王直(おうちょく)
   「嘉靖大倭寇」史上最大の巨頭。徽州(=現・安徽省)歙(しょう)県の人。生年不詳。本名は「テイ[金呈]」といい、「五峰」とも号した。「直」は海賊としての「あだ名」と考えられる。出身の歙県は「新安商人」の出身地として名高い。王直の出自については諸説あって判然としないが、もとは地域の有力者で仁侠の徒と交わっていたとする資料もある。

はじめ同郷の友人・徐惟学(のちの徐銓)とともに塩商人となるが失敗し、密貿易の世界に入ったと言われている。当時の明王朝は初代の洪武帝以来「海禁」と呼ばれる厳しい貿易統制を行っており、基本的に私貿易は禁止されていた。嘉靖19年(1540)ごろに王直らは福建出身の葉宗満謝和方廷助らと親交を結び、「中国では何をやっても法に触れる。海外へ乗り出そう」と語らって広東にでかけ、そこからシャムやマラッカなど南海貿易に従事。嘉靖21年(1542)ごろ同郷の許棟の配下に入り、その指示を受けて日本との貿易を開始する。嘉靖22年(1543、日本の天文12年)に種子島に到着、便乗していたポルトガル人と日本人の通訳にあたり、鉄砲伝来に一役買ったとも考えられている。

前後して親分の許棟が浙江海上の密貿易基地・双嶼港を支配下に治め大規模な密貿易活動を開始すると、王直はその才能を買われて許棟集団の財務担当・日本貿易担当といった重任に当たる。嘉靖24年(1545)に日本へ渡航した王直は博多商人と接触、博多の助才門ら数人の日本商人を双嶼港へ招き、密貿易を行った。以後、王直は博多・平戸の商人達と密接なパイプを持つことになる。今日でも五島の福江や平戸には王直の屋敷の跡が残されているように、日本で生活することも少なくなかったようである。日本人ばかりでなくポルトガル人にも信用が高かったと言われている。

双嶼港の密貿易が活発化するにつれ、周辺地域への悪影響が深刻となり、ついに嘉靖27年(1548)、都御史・朱ガン[糸丸]の命を受けた官軍が双嶼港を攻撃、許棟・李光頭以下多くの頭目が逮捕、処刑される。主を失った許棟集団の残党の多くは王直を新たなリーダーとして仰ぎ、その傘下に集った。王直は彼らを収拾しつつ日明間の密貿易を毎年のように繰り返し、なおかつ他集団を武力で打倒しながら勢力を拡大していった。嘉靖29年(1550)には海賊の盧七・沈九らを討伐してこれを捕らえ、官軍に献じている。

勢力を拡大していく王直の前に立ちはだかった最大勢力は海賊・陳思盻である。彼は舟山群島の各島を基地として王直集団の船を襲撃し、その販路を妨害した。嘉靖30年(1551)、王直は陳思盻の配下の内通を受け、さらに官軍の協力をとりつけて陳思盻の誕生日の祝宴の席を襲い、これを滅ぼした。王直は陳の船団を吸収し、「海上すでに二賊なし」と称され事実上東シナ海上を制覇する。

王直は舟山群島の烈港に拠点を構え、日明間の密貿易を盛んに行った。友人の徐銓・葉宗満・謝和、徐元亮、義児の毛烈らを中心に組織を固め、官軍とも「海上の治安維持」を名目に協力関係を結び、密貿易を黙認させている。こうした情勢の中、王直は儀式を行って「浄海王」を称したとも伝えられる。官軍の武将すら彼に臣従する有様であったという。

しかしこうした官軍との蜜月も長くはなく、海上の独立勢力として危険視された王直は嘉靖32年(1553)に兪大猷率いる官軍により拠点の烈港を攻撃される。暴風にまぎれて間一髪で逃れた王直はそのまま日本へ逃走した。この時、蕭顕ら彼の部下の一部が長江河口一帯に上陸し「倭寇」活動を行っているが、王直自身は五島、あるいは平戸に腰を据えるばかりで自らが侵攻活動を行うことがなかった。しかし当時から定説としては王直を首領とする「嘉靖大倭寇」がここから開始されたことになっている。

王直が烈港を追われて日本に逃走した後のことと思われるが、旗揚げ以来の腹心・徐銓が王直とたもとを分かち、南九州勢力や福建勢力と結んで独立した密貿易ルートを築き始める(その後嘉靖33年に官軍の攻撃により死亡)。また徐銓の甥の徐海が大陸沿岸への侵攻を繰り返した。王直の義児の一人・王一枝も王直のもとを離れて倭寇活動を行っている。その一方で王直は平戸に腰を据え、ここで「徽王」と称し巨大な船を浮かべて数千の部下を従えていたと伝えられる。平戸の支配者松浦氏の記録によれば、「五峰(王直)」が来たことによって平戸に南蛮船が押し寄せるようになったとあり、やはりポルトガル商人との関わりも浅くはなかったようである。また嘉靖34年(1555)には朝鮮半島に大規模な倭寇集団が侵攻し「達梁倭変」と呼ばれる事件となるが、これには王直集団がからんでいたとされている。

