§古い同窓会誌から

同窓会報 4 「思い出」 田宮 虎彦(1954)

田宮は明治44年東京で生まれた。三高から東大に進み、卒業後は都新聞社に入社したが、その後は国際映画協会その他を転々とする。昭和22年小説「霧の中」を発表、これが出世作となり、その後は作家生活を送る。「落城」「鷺」などの歴史小説の他「足摺岬」「絵本」「銀心中」「異端の子」「沖縄の手記」など多くの作品がある。亡き妻との往復書簡集「愛のかたみ」を発表したのは昭和32年であった。昭和63年1月脳梗塞で倒れ、4月9日病を苦にして自殺した。享年76才。


私の三高入学は昭和五年、おそらくは三高最後の生徒ストライキのあった年であった。私は当時、健康あまり秀れず、家庭的な事情からも暗く、考えてみると、さう幸福な時期でもなかったはずなのだが、その頃のことを思いかえすと、まるで三高在学の三年間が、七彩の虹につつまれているような、この上なく愉しかったように思い出される。それに、私の若さのせいでもあっただろうが、何といっても、やはり、三高の生活そのものが愉しかったからであろう。

ストライキのすんだあとのことであったが、体操の太田先生が、ストライキの原因の一つであって学校側の弾圧ということについて−−−中学から三高へ来て、不自由だなどと感じるわけがないと、皮肉まじりに言われたことを思い出す。まことに、その通りであった。私の卒業した中学はカーキ色の制服に挙手の礼といった軍国調の学校であったのだから、それに、親のもとから離れて下宿生活にはいったのだから、三高に入学したとたんに、私は、実に自由な、のびのびした感じを味わったものである。満喫という言葉があるが正に自由を満喫したわけであった。自由という海を、泳ぎまわっていた感じである。

もっとも、保証教授という制度が、私たちの入学した春から実施されて、−−−それが、前述の学校の弾圧というストライキ理由の原因であったのだが、例えば図書館から本を借り出すにも保証教授の印が必要であったのだから、上級生からみれば、私たち新入生は哀れな存在であったに違いない。だが、私の保証教授は森総之助先生で、中学時代の怖い先生しか知らない私には、実に寛容な先生と思えた。(中略)私はそんなわけで、保証教授制度も、別に不自由な制度とは思わず、実に自由に遊び呆けて、三高生活に突入していった。

自由といえば、森外三郎校長が、何かの式の日に、教育勅語を半分で止めてしまった記憶がある。このことは、今に至るまで、覚えていて、三高の自由の象徴のように、人にも語ってきかせるのだが、皆、−−−そんな無茶なことが当時あってたまるものか、という。話す人ごとに、皆、そういいかえすので、あるいは、私の記憶ちがいかと、思ってみるのだが、勅語をムニャムニャと飛ばし読みにして、御名御璽だけはっきり読んだ森校長の声が、今でも私の耳には、はっきり残っているようである。そんな校長を排斥したのだから、ストライキが惨敗(?)したのも無理はない。

自由といえば、教練の時間に、八割草履で別にしかられなかったことも思い出深い。もっとも、その後軍国調に急激に変調したので、卒業の頃には、八割(草履)はさすがに遠慮せねばならぬようになった。それでも、教練の実地訓練は、まだまだのんびりしていた。Yという後に外交官になった友人がいて、行進する時、左脚と同時に左手を前に出し、右足と同時に右手を出すのであったが、一時間の教練の時間中、藤森少佐が、そのYだけを、オイチニ、オイチニと歩かせ、私たちは鐘が鳴るまでゲラゲラ笑いくずれていた記憶もある.

私は、自由をはき違えて、授業時間中、先生に無駄話を強請することに熱中した。勿論、私の強請など、軽くあしらわれてしまうのが常だったが、それでも時には成功したこともある。文甲の第二外国語はフランス語をえらんだので、フランス語は七、八人で授業をうけたが、その七八人の友人と共謀して、机をまるくならべ、ポータブルの蓄音器をもちこみ、菓子のたぐいを買って来て、フランス語ならぬシャンソンの時間を先生にひらいてもらったりした。桑原武夫先生の試験の時間に、私一人、答案はかかず、先生と話して一時間すごしたこともあった。今から思いかえすと、冷汗三斗の思いである。
山本修二先生、久保虎賀壽寿先生、湯浅廣好先生、伊吹武彦先生、・・・・というように書いてみると、全部の先生の名前をかきつらねてみたいほどなつかしい気持である。「紅もゆる」や、「桜の若葉」や、「静かにきたれ」などといった歌の思い出とまつわりあって、そうした諸先生の思い出が、私の心にうかんで来るのである。

山本修二先生は、二年の時、私たちの担任になられたのだが、その年の初夏、組のもの九人さそいあって、琵琶湖周遊に出かけたことがあった。当時、クラスは全部で四十人に三四人欠けていたのだから、九人も休むと残りは二十六、七人になる。長期欠席者もいたし、私たちが九人一時に休んでしまったので、学校へ出るのが馬鹿らしくなって休むものも続出する始末で、一週間あまりのその間、クラスには二十人足らずしか出席者はいなくなった。ちょうどその時、文部省か陸軍省から、学校視察に来た人がいて、教練の実地訓練をすると、私たちの組は、右向け右で、四列縦隊になると、組全体が四角にもならず、これは問題になって山本先生は困られたらしい。だが、先生は、帰ってきて私たちに、それについては何もいわれなかった。これは、今でも思い出して、申しわけない気持ちである。

深瀬基寛先生にも思い出がある。ある時、英語の講義をされていて先生が、突然、絶句された。何か考えこまれている様子で、私たちはどうしたことかと、顔をあげると、やがて教卓の方から、気持ちよさそうな鼾が聞こえてきたのであった。先生は、正に、豪傑中の豪傑であると、和達は舌をまいたものであった。

私と同級生には、森本薫君がいた。その頃から、巧みな戯曲を書いていたが、文学青年とは、およそかけはなれた真面目一方の青年であった。チャタレー裁判の弁護人であった環昌一君も同級生で、たしか、成績一番の秀才であったと記憶する。近頃、辻清明君と時々あう機会があるが、辻君は文乙で、なかなかの好青年であった。文丙は木村徳三君がいて、演劇研究会を牛耳っていた。脚本朗読会では、女の役をやっていたらしい。
文乙に北川夬君という応援団副団長がいて、ある晴れた日、私は授業に出るのがいやになり、学校をぬけ出して鞍馬に登ったのだが、廊下で北川君にあって、同行をさそった。ところが、北川君は、欠席届の理由のところに、本日、天気晴朗にして、勉学に適せず、たまたま田宮虎彦、余を鞍馬に誘う、仍って欠席すと書いて生徒課に出したので、私は、早速、佐藤秀堂先生から注意をうけた。

