この文章を取り上げたのは少しほかとは違う事情がある。2002年4月はじめメールに “隆 慶一郎の小説を読んでいたら同窓会報に池田一朗について出ているとありました。隆 慶一郎の本名です。是非掲載お願いします。人名索引で出ませんでした。ザンネン。”と入ってきた。私は隆 慶一郎と言う作家を知らなかったし、興味も無かったのだが、なかなか有名なシナリオ作家であり時代小説の作家でもあると知った。氏のシナリオ教室メンバーが中心となった「池田会」もあり、毎年熱海の氏のお墓に墓参されている。今なお氏の作品のファンは多いことを知った。メールの要望に応えて同窓会報を繰ってみるとこの文章に行き当たった。友との篤い交歓も三高の伝統である。
“私がこの前田慶次郎と最初にめぐり逢ったのは、遠く戦前のことだ。私は旧制高校の生徒で、ボードレール、ランボオ、ベルレーヌの詩に耽溺するかたわら時代小説を片っ端から乱読していた。その頃、誰かがこの慶次郎について書いたものを読んだのだが、一種の貴種流離譚の印象しか残らなかったように思う。・・・・・
この短い旅日記の中にいる慶次郎は、学識溢れる風流人でありながら剛毅ないくさ人であり、しかも風のように自由なさすらい人だった。したたかで、しかも優しく、何よりも生きるに値する人間であるためには何が必要であるかを、人間を人間たらしめている条件を、よく承知している男だった。確かにさすらいの悲しさは仄かに匂うけれど、そこには一片の感傷もなく、人間の本来持つ悲しさが主調低音のように鳴っているばかりである。(一夢庵風流記 後書より)”。この文にも三高生の理想としたものの名残が窺われる。
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一、池田一朗略歴
- 同志社中学卒業 本籍兵庫県
- 昭和16年 三高文科丙類入学
- 昭和18年9月卒業
- 学徒出陣・復員後
- 昭和23年 東京大学文学部仏文科卒業
- 創元社に編集者として入社
- 立教大学講師・中央大学助教授
- 昭和32年 シナリオライターとなり
- 日活撮影所で数多くを発表
- 昭和33年 「にあんちゃん」でシナリオ作家協会賞を受賞
- その他「陽のあたる坂道」・「あじさいの歌」・「赤い波止場」・「錆びた鎖」などを書き、石原裕次郎に絶大の信用を受け世間の評価も高く一流のシナリオ作家としての地位を固める。以後、テレビの脚本に手を染め、その数は不明。テレビ局の信頼があつく「池田一朗」の名前で企画の段階が通るというような事情もあり、次々と書いたためである。
「紅萌ゆる自由寮」(旧制高校の作家による連作小説集「ああ黎明は近づけり」所載)もこの頃書かれているが、これが最初の小説と思われる。
その間、「伝七捕物帳」の放映中同じ主題の舞台脚本を、前進座の中村梅之助の為に書き、京都南座および地方巡業にて上演。
- 昭和52年3月 大阪中座の木暮美千代公演に「桃の別離」を書く。
- この脚本は以後木暮劇団で度々地方公演で上演された。
- 昭和59年『週刊新潮』に「吉原御免状」を連載。『隆 慶一郎』としての出発。
- 「直木賞」候補となる。以降
- 「影武者徳川家康」(静岡新聞連載)
- 「刀工剣豪伝・鬼麿一番勝負」(小説新潮に連載)後に「鬼麿斬人剣」
- 「かくれ里苦界行」(週刊新潮連載)
- 「風の呪殺陣」(問題小説連載)
- 「捨て童子・松平忠輝」(河北新報外に連載)
- 「見知らぬ海へ」(小説現代連載)
- 「死ぬこと見つけたり」(小説新潮に連載)
- 「一夢庵風流記」(週刊読売連載)
- 「花と火の帝」(日本経済新聞夕刊連載)平成元年九月二十一日中断・未完
- 「夜叉神の翁−−金春一族の陰謀」(野性時代連載)未完
