一、一つの時代の終わり
平成二十五年五月二十日、京都で第三高等学校の第百四十五回紀念祭記念大会が開催され四百五十人を超える参加者があった。同窓会の会員はすべて八十歳を
超えており、年々減少していくので、この会をもって組織としての同窓会を解散することが決定されていたのはやむを得ないことである。記念大会の冒頭で挨拶しながら、私の胸に「一つの時代が終わった」という感慨が強くわき起こっていた。最後の琵琶湖周航の歌を歌い終わったとき、多くの会員の眼がうるんでいるのを見て、旧制三高への惜別の思いが会員の間で共有されているのを実感した。この機会に旧制高校の教育の特徴について、ここしばらくの間私が考えてきたことを書いておきたい。
旧制高校の歴史は学校によって異なるが、明治19年の中学校令によって高等中学校が設置され、 さらに明治27年の高等学校令によって高等学校となった。爾来昭和25年学制改革によって廃止されるまで、多くの人材を政治、経済、外交、学術などの分野に送り出し、我が国の近代化に大きく貢献した。三高を例にとると、学者としては湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈というノーベル賞受賞者をはじめ多数の逸材を輩出しているし、政治家としては濱口雄幸、幣原喜重郎、片山哲などの首相経験者がいる。このことを見ても旧制高校が、我が国の近代化にいかに大きく貢献したか理解できる。
旧制高校が廃止されても、教員はほとんどが新制大学の教養部の教員になったので、旧制高校の学風はしばらくの間は引き継がれていった。しかし大学への進学者は急増して大学教育はいわゆるマス教育となり、旧制高校の教育の特徴は次第に失われていった。やがてこの大学への進学者の増加が一因とも考えられる大学紛争が起こって、旧制高校の遺風は大学教育から、ほぼ消滅していくこととなる。しかし社会の指導者としては、旧制高校の卒業生が多く活躍する時代が長く続いた。最近ではその人たちも次第に少なくなり、旧制高校の記憶は、現在の年配の人からも失われつつある。何よりも旧制高校の生活を身をもって体験した証人が、極めて少なくなってしまっている。
考えてみれば明治の初年から20世紀の終わりまでは、日本が成長を続けた時代であった。その間に戦争、そして敗戦という道を誤った不幸な時代があったとはいえ、戦争の惨禍を短期間に跳ね返すことができた。それは国家としては成長の時代、活力に満ちた時代であったからであろう。多くの人が「坂の上の雲」を目指して歩いた、ある意味では幸せな時代であったかもしれない。旧制高校の文化はこの活力と無縁ではない。むしろそれを先導したと言えるであろう。しかし21世紀に入ってわが国では少子高齢化の進行と経済の低迷が続き、かっての活力を失いつつある。それは良く言えば成熟の時代、別の見方をすれば緩やかな衰退の時代へと入りつつあると言って良いのかもしれない。三高最後の同窓会で一つの時代が終わったと私が感じたのは、このような時代の認識があったからである。そして最後の同窓会誌に旧制高校の特徴を書いておこうと思い立ったのも、旧制高校の生き残りの証言を残しておきたかったからである。
二、旧制高校における一般教育(教養教育)と新制大学との比較
旧制高校は明治期には専門教育を行う機能も持っていた時期もあったが、帝国大学が増えてからは大学に入学するための予備教育、すなわち一般教育general
education(わが国ではほぼ同義で教養教育と言う言葉も用いられている)が中心であった。すなわち専門教育は大学で行い、高等学校ではそのための予備教育と人格形成を重視する教養教育を行っていたわけで、両方の教育機関の目標は極めて明確であった。旧制高校は文科と理科に分かれ、文科には甲類(英語)、乙類(ドイツ語)の2クラス、一部の高校ではさらに丙類(フランス語)の3クラスがあった。理科は時代によって異なるが、甲類(理工系へ進学)、乙類(医系へ進学)に分かれ、前者では外国語は英語が中心、後者ではドイツ語が中心であった。一部の高校では丙類(フランス語)のクラスも設けられていた。第二次世界大戦後になってから理科は甲と乙に分けられず、第二外国語の選択のみがあるのが一般であったと思う。
