張経(ちょうけい)
対倭寇戦で一時司令官をつとめた官僚。字は廷彝、侯官の出身。正徳12年(1517)に科挙に合格して進士となり、順調に出世して行く。嘉靖16年に兵部右侍郎・総督両広軍務となり、広東・広西で少数民族の反乱や安南(ベトナム)との紛争の対策にあたった。
嘉靖32年(1553)に南京戸部尚書、ついで同兵部尚書となり、翌33年5月に倭寇の激化に対応するため設けられた江南・江北・浙江・福建・湖広の軍務の総督に任じられ、対倭寇戦の総司令官の地位についた。張経は以前の任地であった広西の「狼兵」(チワン族部隊)を対倭寇戦に動員し、これに応じて田州の瓦氏(部族長の妻)率いる狼兵部隊が浙江まで出陣してきた。嘉靖34年5月には王江の戦いがあり、張経率いる官軍は倭寇に対し大勝利を挙げることになった。
ところが、これに先立って中央で権勢を誇る厳嵩の腹心である趙文華が「海神を祭る」として江南にやって来て軍事にあれこれ口を挟み始めた。張経が彼を軽んじたため文華は深く恨み、胡宗賢と示し合わせて「張経が兵糧を徴発して人民を苦しめ、敵を恐れて機を失い、倭寇の害を拡大させている」と嘉靖帝に讒言した。厳嵩もこれに口ぞえしたため嘉靖帝は激しく怒り、ただちに張経および浙江巡撫・李天寵を逮捕させ都へ連行させた。張経は自らの戦功を挙げて必死に弁明したが嘉靖帝は聞く耳を持たず、その年十月に李天寵と共に斬刑に処された。
主な資料
「明史」張経伝
「倭変事略」
「嘉靖東南平倭通録」
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