全国高等学校野球大会と三高大会   玉置通夫

今朝(2005年12月06日の毎日新聞"球風録"欄に玉置氏(毎日新聞社大阪本社編集委員)が「新たな動き、三高大会」という一文を寄せられている。優秀な選手を集めるために三高では三高大会を長年催していたが、これが現在の夏の甲子園大会に発展したという事実の裏話である。玉置氏の文章を引用するに先だって三高の歴史を記した「神陵史」550頁から引用しよう。

明治三十三年秋−−当時、野球チームをもつ学校はまだ少なく、レベルも低かった。そこで中学校に野球を普及し、技術のレベルアップをはかるとともに、好選手をスカウトして三高へ入学せしめようというねらいをもって、西日本の各中学校を招待し、十月末から十一月三日にかけて、三高校庭に「近畿連合野球大会」を開催した。この大会は人気を集め、三高主催のもとで、大正九年までつづけられた。そして、この大会はそのあと朝日新聞社によって受け継がれ、のちの全国中等学校(現高等学校)野球大会へと発展していったが、じつは三高はその“元祖“だったわけである。

とある。今朝の記事はこのことを頭に置いて読んで頂きたい。玉置氏の文章に移る。 」


朝日新聞社の村山竜平社長は、1014(大正3)年、東京朝日新聞による反野球キャンペーンの影響を考慮し、中等野球の全国的大会開催の要請を断った。しかし、翌15(大正4)年になると、思わぬところから、全国的な大会の開催を模索する新たな動きが出てきた。

その動きは14年春、第三高等学校(三高)の大会を朝日新聞で肩代わりしてもらおうとした小西作太郎(編者注:大正4年・三高二部甲卒:日本高野連顧問;朝日新聞常務)から派生した。小西の話によると、4月ごろ、母校の中学校で後輩の練習を見ていた小西が、同僚の高山義三に対し「今年の三高大会どうしようか」と相談を持ちかけた。今年で10回を迎える伝統ある大会も、資金的なめどが立たなければ、開催さえ困難になってくる。
すると、高山は「毎日に知った記者がいる。頼んでみよう」と答えた。大阪毎日新聞(大毎)に掛け合って、資金援助してもらおうという計画だ。早速、高山は顔見知りの大毎記者に頼み込んだ。三高大会は愛知や四国からも参加する大規模な大会だったが、全国大会とはいえなかった。とはいえ、もし、この話を大毎が了承したら、その後の中等、高校野球史も変わっていたのは間違いないだろう。
しかし、大毎からの返事は、13(大正2I)年に美津濃商店の水野利八店主が大会への協力を依頼した際と同様、つれないものだった。

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grenz

核兵器廃絶へ大きな足跡 生誕100年朝永振一郎博士の思い出   日高三郎

今朝(2006年5月29日)のしんぶん赤旗の文化・学問面に表題の記事が出ていた。ノーベル物理学賞の湯川秀樹博士、朝永振一郎博士は共に、三高の出身であり、二人の学問の上での自由な発想と核兵器廃絶の思想に三高で経験された自由な発想が何等かの意味を持つことが考えられよう。


今年は、ノーベル物理学賞を受賞(1965年)された朝永振一郎博士の生誕百年です。各地で記念の行事が行われています。柔らかな日差しに包まれた日、市のお墓のある東京・多摩墓園を訪れました。氏の小さなお墓は、物理学者仁科芳雄博士のお墓の敷地の中に、さながら横に控えるようにして建っています。墓標の「朝永振一郎」の下には少し小さく「師とともに眠る」と記されています。それはまるで、研究の現場での二人の師弟の様子が、変わらず今も続いているのではないかと偲ばれます。
佇むうちに、およそ半世紀前、朝永先生が九州大学までこられて、私たち十数人の物理の学生に量子力学の特別講義をなされたことが思い出されます。講義のタイトルは「にんじんの色はなぜ赤いか」でした。長身で飄々とした姿を現した氏が、黒板にそれを表すと、難しい数式で始まると考えていたみんなは意表をつかれた思いでした。
九大大学院に在籍中、東京・田無市の東大附属原子核研究所(核研)で、完成したばかりのサイクロトロンを使って、核反応の実験を行えた大きな喜びも思い出されます。核研は、全国の大学共同利用研究所として設立されましたが、これも朝永氏らの尽力によるものでした。我が国の共同利用研究所の始まりであり、その民主的運営は、その後の模範ともなりました。氏は、実際の建設に際しても、地域の人たちに対して精力的な説明を行って実現にこぎつけた立役者でした。この核研の果たした役割は大きく、その後、筑波研究学園都市の高エネルギー物理学研究所の設立につながっていきました。
朝永氏は、日本学術会議会長を一九六三年から二期六年間、務められました。会長に就任早々の難問が、米原子力潜水艦の日本港湾寄港問題でした。国民の中には、米原潜寄港反対運動が盛り上がっていました。
六三年一月に米政府から日本政府に寄港申し入れが伝えられると、日本学術会議は 三月の運営審議会の議をへて、「科学的見地に立って公式に安全性の検討と確認を行い、かつ、その結果を国民に明らかにするよう」政府への勧告を行いました。学術会議は四月の総会を前にして政府から激しい圧力がかけられるなか、総会で討議し、「この勧告に述べた条件がいまだ満たされていない原状では日本国民の安全が脅かされるおそれがあるので、原子力潜水艦の日本寄港は望ましくないと考える」という声明を発表しました。ここには朝永氏をはじめとする日本学術会議の一つの知恵が発揮されています。氏は湯川秀樹博士らとともに核兵器廃絶を始め世界平和のためにも大きな足跡を残されました。(原子力研究者)