新制大学になってからの教養部と比較すると大きな違いの一つは、 外国語に非常に力が入れられていたことであり、主要な外国語は毎週六時間(実際には一時間は50分の授業)以上が三年間続くのが一般であった。いま一つは、必修の科目が多く、例えば大正時代の時間割を見ると、文科では外国語のほかに国語、漢文、歴史、地理、心理、法制経済、自然科学が、理科では外国語のほかに数学、物理、化学、動植物學、図學、地質学などの教科があった。私の三高時代を振り返ってみても、理科では第一・第二外国語と数学、物理、化学、生物学、地質学、図學、哲学は必修であり、心理学、歴史学、地理学は選択制であったと記憶している。
第二次世界大戦後の学制改革によって新制大学になると、当初は二年間の一般教育、二年間の専門教育を行うという世界でも類を見ない制度が導入された。そして少し遅れて東京大学では教養学部が、その他の多くの大学では教養部がもうけられ、ここが一般教育を担当することとなった。しかし旧制度では三年間(医学部は四年間)であった専門教育を二年間に圧縮することには無理があり、やがて専門教育からの圧力で一般教育の時間が一年半ぐらいと縮小していった。しかも学生はほとんどの大学で学部、学科を決めて入学しているので、一般教育をしっかり学ぼうというモチベーションは高くならなかった。もう一つの問題は旧制高校と違って学生数が多く、大教室の講義では魅力が乏しくならざるを得なかった。一般教育の衰弱は誰の眼にも明らかとなり、大学紛争の頃から教養部改革が議論されるようになった。
教養部の制度にはいま一つの問題を生じた。それは教養部の教員は講義の負担が大きく、研究環境が悪く、研究費も少なかったからである。しかも教養部教員も本来専門家であり、その分野への研究志向も強いので、不満は大きくなるばかりであった。旧制度でも問題はあったと考えられるが、大学と高等学校は異なる学校であったので表面化しなかったのかも知れない。しかも旧制高校は少人数のエリート教育であったし、教員と学生の距離も近かったので、若い人を人材に育てる為の教育に情熱を傾ける教員も少なくなかった。どこの高校にも名物教授がいて、人格的にも優れ学生から慕われた。新制度になって大学が大衆化すると、そうした人間的な交流は希薄になり、それが教養部制度の一つの問題点となってしまった。
こうした状況から一九九一年に当時の文部省は「大学設置基準の大綱化」を実施し、それまで教養教育に求めていた単位などの基準を撤廃した。それに伴って多くの大学で雪崩を打つように教養部が廃止され、新しい体制に移行した。京都大学では学生定員百二十名の総合人間学部が設置され、ここが四年制の学生を教育すると共に全学主の教養教育を主として担当するが、その責任はそれぞれの学部が担うこととなった。それから二十年以上を経過したが、大学の教養教育には依然として多くの問題が残されている。
以上が私が見てきた新制大学と旧制高校の教育の比較である。もちろん後にも触れるように、旧制高校の教育にも問題点があり、新制大学ではそれを改革しようとするアメリカの意図があった。それは民主社会において自らの判断で行動できる人材を育てることが、大学における一般教育の目的であるとするアメリカの考え方が導入されたものである。しかしそれは日本側にどこまで理解されていたか疑問であり、少なくとも新制大学における一般教育は初期には旧制高校の教育を色濃く残したものであったと思う。
三、カリキュラム以外の教育(隠れたカリキュラムhidden curriculum)と教養
旧制高校の一つの特徴は、カリキュラム以外の教育環境が濃密であったことである。まず一クラス原則四十名で比較的少人数であり、先生との距離は現在の大学よりはるかに近かった。先生の家に遊びに行くということは、戦前にはごく普通であったと聞いている。私が入学したのは戦後の食糧のない時期であったが、それでも先生の家を訪問してご馳走になったことがある。このような触れ合いは、マス教育となった新制大学では、極めて少なくなったと推測される。
