§古い同窓会誌から

同窓会報 5 「原爆医学始末−−二つの立場 」
 
天野 重安 (1954)

1951年当時天野さんは京大助教授であったが、「原爆症講座」を開き、医学部の学生は”スーパープロフェッサー”という敬称を捧げていた。それほどに威厳があり、すぐれた業績を創られていた。原爆の被害を医学的に調査するアメリカ調査団は、終戦直後にやってきたが、調査が終わって引き揚げる時、各地の大学を回って、そこにある資料を半ば強制的に集めていった。天野さんは学者としての良心から、貴重な観察記録や標本は手許に保存され、講座はこれをもとにした講義であった。1951年5月の京大文化祭に、民主主義科学者同盟や新日本建築家集団に属する学生を中心に、日本最初の原爆展が学内で開かれた。この時、天野先生、理学部の木村毅一先生、作家の太田洋子さんの講演も行われた。占領軍(連合国軍)総司令部が講演を理由に天野先生に逮捕をちらつかせるような時代のことである。この原爆展をベースに、1951年7月14日から10日間、京都丸物百貨店(現在の近鉄百貨店)で、京大同学会の統括のもとで、いろんな方の支援を得て、警察の干渉やアカ呼ばわりの声を排しつつ、丸木位里・赤松俊子夫妻の「原爆の図」を中心に、科学的な資料も説明展示して「京大総合原爆展」を市民に供覧した。訪れた人は3万人を数えた。この展覧会にも、天野さんは貴重な資料を提供された。天野さんの人間としての気骨、医学者としての信念を窺える文章が同窓会誌に出ている。約45年の歳月が流れたが、原子力についての考えも今なお色あせてはいない。今日は原爆が広島に投下された日である。(1998年8月6日)

(2004年8月26日追記)毎日新聞京都版には目下「’04平和考・京都」が連載されているが、8月25日の紙面は「歴史無視すれば未来語れず」と広島に原爆が投下された後、1945年9月京大から派遣された「原爆災害総合研究調査班」のことが書かれ、調査班に参加した当時医学部二回生(現京都四条病院会長)中野進氏の話を中心にまとめられていた。その中に次の記述が見られる。

京大は広島市の南西郊外約20キロ、大野村にある大野陸軍病院に拠点を置いた。・・・9月17日朝、・・・枕崎台風が近づいていた。・・・同日午後10時20分、山麓の同病院を、大規模な山津波が襲った。木造の病院は建物ごと流され、破壊された。患者や職員ら156人の犠牲者の中に、京大調査班の眞下俊一教授(内科)、杉山教授ら教官と、原さんや平田さんら学生の計11人も含まれていた。・・・京大調査班の活動も停止を余儀なくされた。
進駐軍は原爆への批判的報道を禁じる一方、日本の研究者が調べた病理解剖データなど原爆関係資料を収集した。論文発表は50年代初頭まで制限され、日本の原爆研究は頓挫した。
京大も例外ではなかった。大野の山津波で教授を失った病理学教室の助教授、故天野重安博士の元にも米軍医が訪れ、資料提出を迫った。天野博士は憤り、杉山教授ら遭難者の名で研究内容を公表するよう求めた。中野さんは「毅然とした態度に敬意を抱いた」という。だが要請は当然のように無視され、米医学誌に無断発表された。


人間界のことは人のやることだから一度あれば二度ある。嘗てチフスのワクチンを注射している際にどう誤ってか、結核菌が混じって注射され、200名ばかりの児童が、摂取結核を起こし大騒ぎをしたことがある。その記録は、ともかく、学術的な精度で残されたが、その記録を作るときには、もはやこんなことはあるまいがと思っていた。それが一年経つか経たないかに、今度は百日咳のワクチンを接種する際に、やはり、結核菌が混入して、百人近い幼児が発病した。最初の場合は注射に当たった医師が、重篤な結核であったからだ、という推測が行われている。後の方は今もって混入経路がわからない。
このようなことは我が国の特産かというと必ずしもそうではない。1930年ドイツのリューベックでBCG菌を嬰児に、口から与えて免疫を獲させようとしたところが、どこで誤ったのか、それが有毒菌でたちまち255名の感染者を出し、その中70余名が剖検された。この問題はドイツ一流の精密さで臨床的、細菌学的ならびに病理学的に追求されて、人体感染実験の極めて有力な記録として禍を福に転ずる努力がされた。私などもこの記録は精読した。
このような場合は法律的な責任はともかく、医学的な記録として精細に書きとどめてあれば、それは科学的な資料として永く価値を持つし、また役にも立つ。科学者にはこの二つをわきまえて取り扱う余裕が必要だ。


