7.新しい同窓会誌から

同窓会報 106 故前川誠郎先生を偲んで
田沢 仁(2010)

私が前川先生にドイツ語を教わったことは前に記したとおりだが、印象に残る先生であった。この田澤さんの文中にでてくる三浦アンナ先生のお住まいは私のところから近く、先生が買い物に商店街を歩いておられるのにもしばしば出会った。先生の令嬢は私と小学校の同級でお宅に遊びに行ったこともある。令嬢の 春奈さんももう十年ほど前に他界されているが懐かしく、このようなこともあってここに掲載させて頂くことにする。

「父誠郎が本日(一月十五日)十五時四十七分心不全のため永眠致しました」というメールを先生のご長男前川眞一氏から戴いたときは昨年(平成二十一年)十一月五日の先生の卒寿のお祝いをお住まいの近くの浦和のロイヤルパインズホテルで行ったばかりなので、強い衝撃をうけた。先生は昭和二十四年から一年間われわれ三高理科三組最後の年の担任をしてくださった。その関係でしばしば先生を囲んでクラス会を催してきた。一昨年平成二〇年の四月二十七日には米寿のお祝いを京都駅前の新都ホテルで開いたときは、先生は浦和からわざわざ京都までお越しくださった。そして前年発刊された岩波文庫『新編百花譜百選 木下杢太郎画』と『デューラー ネーデルラント旅日記』訳を参加者に贈呈され、これらの著作との関係について話された。更に、昨年には『デューラー 自伝と書簡』訳(岩波文庫)を刊行され、老いてますます活発な執筆活動を示しておられた。卒寿のお祝いの会には、車椅子を使われておられたが、長い話をされるほど頭脳は明晰で、会から二ヶ月後に訃報を聞くとは、思いもよらなかった。一月二〇日「セレモニー浦和ホール」で行われた告別式での喪主前川眞一氏のご挨拶によると、先生は「昨年夏から体調が優れず、秋ごろには、「言いたいことがあるけれど、言葉が出てこないので伝えられないのが辛い」と言うようになりました。日ごろから言葉の正確さを大切にする父のことを考えると、その気持ちはとてもよくわかり、なんとも可哀想におもわれました。その後十二月に入りましてからは、ほとんど寝たきりの生活が続いており、母と、私ども兄弟の夫婦で、看病をしておりました。一月十五日の昼前、たまたま私が当番で実家におりましたところ、肩で息をするようになり、そのまま午後三時四七分永眠致しました。最後は大変安らかな顔をしており、それがせめてもの慰めでした。享年八九歳、あと一ヶ月で九〇歳になるという大往生でございました」。ご子息のおっしゃるとおり、私は、最後のお別れのときお顔を拝見して、「先生は生けるがごとく眠りたもう」と思いました。
先生の略歴を述べる。大正九年(1920)二月二三日京都市で誕生・・昭和十七年(1942)三高文甲卒業、昭和十九年(1944)東京大学文学部美学美術史学科(教授児島喜久雄)卒業、昭和二二−二五年(1947−1950)三高教授、次いで京都大学助教授、一九五九年九州大学文学部美術史助教授、一九七〇年東京大学文学部美術史助教授、一九七一年教授、一九八〇年国立西洋美術館次長、一九八二年館長、一九九〇年新潟県立近代美術館館長。途中、一九五七−一九五八年の一年間ドイツ留学し、ミュンヘンの中央美術史研究所のLudwig Heinrich Heydenreich教授に師事。
先生は西洋美術、特にアルブレヒト・デューラー研究の第一人者で、その業績はドイツでも夙に有名であった。先生のお弟子で、現東京大学美術史学科教授小佐野重利氏の弔辞を拝借して、先生のご業績を偲びたい。先生はデューラーの「版画はもとより、日記、人体均衡論など画家の遺文集の研究に最も意を注がれ、そのほとんどの邦訳刊行に携われました。また、東京大学在職中にはヤン・ファン・エイクの研究に取り組まれると共に、昭和五十三年秋には、イタリアのジョルジョーネ生誕五百年記念国際学会に招かれ、デューラーとジョルジョーネの作品相互の影響関係について発表されました。同発表は、その後、先生の初期の図像学的な研究論文「デューラーの四人の使徒」とともに、二つのデューラーの問題Zwei Duererproblemeという表題のドイツ語著書として刊行されました。」この二つの論文、もう一つの重要な論文「ジョルジョーネの>テンペスタ<とデューラー」、その他のドイツ語論文を纏めた本が、先生の七〇歳の誕生日を祝して、デューラーの生誕地ニュルンベルグにあるデューラー研究の一大センターであるドイツ民族博物館から出版された。(Seiro Mayekawa:Blick nach Westen. Verlag des Germanisches Nationalmuseums Nuernberg 1990)この本はドイツ美術に関する年間の最優秀論文ということでテオドール・ホイス・メダーユを贈られた。
新潮社の雑誌「芸術新潮」の二〇〇五年五月号は『前川誠郎のデューラー講義』と題する特集を組んだ。先生は講義の中でアルテ・ピナコテークにあるデューラー《四人の使徒》について触れておられる。「対幅の大作《四人の使徒》に描かれているのは、向かって左からヨハネ、ペテロ、マルコ、パウロ。この四人の名は画面下の銘文から同定されます。福音書記者マルコは使徒ではないので《四人の使徒》という通称は正確ではないのですが、そもそも、三人の使徒と福音書記者という組み合わせは他に例がない。デューラーはこの絵で何を表そうとしたのでしょう。その謎を解くきっかけを与えてくださったのは、三浦アンナ先生でした。使徒たちはふつう裸足で描かれるのに、この絵では草鞋を履いている。しかもその描写が実に克明です。三浦先生は、之は『マルコ伝』だとおっしゃった。確かに『マルコ伝』(第六章七〜九節の「使徒の派遣」を読むと、イエスは十二使徒を召し、<二人ずつ遣わし始め、穢れし霊を制する権威をあたえ、かつ旅のために、杖一つの他は何も持たず(・・・・・)ただ草鞋ばかりをはきて、二つの下着をも着ざることを命じたまえり>とある。そして他の福音書には草鞋の記述はない。そこから私なりに考えたのは、『マルコ伝』の「使徒の派遣」を描いたこの絵では、その典拠の証人として、筆者であるマルコが図中に描かれた、ということでした」。先生は更にもう一つの意図についても述べておられるが、省く。先生は昭和二二年から三年間母校の三高でドイツ語の教鞭をとられたが、先生がドイツ語が達者とはいえ、専門はあくまで美術史であったので、“ドイツ文学書の購読の授業では苦労した”と、後のわれわれのクラスの会で告白された。そんな時、“三浦先生には大変お世話になった”と話された。三浦アンナ先生(一八九四−一九六七)はベルリン大学で神学の博士号をとられた方で、前川先生は『デューラー講義』の中で、「三浦先生との出会いは私にとって非常に大きな幸運であったと思います」と述懐しておられる。
先生の西洋美術への傾倒のきっかけは、若いときから親しんだ西洋の音楽によってもたらされた。先生は平成十年(一九九八)秋、『西からの音−音楽と美術』、更に平成十八年(二〇〇六)春、『美術史家の音楽回廊』という著作を世に問うておられる。その内容は美術史家から見たきわめてユニークな音楽史で、雑誌『音楽現代』の平成十八年六月号に載った書評(倉林靖氏)では、「音楽の歴史を深く考えたい人にとっては示唆に富む好著といえるだろう」と紹介されている。先生はこの本の序でシューベルトの最後の作品『白鳥の歌』第十四曲の歌詞を引用して、「この歌の天衣無縫のメロディーは、私とレコードとを結ぶ切っても切れない絆である。西への憧れ、それが私の生涯を規定した。私にとってその西とはどこよりもドイツであった。言葉も音楽もはた美術も』と結んでおられる。
前川先生には平成十八年八月発行の『日本の美術と世界の美術』(中央公論美術出版)と題する名著がある。長短八編の小品からなる本は、題名の示すように、日本の建築芸術、絵画美術を西洋や東洋のそれらと比較考究して論じた、大変面白い日本文化論である。先生は門外漢の私にこの本を進呈してくださった。そこには印刷された挨拶文に加えて肉筆のお手紙を戴いた。「こんな本を作りました。日本美術論などというものの結局は自伝めいたものになりました。そこには三高が大きな影を落としています」。その中の一つ『論語と千字文』は論語の八 itu(いつ)第三の八節にある「絵事後素」の解釈の面白さを論じたもので、“先ず色を塗って下地の白を後にする”のか“色を塗るのは下地に後れて、すなわち下地を塗った後にする”とでは、全く逆の解釈になるというのである。朱子の集注は後者で、先生は「私は朱注の方がよいと思う。それにここで言う絵事とは女性の化粧のことであろう。紅をさすのは白粉を塗ってからである」と斬新な解釈をされておられる。続いて「昔京は寺町あたりに後素堂という画材屋があったように覚えている。今も在りやなしや」と書かれておられ、それを読んだ級友の村山保雄君はそのお店を探し、先生にお知らせして、大変喜ばれたというエピソードもある。この小論の終わりに、論語の郷党篇にある孔子の飲酒に触れ、そこでは孔子は酒が嫌いではなかったが、「しかし郷党篇にあるように「惟だ酒は量なれども乱るるに及ばず」で、いくら飲んでも崩れることがなかった。私の母校の第三高等学校ではこの章句について独特の読みがあり、「惟だ酒は量なし、及ばざれば乱る」と読んで面白がった」と三高時代を回顧しておられる。先生は論語を生涯座右の書として親しまれ、自身の号も論語から採って“不舎昼夜斎“と称しておられた。平成二年(一九九〇)先生の古希のお祝いを東京大学の赤門の近くの百万石という料亭で行った時、先生は丁度一〇年勤められた国立西洋美術館館長を退職され、長岡の新潟県立美術館館長に赴任される所だった。先生は早速筆を取り、五言絶句を作られた。

