§洋学校三高の創立は、大坂に設けられた舎密局が開校された明治2年5月1日である。この日を記念して毎年5月1日紀念祭が賑々しく催されてきた。現在も、当日、四条の同窓会館に有志が集まって紀念祭歌をはじめ数々の歌を唱って祝っている。
歴史的な経緯は、明治2年9月、天満川崎の旧営繕司庁に洋学校が仮洋学校の形でスタートする。舎密局の発足後四ヶ月のことである。同年10月督務(校長)何 禮之助(が れいのすけ:後、禮之(よしゆき)と改名)が、折から西下していた山口大蔵大丞に建白書を提出している。その内容は、
天保11年(1840年)9月肥前国彼杵郡長崎村伊良林郷(現在の長崎市伊良林)で生まれ、京大藤田英夫氏の「大阪舎密局の史的展開」を参照すると、長崎の医学伝習所で近代医学の教育を開始したポンぺは、受講生たちがすぐに役立つ医術を教えてくれるように希望しても、それを斥け、化学を中心とする基礎学科目の教育の重要性を強調した。この長崎の医学伝習所を継いだボードウィンの精得館で何 礼之助は学んでいる。おそらくボードウィンの精得館での教育も系統的な基礎教育を土台にしたものであったと想像される。先の何の建白もこういう経験から出たものであろう。ボ−ドウィンは精得館付設分析究理所の専任官として、後の大坂舎密局の創設者、ハラタマを招いている。
伝習 調韵会話 文典 会話 文典 となっている。
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