今一つの特徴は、戦前には多くの高校で少なくとも一年は全寮制であったことである。日常生活を共にすることにより、先輩やクラスを超えた同級生との交遊も生まれやすかった。私の時代は戦後の混乱期で、私自身入寮の申し込みが遅れたため寮生活が出来なかったのは大変残念であった。そのほかクラブ活動を通しての交流も盛んであった。加えて知的好奇心が旺盛で、青春多感な年頃である。先輩や友人から悪い教育も受けたが、また多くの良い影響も受けた。それが隠れたカリキュラムと呼ばれるもので、人間形成にはこうした旧制高校の環境が大きな役割を果たしたことは、多くの人が認めているところである。隠れたカリキュラムは悪い意味にも用いれられるが、旧制高校のそれには良さがあったと言って間違いがないであろう。
例えば旧制高校には必読の書と呼ばれるものがあった。西田幾多郎の「善の研究」、阿部次郎の「三太郎の日記」、倉田百三の「愛と認識との出発」などがその例である。また和辻哲郎の「風土」や、戦争中に非業の死を遂げた三木清の「哲学入門」なども良く読まれていたように思う。「善の研究」には歯が立たなかったが、それでも友人にそそのかされて、一生懸命読んだことを思い出す。青春は苦悩の時代、人生について思索する時代である。こうした必読の書は、当時の高校生に何らかの示唆を与えてくれたように思う。もっとも私が入学したのは戦後であったので、他方ではマルキシズムが幅を利かせていた。もとより大正教養主義と呼ばれる伝統的な旧制高校の教養と、戦後急速に盛んになったマルキシズムとは、相容れないものであった。一面でマルキシズムの主張に同意しながらも、全面的には受け入れられなかった人が多かったのではなかろうか。
私はここまで一般教育という言葉と、教養教育という言葉を用いてきた。一般教育はgeneral education に相当するもので、人格形成を重視し、そのための幅広い教育を行うものである。それは旧制高校の教育の理念と通じるものであると言っても良いかもしれない。アメリカには現在でも一般教育のみのリベラルアーツ・カレッジがあるし、総合大学でも文理学部の形で幅広い教育を行っているところが多い(例えばハーバード大学)。一方日本の新制大学は、旧制大学の独立傾向の強い学部の教育と幅広い一般教育という異質のものを結びつけたところに問題があったと私は考えている。
わが国では文部省を含め一般に教養教育という言葉が現在も用いられている。その理念は「学問のすそ野を広げ、様々な角度から物事を見ることが出来る能力や、自主的・総合的に考え、的確に判断する能力、豊かな人間性を養い、自分の知識や人生を社会との関係で位置づけることの出来る人材を育てる」ことにあるとされている。それは極めてもっともな目標であるが、それをどのように実現していくのか、どのような教育手法をとるのかが明らかでない。私が一九九一年に京都大学総長に就任したときには、すでに教養部を廃止し総合人間学部を設置することが決まっていて、予算化もされていた。そこで上記の教育目標を達成するために何をなすべきか、旧制高校とは全く異なるマンモス化した大学でどのようにして人間性と総合力を養う教育ができるのか、随分考え、かつ悩んだ。学内で各学部から委員を出していただいて、長い間議論もしたし、文部省の予算を獲得して他大学からも来ていただいて適切なカリキュラムが組めないか検討した。しかし大学の教員はすべて専門の学者で、専門の教育研究には熱心であるが、一般教育への情熱は必ずしも感じられなかった。私は文部省の上記の理念を達成するためのコアー・カリキュラムを作れないか諮問したのであるが、結果は失敗に終わってしまった。私の誤解であればよいが、教育の負担をあまり増やしたくないという姿勢を強く感じてしまったのである。
旧制高校の時代と違って現在は大学進学を希望するものが多く、有名校へ入学するためには早くから塾へ通って勉強しなければならない。大学へ入るころには相当疲弊している学生が少なくない。教養教育は専門教育へ進むまでの束の間の休息期間となってしまった。学生は楽勝科目(簡単に単位を取れる科目)を先輩から聞いてよく知っており、そこに集中する傾向がある。しかも大教室での講義であるので、現実の教養教育は文部省の理念とは遠いものであった。私が最も大切と考えたのは、若い学生に学問をすることの面白さをどのように伝えるか、彼らの知的好奇心にどのように火をつけるかということであった。そのため10人程度の新入生に対して、週一回、1セメスターのゼミナールをして欲しいと要望した。学生は学部の枠を超えて取ってほしいこと、内容は古典の講読でも、講義や実習でも何でもよいというのが、私の提案であった。当時の文学部の筒井清忠教授>が中心となって、ポケット・ゼミというニックネームがついたこのゼミナールが発足し、幸い好評で現在も続いている。この提案をする時に、私は旧制高校のことを考えていたようで、それは筒井教授に見抜かれていた。しかしそれだけでなくイギリスのオックスブリッジの個人教育(tutorial)がイギリスの強みであると常々考えていたからである。ポケットゼミが今後も続いて、新しい知の培養基になってほしいと願っている。
