許棟(きょとう)
嘉靖期の海商中の巨魁。王直と同郷の徽州出身で、王直の親分でもあった人物。新安商人の海上進出のはしりと見る向きもある。「許兄弟」の次男で「許二」の別名で呼ばれる(三男とする資料もある)。他の兄弟の名(許松許楠許梓)が全て樹木の名前で統一されていることから「棟」もあだ名である可能性が高い。

嘉靖10年代には密貿易の世界に身を投じ、福建人の李光頭と結びついてマラッカなど東南アジアへ出かけていた。この時期にポルトガル人とも密接な繋がりを持ったと思われる。また彼の兄弟も全て密貿易に参加している。一時李光頭とともに福建の官憲に捕らわれ福州の獄に入れられるが、嘉靖18年(1539)に脱獄して密貿易業に戻った。

そのころ密貿易界に身を投じた同郷の王直を配下に加える一方、李光頭とともに福建出身の海商・金子老の傘下に入り、密貿易の拠点・双嶼港に入った。嘉靖22年(1543)に張一厚率いる官軍の攻撃を受けるがこれを撃退、嘉靖21年から嘉靖22年までに起こったと思われる双嶼港の権力闘争にも勝ち抜き、事実上双嶼港の主となる。以後双嶼港は彼の支配のもとでポルトガル・日本の商人まで来航する密貿易の一大拠点となった。

しかし双嶼港の繁栄は周辺に大きな影響を与え始め、トラブルも続発した。中でも密貿易に出資する地方の有力者・謝氏と許棟は対立し、謝氏が「言うことを聞かないと官憲に告げるぞ」と脅したこともあって許棟は怒って謝氏の屋敷を急襲した。また許楠ら弟たちも他の商人達の商品を略奪したりするようになり、双嶼港の治安は次第に乱れていった。これが明政府の危機感をあおった。

嘉靖27年(1548)三月、提督朱ガン[糸丸]の命を受けた廬ドウ[金堂]率いる官軍が双嶼港を急襲した。まもなく李光頭・許棟ら幹部は相次いで逮捕され、双嶼港は破壊された。許棟はただちに処刑されたものと考えられる。双嶼港の繁栄はここに終わったが、許棟の残党らは王直のもとへと集い、やがてより強力な貿易集団を形成する。許棟は王直集団登場の基礎を作り上げた人物と言えるだろう。

主な資料
鄭若曽「籌海図編」
万表「海寇議」
鄭舜功「日本一鑑」
「明史」朱ガン伝

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