                         桂冠黒門傍    訣花将北行
             酔生七十春    何日帰故郷   
先生の漢学の素養の一端を窺い知ることができる。

先生が日本美術に特に深い関心を寄せるようになった経緯は、上述の本の“あとがき“に記入されている。「幸田露伴はその最晩年の小説『連環記』(昭和十五年)の中で平安の傑僧増賀上人の逸話を語り、死に臨んだ老人は幼き折の瑣事が鮮やかに心頭に蘇るものだと言って「晴れた天(そら)の日が西山に傾くころ、東山はその山膚までがはっきり見える」と記している。・・・・・結局は縁がなくて永住することが叶わなかった故郷京都を懐う私の気持ちは齢を重ねるにつれて深まるばかりである」と感情を吐露しておられる。先生のこのような京都への思いは「生国の古文化への関心」の高まりと共鳴していったのであろう。

先生は昭和六一年(一九八六)三月二十六日、ドイツ大使館において大使から直接ゲーテ協会からのゲーテメダル(Goethe Medaile)を受賞された。この賞はドイツ文化の世界的な交流と発展のために顕著な功績のあった外国人に贈呈されるきわめて評価の高い賞である。昭和三十二年には内山貞三郎先生が受賞されている。前川先生の受賞理由はデューラーの研究に加えて、スイス国境に位置するボーデン湖上のドイツ領ライヘナウ島にある聖ゲオルグ教会堂の古いフレスコ壁画の現地調査を一九六九年以来指揮されたことである。その成果は受賞時には出版されていなかったが、十二ー三年ほど前、立派なドイツ語の本として出版された。また、西洋美術館館長在任中ドイツ関連の美術展を数多く企画開催されたことも評価された。更に先生は、平成五年(一九九三)にはフランス政府からフランス芸術文芸勲章オフィシェを授与されておられる。
昭和二十五年卒理科三組のわれわれは、三年生になった昭和二十四年のはじめ一ヶ月ほどは桑垣煥先生が担任だったが、先生は新制京大へ移られたので、その後任に前川先生がなられた。三高終焉の最後の一年は三高生は一学年だけであり、わびしさも在ったのか、先生と生徒の結びつきは強いものがあった。その絆は卒業後も続き、われわれは、両先生を、特に前川先生を囲んで、頻繁にクラス会を催した。先生との交歓の軌跡は級友北村卓夫君が平成十八年に編集してくれた『昭和二十五年卒業理科三組会誌』に詳しい。それ以外にも会報六四(一九八六年)『前川誠郎先生 ゲーテ賞受賞を祝して』(田澤)、会報一〇五(二〇〇九)『前川誠郎先生の米寿を祝して』(田澤、村山)、会報一〇六(二〇一〇)『前川誠郎先生の卒寿を祝して』などがある。先生が国立西洋美術館館長のときは、展覧会開催時には東京在の教え子を招待してくだされ、館長先生自ら展示絵画をご説明くださった。昭和六十二年(一九八七)には級友五名、足立区千住のご自宅に押しかけ、先生ご夫妻の歓待に与った。先生の奥様は幾度かクラス会にご同席くださり、われわれクラスとは家族的な交流に心がけてくださった。

