§舎密局

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本町通りの大阪府警察会館の近くに「史跡 舎密(せいみ)局跡 昭和54年12月 大阪府教育委員会・三高同窓会建之」 という碑がある。この碑は同所に昭和13年、三高同窓会によって建てられた「舎密局址」碑の解説のための碑である。ところが舎密局があったのはこの位置ではなかったのである。正しい位置はここから北約200メートル、大手通りに近いところ、府庁別館の東側付近が舎密局の正しい位置と推定されている(同窓会報63(1986))。この事実は建築史家の菊池重郎氏が「大阪舎密局の再発見」(1974年8月号の雑誌「自然」所載)で最初に発表された。舎密局御用係としてハラタマと共に創設に尽力した、田中芳男(後、元老院議員、男爵)の家に伝わった資料に基づいたものである。
下の写真は同窓会誌63号所載「舎密局の位置問題について」海堀昶の中に示された“第13図舎密局位置の推定”からの引用である。
舎密局跡
第三高等学校は大阪に設けられた舎密局からスタートしたもので、歴史的に舎密局は日本近代化学及び教育の関西における母体である。舎密局は”セイミキョク”と読み、舎密(セイミ)とは化学(オランダ語のchemie)のことである。大阪大学名誉教授 芝 哲夫先生のご研究(“オランダ人の見た幕末・明治の日本”菜根出版(1993))に詳しいが、ここには簡単に記す。

長崎は鎖国時代唯一の西欧への窓であった。徳川吉宗は享保五年、自然科学系の洋書に限って解禁した。それによって洋学への道が開かれたが、文政六年シーボルトはオランダ国派遣日本産物調査員の資格で来日し、長崎に鳴滝塾を開いた。
シーボルト事件、蕃社の獄は蘭学弾圧を招いたが、嘉永六年のペリー来航は幕府に危機感をもたらし、シーボルトの帰国後26年を経た安政二年から長崎で日本人学生に対する海軍伝習が始まった。
やがてこの伝習の一環として医学伝習が始まり、万延元年長崎に医学所と養生所が置かれた。元治元年医学所の二代目教師A.F.ボードウイン(弟のA.J.ボードウインは初代駐神戸オランダ領事)の進言を入れた幕府は養生所に理化学校を意味する”分析究理所”を置き、その教師として招かれたのがクーンラート・ウォルテル・ハラタマであった。2000年11月12日前記「舎密局址」碑の近くに大阪の彫刻家川合敏久氏の手になる立派な胸像が設置された。

ハラタマは自然科学博士と医学博士の両方の称号を持ち、日本の新生、激動期に当たる慶応2年から明治4年まで滞在し、日本理化学の出発に貢献した。分析究理所には当時のヨーロッパの化学実験室で使われていた器具類は一通り揃っており、ハラタマは実験を採り入れた組織的な化学教育をはじめて日本で開始した。

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写真は舎密局開講の日の記念撮影で、左より田中芳男御用掛、三崎嘯輔大助教、ハラタマ教頭、平田助左衛門御用掛である。

明治維新も近い慶応2年7月、ボードウインはハラタマを伴って江戸に赴き、医学校と分析究理所の江戸への移転を願い出た。その甲斐あって11月、幕府は江戸に”化学、物理学及びその応用科学の学習そのものを目的として教える”理化学校開設を決定し、ハラタマは江戸に招聘された。しかし理化学校の建設は遅々として進まず、そのうちに維新戦争が始まり、遂に慶応4年幕府は瓦解する。

幕府を引き継いだ明治政府は、理化学校を大坂に移して開設することを決めた。大坂に移されたのは、上野の戦争が終わった慶応3年当時、新政府の大久保利通は大坂遷都を唱えており、一時期この方針に沿った一連の準備がなされたからである。この方針の下敷きとしては、西周の構想(議題腹稿)が挙げられる(参照:大統領になり損ねた将軍)。大政奉還後の徳川慶喜はこの構想を容れ、相変わらず大君として日本統治の実権維持を計り、都にも近く、特に薩摩・長州を主体とする西方反幕府勢力への要として江戸を離れて大阪に公府(いわば政府)を設定しようとした。慶喜の構想は鳥羽伏見の戦いの敗北で潰えたが、維新後新政府の政権構想の下敷きとしてしばらくは生きていたのであろう。同じ時、大坂医学校の建設も計画されている。新しい理化学校は大坂舎密(セイミ)局と名付けられ、建設場所は大坂城大手門から西へ向かう大手通りの旧京橋口御定番屋敷跡((現・中央区大手前3-1)であった。明治元年10月4日に起工されたが、この年7月東京遷都が決まり、2年3月天皇も東京に移られ、大坂遷都の夢は消えてしまった。このため舎密局建設も中断する。明治2年大坂府管轄となり工事再開、ついに同年5月1日に開校した。ハラタマは参集した200名の来賓、聴衆を前に開校演説をしたが、その翻訳は後に「舎密局開講之説」として出版された。