いっぽう、徐海らによって行われた長江河口地方への倭寇活動は嘉靖34年から35年にかけてピークを迎えていた。官軍の総指揮者となった総督・胡宗憲は倭寇鎮圧の方策として「王直招諭」の案を持ち出した。胡宗憲は王直の妻子を逮捕監禁する一方、蒋洲陳可願らを日本へ派遣し、王直に帰国を促した。恐らく貿易の容認と帰国後は王直に海上の治安維持を任せるという好条件が付けられたものと予想される。いわば王直が烈港にあった時期の状態に戻すという事であった。

王直はひとまず義児の毛烈と葉宗満を先に帰国させ、胡宗憲に面会させた。毛烈と葉宗満は貿易の許可だけが望みであるとの王直の意図を伝え、胡宗憲の要請を受けて海賊の討伐まで行っている。この間に王直本人は蒋洲らとともに九州各地の倭寇勢力を説得し、さらに豊後の大名・大友宗麟に接近した。勘合貿易の復活を狙う大友氏に結びつくことで自らの貿易活動の大義名分を得ようとしていた節がある。

明から帰還した毛烈らの報告を受けた王直は嘉靖36年(1557)、ついに明への帰国を決意する。形式的に「豊後王」の朝貢船の形を取り、大友氏の使者も載せ、勘合貿易復活を請う上奏文まで用意していた。この年の十月に寧波沿海に到達した王直は自らしたためた上奏文を胡宗憲の軍門に送っている。この「王直上疏文」は今日に残る唯一の王直自身の手になる資料であり、この中で王直は「大倭寇」が自分の仕業ではないこと、むしろ自分がいかに官軍に協力したかを訴えた。さらに貿易を許可してくれれば海上の治安を維持することは「掌を返すよりたやすい」と豪語している。

この時点で徐海はすでに滅亡しており、海上の大頭目は事実上王直一人であった。明朝廷は王直の扱いを巡ってやや紛糾した。身柄を預かる総督・胡宗憲は私貿易許可に傾いており、ある程度王直の要求を受け入れる気であったらしいが、中央政界は露骨にこれを不快に思い胡宗憲に対する弾劾まで行われた。こうした情勢のため胡宗憲はついに11月に王直を逮捕し投獄した。しかしいずれ情勢が好転するのを待っていたのであろうか、獄中の彼に対する扱いは丁重なものであったと言う。

王直の逮捕後、船団を託された毛烈らが舟山群島に立てこもり官軍に抵抗を続けたが、やがて兪大猷らの攻撃を受けて破れ去った。結局その後も事態は好転せず、ついに王直は嘉靖38年(1559)12月25日に杭州において斬首された。刑場に引き出されて初めて最期を悟った王直は、息子を抱き寄せて自分の櫛を息子に差してやり、「この地で最期を迎えるとは思ってもみなかった」と嘆息したと言う。首がはねられた後も胴体はそのまま倒れなかったとも伝わる。彼の妻子はその後ある家の奴婢とされた。明の貿易統制策である「海禁」が部分的に解除されるのはわずかに約七年後のことである。

王直に対する評価は歴史家の間でも一定ではない。長らく彼は「倭寇の親玉」として反逆者・売国奴の汚名を着せられていたが、近年では逆に明の貿易統制策に反対する自由商人としても評価されている。「大倭寇」が果たして王直自らの手によるものだったのかはこれからの研究を待たねばならないが、彼が混沌とした当時の東アジアの海上世界を最初に制覇した英雄であったことは間違いない。その統率力、人望、国際性において当時の海上で卓越した人物であったと想像できる。

五島・福江市に「明人堂」というお堂が残っている。王直らが航海の安全を願って建てたものらしいが、旧暦9月23日に福江でこれの祭が行われる。郷土史家によれば、この日は王直が最後に五島を旅立った日であり、これを王直の「命日」としたものだと言う。この辺りにも王直の人となりが現れているような気もする。

主な資料
鄭若曽「籌海図編」擒獲王直の条
万表「海寇議」
采九徳「倭変事略」
鄭舜功「日本一鑑」
謝杰「虔台倭纂」
「明史」日本伝・胡宗賢伝
「明書」乱賊列伝
南浦文之「鉄砲記」

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