先に記したように、平成二年、先生は「何日帰故郷」と詠まれたが、それ以後も、われわれのクラス会に出席するため幾度か京都に足を運ばれた。しかし、今や、先生をお招きしても、お姿を拝することは出来ない。お若い時から変わらなかった先生の朗々たるお声と豊かな教養と鋭い感性から発せられるお話ももう聞くことが出来ない。限りなく寂しいおもいがする。一月十九日のお通夜、翌日の告別式には級友十二名が参列した。祭壇にはニューヨーク在住の渋谷欣一君のお志の加わったクラス一同からの生花が供えられ、またクラス幹事の北川修三君からの弔電も披露された。先生のご遺体の上には岩噌弘三君の持参した幅一メートルの桜章旗と村山保雄君の持参した一昨年の米寿のお祝いの色紙が置かれた。母校及び先生の教え子の思い出とともに旅立たれた先生のご冥福を、感謝と追憶の念を抱きながら、お祈りします。

                                           昭和二十五年卒理科三組 田澤 仁

INDEX HOME   

同窓会報 108 三高の歴史に潜む盲点
海堀 昶(2010)

名称は

同窓会報108号は同窓会解散を控えて重要な記事が散見された。同窓会が終わるのを控え 少し収録させていただく。この記事は京都が今日「学都」として世界にその存在を誇りうる基礎になった三高の京都移転について細かく、明快に、納得のいく形で示されている。是非ご覧いただきたい

一.京都移転の理由

明治2年に舎密局が大阪で開講して以来、制度や名称は様々に変わったが一貫して舎密局のキャンパスを中心に大阪城西にあり、関西の学校制度の中心であった。
明治18年に内閣制度が発足。初代の総理大臣は伊藤博文、文部大臣は森有礼である。7月に大阪中学校から大学分校と改称し、折田先生が8月から12月にかけて大阪府信太山、京都府伏見、兵庫県摩耶山および西宮の各地へ出張を重ねられたのは新校地を選定するためであったが、実現しなかった。三高にキャンパス移動拡大の願いがあったことが知られる。12月に折田校長は文部省に帰り、中島永元もと洋学校校長が替った。

折田先生の本省復帰は翌19年に始まった新学制、即ち帝国大学(東京の一校のみ)を頂点とし、全国を五学区に別けて各々に高等中学校を設けて全国の俊秀を集める。一方各府県に師範学校を設けて小学校教師のレヴェルを上げ、義務教育の充実を図る。また東京と広島には高等師範学校を設置して中等学校教師のレヴェルの向上を図るなど、全国を意識した教育制度全般の改革に努められたものであろう。19年3月には学務局長に任ぜられ、新制度の発足を見たのち、20年2月には三高に戻られた。

この新制度により、本校は第三大学区にあるから第三高等中学校と改名されたが、同時にその所在は大阪から京都府に変更され、22年8月に新校舎の完成を俟って移転した。

移転の理由は京都府が建設資金の一部として十万円を拠出したことが挙げられてきたが、それは尤もとして、私は明治17年夏の大雨で淀川の堤防が枚方で決壊し、東大阪一帯が洪水に見舞われたことも一因であろうと考えてきた。

太閤さん以来、淀川の堤防は洪水の際に、支えきれない場合は右岸で切れて氾濫は高槻など摂津地域で起こり、左岸の河内や大阪は安全に守られる仕組みであった狙いが狂ったのである。

明治19年4月、第一〜第五学区に高等中学校の設立が公布されたが、その内容は従前の学校施設を大きく上回るもので、三高の場合、城西の台地にはすでに拡張の余地が無いのは勿論、平地でも前年の洪水の恐れのない地域には各地に多数の民家が既存していてキャンパスを受け入れられる余地はない。前年折田先生が視察された信太山などは当時交通不便で取上げられなかったのであろう。

その窮境を救ったのが京都府の申し入れであったと考えるのである。

しかし馬淵卯三郎君(22文乙)の調査資料を拝見すると思い掛けない話が飛出して驚いた。

それは己が施設を拡張するために隣接する三高(当時は大阪中学校あるいは大学分校の頃)追出そうと画策したのが隣にいた陸軍で、管轄する大阪府(市は未だ無い)もその方針であったと言うのである。

陸軍の要望も尤もであろう。軍拡と言うほどの規模ではなかろうが、将来を見据えた基本構想として、西日本の軍備の中心に大阪城周辺の施設を拡張する方策を考えたのであろう。その後の展開を見ても頷ける

文部省も五学区の各府県≪第三学区は京都、大阪(当時奈良を含む)、兵庫、三重、滋賀、岐阜、鳥取、島根、岡山、広島、山口、和歌山、徳島、愛媛(当時香川を含む)高知の諸府県よりなる≫に高等中学校設立費十万円の負担を打診していた。

この事態に京都府の挙手は大阪府にとって、陸軍も含めて、渡りに舟というべきか。話はスムーズに進み、19年11月には三高の位置は京都府下と決定し、新しい土地の選定が始まった。

候補地は@仁和寺の東から妙心寺の西にかけての地、A大徳寺の南から建勲神社の北に至る地、B吉田神楽岡の西方、旧尾州藩邸跡の三者が挙げられ、最初の頃には@の約7万5千坪が有力とされた時期もあったが、暮れも押詰まった12月27日、森有礼文部大臣が実地検分した結果、 前二者には地下水の水質に問題ありとしてBに決定したという。

藩邸跡と言っても、幕末騒然の時期に京都警備の為に尾張藩が駐屯部隊を置くべく用地を確保しただけで、実際には何も構築されず、未開拓地だったようである。

当時の新聞に吉田山あたりは『水質純良なるうへ、東の方の吉田山を除く三方は皆田野にして、遥か西に鴨川をひかえ、北に百万遍知恩寺ありて至極の清地にて、白川村の農夫等及び牛馬の通行するのみ。此地は学業中眼に耳に障害あることなし』とあって静謐な環境が察せられる。水質検査がどの様に行われたのかは不明だが、人家も殆ど無く、流行の恐れの多いコレラに対し、吉田では近く完成する疏水の分流から取水することを念頭に置いたのであろうか。

20年4月には正式に決定され、その工事は京都府庁が担当するよう森文相が命令し、5月初旬に三高の折田校長が大阪から出張して土地受渡しの手続きを終え、17日には「第三高等中学校地」の標示杭が建てられて着工の準備が整った。この敷地の面積は四万九千五百七十坪で、今の京大本部区域である。

