写真資料室

          校旗                          校銘板(京大大学文書館所蔵)

flag

















plate











退

















  ハラタマ

haratama haratama

Koenraad Wolter Gratama(クーンラート ウォルテル ハラタマ)は1831年オランダ、アッセンで生まれ、慶応2年(1866)長崎に来た。翌3年江戸に移り江戸幕府開成所の充実に努め、大阪での舎密局創設に当たる。明治4年帰国。我が国理化教育の恩人。詳しくは舎密局の項を参照。

我が国化学の父を記念するため、阪大・芝教授を中心にしてオランダ修交400年に当たる2000年の秋、舎密局跡南方200メートル「舎密局址」碑の近くに、この胸像が設置された。像の管理は大阪大学内・適塾記念会が担当。

舎密局

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上図で左手に櫓の見える建物(長谷川小信画/京都大学総合人間学部図書館所藏)

seimikyoku

浪花百景之内セイミ局(長谷川貞信画/神戸市立博物館所蔵)

何 禮之(が よしゆき)

折田彦市校長

大坂洋学校の創始者
明治二年九月−−三年六月

この写真は晩年のものと思われる。京大総合人間学部所蔵

明治十三年四月−−十八年十二月
明治二十年四月−−四十三年十一月

は明治四十五年藤島武二の手による。折田と藤島は共に薩摩の出身で1909年欧州から帰国した藤島が同郷のよしみで依頼されたと思われる。絵は1912年5月の創立記念日に完成披露されたという記録がある. 胸像は、京大百周年時計台記念館1階歴史展示室で、大学文書館が開いている常設展「第三高等学校の歴史」で一般公開されている。

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 京都へ移転当初の吉田校舎群

1889年(明治22年)7月完成した第三高等中学校(後の三高)の校舎はいずれも堂々たる校舎で、最高学府に相応しい校舎であった。京都帝国大学に移譲された後、化学教室は採鉱冶金教室に、物理教室はそのまま京大物理教室に転用された。

この間の経緯については三高略史を参照されたい。

吉田旧校舎

吉田旧化学教室

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吉田旧物理教室

吉田寄宿舎

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 二本松へ移転後の校舎

1897年(明治30年)三高は二本松町に新しい校舎を建設、移転した(その後も吉田校地の校長官舎と教師館二棟は三高の管理下におかれた)。この間の経緯については三高略史を参照されたい。

二本松 校舎本館

二本松は町名の由来となったが、1本は大正中頃落雷によって消失し、残った1本も昭和9年の風害で失われた。屋上の櫓に「自由の鐘」が懸けられた。
新しい三高校舎は木造で、吉田校舎に及ぶべくもなかったが、以後半世紀、廃校に至るまで教授たちの教育の姿勢には、舎密局以来の最高学府としての伝統と矜持が生きつづけ、学問に裏付けられた最高の内容を教授する気概に満ちたものであった。三高廃校とともに京大教授になられた先生も多い。

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二本松 最後の校舎本館

昭和11年新校舎本館が竣工したが、以後予算縮減・戦争突入のため残りの3/4は未完のまま廃校を迎えた。この新校舎本館屋上鐘楼に旧校舎以来の「自由の鐘」が懸けられた。

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逍遙の歌(紅もゆる)歌碑

京都 吉田山山上にある。逍遙の歌を中心とした主峰群を囲み数々の寮歌を象徴する多数の石が配置してある。

設立の経緯については別に記した。
(1988年(昭和63年))

