§古い同窓会誌から

同窓会報 53 金子校長排斥事件 和田 洋一(1981)

折田先生が退かれた後、先生の植え付けられた三高の「自由」も大きな危機を迎えた。幸い当時は大正デモクラシーの時代であり、生徒たちも先輩たちも自由の尊さを何よりも大切にしていた。遂に校長排斥事件を迎えることになる。この事件も三高の「自由」を定着させる一里塚になったのである。和田洋一はこの事件について以下の詳細な記述を会報に掲載した。三高正史ともいうべき「神陵史」にも克明に引用されている。


三高の校風と校長

三高弁論部が1935年(昭和10年)に刊行した『第三高等学校弁論部部史』の中には、明治時代の校風にかんしての次のような一節がある。
「吾が三高の校風については由来定まれるものなく、唯々折田校長の無干渉放任の教育方針は学校全体に極めて暢びやかなる感じを与え各人その好む所を致すに役立ちし状態にありしものであって、時偶ま明治四十年前後より運動部一段の活躍の遂げられるに際し他校と接触するに及んで、自然に校風の意識は具体化せられたのであるが、尚ほ極めて漠然たるものに過ぎなかったのである。」

初代折田彦市校長は1910年(明治43年)の秋、引退を決意し後任としては六高校長の地位にあった酒井佐保が岡山から京都へ赴任してきた。三高の生徒は11月25日、新旧校長の送迎会を催したのであるが、新校長はその場で校風を引き締める必要があるという意味の発言をした模様である。
ここにおいて「自由に育ち、今こそ自由の校風を意識せし我等の先人は、新校長の干渉方針を想ひていたく動揺を感ずるあり、或は折田校長の膝下に泣き伏して、その留任せられんことを懇請するあり、又或は新校長に対して我等が自由の校風の尊重すべきを要望して、会は唯ならぬ緊張を呈せしと云ふ。」と弁論部部史は伝えている。
1935年当時、部史の執筆編集に従事した弁論部員たちにとっては、明治の三高も大正の三高も「古きよき時代の三高」であったにちがいない。酒井校長は、かって三高の教授だったことがあり、三高の自由は度が過ぎている、引き締めなくてはと思って赴任したのであるが、やがて思い直し、軽挙妄動をつつしみ、八年間無事に勤めて1918年(大正7年)12月28日病死した。

三代目の金子詮太郎校長は、前校長以上の強い決意を持って就任し、引き締めの実施にかかったものの、卒業生と在校生の猛反撃にあい、三高から静岡高校へ飛ばされてしまった。そのあとには自由主義的な教育者として知られていた森外三郎が赴任し、三高の「古きよき時代」・「無干渉放任の時代」は大正の終わりまではつづくのである。

金子詮太郎は三高の校長に就任するまでは酒井前校長同様、岡山で六高の校長をつとめていた。それ以前、大阪府立北野中学の校長をつとめたこともある。彼には陸軍後備大尉という肩書きがあり、この肩書きは彼には不利に作用した。三高生は、文部省の奴ら、軍人の古手を使っておれたちの自由を抑圧しようと企んだのだろう、という風に受け取ったからである。

三高同窓会が1935年(昭和10年)に刊行した『神陵小史』は、時期が時期だけに、大正リベラリズムは好ましからぬものという立場に立っており、金子校長を擁護しながら、「学校当局と生徒との間に起こった騒擾」について述べている。「当時はデモクラシー思潮の旺盛を極めた時代であったので、生徒は自由の擁護を叫んで大正10年11月には生徒会議を組織するに至っていた。」とも記されているが、大正10年11月に三高生が生徒会議を組織したということは、全般的なデモクラシーの風潮もさることながら、三高自由の校風を抑圧しようとねらっている金子校長を意識した上での自衛行為であったことは明かである。文科12クラス、理科12クラス、合わせて24クラスがそれぞれ代表を3名ずつ選出し、その代表によって構成された生徒会議というものが、校長排斥運動に大きな威力を発揮したことは言うまでもない。


金子校長の強硬方針

金子詮太郎校長は就任後しばらくは、三高の度を過ぎた自由を、苦々しい思いで眺めていたと思われるが、三年目頃からぼつぼつ引き締めにかかった。自由寮の自由に対する干渉、そして一般生徒の授業サボり放題に対する規制に手をつけると、寮生、一般生徒は直ちに猛然と反撥し、東大や京大に在籍する若い卒業生も、母校の自由の伝統擁護を叫んで行動を開始した。