文部省の久留正道、山口半六技師が作成した建築計画に従い、6月1日に新校舎の地均しに着手、11月には 本館の基礎工事や南側の外溝や石垣に着工。以来、校舎の建築は順調に進んで22年7月15日に本館、寄宿舎、食堂、厨房が完成。8月5日は雨天体操場と事務所、30日には教師館と速い速度で工事は進み、9月11日に開校式と大阪時代の生徒の卒業式を行った。公開された校内見物に数万の市民が訪れた由。化学実験場は16日に、物理学実験場はやや遅れて11月6日に引き渡された。

余談めくが、何時の同窓会大会の席上だったか、青木正裕君が校舎の棟札を掲げて場内を一巡、保全を訴えた一幕をご記憶の方も居られましょう。また昭和50年頃、京大で南西部構内の再整備が論じられた時、堀江先生から解体撤去の話を耳にした私は建築部長をお訪ねしてこの建物は三高移転当初から残る京大最古の数少ない歴史的なものであり、湯川、朝永、福井先生と三人のノーベル賞学者が学んだ世界にも例のない記念すべき建物であることを説明して保全をお願いした。幸い計画は変更され、現存している。

  二.京都府はホントに十万円出したのか

我々の知る処では京都府が文部省に醵出したのは十万円が定説であったが、京都市が発行した『京都の歴史』全集の第8巻『古都の近代編』では初版に十万円と書いてあったものが、続いて刊行された第9巻に添付の前号正誤表に「十万円は誤りで正しくは三万円」と記され、第二版(昭和50年3月刊)では、本文に「十万円は口先だけで実際は三万円余を拠出したに過ぎない」と改められていた。

初版本は岡崎の図書館で、再版本は上賀茂の府立総合資料館での所見である。

三万円を醵出しただけだという大きな見出しの新聞記事が二度も目について、何だろうと思ったのは三〇年も昔の事だったが、この本が根拠だったのか。 市役所の刊行する市の正史ともいうべき全集が、再版に際しては月報で予告した上で内容を変更したのだから読者が信用したのも当然だろう。

然し明治23年4月8日、天皇の京都新校舎への臨幸に際して、折田校長は奏上文の中で京都移転の理由は京都府の十万円醵出と報告している。

天皇は三年前の二月にも臨幸しておられ(大阪時代だが名称は第三高等中学校と改まっていた)、移転の事情はご承知である。この時に嘘偽りが上奏できるだろうか?

因みに明治天皇は我が校に四回ご臨幸賜っている。明治5年6月6日、10年2月14日、20年2月15日と23年4月8日である。この様な例は他にあるだろうか。

不審に堪えなかった私は「京都の歴史」編集責任者である林屋辰三郎先輩(昭和10文甲)に変更の経緯をお尋ねするとともに、松尾賢一郎先輩(同、京都府元副知事≫に事情を申し上げて内部実情の確認をお願いした。

林屋さんのご返事は頂けなかったが、松尾さんは退官後にも拘わらず、当時の府議会の詳細な議事録のコピーと解説をお届け頂いて疑問は氷解した。

京都府の拠出金は正しく十万円だった。


何故この様な誤解・珍説が百年も後に大きい顔をして罷り出たのか、その答も松尾さんの解説で判明した。

市役所に抗議と修正を談じ込んだが、誤謬を訂正した新版を出す可能性もなく、誤ちを公表して訂正する手段も無いとのことで処置なく、引き下がる他なかった。

次に松尾説に基いて説明しよう。

京都府の北垣知事は琵琶湖疏水の大工事の目途がついたので、次の課題として教育の高等化を狙ったのであろうか。大学分校の時代からキャンパスの拡大を考えていた三高であり、大阪府が追出しを企んでいる第三高等中学校の誘致に手を着けたのであろう。

しかし文部省が誘致の条件として要求する設置資金の十万円は大金である。当時の貨幣価値がどれほどであったのか、比較の対象は色々あるだろうが、その際の地価で見れば、約五万坪の購入価格は一万円。坪当たりで云えば二〇銭であった。

米一石当たりの価格は細江正章氏(11理甲)のご教示によると、愛宕神社下の碑文にその変遷が記されており


                        明治元年              1円69銭     
                          (中 略)
                  11年             1円92銭
                                    12年  パリ万博       2円64銭 
                  13年             4円80銭 
                  14年             3円28銭
                                    15年             2円08銭
                  16年             1円25銭 
                          (中 略)  
                  21年             1円42銭  
                          (中 略)
                 大正7年             8円40銭
                   8年  米騒動       10円60銭.  
                   9年  国勢調査      20円00銭 
                          (以下中間省略)
                 昭和6年             6円50銭
                  12年            12円90銭  
                  19年            18円60銭
                  20年            60円00銭 
                  21年           220円 
                  22年           700円
                  23年          1478円   
                  27年          3000円 
                  34年          3966円
                  38年          5030円 
                  41年          7020円
                  48年         10390円             
と刻まれていて、物価変動の大要が読取れる。現在の価格は知らない。

府議会は『官立の学校の為に何故我々が金を出さねばならぬのか』と反対して一旦は否決に終わったが、今風の民選知事ではない、強引に再度上程して押切った。当時の府予算などの資料は昨秋の事務所移転後行方不明で、此処に明示出来ないのは申訳ない。

 
その考えは当時論議されていた中学校の設置問題とスリ変えて知事は議会を再招集して可決に持ちこんだと言う。

議事録に残された三高誘致費は確かに三万円余で議会は通った。しかし他の項目の金子を遣り繰りして文部省への供出金合計は十万円であった。その詳しい経緯は省略させて頂くが、新設の中学校の経営を東本願寺に肩代わりして貰うなど、色々苦心があった由。


   百年の後に外部機関が調査してもその裏の事情は看破出来ず、十万円は口先だけで、実際は三万円に止まったと解釈されたものらしい。已むをえないところであろうか。

しかし考えてみれば、金を受け取った文部省がOKして事態は進展したのだから、三万円しか出さなかったと即断するのは早計に過ぎたのではないか。何故文部省がOKして京都移転が実現したのか。古文書の真意を論ずることが如何に難しいかを思わせられる次第である。

三高の京都移転がその後の京都市の新発展に絶大な影響を残した事は今更言う迄もない。三高があったればこそ、その土地建物を転用して第二番目の帝国大学が出来た。そして京大の法科系の先生方のお力で立命館が発足した。同志社など私立校も加えて京都市が「学都」と誇った所以である。もし帝国大学の設置が大阪に先行されて居たら新たに京都に設立することは望め無かっただろう。


