許楠(きょなん)
嘉靖期の海商で、双嶼港の主となった許棟の兄弟。許楠については「許三」とみるのが一般的だが、彼を「許二」とする資料もある(『日本一鑑』。しかし同書の記述には混乱が見られる?)。しかし「許二」が双嶼港の巨魁であったことは確かなので、やはり許楠=許三と見た方が無難なようである。

許兄弟のうち許棟と許楠が先にマラッカなどへ南海貿易に出かけて成功し、それを頼って後から長男の許松・四男の許梓が加わったものと考えられる。したがって許楠の海上への登場はかなり早い。嘉靖19年(1540)にはポルトガル人を誘って浙江の双嶼港に入り交易を行っている。

嘉靖22年以後、許棟と李光頭が双嶼港の主となると、許楠もその右腕として活躍したようである。しかし許松が逮捕され、商品も失って許楠らは窮地に陥った。そこで一計を案じ沿海の商人達を騙して商品を集めさせ、それらを借りのあったポルトガル人達に奪わせた(この事件には葉宗満も被害者として関わったらしい)。そしてその後は朱リョウら海賊と結んで沿海を荒らし回ったようである。これが結果として嘉靖27年(1548)の朱ガンによる双嶼港掃討を招くことになった。

双嶼港が壊滅し、許棟らが捕らえられた後も、許楠・許梓の活動は続いており、許棟の残党を糾合した王直とは別個の活動をしていたようである。
嘉靖33年(1554)、許楠・許梓の兄弟は広東に赴き、大物の海商である沈門(この人物と許兄弟の関係の詳細は全く不明である)が家族を連れて日本に亡命していることを知り、自分達も家族を日本へ連れていこうと考えた。そこで許梓が家族を連れだして広東で待機し、許楠が先に日本へ向かった。この許楠の船には王直の甥・王汝賢(王濡)と徐海の弟・徐洪が同乗していたという。

日本に渡り、沈門に会った許楠は、そのまま広東へと戻ろうとした。しかし彼は広東に到着しなかった。『日本一鑑』によれば小琉球(台湾?)で島の木を盗んだ為に島民に殺されたという。

主な資料
鄭舜功「日本一鑑」

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