原爆や水爆の人体障碍という問題にもこのような見方が要請される。広い人道的な立場と、別に綿密な科学的観察記載と二つがである。
昭和20年8月6日広島に特殊な性能を持つ爆弾が投下された直後、軍の要請で、物理の荒勝教授らと共に病理の故杉山教授らが、巻ゲートル握り飯持参で、広島に赴き、似の島で被爆後4,5日の屍体を三例解剖したのが、原爆医学のそもそもの始まりであった。なにぶんにも続いて京都爆撃の噂のあった折とて、この調査隊は早々に引き揚げた。しかしこの時に得た馬の骨からβ放射能を検出して、この爆弾が特殊の放射能を持つものであることが明らかにされ、原子爆弾であることも認定された。またこの時の三剖検例は被爆後最も早期の病変を示す貴重な類例のないものであった。広島・長崎など地元では、最初、状況が混沌として、剖検の余裕などはなかったわけだ。

このように外傷、熱傷による死亡者をひとわたり出した(これを「急性原爆症」と称した)後に、早くて被爆後10日頃から、脱毛、歯齦出血、血性下痢等の症状を発して、一応元気に見えた人々が斃れ始め、8月下旬にはこのような病死者の頻発が頂点に達し、9月下旬まで死亡する者が引き続いた。これは我々が「亜急性の原爆症」と呼んだものである。この状態は骨髄の障碍によるものであることを、我々は22例の解剖でまず明らかにした。

広島における一発の原爆は急性期と亜急性期とで26万の死者を出した。

一弾が四分の一ミリオンの人を殺すということを、私の口からきいた欧州の人たちは、いづれも顔をこわばらせて口を噤んでしまったのを憶えている。おそらくこの数に麻痺してしまっているのは、日本人自身と米人とであろう。

これに関する記録は、ようやく昨年日本学術振興会から「原子爆弾災害調査報告」として、理・工・農・医各部門にわたる膨大な記録が公表された(ただし、この記録は被爆後数ヶ月の観察に限られている)。何故にこの公表が遅れたか、それには講和の発効および独立の回復ということと極めて微妙な関係をもっている。つまりこれらの資料はそれまでは戦略資料であるということで、研究者の発表が阻まれていたのみならず、多くのこれに関する標本の類が強制的に持ち去られ、研究者はこの研究に関する限り、ありうべからざる不快を味わされた。
終戦後の混雑の中に、医学的目的で、苦心して検索した剖検標本や血液標本が、このようにして戦利品同様の取り扱いをうけたことは、こちらの研究の研究者が単なる医学者であっただけに、まことに遺憾であった。これは学術的設備であるサイクロトロンが、根こそぎにされて海中に投じられたのと大差はない。またこんなこともあった。終戦直後から「原子爆弾災害臨時調査委員会」を組織して、この記録の整備に奔走した都築教授のごときも、一日、熱傷ケロイドの処置について漏らした言葉が、報道機関に取り上げられた故をもって、その後の活動が禁止されてしまった。

平和回復後、同教授の活動が可能になって、ようやく前記報告書の刊行を見たのである。またそれと並行して「原爆災害調査班」なる文部省の科学研究班も再び組織された。またこれらのきっかけを作ったものとしては講和発効後数日、早くも原爆障碍シンポジュウムを開いて、医学的討議を行った日本血液学会の努力も銘記されてよかろう。ここに日本人が初めて自分の国民のみが与えられた恐るべき疾患に対して、公然研究討議する機会を得たのである。しかしこの時は、慢性原爆症たる一疾患、すなわち、白血病発生の調査を日本の手で行うのには既に手遅れの感があった。

さて、被爆後すでに一年余で、白血病発生のことが注意され、さらに、三・四年後に次第に高率を以てこれが注意を呼んで、今日では慢性症のもっとも著しい現象として注目されている。この白血病の発生率は非被爆対照地方の五・六倍で、もし被爆者の範囲を爆心1キロ半の半径の地域に限っていうならば、30倍に近い発生率を示していることになる。
最近では、広島から日本全国に分散した被爆者の健康管理がさらに系統的に行われ永久的問題化してきた。