先人のご高配、ご苦心を再認識し、改めて敬意を捧げよう。また経緯の真相をお調べ下さった松尾先輩に感謝しよう。

INDEX HOME
grenz

同窓会報 109 三高へのオマージュ
               -旧制高校の教育をめぐって-
 
井村裕夫(2013)

井村裕夫氏は三高同窓会の最後の副会長であった。同窓会誌も109号で終巻となったが、ここに日本の高等教育と三高について総論的に寄稿しておられる。氏は京大総長、国立大学協会会長も経験しておられるが、意見に耳を傾けたいと思う。オマージュとは賛辞の意味である。ここでは挽歌ともいうべきものか。

一、一つの時代の終わり

平成二十五年五月二十日、京都で第三高等学校の第百四十五回紀念祭記念大会が開催され四百五十人を超える参加者があった。同窓会の会員はすべて八十歳を 超えており、年々減少していくので、この会をもって組織としての同窓会を解散することが決定されていたのはやむを得ないことである。記念大会の冒頭で挨拶しながら、私の胸に「一つの時代が終わった」という感慨が強くわき起こっていた。最後の琵琶湖周航の歌を歌い終わったとき、多くの会員の眼がうるんでいるのを見て、旧制三高への惜別の思いが会員の間で共有されているのを実感した。この機会に旧制高校の教育の特徴について、ここしばらくの間私が考えてきたことを書いておきたい。

旧制高校の歴史は学校によって異なるが、明治19年の中学校令によって高等中学校が設置され、 さらに明治27年の高等学校令によって高等学校となった。爾来昭和25年学制改革によって廃止されるまで、多くの人材を政治、経済、外交、学術などの分野に送り出し、我が国の近代化に大きく貢献した。三高を例にとると、学者としては湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈というノーベル賞受賞者をはじめ多数の逸材を輩出しているし、政治家としては濱口雄幸、幣原喜重郎、片山哲などの首相経験者がいる。このことを見ても旧制高校が、我が国の近代化にいかに大きく貢献したか理解できる。

旧制高校が廃止されても、教員はほとんどが新制大学の教養部の教員になったので、旧制高校の学風はしばらくの間は引き継がれていった。しかし大学への進学者は急増して大学教育はいわゆるマス教育となり、旧制高校の教育の特徴は次第に失われていった。やがてこの大学への進学者の増加が一因とも考えられる大学紛争が起こって、旧制高校の遺風は大学教育から、ほぼ消滅していくこととなる。しかし社会の指導者としては、旧制高校の卒業生が多く活躍する時代が長く続いた。最近ではその人たちも次第に少なくなり、旧制高校の記憶は、現在の年配の人からも失われつつある。何よりも旧制高校の生活を身をもって体験した証人が、極めて少なくなってしまっている。

考えてみれば明治の初年から20世紀の終わりまでは、日本が成長を続けた時代であった。その間に戦争、そして敗戦という道を誤った不幸な時代があったとはいえ、戦争の惨禍を短期間に跳ね返すことができた。それは国家としては成長の時代、活力に満ちた時代であったからであろう。多くの人が「坂の上の雲」を目指して歩いた、ある意味では幸せな時代であったかもしれない。旧制高校の文化はこの活力と無縁ではない。むしろそれを先導したと言えるであろう。しかし21世紀に入ってわが国では少子高齢化の進行と経済の低迷が続き、かっての活力を失いつつある。それは良く言えば成熟の時代、別の見方をすれば緩やかな衰退の時代へと入りつつあると言って良いのかもしれない。三高最後の同窓会で一つの時代が終わったと私が感じたのは、このような時代の認識があったからである。そして最後の同窓会誌に旧制高校の特徴を書いておこうと思い立ったのも、旧制高校の生き残りの証言を残しておきたかったからである。

二、旧制高校における一般教育(教養教育)と新制大学との比較

旧制高校は明治期には専門教育を行う機能も持っていた時期もあったが、帝国大学が増えてからは大学に入学するための予備教育、すなわち一般教育general education(わが国ではほぼ同義で教養教育と言う言葉も用いられている)が中心であった。すなわち専門教育は大学で行い、高等学校ではそのための予備教育と人格形成を重視する教養教育を行っていたわけで、両方の教育機関の目標は極めて明確であった。旧制高校は文科と理科に分かれ、文科には甲類(英語)、乙類(ドイツ語)の2クラス、一部の高校ではさらに丙類(フランス語)の3クラスがあった。理科は時代によって異なるが、甲類(理工系へ進学)、乙類(医系へ進学)に分かれ、前者では外国語は英語が中心、後者ではドイツ語が中心であった。一部の高校では丙類(フランス語)のクラスも設けられていた。第二次世界大戦後になってから理科は甲と乙に分けられず、第二外国語の選択のみがあるのが一般であったと思う。

新制大学になってからの教養部と比較すると大きな違いの一つは、 外国語に非常に力が入れられていたことであり、主要な外国語は毎週六時間(実際には一時間は50分の授業)以上が三年間続くのが一般であった。いま一つは、必修の科目が多く、例えば大正時代の時間割を見ると、文科では外国語のほかに国語、漢文、歴史、地理、心理、法制経済、自然科学が、理科では外国語のほかに数学、物理、化学、動植物學、図學、地質学などの教科があった。私の三高時代を振り返ってみても、理科では第一・第二外国語と数学、物理、化学、生物学、地質学、図學、哲学は必修であり、心理学、歴史学、地理学は選択制であったと記憶している。

第二次世界大戦後の学制改革によって新制大学になると、当初は二年間の一般教育、二年間の専門教育を行うという世界でも類を見ない制度が導入された。そして少し遅れて東京大学では教養学部が、その他の多くの大学では教養部がもうけられ、ここが一般教育を担当することとなった。しかし旧制度では三年間(医学部は四年間)であった専門教育を二年間に圧縮することには無理があり、やがて専門教育からの圧力で一般教育の時間が一年半ぐらいと縮小していった。しかも学生はほとんどの大学で学部、学科を決めて入学しているので、一般教育をしっかり学ぼうというモチベーションは高くならなかった。もう一つの問題は旧制高校と違って学生数が多く、大教室の講義では魅力が乏しくならざるを得なかった。一般教育の衰弱は誰の眼にも明らかとなり、大学紛争の頃から教養部改革が議論されるようになった。

