人の性格は千差万別で、「そもそも性格とは何か?」に答えるのも容易ではありません。しかし、「Aさんはいつもうっかりして物を無くしてしまう」とか「Bさんは話し掛けてもなかなか返事をしてくれない」など誰にでも何かの特性があるのはすぐ認められることでしょう。このような特性群を12種類にまとめたのが天源12気の描写です。12気には滋、結、演、豊、奮、・・・と名前がついています。ここでは大正時代の漢学者で革新的な淘宮家であった竹内師水の文を引用してみましょう。表現は古いですがとても活き活きとした文章です。「顔学のヒント」にそれぞれに相当した顔が描写してあります。見比べながら読んでください。
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 この気をうけて生まれた者は、その心が非常に野卑(ヤヒ、いやしいこと)であって、初伝(註;古い知識は伝書によって弟子にのみ伝えられ、初伝、中伝、奥伝などと呼ばれた)に「吝嗇(リンショク、ケチなこと)にして恥多し」と書いてある。節約ということは、如何なる身分の人でもなくてはならないことだけれども、滋の癖は、節約を通り越してしまってケチになるのである。ケチとなってくると、一切自分から出すことは好まない。貰う物ならば、夏も小袖。出すことは、舌を出すのもいやであるという気性で、品物を一つ買うにもしつこくねだんを値切る。他人が立派な衣服を着ているのを見ると、ああいうことでは身代(シンダイ、財産のこと)は持てぬ、不心得千万であるとあざけって、自分の粗衣粗食を身持ちが良いと大いに誇っている。人に進物を送るにも人々身分相応という所がある。例えば親類に婚姻があったとか、出産があったとかいう時に、5000円の物を送るのが適当であると、最初自分の胸に浮かぶ。それがしばらくすると、5000円では多すぎる、3000円位にしておこう、いや2000円でも良かろうとなってくる。甚しい場合には、金を出すのは惜しい、人からもらった物があるから、それで間に合わせておこうとなる。さらにもっと甚だしくなると「到来(トウライ)ものを待つの気あり」といって、そのうち誰それから、何かくれる筈だからそれを流用しようなどとなってくる。
 滋の気は必ずしも貧乏人で金がないから、欲張るというのでない。食事をするにも、大勢のなかに混じって食うと腹一杯に食うこともできず、旨(ウマ)くないから、こっそり人の少ない陰のほうで食うことを好む。話をするにも、人前で公言しても一向差しつかえないことまで、小蔭へまねいて、小声でひそひそ話をする癖がある。それから話のなかに金銭のことが混じらないと面白くない。人の持ち物を見ても「これは幾らしました?」と必ず聴く。こういうふうだからこの滋気の戒めに、たらいの水ということを淘祖(註;淘宮術の開祖、横山丸三)は教えられている。たらいに水を入れて、そのたらいを自分の手許へ引き寄せると、水は向こうへこぼれてしまう。たらいを向こうへ押しやれば中の水が自分の手許へこぼれて来る。これと同じく滋気は欲しい惜しいという念を断ち切り、出さねばならぬ物は思い切って出してしまうようにすれば、元来が福禄充満する気であるから、必ず天の報酬を受けるようになる。しかし、こうしておけば今に何倍かになって戻ってくるであろうという注文をつけて出したのでは何にもならぬ。「淘宮も勘定づくのあるうちは天道さまの差引を食う」という道歌(註;淘宮術の考え方を表した歌)がある。
 然らば滋は悪いところばかりで善いところは少しもないかと言うと、総て十二の気は、善悪両面の働きがある。人間滋の気がなかったならば、身代は保って行くことができない。ただケチと成るのがいけないのである。滋の人は粗衣粗食勤労をいとわず、いかなる辛抱でも押し抜くというところがある。故にこのケチという点を淘(ヨナ)げて(註;ヨナゲるとは気の悪い特徴を変化させること)さえ居れば必ず福禄が集まって来る気運である。
 そこで滋気を淘げるには・・・・これは滋の気ばかりではないが・・・・淘宮では初念につけということを教える。それは人々自分の腹に最初に浮かんだものが「心の知らせ」である。人に物を送るにしても、3000円とか5000円とかまず腹に浮かぶ、それが初念である。ところが、すぐこれを打ち消すものが出て来る。3000円は多いとか5000円は過ぎるとかいう考えが引き続いて出て来る。その二念三念は気質である。最初に浮かんだのが気質の混ざらない心の知らせであるから、それに従っておけば間違いない。
