§古い同窓会誌から

同窓会報 1 「ねずみの学校」 深瀬基寛 (1951)

昔の教室の風景が懐かしく描かれている。その上、先生は“教育がこの様に二六時中自覚化せしめられ、しかも主として制度の問題として先鋭化せしめられるという現象以上に教育の質的退化を物語るものはないと思うのです。あたかもわれわれが病気を自覚した時が病気の進行が相当に進行していることの証左であるように”といわれるのだが、この記事が書かれてから、もはや40年余を経過している現在も、この警告は生きていると考えざるを得ない。


(抜粋)昔このクラスでわたくしはカーライルを読んでいたようです。ある日のある時間に、いつも中央の一番前に座って仰角で教師の顔をなで回し、イットもザットもあるものかという顔をしているk君が、教師の講釈を横断して、突然立ち上がり、教室の隅っこを指さして「ねずみ、ねずみ、ねずみ。ねずみ」と確か四回つづけさまに連呼しました。たしかに一匹の鼠が教壇の前を左から右へ横断したのです。私はこの眼で鼠を一瞥しましたが鼠の見えない全クラスも私も一緒になって破れんばかりに笑い崩れました。意外の反響にk君は頭を抱えておとなしく坐り込みました。あんまりそれがまた神妙なので二度目の爆笑が起こりました。鼠を認める前の数分間は恐らくk君は講義を聴いてなかったに相違ありません。そうでなければあんなに四回までも前後左右を忘却して「ねずみ」を連呼するはずがありません。カーライルはたしかにこの今様寒山にしてやられました。カーライルはしどろもどろに引き下がりました。

私一個の経験では、まずこの昭和十年あたりを頂点として次第に戦争に傾いていくまでの三高というものの愉しさはまことに譬えようもないものではなかったかと思います。もちろん学生は左に傾き、何となく恨めしそうな物欲しそうな顔をしていました。教師は天下一品の安月給を火鉢を囲んでかこち合い、何回となく同じ書物が古本屋に質入れになったこともありますが、このごろのように、流れ流れて行方知らずも、ということがなかったところを以てみると、この時代はたしかに絶対価値においてすぐれたものを持っていたと断ぜざるを得ません。もしも三高という学校が今から少なくとも十五年前の品格をそのまま維持して今日に至っていたとしたならば、それは学問の高さというのではなく、むしろ学問の質において世界的な珍現象として心ある人から讃歎されたに相違ありません。

(中略)というのは教育の質の低下は敗戦とか占領政策とかいう日本の特殊事情に基づくだけでなく、まさにそれは文字通り世界的現象であるからです。それと同時に教育論のにぎやかさもかって歴史上類をみない世界的現象であります。(中略)

ところで私にいわせるならば教育がこの様に二六時中自覚化せしめられ、しかも主として制度の問題として先鋭化せしめられるという現象以上に教育の質的退化を物語るものはないと思うのです。あたかもわれわれが病気を自覚した時が病気の進行が相当に進行していることの証左であるように。(後略)
 

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同窓会報 4 「なつかしい先生の思い出二つ三つ」 末川 博 (1954)

この稿と次の稿は生徒の立場から見た先生方の姿が描かれている。私など、もちろんここに登場する先生方にはお習いしていないのであるが、先生方の姿やお人柄まで彷彿としてくる。末川さんも河野さんも立派な先生方に教えて頂いたことの幸せを、誇りを持って懐かしんでおられる。それにしても三高には現在の大学教授をしのぐ超大物教授が、まだ少年あるいは青年の初期にいた生徒たちの教育に真剣に当たっておられたのである。そのことが生徒の心に計り知れない生涯の感化を及ぼしたのであろう。現在の教育に欠けているものの一つである。


