§洋学校

三高の創立は、大坂に設けられた舎密局が開校された明治2年5月1日である。この日を記念して毎年5月1日紀念祭が賑々しく催されてきた。現在も、当日、四条の同窓会館に有志が集まって紀念祭歌をはじめ数々の歌を唱って祝っている。

こういうこともあってか、私の在学中も三高の淵源といえば、舎密局しか念頭になかったが、この『三高私説』を構成している間に、今さらながら三高の基本的性格を形造る上で『洋学校』の意義は大きく、もっともっと見直さなければならないことに気付いた。

歴史的な経緯は、明治2年9月、天満川崎の旧営繕司庁に洋学校が仮洋学校の形でスタートする。舎密局の発足後四ヶ月のことである。同年10月督務(校長)何 禮之助(が れいのすけ:後、禮之(よしゆき)と改名)が、折から西下していた山口大蔵大丞に建白書を提出している。その内容は、

1. 舎密局ができたけれども、生徒は少なく、目的を果たしていません。この原因は一般基礎教育を施すこと無しに受け入れるので、学生が付いていけないことにあります。また立派な先生を迎えているのに、先生の側も程度の低いことしか教えられず気の毒なことです。一方、東京では大学校の制度が完成し、人物面でも設備面でも充実して教育も整備されてきています。舎密局の先生をそちらに招かれて、教育にあたらせられれば学生にも先生にも共にプラス面が多いことでしょう。

1. 大坂はいづれ東京に並ぶ学術の中心都市になるでしょうが、開港後まだ日が浅く、また、これまで商業都市であったので、文化面では東京に比べて劣っています。今日の急務は、普通の洋学校を開き一般民衆に学術の味を知らせ、やる気を起こさせることだと思います。東京開成校にはフランス人教師二人、イギリス人教師三人が雇われており、その内の一人ハウエルベッキさんは東京の風土に馴染めずに病気がちとのことですから、こちらの舎密の教師と交換されては如何ですか。開成校の方でも不都合なことはないと思います。

(後略)

以上の内容から、何 礼之助は、専門教育の実を挙げるには、まず一般普通教育をしっかり施す必要があることを念頭に置いていたことが分かる。これこそ、後年の三高の教育体系を形成する理念であった。

何 礼之助については、目下の所、私には不明な点が多いが、読者が間違いその他御教示下さることを期待しつつ書くことにする。
天保11年(1840年)9月肥前国彼杵郡長崎村伊良林郷(現在の長崎市伊良林)で生まれ、京大藤田英夫氏の「大阪舎密局の史的展開」を参照すると、長崎の医学伝習所で近代医学の教育を開始したポンぺは、受講生たちがすぐに役立つ医術を教えてくれるように希望しても、それを斥け、化学を中心とする基礎学科目の教育の重要性を強調した。この長崎の医学伝習所を継いだボードウィンの精得館で何 礼之助は学んでいる。おそらくボードウィンの精得館での教育も系統的な基礎教育を土台にしたものであったと想像される。先の何の建白もこういう経験から出たものであろう。ボ−ドウィンは精得館付設分析究理所の専任官として、後の大坂舎密局の創設者、ハラタマを招いている。
幕末ハラタマの江戸出府、大坂での舎密局開局など状況の変化があったためであろうか、何も大坂に出て私塾を開くが、中之島玉江橋の傍らにあったところから「瓊江塾」と称し濱尾新らを教えた。何は語学に堪能で1995年10月の京大附属図書館の展示会『舎密局から三高へ』にもテーラー原著 何礼之助訓点『格物入門』、亜国ヨング著 何礼之助訳述『政治略原』、パキストル著 何礼之助訳『英国賦税要覧』、ウェランド著 何礼之助訳『世渡りの杖』(Elements of Political Economyの訳)、モンテスキュー著 何礼之重訳『萬法精理』(この本の出版は明治八年で、すでに名を禮之(よしゆき)と改めていたことが分かる)が出陳されていた。
次に私が彼に会うのは、舎密局開講当日明治2年5月1日の祝宴である。何は「一等訳官兼造幣局権判事」という肩書きで出席予定者に入っている。尤も彼はハラタマの講義を聴いた後は退出して、饗宴には出席していない。
明治2年9月22日、仮洋学校が大坂府によって坂府洋学校として創立されると、この設立を周旋した何は督務(校長)に就任する。上記建白書の提出は10月16日であるから、舎密局を念頭に置いたカリキュラムの整備は、当初から何の頭にあったと推測される。12月、所管が大坂府から民部省に移管され、校舎も下島町の旧代官邸に移動し、洋学校として再スタートした。その後、明治3年6月には校長を中島永元に譲り、何は退いた。
次に何に出会うのは明治4年11月、岩倉遣米使節団の一行の中で、一等書記官として随行している。これから次第に官途につき、明治24年には貴族院議員に勅選されている。亡くなったのは、大正12年(1923)3月2日,82才であった。

幕末、長崎精得館の理化部門を江戸に移そうとする計画が立てられたが、動乱によって実現せず、大坂に理化学校を造ることになった。明治初年には大坂遷都論もあり、当時の知事後藤象二郎の肩入れもあって、大坂府は明治元年10月新大学校設立構想を布告している。布告の中には『この度追手前に於て、新大学校御取建に相成り、舎密術を初め、英学・仏学・蘭医学・数学・法学等学術、御開きに相成り候に付き、云々』の文字が見られる。しかしながら明治2年3月28日天皇は東京に移り、大阪遷都は幻と化した。すでに新政府は明治元年幕府の昌平黌を昌平学校、開成所を開成学校、医学所を医学校とし、さらにそれぞれを大学、大学南校、大学東校と改称、3年2月には大学規則を制定してこれを教育の頂点として教育行政の管轄も計っていた。舎密局には管轄を大学南校へ移管することを希望する動きがあったが、民部省の所管になっていた洋学校も舎密局共々、明治3年4月3日大学南校所管となった。舎密局は5月26日理学所と改称され、その年10月に洋学校が開成所と改称されるとともに、開成所理学局となり、両者合体した。それより前、すでに洋学校は次第に隆盛となり生徒数も200名を超えていたが、校舎も老朽化し手狭になっていた。開成所新校舎が旧舎密局校地に落成したのは、明治4年6月10日であった。

洋学校のカリキュラムは、何の提言通り系統的であった。

三ヶ月を履修期間とする少初級・大初級から始まって八級・七級を九ヶ月、六級・五級を一ヶ年で修了し、四級以上はむしろコース別となり、『理科』『史科』『政科』『兵科』『文科』『語科』がある。この六科のうち三科の二級までをマスターすると、その上にさらに『一家をなしたる者これに居る』という一級があり、今日の大学院のようなものであったのかと思われる。二級以下は生徒の能力に応じて入れたようである。例えば八級の授業内容は

素読  リンニー氏・モルリー氏文典   地・理・史・文学初歩書
伝習  調韵会話   文典
会話  文典

となっている。

なお、“古い同窓会誌から”三高資料と何礼之 上横手 雅敬に、何の経歴について述べられているので参照してほしい。

HOME