もっとも、単に注意をうけたにすぎず、叱られた記憶はない。三年の在学中、叱られたといえば、独逸語の小田切先生に叱られたことがあるきりである。放課後、数人で、教室で、机の蓋をバタバタさせて調子をとり、「紅もゆる」を放歌合唱していたが、階下の校長室では、何か相談会でもやっていたらしく、それは、おそらく小田切教授が不利な立場にたっていた時であったのだろう−−先生が、突然、私たちのうしろに立ち、「静かにしろっ・・・・」と怒鳴った。今から考えてみれば、怒鳴られるのも道理というべきであろう。

森外三郎校長の後任としてこられた溝渕進馬校長についても書きたいのだが、こうして書きつづけると、際限がない。(昭・八、文甲卒・作家)

INDEX HOME
grenz

同窓会報 5 「織田作之助の思い出」 森本 喜重 (1954)

織田は大正2年大阪市で生まれた。三高在学中から作家活動を始めていたが昭和11年に三高を中退した。14年「俗臭」が芥川賞候補となる。世間の人々は親しみを込めてオダサクと呼んだが、大阪の街の雰囲気を一杯湛えている名作「夫婦善哉」が発表されたのはその翌年15年であった。戦後はデカダンスな生活をし、ヒロポンに溺れた。その中でも「世相」「競馬」などの小説、「二流文学論」「可能性の文学」などの評論を発表して行ったが、昭和22年33才で大喀血して肺結核の生涯を閉じた。この稿には後年の不羈奔放な彼の姿が三高在学中既に躍動している。に遠山桜子さんの略伝を収載させていただいた。


吃驚した。いや、織田作之助という人物に対してである。その異教徒的風貌に対してである。

高校生というものは 、夏は寒いからと軍艦ラシャを着用し、冬になると暑うてかなわんと霜降りの胸をはだけ、かむってもかむらんでも同じことながら天井の全くない帽子に三本の白線をひけらかし、一本歯や三本歯のマナ板をガラガラ履き回して、何のことはない、昔江戸の街をわがもの顔にのしていた旗本奴の現代版みたいなものと思いこんでいたのだが−−

織田は違う。がらっと違っていた。彼は、つまり、大人であった。

三高の味を満喫するため、再度の滞留をきめこんで、わが文甲二へ天孫の如く悠々降臨した彼織田は、久留米絣に黒の袴をゾロンと着流し、(実際、袴をはいていながら、着流したみたいに見えたのは不思議である)剥き出しの教科書を原稿用紙と一緒にふところへ半ば突っ込み、二人の相棒を伴っていた。白崎君と瀬川君。彼等は三高在学の期間まで共にしたキンミツな同志であった。
三人とも顔色が変に蒼白く、何かしら薄笑みみたいな皮肉の影を口辺に漂わせ、風の如くひょうひょうと、夢の如くもうろうと、教室に入ってきた。その物静けさにも拘わらず、侵入する三人の像は、忽ち教室を一杯に占領するのではないかと思ったぐらいである。ボクは、ふと「牧羊神の入場」というレコードの題名を連想した。
再び眼の焦点を織田の面貌に合したとき、(オヤ・・・何とこれは・・・・・・)芥川龍之介じゃないか!あくまで背高く、あくまで痩せ、あくまで蒼く、長い顔を、油気のない、そのくせ妙に手入れの行き届いた長髪が包み、ツヤというものを持たない皮膚が神経質にピリピリ震えていた。あるかなきかの薄い眉毛が神経質な感じを一層ひどいものにしていた。
どうも立ち上がりに位負けしたようだ。ボクのみならず、文三甲二の全員が。

これが最初の顔合わせだが、文士の卵である彼等は滅多に教室へは顔を出さなかったし、現れても、何となくクラスの連中とは、双方とも頭から人種が違う然たる取り扱いで敬遠し、そのくせクラスの連中の方は、離れたところから三人の上に好奇と興味にかられた眼を投げていた。こっそりと尊敬さえ混えて。

織田は、いわゆる秀才組を軽蔑していた。ことに四年修了三高攻略組を見下げていた。別に過激な言葉を弄したわけでもなく、ただチラチラ光る小さな眼の周囲に小皺を寄せ、何か扁平な感じのする唇をニヤニヤひきゆるめて、さも気の毒な餓鬼どもだといわんばかりに冷笑を浴びせるのである。

ボクは四修組の一人だったが、それまで自分を真の秀才と思いこみ、自分の将来を、空には高し如意ヶ嶽にもなぞらえて、(いや、汗顔の極みである。全く見当違いの最たるものであることは、今日が証明している)心たかぶっていた。
そのボクを、織田は、全然埒もない子供扱いだった。俄然反発をおぼえたボクは、直ちに彼等の向こうを張って、自称昭和三人組を組織した。新宮中学出身の草香君と、熊本の坊主の子の本田君、そらからボク。

織田一派が学校をサボり、祇乙(編者注:祇園乙部)や円山や銀閣界隈を逍遙していたのに対し、ボクらは、高校生の滅多に行かない千本方面を野良犬みたいにうろつき回っては、昼なお暗い喫茶店で五銭のコーヒを飲んだり、三番煎じの映画を見たり、そして口を開けば、文学及び文学青年どもを糞味噌にケナしていた。
あるとき文士どもと衝突した。衝突といってはやや大げさになるのだけれども、何のことはない、要するに織田に一本ニヤリとさげすまれて尾を巻いたのだが−−−

当時クラスに豪傑がいた。高知県出身の広末君。回線問屋の息子で金がふんだんに仕送ってもらえる上に、腕力がすごい。そのくせバンカラ一辺倒かというと、イキ筋にも片足かけてる・・・・・・・・・・といったその広末が、百万辺のお寺の境内で大学生をコテンコテンに殴り倒した揚げ句、豪傑に対するお世辞半分そばで口先だけの貧弱な応援を送っていたボクに

