の学生、忠熊さんは京都大学文学部史学科の学生でした。(中略)忠熊さんも11月20日、大学での壮行会に臨みました。多くの教授が「武運長久」の話をする中で、ただ一人、「生きて帰って、また勉強するように」と語った成瀬無極教授の言葉に感動したと言います”

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注 折田先生胸像

同窓会報 7 (1955)に“折田先生銅像再建について”と題して、当時の同窓会長 阪倉篤太郎の以下のような訴えが巻頭に出ている。

先年母校卒業生先輩有志者各位の拠金を仰いで、母校(現在の京都大学吉田分校:現 京都大学総合人間学部)玄関前に建設されました折田初代校長の記念胸像は御承知の如く戦争中金属供出令によって撤収されその代わりとして、原型の石膏像に工作を加えてもとの位置に安置してありました。ところが爾後十年の風雨に浸蝕されて最近では殆ど崩壊一歩手前といふ危険に瀕しましたので、とりあえず京都美術大学彫刻科の辻晋堂教授に依嘱して修理を加へるために取りはづしました。従ってこのままでは三高精神育成の父たる折田先生の遺徳を偲び、我が國教育界に異彩を放った母校の舊址を永久に記念する目的が達せられないことになります。

それで何とかして適當な修理を加へ保存を計りたいと考えましていろいろ調査致しましたが、保存の場所も見當たらぬのみならず修理にも程度がありまして、ただ破毀せられた箇所のみの補修では體裁もわるく永続性も少なく又完全な復元は困難でもあり、新作よりも手數がかかるといふことでありますので、一層此際原型を模した新型による銅像を鑄造してこれをもとの位置に安置する外は無いといふ結論に達しましたが、その費用は雑費共で約四十萬圓の見積であります。就いては現在の同窓會の財政状態からは右の費用はどうしても同窓生各位の御醵出を仰ぐより外に途は無いと思ひますので、左の要項によって御寄付をお願申したいと存じます。親しく折田先生の謦咳に接したと否とに拘はらず同窓會員各位は三高精神の定礎者と仰ぐべき先生の面影を通じて心の故郷たる母校の舊址を顯彰し永くこれを後毘に傳へようとするこの擧に御賛同を賜はるやう切にお願ひ申し上げます。


 寄 付 要 項 

    一、期 限   昭和三十年六月二十日まで

  一、金 額   一 口   三 百 圓
   

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注 「紅萌ゆる」歌碑建設てんまつ

同窓会報 11 (1957)に“「紅萌ゆる」歌碑建設てんまつ記”と題する三高創立九十周年記念事業 実行委員会の以下のような記事が出ている。

          紅萌ゆる丘の花
     早緑匂う岸の色
     都の花に嘯けば
     月こそかかれ吉田山

   三高は昭和25年になくなってしまったが、この歌声とともに、それはなお、八千同窓生の胸に生き、また京都のひとびとの、さらに、日本のひとびとの心に生きている。しかし、また、それはとりわけ、吉田の界わいのひとびとにとっても忘れえない「美まかりし日の思い出の花」なのである。

「なにかのこしておこうじゃないか」という意見が、同窓生のなかで、たびたび、かわされはしたが、そのたびごとに、失ったもののあまりの大きさにいまさらのようにおどろいては、実行の着手を見合わせるというありさまであった。ところが昭和三十一年のはじめ、吉田神社鎮座千百年祭を計画していた、吉田神社宮司、大爺恒夫氏はちいさいときから吉田山と三高生とのつながりのいみじくもまたくすしきありさまに心をうたれ、この期に、三高の伝統を象徴するなにものかを吉田山にむすびつけたいと考えた。この具体案として、「紅萌ゆる丘の花」記念碑建設を同窓会の援助をえて完成したいという意向を、阪倉会長のもとにつたえたのが、六月であった。

ところが、八月にひらかれた同窓会理事会は、
「紅萌ゆる記念碑の建設は是としても、一宗教行事に同窓会が賛同することは、同窓会の本旨からして、できえない」
と決定した。