教養部の制度にはいま一つの問題を生じた。それは教養部の教員は講義の負担が大きく、研究環境が悪く、研究費も少なかったからである。しかも教養部教員も本来専門家であり、その分野への研究志向も強いので、不満は大きくなるばかりであった。旧制度でも問題はあったと考えられるが、大学と高等学校は異なる学校であったので表面化しなかったのかも知れない。しかも旧制高校は少人数のエリート教育であったし、教員と学生の距離も近かったので、若い人を人材に育てる為の教育に情熱を傾ける教員も少なくなかった。どこの高校にも名物教授がいて、人格的にも優れ学生から慕われた。新制度になって大学が大衆化すると、そうした人間的な交流は希薄になり、それが教養部制度の一つの問題点となってしまった。

こうした状況から一九九一年に当時の文部省は「大学設置基準の大綱化」を実施し、それまで教養教育に求めていた単位などの基準を撤廃した。それに伴って多くの大学で雪崩を打つように教養部が廃止され、新しい体制に移行した。京都大学では学生定員百二十名の総合人間学部が設置され、ここが四年制の学生を教育すると共に全学主の教養教育を主として担当するが、その責任はそれぞれの学部が担うこととなった。それから二十年以上を経過したが、大学の教養教育には依然として多くの問題が残されている。

以上が私が見てきた新制大学と旧制高校の教育の比較である。もちろん後にも触れるように、旧制高校の教育にも問題点があり、新制大学ではそれを改革しようとするアメリカの意図があった。それは民主社会において自らの判断で行動できる人材を育てることが、大学における一般教育の目的であるとするアメリカの考え方が導入されたものである。しかしそれは日本側にどこまで理解されていたか疑問であり、少なくとも新制大学における一般教育は初期には旧制高校の教育を色濃く残したものであったと思う。

三、カリキュラム以外の教育(隠れたカリキュラムhidden curriculum)と教養

旧制高校の一つの特徴は、カリキュラム以外の教育環境が濃密であったことである。まず一クラス原則四十名で比較的少人数であり、先生との距離は現在の大学よりはるかに近かった。先生の家に遊びに行くということは、戦前にはごく普通であったと聞いている。私が入学したのは戦後の食糧のない時期であったが、それでも先生の家を訪問してご馳走になったことがある。このような触れ合いは、マス教育となった新制大学では、極めて少なくなったと推測される。

今一つの特徴は、戦前には多くの高校で少なくとも一年は全寮制であったことである。日常生活を共にすることにより、先輩やクラスを超えた同級生との交遊も生まれやすかった。私の時代は戦後の混乱期で、私自身入寮の申し込みが遅れたため寮生活が出来なかったのは大変残念であった。そのほかクラブ活動を通しての交流も盛んであった。加えて知的好奇心が旺盛で、青春多感な年頃である。先輩や友人から悪い教育も受けたが、また多くの良い影響も受けた。それが隠れたカリキュラムと呼ばれるもので、人間形成にはこうした旧制高校の環境が大きな役割を果たしたことは、多くの人が認めているところである。隠れたカリキュラムは悪い意味にも用いれられるが、旧制高校のそれには良さがあったと言って間違いがないであろう。

例えば旧制高校には必読の書と呼ばれるものがあった。西田幾多郎の「善の研究」、阿部次郎の「三太郎の日記」、倉田百三の「愛と認識との出発」などがその例である。また和辻哲郎の「風土」や、戦争中に非業の死を遂げた三木清の「哲学入門」なども良く読まれていたように思う。「善の研究」には歯が立たなかったが、それでも友人にそそのかされて、一生懸命読んだことを思い出す。青春は苦悩の時代、人生について思索する時代である。こうした必読の書は、当時の高校生に何らかの示唆を与えてくれたように思う。もっとも私が入学したのは戦後であったので、他方ではマルキシズムが幅を利かせていた。もとより大正教養主義と呼ばれる伝統的な旧制高校の教養と、戦後急速に盛んになったマルキシズムとは、相容れないものであった。一面でマルキシズムの主張に同意しながらも、全面的には受け入れられなかった人が多かったのではなかろうか。

私はここまで一般教育という言葉と、教養教育という言葉を用いてきた。一般教育はgeneral education に相当するもので、人格形成を重視し、そのための幅広い教育を行うものである。それは旧制高校の教育の理念と通じるものであると言っても良いかもしれない。アメリカには現在でも一般教育のみのリベラルアーツ・カレッジがあるし、総合大学でも文理学部の形で幅広い教育を行っているところが多い(例えばハーバード大学)。一方日本の新制大学は、旧制大学の独立傾向の強い学部の教育と幅広い一般教育という異質のものを結びつけたところに問題があったと私は考えている。

わが国では文部省を含め一般に教養教育という言葉が現在も用いられている。その理念は「学問のすそ野を広げ、様々な角度から物事を見ることが出来る能力や、自主的・総合的に考え、的確に判断する能力、豊かな人間性を養い、自分の知識や人生を社会との関係で位置づけることの出来る人材を育てる」ことにあるとされている。それは極めてもっともな目標であるが、それをどのように実現していくのか、どのような教育手法をとるのかが明らかでない。私が一九九一年に京都大学総長に就任したときには、すでに教養部を廃止し総合人間学部を設置することが決まっていて、予算化もされていた。そこで上記の教育目標を達成するために何をなすべきか、旧制高校とは全く異なるマンモス化した大学でどのようにして人間性と総合力を養う教育ができるのか、随分考え、かつ悩んだ。学内で各学部から委員を出していただいて、長い間議論もしたし、文部省の予算を獲得して他大学からも来ていただいて適切なカリキュラムが組めないか検討した。しかし大学の教員はすべて専門の学者で、専門の教育研究には熱心であるが、一般教育への情熱は必ずしも感じられなかった。私は文部省の上記の理念を達成するためのコアー・カリキュラムを作れないか諮問したのであるが、結果は失敗に終わってしまった。私の誤解であればよいが、教育の負担をあまり増やしたくないという姿勢を強く感じてしまったのである。