明治43年(1910年)から大正3年まで4年間、私は三高生だった。三年間のところを4年間いたのだから、同窓生も2回にわたっていて、今から考えると、まことにありがたいことである。それにしても、いつのまにか、もう40年たった。気分は若い者にまけぬ積りで、「壮心未落風月長相守」の句のように、青壮の気を失わない積りだが、1年前に還暦を迎えたのだから、自分ながら妙な気がする。昨年還暦のころ、少々からだの調子がおかしいので一月半ばかり京大病院に入院していろいろと精密な検査をしてもらった折に、「君は気分だけは20台の積りで動きまわっているけれども、からだの方はもう60だから無理をするな」としかられた。恐らく、三高で学んだ諸君の多くは、私と同じように、いつまでも高等時代の気分で、老いを知らずに、生きていられるだろう。
こんなに若々しい気分で年をとるのも忘れて生きていられるところに、何だか、三高のあのころのフン囲気で養われたありがたいものが残っているのではあるまいか。もちろん、今日の時勢から言えば、いろいろと批判されてよいものや反省すべきものもある。だが、私は、今日でも、「未来を信じ未来に生きる」ことができ、そしてそのころわれわれが叫んでいた自由を、正しい意味で新しい時代に応じて発展さし、これを守りぬこうと努力することができるのは、あの若い三高時代に私の心につちかわれたもののおかげだと、感謝しているのである。

あのころのことを回顧すると、体操の時間に吉田山に逃げ出したこと、熊野道の角の肉屋で女給さんに五銭のチップをやってあやしいぞと冷やかされたこと、寺町のカギ屋で五銭のコーヒー一杯のんで角砂糖を十個もほおばったことなど、京都の風物景観はもちろん、あの先生この友人と、人間的なつながりについても、かぎりなくやたらに愉快な思い出がたぐり出される。そんなことについて書きつづれば、全くとめどもないのだが、ここでは、先生がたのなつかしいす姿の二つ三つを描いてみよう。


クラスのなかには、あわて者や横着者がたくさんいた。その最たる者のケイ君が、論理の試験のとき、もう時間のなくなるギリギリのまぎわに、突然大きな声で「先生、先生、タテガタキというのは何のことでありますか」と、あわてて聞いた。先生は、野々村直太郎先生である。うすいクチヒゲを左手でなでおろしながら、「ハア。あれは答案を横に書かないで縦に書いてほしいということだナ」と答えられた。みんな大笑い。ケイ君は「タテガキ」とあるのを何と勘ちがいしたのか「タテガタキ」と読んで、1時間中それを考えていたらしい、本スジの問題は『柳暗花明』という四字だけであったのである。野々村先生は、いつも羽織ハカマで、フトコロには麻ウラゾウリ一足入れて登校せられた。そのゾウリをはいて教室に入られると、二十分くらい黙ったまま、薄汚くなった教室のカベに向かってジッと立っておられることがある。われわれは、ワイワイ騒いでゐるのだが、先生は、カベとにらめっこをして、沈思黙考。やおら教ダンにあがって「さて、何の話をしますかナア」と講義を始められるときには、授業時間の半分もたっていることが少なくなかった。

先生の方からの質問だったか、生徒の方からの質問だったか、とにかく、北枕に寝ては行かぬということの理由が問題となった。鈴木先生というドイツ語の先生の時間である。みんなその理由の説明に困っていると、先生は「ジシャクが北をさすから北はいかんのだ」とマジメくさって教えてくれられたので、みんなポカーン。

「だいたい、貴族とか金持ちとか言う連中は、目もとはさわやかで立派だが、口はしまりがなくてだらしない。反対に、貧乏人は、目はきたないけれども、口はひきしまっていて立派だ。これはどういうところから来るのか知っているか」。漢文の韓非子かなんかの講義の際に、こんな話が出るのだから愉快である。みんなあっけにとられていると、「というのはだ、貴族や金持ちという手合いの子どもは、生まれおちると、ウバだの何だのおおぜいいて、泣こうとしても、よってたかって泣かせないから、目もとはきれいだが、口にしまりが出来ないのだ。ところが、貧乏人の子どもは、朝から晩まで泣きどおしだから、口はキリッとしまるが、目はただれてよごれるのだよ。わかったか」。これは、山内晋郷先生の時間のことである。

いまどき、こんな先生がいたら、教育公務員法の何だのとやかましくて、勤まるかどうか怪しいものである。だが、私の頭にはこんな先生がたのことが一番よく残っている。熱心に授業してくださった先生がたがありがたいのはいうまでもないが、こんな先生がたがノンビリした気持ちで教えて下さったことによって、私は、一生を通じてもっとも貴重なものを与えられたように思う。わけても、この節のように、世の中がせせこましくなって、小利口に立ちまわる人間ばかりが多くなると、四十年前のあのころのことが切にしのばれるのである。(大・3、一部丙卒)

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同窓会報 21 恩師のことども 河野 広水(1962)

