陳思盻(ちんしけい)
嘉靖期の海賊の巨魁で、王直最大のライバル。「陳子ハン[サンズイに半]」と表記する資料もあり、おそらく「ハン[目分]=つぶらな目」というあだ名であったかと思われる。王直自身の上疏文には「陳四」と記されているが、これは陳思盻の甥であるとも言う。海に出るまでの前歴は全く不明であるが、出身は広東と言われている。

嘉靖20年代には浙江の群島部で活動を開始していたようで、双嶼港の許棟に対し、舟山群島部やや北の横港に拠点を構え、独立した活動を行っていた。盟友もしくは配下にトウ文俊・林碧川・沈南山らがおり、彼らは日本の呼子(長崎県)へ出向き、日本人と接触していたと考えられる。

嘉靖27年(1548)の朱ガンによる双嶼港掃討により、海上に群雄割拠の情勢が出現すると、陳思盻の活動は活発化する。彼は横港だけでなく大衢山(だいくざん)にも拠点を構え、商船を装って長江を往来する次々と船を襲った。また許棟の残党を糾合した王直が日本−明間の貿易を拡大すると、この商船も襲い、王直らに多大な被害をもたらしている。王直の拠点・烈港に船を入れるには必ず横港を通過しなければならず、王直にとって陳思盻の存在は目の上のこぶどころではなかったと思われる。また陳思盻自身も先述のように日本との交易ルートを持っていた可能性があり、この貿易ルートをめぐる争いであったとも考えられる。

嘉靖30年(1551)、陳思盻は実名不明の「王船主」なる人物の率いる船団と合流し、連合の盟を結ぶこととなった。ところが陳思盻は王船主の船団を見て欲を起こし、王船主を謀殺してその船団を奪ってしまう。驚いたのは王船主の部下達である。彼らは陳思盻を恐れて表面上は彼に忠誠を誓ったが、ひそかに復讐を決意し、王直に内通した。王直は千載一遇のチャンスとこれに飛びつく。王直の用意は周到なものであった。まず官軍に連絡を取ってその協力を仰ぎ、地元の有力者で王直と懇意だった柴徳美から手勢を借り受けている。

そしてその日、陳思盻は誕生日で部下と共に祝宴を開いていた。どういうわけか部下の一部が略奪に出かけており、彼の手勢はひどく少なかったと言う。この情勢下でこの無防備ぶりは謎としか言いようがないが、何か王直らによる策謀があった可能性もある。王直はまさにこの時、陳思盻の船団に奇襲をかけたのである。勝負はあっさり付き、陳思盻はその場で殺害された。誕生日が命日になってしまったわけである。甥の陳四も捕らわれた。陳思盻の配下であったかと思われるキョウ[龍の下に共]十八はこの時は王直に許され、放たれている。この他にも陳思盻の配下の多くが王直の傘下に入った。

陳思盻の死をもって「海上ついに二賊なし」と史料は伝える。王直の海上制覇はここに成るわけだが、それだけ陳思盻の存在が大きかったことが想像されよう。

主な資料
万表「海寇議」
鄭舜功「日本一鑑」
鄭若曽「籌海図編」

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