- 「紫式部殺人事件」(小説新潮臨時増刊発表)
- 「柳生非情剣」(講談社刊 短編集)直木賞候補作
- 「かぶいて候」(週刊小説連載)未完
- 「時代小説の楽しみ」(講談社刊)
- 「吉野悲傷」(小説すばる連載)未完
その外 後に短編輯に載せられた多くの短編を発表
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- 「花の慶次−雲のかなたに−」(原作 隆慶一郎・池田一朗/漫画原哲夫)<週刊少年ジャンプNo.50 11月27日特大号所載)(一夢庵風流記の劇画化)
これが彼の名前で発表された最期のものであり、絶対に口述筆記をしなかった彼の唯一の作品である。
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平成元年五月十日、
胸に激痛を覚え救急車で東京医大病院に緊急入院。病室で執筆を続けたが、月刊誌・週刊誌の連載はやむなく休載して「花と火の帝」(日経夕刊)だけを毎日書き続けた。九月十一日本人のたっての希望により退院。二十二日痛みを訴え近所の病院で点滴注射を受けたが、鎮静剤の量が多くて起き上がることができず再び東京医大病院に入院。
- 十月三日。
- 「一夢庵風流記」(講談社刊)が,柴田錬三郎賞に決定の通知があった。
- その受賞の言。
- 思えば六年たつ。
- 六十歳を迎え、還暦とやらいって奇妙な赤子に戻った日からである。
- 私はそれまでの生き方に倦んでいた。新しい生き方をしたいと思い、映像でなく文章に、それも伝記的手法及び文章を使いながら、歴史的事実を再構成したいと決意した。
- 今年はそれから丁度六年、六年の間に長編小説を五編、短編小説集を一編、随筆集を一編、世に出した。小説だけで六編、奇妙な符合といっていい。
- そしてその今年、小説で初めて賞を受けた。しかも柴田錬三郎という、伝奇的な時代小説家の名を冠した賞である。益々もって奇妙な符合であり、より大きな感動である。
- すべての方に心からの謝辞を呈する。(小説すばる創刊二周年記念特大号)
- 十月十一日
- 病院の食堂で最後の力を振り絞って三枚の原稿を書き上げ次回の題字を書いたまま、ついに二度と立ち上がれなかった。
- 十一月四日朝
- 二日間の昏睡の後、静かに眠るがごとく息を引き取った。
- 十一月六日
- 聖イグナチオ教会に於いて、密葬
- 十一月十日
- 同教会に於いて、本葬
- 十一月十五日
- 帝国ホテルにて、柴田錬三郎賞授賞式が本人不在で行なわれた。
- 平成二年三月三十日 日比谷公園松本楼において
- 『池田一朗さんを偲ぶ会』が日本放送作家協会主催で行われた。
- 十月二十八日
- 上智大学構内の上智会館三階で一周忌のミサが行われる。
- 順未亡人が初めて出席された。
- 十月三十日 ホテル・エドモント 千鳥の間で
- 『隆 慶一郎を偲ぶ会』が、関係者・友人により催された。
ほとんどの著書が、彼の死後続々と刊行され、しかも未完の小説が何編も含まれているのも未だかって無いことで、いかに彼の作品が読まれていたかの証拠でもある。
しかもつぎつぎと彼の業績に関する評論も後を絶たず
- 「群像」 一九九一年一月号
- 『異形性の文学』−−隆慶一郎の世界 山口昌男
- 「時代小説の楽しみ」 別巻『時代小説・十二人のヒーロー』一九九〇年十一月二十五日 新潮社刊
- 編者解説 縄田一男
と現在もまだ時代小説の世界に深い影を落としている。
完結を見なかった作品に無念の想いを抱いて逝った彼と共に、私達もその想いを禁じ得ない。
二.追悼の記
聖イグナチオ教会にはいって花に埋まった棺を見たとき、
ああ、ここにしか彼の遺体が置かれる所はないと、思わず一人つぶやきました。