 この気を受けて生まれた者は頑固強情であって、容易に人の言うことを用いない。自分がこうと思い込んだことは、是が非でも押し通さなければ気がすまぬという性質で、万事がそういうふうで極め込みが強い。偏屈(ヘンクツ)である。また生まれつき口不調法で、デッチリムッチリとしていて、愛嬌というものが少しもない。従って人と交際することが不得手で、自分で無用のことだと思えば人からものを問われても返事もせぬ。自分の胸の内ではいろいろと思っていることがあっても、口下手であるからそれを口へ出すのがおっくうで何も言わずに胸へためている。初伝に「万物中道に滞り、上へ発せず、下へ通ぜず」とあるのは、そのことで、胸に大きな棚をつっているような具合である。そこで始終鬱血して、気分が開かない。物事甚だ不器用であるから、埒(ラチ)が明かぬことおびただしい。この極め込みが強いということはこの気の特色ですべてのことについて回る。たとえば道を歩くにも、新道ができて、そのほうが近くもあり平坦で歩きよくても、自分の歩きなれた遠い歩きにくい旧道をいつも選ぶ。
 結の持ち前は「守ること至って堅固なり」というのだから、自分の一旦やりかけたことはどこまでも辛抱強く食い付いて離れないから芸事などは不器用に似合わず成功する。私は寄席へいって落語家を見るとその顔に大層結の現れて居る者がある。大体結は口下手の者である。それがああいう軽口をいって人を笑わせたりする職業にどうして成功したのであろうと疑うのだけれど結局結を吹き切ってしまってここに至るのである。結はまた気転の利かぬ悟りの悪いものだから、結のムカ腹といって、友人が集まって、洒落(シャレ)をいったりしても、その意味がさっぱり判らず、皆がワイワイ笑ったりすると自分を侮辱でもしたのかと誤解して非常に立腹することがある。
 結の善いところといえば、正直で、ものごとを几帳面にやっていくからあの男は気は利かぬが人間が確実だからこういうことは任せておいても大丈夫であると上の人に信用される。すべて人は一気でできているものではないから、他の気の配合によっては、非常に有効になることがある。古来宗教家、哲学者、文学者または大事業を成す人などは大抵結の加わっていない人はないようである。結のものを押し抜くのと、後に述べる十一番目の煉の忍耐力の強さと組み合って来ると如何なることでもやり抜くのである。
 結を淘げるには、口も軽く利き、身も軽く動かすようにせねばならぬ。朝起きたとき目上であろうと目下であろうと顔を見るや否や、なるべく大きい声で、軽く「おはようございます」とか「今日は良いお天気ですね」とかいうことを言うのである。そうすると胸が開いて来る。胸が開けば陽気がたって、身体も軽く動くようになる。結はとかく物事を後へ延ばしておく癖があるから、自分の面前に現れた仕事は直ぐにやってしまう。言うべきことは直ぐに言う。為すべきことはただちに片づけてしまう。こういう風にやるのは、即ち勇気の一つである。とくに結にとっては大勇気である。
 演は一口に言えば武士は食わねど高楊枝(タカヨウジ)的の気である。初伝に「猛き気あり、また威(オド)す気あり」とあるが、気位が高くて威張りたがるものである。常に人を眼下に見下ろし、頭を下げることが嫌い、丁寧な言葉を使うことが嫌いである。その気性はさっぱりして竹を割ったようである。理非を明断し、正義を好む。結と正反対にものごとを渋滞させることは大嫌いである。また金銭上においては、滋の反対で、滋のほうは如何に恥をかいても損さえしなければ良いというのだが、演は滋のような者がいれば一層パッパと使って見せたい方である。
 また演の人は自分がよく事理が分かりことを停滞させないから、部下の者を使っても、何ごともまだるっこくて、見ておられない。結老の人が演奮の人の下に立てば、常にビクビクして口もろくに利けなくなってしまう。演は大きなことは良く分かるけれども細事をうっちゃっておく癖がある。綿密周到は演の苦手で日記を書いたり出納簿をつけたりはしない。また演は執着心がなく、さらさらとしているから男女間の情愛も淡白である。自分の妻が病床に苦しんでいて気の毒に思っても「どこが痛むか」「医師を呼んでやろうか」などは女々しいという気でなにも口に出さない。一生独身で通す女性の中には演の強い人もある。また演は大言壮語して自分の威厳を示す風がある。人からものをもらってもお礼を言うことを忘れてしまう。結のほうは腹で言わなくてはならぬと思っても口に出せない。演は平気で礼を言うのを忘れてしまうのである。