このような態勢の折にあらたにビキニの灰による水爆被害漁夫の問題が起こり来った。あたかも研究意欲の快復期に、日本の研究者がこれに対して速急の対策に努めたことはもちろんであった。なお、この研究陣が、兼ねて原爆研究に際して、前述の苦難を味わった人たちであったことも、ことの成り行き上看過し得ないであろう。
このたびは、来日した米研究者も、占領期と同じような直接手を下す機会を得ずに引き揚げた。このことの結果は米側がワシントンで井口大使を呼び寄せて小言を述べたという報道にも現れている。
しかし東大の病理学者は患者の剖検のあることを予想して、当時、学会出張地から呼び戻され足止めされたほどであった。また、そのような状態の患者に対して米側の協力というのは、各患者に対し、臨床記録照合1時間さらに理学的診療3時間ずつの面会を許せということであった。危篤の患者に理学的診療3時間を行なわしめるということは、折角ここまで診療しつづけた主治医には到底無関心であり得なかったろう。それは医師として当然の態度であると思われるが、その結果が診察を拒否したといわれる形を取ったのである。我々はむしろこのような医学的確信と人道的意気とで、患者を守りつづけた医師の毅然たる態度にほのかな欣びを感ずる。日本の医学は、多数の原爆患者処置の経験、および我が国に特に多い再生不能性貧血症の観察経験から、世界いづれの国にも劣らない治療上の自信を持っている。素人流の藁をも掴む心理は不要である。
当時、原爆症の発生機序に関する我々の見解からすれば、6週間を峠としてこれを過ぎればともかく一応の死期は脱しうるものと予想できた。しかし今度はフィッションプロダクト(核分裂生成物質)の障碍から幾日で快復しうるか、やはり新しい試験に属する。これは前回の原子爆弾の場合にはほとんど問題になり得ないところであった。

     もっともストロンチウム90のごときウラニウムの分裂産物の生体内分布については、動物に用いて、英人が最近研究している。それは格好なアイソトープによるラジオオートグラフ的研究というほかに、前述のフィッションプロダクトによる生体障碍に関する予備知識を得るためとも考えられる。武器を作ったものが同時にその武器から免れる対策を考究しなければならない、ということは奇しき矛盾である。水爆の場合には、この矛盾を武器制作者のみでなく、全世界の人々の理性に訴えて解決する外はなきまでに立ち至ったところにまた問題の新しい発展がある。


私の考えとしては、原爆症は医学的対象であり得た。それは交戦国間の軍陣医学の対象であり得た(もっともこれも非戦闘員と戦闘員を無差別に障碍する点で、当然問題にされるべき性質を持っている)。しかしこれが水爆に発展するに到って、もはや交戦国たると非交戦国たるたるの別なく障碍が広範に及びうる点で、地球的問題となった。勿論医学者はそのような場合にも、毒蛇の障碍を記載すると同様の冷静な科学的努力を要請せられるであろうし、我々はそれを怠るものではない。

我々が如何に拒んでも、一度発見された原子力は、よくいって、今後あらゆる方面で平和的利用が考究されるであろう。それに目を覆うということは非科学的である。そして、たとい、爆弾という形の原子力を禁止したとしても、我々はその平和的原子力に対してさえも医学的対策を考究し置く必要のあることは確かだ。そのような意味で、いわゆる原子病を医学的に研究する機関というものは永く必要であろう。これは誤解されやすい点ではあるが、原爆医学とはそのようなものである。あたかも第一次大戦の結果として生まれた毒ガス、イペリットの申し子として、今日、白血病や癌の治療にもっとも珍重されているナイトロジェンマスタードが生まれたことを想起されればよい。
とはいえ、水爆の問題は、いったん原爆の問題に終止符を打って、見方を変えなければならないほど多くのものを要求している。もはやここには医学の限界がある。治療医学としてではなく、予防医学として世界の理性が要請されるのだ。かかる見通しのできる国民は、おそらく、被害者日本人のみである。また環太平洋の国々のうちで、科学的根拠にたってこのことに発言しうるものは日本のみではないか。ここに日本人の世界に対する責任が自覚されねばならないであろう。(大14・理甲卒)
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同窓会報 15 「湯呑所のある風景」 山本 修二(1959)