聞けば、死の前日、順夫人の手で洗礼を受けたとのことでした。
「俺の棺は此処に置いてくれ」彼の最期の望みはこのことだったとしか思われません。
本当に心を打つ告別の式でした。飾られていた遺影が「どうや」と微笑んで語りかけてくる声が聞こえます。「わかってるよ」胸の中で応えて、覗き込んだ棺の中の顔は花に埋まって白さの増していた髪の毛が隠れて、五十年前の昭和十六年に教室で見たときそのままの美少年の顔でした。
寮の芝居で女役を演じ、眉毛を剃り落としてその痕を眉墨を塗ってごまかしていたのを見付けられて恥ずかしそうな嬉しそうな顔、外のクラスの友人に「土井虎の講義に欠点をとる奴の頭が分らん」と言われて、「阪倉の源氏で欠点をとる奴の顔が見たい」と、昂然と言い返したあの顔があったのです。
共に歩き、共に唄った吉田山そしてレギュラーコース、紅萌ゆる、行春哀歌、嵯峨野嵐山龍安寺、御室や醍醐。次々と浮かんできます。
彼の三高三年間は、後に『紅萌ゆる自由寮』(最初の小説、但し筆名はシナリオ・脚本と同じ池田一朗)に書かれているように本当にオーソドックスな三高生で、私のような無頼派と指差されていたものとの付き合いは、少々迷惑な、多少は面白いものだったのかもしれません。
そしてあの日が来ました。学徒出陣です。
肺結核の第一回目の発病で、病床に居た私を見舞いに来て、当時菓子がなくて代わりに出した秘蔵のいちごジャムをトーストに付けて食べながら、東大仏文辰野教室の話を淡々と語り、「じゃ、征って来る。」と去って行った日が。
勿論再会は期せない別れでした。
敗戦後の混乱期に再び病臥して、やっと命だけは取り留めた頃は無事帰還して大学の講師をしていると噂に聞きながら音信の跡絶えた何年間が過ぎて、再会したのは私が南座の支配人室にいた時です。
「シナリオ書いてる。日活で、本名のまま。」私の問いにかえって来た返事でした。
彼が『にあんちゃん』その他で第一線のライターになっていることを全然知りませんでした。思い出せば共通の友であった在仏の画家田渕が訪ねてきたのもこの部屋でした。そして彼が日本に帰ってくるたびに三人で食事をしたり夜遅くまで飲み明かしたりしたのも、ついこの間のことのように目に浮かんできます。
その翌年、私が演劇の制作を担当するようになってからは、なにやかやと仕事のような仕事でないような付き合いが再開しました。二人きりで夜明けの渋谷の街を歩いたり、車を深夜の横浜へとばしたり、なじみの俳優、タレント、仲間の同業者とわいわい騒いだり思い出せば限りがありません。
東京のホテルで私が痛風の発作を起こして動けなくなったとき電話をしたらすぐ飛んできてくれて肩を借りてやっと食事に行けたこと。突然に電話がかかり何事かと驚く私に、「おい、酸っぱいコーヒーはどこのだったかな」「ちょっと待て」、と不確かな記憶を友人の珈琲屋に問い合わせて返事をすると「わかった」それだけ。ランブルでタンザニアの酸っぱいコーヒーを飲んだのはその前のことだったのか?今では思い出せません。
本当の仕事も二回。脚本を依頼して、意見を聞いたり注文を付けたり、ぎりぎりまで上がってこない脚本を少しずつ稽古場に届けてやっと間に合わせたり、初日を開けて又飲み明かしたり・・・・・
今となれば楽しい思い出です。
『隆 慶一郎』の誕生も知りませんでした。「吉原御免状」が週刊新潮に連載されて読み始めたとき、これは彼だと直感して尋ねその通りであると知り、胸が感動で一日になりました。
フランスから個展のために戻ってきた田渕と三人で飲んだり食べたりしたのもその頃で、まだまだいくら飲んでも翌日は平気で三人ともまだ体力には自信を持っていました。