 吉川一元先生は私に向かって「演は人にむかって頭を下げることが嫌いである。しかし礼を人に対してすると思うから間違う。自分の腹に対してするのである」と言われたことがある。先生は私に演気が見えるから大いにいましめられたのでありましょう。したがって演を淘げるには言葉使いでも、態度でも丁寧謙遜にして人の後へ付くようにしていることともう一つは常に細微なことに綿密な注意を怠らぬことである。演は妙な癖があって灯火をしきりに明るくし、火鉢の火も在る上には継ぎ、在る上には継ぎして活活としておかねば気がすまない。これも演気の発揚する表れである。
 十二宮の中で豊と止とは最も幸運のものであるとしてある。その性質極めて寛優にして愛嬌があるから、子供のころから他人に可愛がられ、方々からひっぱり凧のように借りて往かれる。人と口論することなどは決してなく、他人が論争しているところへでも、豊の人が入ってくれば自然争いも止むくらいである。万事無頓着で楽天主義を採り、俗にいう暢気な性質である。進退挙動はいかにも閑雅悠長であって、一見君子の風がある。しかし、この優楊たる性情が一面から言うと豊の欠点であって、万事が遅々として進まず敏捷でない。ことに当たって即決することができない。志はあっても、弱くてものごとを差し控える。そうして自分が優柔な性質だから、人から難題を持ちかけられてもそれをキッパリ謝絶することができない。そのため一身を誤るようなことも起こってくる。たとえば連帯借の印を断わり切れなくて自分が借金を払うはめに陥ったり、男女間のことでも断わるのが気の毒でつい深みにはまったりすることがある。結と豊とは共に不精のものであるが結は気にかけながら延ばし延ばししているが、豊はまったく無頓着で気がつかず放置するのである。豊の性質はものごとを投げやりにして、打ち捨てておくから先方でもそれに応じて引き延ばす。そして折角頼んだことも機会を取り逃すことになるのである。何ごとも無頓着な豊ではあるが、ただ一つ食べ物にだけはやかましい。方々の料理屋の何が美味しいとか不味いとか食べ比べてよく知っている。豊の欠点は身体を使わずに大食をすることである。朝寝夜更かしをして大食をする。これでは身体が台無しになってしまう。豊は「農夫、僧侶、医師には宜しい」としてあるのは職業の然からしむるところである。農夫は炎天の季節にも早朝から起きて田の中に入って労働をしなければならぬ。旨いものを食って朝寝夜更かしをしてゴロゴロしている訳にいかぬ。力一杯の労働をするから大食をしても消化して、胃にもたれるおそれがない。坊主は元来三界に家なしと言って托鉢をして物をもらって歩く。一定の住居もないのが真の僧侶の持ち前である。従ってこれも豊の悠々としたものがあっても、それを実際に働かすことができない。医者は深夜でも急病人があれば飛び出して往かねばならぬ。朝眠いといっても叩き起こされれば安眠してもいられない。それに病人に接するには優しい愛嬌のある医者は誠に病人が喜ぶ。こういう訳で農夫、僧侶、医師はその職業上豊の不精や大食をほしいままにすることができないから元来幸運のものである上にその短所を自然に淘げている故に大吉である。しかし、豊は何ぶんにも優しく、無頓着で物事を引き締めてすることがないから財産を保つことができない恐れがある。またうっかり戸締まりを忘れて盗難に遭う恐れがある。いずれにしても、自分が十分に心を引き締めて眼前に生じて来る用事はただちに之を決行して往くようにしなければ自分の運を保つことができないのである。
 奮は怒りの気を常に外に現している。俗にいう向こう面の悪いために交際等も甚だ宜しくない。高慢剛腹で些細(ササイ)なことから人と紛争をひき起こして平地に波瀾を生じ、何ごとも人が右といえば左といい、左といえば右といって人に逆らうことを楽しみにしているという拗けた性質のものである。万事この調子だから破たんを生じ友誼をやぶる。従って協同の事業などはとてもできないものである。そうして上には突っかかっていって少しも屈従することのできない性質のもので、下の者にたいしても、之を苦しめてその困るのを見て楽しむという悪癖がある。「言葉の剣諸人を斬る」という道歌があって、一寸口を利いても言葉に針があって一々相手の気に障るようなことを吾知らず言うのである。自分では意地悪いことをいうつもりはなく普通の話をしているつもりであるのが、聴く方からは嫌みをいわれているような気持ちになる。これが最も恐いので、自分で気がついていれば幾分か注意もするけれど少しも気付かずに言うことが人に障るのだから、至る所に敵を作って己の運を壊して行く結果になるのである。