1921年(大正10年)4月に三高に入学し、翌年10月三高社会問題研究会を同志とともに設立した西本喬は、「三高一年生のいつ頃だったか忘れたが、上級生の大宅壮一,淡徳三郎などのアジで校長排斥のストライキが決行され、僕も一年生代表として「生徒会議を組織して学校を管理せよ」と演説した。」と当時の思い出を語っている。(『東京帝大新人会の記録』)
生徒は同盟休校したわけではなかったのだが、学校当局にたいして、四十八時間以内に回答せよといって文書を突きつけたり、校庭で太鼓をたたいたり、ストライキのような雰囲気だったのだと思われる。時期は1921年12月、騒ぎは翌22年1月まで続いた。

3月15日には生徒の及落を決定する教授会が開かれ、終わったあと金子校長は、かねてから辞めさせたいと思っていた教授をつぎつぎに呼んで、辞表を提出するようにと申し伝えた。直ちに辞表を提出した場合、破格の優遇措置を講じるということも申し添えたようである。
大阪朝日は3月20日の 朝刊に「七教授一斉辞職」(サブタイトル「三高校長から慫慂され」)という見出しの記事をかかげ、大阪毎日は二日遅れて報道した。両紙の記事内容は多少食い違いを見せており、両紙以外にさまざまな異説も主張されていて、正確は期しがたいが、次の六名が校長から辞表提出を要求されたのはまず間違いない。
教頭で化学担当の高橋鉉太郎、この人は三高に四十年間勤めていたといわれているので、おそらく大阪にあった大学分校、第三高等中学校の時代からずっと教えていたのであろう。次に英語の伊藤小三郎、漢文の山内晋郷、動物学の宍戸一郎、この三人はいずれも二十五年ないし二十四年勤務、フランス語の松井知時、化学の三島雅義、そして七番目は須藤新吉、この人は論理学、心理学の担当であったが、一身上の都合で東京へ移住することになっていて、自発的に辞表を提出したという説もある。そうだとすればクビを切られたのは六教授ということになり、新聞にも時たま六教授という見出しが出た。しかしハッキリしないまま、いつの間にか七教授に落ち着いてしまった。高橋、伊藤両教授は前年の十月頃から辞職を勧告されていたという説、クビにならなかった教授の名前(例えば製図の福田正雄)が新聞紙面に出るとかさまざまであった。
金子校長としては、クビ切りの対象に選んだのは、もうろくした教授、授業中脱線ばかりしている不真面目な教授、会議の際むやみと校長に突っかかってくる教授などであったようだが、七人のクビを一度に簡単に切ったのがいけなかった。突然今すぐやめといわれても困るといっている教授を、有無をいわせず切ったということで冷酷無情だという噂がすぐ立ったということもあった。クビを切られた教授の中には、確かにもうろくしていて、生徒の側からいって、辞めてもらって結構というような人もいた。しかし金子校長が「要するに新陳代謝をやったんだ」と放言すると、生徒の方はカッとなるということもあった。七人の中には生徒の人気絶大という人もいて、金子校長の読みが足りない部分もあったようである。校長の自信満々は、やがて揺らぎ始める。