2008年5月傍らに副碑として「歌詞碑」が設置された。歌詞碑は陶板焼付の歌詞板を取り付けた
御影石です。

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小口太郎顕彰碑

諏訪湖畔釜口水門河川公園(JR岡谷駅からタクシーで5分)にある。袴姿で芸術と科学を象徴する二冊の本と小辞典を持つ小口の像(新制作協会・田畑一作氏作)の周辺には顕彰碑や江崎玲於奈揮毫の歌詞碑、その傍らにミュージックボックスが配置されている。同窓生の斉唱、管弦楽(諏訪交響楽団)、混声四部合唱(岡谷市音楽協会)を選んで琵琶湖周航の歌を聴くことができる。
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建碑由来
小口太郎生誕90周年にあたり、万人愛唱の「琵琶湖周航の歌」の創作のみならず  創意に満ちた非凡な科学者でもあったことを讃えて 岡谷市民をはじめ 近隣市町村 諏訪清陵高等学校及び旧制第三高等学校同窓生 長野県漕艇協会等多くの有志から 生誕 の地岡谷市湊に小口太郎の顕彰碑建立が提唱され、全国各地からの協賛を得て ここに顕彰碑・銅像・歌詞碑・ミュージックボックス等が 完成いたしました
この顕彰碑等は 天竜川の源にあり また近代科学の粋を集めて建設された釜口水門に 隣接し 諏訪湖・天竜川の治水や防災の要としての水門を見守りながら 緑と湖に囲まれ た美しい郷土と調和し文化のまちにふさわしいシンボルとなるとともに 人々の心の励み となることを願って建立したものであります
この顕彰碑等建立にご尽力頂いた多くの方々 また趣旨に賛同され、題字や歌詞の執筆 に積極的にご協力いただいた茅誠司先生・江崎玲於奈先生に深く感謝申し上げるととも  末永く親しまれることを祈念し 建碑の由来といたします
昭和63年 10月吉日
小口太郎顕彰碑建立実行委員会会長
岡谷市長 林 泰章    

小口
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小口が今津から小玉に送った葉書の絵

この私製葉書の表には“昨日は猛烈な順風で殆ど漕ぐことなしに雄松迄来てしまった。
雄松は淋しい所で、松林と砂原の中に一軒宿舎があるだけだ。羊草の生へた池の中へボートをつないで夜遅くまで砂原に寝ころんで月をながめ、美人を天の一方に望だ。今朝は網引をやって面白かった。今夜はこの今津に宿る。”と書かれている。裏面のこの絵は小口の手になるもので、白砂青松の雄松浜の雰囲気を良く伝える。小口家に現存する。

艇庫遠望(大津)2006年秋

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三高端艇部の艇庫は今もそのまま残る。参照

艇庫の上の「我は湖の子」の歌碑(1973.6月建立)

艇庫の上の全歌碑

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「松は緑に砂白き」の歌碑(1989.3月建立)

今津の歌碑(1994.4月建立)

近江舞子“琵琶レイクオオツカ”の前
碑の下部に書かれた奥田東先生の字が
薄れ、読みにくくなっている(2006年秋)

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歌碑

今津の航路灯(1985.6月建立)

今津の街路で

波止場の位置が当時とは異なるが、現在の
航路灯の軸に3番の歌詞
琵琶湖周航の歌資料館から港への歩道
脇に一番づつの歌詞の碑が

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歌碑

琵琶湖周航の歌歌碑(竹生島)(1987.5月建立)

歌碑の由来(竹生島)

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歌碑

琵琶湖周航の歌歌碑(彦根)(2005.10月建立)

長命寺の歌碑(1998.4月建立)

最後の歌碑五番彦根が2005年10月14日彦根港 湾に建立
落成した。広い立派な歌碑苑の中に立っている。『琵琶湖周航
の歌』(五番彦根)歌碑建立
参照。
長命寺の碑は長命寺の麓、
長命寺港のトイレの近くにある。
撮影夜間

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吉田千秋

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琵琶湖周航の歌の原曲は吉田千秋作曲の「ひつじぐさ」である。千秋については本文を参照願いたい。この写真は吉田千秋が東京府立四中を明治45年卒業したときの卒業写真から部分拡大したものと思われる(17歳)。

三高創立130年記念全国大会

1998年は創立130年であった。5月10日京都東山山麓の「都ホテル」で全国大会が開かれ参加者は1036名。翌11日には琵琶湖周航の歌歌碑巡りのバスツアーも行われた。(写真提供 同窓会本部)
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山本帽子店のビラ

新入生を対象とした帽子の広告

三高の帽子についても小さな物語がある。別に記した。

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