胡宗憲(こそうけん)
嘉靖倭寇平定の最高指揮官。王直と同じ徽州の出身で、歙県の隣の績渓県に生まれた。字は汝貞、「梅林」と号した。故郷にいる間に王直とすでに知り合っていたとする資料もあるが、真相は不明である。嘉靖17年(1538)に科挙に合格、進士となる。初め益都・余姚などの知県を歴任し、朱ガン[糸丸]の双嶼掃討戦にも協力している。
その後御史に抜擢され、北方の対モンゴル防衛にあたる。ここで兵士達の暴動を単騎で説得しなだめたという。彼が浙江に赴任して倭寇対策にあたるようになるのは嘉靖33年(1554)からである。
胡宗憲が赴任した当時、倭寇対策の責任者は総督・張経と浙江巡撫・李天寵であった。これに中央の実力者・厳嵩の側近・趙文華がお目付役としてつけられていたが、趙文華は自分の権勢をかさにきて勝手放題にふるまっていた。張経と李天寵はこれを無視したが、胡宗憲だけは趙文華に接近し、その信頼を得ることになる。
その後倭寇が嘉興を攻撃した際、胡宗憲は毒酒を倭寇に奪わせる計略で数百人を労せず殺す功績を挙げ、さらに張経指揮下の王江などの戦闘では馬ごと水路に落ちて危うく溺死しかけるほどの奮戦を見せた(この時は銭燐に救われた)。この戦闘の勝利を、趙文華は全て胡宗憲の功績として皇帝に奏上し、逆に張経・李天寵を弾劾して刑死に追い込んでしまう。そして胡宗憲はまず巡撫、ついで総督に抜擢された。要するに趙文華と謀って彼らの地位を奪ったわけである。
しかしただ権力欲とコネだけで総督の地位に就いたわけでもなく、彼には彼なりの倭寇問題解決のビジョンがあったようだ。それは海上の覇者である王直その人を帰国させ、彼に海上の治安を任せるという方策であった。胡宗憲は自らの幕僚に地理学者の鄭若曽など豊富な人材を集めていたが、さらに都督・万表から諸生・蒋洲を紹介された。胡宗憲は王直の妻子を捕らえて手厚く遇する一方、蒋洲に王直との接触を命じている。蒋洲は友人の陳可願らとともに日本へ渡航し、毛烈と五島で接触、さらに平戸で王直本人に面会し、胡宗憲の意志を伝えた。王直は家族が胡宗憲に厚く遇されていること、さらに胡宗憲が私貿易の公認を密かに考えていることに心を動かされ、帰国の決意を固めることになる。王直は毛烈・葉宗満を先に帰国させ、胡宗憲の軍門に入らせた。
毛烈らがいったん帰国した後、徐海率いる大軍が襲来、陳東・葉麻らの集団と合流して柘林(しゃりん)に拠点を構えて各都市に攻撃をしかけた。中でも浙江の桐郷は徐海・陳東の大軍に包囲され陥落寸前に追いつめられ、守将の阮鶚は必死に胡宗憲の救援を求めた。しかし胡宗憲は「阮鶚と共倒れするのも無意味なことだ」とつぶやき、これを放っておいて徐海集団への謀略を展開する。
胡宗憲は部下を徐海の陣営に遣わして王直が帰順の意志を示していることを伝え、徐海にも降伏を促した。傷を負って気弱になっていた徐海はこれに応じ、桐郷の包囲を解いた。胡宗憲はさらに徐海の愛人・王翠翹に連絡を取り、徐海・陳東・葉麻らの間に離間の計を仕掛けていく。徐海はまんまとこれにはまり、陳東・葉麻を次々と捕らえて胡宗憲に献上してしまう。やがて胡宗憲は陳東の残党をけしかけて徐海を沈荘に急襲させ、徐海は水に身を投げて自殺した。戦いの後の勝利の宴で胡宗憲はしたたかに酔い、捕虜となった王翠翹を相手に大いに乱れたと伝わる。
徐海集団を壊滅させた功により胡宗憲は右都御史に昇進した。嘉靖36年(1557)11月、大友宗麟の仕立てた日本使節という形式をとって王直がついに明に帰国した。胡宗憲は王直の息子・王澄に手紙を書かせて王直に投降を命じ、王直は官軍側から人質を取ることを条件に投降に応じた。王直の身柄はただちに拘束されたが、彼に対する胡宗憲の扱いは丁重で、王直は豪勢な生活を獄中で送れたという。これも胡宗憲が王直を生かして私貿易を解禁させ、彼に海上の治安を任せようとしていたからに他ならない。胡宗憲は幕僚に私貿易解禁の具体案を構想させる一方、中央政界においても王直助命に奔走している。
しかしこれらの活動は胡宗憲の政敵には恰好の攻撃材料となった。「胡宗憲は倭寇から賄賂を受けて動いている」との弾劾が繰り返され、胡宗憲の政界における立場は危うくなった。やむなく胡宗憲は王直をかばうことを諦め、王直は嘉靖38年(1559)12月に処刑された。この現場に胡宗憲がいたとする資料といなかったとする資料があって真相は判然としない。
王直処刑後も新たな倭寇集団との戦闘が続いた。胡宗憲の指揮下に兪大猷・戚継光らの名将が活躍したが、必ずしも彼らと胡宗憲の関係は良好ではなくむしろ険悪ですらあった。特に胡宗憲は自らの地位を守るためには手段を選ばないところがあり、しばしば敗戦の責任を彼らに押し付けたり、逆に功績を彼らから奪ったりしており史書でも評判は良くない。特に時の権力者・厳嵩父子や趙文華に積極的に媚びを売り、皇帝にも白鹿・白亀を献じてご機嫌をとるなどの行動が目立ち、「権術多く功名を喜ぶ」と「明史」は評している。王直の死の翌年、王直を平らげた功により太子太保に昇進する。
やがて趙文華が死に、厳嵩父子も失脚した。胡宗憲は嘉靖帝の寵愛に頼って生き残りを図ったが、嘉靖40年(1561)に彼と厳嵩の関係を問う弾劾が行われ、ついに逮捕・投獄された。そして間もなく獄中で急死した。服毒自殺とも言われている。のち万暦帝の時代に彼の名誉回復がなされ「襄懋」とおくり名された。
一言で言って不思議な人物である。一流のエリート官僚としてもの凄い権力志向をもち、なおかつ優れた戦術・戦略家の素質を見せ、それでいて王直と結びついて海禁政策打破を図った改革家の側面も有していた。このわかりにくさが彼を失脚・自殺の悲劇に追い込み、それでいて兪大猷・戚継光ほどに人気を集めない一因かもしれない。
なお、現在中国の最高指導者である胡錦濤国家主席は彼の同郷同族の子孫である(直系かどうかは未確認)。
主な資料
「明史」胡宗憲伝
鄭若曽「籌海図編」
采九徳「倭変事略」
「嘉靖東南平倭通録」
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