火の手あがる

三高の入学式は、酒井校長の就任後、宣誓式とよばれ、式が終わったあと弁論部員が校風の宣言を行い、校風宣言演説会が行われる習慣になっていた。
ところが1922年の宣誓式は、上級生が騒いで式を混乱させ、新入生をびっくりさせた。この年に入学した桑原武夫(文丙)は当日のことを思いだして次のように書いている。
「金子という校長が壇に上がって、式辞をのべ出したと思うと、上級生が一斉にやじり、足踏みをし、何も聞きとれない。そして、その日から校長排斥のストライキが始まった。」(エッセ−「森外三郎せんせい」より)
また北神正(文乙)は三高同窓会『会報』21号の中で次のように語っている。
「四月某日朝、新徳館の講堂は我々新入生が前方を占めて、ギッしり詰まっていた。
ただ空気がおかしい。やがて校長の入場、と後ろの方で一斉の足踏み、ガタガタと部屋一杯にこだまする。一歩一歩入って来る校長の顔がピリッピリッと動くようだ。之が我々新入生にとっては春夏の大騒ぎの序幕だった。前年来三高の自由を行き過ぎとした文部当局の指導方針、之に対し自由の伝統を守ろうとする先輩、在校生の反抗、人気のあった数人の先生方の依願免職もすでに行われていたかと思う。金子新校長に対する排斥ののろしはすでに上がっていたのであるが、我々は何も知らなかった訳である。」
二年生は何も知らなかった訳ではないが、三高生としての生活を一年送っただけで、まだまだ呑み込めないことがたくさんあった。受け身の姿勢で、主として三高卒の東大生、京大生に引きずられるようにして渦中に入っていった当時の様子を文二乙の島本融は次のように語っている。
「二年生に進む前後から校内の空気が何となく落ち着かず、東大、京大などの学生が、代わる代わるやってきて、七教授の一斉退職の事情がだんだんとわかってきた。それが金子校長の排斥にまとまるまで我々も何回となく平安神宮のそばの連中の合宿に呼び出され、悲憤慷慨の話を聞いた。その中には富士鉄の黒田勝正さんなどもいた。結構興奮して熊野神社に出る道を歩いたことが思い出される。
七人の先生はそれぞれ個性の強い人達で、校長の云うことを聞かなかったこともあるだろうが、話をしてくれと云えば脱線をする人が多かった。それを七人も一度にクビを切るとは何事だということになった。」(『会報』23号)

卒業生(主として三高卒の東大生・京大生)が在校生に火をつけ、在校生が徐々に燃えだして闘争の主体となるという経過をとったのであるが、先輩の弁護士、中高年者の中にもずいぶん熱心に動いた人がいた。特筆に値するのは朝日新聞天声人語の筆者、京都支局長の釈瓢斉であって、彼は京大学生集会所で四月十六日に開かれた「金子校長排斥演説会」に出席して先輩として一席ぶった。大阪朝日はそのことを報道することを差し控えたが、大阪毎日は釈瓢斉というペンネームではなしに実名を用い、永井栄蔵が排斥演説を試みたという記事を載せた。永井は京都の三高先輩団の代表者としても名を出していたのであるが、朝日新聞社の首脳部はこれを黙認したらしく思われる。「金子校長排斥演説会」の参加者は卒業生に在校生も加わって一千名、決議文が採択された。

       金子校長従来の施設方針は三高自由の校風を
        蹂躙し、且つ今回の七教授馘首処分に執りたる
        態度は明らかに人道を無視するものと認む、
        仍て吾人は校長の自決を促す
右決議す

大正十一年四月十六日      三高出身者大会

代表は三高校長官舎を訪れ、金子校長と会見し「同氏の面前で決議文を投げつけた。」(四月十七日、大阪毎日)


在校生の動きと教授

三高出身者大会の決議文は、金子校長の自決を促しているが、不当にクビを切られた七教授を復職させよとは言っていない。それは七教授がすでに辞表を提出し、正式に受理されていたからであり、大会の前日には後任者の名前が新聞紙上に発表されていたのである。フランス語の河野与一、心理学の高木貞二、化学の一瀬雷信、物理学の吉川泰三、漢文の佐藤広治、化学の半田正身、英語の鈴木広治という顔ぶれであって、在校生、卒業生の運動は、自由の敵、人道の敵金子詮太郎の追放だけを目指すこととなった。

もっとも、生徒たちは表面「追放」というようなきつい言葉を避け、二十二日午後一時から校庭で開かれた生徒大会では校長不信任の決議をした。その直後のことについては、三好達治と共に文一丙クラス委員に選ばれた桑原武夫のエッセーから引用させてもらうと、「スト委員長は今は日立製作所の重役をしている中村隆一君。彼に率いられて全校八百人が長蛇の陣をつくり、「それ頑迷は鉄拳の血汐ふらしてくだくべく・・・・・」などという校歌を合唱して校長官舎に押しよせた。遙かに見ると、委員長は一言二言タンカを切ったと思うと、手にもった排斥決議文を校長の玄関の床にピシャリと叩きつけた。一流の演技だった。」
それからまた校庭へ戻って先輩のアジ演説をきき、三時解散。一日おいて二十四日(月)は全生徒は常のごとく登校し、委員会は「吾人は校長排斥のためストライキをなすにあらず、先の決議は校長不信任の意を発表したるに過ぎず。世上多数に見受けられる学校ストライキとは意味を異にするものである」という主旨の声明を出した。同じ日、七名の委員は文部省に松浦専門学務局長を訪ね、金子校長不信任の署名簿を届けた。