筑波大学は朝永博士生誕百年を記念して、小中高校生を対象とした「科学の芽」賞を実施しました。自然現象の観察、実験レポート(A4版レポート用紙10枚以内)を112-0012東京都文京区大塚3−29−1筑波大学付属学校教育局「科学の芽」実行委員会宛に8月1日〜9月15日に送ればよろしい。

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grenz

もったいない 若菜英晴

昨晩の毎日新聞夕刊「憂楽帳」欄にでていた記事です。第三高等中学校の京都移転について触れておられるので収録する。


大阪を語る時によく出る話は「街の中心部に大学がない」「大政治家が出ない」。しかし大阪は、全く逆の街になっていたかもしれない。大阪城周辺を歩いていてふと目にした「舎密局跡地」の碑を見た時、そう思った。
1869(明治2)年、オランダ人化学者がここに、最先端の理化学を学ぶ学校を開いた。舎密局はその後、校名を何度か変え「第三高等中学校」となり、国内最高レベルの学問の場を誇った。
しかし、同校は1889(明治22)年、京都に移転した。大阪人は商売熱心なあまり教育への関心が今一つだったのが、京都移転の背景といわれている。同校はその後、旧制三高、京都帝国大学(現京都大)へと発展を遂げた。移転時の在校生に、幣原喜重郎氏がいた。戦前は外相、戦後は首相と衆院議長を務めた。三権の長のうち、二つに名を刻んだ戦後唯一の大政治家だ。
あのとき学校を引き留めておけば、大阪の街並みや歴史はどうなっていたか。「もったいないことを・・・・・」。舎密局の碑がつぶやいているようだ。

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grenz

作曲者k.y.とは果たして誰なのか? 岩辻賢一郎

岩辻さんは時々三高関係の事柄についてメールを頂く。三高卒業生かと思ったこともあったが、同窓会名簿には見あたらず、ご本人にお伺いした。昭和52年京大医学部卒で、現在は京都医療センターのお医者さんである。今回論争になっている「紅萌ゆる」作曲者の件についてご投稿くださったのでここに紹介する。岩辻さんは細かく検討されて「吉田恒三」ではなく「沢村胡夷」が有力と見ておられる。新しい同窓会誌から"沢村胡夷と紅萌抄 福重博"、"「紅もゆる」の作曲者に ついて(続)岸田 達也"と合わせてご検討願いたい。なお、このファイルはInternet ExplorerでなくFirefoxでご覧ください。