こうして吉田神社の企画した記念碑建設は三高同窓生のなかの二十名の個人的賛成をえたが同窓会とは無関係にその募金事業をつづけていったのである。ところが、この募金がすすめられてゆくにつれて全国の同窓生のなかから、いったいこの事業は同窓会と関係があるのか、ないのかという疑問や、こんな事業は同窓会がやるべきだという意見などがいろいろとではじめた。このような雰囲気のなかで、同窓会としても記念碑がどんな規模のものかを知る必要があるのではないかという意見もまたぼつぼつとでるようになり、十一月十八日京都市公会堂でおこなわれた、三高同窓会京都大会でも右の意見がきかれるようになった。

こえて昭和三十二年一月二十二日、三高会館で集まった同窓会の役員たちで、記念碑に関する情報交換をおこなったところ、今のような募金状況では、後世にのこす記念碑の建設には不十分ではなかろうかという意見が聞かれた。この点について、永末・中村両理事が阪倉会長の旨をうけて、吉田神社の意向をきくことになった。二十五日、吉田神社の大爺宮司から、 「この事業をすすめてきたところ、まことに大きな社会的事業であることを感じ、神社の事業として完成するよりは、同窓会全体の事業として完成せられるのが適当だと思うから、ぜひ、こんごは同窓会の事業としておすすめねがいたい。神社としては、全面的に協力をいたすことにしたい。」
という申し入れをうけた。

二月二十三日、同窓会理事会では、この申し入れをいろいろと検討した結果、
「吉田神社の事業に協賛しないことは、すでにさきの理事会で決まったとおりである。しかし、来年は三高創立九十周年にあたるので、大々的に記念事業をおこし、その事業のひとつとして『紅萌ゆる記念碑』の建設を同窓会で考えよう」
という意見に一致をみた。そして阪倉会長を九十年記念事業実行委員長とする実行委員会をつくって、これに記念事業のいっさいを企画実行させることをとり決めた。

三月二十三日、久米・内藤・永末・中村四理事は吉田山に、碑建設の現場と現状をたずねて、既に建設用材の石が到着していることを確認し、その位置についてもいろいろと検討した。四月二日阪倉会長・石橋副会長らと大爺宮司との間に最終的な打ち合わせをして、次のような協定書をとりかわした。

                  記

      協 定 書

                     京都市左京区岡崎西福ノ川町
                      三高同窓会々長  阪倉篤太郎
                             (以下甲という)
                     京都市左京区吉田神楽岡町 
                      吉田神社宮司   大爺 恒夫
                             (以下乙という)

「紅萌ゆる」記念碑建立に関し左記のとおり協定する
一、甲は三高創立九十年記念事業の一として「紅萌ゆる」記念碑を建立し乙はこれに
  協力する                   二、甲は乙が吉田神社御鎮座千百年祭奉賛会事業の一として企画した「紅萌ゆる」記
念碑建立の計画を尊重する 三、記念碑建立に関する事業の引き継ぎについては甲乙両者協議の上これを決定する   昭和三十二年四月二日     京都市左京区岡崎西福ノ川町           三高同窓会々長  阪倉篤太郎 印                     京都市左京区吉田神楽岡町            吉田神社宮司   大爺 恒夫 印                            
なお、四月二十六日記念碑の地鎮祭をとりおこない、それ以後は同窓会が碑建立を九十年記念事業の一つとして精力的にすすめることになった。

四月二十六日春たけなわの吉田山上はどこから聞きつたえたか紅萌ゆる碑建設地鎮祭の有りさまをみようとするひとびとでにぎわった。竹中稲荷社務所の南、三高を見わたせる景勝の岡で松林で囲まれた、広い平地、黒白のまんまくをめぐらした祭典場には、紅の硫旗二りゅう春風をはらんで飜るなかに神楽おごそかに奏せられ、祭典は左のようにとりすすめられた。(中略)

終わって、久方ぶりに吉田山上にひびく紅萌ゆるの歌声は三高不滅のいのちを象徴するかのようであった。(後略)

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同窓会報 14(1958)は三高創立九十周年記念特集号で実行委員会「歌碑建設委員会」の報告を載せている。摘記しておく。

歌碑は最初吉田神社の鎮座千百年事業の一として企画されたため、重森三玲氏によるその設計も神道の精神に基づいてなされ、その目的に従って碑石の選定がなされたことも当然であった。

既存の材料を利用することは、一見便利のようであるが、ものがものであり、一つの宗教に偏したりすることなく、真に三高的な創造をもたらすことは、如何に困難な事であったろうか。内藤委員の苦心は実にそこにあったと思われる。