以後、会うたびに感想を言ったり、連載中の文中であそこおかしいよとよけいなことを言いだしても必ず発行の度に送ってくれた本にはきっちり直してありました。
体調を崩していたことも全然知りませんでした。電話をしても何時も留守なので、ちょうど夏のことでもあって避暑に行っているのだと一人合点をしていたのですが、「時代小説の愉しみ」の発刊を知って購入したところ、あとがきに平成元年七月二十日・東京医大病院にて とあるのを見て飛び上がりました。
それから電話を何回か朝や夜にかけて見てもつながらず、諦めて手紙を書きました、まだそんなに悲観すべき状態とは思わずに。と云うのも「花と火の帝」の連載が続いていたからでした。ベッドの脇で体力の限りを注ぎ込んで書いていたことも知らずに。
危ないと云う知らせの最初は、野嶋薫のアンテナから入ってきました。癌らしい、煙草を吸いすぎていたから肺癌ではないか、」と云うものでした。でもまだ信じられませんでした。勝手に、彼が死ぬはずはないきっと回復して元気な顔を見せてくれるとしか思えませんでした。
第二報は龍村元が直接病院を訪れて報せてくれました。危ないらしいというのです。それでもまだ大丈夫だと思い込んでいました。そこに到るまでの病状を全然知らなかったからです。今となれば何故その時すぐに飛んで行かなかったのかと悔やまれるのですが、怖かったのです。病んで衰えた彼の顔を見るのが。その顔を見て、「思ったより元気じゃないか」という言葉を出す自信がなかったのです。でも、行けばよかったのにと後悔の心にさいなまれています。
第三報は、仕事先の仙台に松竹テレビ部の高橋さんがわざわざ入れてくれました。危篤の報せでした。遂に来たかと覚悟を決めて予定を変更してすぐ次の予定地の福岡へ飛び、翌日の東京への航空便の予約を済ませて宿舎に落ち着いたとき最期の報せを聞きました。十一月四日の夕刻です。後は、空っぽになった頭の中に葬儀の日時と場所を収め、芝原利男に連絡するともうなにも手につかずじっと一人で福岡の夜を送りました。
十一月五日朝、芝原と一緒に四谷の聖イグナチオ教会に入ったのです。同級の秋山虔、梅田義孝や安部英夫、土井英丸の顔がありました。上のクラスの野平健一、古山高麗雄もいました。そして、火葬場へのバスの中、金属の篤い扉の中に遺体が消え休憩所で待っている間、長男の啓一郎さん、次男の次郎さん、長女の真名さんと挨拶を交わしたり思い出を語り合ったり、新潮社の池田雅延さんや、明田川さんから病院での彼の生きざまをいろいろ聞かせてもらいました。
やがて真っ白な骨になった彼の遺体を壺に納める時が来ました。これでお別れだなと手を合わせさよならを言ったとき、ふと思い付きました「すみませんが一片のお骨をください」とご遺族の方にお願いしました。不審げな顔をなさっている方々に、「京都にもって帰って吉田山や御所、嵐山、醍醐など、ともに語りともに歩いた場所に置いてきたいのですと申し上げて、快くお許しを頂きました。京都に帰る車中、ガーゼのハンカチに包んでポケットに入れ、上からそっと手で押さえてもって帰りました。
京都駅で芝原と別れ,独りでタクシーに乗ったときふつふつと悲しみが沸いてきました。そうだ、今日はどうしても京都を離れられないと葬儀に参列しなかった龍村のことを思い出しました。どうしても会いたくなりタクシーを捨てるなり電話をかけました。すぐ行くとの返事に、行きつけの祇園の店でじっと待っていると、間もなく黙って入ってきてくれました。もうなんの言葉も要らず私も黙ってガーゼのハンカチをポケットから取り出しました。涙が止まりませんでした。
十一月十日、再び新幹線に乗り一人で東京に向かいました。いよいよ本葬の日です。教会の表には頼んでおいた「三高文丙有志」の花も飾ってありました。中には密葬の日と同じ写真が微笑んでいました。