作曲者について『三高歌集』での変遷は以下のようになっている。  明治三八年秋  クラス歌『逍遙之歌』誕生   ニ長調 k.y.  明治四四年   『三高歌集』創刊。『逍遙の歌』が掲載され、作歌者          不明・作曲者不明 ハ長調   大正四年     作歌者不明・作曲者不明。ハ長調に手直しが行われた。  大正十年〜昭和六年     澤村胡夷君作歌となる。ハ長調に再度手直しがされた。  昭和九年〜昭和五三年     澤村胡夷 作歌作曲(作詞作曲)。イ短調へ大幅に          変更された。  昭和二七年    譜が五線譜となる  昭和三十八年   (こ い)、k.y.と書かれた所謂『原歌譜』会報 に紹介さる。  三高創立130年記念三高歌集   澤村胡夷作詩(作曲には触れず)   『三高歌集』平成十年版によると、「逍遙の歌」の作曲者は記載されていない。もっとも 古い明治四十四年(胡夷はすでに東京)初版『三高歌集』では作詞者・作曲者不詳扱いで ある。これは大正四年版でも同様である。なぜ大正十年の作歌者が判明したのか。大正八年 秋に胡夷が京大助教授で赴任したことは一つの要因だろうが、胡夷は三高で講演した形跡 は全くない。きっかけが何であれ、作歌澤村胡夷君という記載は正しかったから、確実な 情報が大正十年版編集者・小島吉雄編集部に齎されたのだろう。三高『嶽水會雜誌』は次の 表のように作歌と作曲を区別して書いているから、この場合、作歌=作詞であり、作歌= 作詞+作曲ではない。『三高歌集』も作歌と作曲は明瞭に区別している。大正十年の段階 では、歌集編集者は作曲者を突き止めていなかった。胡夷が死亡した四年後の昭和九年版 が出たとき「作歌・作曲」に変更された。私はこの作曲者情報あるいは作曲者解読も正しか ったのではないかと思う。作歌=作詞+作曲のことだと昭和九年の編集者・自由寮総代が 勝手に解釈して編集したものではないだろう。三生は作歌=作詞という扱いは一貫して いるからである。 明治三六年から四十五年までの作歌・作曲の用い方を示す。大正時代には一切寮歌類は掲載 されていない。『三高歌集』が創刊され、これが改定されるのが規定路線となれば、わざわざ 『嶽水會雜誌』に掲載するまでには及ばないという考え方が定着したのであろう。 嶽水會雜誌掲載時題名        作歌/作曲の欄      譜 1  林下のたむろ           澤村胡夷作歌      五線譜 2  覚醒之歌              一世鐡挺   K.Y.    なし 3  明治三九年度第三高等学校水上部歌 作歌澤村胡夷君 作曲小野秀雄君  数字譜 4  第三高等学校水上部歌 明治四十年度 作歌 西田連翹 作曲 田口白心 数字譜 5  明治四十一年度第三高等学校水上部歌   澤村胡夷作歌      なし 6  明治四十三年度嶽水會水上部歌   作歌樋口緑波君 作曲吉田恒三君  数字譜 7  明治四十四年度野球部々歌            記載なし      なし 8  蹴球部独立紀念歌              記載なし      数字譜 9  野球部祝捷歌(明治四十五年四月東征)    深尾巣阜君作歌     なし 2)歌集では小野秀雄作とされている。「澤村胡夷が作詩したものを私が添削」と小野は回顧 しているがこれは恐らく小野の記憶違い。作曲者は原譜では大文字のK.Y.。作詩も作曲も胡夷 であるが、小野は作曲を編曲したというのが、二人の文才・作曲能力からみて妥当な線であろ う。 3)数字譜には碧としてあるが、『嶽水會雜誌』には小野秀雄君と明記している。 4)の作曲は現在、ヴァルトビアナとされている。後者 田口白心は恐らく田口松次郎(明治 四十年法科卒)。 5)の作曲者は現在、北條静とされている。京都在住の作曲家である。 7)の作詩は深尾巣阜、作曲は吉田恒三とされている。 8)作詩、作曲とも不明とされる。用語の使い方からみて深尾作詩の可能性が高い。 9)は作曲されたかどうか不明で、楽譜なし。  戦前で最高の収録を誇り、三高最後の歌「沫雪ながれ夕陽影」を収載している昭和十六年 度の歌集でも作歌と作曲は区別して用いられている。従って、昭和九年版にはやはりかなり の根拠をもって、作曲者=澤村胡夷という情報が齎されたと推定しうる。ただ、この年には、 小口太郎作詞「琵琶湖週航の歌」の数字譜がはじめて歌集に掲載された年でもあるが、作曲者 も小口太郎という間違った記載があるので、断言は出来ない。疑えばきりが無いが、『三高 歌集』の作詞(作歌)作曲欄が全部正しいのか検証も必要だろう。  昭和九年以降昭和三十八年まで一部乙の同級生の生存者はだれも胡夷の作曲に異論を唱えた 形跡はない。 ところが、平田憲夫(明治四十三年二部理・農・薬学。京大農学部名誉教授)が所持されて いた兄の楽譜(胡夷と同じく一部三年乙クラスの平田紀一。東大法進学)が昭和三十八年 十二月(会報二十五号)に公開されるに及んで事態は一変した。その中で、平田氏は作曲者 =k.y≠胡夷の可能性を示唆された。平田氏は単純にk.y.は名前のイニシャルと解釈され たからであろう。  左歌詞の最後に括弧付で(こ い)、右に数字譜の上に に調2/4、k.y.とされているため 現在では作曲者は胡夷ではなく、k.y.なる表記がそのまま採用されている。k.y.を姓名の イニシャルとすると澤村専太郎、澤村胡夷のいずれも読めないからである。  あれだけ歌われたのに、作曲者が昭和三十八年まで等閑視(?)されていたのはいかにも 三高らしい。『三高歌集』も『嶽水會雜誌』もペンネームが多い。その辺は一はきっちり しているが、三高は実にだらしない。いわゆる寮歌なるもの、生徒に歌われるのが本来であ り、生徒のものであり、誰が作詩・作曲しようと、後世が歌詞を少々弄ってメロディーを 変えて歌おうと、歌いたくなる曲ならそれでよいとする態度がそうならしめたのであろうか。 ナンバースクールの代表歌で作曲者がいまだ不明というのは三高だけである。     代表歌    作詞家  作曲家    成立年 一 ああ玉杯(紀年祭歌) 矢野勘治  楠正一 明治三十五年 二高  天は東北(校歌) 土井晩翠 楠美恩三郎 明治三十八年 三高  逍遙之歌(クラス歌)  澤村専太郎 k.y. 明治三十八年 四高  南下軍の歌(遠征歌)  高橋武済  籟瀬成一   明治四十年 五高  武夫原頭に  恵理武  東京音楽学校 明治三十七年 六高  新潮走る 南惣平   宇野操一   大正六年 七  北辰斜に    簗田勝三郎 須川政太郎  大正四年 北大予科  都ぞ弥生  横山芳介  赤木顕次  明治四十五年 松本高校  春寂寥 吉田実  濱徳太郎  大正九年 三高歴史の汚点である。  楽譜はニ長調が明治四四年の『三高歌集』創刊号からハ長調に変化しているが、溝渕 校長の下で世相を反映してか昭和九年からは沈鬱なイ短調であり、現在まで続いている。 k.y.が澤村専太郎や澤村胡夷のヘボン式イニシャルとは読めないから、澤村ではないと いうことと、また長女志賀初音さんから鈴木常夫(昭和十七年文丙)氏が『父が紅もゆる を作曲したことはない』という話を聞いたことが発端になって一部乙の薮田勘兵衛、特に 山村孝之祐が一時取りざたされたことがあるが、同窓会の中ではもう下火になっている。 長女の証言はあるものの、寮歌類の作詞・作曲に関して家族が知らされていなかったという 話は掃いて捨てるほどあり、有力な証言とは言えない。「琵琶湖周航の歌」の作詞でもそう であった。寮歌とは昔のことをあれやこれやと穿り返されるようなもので、青春の過ちで あり、大抵皆、恥ずかしい性質のものである。岩崎眞澄の回想、「「旅愁」なんかはなお 一層お恥しいもので、あんな歌が今だに歌集から消えてないことは若気の至りとはいえ 困ったものだと思っている。・・・・・・ろくろく手にとって見たり読み直したりすることさえ 恐ろしくなってまさに旧悪が曝露した思いだった。」あたりが、正直な感想だろう。無論、 胡夷にとっても同じところはあろう。「逍遙之歌」周辺の彼の詩作品は全く詩風が異なる。 胡夷の中では、クラス歌のために書き下ろした作品に過ぎなかったであろう。寮歌を吹聴 したとか、自慢して手記に残した人は稀である。意想外に有名になって後輩に進められた ので、それではということで筆をとる人(矢野勘治)はいたが、それも本心ではなかった であろう。嗚呼玉杯よりも春爛漫の出来が良かったと矢野は思っていたからである。実際、 一生が全部死去したら、汗臭い内容の玉杯よりも、春爛漫のほうが長持ちしそうである。