四、モラトリアムとしての旧制高校と飛び入学制度
モラトリアムは社会における責任を負うまでの猶予期間という意味で、否定的なニュアンスで用いられることが多いが、ここでは肯定的な意味で用いている。旧制高校は文科と理科に分かれていたが、転科は可能で理科から文科への転科は戦後の私の時代にはかなりあった。また高校は理科で卒業しても、大学は文系学部へ進学することも可能であった。したがって入学してから自分の適性を見出し、将来の進路を選ぶことができたわけである。しかもその選択の幅が広かったことが、旧制高校の特徴であった。人生のある時期にこのようなモラトリアムの期間をもち、悩み考えることができたことは旧学制のの一つの特徴であったと考えられる。
例えば私が三高の学生時代に、先輩の湯川秀樹博士が日本人として初めてノーベル賞を受賞され、講演にこられた。多くの学生が、その講演に感動し、とたんに物理学の志望者が増えたと聞いている。医学部志望に決めていた私も、気持ちが揺らいでしまった。最終的には自分の能力から判断して医学志望に戻ったが、もちろん変わることができたのである。どの分野にでも進み得るという猶予期間が三年も与えられたことは、自分探しをする期間として旧制高校の大きな特徴であった。
現在の新制高校では、多くの学校で二年生になると文系か理系かを決め、三年生で希望する学部、多くの大学では学科まで決めねばならない、しかも大学入試の内容がそれぞれの大学によって異なるので、早くから志望校まで絞らないと合格することが難しくなる。いわゆる受験シフトである。人生の目的は何か、自分は何をなすべきか、何に向いているのか、など悩んでいる期間はないのである。そのため大学に入ってからミスマッチに悩む学生が増えていると聞く。大学入試の悪影響が、高校に及んでいるわけである。
私はヨーロッパの事情には詳しくないが、アメリカの大学はすでに述べたように一般教育重視であり、工学などを除いては主専攻(メジャー)あるいは副専攻ととしてある学科に力を入れる程度である。そして職業教育は大学院に委ねられる。しかも大学院に入学する前に、一定期間社会奉仕をしたり、職業をもって働いたりする人も多い。いわば自分探しをするする期間をもつことが、一般的になっているのである。例えば医学部は大学院であるが、多くの有名校で大学を卒業してから二、三年たって入学する学生が多いと言われている。もちろんそれにも問題はあると思われるが、かなり成熟してから入学してくるのでプロ意識は強く、また幅が広いのが特徴である。それに対して日本では、小学校から特急列車の指定席に乗って、最短距離で目的地に到着しようとしている。しかもその目的地が大学入学になってしまっている学生も少なくない。グローバル化が進む現在の社会で、このことはかなり心配な現象であると私には思える。広い範囲の事象を総合的に判断して対応する能力、しかも外国の人々と渡り合って仕事をする力が、このような経歴の中で養成されるのであろうか。大学入学者選抜法は、是非再検討されなければならない問題である。
モラトリアムと少し関連することとして、飛び入学の問題がある。旧制高校では周知のように中学四年から入試が通れば入学することができた。いわゆる四修である。時代によっては小学校も五年終了で中学校に入学できたので、かなり飛び入学をして大学に進学できた。新学制になってからは飛び入学制度は長くなかったが、十年以上前に千葉大学を初め若干の大学に導入された。これをめぐっては公平性の問題、補修の必要性などずいぶん議論があって、当時の千葉大学の学長はずいぶん苦労されたものと思う。かっての四修の制度を知っている私には、なぜこれほど議論になるのか理解できなかった。そこには戦後のわが国の社会に行きわたった横並びの重視と過度の保護意識が、働いていたのではないかと考える。