先の稿にも記したようにこの稿にも生徒の立場から見た先生方の姿が懐かしく描かれている。繰り返しになるが立派な先生方に教えて頂いたことの幸せを、誇りを持って懐かしんでおられる。先生達が、まだ少年あるいは青年の初期にいた生徒たちに対して一人の人間として真剣に体当たりしておられたのである。そのことが生徒の心に計り知れない生涯の感化を及ぼした。

ここにはまた、珍しく府立第一高女−−−府一のことが書かれている。旧制高校は廃校間際まで男子しか入学出来なかったから( 清滝ますや聴聞録の終わりの方を参照されたい)、女学生は別世界の存在で戦中に入学した私たちにとっても府一は淡いあこがれを抱かせていた。

(前略)

三高時代を憶うとき最初に浮かぶのは大正天皇のご即位式の行列の美しかったことだ。三高生は建礼門の直前の西側に並び、府立第一高女生が東側に並んで御馬車を迎えた。三高生は府立第一高女生を対象にした。もちろん今のように交際が自由なわけはなく、相当厳格に監視されていたが、それだけお互いに胸をときめかせたもので、学校側の目を恐れながら比叡登山をしたり、高雄の紅葉を見に行ったりしたものだ。三高歌集を寄宿舎に売りに行って、舎監の女先生に見つかってお目玉を頂戴した者もあったが、今にして思えば淡い清い青春ロマンスとでもいうものだったろう。

 


クラスメートが集まるといつも話に出る事の一つは、優れた先生が揃っていて仕合わせだったということだ。阪倉先生の古典の講義も面白かったし、日本文法は英語や朝鮮語と比較しての講義で、当時としては非常に稀らしいものだった。野々村戒三先生にも一時組担任をして頂いたと思うが、先生の西洋史特にアレキサンダー大王の父フィリップ オブ マセドンの講義は非常に興味深いものがあった。

英語では島文次郎先生のキング ソロモンズ マインズがたいへん面白かった。後でこれが映画になったのを見たが、三高時代を思い出して一層興味深く見ることができた。島先生は常に身なりをキチンとせられた紳士で、教師というより俳優の感じであった。安藤勝一郎先生からは英国憲法に関するバジョットの著書を教わったが、女のように美しい優しい声で読んで訳されるのが非常に早く、ついていくのに骨が折れた。吉村先生は入学試験の時、書取の問題を読まれた先生だった。Geography is a description of towns, rivers, mountainsというのだったが、今に頭に残って忘れられない先生だ。 伊藤小三郎先生は非常に人気のある方だった。先生には受け持たれたことはなかったが、休講のとき何時か代わりに来て下さったことがある。その愉快な講義ぶりは今に忘れられない。

厨川白村先生は当時洛陽の紙価を高からしめた「近代文学十講」その他であまりにも有名だったが、その講義ぶりは余りにも鋭く、生徒はタジタジだった。虞美人草の小野さんのモデルだとの評判は、当時から生徒間にもっぱらだった。

栗原先生は熱心なクリスチャンで、きれいなベースの持ち主だった。当時日本に来たタゴールの講義を聴かれてたいへん感心されたそうで、その声はまるで銀鈴を振るようだった。あの原稿が一枚ほしかったとよく話された。

その外には大浦先生、瀧川先生など居られたが、みなそれぞれ良いところのある先生であった。

外人教師ではクラーク先生とエスタブルック先生がある。クラーク先生は美男子の堂々たる偉丈夫で大学の蹴球選手時代の怪我でビッコだったが、トロケルような可愛い目をしておられた。しかしなかなかの皮肉屋で大和魂をヤマトダマカシなどともじって和文英訳の問題を出されたりして生徒を困らせた。先生のお嬢さんと吾々仲間の石田君とのロマンスは有名なものであった。そのお嬢さんは後に東京の聖心女子学園に行かれた。その時代に後の小生の家内になった娘と友人だったことが判り、世の中は狭いものだと痛感させられた。エスタブルック先生はクラーク先生の後任として米国大学を卒業早々着任されたお坊チャン先生だった。着任後間もないときの事だったが、教室で煙草をスッたり、教壇に腰掛けたりでたいへんお行儀が悪いので、 生徒から抗議が出たりした。平田央君だったと思うがDon't smoke in the roomといとも日本式発音でドナッたが、先生には一向に通ぜず目をパチクリしておられるので大笑いしたこともあった。