あれはたしかに湯呑所と言うのだったと思う。場所は三高の本館と新刊とをつなぐ廊下のちょうど中程にあって、ちっぽけなそれでも独立家屋であった。いまどきの学校建築に湯呑所という場所があるかないか解らないから、念のために説明しておくと、これはどこまでも教職員のために建てられたものでなく、学生専用のものであって、その用途はといえば、名前の示しているとおり湯をのむ場所にちがいなかった。私が三高に通学していた大正期の始めには、学生達は大体において弁当を学校へ持っていったから、こういう施設が必要だったのだろう。もちろん私も弁当持参組だが、どうやら弁当は教室でたべていたらしく、ここで食った記憶がない。それにそのころから、佐藤とか長谷川とか成龍軒とかいう学生食堂が発達してきて、おいおいと湯呑所の用途はなくなりかけていたのかも知れない。

この湯呑所は、東向きでガラス戸をあけてはいるのだが、中の道具立てはどうなっていたのか、その記憶はおぼろげだ。その前にいた京都一中にも湯呑所というものがあり、この方は室内の中央のかまどに、堂々とした釜がかけてあって、学生たちはシャクで持って熱湯をくんでのむのだから、たしかに湯呑所にちがいなかった。三高の方にもそのような釜があったかなかったか。ただ間違いのない事実として、冬になるとここにもストーブが設置されて、ヤカンが置かれていたと思う。なぜそのことがはっきり断言できるかというと、私は冬季の湯呑所を盛んに利用したからだ。寒くなれば誰だって起きにくい。起きにくいから遅刻をする。それも五分や十分ならいいが、二十分ともなると、先生ににらまれそうで、どうも教室へははいりにくい。ところが二時間目が始まるまでに、まだ三十分もあるという時に、たった一つの避難所はどうしてもこの湯呑所ということになる

わずか三十分間とはいえ、天地に身のおきどころのなくなった自分をここのストーブの前に置いて瞑想に耽っていると、間もなく入り口のガラス戸が開いて、幾分良心に恥じたような顔で、ほかの学生が入ってくる。顔見知りとは限らないので、始めのうちは黙っていても、そこは呉越同舟というか、お互いの口がほぐれて来たころには、またもう一人がはいってくる。先生方のたなおろしや、一高戦の下馬評やら(昔の一高戦は四月にあった)、おいおい話が熟してくると、一人増え二人増え、終いには満員近くになって、談論風発という時に、おしくも一時間目の終わりを告げる鐘がなる。話のとぎれたのは残念だが、やっと教室へ入れるようになり、ホッとした気持ちの中に一同解散ということになる。こんなことを度々くりかえしているうちに、いつしか冬季湯呑所の定連と言うものができ、度々見る顔なじみの間に、友愛の気分が出来上がって、一種の社交クラブとも言えるのであった。

湯呑所本来の目的をはなれて、落伍者クラブのようなものに、この場所を利用したのは全く申し訳ない次第であるが、ここに一つの疑問が起こる。というのは、しからばあの湯呑所が、冬季になれば、何故朝っぱらからストーブが燃やされていたかという疑問である。前にも言ったとおりあの場所は決して教職員のものでなく学生専用のものであった。しからば冬季の八時ごろから、ここで燃やされていたストーブは、誰を待っていたのであろう。八時の定刻に登校したものは、そのまま教室へ入って行けばそこにストーブは燃えていた。一時間目がすぎてもまだストーブは燃えていたから、わざわざこの湯呑所へ暖をとりにくるというほど酔狂ものはいなかったはずだ。とすると湯呑所のストーブは、私のように定刻には遅れるが、それでいてノコノコと教室へ入って行くほどは厚かましくない、いわば良心的な学生のために、燃えていたのだという以外に、解釈の施しようがないではないか。

昔の三高には、至極当たり前のことであって、われわれも当たり前のことと思っていたが、よくよくその後考えてみれば、不思議なことがいろいろあった。たとえば前にも引き合いに出た三高の鐘である。三高の鐘が八時五分から始まって、ちょうど五分間鳴り、八時十分に終わって、その時授業が始まることは、いつから始まった伝統なのであろうか。幸いにもこの良き伝統は今の京大教養部に受け継がれているが、ただ一つ違っているのは、鐘の鳴るテンポである。私の在学時代には名にし負うベートーベンと呼ばれた鐘突きの天才がいて、始めは緩やかに終わりは急に、そのテンポを聞けば的確に三分前か二分前かが解るのであった。これなど至極当然のことだが、こんな鐘の突き方をした学校がほかにあったとは聞いていない。それと同じく遅刻学生のために、ストーブの火を入れて温かく待っていたような学校が、三高のほかに、今も昔もあったのであろうか。その思い出はいつまでも尽きない。 (大・4,一部乙卒)