 しかし、奮は非常に強いものだから、事をやりぬく点については、煉と共に十二宮の中で最も力のあるものである。奮という字の付いている熟語を調べてみると奮発、奮励、奮起、奮闘というような具合に、これを事業や学芸に用いる場合にはすべて良い意味に使ってある。ただその中で怒るという字をつけて奮怒、奮激というときは奮気を悪用する場合になるのである。故に奮気を善い方に使用すればこれほど助けになるものはない。奮怒の甚だしいときには利害得失の見境もなく一時の発作的乱心と言っても良い状態になる。目下に暴力を振るったり、食器を石の上に投げ付けたりするのである。奮は病気に罹るのも急激に激しく来るけれども、また治るときにも早く治る。立身出世をするのも大層登るかと思うと忽ち下ってしまう。
 奮気の人は、常に慢心をつつしみ少しも人に誇る心を持たず、第一怒気を和らげ、慈悲仁愛の情を専らとし往けば元来力量の備わっている性質だから昇進することは疑いない。奮気で甚だしく腹の立つときには決して手紙など書いてはならない。平静になって後、よく考えてから処置すれば過ちは少なくなる。龍が珠を追いかけて往き或いは珠を握っている絵を描いてあるのは人間が奮気を淘げて精神を鎮めたことを示したものだと言われている。珠は宝珠即ち三輪を現すのである。初伝に「奮は破るることに用いるときは対談等に動きありて宜し」と書いてある。これは調和をはかり、円満を期す仲裁などには絶対に奮の出る幕ではないけれども、到底まとまらぬ破談になるべき筋の掛け合いごとには合豊緩老の人では埒(ラチ)が明かぬが、そこへ往くと奮気でもって一刀両断に片付けるにはもってこいなのである。
 12宮の中で一番幸運とされているのが止である。三輪の中に止が一つ交ざっているだけで他の二宮は悪運のものがあっても止の幸運で打ち消してしまうという程のものである。この気は他に甚だしい欠点はないが、唯一つ慎むべきは嫉妬心である。嫉妬は男女間のことは言うまでもなく、その他万事について羨み、妬む心が深い。姉妹のあいだでも、姉が良縁があって結婚するのを見ては、妹は口では御目出度いと喜びは言うけれども、腹の中ではあんな人は良くも何ともない、自分はもっと身分も高く財産も多いところに嫁入りして姉を見下してやろうというような気持ちでいる。或いは友だちが立身出世をするのを見ても、口先では喜びを言っても腹では甚だ面白く思わない。必ず自分がその上に出て見返してやろうと言う嫉妬心をつねに胸に蓄えている。人が立派な家を新築しても面白くない。綺麗な服や装飾品を持っている人を見ても不愉快になる。見ること聞くことについて不愉快で人を妬む念が消えないので何時も陰気で、快活な気性がない。しかし、止は慎み深いから表にはその色を現さない。ただ腹の中でいまいましく思っているばかりである。そうして、仕打ちで先方をへこませてやろうと企み、例えば人が銀時計を持っていれば自分は金時計をもって見せびらかして抑えてやろうという風である。
 止は陰気で、世間が陽気になればなるほど自分は陰気に閉じられて来る。自分の身体に陽気が足りないと、天の陽気に圧倒されるのである。家に引き蘢(コモ)って外出することを嫌う。しかし、止は誠に上品なもので胸中に一点も野卑の念を持っていない。優美閑雅であって気高い性質のものである。昔の官女が緋の袴をはいて立っているようだと言われている。人が下品な話をする時には聞くことを厭うくらいである。嫉妬の深いところから常に猜疑心(サイギシン)が絶えない。人が無意識でいうことでも、ああではないか、こうではないかと色々に自分の胸に疑いをおいて人を見るため自分の運を壊してしまう。しかし、元来幸運なものでどんなことでもやりかければ必ずできないことはない。器量も十二宮の中で第一の上品美麗なものである。また気位が高いため何となくツンとすましこんでいる様子があって人好きがしない。衣服も大柄な派手なものは好まず、地味な、高尚な、奥床しいものを好む。それから止は決断力が乏しく面倒なことが嫌いで、また汚いことが大嫌いである。これは余り好きな人はいないけれど、滋や煉は、どんな汚いことでも自分の目的のためには厭わずにやる。止にはとてもそういうことはできない。また理屈ぽい話をすることが嫌いである。
 この気を淘げるには嫉妬心と猜疑心を捨て、心を陽気に持ち、なるべくサラサラと粘らぬようにすることである。