             *

 そもそもk.y.が姓名のイニシャルというのは固定観念ではないのか? 作詞は(胡夷) (胡 夷)でも(こい)でもなく、空白のある(こ い)である。これはfirst nameだけな のか。(こ い)はこ=first name、い=family name にあるいはその逆に分解できるの か? いずれの場合も三年一部乙にいない以上、(こ い)=first nameと考えるのが、 順当である。そうすると、胡夷=澤村専太郎しかいなくなる。その対応で.k.y.もfirst name と考えるのが順当である。 こ=胡、い=夷と胡夷を平仮名表記したごとく、k.y.を二文字漢字のローマ字分解と見做す べきであろう。ピリオドは平仮名間の空白に相当し、二文字漢字で成り立っているという ことのヒントであろう。
 つまり胡=k=ko、夷=y=yi なのだろう。iではなくyを使用したのはyebisuからの連想で あろうか。胡夷の分解は作詩では(こ い)となり、作曲では括弧なしのk.y. となったの だろう。 前述したように、この時代の三生はペンネームを多用している。「逍遙之歌」が誕生する 前の明治三十八年五月『嶽水會雜誌』の目次を見てみよう。三高名簿其の他から実名を特定 あるいは推定可能な人物が十六名中九名いるが、其の他は全く見当が付かない。全員がペン ネームを用いて実名は誰もいない。       筆名     実名         注記      王乗鷹 大野徳孝        漢文教授      小山白羊 推定・小山駒太郎        そゞろ 不詳      佐久間穂峰 佐久間(後藤)秀治      神原雨山 神原甚造        大審院判事      澤村胡夷 澤村専太郎      山崎楽堂 山崎静太郎       法政大学教授、能楽研究家      小林吟月 推定・小林良済     金澤工業高等学校教授      ふゝさゝ 不詳      トモヱ会同人  不詳      荒木松軒 推定・三隈晉      弁護士      沙曽詒 不詳      紅梅白石詞人  不詳      ありぎぬ 不詳      一世鉄梃 澤村専太郎      香骨侠史 不詳  ペンネーム主義は『嶽水會雜誌』創刊号からの伝統であるが、胡夷の時代に極端化し、矢野 峰人が活躍する大正初期にも続いている。同じ傾向は『三高歌集』でも見られ、作詞者特に 作曲者はペンネームと匿名が多すぎる。この件は別本『三高歌集全注解』で詳解する。 要するに、k.y.を実名の名・姓順のイニシャルと解釈するのは余程慎重でなければならない。 ペンネームのイニシャルと解釈したほうが明治三十八年代に即応していると思われる。  では、作詞に(こ い)を使用し、作曲に(k.y.)を使用し、その逆でなかったのは何故か?  恐らく、胡夷は作曲よりも作詞のほうに自信があったからであろう。また何故、(こ い) であり、胡夷、澤村胡夷、澤村専太郎ではなかったのか? 何よりクラス歌であり、クラス員 以外に配布することは想定外であり、(こ い)で三年一部乙のクラス員に十分通じただろう し、商業雑誌への投稿詩とは異なるものであると主張したかったからであろう。k.y. とは誰 か、要するにクラス員はすべて誰だか知っていたのである。                * k.y.=胡夷と読み解いたのが昭和九年の『三高歌集』編集者と思う。平田憲夫原歌譜発見 ショック(歌詞の変遷、楽譜の変遷、作曲者k.y.)は昭和三八年であるが、どうも 原歌譜は三高寄宿舎南寮三番や三高の楽団にあったような奇妙な証言が『会報八十三号』 (一九九六年五月)にある。西海太郎(昭和六年文甲)の回想では以下のようになっている。    「紀念祭の日、私は、彼と連れ立って寮外へ出ると、途端に運動場での楽団の「逍遙の歌」 の少々早くて軽快な器楽が聞こえてきた。私が「俺たちの歌う節と違うな」と言ったら、彼は 「あれは原譜通りにニ長調で、後に短調に変えられたんですよ」と答えた。」(新字新仮名)。  この証言が本当とすると、誠に重大である。原歌譜が昭和三八年に出てきた同じくらいの ショッキングな回想である。彼とは後年、『三高歌集』を英独仏訳で自費出版した津田政男 (昭和七年文甲)のことである。津田は音楽好きでサンタ・ルチアを原語で音程が狂うこと なく歌ったという。会報の回想録では時間が逆になっているが、エピソード発生年月日は 昭和五年の自由寮ストライキ(七月二日から七月九日)前の、遅くとも昭和五年五月三日 紀念祭日(胡夷死亡二十日前)と断定できる。つまり昭和五年には、原歌譜を楽団は手に 入れて津田もこれを見ていたことになる。演奏が「少し早くて」というのは、正確と思われる。 ピアニストにニ長調とイ短調で連続三回ずつピアノ演奏してもらったところ、ニ長調は平均 二三秒、イ短調(andante)は三十二秒であった。     ニ長調:インターネットで聞ける曲 「決定版校歌・寮歌・軍歌集 ONKYO PUBLISH 2000年」演奏十八・五秒     イ短調:日本寮歌大全集 三高OB合唱二〇・五秒、加藤登紀子二十二秒、 某Web 二十三秒、ボニージャックス二十四秒、三高私説収録         三高OB二十七.・四五秒 やはり、ニ長調は軽快で早い。 ニ長調は西海太郎が聞いたように軽快であることは事実である。ニ長調で聞くと、さあ、 これから逍遙に行こうか、センターに霞もうかという嬉しい気分になる。  原歌譜がなければ楽団もニ長調では演奏しないだろう。津田の発言からすると、津田は 相当の確率でこの原歌譜を見ていたと思われるが、ニ長調であると断定できるのだから それなりの耳を持っていた。「俺たちの歌う節と違うな」というのは、大正十年から昭和 六年までは三生はハ長調で歌っていたからである。津田はしかし、当時(大正十年から 昭和六年まで)『三高歌集』でハ長調とされていたこの曲を昭和五年にはすでに短調と 捉えていたことになる。恐らく津田の耳が正しいのだろう。