芝先生の著書から引用させていただくと、

舎密局関係者一同が、まず欧州の富饒広大を致した学問の基をよく学び、よく知り、それをこの国に興せば、後生の人は必ずこれによって進歩し隆盛に導かれる。近代西洋の学問には、萬物自然学と理化学の二学がある。諸物体の変化を扱い、性質変化を論ずる学を化学という。昔は化学は理学の一部であったが、最近では両者は分離して、むしろ化学は理学を圧倒するに至っている。また化学はかって分析学と呼ばれたが、この名はこの学問の一部を表すに過ぎず、現在では合成もこの化学の範疇に属している。従って物質に関する学術としては、この理化二学を学ばねばならない。
自分はこれからこの理化二学の講義を行うのであるが、これを聴くもののなかに、あるいはその内容を単に思索の結果と思うものがいるかもしれぬ。しかし実はそれらはすべて実験でもって証明されているのである。たとえばガリレーの振子、アルキメデスの比重、トリチェリ−の大気圧力、ワットの蒸気機関、ガルバニーの電気などはいずれもしかりである。ラヴォワジエは天秤を用いる定量法で研究して化学ははじめて進歩した。今では化学は鉱物類、新薬、染料、陶磁器、酒類、その他、百般の日常生活に関わる化合物の製造によって大いに世に鴻益している。
化学には無機と有機の別があるが、最近二十年間は特に有機化学の発展が目ざましい。昨今は動植物成分も化学合成によって作ることができるようになった。たとえばキニーネは非常に貴重で高価であるが、いつの日にか化学合成の方法が進歩すれば、廉価な植物成分から容易に類似化合物を誘導することが可能になるであろう。
このように理化二学は、これから文明開化に向かう国民にとって不可欠の学問である。今、この学校が開かれ、さらに発展して、この二学が日本中に普及することになれば実に天下の大幸である。

舎密局は学科が当時の生徒には高級で、生徒があまりに少なく、雄に百名は収容できる講堂に、舎密局の生徒は四、五名、校外の医学校からの聴講生(局外生)十数名を合しても二十名内外であったと言うことである。明治2年9月に、天満川崎、旧営繕司庁跡に、坂府洋学校というものができた。舎密局と医学校(仮病院)が理化学・医学の専門教育を使命としていたのに対し、こちらは何礼之助の発議によって洋学を基礎とした一般普通教育を目的とするものであった。洋学校については別の項で触れることにする。

この後、幾多の変遷を経て第三高等学校となる。第三高等学校創立の日はこの舎密局開校の日になっていて、五月一日は紀念祭として祝われている。第三高等学校は昭和25年敗戦に伴う学制改革の中に、舎密局以来の栄えあるその歴史を閉じ、本来兄弟校である京都大学と合併した。三高同窓会は2013年5月20日145周年の紀念祭を祝う全国大会をウエスティン都ホテル京都で開催したが、これを最後に解散した。

舎密局の明治期学制改革の仕上げとして京都帝国大学(現在の京都大学)が創立されたのは116年前の1897年のことであった。

上の写真は、ハラタマがオランダに持ち帰っていた明治初年のもので、藤田英夫著「大阪舎密局の史的展開−京都大学の源流−」(思文閣出版)(1995)所載、芝哲夫氏提供のものである。昭和14年に発行された三高創立七十周年記念グラフに大阪中学校教場の写真として、掲載されている写真には少し改装の様子が見られるが、基本的には変わっていない。明治13年から18年に掛けて、舎密局の後継校として存在した大阪中学校の時代にも、創建当初の建物が残っていたのであろう。舎密局の錦絵は写真資料室で見ていただける。なお、同窓会誌67号に上横手雅敬氏が舎密局について記して居られるので、以下に転載しておく。

舎密局の名称は、オランダ語chemieの発音を漢字で表記したもので、はじめて、江戸後期、文政十一年(1828)宇田川榕庵が用いた。舎密局という機関は、慶応二年(1866)長州藩に設置されたのが最初である。ところが一方では中国から伝わった化学という言葉も行われるようになり、この方は日本では万延元年(1860)川本幸民が「化学新書」ではじめて用いた。榕庵はもとより幸民も、わが国化学研究の先駆者であった。舎密局が開かれた明治初年には、「舎密」はやや古くさい用語となっており、ハラタマの「舎密局開講之説」にしても、タイトルこそ「舎密局」であっても、講演内容の方では、訳者三崎嘯輔(舎密局大助教;明治5年東大医学部の前身“大学東校”に移り、同年26歳で没)は「舎密」の訳語を用いず、「化学」で通している。舎密局がだれの命名かはわからないが、幕末に開成所に置かれる筈であったのは,理化学校(理化は物理・化学の意)である。「舎密」という言葉が古色である上に、この学校で教えるのは化学だけではないところから、やがて理学校と改称されたのである。

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