§折田先生のこと

折田先生のこと

先に掲げた略史年表に見られるように折田先生は約30年間ほぼ継続して校長を勤められた。明治の黎明期にあって学校制度の新しい、しかも試行錯誤が繰り返された特異な時期ではあったが、30年に亘る在職ということは当時としても異例なことであった。

三高の独自の校風の確立は全く折田校長に負っている。数年も経たない内に転勤が慣例となっている現在では、校長個人の校風への寄与など望むべくもあるまい。板倉創造先輩の詳細な研究“一枚の肖像画−折田彦市先生の研究(三高同窓会(1993)発行:同窓会本部で入手可能)”を参照しつつ記してみたい。

嘉永2年(1849)薩摩で生まれた先生は、数え年14歳で最後の藩主茂久の小姓となり、20歳の時随行して京都に出た。選ばれて当時朝廷で権勢を振るった岩倉具視の御附役を命じられ、この縁から具視の二子の長崎遊学の後見役となる。さらに明治3年この二子の米国留学に際し「附人」として従い、彼らがラトガース大学に入学したあとは、独自行動をとった。先生はコーウイン牧師宅に下宿して大学入試の準備を進め、明治5年(1872)長老派系のカレッジ・オブ・ニュージャージーに入学した。この大学は後年プリンストン大学と改称した米国屈指の名門である。長老派教会は伝統的に「自由と教育」を重んじ、自由、自尊、体、徳、智の三者を総合した「リベラル エドュケーション」が教育の理念であった。これが先生の受けられた教育であり、三高教育の理想もまたそうであった。

先生はコーウイン牧師宅におられた頃からキリスト教に深く感じられるものがあり、熱心に聖書の研究もされたが、牧師はカレッジの総長マコッシュ博士とも親しく、先生は入学と同時に同博士から聖書講義を受けることになった。コーウイン牧師、マコッシュ総長ともに滞米中終始先生を可愛がり、面倒を見られ、深い人格的影響を与えられた。帰国の3ヶ月前、明治9年(1876)先生はこのマコッシュ博士の手でキリスト教徒としての洗礼を受けた。

帰国後の先生は官立学校の校長として、直接キリスト教を三高教育に持ち込まれるようなことはなかったが、奴隷解放から日の浅い当時コーウイン牧師のミルストンでの解放を支持する説教やプリンストン大学に流れるキリスト教を基本とする誠実な愛に満ち、自主的な人格を尊重し、精神の自由を尊ぶ姿勢が、先生の教育の信念として三高の教育に生きつづけたのである。この点では幕末国禁を犯して単身渡米し、多くの人々の好意を受けつつアーモスト大学に学び、米国社会の根底にキリスト教があるのを看破し、日本にキリスト教に基づく私立の大学を創設しようという情熱のもとに、京都に同志社を開いた組合派教会の新島襄と通じるものがある。19世紀のアメリカ社会を支えていた思想が、折田先生を通じて直接日本の公教育の中に開花したのが三高であった。折田校長との出会い 武間享次も参照願いたい。(写真資料室参照)

1996年三高同窓会は、同窓会の一千万円を「折田/マコーシ レクチャー基金」としてプリンストン大学に寄贈した。このとき折田家から三百万円、板倉家から三十万円も拠出されたので、基金総額は合計一千三百三十万円になっている。今後基金によって、永久に毎年一回、米国において両国の親善と人類の平和と発展に寄与する内容の講演が開催されることになった。
第1回の講演は1997年11月5日夜、プリンストン大学マコーミックホールで開かれた。同大学東アジア学部のMartin.C.Collcutt教授が「Yankees & Samurai:”The Great japanese Embassy"in Washington D.C.,1872」との演題で講演した。折田先生が岩倉具視の二人の子息に随行して渡米されていたことから話を始め、1872年に先生がプリンストン大学に入学されたことも述べた。主題は、この年2月29日、明治新政府の要人木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らを構成員とする岩倉具視視察団がワシントンDCに到着し、その後数ヶ月に亘って滞在した期間の久米邦武の記録を精査した話であった。Collcutt教授は、この記録は19世紀にアメリカを訪れた人の記録として第1級のものであり、また、彼は太平洋の両側の二国が単に外交のみならず、経済的にも、文化的にも、将来強く結ばれるであろうと予見していたと話された。
1998年は三高創立130年に当たるので、特に全国大会の前日5月9日に京都で第2回の講演会が開催され、卒業生の村田良平氏が講演した。

三高校庭にあった折田先生の銅像はその後ペンキで毀損されるなどの出来事があり、保護のため撤去されていたが2010年10月より、京大吉田キャンパス本部構内南側の三高記念館設置準備室で一般公開が再開された。



神陵史には折田先生についての回想が記されている。

先ず明治25年、秋の運動会の余興が年々華美に流れる傾向があるところから、余興廃止の通達がされ、これを不満とする生徒を代表して四人の談判委員が校長官舎へ押し掛けた。委員の一人桑原隲蔵の回想。

