毛烈(もうれつ)
嘉靖期の海商の一人。浙江・寧波の出身。号は「海峰」で王直の養子となったために「王ゴウ[傲のさんずい]」の名でも知られる。史料によれば毛烈の実家は寧波でもそこそこの名家で、父親は役人を勤めたことがあり、兄も科挙の受験をしている。その一方で資産を生かして密貿易に手を出しており、ある時投資に失敗して莫大な負債を負ってしまった。この時負債の質として初め烈の父親が、後に烈自身が王直のもとに預けられた。ところが毛烈は大砲の扱いに優れた才能を見せたため、王直が彼を非常に気に入り、自分の養子として迎えた。以後「王ゴウ」の名で知られている。

王直が海上を制覇すると、その腹心として一船団を任せられ、義父と交代で日明間の密貿易にあたった。嘉靖32年(1553)に王直が官軍の攻撃を受けて烈港を追われると共に日本に向かい、以後五島・平戸に拠点を構えて常に王直の側にあった。嘉靖35年(1556)に総督・胡宗憲が王直説得に蒋洲らを派遣するが、蒋洲らはまず五島に向かい、ここで毛烈と接触している(なお蒋洲と毛烈は同郷人で、以前から面識があった可能性が高い)。毛烈は蒋洲らを王直に面会させ、王直が帰国に傾くと、毛烈は葉宗満とともに先に帰国し、胡宗憲陣営の様子を探ると同時に海賊を討伐して戦功も挙げている。

翌嘉靖36年(1557)の王直帰国に際しても同行したが、王直が逮捕されてしまったため謝和らと舟山群島に立てこもり抵抗した。数カ月に及ぶ抵抗戦の末、兪大猷率いる官軍のために破れさるが、逃げ延びていたようで嘉靖38年(1559)に福建から直隷の沿海を荒らした記録がある。しかしその後のことは全く不明である。

主な資料
鄭若曽「籌海図編」
鄭舜功「日本一鑑」
万表「海寇議」

俺たちゃ海賊!のトップへ