「おい、酒飲ましたる。これからリッチモンド・グリルへ連れていったる」
「リッチモンド・グリルて何や」
「こいつ、リッチ知らんのか。ちょろいぞ、おい。銀閣寺のバーや」

そこで、ビクビク、ワクワク生まれて初めてバーなるものに入ったのだが、豪傑は慣れたもので、デンと一番上等の場所にあぐらをかくと、「ウイスキー」とか「コニャック」とか出鱈目に注文を乱発した。
そこへ、デートリッヒもどきにチェリーを斜めにくゆらし、背のスラッと高い女が斜めに僕らを見下ろしながら、斜めに接近し、豪傑の横へ斜めに滑り込んだ。
不思議な意味をこめて青くきらめいている眼が、人の魂を吸い込むようだったのを、今もはっきり憶えている。
エジプト美人の神秘に満ちた彼女に、ボクはテもなく感嘆した。広末と美人はよほど馴染みらしく、しきりに玄妙な会話のやりとりをし、すこぶる仲が良かった。その女性が、つまり、織田の心身ともに許し合った恋人であったわけで、彼は後日、場所を大阪にすり替えて彼女のことを小話に書いている。ところが豪傑は突然その人の前で、織田の人身攻撃をおっぱじめた。何を喋ったか今は忘れたが、とにかくエゲツないものだった。

彼女はさも面白そうに、やっぱり織田の悪口をいいながら、笑いころげていた。

そこでボクだが、1/3は岡焼き半分、1/3は豪傑かつ奢り主への付和雷同半分、そして1/3は織田への反撥から、やった。悪口雑言を。

ところが、その翌日−−−−
珍しく織田が登校してきた。例の着物で、例の薄笑みを浮かべて・・・・・・そしてボクを見ると、いきなり、隣の席へ腰かけて

「ゆうべはオレの女にええ話してくれたそやね」

とたんに、騙された!と思った。女に。見事背負い投げを喰らった格好だ。
ボクはこのとき、女の心理の複雑さに驚きの眼を見張り、爾来夫婦喧嘩は犬も喰わんを固く固く信奉することになったが、そのときは全く、どぎまぎし、苦しい息の下から哀れな声をかすらせて、

「・・・・・・・・・・・済まん」
「ヘッヘッヘッ、済まんで済むかい」

それだけいうと、こっちの心の底をチカチカ光る眼でザラッと一回逆撫でして彼は立ち上がり、教授の入ってこないうちに早々いづれへか引き上げてしまった。

それ以来織田に頭が上がらなくなった。

二度吃驚したのは、紀念祭のときだ。例によって、各クラスが智慧を絞って催し物を出すのだが−−−
運動場では土人や化け物に仮装した生徒が太鼓に合わせて黒いドラ声を上げ、東門にコテコテと張り上げた赤褌のアーチを潜って、後から後から押しかけているメッチェンの大群が、黄色い歓声でこれに応えているのを遠雷の轟きと聞きながら、文三甲二の教室で、にわか役者どもがメーキャップをやっていた。演出兼監督は、他でもない、織田作之助。
窓外には桜の花びらがチラチラ舞い、教室の空気はそこはかとなく酒の香おりをはらんで−−−
鏡の前で何十回となく宗匠頭巾のかむり方を修正しながら自分の姿にしげしげ惚れこみ、満更でもないわとへんにスタイリストぶってるうちに出番。題は、「古池や」。

短冊を手に十人あまりの宗匠が(衣装は下鴨撮影所より借用)早くも腰を曲げヨチヨチと、しかし心は弾みに弾んで出ていった運動場には、真ん中に池を型取った水色の幕がしいてあり、池の端に拵えものの柳がションボリ一本−−たわいなさは最もドサの田舎芝居よりもなお貧弱だ。
気抜けの顔を宗匠どもは見合わせながらも、どうにか池の周囲に辿りついた。そして情けない声で「古池や・・・・」「古池や・・・・」

校舎の脇から、河童みたいな異形のものが、四ん這いの姿を現わした。京一中出身の小松君というチャキチャキの秀才かつ慌て者が蛙に化けているのだけれど、その顔はまるでもう河童だったから、覗いた瞬間、ピンときたのは蛙より河童だった。
傍らから織田が手を振って、早すぎると蛙を引っ込ました。
宗匠どもは「古池や・・・・」を連呼しながら、イライラと池のまわりを廻り始めた。 はやりにはやった蛙は、四、五遍も校舎の横から覗いたりすっこんだり。遂に織田の許可がおり、いとも不格好な足どりで、ドサドサ跳び出してきた。ボクがそいつを発見し、忽ち、俳人どもは喜びの歓声を上げた。
屈んだ腰を伸ばし、杖を振り上げて蛙に殺到した彼らは、一刻も早くこの不細工な生き物を池に追い落としてToppongとあの澄んだ音を立てさせようとする。蛙はいうことをきかない。ここに不粋極まる追撃戦が展開された。
結局蛙は、池と俳人と俳句を尻目にさっさと引き揚げてしまい、老人どもは一斉に尻餅ついて幕。

万雷の拍手。メッチェンもオッチェンも。英語主任教授の安藤さんが大口開いて笑ったのが見えた。

勿論ボクも演りながら感極まった。後で考えてみると、この辺に早くも、異様な身構えで開き直ったいわゆる日本純文芸なるものに対する、つまりシブサや枯レに対する彼の反逆、土足の文学の萌芽が現れていたのかもしれない。

彼は三十五で死んだのだが、晩年近く、可能性の文学ということを盛んに唱えていた。やたらに偶然を積み重ねて行く。昔のチャンバラ大衆小説よりも、もっと多く偶然がヒョイヒョイ飛び出し、読んで面白いが、後でスカみたいに頭が軽くなる。そんなもので、あんまり感心できんが、夫婦善哉は、けだし、傑作だ。
第三の吃驚は、夫婦善哉である。彼は井原西鶴に傾倒していた(編者注:織田には評論「西鶴新論」もある)。西鶴同様、大阪の市井生活を絶妙の筆をもって書きまくっている。そのヒラヒラした文体に接すると、眼の前を織田が着流し姿でヒラヒラ歩いているみたいな錯覚に、ふと襲われるのはボクだけだろうか。

ボクは織田を愛する。日本の作家でも最も好きな一人だ。(昭11・文甲卒)

INDEX HOME
grenz

同窓会報 73 悼 池田一朗 鈴木 宗夫(1991)