   二十四日以後、教授たちは教室に姿を現さず、生徒たちが呼びに行くと、今会議中だとのことで、同盟休校しているのは生徒でなく先生であるという風にも見受けられた。当時文二丙の生徒であった城戸又一は「われわれは朝八時に教室に集まっていて、出席率は平常よりいいぐらいであったが、教師の方がやってこない。仕方がないので、われわれは自由とは何か。について念を入れて討論をした。世間では同盟休校だといっていたが、あれはおかしい」と筆者に語ったことがある。

当時、教授であった人で、戦後、金子校長排斥事件について思い出を語った人はまれである。たのしい思い出ではなかったからだと思われるが、法制経済担当の山谷省吾前教授は『会報』6号の中で、「校長が首切りをしたので、大ストライキになった。このストライキは、校長方が敗北だったと思う。教授の間で校長反対の機運が強く、同窓会の尻押しもかなり露骨であった。」
教授の間で校長反対の機運が強かったであろうことは想像できるが、さりとて教授としては生徒の側につくこともできず、教授代表林森太郎は四月二十四日生徒たちの前に現れ、二十五、二十六両日臨時休校とする。その間、反省して校長不信任の決議を撤回するようにと意向を伝えた。
生徒は二十七日午後一時生徒大会を開いて、不信任決議は撤回しない、五月一日の三高創立記念日は、お祭り騒ぎはしないことなどを申し合わせた。


校長、文部省の敗北

校長不信任の署名は、生徒一人ひとりの自由意志によって行われたと言ってよい。署名をしないからと言って上級生から怒鳴りつけられるとか、クラスメートから仲間はずれにされると言うことはなかった。二十四日の生徒大会当日病気または帰省中だったものが、二十八日までに約一〇〇名追加署名した。
先に引用した北神正の文章の別な箇所には、実家に帰っていた彼が夕刊に目を通していると、学校当局は署名者を総停学と決定したとの記事が出ていて、慌てて三高へ駆けつけると、寮の入り口近くに出された机の上に、署名簿がポツンと置かれており、筆を執って署名すると、傍らに立っていた在校生がひとこと「ありがとう」と言ってくれた、と書かれている。
吉町義雄(文三乙)は「校長排斥辞職要求決議に生徒全員一致と云うが、只三人の例外は認められた。此の例外の一人が此の自分である。」と『会報』21号で告白している。三高の自由を無条件にすばらしかった、すばらしかったと称賛することはできないにせよ、三高の自由のよさはこういうところにも現れていたといえるだろう。

五月二日午前十時、三高当局はついに、生徒たちのとってきた行動は不穏当なので、五月三日より九日まで、一週間の停学を命じる。ただし決議に加わらなかった生徒はのぞくという奇妙な処分を発表した。新聞記者が足立庶務主任に、誰が決議に加わった、誰が加わらなかったが、当局には判っていないのではないかと問いただすと、「決議に加わっていなかったと云って生徒が申し出れば受け付けて認める」という返事だった。「一週間の停学」は履歴書の賞罰のところに記載せねばならないのかどうか、つまり前科一犯になるのかどうかが暫く京都の街中でも話題になったが、処罰された人間の名前が明記されていない処罰など有効な処罰ではないということに落ち着いたようである。

五月六日の大阪朝日朝刊は「金子三高校長、遂に屁古垂る、上京して進退伺を出す」という見出しの記事を出した。そして一週間の停学の切れる日、生徒大会が開かれたが、大阪朝日は翌日の朝刊で「紛擾遂に終熄、最後の生徒大会」と報じた。生徒大会は、すべてを京大文学部史学科教授で三高出身者の坂口昂博士に一任することを承認したのである。
授業は翌日十日から正常に復した。同月下旬、坂口昂は海外出張することになり、後事を 同僚であり三高出身者である榊亮三郎博士に依頼して、横浜から太洋丸に乗り込んだが、見送りに来た某氏に対し、金子校長の退陣は近いうちに実現するだろうと語った。その談話は新聞紙上にも発表されて、三高の卒業生、在校生の気分を明るくしていたが、そのまま夏期休暇に入り、八月の半ば金子校長の静岡高等学校校長への転任が文部省によって正式に発表された。
金子詮太郎が三高を去るにあたって、生徒は送別会を催し、席上、生徒代表は「不幸にしてわれわれは校長先生と意見を異にしたが、・・・・・」という礼儀正しい挨拶をしたという。京都を淋しく去っていく金子を駅まで見送ったのは、教授の中では栗原基ただ一人だったとも伝えられる。