「例の温容を以て迎えられた校長を取り囲んで、四人の委員は替わる替わる滔々と余興の廃止すべからざる所以を弁じ立てた。校長はこの間一言も発せぬ。四人の弁ずる儘に弁じさせ、さて徐ろに口を開いて次の如く答えた。『皆サンの意見はよく聞いた。併し私は議論をせぬ。私は承知の通り性来の口不調法者で、皆サンは組で一粒選りの口きき、しかも四人一処である。議論では私が負けるのは分かって居る。議論はせぬが、私の意見も枉げぬ』
柳に風の張り合いもなく、暖簾に腕押しもなり難く、我々四人は其の儘引き下がったが、『議論では負ける』の一言は深く耳底に残って、学生の我々にも折田校長は何となく偉大の人物のような感を引き起こさせた。(中略)折田先生は口の人ではない、又腕の人でもない、併し先生が三高在職の二十余年間に於て、消極的には一回の学校騒動を惹き起こしたことなく、積極的には何れの高等学校にも立ち優って、有為の卒業生を輩出させて居る。手腕に於いて弁舌に於いて先生より優れて見える他の教育家よりも以上の効果を収め、成績を挙げて居る所を見ると、先生は弁舌以外手腕以外に、別に偉大な所があるに相違ないと思う」

また片山哲(明治四十一年一部法)によれば

「三高の特色は自由である。これは勿論放縦乱雑でなく、勉強する者は一心不乱に勉強するし、文学に耽るものは文学に、運動に熱中する者は運動に、という具合に、各々その欲するところに精進しておった。(中略)その自由の代表は何と云っても当時の折田校長であった。悠々と比叡山を眺めつつ、校長室におさまり、十八世紀式のフロックとも背広ともつかない洋服を着て、時間が来たらさっさと帰って行く、干渉することなく、圧迫することなく、学生の意志を尊重するという態度は全く特色があり、大いに敬服されて特色のある風格をもった校長であった」

明治30年6月の京都帝国大学創立を控えて、4月三高は再び大学予科を設け、9月には二本松新校舎が完成する。ここが廃校されるまでの三高の存在位置となった。大学予科第一回入学者小豆澤英男(明治33年一部文卒)は折田先生について次のように記している(神陵史430ページ)。

最後に最も深き印象といへば折田先生の人格の光である。田舎出の二十才の青年にはこの偉大なる先生の真価の分らう筈はないが、唯吾校長は第一流の人物であるとおぼろげに感じたものであるが、これが一生真面目に行動する原動力となるのである。先生を平凡の偉人と評した学生があったが、将に然りである。入学式の訓辞も思ふた程のことなく、又先生は当時珍らしい米国へ留学してマスター・オブ・アーツを所有せられて居る。しかも西洋人との御話はあまり流暢でない。風采は温斗として威あってしかも近より安すい。寄宿舎の風呂に生徒と共に御入りになって、君の故郷は何処か、両親はあるか、君は何君の弟か、君の学校よりは某々が来て居った、など平凡の物語の中に親しみ易い処があった。又生徒の申出はよく御聞き届けくださった。嘗て寄宿舎にて夜の門限延長を舎監に申出で、聞き届けられなかったから、夜中ストームをやった。翌日舎生を集め、校長は一応の説諭を与へ、握飯でも持って郊外へ遠足をせよとて、何たる御叱もなかった。甚しきに至っては、今から考へれば失礼至極のことなるが、何々先生は力がないから他の先生に変へてくださいと申出ると、それもいつか許可される。やめた先生も、その後を襲ふ先生も何たるわだかまりもない。ここに所謂自由の流があるといふべきであらうか。

同窓会報19には、泉彌市(明治三十七年一部法)が「ブラッシュ先生に対する思い出」を記しているが、折田先生はただ黙って校長室に坐っておられたのではなかった。泉は

「私が三高に第一部法科生として、入学したのは明治三十四年であった。その翌三十五年には二学年に進級、たまたま組長に選ばれた。この組のドイツ語教習担任者の一人に、ドイツ人ブラッシュ先生があった。この人はユダヤ系の人であって、当時は欧州においてユダヤ系は多く厭われ排斥されていたので、この種の人より講義を受くること恥だと思う如き至極単純な考えから、同組の総てはこの先生を排斥せんと企て、組長の私が総意を代表して先生が教室に入場せられた冒頭に排斥の詞をドイツ語で披露した。
この事実が後日折田校長の知る所となり、私は校長室に呼び寄せられこの種非道な排斥行為を強く叱責されたのである。私は率直に陳謝したるを組の総てに伝え、皆これを了承したため何らの罰も無く、受講を続けることが出来たのである。(後略)」

と述懐している。


また、田中秀央の「三高時代の思い出」伊藤英三郎の「思い出」にも短いが折田校長の思い出が書かれている。  

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