独逸語の先生も良師揃いであった。片山孤村先生は語学者として有名な方であった。当時外国留学から帰られたばかりで、吾々は一つには向こうの話を聴きたく、一つには時間を消すために外国の話をおねだりしたものだ。またあの有名な辞典が完成に近づいていた時だったので、よく話題として先生に押しつけたりもした。成瀬無極先生はユーモアに富んだ文学者であった。小柄であったが元気がよく、時々大声で何かおっしゃって皆を笑わされた。茅野蕭々先生は目のクリクリした真面目な先生だった。女子大出の雅子夫人とのロマンスは有名なものだったが、先生の何処にそんな情熱が潜んでいたのかと思われるぐらいに平素は物静かな先生だった。

独逸語の外人教師オットウ ヘルフリッチ先生は医学士で、会話作文を教わったがハウプトザッツ(編者注:主文)、ネーベンザッツ(編者注:副文)を強調しながら、黒板に一人一人呼び出されて書かされたのには一同参ったが、これがたいへん為になった。また教室をアチコチ回って生徒に何かと話しかけられた。あるときわたしの側に来ていきなり脈を探って「ゼーア シュタルク カイン トリンケン」(編者注:いい脈だ。飲んでないね)といわれた。たしかに当時はわたしは飲んでいなかった。今一人ブラッシュ先生があった。先生には教わらなかったが、腕白盛りのお子さんがあって三高生に可愛がられたり、からかわれたりしたものだった。そのお子さんは先年まで海外通商の日本支店長をしておられたが、今はチューリッヒの本社の重要な地位におられる。私が長年親しくしているRCAのストラウス氏が偶然このブラッシュ氏と懇意で、私が最近ストラウス氏と東京で会ったときの話によると、ブラッシュ氏の令嬢は日本人の血は1/4しか混じっていないのに、容姿は100パーセント日本人で、非常な美人で最近ある外人と幸福な結婚をせられたそうである。

漢文の福永先生は旧藩時代の儒者を思わせるような君子人であった。当時はよくわからなかったが素養の深い学者であられたと聞いた。誠に好人物で、休講の時の時間の繰り替えに石田、斉藤両君を代表として強引に御願いして大変ご迷惑をおかけしたが、今、考えると申し訳ないことをしたと思う。

吾々は大正六年一部甲類で上級から下って一緒になった萩原、植村両君を加え、三十九名だったが、一年の時の教室の窓外にあった松に因んで双松会というクラス会を作っている。
(後略) (大・6、一部甲卒)

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同窓会報 21 おもいでさまざま 香山時彦 (1962)

この稿も先生方の思い出が書かれているが、先生方のむしろ教室外のエピソードが窺え、人柄が垣間見える点に興味を引かれた。


ラグビーの蕃伯父の例に漏れず、私もまた、三高に入るのに浪人を余儀なくさせられた。(中略)

浪人の間、親切な先輩たちは、いわゆる三高受験学なるものをいろいろ教えてくれた。森満さんは簡易法でなければ容易に解けない計算問題が好きだとか、阪倉先生が居られるから国文法だけはしっかりやっておけ等といった具合である。私は英語に弱くて、一旦浪人すると怖じ気がつき、どうしても三高に入りたい一念から理科を断念し、入りやすかった文科を志望した。その年暗記物が世界地理で、藤田元春さんは支那大陸が好きだからという情報が適中して、浪人生活もたった一年で済んだ。

さて三高に入学してみると、私達のクラス文甲一は、中学四年修了者も数多く、童心消えやらぬ連中が多かった。担任は瀧川先生で、教室では、ミルの自叙伝という堅苦しい本と取り組まされたが、ある休みの日、クラスの連中数名で荒神口のお宅に伺ったことがある。先生は「君たちの喜ぶものをみせてあげましょう」と持ち出されたものは何と一糸纏わぬ美女の裸体写真が数十枚、今でこそヌード写真なんて珍しくもないものだが、その当時は、ヨーロッパ土産でなくては見られぬものだった。写真を手に取るY君の童顔が恥じらいで紅潮していたのを記憶する。学校の先生というものは、四角四面の世界にカミ・シモを着ていなければならないのだとばかり思っていた私にとって、これは大きなショックであった。これがまさに裸の教育とでもいうのだろうか。この時の貴い経験が、若い学生達を相手の現在の私の中に生きているのである。