旧制高校の時代と違って現在は大学進学を希望するものが多く、有名校へ入学するためには早くから塾へ通って勉強しなければならない。大学へ入るころには相当疲弊している学生が少なくない。教養教育は専門教育へ進むまでの束の間の休息期間となってしまった。学生は楽勝科目(簡単に単位を取れる科目)を先輩から聞いてよく知っており、そこに集中する傾向がある。しかも大教室での講義であるので、現実の教養教育は文部省の理念とは遠いものであった。私が最も大切と考えたのは、若い学生に学問をすることの面白さをどのように伝えるか、彼らの知的好奇心にどのように火をつけるかということであった。そのため10人程度の新入生に対して、週一回、1セメスターのゼミナールをして欲しいと要望した。学生は学部の枠を超えて取ってほしいこと、内容は古典の講読でも、講義や実習でも何でもよいというのが、私の提案であった。当時の文学部の筒井清忠教授が中心となって、ポケット・ゼミというニックネームがついたこのゼミナールが発足し、幸い好評で現在も続いている。この提案をする時に、私は旧制高校のことを考えていたようで、それは筒井教授に見抜かれていた。しかしそれだけでなくイギリスのオックスブリッジの個人教育(tutorial)がイギリスの強みであると常々考えていたからである。ポケットゼミが今後も続いて、新しい知の培養基になってほしいと願っている。

四、モラトリアムとしての旧制高校と飛び入学制度

モラトリアムは社会における責任を負うまでの猶予期間という意味で、否定的なニュアンスで用いられることが多いが、ここでは肯定的な意味で用いている。旧制高校は文科と理科に分かれていたが、転科は可能で理科から文科への転科は戦後の私の時代にはかなりあった。また高校は理科で卒業しても、大学は文系学部へ進学することも可能であった。したがって入学してから自分の適性を見出し、将来の進路を選ぶことができたわけである。しかもその選択の幅が広かったことが、旧制高校の特徴であった。人生のある時期にこのようなモラトリアムの期間をもち、悩み考えることができたことは旧学制のの一つの特徴であったと考えられる。

例えば私が三高の学生時代に、先輩の
湯川秀樹博士が日本人として初めてノーベル賞を受賞され、講演にこられた。多くの学生が、その講演に感動し、とたんに物理学の志望者が増えたと聞いている。医学部志望に決めていた私も、気持ちが揺らいでしまった。最終的には自分の能力から判断して医学志望に戻ったが、もちろん変わることができたのである。どの分野にでも進み得るという猶予期間が三年も与えられたことは、自分探しをする期間として旧制高校の大きな特徴であった。

現在の新制高校では、多くの学校で二年生になると文系か理系かを決め、三年生で希望する学部、多くの大学では学科まで決めねばならない、しかも大学入試の内容がそれぞれの大学によって異なるので、早くから志望校まで絞らないと合格することが難しくなる。いわゆる受験シフトである。人生の目的は何か、自分は何をなすべきか、何に向いているのか、など悩んでいる期間はないのである。そのため大学に入ってからミスマッチに悩む学生が増えていると聞く。大学入試の悪影響が、高校に及んでいるわけである。

私はヨーロッパの事情には詳しくないが、アメリカの大学はすでに述べたように一般教育重視であり、工学などを除いては主専攻(メジャー)あるいは副専攻ととしてある学科に力を入れる程度である。そして職業教育は大学院に委ねられる。しかも大学院に入学する前に、一定期間社会奉仕をしたり、職業をもって働いたりする人も多い。いわば自分探しをするする期間をもつことが、一般的になっているのである。例えば医学部は大学院であるが、多くの有名校で大学を卒業してから二、三年たって入学する学生が多いと言われている。もちろんそれにも問題はあると思われるが、かなり成熟してから入学してくるのでプロ意識は強く、また幅が広いのが特徴である。それに対して日本では、小学校から特急列車の指定席に乗って、最短距離で目的地に到着しようとしている。しかもその目的地が大学入学になってしまっている学生も少なくない。グローバル化が進む現在の社会で、このことはかなり心配な現象であると私には思える。広い範囲の事象を総合的に判断して対応する能力、しかも外国の人々と渡り合って仕事をする力が、このような経歴の中で養成されるのであろうか。大学入学者選抜法は、是非再検討されなければならない問題である。

モラトリアムと少し関連することとして、飛び入学の問題がある。旧制高校では周知のように中学四年から入試が通れば入学することができた。いわゆる四修である。時代によっては小学校も五年終了で中学校に入学できたので、かなり飛び入学をして大学に進学できた。新学制になってからは飛び入学制度は長くなかったが、十年以上前に千葉大学を初め若干の大学に導入された。これをめぐっては公平性の問題、補修の必要性などずいぶん議論があって、当時の千葉大学の学長はずいぶん苦労されたものと思う。かっての四修の制度を知っている私には、なぜこれほど議論になるのか理解できなかった。そこには戦後のわが国の社会に行きわたった横並びの重視と過度の保護意識が、働いていたのではないかと考える。

長い人生から考えれば、無理をして飛び入学をする意味はあまりないかもしれない。上に述べてように、モラトリアムは人生にとって貴重な時間でもある。しかし数学などの一部の分野では、若い間に大きな仕事をする人もあり、飛び入学を認めた方が良い場合もある。この辺りあまり横並びにしないで多様性を尊重する方が、様々な人材を育てる上に有効ではないかと思う。ちなみに旧制高校へ四修で入れる制度は、大正七年に第二次高等学校令が出て、七年制高校ができてからとされている。それまでは五年制中学校と三年制高等学校であったが、七年制の高等学校の出現によって四修の制度が導入されたのである。もうそれから百年近く経過しているので、飛び入学制度の功罪を調査してみるのも面白いと思うが、そのような研究はちょっと調べた範囲では見出せなかった。

五、三高の学風

三高の学風を一言で言えば、「自由」であるとよく言われる。そしてこの自由の学風は明治期三十年以上にわたって校長を勤めた折田彦市の影響が大きいというのが一般的な考え方である。折田校長は薩摩藩の出身で、明治三年より米国のニュージャージー・コレッジ(現在のプリンストン大学)に留学し、七年間の学業を終えて得業士(マスター・オブ・アーツ)の学位を得ている。この七年にわたる長い学生生活を通じて自由と自主独立を重んじるアメリカの大学の精神を学んで帰国し、明治十三年に三高の前身である大阪専門学校長に就任した。そして三高の京都への移転に尽力するとともに、学校制度の変遷の中で曲折があったが、三高の学風を形成する上で大きな貢献をしたことは疑いがない。

折田が留学した当時のニュージャージー・コレッジの学長はマコッシュで、その肖像は現在もプリンストン大学に飾られている。当時のアメリカの大学は改革期であり、マコッシュは寮生活においてもカリキュラムにおいても、一定の程度に学生に選択する自由を与えていた。後年の折田を見ると留学中のマコッシュ学長の影響を受けて、当時としては学生に、かなりの自由を与えたのではないかと推測される。