何分にも主石の高さ4b余、重量7d、全二十個の総重量20dという石群である。吉田神社の手で運ばれた太元宮東側の置き場から現在地まで(実距離約200b、標高差20b )運ぶだけでも六万円を軽く突破する有様である。(中略)
予期しない困難が次々と起こって、実際に着工したのは三月の彼岸も過ぎた頃であった。

主石の彫刻の終わったのが四月十日過ぎ、主石群の基礎工事の出来たのが十五日、主石の建ったのが十六日という有様である。この頃雨の日が多く、さすがの専門家柴田石材店のエキスパートたちでさえ京都でははじめてという大きさ故、万一の事故を考えて、雨中に強行するわけには行かない。この頃の内藤氏はじめわれわれ関係者の焦燥ぶりは非常なものであった。
主石が据わってしまえば、あとは快速調で工事が捗る。その上四月下旬に入ってからの快晴つづきはこれに拍車をかけた。
四月二十七日には敷石・玉石なども到着、庭木の植え込みがはじまる。二十九日天皇誕生日にはひと通りの形がととのい、五月一日には境界内は完成、周辺の手入れがはじまった。(中略)
内藤・近藤両委員の苦心と労力がここに見事に実を結んで、五月三日午后、阪倉式子(のりこ)さんの手で除幕され、三高一万五千同窓生のデンクマールが縁の吉田山頂に成ったことを心から喜びたい。

経緯を問うことなく、三高同窓会の申し出を快く受け容れ、しかも無償で建設地積を供出、建設中は申すに及ばず、今後永久に歌碑のお守りを約束せられた吉田神社側の寛容と協力、特に大爺恒夫宮司の英断には心から敬意を表したい。また、自らの設計に基づき、老躯を提げ、吉野川上流に緑泥片岩を物色せられながら、計画の変更により経綸を実地に示す機会を快く抛たれた重森三玲氏にも敬意を表する。
造園業花豊社長山田米次郎君ならびに柴田石材社長柴田君さらに連日真摯敢闘してくれた両者従業員諸君にも厚くねぎらいの言葉を申し述べたい。これらの諸君は、本事業の意義を認識し、「三高のために」最後の追い込みを成功させてくれた。
立派な芸術品、記念物を創造することに大きい生き甲斐を感じている諸君に接して、打たれること少なからずであった。

除幕式には「紅もゆる」の作者故沢村先輩の三令嬢のうち次女にあたられる志賀初音夫人(夫君は同志社大学教授志賀英雄氏)がご遺族を代表して御参列下さった。長女であられる小林太市郎神戸大学教授夫人は御病中、御三女は遠くに住まれ御参列いただけなかった。

なお、今後毎年数回花豊の手で歌碑境内の手入れを怠らず、永久に今日の姿を伝えることになっている。更に、歌碑の由来記(島田退蔵先生撰)と歌碑への道標は目下内藤・近藤両委員の手許で考案中である。

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注 吉田千秋関係文献

同窓会報 92(2000) 所載の森田穣二(昭23文乙)の記事によると、森田は千秋の母校・東京府立四中の後身・東京都立戸山高校に23年勤め、遺稿20編(未確認7編)、故・堀氏の「琵琶湖周航の歌と『未草』」正・続・完、水上部OB野呂達太郎氏の「周航歌作詞の年について」等の論稿六編を集めて平成九年「吉田千秋『琵琶湖周航の歌』の作曲者を尋ねて」を刊行したが、山村基毅「千秋経歴判明の経緯」、吉田東伍・高橋義彦記念安田歴史地理研究会作成「吉田千秋年譜」を加えて改訂版を出版した。この本の再増訂版出版予告が著者から届いていたが、2005年2月現在まだでていない。夏頃になると思われる。新風舎(電話:042-322-2252;e-mail:sales@shinpusha.co.jp)発行。定価1835円。

千秋の事跡については2004年9月25日発行の「琵琶湖周航の歌」の謎作曲者・吉田千秋の 遺言にも詳しい。(小菅宏著 日本放送出版協会発行 ¥1,500)
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注 元々の詩