官立の高等学校の生徒が校長排斥運動を起こし、成功したということ、自分たちの間から犠牲者を出さなかったということは、全く学校教育史上希有の出来事であったと言わねばならない。校長が負けたと云うことは文部省が負けたということである。金子詮太郎は、卒業生、在校生に対し、自分は一々文部省に伺いをたて、了承を得てやっていると自信ありげに語ったこともあったが、途中で自信を喪失したのは何故か。
大きくいえば、大正デモクラシー、大正リベラリズムの風潮というものがあって、新聞も京都市民も比較的、生徒ならびに卒業生の運動に対して好意的であったということ、次には折田校長以来の三高の自由の伝統というものが他の学校には見られない独特のものであったということ、第三には、この自由の伝統は危険思想とは必ずしも結びついていないという風に国家権力(文部省)にも思われ、市民にも思われたということにあったと考えられる。金子詮太郎が、老教授を退職させるにあたって、今少しく人間的な温かさを示せば、敗北しないで済んだかも知れないが、彼は彼らしく振る舞って一敗地にまみれたのである。(後略) (昭2・文乙)

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同窓会報 5 「三高的青春」 青山 光二(1954)

青山光二氏は2008年10月29日95歳で亡くなりました。第29回川端康成文学賞を2003年6月20日受賞された。これは同賞の史上最高齢受賞で、痴呆の妻を介護し、愛を再確認する日々を描いた「吾妹子(わぎもこ)哀し」(新潮2002年8月号)が対象となった。この賞は年間で最も優れた短編に贈られる。重里徹也氏によれば(2003年4月23日毎日新聞夕刊)「小説のイメージは鮮やかで、文章はみずみずしい。西銀座の酒場での出会いから、痴呆症をわずらった現在に至るまで、主人公(老作家)の妻への愛がつづられている。」と書かれている。しんぶん赤旗(2003年8月9日)所載の土曜インタビューによれば青山氏の座右の銘は『描くことによって見るという行為は完了する』だそうで、創作意欲は今なお衰えていない。ここに取り上げた「三高的青春」と直接の関係はないが、同氏の栄誉を祝して記しておく。なお,神陵文庫「紅萌抄」第11巻に青山さんの「私の三高体験」が収録されている、

昭和五年のストライキは、神陵史上重要な事件であったと思う。やはり、あの事件をさかいに「三高の自由」というものが、内面的に変質したのに相違ない、と私は考えている。

私は入学したての一年生で、むやみに好奇心の強い少年だったから、ただ物見高い気持ちで、ストライキの仲間に加わり、寮に立てこもっていただけだ。が、要するに生徒の自治の限界と言う問題で、あのように大騒ぎする理由が私にはわからなかったが、大マジメで討論し、策をめぐらし声を涸らして自由擁護を絶叫する上級生たちの面貌には、三高的青春がある、というようなことを感じ、ストライキを休暇と考えて郷里へ引き上げてしまうよりは、団体行動の規律をまもるべきだ、と漠然と判断したような気がする。

結局、当然のことながら生徒側の敗北(!)おわりに十何名かの除名処分が発表されたとき、私はその人たちの将来を想って、何とも言えぬ暗い気持ちになったのを忘れられない。むろん首謀者以外の生徒全員にも謹慎何日とかの処分があったが、これこそ体のいい臨時の休日だった。

森外三郎校長は責任を負って辞任され、私のクラスの主任教授であった湯浅廉孫先生も退職されたが、それは、生徒側に味方して不穏の言動があったと言う理由からだったと聞いている。(中略)いまも私は湯浅教授の「青春」を追懐して、感動を禁じ得ない。また、一年生の中からただ一人、除名処分を受けた某君は、翌年、再び入学試験を受けて、新たに一年生として入学してきた。これもなかなかのえら物であるが、入学を許した三高もまた、さすがに三高である。