三高に対して一高の学風は、「自治」であるとされている。自治とは学生生活や社会生活を自主的に行うという意味で、とくに寮の運営が学生の自治に委ねられたのであろう。自治と自由は鏡の両面ともいうことができるが、一高と三高の学風は実際にはかなり異なっていた。そこに中央政府のある東京と、長い文化をもつ古都、京都の違いも影響していると感じざるを得ない。

京都は千年にわたって日本の首都であったので、京都人は様々な政権の交代を見てきた。その中で強い自立の精神をはぐくみ、市民社会を形成してきたと考えられる。そのことは明治初年、まだ国の小学校令が公布される前に、市民が資金や土地を出し合って番組小学校を作ったことからも伺うことができる。市民社会は基本的に統制を嫌い、自由を尊重するものである。しかも京都は度重なる戦乱を乗り越えて、独自の高い市民文化を築き上げていた。そのことが三高の学風に影響した可能性は極めて大きい。

明治30年京都大学が発足すると、東京大学とは異なる自由な学風が作られていった。その理由としては三高の教員が少なからず京都大学へ移ったこと、三高の卒業生が数多く入学したことのほかに、上に述べた京都の伝統的な文化が影響したと私は考えている。しかも初代の京都大学総長の
木下広次は、京都大学は決して東京大学の支校ではなく独立した学校であること、指導に当たっては細大注入主義を取らず「自発自得」を促すと述べているように、ヨーロッパの大学に範を取って新しい大学を作ろうと努力した。こうしたことから、三高のDNAは京都大学に引き継がれていると言ってよいであろう。そのことが京都大学が多くの独創的な学者を生み出していった要因と考えられる。

六、旧制高校の教育の問題点

旧制高校のことを述べようとすると、ややもすれば美化され、ノスタルジックになってしまうと批判されやすい。それは歴史の中で突如廃止され、卒業生の記憶の中でしか生き残れていない存在だからである。旧制高校は同世代のごく一部の数しか入学できなかったので明らかにエリート教育を目指したものであり、学生もある程度そのことを意識していた。そして第二次世界大戦までは、旧制高校を卒業するとほとんどすべてが帝国大学に入学することができ、大学を卒業すると社会の様々な分野で指導的立場に立つ人が多かった。。その人たちが真のエリートであったとは必ずしも言えないが、学歴によって昇進できる、いわゆる「学歴エリート」であったことは確かであり、そのことが第二次世界大戦後批判され、旧制高校の廃止につながる一因となった。しかしそれは一人旧制高校の責任ではなく、むしろ急速に欧米に追いつこうとした日本の社会全体の問題であったと言えるであろう。

旧制高校がどのような人材を養成しようとしてきたのかについては、すでに多くの人によって述べられている。明治までの日本人の思想的な骨格となったのは武士道精神であり、そこに中国の儒教が大きく影響したことは新渡戸稲造の「武士道」を見ても明らかである。明治期になって欧米の思想、とくにドイツの哲学や教養主義が導入され、日本の知識人に大きな影響をもたらした。ドイツにおける教養Bildungとは、神の姿に向けて自らを高めていくという行為であり、そこに武士道精神と一脈通じるものがあった。こうして社会の指導者になるための修養主義の考え方が、明治期に一般化していった。旧制高校の教養主義はこの流れに沿ったもので、とくに欧米の思想を学ぶことによって人格形成をすることを目指したものである。旧制高校においては英語のみでなく、ドイツ語、フランス語などが重視されたのもそのためであるし、すでに述べた必読の書も多分に西欧の影響を受けている。この教養主義の対極にあったのが大衆文化であり、それに対して旧制高校も日本のアカデミズムもあまり関心を払ってこなかった。そのことが、近代日本が道を誤って第二次世界大戦へと歩む、一つの原因となったのではないかと考えられる。同様にドイツの教養主義もナチズムの台頭に対して無力であった。

第二次世界大戦のあと日本の教育制度は新制大学に一本化され、大学と高等専門学校が併存していた旧制度に比べると、多様性が失われてしまった。金太郎飴のような新制大学、大宅壮一が駅弁大学と揶揄した大学が全国各地に生まれた。しかも進学者は年々増加して、高等教育が大衆化、さらにはユニバーサル化の状態となった。旧制高校の教養主義はやがて見向きもされなくなり、現実に役に立つ学問への志向が高まるとともに、教養よりも娯楽が求められるようになった。東大生、京大生の愛読誌がすっかり変わり、かってオピニオン誌とされた月刊誌の内容も変貌した。社会の各分野でリーダーと呼ばれる人材が少なくなり、民主政治も混迷の度を深めている。これは現在の世界の趨勢であり、やむを得ないことかも知れない。

しかし現在の世界のトレンドが正しい方向であるとは、私には考えられない。それはあまりにも経済優先、快楽追求的であり、地球環境への配慮が少なく資源の枯渇にも無頓着過ぎるからである。人間社会がこのままの方向で突き進むなら、遠からずカタストロフィーに陥る可能性が極めて高い。こうした世界の情勢を見ると、人類の長い歴史とと先人の思想に学びながら、批判的な精神と広い視野、そして行動力に富んだ新しい教養人を育てることが、これからの高等教育の課題であると考えられる。旧制高校は完全に幕を閉じたが、そこに息づいていた精神、炬火を高く掲げて時代を先導しようとした意気には学ぶべきものが少なくない。新しい教養が、今ほど必要な時代はないかも知れない。「三高精神よ、永遠なれ」と心の中で叫びながら、この項を終わりたい。

参考文献

1. 京都大学百年史編集委員会:京都大学百年史:総説編:京都大学後援会 平成10年

2.神陵史編集委員会:神陵史 三高同窓会 昭和55年

3.板倉創造:一枚の肖像画-折田彦市先生の研究  三高同窓会 平成5年

4.厳平:三高の見果てぬ夢-中等・高等教育成立過程と折田彦市ー思文閣出版 平成20年

5.秦郁彦:旧制高校物語:文藝春秋 平成15年

6.土持ゲーリー法一:新制大学の誕生 戦後私立大学政策の展開 玉川出版部 平成8年

7.大崎 仁:大学改革1945−1999−新制大学一元化から「21世紀の大学像」へ 有斐閣 平成11年

8.吉田 文:大学と教養教育-戦後日本における模索ー岩波書店 平成25年

9.筒井清忠:新しい教養を求めて 中公叢書 平成12年 

                                                          (昭25・理科卒)

INDEX HOME
grenz