この文章を取り上げたのは少しほかとは違う事情がある。2002年4月はじめメールに
隆 慶一郎の小説を読んでいたら同窓会報に池田一朗について出ているとありました。隆 慶一郎の本名です。是非掲載お願いします。人名索引で出ませんでした。ザンネン。”と入ってきた。私は隆 慶一郎と言う作家を知らなかったし、興味も無かったのだが、なかなか有名なシナリオ作家であり時代小説の作家でもあると知った。氏のシナリオ教室メンバーが中心となった「池田会」もあり、毎年熱海の氏のお墓に墓参されている。今なお氏の作品のファンは多いことを知った。メールの要望に応えて同窓会報を繰ってみるとこの文章に行き当たった。友との篤い交歓も三高の伝統である。

“私がこの前田慶次郎と最初にめぐり逢ったのは、遠く戦前のことだ。私は旧制高校の生徒で、ボードレール、ランボオ、ベルレーヌの詩に耽溺するかたわら時代小説を片っ端から乱読していた。その頃、誰かがこの慶次郎について書いたものを読んだのだが、一種の貴種流離譚の印象しか残らなかったように思う。・・・・・
この短い旅日記の中にいる慶次郎は、学識溢れる風流人でありながら剛毅ないくさ人であり、しかも風のように自由なさすらい人だった。したたかで、しかも優しく、何よりも生きるに値する人間であるためには何が必要であるかを、人間を人間たらしめている条件を、よく承知している男だった。確かにさすらいの悲しさは仄かに匂うけれど、そこには一片の感傷もなく、人間の本来持つ悲しさが主調低音のように鳴っているばかりである。(一夢庵風流記 後書より)”。

この文にも三高生の理想としたものの名残が窺われる。

          −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

一、池田一朗略歴

同志社中学卒業 本籍兵庫県
昭和16年 三高文科丙類入学
昭和18年9月卒業
学徒出陣・復員後
昭和23年 東京大学文学部仏文科卒業
創元社に編集者として入社 
立教大学講師・中央大学助教授
昭和32年 シナリオライターとなり
日活撮影所で数多くを発表
昭和33年 「にあんちゃん」でシナリオ作家協会賞を受賞
その他「陽のあたる坂道」・「あじさいの歌」・「赤い波止場」・「錆びた鎖」などを書き、石原裕次郎に絶大の信用を受け世間の評価も高く一流のシナリオ作家としての地位を固める。以後、テレビの脚本に手を染め、その数は不明。テレビ局の信頼があつく「池田一朗」の名前で企画の段階が通るというような事情もあり、次々と書いたためである。

「紅萌ゆる自由寮」(旧制高校の作家による連作小説集「ああ黎明は近づけり」所載)もこの頃書かれているが、これが最初の小説と思われる。

その間、「伝七捕物帳」の放映中同じ主題の舞台脚本を、前進座の中村梅之助の為に書き、京都南座および地方巡業にて上演。

昭和52年3月 大阪中座の木暮美千代公演に「桃の別離」を書く。
この脚本は以後木暮劇団で度々地方公演で上演された。

昭和59年『週刊新潮』に「吉原御免状」を連載。『隆 慶一郎』としての出発。
「直木賞」候補となる。以降
「影武者徳川家康」(静岡新聞連載)
「刀工剣豪伝・鬼麿一番勝負」(小説新潮に連載)後に「鬼麿斬人剣」
「かくれ里苦界行」(週刊新潮連載)
「風の呪殺陣」(問題小説連載)
「捨て童子・松平忠輝」(河北新報外に連載)
「見知らぬ海へ」(小説現代連載)
「死ぬこと見つけたり」(小説新潮に連載)
「一夢庵風流記」(週刊読売連載)
「花と火の帝」(日本経済新聞夕刊連載)平成元年九月二十一日中断・未完
「夜叉神の翁−−金春一族の陰謀」(野性時代連載)未完
「紫式部殺人事件」(小説新潮臨時増刊発表)
「柳生非情剣」(講談社刊 短編集)直木賞候補作
「かぶいて候」(週刊小説連載)未完
「時代小説の楽しみ」(講談社刊)
「吉野悲傷」(小説すばる連載)未完
その外 後に短編輯に載せられた多くの短編を発表

「花の慶次−雲のかなたに−」(原作 隆慶一郎・池田一朗/漫画原哲夫)<週刊少年ジャンプNo.50 11月27日特大号所載)(一夢庵風流記の劇画化)

これが彼の名前で発表された最期のものであり、絶対に口述筆記をしなかった彼の唯一の作品である。

平成元年五月十日、

胸に激痛を覚え救急車で東京医大病院に緊急入院。病室で執筆を続けたが、月刊誌・週刊誌の連載はやむなく休載して「花と火の帝」(日経夕刊)だけを毎日書き続けた。九月十一日本人のたっての希望により退院。二十二日痛みを訴え近所の病院で点滴注射を受けたが、鎮静剤の量が多くて起き上がることができず再び東京医大病院に入院。

十月三日。

「一夢庵風流記」(講談社刊)が,柴田錬三郎賞に決定の通知があった。

その受賞の言。
思えば六年たつ。
六十歳を迎え、還暦とやらいって奇妙な赤子に戻った日からである。
私はそれまでの生き方に倦んでいた。新しい生き方をしたいと思い、映像でなく文章に、それも伝記的手法及び文章を使いながら、歴史的事実を再構成したいと決意した。
今年はそれから丁度六年、六年の間に長編小説を五編、短編小説集を一編、随筆集を一編、世に出した。小説だけで六編、奇妙な符合といっていい。
そしてその今年、小説で初めて賞を受けた。しかも柴田錬三郎という、伝奇的な時代小説家の名を冠した賞である。益々もって奇妙な符合であり、より大きな感動である。
すべての方に心からの謝辞を呈する。(小説すばる創刊二周年記念特大号)
十月十一日
病院の食堂で最後の力を振り絞って三枚の原稿を書き上げ次回の題字を書いたまま、ついに二度と立ち上がれなかった。
十一月四日朝
二日間の昏睡の後、静かに眠るがごとく息を引き取った。
十一月六日
聖イグナチオ教会に於いて、密葬
十一月十日
同教会に於いて、本葬
十一月十五日
帝国ホテルにて、柴田錬三郎賞授賞式が本人不在で行なわれた。
平成二年三月三十日 日比谷公園松本楼において
『池田一朗さんを偲ぶ会』が日本放送作家協会主催で行われた。
十月二十八日
上智大学構内の上智会館三階で一周忌のミサが行われる。
順未亡人が初めて出席された。
十月三十日 ホテル・エドモント 千鳥の間で
『隆 慶一郎を偲ぶ会』が、関係者・友人により催された。