(中略)ストライキ以後の三高生をにわかにむしばみ始めたのは、一言にしていえば、思想への不信というようなものではなかったろうか。

それにしても、一ヶ月足らずのストライキ生活は、私にとって、何という愉しい追憶であろう!クラス名を表示した寮の二階の各室に陣取った生徒たちは、「醜奴ガン吉、屁でとばせ」などという即製の替え歌をがなったりして、なんとなく無聊をかこっていた。醜奴は生徒主事補の佐藤秀堂教授、ガン吉は生徒主事の平田元吉教授、この二人が盟休団の目の敵だったのである。
今でいうとピケラインと言うことになるが、三つの門を、全員交替で昼夜の別なく固めるのが、仕事と言えば最も重大な仕事だった。そのうち、東門は野球部が、西門はラグビー部が引き受ける、というような事になってラグビー部に属していた私は、西門の脇の、土を築いて高くなっている所へあがって、退屈な時間を過ごしたりした。

夜も、暑くて寝苦しい日などは、運動場の隅の草深い辺りへ、二、三人で寝転がって、星空を眺めながら、「静かに来たれ」を合唱したり、そのあげく、そこで夜明けまで一眠りすることもあった。四、五日も経つと、一日じゅう学校の中へ閉じこめられて(?)いるのがやりきれなくなって 、夜陰に乗じて街へ散歩に出かけるのがはやりだした。要領よくピケラインを内側から突破して抜け出すわけだが、どの門にも三年生のガンコなのが一人や二人頑張っていて、なかなか通してくれない。それを、ビールを一本、土産に持ってくるからとか何とか頼みこんで、無理矢理にまかり通るのだから、大変なストライキである。

寺町、京極、四条通りと、おきまりのコースを通ってコマドリ辺りでビールを飲んでから、円山公園の方へ足を向けるのだが、門限があるわけではなし、盟休団の一員であると思えば、なにやらアウトローな、真の自由の感覚があって、まことに良かった。

そのうち切り崩しがあったり、いろいろな事がありながらも、そのような籠城生活がかなり長い間続いたが、その間、所期の闘争に情熱を燃やし続けていたのは、指導者である数名の上級生だけで(その人たちは統制部の文書部を受け持って、なかなか忙しかった)、他の大部分の生徒は、私とおなじように、授業もなければ出席日数の心配もない、 降って湧いたような特別あつらえの「自由」を謳歌していたのである。

やがてある午後、正門のピケラインを破って、教授の一団が乗り込んできた。生徒たちは各室に引っ込んで鳴りを潜めていたが、廊下を教授たちの近づいて来るドタドタという靴音が聞こえてくると、万事休すという気配が、何となく流れた。私のクラスの室の扉をあけて、真っ先に顔を出したのは阪倉教授だった。護身用という感じにコウモリ傘を携えておられた。小田切教授の顔も見えた。続いて藤田元春教授の顔が覗くと、私はあわてて友人の背中にかくれた。果たして藤田教授の「青山はおらんか」というノンビリした声が聞こえた。「おりません。家へかえりました」と級友の一人が答えてくれている。「そうかおらんならええが、わしは責任があるからな」教授の一団が無事に通過すると、私はほっとした。(中略)

盟休団の幹部とのあいだに、どんな話合いがあったのか知らないが、運動場の一隅に生徒全員集合して、教授団の訓辞を拝聴することとなった。(中略)続いて、ほど近い基督教青年会館(?)で盟休団の解団式が行われたのは、栗原基教授の斡旋によるものだったと聞いている。そこで、指導部の生徒たちは、文字通り男泣きに泣いて、自由擁護ストライキのの敗北を痛嘆した。といって、これで三高の自由がなくなるとは、その場に居合わせた誰一人、思ってはいなかったろう。その故か、上級生たちの大仰な涙を、感傷的だと評する同級生もあったが、私は必ずしもそうは思わなかった。少なくともその涙は、それから一月ほど後の、対一高野球戦に負けたときの、応援団長の涙とは、異質の物であった。

三高的青春はその後も、形をかえて、三高生活のなかを流れていた。(昭・九、文甲卒)