                * 五線譜で『嶽水會雜誌』に誌上発表された「林下のたむろ」も現在では、澤村胡夷作歌と 言えないほど激変している。変ロ長調に転調したあとの「東へ走る星一つ〜 雲のかなたへ 流れ入る」まで、かなり単調になり、一オクターブも低くなっている。つまり、三生が 歌いやすくなっている。もはや編曲である。「覚醒之歌」もト長調からハ長調に変化し、 リズムも変わっている。明治三九年「水上部歌」は『嶽水會雜誌』に数字譜が掲載され、 同じト長調であっても変化している。後輩が弄っている。もっとも、後輩は先輩の曲を弄り、 歌詞を変える権利があると思っていた。纏めると以下のようになる。

 
 	 	                   原歌譜	       現在  歌詞    楽譜
              林下のたむろ  1904	    変ロ長調	変化なし ○	  ○
              覚醒之歌	1905	    ト長調	         ハ長調  	○      ○
              野球部歌      1905	     ? 	          ト長調    ×	×
              逍遙之歌	1905	    二長調	         イ短調	×   ×
              水上部歌	1906	    ト長調   	 変化なし  ○    ○

ハ長調は明治四四年の初版本から続いていたが、大正四年と大正十年に主として第三節 が変化している。第三節の歌いだし原歌譜は高い音域なので、バス音域の三生には歌い づらかったのか、もっとも変更された部分である。なぜ、大正四年と大正十年に変更する 必要があったのか? 後者大正十年は作詩者が判明した年と一致する。津田が聞いた昭和 五年どころか、大正十年頃にすでに、楽団には胡夷の原歌譜があったのではないか。入手 したからこれを参考にして、ハ長調間で編曲が行われたのではないのか?   たとえ、胡夷経由で無かったにしろ(可能性は高い)、原歌譜を楽団がどこからか入手 したからには、(こ い)探しが行われたであろう。こ い=澤村専太郎と解読した人が 大正十年ころまでにはいたということになる。明治四四年以前の『嶽水会雑誌』のバック ナンバーと『第三高等学校一覧』とを比較検討すれば、澤村はペンネーム胡夷で書いていた からすぐ解読できたはずだ。あるいは、大正七年九月二十日に『湖畔之悲歌』(第五版)が 発行されたから、レギュラーコースの逍遙途中の本屋に並んだ詩集を読んだ人は何人かいた だろう。三高・京都帝大出身、京都帝国大学文学部助教授文学士・澤村胡夷詩集と名打った 宣伝文句が平積みの詩集の上にあったことは容易に推定される。こちらのほうが可能性は 高い。なんだ、作詩者(こ い)は京大助教授澤村先輩ではないかと。  西海回想はどういうわけか、その後の『会報』では見逃されているかまったく無視されて いる。西海回想は原歌譜が三高『会報』に公表されたあとのものであるから、どこまで回想 が正確なのか脚色は無いのか気がかりな点もあるが、少々早くて軽快な という印象は間違 っていなかったのではないかと思う。                *  ところで「覚醒之歌」の作曲者は原歌譜では大文字イニシャルのK.Y.である(会報二十 五号)が、小野秀雄は二年後の会報三十号で、こうのべている。「私の記憶では、第一に 勢いのよいメロディーをというのであの曲を作った。当時沢村胡夷という詩人が同級にいた。 文学を語る仲間同志であったので、そのメロディーにのせる文句を作ってもらったが、何分 詩人で弱弱しい、そこで私が作り変えたとおもう。「それ頑迷は」という。歌い出しに相当 苦心した。休講の時間、昼休みの時間などには皆教室でシコを踏みながら合唱した。其の頃 私はヴァイオリンを習っていたので、作曲もでき、合唱の指導もできたのである。沢村君の 「紅もゆる」も運動部に頼まれて作ったのではないかと思う。」(一九六六年六月)。 六一年後の手記である。  「覚醒之歌」の作詞が胡夷という記憶は正しい。『嶽水會雜誌』と矛盾しない。この歌は 一部、「逍遙之歌」にも引用されている。後者は前者の焼きなおしという面もある。小野の 回想を素直に読めば、作曲小野、作詞澤村・作詞一部校閲小野となる。作曲は小野がしたと なると、小野=K.Y.となるが、そうすると、「逍遙之歌」も小野作曲ということになるが、 小野はこの歌を自分が作曲したなどとは何処にも書いていない。歌譜、雑誌での小野のペン ネームは碧である。小野に作曲能力があったのは事実である。明治三九年の水上部歌「羅綾 の衣乱れ打つ」を作詞したことは『嶽水會雜誌三三号』に明記してある。「逍遙之歌」を 運動部に頼まれてという記憶は、水上部歌三曲あるいは、明治三八年の野球部歌と勘違い 記憶していると思われる。同じクラスにいながら、「逍遙之歌」がクラス歌であったという ことをまったく忘れてしまっている。  作曲はK.Y.というのは動かせないから、恐らく事実は、作詞も作曲も澤村がして、小野が 編曲したということだろう。小野が作詞を訂正することはないだろう。胡夷のプライドが 許さないし、小野はそれほどの文才も無く、『嶽水會雜誌』には全く投稿していない。編曲 で威勢のいいようにしたが、それはメロディーのことだろう。「覚醒之歌」の原歌譜は結局、 胡夷が印刷に廻したのではないだろうか? 小野が編曲したから、k.y. が K.Y.と変更され たのではないのか?                           *  ところで、明治三九年の水上部歌の作詞は小野であり、前年の水上部歌(佐久間穂峰作詞、 吉田恒三作曲)と異なり、吉田に依頼していない。胡夷に作曲能力があるとすれば、なぜ 自分で作曲しなかったのか? 小野が胡夷より上手かったからであろう。クラス歌程度なら 胡夷でも手をつけたが、部歌となると『嶽水會雜誌』にも掲載されるから胡夷が小野に丸投げ したのか、最初から水上部の同級生野草省三副部長、高橋鉉太郎部長あたりが小野に依頼 したのか不明だが、この関係からみても、やはり音楽的素養は小野が上手だったのだろう。  