長い人生から考えれば、無理をして飛び入学をする意味はあまりないかもしれない。上に述べてように、モラトリアムは人生にとって貴重な時間でもある。しかし数学などの一部の分野では、若い間に大きな仕事をする人もあり、飛び入学を認めた方が良い場合もある。この辺りあまり横並びにしないで多様性を尊重する方が、様々な人材を育てる上に有効ではないかと思う。ちなみに旧制高校へ四修で入れる制度は、大正七年に第二次高等学校令が出て、七年制高校ができてからとされている。それまでは五年制中学校と三年制高等学校であったが、七年制の高等学校の出現によって四修の制度が導入されたのである。もうそれから百年近く経過しているので、飛び入学制度の功罪を調査してみるのも面白いと思うが、そのような研究はちょっと調べた範囲では見出せなかった。
五、三高の学風
三高の学風を一言で言えば、「自由」であるとよく言われる。そしてこの自由の学風は明治期三十年以上にわたって校長を勤めた折田彦市の影響が大きいというのが一般的な考え方である。折田校長は薩摩藩の出身で、明治三年より米国のニュージャージー・コレッジ(現在のプリンストン大学)に留学し、七年間の学業を終えて得業士(マスター・オブ・アーツ)の学位を得ている。この七年にわたる長い学生生活を通じて自由と自主独立を重んじるアメリカの大学の精神を学んで帰国し、明治十三年に三高の前身である大阪専門学校長に就任した。そして三高の京都への移転に尽力するとともに、学校制度の変遷の中で曲折があったが、三高の学風を形成する上で大きな貢献をしたことは疑いがない。
折田が留学した当時のニュージャージー・コレッジの学長はマコッシュで、その肖像は現在もプリンストン大学に飾られている。当時のアメリカの大学は改革期であり、マコッシュは寮生活においてもカリキュラムにおいても、一定の程度に学生に選択する自由を与えていた。後年の折田を見ると留学中のマコッシュ学長の影響を受けて、当時としては学生に、かなりの自由を与えたのではないかと推測される。
三高に対して一高の学風は、「自治」であるとされている。自治とは学生生活や社会生活を自主的に行うという意味で、とくに寮の運営が学生の自治に委ねられたのであろう。自治と自由は鏡の両面ともいうことができるが、一高と三高の学風は実際にはかなり異なっていた。そこに中央政府のある東京と、長い文化をもつ古都、京都の違いも影響していると感じざるを得ない。
京都は千年にわたって日本の首都であったので、京都人は様々な政権の交代を見てきた。その中で強い自立の精神をはぐくみ、市民社会を形成してきたと考えられる。そのことは明治初年、まだ国の小学校令が公布される前に、市民が資金や土地を出し合って番組小学校を作ったことからも伺うことができる。市民社会は基本的に統制を嫌い、自由を尊重するものである。しかも京都は度重なる戦乱を乗り越えて、独自の高い市民文化を築き上げていた。そのことが三高の学風に影響した可能性は極めて大きい。
明治30年京都大学が発足すると、東京大学とは異なる自由な学風が作られていった。その理由としては三高の教員が少なからず京都大学へ移ったこと、三高の卒業生が数多く入学したことのほかに、上に述べた京都の伝統的な文化が影響したと私は考えている。しかも初代の京都大学総長の木下広次は、京都大学は決して東京大学の支校ではなく独立した学校であること、指導に当たっては細大注入主義を取らず「自発自得」を促すと述べているように、ヨーロッパの大学に範を取って新しい大学を作ろうと努力した。こうしたことから、三高のDNAは京都大学に引き継がれていると言ってよいであろう。そのことが京都大学が多くの独創的な学者を生み出していった要因と考えられる。
六、旧制高校の教育の問題点