ほとんどの著書が、彼の死後続々と刊行され、しかも未完の小説が何編も含まれているのも未だかって無いことで、いかに彼の作品が読まれていたかの証拠でもある。
しかもつぎつぎと彼の業績に関する評論も後を絶たず

「群像」 一九九一年一月号
『異形性の文学』−−隆慶一郎の世界 山口昌男
「時代小説の楽しみ」 別巻『時代小説・十二人のヒーロー』一九九〇年十一月二十五日 新潮社刊
編者解説 縄田一男

と現在もまだ時代小説の世界に深い影を落としている。

完結を見なかった作品に無念の想いを抱いて逝った彼と共に、私達もその想いを禁じ得ない。

二.追悼の記

聖イグナチオ教会にはいって花に埋まった棺を見たとき、
ああ、ここにしか彼の遺体が置かれる所はないと、思わず一人つぶやきました。
聞けば、死の前日、順夫人の手で洗礼を受けたとのことでした。
「俺の棺は此処に置いてくれ」彼の最期の望みはこのことだったとしか思われません。
本当に心を打つ告別の式でした。飾られていた遺影が「どうや」と微笑んで語りかけてくる声が聞こえます。「わかってるよ」胸の中で応えて、覗き込んだ棺の中の顔は花に埋まって白さの増していた髪の毛が隠れて、五十年前の昭和十六年に教室で見たときそのままの美少年の顔でした。

寮の芝居で女役を演じ、眉毛を剃り落としてその痕を眉墨を塗ってごまかしていたのを見付けられて恥ずかしそうな嬉しそうな顔、外のクラスの友人に「土井虎の講義に欠点をとる奴の頭が分らん」と言われて、「阪倉の源氏で欠点をとる奴の顔が見たい」と、昂然と言い返したあの顔があったのです。

共に歩き、共に唄った吉田山そしてレギュラーコース、紅萌ゆる、行春哀歌、嵯峨野嵐山龍安寺、御室や醍醐。次々と浮かんできます。

彼の三高三年間は、後に『紅萌ゆる自由寮』(最初の小説、但し筆名はシナリオ・脚本と同じ池田一朗)に書かれているように本当にオーソドックスな三高生で、私のような無頼派と指差されていたものとの付き合いは、少々迷惑な、多少は面白いものだったのかもしれません。
そしてあの日が来ました。学徒出陣です。
肺結核の第一回目の発病で、病床に居た私を見舞いに来て、当時菓子がなくて代わりに出した秘蔵のいちごジャムをトーストに付けて食べながら、東大仏文辰野教室の話を淡々と語り、「じゃ、征って来る。」と去って行った日が。
勿論再会は期せない別れでした。

敗戦後の混乱期に再び病臥して、やっと命だけは取り留めた頃は無事帰還して大学の講師をしていると噂に聞きながら音信の跡絶えた何年間が過ぎて、再会したのは私が南座の支配人室にいた時です。
「シナリオ書いてる。日活で、本名のまま。」私の問いにかえって来た返事でした。
彼が『にあんちゃん』その他で第一線のライターになっていることを全然知りませんでした。思い出せば共通の友であった在仏の画家田渕が訪ねてきたのもこの部屋でした。そして彼が日本に帰ってくるたびに三人で食事をしたり夜遅くまで飲み明かしたりしたのも、ついこの間のことのように目に浮かんできます。

その翌年、私が演劇の制作を担当するようになってからは、なにやかやと仕事のような仕事でないような付き合いが再開しました。二人きりで夜明けの渋谷の街を歩いたり、車を深夜の横浜へとばしたり、なじみの俳優、タレント、仲間の同業者とわいわい騒いだり思い出せば限りがありません。
東京のホテルで私が痛風の発作を起こして動けなくなったとき電話をしたらすぐ飛んできてくれて肩を借りてやっと食事に行けたこと。突然に電話がかかり何事かと驚く私に、「おい、酸っぱいコーヒーはどこのだったかな」「ちょっと待て」、と不確かな記憶を友人の珈琲屋に問い合わせて返事をすると「わかった」それだけ。ランブルでタンザニアの酸っぱいコーヒーを飲んだのはその前のことだったのか?今では思い出せません。

本当の仕事も二回。脚本を依頼して、意見を聞いたり注文を付けたり、ぎりぎりまで上がってこない脚本を少しずつ稽古場に届けてやっと間に合わせたり、初日を開けて又飲み明かしたり・・・・・
今となれば楽しい思い出です。

『隆 慶一郎』の誕生も知りませんでした。「吉原御免状」が週刊新潮に連載されて読み始めたとき、これは彼だと直感して尋ねその通りであると知り、胸が感動で一日になりました。

フランスから個展のために戻ってきた田渕と三人で飲んだり食べたりしたのもその頃で、まだまだいくら飲んでも翌日は平気で三人ともまだ体力には自信を持っていました。
以後、会うたびに感想を言ったり、連載中の文中であそこおかしいよとよけいなことを言いだしても必ず発行の度に送ってくれた本にはきっちり直してありました。