作曲者について、其の他の同級生の証言はどうか。明治三九年卒でもっとも回顧文が多い 田中秀央も歌が成立したときはクラスが別で三年一部乙ではなかったから、「逍遙之歌」 の成立過程を全く知らない。つまり、明治三十八年秋の三年生のなかでも、クラスが違えば 歌われなかったと推定しうる。「覚醒之歌」「水上部歌(明治四十年)」、を一緒に作り、 「逍遙之歌」を一部乙クラスで胡夷と一緒に歌った小野秀雄(昭和五十二年死亡)は大嶋 知子氏による昭和四十年五月の取材の中で、既に述べたように重大な証言をしている、 胡夷はヴァイオリンが上手かったということである。同県人・小野秀雄もアマのバイオリン ニストだったからこの証言は重大である。ヴァイオリンを弾けない人をヴァイオリンが 上手かったなどという評価はありえない。逆にヴァイオリンが上手く弾けた人を弾けなか ったという証言もないだろう。胡夷は楽譜をかなり読めたことは自分でも吐露している。 「支那の現状に対する感想」(『北京週報』一九二三年五月二十日号)には、こうある。 「江戸時代にしてもそれぞれ其時期に行はれた音楽、例へば三味線のやうなものもその節付 の特調ママを見ると、その時期の文明の精神なり、傾向なりが明かに浮び出でゝゐる。」 インタヴュー時の昭和四十年(六十年後。小野氏八十歳)とは言え、胡夷に最も近かった 小野は作曲者を誰彼とは一度も断言出来なかったのである。また小野は翌昭和四十一年一月 の『会報』で、「入学後間もない選挙でクラス総代に選ばれた因縁で、三ケ年引きづづき クラス総代をやらされていたので」と回想しているが、小野がクラス総代だったのは二年生 の時だけだった。一年、三年時は記憶違いである。覚醒之歌誕生は小野・澤村が二年生の ときである。 總代 明治三十六年度 明治三七年度 明治三十八年度二學期 三年一部甲 折田有彦 坂野憲治 栗村平三カ 三年一部乙 栗山沿 楠 基道 金澤正雄 三年一部丙(文科) 馬詰秀三 佐藤貫三カ  溪内弌惠 二年一部甲 河崎繁記 栗村平三カ 高木健吉 二年一部乙 石橋辰次カ 小野秀雄    大國壽吉 一年一部甲   野草省三  高木健吉    瀧司馬太カ 一年一部乙 池内善雄    市川重雄   岩P庄市 組長 明治三十六年度 明治三七年度     明治三十八年度二學期 三年一部甲 藤井貫一カ 三年一部甲 泉彌市 三年一部乙 落合道之助 三年一部乙 馬詰秀三 三年一部丙(文科) 田中經太カ 三年一部丙(文科) 山口修一 記載無し   記載無し 二年一部甲 藤井貞信 二年一部甲 田中作二 二年一部乙 三上唯吉 二年一部乙 林禎太カ 一年一部甲   井手 一年一部甲 井上コ之助 一年一部乙 石K英彦 一年一部乙 池内善雄 金澤はストライキ破りの裏切り者と小野に指弾された人である。小野は、彦根中学を放校 させられ、膳所中学に転校したようなオルグだったから、ストライキ破りには厳しかった のだろう。もう一つ、小野の記憶が怪しいところがある。「覚醒之歌」作曲のエピソード である。体操教師が四名いたことは正しい。小野の回想では、日露戦争が始まると予備 少尉が召集され、ついで主任大尉も招集された とあるが、『第三高等学校一覧』の明治 三十五年から三十八年まで顔ぶれは全く変っていないから、これは怪しく、卒業後のエピ ソードと重なっているのではないか。この歌が誕生したころの顔ぶれは助教授で主任の山田 松三、勲八等下士官吉岡重英。嘱託 陸軍歩兵中尉従七位勲六等稲城峰晃、勲七等の下士官 秋吉基治の四名である。小野が卒業後、明治四十年一月時、下士官二名が汚職免官で入れ 替わり、山田主任は汚職の責任とらされてか? 休職扱いになっている。もっとも酷い 記憶違いは、「沢村君の「紅もゆる」も運動部にたのまれて作ったのではないかと思う」 という下りである。無茶苦茶な記憶である。この頃、運動部は水上部運動部と陸上運動部 (底球部、野球部)があるから、運動部に依頼されて作歌したものが、いずれを指している のか不明だが、後者なら明治三十八年の野球部歌の作詩者ということを吐露している。 小野の記憶は、「紅もゆる」が四部定期戦で壮んに歌われたものだから、運動歌、あるいは 応援歌と勘違いしているのではなかろうか。  小野の記憶違いをもう一つ追加する。小野は戦後の『会報二号』(昭和二七年十一月 (六十七歳)「忘られぬ先輩」で、田中豊蔵、宮地直一、一ノ宮政吉、安東佐登治(竹山林) のクラスを自分の二年先輩のクラスで回顧しているのだから記憶も大分いい加減である。 田中豊蔵には東大進学後、散々お世話になっているのだから、一年先輩か二年先輩か、 区別がついていないところをみると、この人は会員名簿を横にして書くというのではなく、 随分うろ覚えで回顧しているようだ。胡夷と同じクラスでありながら、ここまで記憶は渺茫 とするのであろうか。                     *  では、胡夷に作曲能力は本当にあったのか? 井伊藩・喜多流の伝統がまだ残っていた彦根生れの胡夷は小唄やヴァイオリンに熱中し、 歌の中で、嘯く(一番)、吟ずる(七番)、吟む八番)と繰り返しているから、メロディー 程度はつけて口ずさんでいたことだろう。胡夷詩集にも、謡曲からの影響・引用(「靈山の いただきにて」、「竹生島」、「坂本龍馬」、「氷室守の歌」、明治三九年「水上部歌」)、 長唄では(「小猿」「大原女」、「多景嶋」)に、小唄では(「大原女」、「しゞみ売」、 「氷室守の歌」)に影響が認められる。 『長流』によると胡夷は中学時代にヴァイオリンを買ってもらっているし、明笛も吹いて いる。胡夷は音楽の素養があったことは伝記を書かれた大嶋知子氏の論考や一部三年乙 クラスの小野秀雄氏の証言で明らかである。小野氏もヴァイオリンに熱中して作曲まで しているが、その氏が胡夷はヴァイオリンが上手かったと証言している。 何故、原歌譜はニ長調で作曲されたのか。胡夷はヴァイオリンが上手かった。ニ長調は ヴァイオリンの弦の音をすべて含んでいるため、ヴァイオリンで演奏しやすく、ヴァイオ リンで音の響きやすい調であるといわれる。明るい響きで、祝典的な曲、崇高な精神を 表現したいときに好まれるというから、明治三高精神の精華に相応しい。