(注)神陵史所載座談会「青春とストライキと」から

森(森 績) 昭和4年に、文部省の方針だと思うが、生徒主事が二人制になった。このとき新しく就任したのが佐藤秀堂主事で、この人は三高の先輩だが、「文句はいうな、オレについてこい」式の人で、ちょっと三高の自由とちぐはぐな感じのするタイプだった。そこに先ず問題があったように思う。

昭和4年の末か5年の1月だったか、最初に話の出た社研の読書会に、寮のある生徒が出席して、これが特高に追われて寮へ逃げ帰ったところを、夜半川端署の刑事に引っぱられるという事件が起こった。この事件によって、自由寮が目をつけられることになった。「諸悪の根元は寄宿舎だ」というわけだ。しかし、寮ではその種の読書会が開かれたことは一切なかったんだよ。佐藤主事による寮の取締り強化が打ち出されたのはそれからだ。
「寮に門限を設ける。学校が舎監を任命する」
門限の設定は、文部省もそこまではいっていないはずだ。明らかに学校側の過剰取締りだというのが僕らの感じだったな。
門限など−−三高の自由寮が明治30年に誕生して以来、過去にこんな例はない。なぜ私たちの時代にこんな事をやるんだと、みんなが憤激した。寮といえば三高の自由の中心だ。その自由が弾圧されようとしているのに、これをむざむざ受け入れるのは恥辱だというきもちだったんだ。
そこで、まずわれわれは「寮の問題は全三高の問題だ。生徒代表会議の議を経て事を処するのなら問題はないが、これを無視するのは生徒盟約(大正15年成立)にも違反するものだ」と、学校側に方法論の是正方を交渉したが、聞き入れてもら得なかった。
gaisaburo
ぼくたちは、森外三郎校長の主唱によってできた生徒盟約および生徒代表会議をあくまで信じていたから、そうなると、われわれの希望なり主張を、生徒代表会議に訴え、生徒大会を開いて、投票によって結論を出そう、という方向へ、当然傾いていったんだよ。
私が生徒大会の議長を引き受けることになったのは偶然のことなんだ。
私の見通しとしては、大会を開いてもストの決議にまで至ることはあるまいと考えていたよ。というのは、前年昭和4年の4.16の除名処分のとき、左翼の連中が除名解除要求の生徒大会を開いて、ストを提案したが、反対多数で否決という前例があったからね。
しかしこの際は、左翼の思想問題でなく三高の自由が問われていたところが違う。
大会には、約700人が参加したが、投票の結果、500人がストに賛成した。
(中略)大会の決議はこうだった。

1. 自由寮の非自由化反対
2. 代表会議の完全なる自主化
3. 佐藤生徒主事の辞職要求
4. 保証教授制度の撤廃(後略)

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同窓会報 21 溝淵、森總両校長の思い出 板倉 創造(1962)

金子銓太郎校長森外三郎校長の後を継いだのは溝淵進馬校長であった。先生は昭和六年一月から十年九月十一日亡くなるまで在任され、十七日校葬が行われた。生徒は自発的に斎場の除草作業を行い、名校長の死を悼んだ。その後を継いだのが森總之助(愛称:森總)校長である。三高を失った無念さを病床の森總校長が語っておられるが、三高に学んだわたしは、三高の教育が一人一人の生徒に与えてくれたものを思うとき、三高のような学校が失われてしまった現状を嘆かずにはおれないのである。三高は折田先生はじめ立派な校長に指導されて来たが、その中に屹立する二人の校長の面目をこの文から窺うことが出来る。名物の散髪屋の親父ビリケンのことも。