体調を崩していたことも全然知りませんでした。電話をしても何時も留守なので、ちょうど夏のことでもあって避暑に行っているのだと一人合点をしていたのですが、「時代小説の愉しみ」の発刊を知って購入したところ、あとがきに平成元年七月二十日・東京医大病院にて とあるのを見て飛び上がりました。
それから電話を何回か朝や夜にかけて見てもつながらず、諦めて手紙を書きました、まだそんなに悲観すべき状態とは思わずに。と云うのも「花と火の帝」の連載が続いていたからでした。ベッドの脇で体力の限りを注ぎ込んで書いていたことも知らずに。
危ないと云う知らせの最初は、野嶋薫のアンテナから入ってきました。癌らしい、煙草を吸いすぎていたから肺癌ではないか、」と云うものでした。でもまだ信じられませんでした。勝手に、彼が死ぬはずはないきっと回復して元気な顔を見せてくれるとしか思えませんでした。
第二報は龍村元が直接病院を訪れて報せてくれました。危ないらしいというのです。それでもまだ大丈夫だと思い込んでいました。そこに到るまでの病状を全然知らなかったからです。今となれば何故その時すぐに飛んで行かなかったのかと悔やまれるのですが、怖かったのです。病んで衰えた彼の顔を見るのが。その顔を見て、「思ったより元気じゃないか」という言葉を出す自信がなかったのです。でも、行けばよかったのにと後悔の心にさいなまれています。
第三報は、仕事先の仙台に松竹テレビ部の高橋さんがわざわざ入れてくれました。危篤の報せでした。遂に来たかと覚悟を決めて予定を変更してすぐ次の予定地の福岡へ飛び、翌日の東京への航空便の予約を済ませて宿舎に落ち着いたとき最期の報せを聞きました。十一月四日の夕刻です。後は、空っぽになった頭の中に葬儀の日時と場所を収め、芝原利男に連絡するともうなにも手につかずじっと一人で福岡の夜を送りました。
十一月五日朝、芝原と一緒に四谷の聖イグナチオ教会に入ったのです。同級の秋山虔、梅田義孝や安部英夫、土井英丸の顔がありました。上のクラスの野平健一、古山高麗雄もいました。そして、火葬場へのバスの中、金属の篤い扉の中に遺体が消え休憩所で待っている間、長男の啓一郎さん、次男の次郎さん、長女の真名さんと挨拶を交わしたり思い出を語り合ったり、新潮社の池田雅延さんや、明田川さんから病院での彼の生きざまをいろいろ聞かせてもらいました。
やがて真っ白な骨になった彼の遺体を壺に納める時が来ました。これでお別れだなと手を合わせさよならを言ったとき、ふと思い付きました「すみませんが一片のお骨をください」とご遺族の方にお願いしました。不審げな顔をなさっている方々に、「京都にもって帰って吉田山や御所、嵐山、醍醐など、ともに語りともに歩いた場所に置いてきたいのですと申し上げて、快くお許しを頂きました。京都に帰る車中、ガーゼのハンカチに包んでポケットに入れ、上からそっと手で押さえてもって帰りました。
京都駅で芝原と別れ,独りでタクシーに乗ったときふつふつと悲しみが沸いてきました。そうだ、今日はどうしても京都を離れられないと葬儀に参列しなかった龍村のことを思い出しました。どうしても会いたくなりタクシーを捨てるなり電話をかけました。すぐ行くとの返事に、行きつけの祇園の店でじっと待っていると、間もなく黙って入ってきてくれました。もうなんの言葉も要らず私も黙ってガーゼのハンカチをポケットから取り出しました。涙が止まりませんでした。
十一月十日、再び新幹線に乗り一人で東京に向かいました。いよいよ本葬の日です。教会の表には頼んでおいた「三高文丙有志」の花も飾ってありました。中には密葬の日と同じ写真が微笑んでいました。
告別式のミサが始まり、続いて友人代表として、池沢武重の弔辞になりました。
「どうや池田、あの世とやらの住み心地は?」で始まる彼の声は絶えだえで、時々は聞き取れなくなりました。激しい感情を抑えながらの別離への言葉にまた胸が一杯になりました。続いて一年上の野平健一新潮社常務のマスコミ代表の弔辞、長年彼と仲間としてのお付き合いが続いていた放送作家協会の阿木翁助会長の弔辞とじっと聴いているうちにやっと激情が治まってきたわたしは、心静かにお別れの花を供えながら、「さようなら」とつぶやきました。もうこれでお別れだねと写真に語りかけて外に出て、気がついたら、安部英夫と、大阪から一人で別れに来ていた西岡孝男との姿がありました。そして誰からともなく三人で思い出話に耽りながら教会をあとにしました。

二月になったころ、放送作家協会が主体になって日比谷の松本楼で三月三十日に「池田一朗さんを偲ぶ会」を催す連絡を戴きました。待ち兼ねるように出席して、見知った顔の人には今度池田一朗の追悼の文集をこしらえるので、今までに新聞や雑誌・週刊誌にお書きになった文章を使わせていただくかもしれませんが宜しくお願いしますと頼んで回り、皆さん快く了解していただきました。
私の知らない彼の姿もいろいろと聞かせてもらいましたが、「池田一朗愛唱歌集より」という一枚の刷り物をもらいました、琵琶湖周航歌が載っています。句会を開いていたことも初めて聞きました。そしてその時の一句
あゝ銀座 女の香り 花祭り
いかにも彼らしいと紹介されました。もし生前に私が知っていて、「おもしろいな」と言ったら、破顔一笑するのが目に浮かびます。

帰路思い出して微笑が止まりませんでした。

十月二十八日、上智会館の三階で一周忌のミサが行われるというのです。そしてよく仕事につかっていた山の上ホテルで食事をとのお誘いでした。
それに三十日にはホテル・エドモントで有志による偲ぶ会を催すとの報せも届きました。
二十八日のミサは二十人ほどの出席者の前で厳粛に執り行われました。私はカソリックの一周忌のミサというのは初めてのことでした。本当に気持ちの良いものでした。
席上、久しぶりで順未亡人にお会いしてご挨拶を致しました。思っていたよりお元気そうで少しは心が休まりました。お寥みしいでしょうが、まだお若いのですからこれから先、ご自分の命を大切にしてください立派な息子さんや娘さんがいらっしゃるのですから。
池沢も来ていました。一年とは早いものだとつくづく思いました。
夜の、山の上ホテルの食事も暖かい集まりでした。順さんはもうお帰りになっていましたが啓一郎さんと真名さんが一心に勤めておられました。皆さんの想い出話に時間を忘れていました。そのままホテルに泊めていただいて、ああ此処にも会いに来たことがあったと、窓から眺めた東京の街の灯が潤んできました。
三十日のホテル・エドモントの千鳥の間には、仕事の仲間や、遊び仲間がにぎやかに集まっていました。秋山や安部も池沢も龍村もいます。乾杯の音頭と言われて、通り一遍の言葉を並べ出しましたが、駄目でした。数多い未完の長編小説を残してしまった彼の気持ちを思えばとても安らかに、とは言えなくなってしまいました。
「彼の無念のために」というおかしな言葉になってしまいました。でも本当にそうだと思っています。もう一つ付け加えれば、あとから追いかけていって今度会ったときは全部完結させておいてください。その時「まだできん」とあの笑顔だけは見せないでください。もちろんそんなことはないと確信していますから、その日を楽しみにしています。(昭和19年文丙)