                 * 三高同窓会誌で最近優勢な説は明治三十八年と明治四十三年の「水上部歌」、明治四十 四年の「野球部歌」作曲者である吉田恒三(ヨシダツネゾウ 一八七二年〜一九五七年) である。三生は音読みが好きだから、恒三(『朝日人物辞典』、国立国会図書館その他 図書館の索引にはツネゾウになっている)をコウゾウと読んでいたに違いないという推論と 吉田の言説の伝聞と楽譜が似ていること、娘の証言が大きな根拠である。しかし、三生が どう呼んでいたかは別として、印刷に廻したのは「林下のたむろ」の場合と同様に胡夷で あり、編集部やそこらあたりの三生ではない。胡夷が作曲依頼者の名前を間違うとか、 京都の大御所作曲家の名前をコウゾウと読み替え、k.y.などというイニシャルにすることは いくらなんでもない。 そうしたとしても、出来上がった歌詞・楽譜は作曲者に渡した はずだから、こういう胡夷の処置を潔癖厳格な性格(『朝日人物辞典』評)の吉田恒三が 二度許す筈が無い。  胡夷は吉田の存在は知っていた(島本久恵著『長流』)らしい。何より、胡夷が所属 している水上部の部歌が、『嶽水會雜誌』のライバルである佐久間穂峰(佐久間(後藤) 秀治。明治三十八年一部法)作詩と吉田恒三作曲で明治三十八年に発表されていたから、 水上部の胡夷がこの作曲家を知らなかったはずは無い。水上部歌が発表されるのは琵琶湖 開き、短艇進水式に合わせているから大体春であり、逍遙之歌より早いことは確実である。  胡夷はボート部の為に三曲も作詩に応じておきながら、水上部の作詩依頼者は作曲を 吉田恒三(一九〇二年から一九三三年まで京都師範在勤)に依頼していないことは重要で あろう。明治三七年十二月発表の「林下のたむろ」の作曲を(同窓会員が推論されるように) 胡夷が吉田恒三に依頼していたのなら、部歌二曲のいずれか吉田に依頼してもいいものを、 依頼されていないのである。  澤村が明治四十一年、四十二年に水上部歌を依頼で作歌したとき、作曲者は三高生名簿 には見つからないが、それぞれ明示(北条静、久保東洋士)してある。前者は京都市上京区 在住で、明治三十七年七月、京都の杉本二酉楼(寺町通姉小路上ル)から『新編音楽問答』 を出版している音楽家である。後者は水上部理事久保孚(明治四二年二部甲)ペンネーム である。「撫順の久保か、久保の撫順か」と言われた満鉄の撫順炭鉱長久保孚のことである が、不幸にも戦犯(一九三二年九月の平頂山事件)の汚名をかぶせられ、中国で昭和 二十三年四月処刑された。吉田恒三は三高関係のものを作曲した明治三十八年「水上部歌」 にすでに自分の名前を出している。そういう人物が「逍遙之歌」、「覚醒之歌」では イニシャル(k.y.、K.Y.)だけにする、しかも間違ったイニシャル使用を許可するという のは考えにくい。しかも吉田の作曲はすべて部歌である。     水上部歌 偸安男児の事ならず  明治38年   掲載紙不詳     水上部歌 波は銀馬の空を蹴て  明治43年3月29日 嶽水會雜誌                                      45号     野球部歌 紅葩したたる花の上に 明治44年3月31日 嶽水會雜誌                                      48号 吉田はクラス歌やストライキの歌までは関与しないだろう。『嶽水會雜誌』三十一号を 引用すれば、「覚醒之歌」(ストライキ歌)は、もとより『どなるもの』、聲調は溝上の 蛙聲に比すべく、『やはらかき歌ものし給へる殿御のいとなまめけるふし』には較ぶ可くも 非ざる也。 とされているから、完全なアジテーション歌である。こういう下品な歌は、大御所には 頼まない。付け刃的作曲であり、歌詞が主体であり、威勢のいいものなら成功である。  吉田は京都音楽界の大御所と言われる。「逍遙之歌」が黒澤明監督映画『わが青春に悔い なし』で歌われたときには著作権の問題も上がったときも吉田は生存(昭和三二年死亡) していたが、そんな話は全くない。  胡夷の作曲能力を考える上で重要なのは、「林下のたむろ」を誰が作曲したかを解明 することであろう。 澤村胡夷作歌「林下のたむろ」では作詞者・作曲者は最初の発表雑誌『嶽水会雑誌』(明治 三十七年十二月)で区別されていないし、最初で最後の詩集『湖畔之悲歌』を明治四十年一月 京都の文港堂書店から出版したとき明示していないし、五線譜に歌詞をつけて澤村胡夷 作歌としてある以上、作詩も作曲も胡夷と見るのが自然である。 「林下のたむろ」は4/4拍子、ト長調から変ロ短調に変調する。それにひきかえ「逍遙之歌」 は単純な二長調である。「林下のたむろ」が胡夷なら、更に作曲が簡単な「逍遙之歌」を 胡夷が作曲できぬわけがない。  胡夷は「林下のたむろ」を五線譜付で発表したとき、どちらを強調したかったのであろ うか? 推論するに、詩よりも、五線譜だったのではないだろうか? 『嶽水會雜誌』に出てくる 他の譜は全て数字譜であり、「林下のたむろ」だけが例外の五線譜で空前絶後である。 