§舎密局
下の写真は同窓会誌63号所載「舎密局の位置問題について」海堀昶の中に示された“第13図舎密局位置の推定”からの引用である。
シーボルト事件、蕃社の獄は蘭学弾圧を招いたが、嘉永六年のペリー来航は幕府に危機感をもたらし、シーボルトの帰国後26年を経た安政二年から長崎で日本人学生に対する海軍伝習が始まった。 やがてこの伝習の一環として医学伝習が始まり、万延元年長崎に医学所と養生所が置かれた。元治元年医学所の二代目教師A.F.ボードウイン(弟のA.J.ボードウインは初代駐神戸オランダ領事)の進言を入れた幕府は養生所に理化学校を意味する”分析究理所”を置き、その教師として招かれたのがクーンラート・ウォルテル・ハラタマであった。2000年11月12日前記「舎密局址」碑の近くに大阪の彫刻家川合敏久氏の手になる立派な胸像が設置された。
|