INDEX HOME
grenz
 

同窓会報 66 中野好夫先生のことなど 中川 努(1987)

中野は愛媛県松山で生まれ三高卒業後東大英文科に進んだ。その後中学や師範学校でも教鞭を執ったが、昭和10年東大助教授、同23年教授となった。28年“教授では喰えぬ”と辞職し評論活動を展開したが、その後時代も変わり39年中央大学教授に就任した。サマーセット・モームの初訳、シェクスピア研究で業績を挙げ、晩年はギボンの「ローマ帝国衰亡史」の翻訳に没頭した。他方、東京都美濃部都政の実現や原水禁運動の統一など平和活動にも貢献し、昭和60年肝硬変のため81才で亡くなった。この稿は中野を追悼して寄稿されたものだが、中野好夫という一人格の中に象徴される三高というものを感じさせるのでとりあげた。


中野(好夫)先生(大12・文甲)がなくなられたのは一昨年の二月二十日であった。当時、多くの人々の追悼文が新聞・雑誌にかかげられたが、本誌にはまだ、そのようなものは現れていないようである。
戦争中に英文科で先生の講義を聴き、卒業後も、ときどきお目にかかる機会を持った者として、私自身、先生に関して心に染み付いて忘れられないことをここに記して、編集の海堀さんへの責めを果たそうと思うのである。

ご逝去から二十日あまり経った三月十二日、港区青山葬儀所で葬儀が行なわれた。「葬儀」と言っても、故人の遺志により、宗教的儀式は一切行なわれず、数人の代表者による「訣れのことば」が述べられ、そのあと参列者が、各自、正面に飾られた写真に向かって供花拝礼して終るという簡単なものであったが、さすがに「守備範囲」の広かった先生だけに、三高時代・東大時代・・・・・と、いった具合に、・・・・・「東京都民の会」「沖縄問題」にいたるまで、いうなれば、「テーマ別」代表者が、「ことば」を述べていった。
最初に、「三高時代」の友人代表として、桑原武夫先生が遺影の前に進まれた。
「・・・君はあちこちで『弔辞』というものくらいくだらないものはないと言っているので、こうなると、
まことにどうもやりにくい・・・・」

という切り出しで、御二人の間の、さらには、故吉川幸次郎先生との間の御交遊がしみじみと語られた。この「訣れのことば」は、いかにも示唆に富むものであったが、とくに私の胸を打ったのは、「中野君は高校時代に、おれはキリスト教を完全に捨てたといっているが、君をよく見ていると、決してキリスト教から離れていないように思われるが・・・。」という言葉であった。それについては、後にもう一度触れることになるが、ともかく桑原先生の「弔辞」というのか、「お訣れ」というのか、いかにも文学者らしく、すっきりとして滋味溢れるものであった。そのせいか、最後に「・・・・・では、またいずれ・・・。」ということばで終ったとき、パラパラとかすかな拍手の音が聞えた。私も思わず拍手していたかもしれない。
さてその「キリスト教」のことであるが、逝去後ほどなく出版された「主人公のいない自伝」の中に、小学生上級で洗礼を受けたが「三高の中頃から意識して教会を離れた。」ことが記されている。(同書49ページ)また、先生の口から直接聞かされたこともある。
しかし、私の感じでは、中野先生の「御小言」にはなぜか一種の聖書的なリズムが感じられた。少なくともあの儒教的な、あっさりしたものでなく、何というのか、少し粘着性のあるもの(といっても決して、しつこくて陰険という意味ではない)であった。その点ではむしろ敬虔なクリスティアンとして令名のあった故斉藤 勇先生の方がむしろ儒教的御説教が多かったようである。したがって、私は桑原先生の御考えを拝聴し、ひそかにわが意を得たような気になった。最近、劇作家木下順二氏の講演が雑誌「世界」八月号に「中野好夫における回心」という文章になっている。木下氏は私どもよりも三年ばかり先輩で、中野助教授(当時)の最初の年の教え子の一人である。木下氏は「一九四五〜四六年から一九五〇〜五一年ごろまで」の間に「・・・・一英文学者から大きな社会的存在になられた。・・・・それを私は『回心』という言葉で呼びたいのです。」と言われるが、私にはこのいわゆる「一英文学者からの脱出」は、私どもが講筵に連なった一九四一年ごろ以前から、先生の心に存在していたように思われる。
私どもが聴いた「シェークスピア序説」なる講義(たしか、この講義の内容は、少し噛み砕かれた形で、その後出版された「シェークスピアの面白さ」『「新潮選書」のち「中野好夫集X』に再見される)の最初の部分で、シェークスピアの「日本における理解の障害になったもの」のひとつとして「(シェークスピアが)曠古の大文豪だとか、またその作品が世界的古典だなどという余計な予備知識」をあげ、「だいたい『沙翁』(明治以降シェークスピアのことをそう呼んだ)などという呼び方が適当でない。」と言われた。私どもが講義を聴いたときには「・・・大阪あたりのエンタツ・アチャコの脚本でも読むつもりでいればよろしい。」といわれたことを記憶している。
そのころのシェークスピア研究がどのような傾向にあったか、それは私どもにはよくわからないが、中野先生には、最初から、何かはじめから固定された枠の中で物を考えたり、ある定まった路線に無理に乗せられるのを極度に嫌われる「性癖」があったのではないだろうか。
一九四一年の開戦以来、世の中は、ますます先生の考えとはかけ離れて、無理に固定された枠の中でしか考えることができなくなり、権威に対して、誰も弱々しくなっていった。この頃の先生の文章に、なかば苛立ったような「権威」に対する攻撃が目立つのも、今にしてみればわかるような気がする。
木下氏の文章中に出てくる「英語青年」のさる大教授の英語教育論に対する攻撃−−そういう言い方は「豆腐屋に一丁切っては君のため、郵便配達に一歩歩いては国のためと思え」というのと同じではないか−−もそうだし、大先輩のS教授が、東大の授業年度が終るたびに一冊づつ注釈書を出して金儲けをしているが、用紙不足の折からもっとましな仕事をなさったらどうですというような文章が新聞に載り、その先輩が怒って、「恩師に弓を引く」とか、「東洋道徳に反する」というような反論を「近時憤慨のこと」という見出しで同じ新聞に載せた。すると数日後また同じ新聞に、「もう少しまともな反論をいただくかと思ったらまことに御粗末な反論で・・・」といった中野先生の文章が出た。その見出しは「近時噴飯のこと」というのであった。