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同窓会報 15 「嘆きぶし」 三上 章 (1959)

(前略) 今を去る四十年弱の昔、のある夕方、受験のために京都駅に降り立ったという勘定になる。 駅へはもとのクラス・メート二人が迎えに来てくれた。私は新設のノン・ナンバー・スクウル(注:一高から八高までがナンバースクール、その他の高校のこと)を三ヶ月ほど経験していて、中学の同級生よりも一年おくれていたのである。二人のうちの一人の下宿へ行くことになっていたが、途中四条で下り、大橋東詰めの菊水というレストランで彼等二人は私に最初の晩飯をおごってくれる手筈にしていた。ちょうど二階は三高生のコンパ一団に占領されていたので、我々は一階のテーブルに着き、二人は先輩ぶって私に学校の様子をいろいろ親切に説明してくれるのであった。と突然二階で「紅もゆる」が始まった。その時私を捕らえた異常な感激、全身がぞくぞくふるえ出すような感激は、そういうことが唯一回あったというそのこととして忘れることができない。気もすずろな聞き惚れ方が、眼前の二人をますます得意にさせることなど、かまってはいられなかった。中学時代から多少は聞き覚えはあった歌の本物(!)を初めて聞いたわけであるが、二階から歌声だけ降ってきたのだから、文字通り天来の妙音であり、その歌声のまわりを夢と自由と青春と生命のすべてが乱舞しているといったような、あこがれ心地にされてしまった。無伴奏男性斉唱がそれほどの感動を引き起こしたことはあとにも先にもない。

むろん受験直前の最ももろい状態にある神経にそれがそれが働きかけたからではあるが、働きかけたものはそれ自身の力、その後何回か歌うことになるその歌自身の美しさだったと認めざるをえない。(後略)(大・13,理甲卒)

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同窓会報 64 「自由の鐘の行方は?」 安田 清 (1986)

(抜粋)私は大正15年(昭和元年)三高を卒業、京大建築学科に入学、昭和4年卒業して大蔵省営繕管財局に入り官庁営繕にたづさわっていました。(中略)確か昭和10年度に三高本館改築の予算がつき、その担当となり、母校の仕事が出来ると大喜びでした。当時の三高の校長は有名な物理の森総之助先生で、打ち合わせのため、たびたび役所においでになりました。(中略)

さて、その時の改築予算は確か27万円だったと記憶しています。(高文を通った大学出の初任給が75円の時代です)勿論この予算は当初工事に対するもので、これで本館全体が出来るわけではありません(中略)

この第一期工事は中央部と北側正面の東側だけのものでした。(中略)全体計画としては文科と理科との二つを意識して柱の列を中央に持ってきて左右二つに分けました。したがってポーチの中間は通常のように奇数で、三つですが玄関の出入り口は中央の柱の両側に一つづつの二カ所で、中央にはその後二・二六事変で亡くなった高橋是清氏(大阪時代の本校校長であった)の筆になる校銘板をかかげ、その上の壁面には三高の象徴の白の三筋をデザインしました。中央に柱の列を持ってきたのは、もう一つの理由として中央の塔を四角形ではなく、平らな壁にして穴を設け、そこに三高名物の「自由の鐘」をつるして、そのシルエットをはっきりと見せたかったからです。なお、この鐘を吊す座金は三高の徽章の桜章にしました。

当時始業時の鐘は本当にゆっくりとしたテンポで10分くらいも鳴らされており、寮の連中は勿論、通学の連中も鐘を聞きながら熊野神社のあたりからでも急いで行けば、授業に間に合ったものです。この鐘は高い櫓の上に吊してあり(漫画 三高四季参照)修練を積んだ用務員が紐を引いて鳴らしていました。

新しい本館になって何とかこれを機械化しようということで、森校長がわざわざ島津製作所に依頼して研究してもらい、電気ボタンを一つ押すだけで従来同様のテンポで鳴らすことができるようになりました。(後略)(大・15、理甲卒)

注・本館鐘楼から取り外された自由の鐘は、長く台座とともに京都大学教養部(現総合人間学部:もと三高)新図書館特別室に収蔵されていましたが、京大南吉田キャンパスの完工とともに正門正面の建物の上に作られた塔屋にかけられました。
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