王一枝(おういっし)
嘉靖期の賊首で王直の義児。唯一「日本一鑑」にのみ記録されている人物である。一名を阿九といい、出身地は不明。海賊にさらわれて奴隷として海に下ったものと考えられる。王直が彼を得て自分の義児とし、以後「王一枝」の名で呼ばれる。これが嘉靖20年代の終わり頃のことかと思われる。
ところが王一枝は王直のもとから逃げ出し、浙江海上の普陀山の寺へともぐりこんだ。ここの僧の明懐が彼を保護し、一枝の名を「真其」と改めさせ、自分の従者として共に旅に出た。一時宜興の善権寺にあったという。
やがて嘉靖31年(1552)、一枝は明懐とともに普陀山に戻った。ところがそこに、陳思盻を倒して海上の覇者となっていた王直その人が寺に参拝・焼香に訪れたのである。王直は一枝を見つけると彼を強引に自らの根拠地の烈港へ同行する。
翌嘉靖32年(1553)、烈港が兪大猷率いる官軍の攻撃を受け、王直が日本へ逃走すると一枝は共に日本に向かった。ところが一枝はこともあろうに王直の財貨を盗み出して再び逃走する。しばらく九州の島原に隠れ住んでいたが、やがて盗み出した財貨も尽き、徐海にならって大陸への寇掠を思い立つ。嘉靖34年(1555)一枝は倭人を誘って江南地方へと入寇し、民居二万七千余家を焼き払ったという。戦果を上げた一枝はそのまま日本へと帰った。
嘉靖36年(1557)、王直は胡宗賢の招撫を受け入れて明に帰国することとなった。この際王直は一枝の消息をつかむと、またも彼を呼び戻し明へと同行させる。明に着いた王直が間もなく官軍に拘束されると、一枝は「船頭(船の指揮者)」となり同じく義児の毛烈(王ゴウ)とともに王直船団を率い、官軍に抵抗して舟山に立てこもった。しかし嘉靖37年(1558)冬11月に舟山から出奔、福建の五嶼へと向かい倭寇と共に海賊行為を働き沿海を荒らし回った。最後は官軍の海兵に撲殺されたと「日本一鑑」は簡単に記している。
海上の覇者である王直の義児でありながら彼の記録は鄭舜功の「日本一鑑」の流逋の条にしか記されておらず、その行動も度重なる脱走をしながら最終的に王直に殉じた形となっており、ひどく謎めいている。王一枝の物語は王直という人間を説き明かす一つのカギを握っているのかもしれない。
主な資料
鄭舜功「日本一鑑」流逋の条
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