それに、胡夷は自信のある詩は他の雑誌(文庫その他)に二重投稿していたが、この作品は 大嶋氏の現在までの調査では二重投稿した形跡はない。 詩集『湖畔之悲歌』にあえて収載し、しかも最初の行以外はすべてかな文字に変更した のは、藤村方式の踏襲もあったであろうが、詩作品としてよりも、歌ってもらいたいため の便宜であったのだろう。  山禽叫絶夜寥々で始まる歌詞は旧制中学二年の漢文読本で誰もが知っている河野鐵兜の 「芳野」 山禽叫斷夜寥々 無限春雨恨未消 露臥延文陵下月 滿身花影夢南朝 の初聯を一字(斷を絶に)変更したものに過ぎない。ここを全てかな文字にすると意味が わからなくなることと、歌いだしは皆さんご存知の「芳野三絶」のひとつですと言いた かったのであろう。こういう作品を商業雑誌に発表するわけにはいかない。第二聯以降は テーマがまったく異なる。誇る内容でないとすれば、そうするとむしろ歌詞よりも五線譜の ほうが主眼だったのだろう。蛇足だが、「林下のたむろ」(『嶽水會雜誌』)に落葉が 出てくるが、私が参照した『三高歌集』では、すべて洛陽に変更されていて、歌詞の意味が 通じなくなっている。  次に『嶽水會雜誌』に発表された十九詩作品を再掲する。すべて、澤村胡夷の名で発表 している。          題名      発表年月日 二重投稿先 其の他       京人形     明治36年11月 文庫 同年同月       艶恨     明治36年12月       淡影     明治37年02月       家移     明治37年05月 文庫   同年四月       黙蛙池畔の低唱   明治37年05月 文庫  同年三月       湖国と京    明治37年05月 文庫  同年同月       茶摘女     明治37年05月 文庫  同年同月       手術     明治37年06月 文庫  同年七月       破れ傘     明治37年06月       泡だち      明治37年06月       城門の扉によりて  明治37年06月       兎を吊ふ歌    明治37年12月 文庫  同年十一月       淡海姫     明治37年12月       林下のたむろ   明治37年12月           『銀露集』所収       宵闇     明治38年05月 新聲 同年四月       君ゆゑ     明治38年05月       しじみ売り    明治38年05月       嵐の朝      明治39年02月 新小説 同年五月       萬両草の歌    明治39年06月 新小説 同年十二月『銀露集』所収 明治三九年六月以前の作品は詩集ではバッサリ捨てられている。「林下のたむろ」を 詩壇に二重投稿しなかったのは、内心では詩作品としては駄目だと思っていたからであろ う。だから、『銀露集』では漢詩引用以外は平仮名に書き直したのだ。これは詩作品として 読んでもらっては困ります、息抜きの歌曲でありますと。そもそも作曲者名を匿名化する ことは、作歌者名以上に三生には多かった。『三高歌集』をエクセルに入れて眺めると 一目瞭然である。無記名や不詳が多すぎて実に嘆かわしく、後世の注解者を悩ませる。 一の『寄宿舎寮歌集』では、作詞者も作曲者も編集段階で実名主義が貫かれており、 ペンネームが全くないのと好対照である。                    * 『同窓会報一〇一号』に「紅もゆるは私が作曲したのだが、生徒さんが勝手に歌いだした ので、私は名乗らないことにしたんだ」という吉田恒三の話を報告しているお弟子さん 二人がおられるが、これは次のようなことではないだろうか。吉田の記憶が間違いない としても、恐らく吉田は明治四四年の採譜のとき雑誌編集部深尾が採譜したものに手心を 加えた可能性が高い。なぜなら、雑誌部理事長深尾はその年、吉田に自作明治四四年野球 部歌「紅葩したたる花の上に」(明治四四年三月末日発行)を依頼して、関係があるから である。「逍遙の歌」が最初に掲載された最初の三高歌集は同年四月二十五日で開校記念日 直前である。そして、吉田の不満はハ長調で作曲したのをイ短調で歌っている三生に 不満を述べたのであろう。こう考えると吉田の記憶もそれほど的はすれでは無い。 すでに高名だった作曲家が作った曲を音楽の素養のない一部三年乙の生徒ができたての 五線譜を不遜にも弄るのであろうか? 吉田の伝聞発言が事実であったにしろ、自分の 三作品が正調で歌われていないことを不満に思い、弟子の質問に誘導されて「逍遙之歌」 も自分がオリジナル作曲したように勘違いしていたのではないか?                    * 昭和九年の作曲者情報は、大正十年の作詞者情報と同様に正しかったというのが私の結論 である。k.y.を実名のイニシャルと解釈したのがそもそもの躓きで、三生のペンネーム 主義の実態、匿名主義を無視した解釈といわざるを得ない。これが、実名主義の一なら 話はわかるが、三生には通じないだろう。

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