一年生の夏休みも終わった九月の初め、例の室戸台風に襲われた。漢文の麓先生の時間、教室の外は、暴風雨が荒れ狂い、新徳館の屋根はとばされ、教室自体大揺れに揺れて、危険極まりない状態となった。隣の教室文甲二は森満さんの数学で、とうに森満さんは引き上げられ、教室の中でワッショワッショとストームをやっている。こちらは麓先生、相変わらず「子曰ク・・・・」である。そのうちに益々危うくなってきたが、麓さんは一向に授業を止めようとはせず。「兵隊が戦場で死ぬのも、我々が教室で倒れるのも、同じく尊いものである、最後まで授業は止めません・・・・・」というわけで、遂にその時間、講義を続けられた。講義が終わった頃には風も大分収まって、外に出てみたら、図書館は倒壊、運動部のボックスなんて木っ端微塵、よくもまあ、あの教室が倒れずに済んだものだと思った。

二年生の冬、二・二六事件が起こった。その時西洋史の鈴木成高先生は憤然として「軍人は馬鹿です。陸士というところは秀才を鈍才にするところです。僕の中学の友達に秀才がいたのですが、彼が陸士に入って、あとで会ったら、まったく頭が鈍感になっていましたよ」と語って居られたのを覚えている。その鈴木先生が終戦後、一時教壇から追放になったと風の便りに聞いて、何とか、あのときの証言をして、弁護に立ちたいと思ったことがあった。鈴木成高先鋭の美文調の名講義はあまりにも有名であった。
[中世の騎士達の恋、それは永遠に充たされることのない恋であった。 彼らは花
の乙女に恋したのではなくて、すべて人妻への恋であったからである。・・・・こうし
た恋の花がラインの岸辺にも、或いはヴォルガの辺りにも絢爛と咲き誇ったので
ある。」
といった調子で鈴木先生の時間は、教室の机が全部埋まり、名簿では数名の欠席があるのにと先生が首を傾げられたことも多かった。私が和歌山大学に赴任して以来、早川崇君とは特に親交が篤くなった。彼は終戦直後代議士に当選以来、回を重ねること既に七度、今や自民党のホープとして活躍していることは周知の事実である。(編者注:和歌山県田辺市出身。東京医大病院で胆のう炎治療中、敗血症による心不全で没。享年66才(1982)。学者肌の政治家であった)。例の一高戦の応援団乱闘事件で一旦退学し、復学を許された彼は結局私達と同学年に入ってきた。先頃、彼の筆になる「新保守主義の政治哲学」は日本の保守主義の前途にとって光明をもたらす名著だが、鈴木成高先生の講義口調がその名文の随所に漂っているのである。

深瀬先生には、バスケットボール部長として、また、通学の途、嵐電でよくご一緒になったりしていろいろと御世話になることが多かった。先生の名訳はあまりにも有名だが、ある時眼鏡を拭き拭き「白粉の広告に、水谷八重子のような美人を持ってくるとよく売れるが、荒木大将のヒゲではどうも・・・・」と雑談しばし、ぼんやり聞き入っていたが、ふと教科書を見ると、何とそれが訳で、何とか将軍と有名な外国女優の名が書かれてあった。
バスケット部の追い出しコンパが祇園の千成であって、その年は初めてインターハイで優勝した年、みんな酔うほどに先生もいささか御酩酊「ちょっと人と約束があるので失礼する」と一足先にお帰りになったのだが、そのあと石段下の蛸茶屋の暖簾をくぐると、何とそこに深瀬先生が祇園のキレイドコロを両側にご満悦の態であった。あの頃は、深瀬先生はお年よりも随分お若く、永遠の青年かと思われたが、いつだったか“童心集”をいただいて拝読してみると、もうお孫さんの成長をお楽しみのお爺さんになって居られるではないか。龍宮の乙姫さまの許から帰ってこられた先生を、老人にした玉手箱は何であったのだろうか。或いは二次世界大戦の硝煙であったかも分からない。でも考えてみれば、あの頃、瀧川先生に見せていただいたヌード写真に度肝を抜かれた私達にももうソロソロ老眼が出始める頃となった。

(後略)

(昭12・文甲卒)

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