mizobuti
東北の片田舎から浪人して入学したのだからモッサリしていたと見え、「板倉君、君は入寮以来毎晩ストームをやっているらしいネ」と云われた。尚賢館で新入生引見式があった際、校長から賜った最初のお言葉である。ズーズー弁でムキになって抗弁したら可笑しそうにフフフと笑われた。溝淵校長は古武士の面影があって滅多に笑われない方のようであった。当時、昭和九年、十年の頃は対一高戦はさんざんの不出来で、それが学内全般に何かしら影響を与えていたようだ。ややもすれば沈滞しようとする志気を鼓舞する必要を感じられたのであろうか。選手推戴式の日であったか、校長は新徳館の壇上から、三高七十年の輝ける歴史を忘れてはならぬ、一高に連敗するとは何事ぞと叱咤激励された。その時の炯々たる眼光とその気迫に、全三高生シュンとした。左翼運動で放校された五高生(編者注:溝淵は第三高等中学校一部文の卒業、東京帝国大学文科大学を卒業後、東北帝国大学農科大学予科教授、第四高等学校長、第五高等学校長を歴任して三高の校長になった)が貧窮の環境に追い込まれても、なお溝淵校長の写真を自らの部屋に飾っていたという話が伝わっていたが、事実私もその一人を知っている。親友浜口首相から懇望された文部大臣の椅子も拒んで秀才の薫陶に当たっていると云うことで、それがまた三高生の秘やかな誇りでもあった。
校長が死の床に就かれた昭和十年の夏、私は寮生を代表して京大病院にお見舞いに参上した。先生に私は孤高の美しさを見た。先生は死を前にして毅然として居られたが、寂しさを秘めた哲人の面影を偲ばせるものがあった。旧友武田東大名誉教授の死を報ずる新聞を手にされて、武田も遂に逝ったのかと感慨深げに眼をつぶられた。私はその御心境の深さを測りかねた。後年、たまたま隣の病室で溝淵校長の死を壁越しに聞いた人と友人になった。語るところによると、先生が亡くなられた瞬間、部屋は号泣に包まれ、それが実に一時間にも及んだそうだ。高齢で亡くなられ斯くの如く哀惜される人はさぞかし偉大な人物に相違ないと感心したとのことであった。鍛えに鍛え練りに練ったきびしい人格、これは溝淵校長の真の面目で、今後はあのような型の人はあまり現れることがないであろう。

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これに比し森總の愛称で慕われる次の森校長は性格的に全く異なっていた。あの偉い溝淵校長の後だけに私達三高生にとってはどうも頼りない印象で、一年近くは、校長不在中の代理校長と云った感じであった。ところが次第に貫録がついて大校長の風格を持ってこられた。しかし教育勅語を読み違えたり、礼服ズボンの上にズボンをはいて気づかなかったり、訪問先を間違えて上がり込んだりするという天真爛漫ぶりで、前校長とは丸で違った持ち味で、今になって考えると実にすばらしい人間であったと思う。美留軒上田老(編者注:ビリケン)の曰く、森總さんは三高時代から校長になった今日まで散髪代は常に五十銭ときまっている。物価の変動にはかかわらない。三高時代の五十銭は規定料金の数倍、今ではその何分の一云々。あの大きいお頭(ツム)を、気持ちよさそうにビリケンに散髪させている光景が偲ばれる。

校長になられて最初の対一高戦(昭和十一年)は三部すでに破れ野球を残すのみとなり、西京極グランドで全三高生必死の応援の下に戦われた。一高はインターハイの勝者であり、一高校長森巻吉氏は勝利を確信して傍らの森總三高校長を顧みて三高運動部の弱体を揶揄されたらしい。森總校長は真っ正直にこれを受け、顔を真っ赤にして憤慨された。ところが弱い筈の三高が二対ゼロで勝ってしまった。その時の感激、興奮、二十有五年を経た今日と雖もこれを思うと血自ずから湧くを覚えるのであるが、わが親愛なる森總校長もとより感激々々である。この勝利を契機として三高は勝利に勝利を重ね、ついで三年、四部全勝の輝かしい歴史を打ち立てたので、森總校長はこの意味でも好運の方であったと思う。

戦後東北の郷里から出て二度ばかり洛北北白川の御宅に病気見舞いをかねてお伺いした。亡くなられる前年お訪ねしたときのこと、「板倉君、アメリカは三高や一高のような学校があることが怖いので、つぶしてしまったのだよ。しかし、三高はいつまでもつぶされてはいないだろう。わたしは固く信じている。必ずや三高百年紀念祭は、復活した三高の学生と同窓生の手によって賑やかに開催されるであろう」と先生は例の早口で語られた。わたしは三高と共に人生のすべてを生きてこられ、ひたすら三高生のことを愛し続けられてこられた老先生の神々しいお姿をしみじみと眺めさせていただいた。(中略)

私は三高生時代、この偉大なお二人の人格から直接教えを受けたことを今頃になって漸くしみじみ感謝するのである。苦しいときには両先生を偲んで心秘かに激励を受けてはまた馬力を出して生きていくのである。(昭12・文甲卒)

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