同窓会報 21 恩師のことども 河野 広水(1962)
先の稿にも記したようにこの稿にも生徒の立場から見た先生方の姿が懐かしく描かれている。繰り返しになるが立派な先生方に教えて頂いたことの幸せを、誇りを持って懐かしんでおられる。先生達が、まだ少年あるいは青年の初期にいた生徒たちに対して一人の人間として真剣に体当たりしておられたのである。そのことが生徒の心に計り知れない生涯の感化を及ぼした。
ここにはまた、珍しく府立第一高女−−−府一のことが書かれている。旧制高校は廃校間際まで男子しか入学出来なかったから( 清滝ますや聴聞録の終わりの方を参照されたい)、女学生は別世界の存在で戦中に入学した私たちにとっても府一は淡いあこがれを抱かせていた。
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(前略)
三高時代を憶うとき最初に浮かぶのは大正天皇のご即位式の行列の美しかったことだ。三高生は建礼門の直前の西側に並び、府立第一高女生が東側に並んで御馬車を迎えた。三高生は府立第一高女生を対象にした。もちろん今のように交際が自由なわけはなく、相当厳格に監視されていたが、それだけお互いに胸をときめかせたもので、学校側の目を恐れながら比叡登山をしたり、高雄の紅葉を見に行ったりしたものだ。三高歌集を寄宿舎に売りに行って、舎監の女先生に見つかってお目玉を頂戴した者もあったが、今にして思えば淡い清い青春ロマンスとでもいうものだったろう。
クラスメートが集まるといつも話に出る事の一つは、優れた先生が揃っていて仕合わせだったということだ。阪倉先生の古典の講義も面白かったし、日本文法は英語や朝鮮語と比較しての講義で、当時としては非常に稀らしいものだった。野々村戒三先生にも一時組担任をして頂いたと思うが、先生の西洋史特にアレキサンダー大王の父フィリップ オブ マセドンの講義は非常に興味深いものがあった。
英語では島文次郎先生のキング ソロモンズ マインズがたいへん面白かった。後でこれが映画になったのを見たが、三高時代を思い出して一層興味深く見ることができた。島先生は常に身なりをキチンとせられた紳士で、教師というより俳優の感じであった。安藤勝一郎先生からは英国憲法に関するバジョットの著書を教わったが、女のように美しい優しい声で読んで訳されるのが非常に早く、ついていくのに骨が折れた。吉村先生は入学試験の時、書取の問題を読まれた先生だった。Geography is a description of towns, rivers, mountainsというのだったが、今に頭に残って忘れられない先生だ。
伊藤小三郎先生は非常に人気のある方だった。先生には受け持たれたことはなかったが、休講のとき何時か代わりに来て下さったことがある。その愉快な講義ぶりは今に忘れられない。
厨川白村先生は当時洛陽の紙価を高からしめた「近代文学十講」その他であまりにも有名だったが、その講義ぶりは余りにも鋭く、生徒はタジタジだった。虞美人草の小野さんのモデルだとの評判は、当時から生徒間にもっぱらだった。
栗原先生は熱心なクリスチャンで、きれいなベースの持ち主だった。当時日本に来たタゴールの講義を聴かれてたいへん感心されたそうで、その声はまるで銀鈴を振るようだった。あの原稿が一枚ほしかったとよく話された。
その外には大浦先生、瀧川先生など居られたが、みなそれぞれ良いところのある先生であった。
外人教師ではクラーク先生とエスタブルック先生がある。クラーク先生は美男子の堂々たる偉丈夫で大学の蹴球選手時代の怪我でビッコだったが、トロケルような可愛い目をしておられた。しかしなかなかの皮肉屋で大和魂をヤマトダマカシなどともじって和文英訳の問題を出されたりして生徒を困らせた。先生のお嬢さんと吾々仲間の石田君とのロマンスは有名なものであった。そのお嬢さんは後に東京の聖心女子学園に行かれた。その時代に後の小生の家内になった娘と友人だったことが判り、世の中は狭いものだと痛感させられた。エスタブルック先生はクラーク先生の後任として米国大学を卒業早々着任されたお坊チャン先生だった。着任後間もないときの事だったが、教室で煙草をスッたり、教壇に腰掛けたりでたいへんお行儀が悪いので、
生徒から抗議が出たりした。平田央君だったと思うがDon't smoke in the roomといとも日本式発音でドナッたが、先生には一向に通ぜず目をパチクリしておられるので大笑いしたこともあった。
独逸語の先生も良師揃いであった。片山孤村先生は語学者として有名な方であった。当時外国留学から帰られたばかりで、吾々は一つには向こうの話を聴きたく、一つには時間を消すために外国の話をおねだりしたものだ。またあの有名な辞典が完成に近づいていた時だったので、よく話題として先生に押しつけたりもした。成瀬無極先生はユーモアに富んだ文学者であった。小柄であったが元気がよく、時々大声で何かおっしゃって皆を笑わされた。茅野蕭々先生は目のクリクリした真面目な先生だった。女子大出の雅子夫人とのロマンスは有名なものだったが、先生の何処にそんな情熱が潜んでいたのかと思われるぐらいに平素は物静かな先生だった。
独逸語の外人教師オットウ ヘルフリッチ先生は医学士で、会話作文を教わったがハウプトザッツ(編者注:主文)、ネーベンザッツ(編者注:副文)を強調しながら、黒板に一人一人呼び出されて書かされたのには一同参ったが、これがたいへん為になった。また教室をアチコチ回って生徒に何かと話しかけられた。あるときわたしの側に来ていきなり脈を探って「ゼーア シュタルク カイン トリンケン」(編者注:いい脈だ。飲んでないね)といわれた。たしかに当時はわたしは飲んでいなかった。今一人ブラッシュ先生があった。先生には教わらなかったが、腕白盛りのお子さんがあって三高生に可愛がられたり、からかわれたりしたものだった。そのお子さんは先年まで海外通商の日本支店長をしておられたが、今はチューリッヒの本社の重要な地位におられる。私が長年親しくしているRCAのストラウス氏が偶然このブラッシュ氏と懇意で、私が最近ストラウス氏と東京で会ったときの話によると、ブラッシュ氏の令嬢は日本人の血は1/4しか混じっていないのに、容姿は100パーセント日本人で、非常な美人で最近ある外人と幸福な結婚をせられたそうである。
漢文の福永先生は旧藩時代の儒者を思わせるような君子人であった。当時はよくわからなかったが素養の深い学者であられたと聞いた。誠に好人物で、休講の時の時間の繰り替えに石田、斉藤両君を代表として強引に御願いして大変ご迷惑をおかけしたが、今、考えると申し訳ないことをしたと思う。
吾々は大正六年一部甲類で上級から下って一緒になった萩原、植村両君を加え、三十九名だったが、一年の時の教室の窓外にあった松に因んで双松会というクラス会を作っている。
(後略)
(大・6、一部甲卒) |