同窓会報 92(2000)所載 海堀昶「琵琶湖周航歌の古い歌詞について」によれば、昭和58年11月9日、富雄百楽荘での奈良三高会の席上配られた歌集の抜粋に、在校中、周航歌の誕生を目の当たりにしてこられた井田完二氏(大正9・一部丙)が出来た当時の歌詞との異同点を書き込まれたものが、故・久米先生の遺品の中から見出された。

       節        現在の歌詞        元の歌詞
 
    第二節  雄松が里の乙女子は    雄松が里の乙女子よ
         赤い椿の森蔭に      暗い椿の森蔭に

    第三節  赤い泊火なつかしみ    赤い泊火なつかしや 

    第六節  汚れの現世遠くさりて   汚れの現世遠ざかり
         黄金の波にいざこがん   白金の波にいざこがん
         語れ我が友        語れよ我が友

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注 ブロンズの水族館A 川合 敏久

しんぶん赤旗「近畿の散歩道」(2000.11.13)に“ハラタマ博士”と題して川合氏の文章が出ている。全文以下の通り。 -------------------------------------------------------------

西暦2000年の今年は、日蘭交流四百年にあたり、年頭から全国各地でさまざまな記念事業がおこなわれた。11月12日に設置がおこなわれる「K.W.ハラタマ博士」の肖像彫刻を昨年のはじめから二年にわたって制作した。

大阪市中央区の馬場町から谷町筋の方をみると、東西の本町通にはみ出したようにみどりのかたまりが目に入る。樹齢四百年以上と伝えられる楠の大木で、この樹一帯が史跡になっており、「舎密局址」と刻まれた石柱がある。その傍らに建立される。

Dr.ハラタマは、シーボルトやボードウィンほど多くの大阪人になじみがないが、近代化を速いテンポで進める必要に迫られていた明治初年の日本にとって、化学を基礎から学ばせる教育制度として舎密局が創設された。明治二年(1869年)である。その初代教頭としてオランダから招かれた。酵素剤の「タカジアスターゼ」で知られる高峰譲吉や、昆布のうま味成分グルタミン酸ナトリウムを抽出して「味の素」製造の道を開いた池田菊苗など、世界的水準の化学者が育てられた。

緒方洪庵頭像レリーフ(適塾・1975)、除痘館跡碑銘レリーフ(緒方病院・1978)、緒方洪庵像(適塾・1996)、緒方惟之頭像(1996年)クーンラート・ウォルテル・ハラタマ博士胸像と、この二十五年来に集中した一連の肖像制作の脈絡の中心に私の内なるオランダとの間にあったかかわりに改めて気付かされ、驚く。

去る4月22日、ハラタマ博士像の除幕式典で曾孫と同席する機会があったが、対面した時、直感的に血統の人物だという確信が持てた。肖像を制作するとき、遺された画像、写真、伝記、評伝などの資料を通してイメージを探り、構築していくが、形象化が順調にいったときの充足感こそが、肖像制作の醍醐味かも知れない。

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注 木村正吾氏・・・除籍者から

この時に除籍された生徒の一人木村正吾氏(91)はご健在で、週刊京都民報2002年5月19日号に木村氏の言葉が出ていた。当時の話でも、その後の同氏の消息でもないが、現在議論されている“有事法制”について話されている。三高ストライキを敢行された気骨ある同氏の現在の言葉に除籍後歩まれた足跡が偲ばれる。

今回出されている有事立法では戦争に反対するものは罰則が与えられることになっています。「国体変革を目的とした団体の活動禁止」を名目に、戦争に反対する者は最高刑死刑(1928年より)という戦前の治安維持法(25年制定)の再来であり、絶対に許すことができません。

私は1930年、三高で寮の門限制限をめぐるストライキに参加し、警察の手引きを受けた学校当局によって放校(退学)処分を受けました。
直後に、労働組合の建設と果敢な反戦運動を展開していた全協(日本労働組合全国協議会)の専従活動家となり、峠一夫(詩人・三吉氏の兄)とともに、大阪で機関誌をつくっていました。半年後に治安維持法違反で特高に逮捕され、丸一日拷問を受けた後、一年半大阪中之島刑務所の独房に拘留されました。
小泉首相は「備えあれば憂いなし」と言いますが、戦争に備えて、国民の口をふさごうと言うのが今回の法案です。反対を唱えるのも命がけでしなくてもいいように、国民世論で廃案にするしかありません。

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