旧制高校のことを述べようとすると、ややもすれば美化され、ノスタルジックになってしまうと批判されやすい。それは歴史の中で突如廃止され、卒業生の記憶の中でしか生き残れていない存在だからである。旧制高校は同世代のごく一部の数しか入学できなかったので明らかにエリート教育を目指したものであり、学生もある程度そのことを意識していた。そして第二次世界大戦までは、旧制高校を卒業するとほとんどすべてが帝国大学に入学することができ、大学を卒業すると社会の様々な分野で指導的立場に立つ人が多かった。。その人たちが真のエリートであったとは必ずしも言えないが、学歴によって昇進できる、いわゆる「学歴エリート」であったことは確かであり、そのことが第二次世界大戦後批判され、旧制高校の廃止につながる一因となった。しかしそれは一人旧制高校の責任ではなく、むしろ急速に欧米に追いつこうとした日本の社会全体の問題であったと言えるであろう。
旧制高校がどのような人材を養成しようとしてきたのかについては、すでに多くの人によって述べられている。明治までの日本人の思想的な骨格となったのは武士道精神であり、そこに中国の儒教が大きく影響したことは新渡戸稲造の「武士道」を見ても明らかである。明治期になって欧米の思想、とくにドイツの哲学や教養主義が導入され、日本の知識人に大きな影響をもたらした。ドイツにおける教養Bildungとは、神の姿に向けて自らを高めていくという行為であり、そこに武士道精神と一脈通じるものがあった。こうして社会の指導者になるための修養主義の考え方が、明治期に一般化していった。旧制高校の教養主義はこの流れに沿ったもので、とくに欧米の思想を学ぶことによって人格形成をすることを目指したものである。旧制高校においては英語のみでなく、ドイツ語、フランス語などが重視されたのもそのためであるし、すでに述べた必読の書も多分に西欧の影響を受けている。この教養主義の対極にあったのが大衆文化であり、それに対して旧制高校も日本のアカデミズムもあまり関心を払ってこなかった。そのことが、近代日本が道を誤って第二次世界大戦へと歩む、一つの原因となったのではないかと考えられる。同様にドイツの教養主義もナチズムの台頭に対して無力であった。
第二次世界大戦のあと日本の教育制度は新制大学に一本化され、大学と高等専門学校が併存していた旧制度に比べると、多様性が失われてしまった。金太郎飴のような新制大学、大宅壮一が駅弁大学と揶揄した大学が全国各地に生まれた。しかも進学者は年々増加して、高等教育が大衆化、さらにはユニバーサル化の状態となった。旧制高校の教養主義はやがて見向きもされなくなり、現実に役に立つ学問への志向が高まるとともに、教養よりも娯楽が求められるようになった。東大生、京大生の愛読誌がすっかり変わり、かってオピニオン誌とされた月刊誌の内容も変貌した。社会の各分野でリーダーと呼ばれる人材が少なくなり、民主政治も混迷の度を深めている。これは現在の世界の趨勢であり、やむを得ないことかも知れない。
しかし現在の世界のトレンドが正しい方向であるとは、私には考えられない。それはあまりにも経済優先、快楽追求的であり、地球環境への配慮が少なく資源の枯渇にも無頓着過ぎるからである。人間社会がこのままの方向で突き進むなら、遠からずカタストロフィーに陥る可能性が極めて高い。こうした世界の情勢を見ると、人類の長い歴史とと先人の思想に学びながら、批判的な精神と広い視野、そして行動力に富んだ新しい教養人を育てることが、これからの高等教育の課題であると考えられる。旧制高校は完全に幕を閉じたが、そこに息づいていた精神、炬火を高く掲げて時代を先導しようとした意気には学ぶべきものが少なくない。新しい教養が、今ほど必要な時代はないかも知れない。「三高精神よ、永遠なれ」と心の中で叫びながら、この項を終わりたい。
参考文献
1. 京都大学百年史編集委員会:京都大学百年史:総説編:京都大学後援会 平成10年
2.神陵史編集委員会:神陵史 三高同窓会 昭和55年
3.板倉創造:一枚の肖像画-折田彦市先生の研究 三高同窓会 平成5年
4.厳平:三高の見果てぬ夢-中等・高等教育成立過程と折田彦市ー思文閣出版 平成20年
5.秦郁彦:旧制高校物語:文藝春秋 平成15年
6.土持ゲーリー法一:新制大学の誕生 戦後私立大学政策の展開 玉川出版部 平成8年
7.大崎 仁:大学改革1945−1999−新制大学一元化から「21世紀の大学像」へ 有斐閣 平成11年
8.吉田 文:大学と教養教育-戦後日本における模索ー岩波書店 平成25年
9.筒井清忠:新しい教養を求めて 中公叢書 平成12年
(昭25・理科卒)