注 化学の父の胸像設置へ
化学の父の胸像設置へ
日蘭交流四百周年を記念し、「日本の化学の父」といわれるオランダ人化学者 クーンラート・ウォルテル・ハラタマ(一八三一―八八年)の功績をたたえる胸 像が今秋にも大阪市中央区内の「舎密局(せいみきょく)」跡近くに設置される。 大阪大の芝哲夫名誉教授らが中心になり、青銅製の胸像が既に完成。芝教授は 「日本に化学を移植し、日蘭文化の懸け橋になってくれた大恩人なのに忘れられ ている。像の設置で顕彰したい」と話している。 ハラタマは一八六六年、幕府の招きで教師として長崎に来日。三年後、明治新 政府の要請で、大阪で創設されたばかりの国立の化学校舎密局の教頭として実験 を伴った日本初の組織的な化学教育を始めた。 七一年、雇用期間が切れ帰国したが、一門からはアドレナリンを発見した高峰
譲吉、味の素を創製した池田菊苗ら日本の化学の開拓者が輩出した。舎密局は改
称を重ねた後、京都に移され旧制第三高等学校を経て、京都大となる。 日蘭交流四百周年を機に建立を呼び掛け、制作費など約八百六十万円は化学者 や日蘭交流の関係者約五百三十人の募金で賄った(注:三高化学班員も協賛)。
四月の完成式典にはオランダ皇太子やハラタマの子孫も出席した。 本体は高さ約八十センチで、ひげを蓄え、蝶ネクタイの洋服姿。当時の写 真を参考につくられ、現在、大阪大に仮設置されている。
注 碑文
明治二年(一八六九)五月 大阪府に よりオランダ人化学者クーンラート・ ウォルテル・ハラタマを教頭とする 舎密局(せいみきょく)がここから二百 メートル北の大手前通り一帯に開設された。 舎密とは化学の意である。舎密局は 明治時代のわが国で最初に開かれた 理化学校でハラタマによりこの国の近代 化に必須の自然科学の教育が行われた。 日本の初期の化学研究の多くはこの 舎密局に端を発している。舎密局はその 後。理学校と改称され。明治五年に 閉校されてその任を終えたが。その流れ から京都舎密局、大阪司薬場。第三 高等学校が生まれた。日蘭交流四百 年を記念して。ここに日本の化学の 父ハラタマ博士の像を遺しその功を 永世に伝えたい。
注 ボードウィン顕彰碑
注 エコール・ノルマール・シュペリエール
■ 『夫婦善哉 ―織田作之助―』
●織田作之助 小説家
大正2年(1913年)10月26日生まれ
●“可能性の文学”を追求しながらも、結核に倒れる
映画『夫婦善哉』の原作者である小説家・織田作之助は大正2年
(1913年)10月26日、大阪にて生まれた。15歳頃から
文学に目覚め、昭和6年(1931年)に第三高等学校(現京都
大学総合人間学部)に入学。詩の同人誌に参加、戯曲を発表するなど文
学的基盤を養っていく。そのため学業の方がおろそかになり、さ
らに同9年に結核で倒れ、留年、休学を繰り返し、ついに2年後
退学となる。
退学後、三高の文学仲間とともに東京や大阪に住み、文学に耽溺
する生活が続く。昭和13年(1938年)に処女作『ひとりす
まふ』を発表し、本格的に小説の道に入る。同15年、『俗臭』
が芥川賞候補となる。また、有名な『夫婦善哉』も発表。宇野浩
二、川端康成らから高い評価を受けた。以後、順調に作品を発表
し文壇での評価を高めていく。また、19年頃から映画やラジオ
ドラマの脚本を手がけるようになり、映画『還ってきた男』(川
島雄三監督・19年)や『猿飛佐助』(森雅之主演・20年)が
人気となる。
戦後も精力的に創作活動に励むが、次第に結核の病状が悪化。長
年の無理がたたり、ついに昭和21年(1946年)年末に大量
喀血。“可能性の文学”を追求しながらも、年明け10日に33
歳の若さで永眠。森繁久弥、淡島千景の主演による『夫婦善哉』
が大ヒットとなったのは、それから8年後のことである。
●名作『夫婦善哉』に出てくる数々の“うまいもん屋”
・・・俳優、森繁久弥氏の出世作として有名な『夫婦善哉』。今
週はその原作者である織田作之助の登場です。『夫婦善哉』は大
阪を舞台にした作品で、大阪ミナミに今もある料理店、“うまい
もん屋”がいくつも出てきます。まずは千日前にあるライスカレ
ーの自由軒。明治43年創業のこのお店には、織田の写真と「ト
ラは死んでも皮をのこす、織田作死んでもカレーをのこす」とい
う織田自身による名文句が今も掲げられています。また、作品名
にもなった法善寺の夫婦善哉というぜんざい屋さんは、老舗中の
老舗で明治16年の創業。二椀で一人前というちょっと変わった
ぜんざいが名物です。法善寺横町の正弁丹吾亭の前には、「行き
暮れてここが思案の善哉かな」という織田の文学碑が昭和38年
に建てられています。
・・・その他にも相合橋筋のすし捨、日本橋の本家たこ梅、千日
前のいづもや、とたくさんのお店と料理が登場します。大阪在住
の方はもちろんのこと、他県にお住まいの方も、『夫婦善哉』を
読んでから大阪ミナミに行かれてみてはいかがでしょうか。
(文/遠山桜子)
参考文献■『最新昭和史事典』 (毎日新聞社刊)
Web catch 2001-10-25掲載注 遠山桜子さんによる略伝
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Date:
Fri, 26 Oct 2001 21:40:30 +0900
From:
vagabond@webcatch.com
To:
tbc00346@mbox.kyoto-inet.or.jp
この度は「昭和に活躍した偉人たち」にお問い合わせいただき、
誠にありがとうございます。
遠山桜子と申します。
転載の件、了解いたしました。
拙文がお役に立てるようでしたら、是非、転載していただきたいと思います。
注 「日本絵画史」の記す著者詳伝による澤村専太郎先輩略伝
注 ヒラミルパニア
インド語 英語 和訳 Hila mil pani a Lot of rain comes. 雨が降ってきた jori nana diya Just it makes stream! 忽ち川と流れる Hila mil pani a Lot of rain comes. 雨が降ってきた jori nana diya Just it makes stream! 忽ち川と流れる Angla nache Englishes dance, イギリス人も踊る Bangla nache Bengali dance ベンガル人も踊る Nache boutel cana Dance! bottle of wine, 踊れよ!瓶には酒が Upel sito men pu kali On the table, food in 机上の黒い長い皿には lauba balti cana black long vessel. ご馳走が paniは水または雨、canaは食物、酒にも通じる。このように雨の降らない期間の長いインドで、六月になって雨がざっと降った時の喜びを謳ったものである。『三高歌集』所載のものは原曲からかなりずれたもののようで、歌詞といい曲といい新たに三高で生まれたものと見られる。原曲は「寮歌は生きて居る」及びボーイスカウトの歌集に載せられている。
注 小玉博司宛小口のはがき
昨日は猛烈な順風で殆ど漕ぐことなしに雄松迄来てしまった。 雄松は淋しい所で、松林と砂原の中に一軒宿舎があるだけだ。羊草の生へた池の中へボートをつないで夜遅くまで砂原に寝ころんで月を眺め、美人を天の一方に望だ。今朝は網引きをやって面白かった。今夜はこの今津に宿る。 |