告別式のミサが始まり、続いて友人代表として、池沢武重の弔辞になりました。
「どうや池田、あの世とやらの住み心地は?」で始まる彼の声は絶えだえで、時々は聞き取れなくなりました。激しい感情を抑えながらの別離への言葉にまた胸が一杯になりました。続いて一年上の野平健一新潮社常務のマスコミ代表の弔辞、長年彼と仲間としてのお付き合いが続いていた放送作家協会の阿木翁助会長の弔辞とじっと聴いているうちにやっと激情が治まってきたわたしは、心静かにお別れの花を供えながら、「さようなら」とつぶやきました。もうこれでお別れだねと写真に語りかけて外に出て、気がついたら、安部英夫と、大阪から一人で別れに来ていた西岡孝男との姿がありました。そして誰からともなく三人で思い出話に耽りながら教会をあとにしました。
二月になったころ、放送作家協会が主体になって日比谷の松本楼で三月三十日に「池田一朗さんを偲ぶ会」を催す連絡を戴きました。待ち兼ねるように出席して、見知った顔の人には今度池田一朗の追悼の文集をこしらえるので、今までに新聞や雑誌・週刊誌にお書きになった文章を使わせていただくかもしれませんが宜しくお願いしますと頼んで回り、皆さん快く了解していただきました。
私の知らない彼の姿もいろいろと聞かせてもらいましたが、「池田一朗愛唱歌集より」という一枚の刷り物をもらいました、琵琶湖周航歌が載っています。句会を開いていたことも初めて聞きました。そしてその時の一句
あゝ銀座 女の香り 花祭り
いかにも彼らしいと紹介されました。もし生前に私が知っていて、「おもしろいな」と言ったら、破顔一笑するのが目に浮かびます。
帰路思い出して微笑が止まりませんでした。
十月二十八日、上智会館の三階で一周忌のミサが行われるというのです。そしてよく仕事につかっていた山の上ホテルで食事をとのお誘いでした。
それに三十日にはホテル・エドモントで有志による偲ぶ会を催すとの報せも届きました。
二十八日のミサは二十人ほどの出席者の前で厳粛に執り行われました。私はカソリックの一周忌のミサというのは初めてのことでした。本当に気持ちの良いものでした。
席上、久しぶりで順未亡人にお会いしてご挨拶を致しました。思っていたよりお元気そうで少しは心が休まりました。お寥みしいでしょうが、まだお若いのですからこれから先、ご自分の命を大切にしてください立派な息子さんや娘さんがいらっしゃるのですから。
池沢も来ていました。一年とは早いものだとつくづく思いました。
夜の、山の上ホテルの食事も暖かい集まりでした。順さんはもうお帰りになっていましたが啓一郎さんと真名さんが一心に勤めておられました。皆さんの想い出話に時間を忘れていました。そのままホテルに泊めていただいて、ああ此処にも会いに来たことがあったと、窓から眺めた東京の街の灯が潤んできました。
三十日のホテル・エドモントの千鳥の間には、仕事の仲間や、遊び仲間がにぎやかに集まっていました。秋山や安部も池沢も龍村もいます。乾杯の音頭と言われて、通り一遍の言葉を並べ出しましたが、駄目でした。数多い未完の長編小説を残してしまった彼の気持ちを思えばとても安らかに、とは言えなくなってしまいました。
「彼の無念のために」というおかしな言葉になってしまいました。でも本当にそうだと思っています。もう一つ付け加えれば、あとから追いかけていって今度会ったときは全部完結させておいてください。その時「まだできん」とあの笑顔だけは見せないでください。もちろんそんなことはないと確信していますから、その日を楽しみにしています。(昭和19年文丙)
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