朱ガン[糸丸](しゅがん)
「清廉剛直」の人として知られ、密貿易の取り締まりに当たった官僚。長洲の出身で正徳16年(1521)に科挙に合格し進士となる。その後各地の地方官を歴任し、嘉靖26年(1547)7月に浙江・福建の海防軍務の提督および浙江の巡撫となり、密貿易による沿海の混乱に対処することとなる。

朱ガンが密貿易対策に乗り出したころ、密貿易は浙江海上の双嶼港を拠点に大規模に行われており、その中心は許棟李光頭であった。彼らは沿岸の有力者らとも結びつき、官軍も取り締まりが出来ない有様で、しかもその官軍も規定の人数・装備をまるで備えていない状況であった(規定の半分以下に落ちていたという)。朱ガンはこの状況を視察し、現地の声も聞き入れて軍隊の再建を図った。

朱ガンが密貿易の拠点・双嶼港の攻撃を指示したのは嘉靖27年(1548)の初めのことである。福建方面から廬ドウ[金堂]らが率いる水軍を動かし、四月に双嶼への一斉攻撃をかけた。この戦いの結果、許棟・李光頭らは捕らえられ、日本人の稽天や新四郎、ポルトガル人やその従者の黒人なども逮捕された。朱ガンは双嶼港を破壊し、ここに官軍の駐留基地を作ろうと図ったが、これは双嶼付近の地元住民(海に生活する「海民」的な存在と思われる)の反発があり、断念している。

朱ガンの密貿易に対する断固たる措置は、当然ながらそれに関わっていた福建・浙江沿岸の有力者(郷紳層)の反発を招いた。特に李光頭らを個人の裁量で処刑したことが弾劾の標的となり、朱ガンに対する政治的攻撃は福建出身官僚を中心に執拗に繰り返された。朱ガンは「外国の盗を去るは易し、中国の盗を去るは難し。中国瀕海の盗を去るはなお易し、中国衣冠の盗(官僚出の沿岸有力者を指す)を去るはもっとも難し」と嘆いたが、とうとう嘉靖28年(1549)弾劾により失脚し、職を奪われ査問されることとなった。朱ガンはこれを知って「たとえ天子が私を殺そうと欲さずとも、福建・浙江の人は必ず私を殺すだろう」と言って、毒を仰いで自殺してしまった。

朱ガンの死により、沿海の密貿易は再び活発化し、双嶼の生き残りである王直らがそれらを糾合し、大勢力を築くこととなる。
主な資料
「明史」朱ガン伝、日本伝
朱ガン「甓余雑集」

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