私どもの在学中、市河三喜先生といえば、「泣く子も黙る」と言われた英語学・言語学の権威で、「市河先生の御機嫌を損ずると、日本のどこへ行っても英語の教師はできない」という神話を生むほどの大先生であった。これほどの権威であり、大先輩でもある市河先生に中野先生はどんな気持ちを御持ちだったか−−私などとても畏れ多くて判断できないが、いくつかの事実をあげておくことにする。
まず先生がまだ「東京小石川のある府立女学校の英語教師をして、おちゃっぴーの下級生相手に英語のチーチーパッパ程度を教えていた」ころ、(それは昭和七、八年頃らしい)に日本英文学会で「ヘンリー・アダムズ」について研究発表をされるとき、司会役の市河教授が「中野君はどこのどんなアダムズの話をするのか、聞いたこともない人間だが・・・」という意味の紹介をされたことが「中野好夫集Y」に見える。さらに、敗戦前だったかあとだったか、今はっきりした記憶はないが、「『市河先生はよくわれわれ学者は・・・・』とおっしゃるが、「学者」であるか、どうかは他人のきめる問題だ。自分から「学者」というのはおかしい。」という発言をある雑誌でみたことがある。
なお市河先生は「中野君の書く文章は、なかなか面白いものもあるが、文中に『クソ』とか『屁』とか下がかった言葉が多い。将来中野好夫論でも書く人は、このような下がかった言葉の『頻度数(フリクエンシー)』でも研究すればいいだろう」と応酬されている。

こうしたいわゆる歯に衣を着せない言論は、もう、国や軍部を相手にしては通らなくなってしまう。そして戦争−敗戦と続く中で、先生は「・・・(戦争を)傍観して日本の負けるのをニヤニヤ待ち望んでいたわけでは決してない。十二月八日(一九四一年)以後は一国民の義務としての限りは戦争に協力しました。欺されたのではない。進んでしたのであります。私は古い人間であり、私の中にある明治以来の教育の潜在的根強さには、私自身半ば嫌悪をもって、今でもよく知り、また驚いているものです(東京大学戦没学生手記『はるかなる山河に』の出版記念講演)・・・・となり、これは戦争を経験する日本人が、理由は何であれ、大きい流れに流されざるを得なかったことについて、やはりキリスト教の「原罪意識」がうかがわれると木下氏は述べられるのだが、この意識は、ずいぶん小さいときから持っていたと言うべきではないだろうか。

前出、「主人公のいない自伝」で見れば、大正五年に入学した徳島中学が、あまりにも「悪い奴、不良性のある生徒はすべて放校または強制転校、これによってわれひとり清しとする露骨な名門校主義だったので」「駄文を草し当時の徳中の馬鹿馬鹿しさ加減を揶揄した」ことなどがもとで、「親父の方で匙を投げわが子を引き取ることになった。」
その後検定試験で旧制高等学校入学資格試験にうかり、やがて三高入学ということになる。
固定した考え方や引かれてあるレールに沿ってのみ歩むことの嫌いな先生にとって、三高の教育は、思ってもいない程結構ずくめのものであったらしい。先生の教育論は−−他の論議もそうだが−−おおむね点数が辛いが、三高の教育については少し違っている。他にも三高についての論評はあるが、「中野好夫集U」の二八六ページ「教育しない教育」から少し長くなるが、引用してみよう。

「古くから一高の自治、三高の自由というのが並び称せられ、私としても聞いていないわけでもなかったが、やはり入って肝をつぶした。自由というより放恣であり、一つまちがえればダラシなかった。私の友人に大宅壮一という人物がいる。同じ時代一級上に彼はいたが、あの途方もない無軌道人間の彼をもってしてさえ、後年だが、よくまあこんな学校があったものかと、今さらのように呆れたと回想しているほどだから、たいてい消息は察しがつこう。
・・・・・
それに先生がよかった。・・・・別に教師ぶるでもなし、説教するでなし、私生活からいっても模範教師の条件からはおよそ遠い人たちだったが、ただ同じ一個の人間として教室で接するだけでもいつの間にかサムシングを私たちに与えてくれるような教師だった。そしてそのことが放恣の中にも自ずから律ならぬ律を作っていたように思う。
自由教育、個性教育、平和教育・・・・・名は何であれ、それが一つの型になってしまっては私などどうも与しえぬように思う。」

私も入学して一年くらいたったある日、西荻のお宅に新入生数人が呼ばれて、
「君はどこの高等学校だったかね」ときかれ「三高です」と恥ずかしそうに(と今でも思っている)答えると、にやりと笑いながら
「じゃあ君、山修さんや深瀬さんに習うてきてるんやね・・・・・。」
「はい」と言ったものの、
「それにしては、君・・・・・」とくるのではないかとひやひやしたのは今でも忘れない。

しかし私自身、ずいぶん御世話になった。卒業後、新聞社の入社試験にうまく引っかかって報告に行くと「このごろ新聞社もやさしくなったなあ・・・・。おれは卒業の年にいくつか受けてみな落ちた」といわれた。またしばらくして、少しからだをこわし、どうしても新聞社を辞めねばならなくなって、教員になるつもりで御願いに行ったら「いや、英文科を出て、おれは英語の教師にならぬと威張ってる奴がいるが、そんな奴がたいてい英語の教師になる・・・。だいたいこの私がそうだ」としみじみおっしゃったとき、学生時代の演習のときの激しさとはまったくうらはらみたいな気がした。

先生と同じく大正十二年卒業のフランス文学の河盛好蔵先輩も、「中野君のような人物は三高からしか出ないのではないか」とおっしゃっているほどで、「中野君は猛烈なポレミスト(編者注:polemist(論客))であるから、他人に対して些少の過ちも許さないといった窮屈な人間に考えられやすいが、事実は全く反対で優しい人情家であることは、中野君と付き合った人、とくに女性は皆知っているだろう。」とも述べている。

このような人がらのおかげで、東大紛争当時、教授側・学生側として激しくやり合ったかっての猛者学生とも、交友を続けられていたのであろう。

先生は畢生の仕事として、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」の翻訳を手がけて、四巻まで出来上がったところで御他界ということになり、いかにも残念である。

しかしもっと残念なのは三高の生んだ、希有に三高らしい存在が失われたことである。(昭15文甲)

INDEX HOME
grenz
 
HOME